柳生十兵衛三厳は、史実では兵法理論家。伝説では隻眼の隠密剣士として描かれ、その空白の生涯が創作の源となり、講談や小説で国民的英雄となった。
柳生十兵衛、その名を聞いて多くの人々が思い描くのは、眼帯をつけた孤高の剣士が、幕府の密命を帯びて諸国をさすらい、悪を斬るという英雄的な姿であろう。徳川家臣であり、父・宗矩の子、名は三厳。若くして片目を失い、将軍家光の勘気を被って浪々の身となり、剣の修行に明け暮れた――この概要は、柳生十兵衛という人物像の広く知られた一面に過ぎない 1 。しかし、この大衆的なイメージと、史料に残る歴史上の人物「柳生三厳」との間には、深い溝が存在する。
本報告書は、この「柳生三厳」という史実の人物と、「柳生十兵衛」という文化的な象徴との二重性を徹底的に解明することを目的とする。そのため、信頼性の高い史料に基づき、まず歴史上の人物としての三厳の生涯を再構築する。次に、彼自身が残した兵法思想を分析し、一人の思想家としての側面を明らかにする。そして最後に、一人の武士がいかにして伝説的な英雄へと変容していったのか、その文化的、社会的背景を探求する。この過程を通じて、史実と伝説が織りなす複雑なタペストリーを解きほぐし、柳生十兵衛三厳という人物の多層的な全体像を提示する。
この部では、後世の創作による潤色を排し、『徳川実紀』や柳生家の記録といった一次史料に近い文献を基に、柳生三厳の事実に基づいた生涯を詳らかにする。
柳生三厳の生涯を理解するためには、彼が生まれた柳生一族が、江戸初期においていかに絶大な権威と政治力を持っていたかをまず把握する必要がある。
柳生氏は、大和国の一豪族から、徳川将軍家の兵法指南役という武門の最高峰へと駆け上がった一族である。その礎を築いたのが、三厳の祖父・柳生石舟斎宗厳(むねよし)であった。宗厳は新陰流の創始者・上泉信綱から印可を継承し、柳生新陰流を確立した剣の達人であり、徳川家康との接点を得て、一族の将来を切り拓いた 2 。
しかし、柳生家を単なる剣術流派から一大政治勢力へと押し上げたのは、三厳の父・但馬守宗矩(むねのり)である。宗矩は卓越した剣士であると同時に、優れた政治家でもあった。二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の兵法指南役を務め、その信頼を背景に、剣士としては異例の一万石の大名にまで立身した 2 。さらに、諸大名の監察を司る幕府の初代惣目付(後の大目付)に就任し、幕政の中枢で強大な権力を行使した 1 。この事実は、三厳が単なる剣豪の息子ではなく、将軍の側近であり、幕府の諜報・監察機関の長の嫡男であったことを意味する。このような政治と武術が密接に絡み合う厳しい環境は、彼の人間形成に大きな影響を与えたと考えられる。
柳生三厳は、慶長12年(1607年)、大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)で生まれた 5 。父は宗矩、母は松下之綱の娘おりんである 5 。彼は宗矩の長男であり、弟には友矩、宗冬、列堂義仙らがいたことから、柳生家の正統な後継者として嘱望されていた 5 。後年、彼には松と竹という二人の娘がいたことも記録されている 5 。三厳は、伝説的な祖父と、政治の頂点を極めた父の遺産を一身に背負う運命のもとに生を受けたのである。
三厳の生涯で最も謎に包まれ、数々の伝説を生み出す源泉となったのが、将軍家への出仕から勘気を被り、その後の公式な記録が途絶える十二年間である。
和暦 |
西暦 |
三厳の年齢 |
主要な出来事 |
関連史料・備考 |
慶長12年 |
1607年 |
1歳 |
大和国柳生庄にて、柳生宗矩の長男として誕生。 |
5 |
元和2年 |
1616年 |
10歳 |
父・宗矩に従い、二代将軍・徳川秀忠に拝謁。 |
6 |
元和5年 |
1619年 |
13歳 |
三代将軍となる竹千代(後の家光)の小姓として出仕。 |
6 |
寛永3年 |
1626年 |
20歳 |
将軍家光の勘気を被り、出仕を停止される。 |
1 |
寛永14年 |
1637年 |
31歳 |
蟄居中に兵法書『昔飛衛という者あり』を執筆。 |
9 |
寛永15年 |
1638年 |
32歳 |
勘気が解かれ、御書院番として幕府に再出仕。 |
8 |
正保3年 |
1646年 |
40歳 |
父・宗矩の死去に伴い、柳生家の家督と一万石の領地を相続。 |
5 |
慶安2年 |
1649年 |
43歳 |
兵法書『武藏野』を執筆。 |
5 |
慶安3年 |
1650年 |
44歳 |
鷹狩りの最中に急死。死因は不明。 |
1 |
三厳は13歳の時、将来の将軍・徳川家光の小姓として仕え始めた 6 。これは将軍の身近に仕える信頼の証であり、将来を約束された地位であった。しかし、寛永3年(1626年)、20歳の時に家光の「勘気」(目上の者の怒り)を被り、役を解かれてしまう 1 。勘気の具体的な理由は『徳川実紀』のような公的記録には明記されていないが、後年の記録には素行の悪さや酒の上での失敗などが示唆されている 10 。
しばしば彼は家光の剣術指南役であったとされるが、この時期の正式な指南役は父・宗矩であり、年少の家光が自分より四歳も年下の小姓を師と仰いだとは考えにくい 11 。彼の役職はあくまで小姓であり、指南役ではなかったとする見方が妥当である。
寛永3年から15年(1626年~1638年)までの十二年間は、三厳の経歴における「空白期間」とされ、隠密として諸国を漫遊したという伝説の中核をなす。この伝説の根拠と、それに反する証拠を比較検討することは、三厳の実像に迫る上で不可欠である。
伝説の源泉は、柳生家の家伝書『玉栄拾遺』の記述にある。「一旦故ありて、相模国小田原に謫居したまい、なお諸州を経歴ありという」という一文がそれである 8 。また、同書には父の領地で山賊を退治したという逸話も記されている 5 。しかし、「経歴ありという」という表現は伝聞であり、断定的な事実として述べられているわけではない。
これに対し、三厳自身がこの期間中に執筆した兵法書『昔飛衛という者あり』(1637年)の中で、彼は明確に諸国漫遊を否定している。彼は「主君(家光)の側を離れたからには、諸国を歩き回ることは礼儀に反する」とし、「十二年間故郷を出なかった。その間、実家の剣術兵法を考え、兵法書の執筆に心魂をこめた」と記しているのである 10 。
当人の明確な証言は、伝聞に基づく曖昧な記録よりも史料的価値が高い。このことから、隠密として諸国を旅したという物語は、後世の創作である可能性が極めて高いと結論付けられる。この十二年間は、冒険の旅ではなく、故郷・柳生庄でひたすら兵法の研究と自己の深化に費やされた「孤高の探求期間」と再定義すべきであろう。歴史上の空白が、後世の物語作家たちの想像力を掻き立て、壮大な伝説を生み出す土壌となったのである。
十二年間の研究期間を経て、三厳は再び歴史の表舞台に姿を現す。その後の彼の人生は、若き日の激情とは対照的な、円熟した指導者としての一面を見せるが、その終わりは再び謎に包まれることとなる。
寛永15年(1638年)、三厳は許されて江戸に戻り、将軍の親衛隊である御書院番に任じられた 5 。そして正保3年(1646年)に父・宗矩が亡くなると、柳生家の家督と一万石の所領を相続した 5 。
柳生藩主となった三厳の人物像には、著しい変化が見られる。『玉栄拾遺』によれば、若い頃は「強勇絶倫」で人々から畏怖される存在であったが、家督を継いでからは「寛容になり」、領民を憐れみ、質実剛健な家風を守る優れた為政者であったと記されている 5 。この変化は、十二年間の蟄居生活が、単なる謹慎ではなく、深い内省と人間的成熟をもたらした期間であったことを示唆している。
慶安3年(1650年)、三厳は44歳の若さでその生涯を閉じる。その死はあまりに突然であり、多くの謎を残した。
公的な記録によれば、彼は京都府相楽郡南山城村にあたる弓淵(ゆみぶち)へ鷹狩りに出かけた先で急死したとされる 1 。奈良奉行所による検死も行われたが、死因は特定されなかった 1 。これが「急死説」であり、史実として最も確かな記述である。酒を好んだことから脳卒中などの病であったとする説や、最後の著作『武藏野』の記述から狭心症の発作を推測する見解もあるが、いずれも後世の推測の域を出ない 5 。
一方、この不可解な死には「暗殺説」も存在する。この説は、作家であり武術研究家でもあった綿谷雪が提唱したもので、三厳が亡くなった場所が、夭折した異母弟・友矩の旧領地であったことから、友矩の死に関わった三厳が、その家臣らによって報復されたのではないか、というものである 5 。この説は物語性に富むが、それを裏付ける直接的な証拠はなく、あくまで状況証拠に基づく推論である。
結局のところ、三厳の死は、その原因が「不明」であったという事実そのものが、彼の生涯を一層ミステリアスなものにした。若き日の勘気の理由と、壮年期の突然の死。この二つの謎が、後の創作において彼の人物像を自由に飛翔させる翼となったのである。
柳生三厳は、単なる剣士ではなく、柳生新陰流の思想を深化させ、体系化した優れた兵法理論家でもあった。彼の知的遺産を理解するためには、まず父・宗矩から受け継いだ思想的基盤を検証する必要がある。
三厳の思想の根幹には、父・宗矩が著した不朽の名著『兵法家伝書』がある。この書は、剣術を単なる殺人術から、人間学、そして治国平天下の道へと昇華させた画期的なものであった 2 。
その中心思想が「活人剣(かつにんけん)」である 12 。これはしばしば平和主義的な思想と誤解されるが、本質は異なる。宗矩は「一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人を生かすつるぎなるべきにや」と述べている 13 。つまり、活人剣とは不殺の教えではなく、天下の安寧という大義のために振るわれる剣、正当性を持つ武力の行使を是とする思想である。この思想は、禅僧・沢庵宗彭との深い交流から生まれたもので、武士の存在意義を徳川の泰平の世において再定義するものであった 13 。
宗矩は、個人の勝敗を決する「小なる兵法」と、国を治める「大なる兵法」を区別し、その両方において活人剣の理念が貫かれるべきだと説いた 14 。彼の思想は、剣術を武士個人の技から、社会秩序を維持するための国家の統治術へと引き上げたのである。三厳の兵法論は、この壮大な父の思想をいかに継承し、発展させたかという視点から読み解く必要がある。
父・宗矩が剣の哲学を政治思想の域にまで高めたのに対し、息子・三厳は、その哲学をより実践的かつ体系的な武術理論へと落とし込んだ。彼の著作は、十二年間の蟄居生活の賜物であり、その思索の深さを示している。
三厳の思想は、彼が考案したとされる「十兵衛杖」にも具現化されている。これは孟宗竹の間に鉄板を挟んで漆で固めた特殊な杖で、刀を抜くまでもない相手を制圧するための護身具であった 1 。無用な殺生を避け、最小限の力で相手を無力化するというこの道具は、活人剣の理念を個人レベルで実践するための、まさに象徴的な発明であった 17 。
父・宗矩が「為政者のための剣」を説いた哲学者・政治家であったとすれば、息子・三厳は「修行者のための剣」を探求した理論家・実践家であった。宗矩の関心が国家の統治というマクロな視点にあったのに対し、三厳の関心は個人の技芸の完成と、その確実な伝承というミクロな視点にあった。この父子の思想的役割分担こそが、江戸柳生を盤石なものにしたと言えるだろう。
史実の柳生三厳は、優れた兵法理論家であった。しかし、彼の名を不滅にしたのは、史実そのものよりも、その史実の「空白」から生まれた壮大な伝説であった。ここでは、一人の武士が文化の象徴へと変容していく過程を追う。
柳生十兵衛のイメージを決定づけた二大要素は「隻眼」と「隠密」である。この二つの伝説がいかにして生まれたのかを分析する。
まず、「隻眼」については、これを裏付ける同時代の史料は一切存在しない 11 。現存する肖像画も両目が描かれている。この伝説の起源には諸説あるが、いずれも後世の創作と考えられる。新陰流には距離感を鍛えるために片目をつぶって稽古する方法があったという説 11 や、父との稽古中の事故で失明したという物語 19 などがあるが、これらは隻眼というフィクションを後から合理化するための説明に過ぎない。
一方、「隠密」説は、史実の断片が巧みに組み合わされて生まれた物語である。その根拠は二つ。第一に、彼の経歴における十二年間の「空白」。第二に、父・宗矩が幕府の諜報・監察機関のトップである惣目付であったという事実である 19 。この二つの事実を結びつければ、「幕府の密偵の長である父の命を受け、失踪を装った凄腕の息子が諸国の動静を探っていた」という、極めて魅力的で説得力のある物語が誕生する 1 。
この「隻眼の隠密剣士」という像は、別々の伝説ではなく、相互に補強し合う一つの「伝説複合体」として機能している。十二年間の空白という「謎」があり、それを説明するために父の役職から「隠密」という「動機」が生まれ、諸国漫遊という「方法」が与えられ、そして「隻眼」という記憶に残りやすい「視覚的特徴」が付与された。これらが一体となり、強力な英雄像を形成したのである。
江戸時代から明治時代にかけて、柳生十兵衛の物語は大衆文化の中で育まれ、国民的な英雄へと成長していく。
その原型は、江戸時代の講談師たちが語った物語に見られる。『柳生三代記』のような作品は、柳生一族の活躍をドラマチックに描き、世直しのために旅をする十兵衛のイメージを広めた 21 。
そして明治時代に入り、この英雄像を決定的なものにしたのが「立川文庫」である。20世紀初頭に発行されたこの安価な大衆向け叢書は、日本の若者たちを熱狂させた。『柳生十兵衛旅日記』などの作品は、十兵衛を勧善懲悪を体現する痛快無比なヒーローとして描き、そのイメージを不動のものとした 10 。近代化が進む明治の世において、封建的な幕府の権力から解き放たれ、個人の才覚で活躍する十兵衛の姿は、新しい時代の理想的な英雄像として受け入れられたのである。
第二次世界大戦後、柳生十兵衛の物語は新たな段階に入る。特に作家・山田風太郎の登場は、彼を歴史上の人物から完全に切り離し、超人的なファンタジーヒーローへと昇華させた。
山田風太郎の代表作『魔界転生』は、現代における十兵衛像に最も大きな影響を与えた作品である 24 。この物語の中で、十兵衛は妖術で蘇った宮本武蔵をはじめとする伝説の剣豪や、超能力を持つ忍者たちと死闘を繰り広げる 21 。ここでの彼は、もはや幕府の忠臣ではなく、自らの興味(「おもしろい」)のために行動する、自由闊達な冒険家として描かれることが多い 21 。この設定は、厳格な政治家である父・宗矩との対立構造を生み出し、物語に深みを与えた 5 。
『魔界転生』の爆発的な人気は、千葉真一主演の映画をはじめとする数多くの映像化作品を生み、その後の漫画、アニメ、ゲームといったあらゆるポップカルチャーに「超人・柳生十兵衛」のイメージを浸透させた 24 。
なぜ柳生十兵衛はこれほどまでに愛され、変容し続けることができたのか。その最大の理由は、彼の史実における「情報の少なさ」にある。彼の性格、十二年間の行動、そして死因といった重要な部分が謎に包まれているため、創作者たちは歴史の制約に縛られることなく、自らの理想とする英雄像を自由に投影することができた。忠実な隠密、孤独な浪人、冷笑的な反逆者、明朗な冒険家、そして魔物と戦う超人。彼は、物語が求めるあらゆる英雄になることができる「白紙の器」であった。この歴史的情報の欠如こそが、逆説的に彼を不滅の文化英雄にした最大の要因なのである。
本報告書を通じて明らかになった柳生十兵衛三厳の姿は、二つの異なる顔を持つ。
一つは、史実の人物「柳生三厳」としての顔である。彼は、将軍家指南役という名門に生まれ、若き日の挫折を経て、十二年という長きにわたり故郷で兵法の真理を探求し続けた孤高の理論家であった。彼の著作は、柳生新陰流の思想を体系化し、後世に伝える上で計り知れない価値を持つ知的遺産である。彼は、諸国を放浪する剣客ではなく、書斎に籠る武術学者に近かった。
もう一つは、文化の象徴「柳生十兵衛」としての顔である。こちらは、史実の空白を想像力で埋めることによって生まれた伝説の英雄であり、眼帯をつけ、諸国を漫遊し、超人的な剣技で悪を討つ。この英雄像は、講談、大衆小説、そして現代のファンタジー作品を通じて、時代ごとに人々の願望を反映しながら変容を遂げてきた。
柳生三厳の遺産は、この二重性そのものにあると言える。彼が残した兵法書という「実」の功績と、彼の生涯の謎が生み出した「虚」の物語。この両方が、柳生十兵衛という存在を日本の歴史と文化の中に深く刻み込んでいる。彼は、彼が「何者であったか」ということと同じくらい、人々が彼を「何者であると想像したか」ということによって記憶される、稀有な歴史上の人物なのである。