柳生厳勝は石舟斎宗厳の嫡男。辰市城で負傷し武将の道を絶たれるも、新陰流の皆伝印可を受け道統を継承。彼の死後、柳生一族は尾張・江戸柳生に分立。柳生史の枢要な人物。
柳生厳勝(やぎゅう としかつ/よしかつ)。その名は、日本の剣術史上、最も著名な一族である柳生家の歴史において、一種の悲劇性を帯びて語られてきた。一般に流布する彼の人物像は、「剣豪・柳生石舟斎宗厳の嫡男として生まれながら、辰市城の戦いで鉄砲傷を負い、武門の道を絶たれて半身不随となり、柳生の里で静かに生涯を終えた人物」というものに集約される。この通説は、彼の人生の重要な一側面を捉えてはいるものの、その全体像を明らかにするにはあまりに断片的である。
本報告書は、この通説の向こう側にある柳生厳勝の実像に迫ることを目的とする。彼を単なる「悲劇の嫡男」としてではなく、柳生一族の歴史と新陰流の道統において、極めて重要な役割を果たした人物として再評価を試みる。その生涯を、戦国武将としての宿命、一族の家長としての責任、そして新陰流の継承者としての精神性という三つの側面から多角的に検証することで、これまで見過ごされてきた彼の歴史的意義を明らかにする。特に、彼が父・宗厳から新陰流の皆伝印可を受けていたという事実は、彼の評価を根底から覆し、柳生一族の歴史、とりわけ後の「尾張柳生」と「江戸柳生」の分立構造を理解する上で不可欠な鍵となる。
柳生厳勝という人物を理解するためには、まず彼が生まれ育った環境、すなわち剣豪一族・柳生家の成り立ちと、彼が置かれた戦国時代末期の大和国における政治的状況を把握する必要がある。
柳生氏は、その名字の地である大和国添上郡柳生庄(現在の奈良市柳生地区)を本拠とした国人領主である 1 。その出自は菅原氏を称し、南北朝時代に後醍醐天皇方として戦った柳生永珍の名が記録に見えるなど、古くからこの地に根を張る土豪であった 2 。
厳勝の父・宗厳の時代、大和国は筒井順慶や松永久秀といった有力者が覇権を争う、まさに戦乱の渦中にあった。柳生家もまた、この激しい権力闘争の波に翻弄される。当初は筒井氏に属していたが、後に松永久秀が大和国へ進出するとその麾下に転じ、一族の存続を図った 2 。このような不安定な政治状況は、柳生一族が自衛の手段として、また立身の術として武芸、とりわけ剣術に傾倒していく大きな要因となった。彼らにとって剣は、単なる武技ではなく、激動の時代を生き抜くための拠り所そのものであった。
厳勝の父である柳生宗厳(むねよし、大永7年/1527年 - 慶長11年/1606年)は、号の石舟斎(せきしゅうさい)で広く知られる、戦国時代を代表する剣豪である 4 。彼は当代随一の兵法家と謳われた上泉伊勢守信綱に師事し、新陰流の奥義を究めた 5 。永禄8年(1565年)、宗厳は信綱と立ち合い、完膚なきまでに敗れたことをきっかけにその場で弟子入りし、わずか2年後には信綱から新陰流の印可状を与えられた 5 。これは信綱が発行した唯一の印可状であったとされ、宗厳が名実ともに新陰流の正統な継承者となったことを示している 5 。
しかし、宗厳は単なる求道的な剣客ではなかった。彼は柳生家の当主として、所領を守り、家臣を率いて合戦に臨む武将でもあった 4 。剣の道を究めることと、一族の存続を図ることは、彼の中で分かちがたく結びついていた。この「剣」と「家」の両方を背負う父の生き様は、その嫡男である厳勝に、後継者としての重い期待と宿命を課すことになった。
柳生厳勝は、石舟斎宗厳の長男として誕生した 4 。母は奥原助豊の娘で、賢夫人として知られた春桃御前(鍋)である 4 。厳勝には4人の弟がおり、それぞれが異なる人生を歩んだ。この兄弟関係は、後の柳生一族の運命を理解する上で極めて重要である。
表1:柳生宗厳の子女一覧 |
|
|
続柄 |
氏名(通称) |
生没年・略歴 |
長男 |
厳勝(新次郎) |
生没年不詳(- 元和2年/1616年)。本報告書の主題。辰市城の戦いで負傷し、武将としての道を断たれる。新陰流の皆伝印可を父より受ける 8 。 |
次男 |
久斎 |
永禄9年(1566年) - 慶長10年(1605年)。幼少時に出家したと伝わる 10 。 |
三男 |
徳斎 |
天正3年(1575年) - 寛永元年(1624年)。久斎同様、幼少時に出家したと伝わる 10 。 |
四男 |
宗章(五郎右衛門) |
永禄9年(1566年) - 慶長8年(1603年)。剣術に長け、小早川家に仕える。父の推挙による徳川家康への仕官を断り、武者修行に出たという 11 。 |
五男 |
宗矩(但馬守) |
元亀2年(1571年) - 正保3年(1646年)。父の推挙で徳川家康に仕え、将軍家兵法指南役となる。後に大名に列し、江戸柳生の祖となる 2 。 |
この表が示すように、厳勝は紛れもなく柳生家の「長男」であり、その立場は特別な意味を持っていた。彼こそが、父・宗厳が築き上げた剣技と、柳生家が代々守ってきた所領という、二つの遺産を継承する正統な後継者であった。彼の人生の悲劇性は、単に一個人の武人生命が絶たれたという点に留まらない。それは、剣豪領主である父の「武」と「政」の両面を継承するはずだった柳生家の家督相続計画そのものが、根本から覆されたことを意味していたのである。
柳生厳勝の人生、ひいては柳生一族の未来を決定的に変えたのが、元亀2年(1571年)に勃発した「辰市城の戦い」である。この一戦が、厳勝から武将としての未来を奪い、柳生家の歴史を新たな方向へと導く分水嶺となった。
当時の大和国は、梟雄として知られる松永久秀と、興福寺の衆徒を背景に持つ筒井順慶が、長年にわたり熾烈な覇権争いを繰り広げていた 12 。柳生一族は、この二大勢力の間で巧みに立ち回り、当初属していた筒井氏を見限り、松永氏の配下となっていた 4 。この選択は、柳生家を松永軍の重要な一翼として、大和国の戦乱の最前線に立たせることになった。
元亀2年(1571年)8月4日、両軍の雌雄を決する戦いの火蓋が、筒井方が築いた辰市城(現在の奈良市東九条町)で切られた 12 。松永久秀は三好義継の援軍を得て辰市城に猛攻を仕掛け、松永軍の一員として参陣した柳生一族も奮戦した。
戦いは激戦となり、当初は数の上で勝る松永軍が優勢に進めた。しかし、筒井順慶方の粘り強い防戦と、周辺の城からの効果的な援軍の到着により、戦況は一変する 12 。形成不利と見た松永軍は総崩れとなり、多くの将兵を失って敗走した。『多聞院日記』には「大和で、これほど討ち取られたのは、はじめてのことだ」と記されるほどの大敗であった 12 。
この乱戦の最中、柳生宗厳の嫡男として父と共に戦っていた厳勝は、敵の放った鉄砲玉を受け、重傷を負う 12 。この時の傷が致命傷となり、彼は半身不随の身となったと伝えられている 8 。武門の家に生まれた嫡男にとって、戦場で自由に動けない身体になることは、武将としての生命を絶たれるに等しい宣告であった。
厳勝の負傷は、柳生家の未来図を白紙に戻した。武勇を第一の誉れとする戦国の世において、身体に障害を持つ者が家督を継ぎ、一族を率いて戦場に立つことは事実上不可能であった。これにより、宗厳から厳勝へと続くはずだった柳生家の正統な家督継承計画は、完全に頓挫した。
歴史の皮肉とでも言うべきか、厳勝が武門の未来を絶たれた元亀2年(1571年)は、奇しくも彼の五番目の弟であり、後に徳川将軍家の兵法指南役として柳生家を再興し、大名の地位にまで押し上げる柳生宗矩が誕生した年でもあった 9 。一人の息子の未来が閉ざされた年に、もう一人の息子の未来が始まる。この偶然の一致は、柳生一族の運命が、この辰市城の戦いを境に大きく転換したことを象徴する出来事であった。
この戦いは、厳勝個人の悲劇に留まらなかった。それは、柳生一族の権力構造と将来の方向性を根底から変えた、歴史的な「転換点」だったのである。もし厳勝がこの一戦で傷を負わなければ、彼は順当に家督を継ぎ、柳生庄の領主として大和国に留まったであろう。その場合、弟の宗矩が柳生本家を代表して徳川家康に謁見し、一族の命運を背負う立場になることは考えにくい。結果として、厳勝に撃ち込まれた一発の銃弾が、柳生家の活動舞台を大和国という一地方から、江戸、そして尾張へと全国規模に拡大させる、遠因となったという逆説的な見方も可能なのである。
辰市城の戦いで負傷し、武将としての道を断たれた柳生厳勝。彼のその後の人生は、しばしば「逼塞」や「隠遁」といった言葉で語られ、歴史の表舞台から姿を消したかのように描かれる。しかし、残された史料を丹念に読み解くと、彼が柳生の里で果たした、決して小さくない役割が浮かび上がってくる。
合戦で重傷を負った厳勝は、故郷である柳生庄に戻り、その地で半生を過ごすことになった。特に、柳生村の正木坂と呼ばれる場所に居を構えていたことが伝えられている 14 。彼の身体の状態は「半身不随」とされ、剣を振るうことはもはや叶わなかったであろう。しかし、彼のその後の活動を見ると、決して寝たきりや完全に無力な状態にあったわけではなく、一定の意思と権威をもって行動していたことが推察される。
通説では隠居者と見なされがちな厳勝だが、父・石舟斎宗厳が慶長11年(1606年)に亡くなった後、彼が柳生本家の「家長」として実質的な役割を担っていたことを示す興味深い記録が存在する。
それは、筒井氏の改易に伴って浪人となっていた旧知の井戸一族との関わりである 14 。厳勝は、大和に帰郷していた井戸一族を柳生に迎え入れ、「あれ程の人物を野に朽ちさせるのは惜しい」として、客分として厚遇した。さらに、彼らに柳生の新領の管理を任せるなど、明確な領主としての采配を振るっている 14 。この行動は、彼が単に柳生の里に「逼塞」していたのではなく、父亡き後の柳生庄において、一族を代表する責任者としての権威と実権を保持していたことを強く示唆している。
厳勝の人生におけるもう一つの重要な役割は、次代を担う息子を育て上げたことである。天正7年(1579年)、厳勝に息子・利厳(としよし、後の兵庫助)が誕生する 10 。利厳こそ、後に尾張徳川家に仕え、「尾張柳生」の礎を築く人物である。
厳勝自身はもはや剣を教えることはできなかったが、利厳は祖父である石舟斎宗厳から直接、新陰流の厳しい指導を受けることになった 16 。この剣技の伝授が実現できたのは、父である厳勝が柳生の家を守り、利厳が剣の修行に専念できる環境を整えたからに他ならない。彼は自らが果たせなかった武門の夢を息子に託し、柳生家の血脈と剣脈を次代へと繋ぐという、父としての、そして家長としての重大な責務を果たしたのである。
厳勝の後半生は、決して「逼塞」という言葉で片付けられるべきものではない。それは、武力による支配から、知恵と徳による「統治」への転換であった。彼は戦場の指揮官から、柳生の里という共同体を守り、維持する内政家へとその役割を変えたのである。弟の宗矩が江戸で華々しく活躍し、柳生家の名を天下に轟かせる一方で、厳勝は一族の「根」である柳生庄を静かに、しかし確かに守り続けていた。この江戸(表)と柳生(裏)の対照的な役割分担こそが、後の柳生一族の発展を支える両輪となったのである。
柳生厳勝の生涯において、最も重要でありながら、これまで歴史的にほとんど注目されてこなかった事実がある。それは、彼が単に柳生家の嫡男であっただけでなく、父・石舟斎宗厳から新陰流の全てを託された、正統な「道統継承者」であったという点である。この事実は、厳勝の歴史的評価を根底から覆す、本報告書の核心をなすものである。
慶長11年(1606年)2月、石舟斎宗厳は80歳という高齢で自らの死期を悟っていた。彼は死を前に、驚くべき決断を下す。戦傷により身体の自由が利かない長男・厳勝に対し、「残す無く相続せしめ」として、新陰流の皆伝印可を授与したのである 4 。この時授けられた伝書が『没慈味手段口伝書』であったと伝わる 8 。
この行為は、単なる形式的なものではない。それは、剣を振るうことのできない厳勝を、新陰流の 正統な二世継承者 として公式に認めたことを意味する。この一点をもって、厳勝の立場は「家督を継げなかった悲劇の人物」から、「流派の道統を継いだ精神的支柱」へと、その評価が180度転換される。
なぜ宗厳は、江戸で徳川家に仕え、将来有望な五男・宗矩ではなく、身体の不自由な長男・厳勝に流派の全てを託したのか。その背景には、宗厳が晩年に到達した柳生新陰流の極致である「活人剣」の思想が深く関わっている。
宗厳にとっての新陰流は、もはや単なる人を斬るための技術(殺人刀)ではなかった。それは、相手を生かし、己を生かし、ひいては天下を治めるための道(活人剣)であった 5 。その本質は、腕力や技術の巧みさを超えた、心のあり方、すなわち精神性の深さに求められる。
宗厳は、肉体的な強さや剣技の冴えよりも、流派の根幹をなす哲学と真髄を深く理解し、それを歪めることなく次代に正しく伝える精神的な器こそが、後継者として最も重要だと考えたのではないか。戦場から離れ、長年にわたり柳生の里で静かに思索を深めてきたであろう厳勝の中に、その器を見出したとしても不思議ではない。この皆伝印可の授与は、柳生新陰流が単なる武術ではなく、一つの「道」であることを示す、宗厳の最後の遺言とも言える行為だったのである。
厳勝が新陰流の正統な継承者となった事実は、彼の息子・利厳が創始する「尾張柳生」の正統性を担保する上で、決定的な意味を持つことになった。これにより、柳生新陰流の道統は、以下のような揺るぎない系譜として成立する。
流祖・上泉信綱(一世) → 柳生宗厳(二世) → 柳生厳勝(公式継承者) → 柳生利厳(三世) 15
この系譜において、厳勝は不可欠な「橋渡し役」を果たしている。利厳は、単に剣豪・石舟斎の孫であるだけでなく、「新陰流の正統な二世継承者である父を持つ息子」として、祖父から実技を学び、三世を継いだことになる。これにより、利厳を祖とする尾張柳生は、柳生宗家の長男の血筋(嫡流)が受け継いだ「本家」としての絶対的な正統性を主張する根拠を得た。
一方で、五男である宗矩も父から印可を受けたとされるが、その印可状は現存していない 4 。彼の系統である江戸柳生は、幕府の権威を背景に実力で興隆した、いわば「分家」と位置づけることができる。この「嫡流としての矜持を持つ尾張」と「権勢を誇る江戸」という構造こそが、両家の間に横たわる長年の確執の根源であり、その構造を決定づけているのが、まさしく柳生厳勝という「ミッシングリンク(失われた環)」の存在なのである。
柳生厳勝は、その存在自体が柳生一族内の秩序を保つ重石であった。彼の死は、それまで水面下にあった一族内の対立を顕在化させ、尾張と江戸という二つの大きな流れを決定的に分かつ、真の分水嶺となった。
父・宗厳から新陰流の道統を託されてから約10年後の元和2年(1616年)4月5日、柳生厳勝はその波乱の生涯を閉じた 8 。
厳勝の死を境に、彼の息子である利厳(尾張柳生)と、叔父にあたる宗矩(江戸柳生)の間の不和は決定的となった。両家は江戸時代を通じて一切の交流を絶ったとされており、その断絶の根深さを物語っている 16 。
この深刻な対立の原因について、両家の記録はそれぞれ異なる主張を展開している。
これら二つの主張は、おそらくどちらも事実の一側面を捉えているのであろう。しかし、その根底には、単なる所領争いや縁組をめぐる感情的な対立を超えた、より構造的な問題が存在したと見るべきである。それは、前章で論じた「嫡流としてのプライドを持つ尾張柳生」と、「幕府の権威を背景に持つ江戸柳生」という、根本的な立場の違いと、柳生一族全体の主導権をめぐる深刻な対立であった。
厳勝が存命中は、利厳は「嫡男の息子」、宗矩は「当主の弟」という、血縁に基づく明確な序列が存在した。しかし、両者をつなぎとめる「家長」厳勝という重石がなくなったことで、利厳は「本家の当主」、宗矩は「幕府に仕える一族の長老」となり、両者の力関係は曖昧かつ緊張をはらむものとなった。この不安定な状況下で、所領や縁組といった具体的な問題が、互いのプライドをかけた対立の火種として一気に燃え上がったのである。したがって、尾張・江戸の不和の真の起点は「厳勝の死」そのものであり、彼の生涯がいかに一族の運命を左右したかを雄弁に物語っている。
本報告書を通じて、柳生厳勝の生涯を多角的に検証した結果、彼は通説で語られるような単なる「悲劇の人物」ではないことが明らかになった。武将としての道を絶たれるという大きな悲劇に見舞われながらも、彼はその後の人生において、柳生一族の歴史に不可欠な役割を果たした重要人物であった。
第一に、彼は武門の道を断たれた後も、柳生の里の統治者として、また息子・利厳の父として、一族の存続と次代への継承に大きく貢献した。彼の存在は、江戸で活躍する宗矩とは異なる形で、柳生家の基盤を守る上で欠かせないものであった。
第二に、そして最も重要な点は、彼が父・石舟斎宗厳から新陰流の皆伝印可を受けた、正統な道統継承者であったという事実である。この事実は、柳生新陰流が単なる剣技ではなく、精神性を重んじる「道」であることを象徴している。厳勝は、肉体的なハンディキャップを超えてその精神性を体現し、流派の道統を嫡流である尾張柳生へと繋ぐ、決定的な「橋渡し役」を果たした。
以上の分析から、柳生厳勝は、その生涯を通じて柳生一族の歴史のまさに中心に位置し、彼の存在と死が、後の尾張柳生と江戸柳生という二大潮流を生み出す分水嶺となったと結論付けられる。彼は「悲劇の嫡男」であると同時に、柳生一族の複雑な歴史と新陰流の道統を読み解く上で決して欠かすことのできない「枢要の人物」として、今、まさに再評価されるべきである。