柳生宗章は柳生宗厳の四男。徳川家康の仕官を断り武者修行。小早川秀秋に仕え関ヶ原に参陣。その後、横田村詮の客将となり、米子騒動で恩義に殉じ壮絶な討死を遂げた。
柳生一族。その名は、日本の剣術史において、ひときわ強い輝きを放つ。父、柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)は、剣聖・上泉信綱(かみいずみのぶつな)より新陰流の印可を授かり、徳川家康の前で「無刀取り」を披露して柳生家再興の礎を築いた伝説的な剣豪である 1 。そして、その五男、柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)は、徳川将軍家の兵法指南役という要職に就き、政治の中枢に深く関与しながら、ついには一万石の大名にまで上り詰めた「剣豪政治家」として知られる 1 。
この二人の偉大な人物の影に、もう一人の柳生の剣豪がいた。宗厳の四男にして、宗矩の兄にあたる柳生宗章(やぎゅうむねあき)である。彼の名は、父や弟ほど華々しく歴史の表舞台を飾ることはない。しかし、その生涯は、柳生一族のもう一つの側面、すなわち権力や栄達とは異なる、純粋な武と義に生きた武士の姿を、鮮烈に映し出している。
宗章が己の技を磨き、信義のために戦う「剣の求道者」としての道を歩んだのに対し、弟・宗矩は剣の理を治国の哲学へと昇華させ、組織の中で生きる「為政者」としての道を切り拓いた。同じ新陰流を源としながら、二人の兄弟が選んだ道は実に対照的であり、戦国乱世の終焉から江戸幕藩体制の確立へと向かう時代の大きな転換期における、武士の二つの生き様を象徴している。
これまで宗章に関する記述は、地方の史書や伝承の中に断片的に残されるのみであった。本報告書は、これらの散逸した情報を丹念に繋ぎ合わせ、史料を多角的に分析することで、柳生宗章という一人の剣豪の実像を立体的に再構築し、その知られざる生涯と、彼が貫いた武士としての「義」の本質に迫ることを目的とする。
柳生氏は、大和国(現在の奈良県)の小柳生庄を本拠とする国人であった 4 。宗章の父、宗厳は、はじめ大和の有力大名であった筒井順慶に仕え、後には畿内に覇を唱えた松永久秀の家臣として戦乱の世を渡り歩いた武将である 4 。有力な大名の間を渡り歩き、時には主家を離反することも辞さない戦国武将としての父の生き様は、その息子たちの人生観にも少なからぬ影響を与えたと考えられる。
武将として不遇の時期もあった宗厳であったが、剣の道においては比類なき才能を発揮した。彼は、新当流や富田流など諸流を学んだ後、当代随一の剣豪と謳われた上泉信綱に師事し、新陰流の奥義を究める 5 。そして永禄8年(1565年)、宗厳は信綱から流派のすべてを継承した証である印可状を授与され、柳生新陰流を確立するに至った。
柳生新陰流の根幹をなす思想に「活人剣(かつにんけん)」がある。これは、剣を単なる殺人の道具と捉える「殺人刀(せつにんとう)」の対極にあり、悪を断つことによって万民を活かすという思想である 6 。また、その技法的な極致とされるのが「無刀取り」であり、これは武器を持たずして相手の攻撃を制する技法を指すが、その本質は武器の有無に捉われない不動の心境を意味する 1 。これらの思想は、単なる武術の技法を超えた、自己を修養し、精神性を高める道として、柳生家の家風となり、宗章を含む息子たちにも深く教え込まれたことであろう。
柳生宗章は、永禄9年(1566年)、宗厳の四男として生を受けた 9 。家督は長男が継ぐのが原則であった武家社会において、次男以下の男子の立場は不安定であった 13 。他家へ養子に出るか、分家を立てて独立するか、あるいは兄の厄介になる「部屋住み」の身分に甘んじるか、自らの力で仕官の道を探すほかなかった。
文禄3年(1594年)、柳生家に大きな転機が訪れる。父・宗厳が徳川家康に召し出され、その剣技を披露したのである。宗厳の技に感服した家康は、彼を師範役として召し抱えようとしたが、宗厳は老齢を理由にこれを固辞し、代わりに息子たちを推挙した 1 。この時、宗章も弟の宗矩と共に家康から出仕を要請されている 11 。天下人である家康への仕官は、家督を継ぐ望みのない四男にとっては、まさに千載一遇の好機であった。
しかし、宗章は驚くべき決断を下す。彼はこの破格の申し出を断り、自らの技をさらに磨くための「武者修行」の道を選んだのである 11 。これは、彼の生涯を決定づける最初の、そして最も重要な選択であった。弟の宗矩が迷わず仕官の道を選び、後に柳生家を飛躍させる礎を築いたのとは実に対照的である。宗章のこの選択は、単に仕官先が見つからなかったための放浪ではなく、安定や権力よりも一個の武人としての完成度を優先するという、彼の強固な価値観の表れであった。柳生新陰流が説く自己修養の精神が、組織に属して安寧を得ることよりも、彼にとってはるかに重要だったのである。この決断こそ、後に彼が「義」に殉じる生き方を選ぶ、すべての伏線となっていた。
徳川家康からの仕官の誘いを断り、武者修行の旅に出た宗章。その具体的な足跡を伝える詳細な史料は現存しないが、彼が己の剣技を頼りに諸国を遍歴し、多くの武芸者と鎬を削ったであろうことは想像に難くない。この修行の末、彼が仕官先として選んだのが、豊臣秀吉の養子であり、筑前名島(後の福岡)30万石余を領する大名、小早川秀秋であった 9 。当時、宗章の剣豪としての名声はすでに広く知られており、秀秋がその武勇を高く評価して召し抱えたものと考えられる。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、宗章は秀秋の近習として警護の任にあたった 11 。戦いの趨勢を決定づける鍵を握った秀秋の傍らに控えていたという事実は、彼が単なる剣術指南役ではなく、主君の身辺を護る側近として、深い信頼を得ていたことを物語っている。
関ヶ原での戦功により、備前岡山51万石へと加増移封された小早川家であったが、その栄華は長くは続かなかった。慶長7年(1602年)、主君・秀秋がわずか21歳で急死すると、嗣子がいなかった小早川家は改易、取り潰しとなったのである。これにより、宗章は再び仕えるべき主を失い、浪人の身となった。
しかし、この浪人生活の中で、彼のその後の運命を大きく左右する人物との出会いが待っていた。伯耆国米子藩17万5千石の藩主、中村一忠の執政家老を務める横田村詮(よこたむらあき)である 12 。村詮は、宗章の武勇と高潔な人格に深く感銘を受け、彼を中村家に迎え入れたいと強く願った。
村詮の熱心な求めに応じ、宗章は伯耆米子藩に仕えることを決意する。この時、彼に与えられた身分は「客将」であり、その禄高は五百石であったと伝えられる 11 。この「客将」という待遇が、後の彼の行動を理解する上で極めて重要な意味を持つ。
客将とは、正規の家臣とは一線を画す、賓客としての待遇を受ける武将を指す。これは主君と家臣という一方的な主従関係ではなく、互いの能力や人格を認め合った上で結ばれる、より対等に近い協力関係であった。この場合、宗章の忠誠の対象は、中村家という「組織」や、幼い藩主である中村一忠という「主君」ではなかった。彼の忠誠は、自らの価値を正当に評価し、破格の待遇で迎えてくれた横田村詮という「個人」にこそ、向けられていたのである。
この関係性は、封建的な主従関係とは異なり、個人の間で交わされる「恩義」によって強く結ばれていた。村詮から受けた「恩」に対し、自らの「義」をもって報いる。この武士としての純粋な信義こそが、宗章の行動原理を形成していく。そして、この個人的な結びつきが、やがて彼を藩全体を揺るがす悲劇の中心へと導くことになるのである。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、中村一氏はその功績により駿河府中14万石から伯耆国17万5千石(一説に18万石)へ加増移封された。しかし、一氏は伯耆入国の直前に病没し、家督は嫡男の一忠が継いだ。この時、一忠はわずか10歳(または11歳)であった 15 。
この幼い藩主を後見するために、徳川家康自らが白羽の矢を立てたのが、中村家の宿老であった横田村詮であった 16 。村詮は智勇兼備の傑物であり、特に内政手腕に長けていた。彼は家康の絶大な信頼を背景に執政家老として辣腕を振るい、米子城の築城や城下町の整備、治水事業などを推し進め、現在の米子市の基礎を築く多大な功績を上げた 18 。
しかし、村詮の卓越した能力と、家康から与えられた強大な権限は、藩内に深刻な軋轢を生んだ。特に、藩主一忠の側近であった安井清一郎や天野宗杷(あまのそうは)といった者たちは、村詮の権勢を激しく嫉妬した 9 。彼らは「村詮は藩を乗っ取ろうとしている」といった根も葉もない讒言を繰り返し、まだ年若く判断力に乏しい一忠に吹き込んだ。度重なる讒言は、次第に一忠の心に村詮への疑念と憎悪を植え付けていった 18 。
慶長8年(1603年)11月14日(西暦1603年12月16日)、米子城内で祝宴が催された。この席で、悲劇は起こる。側近たちに唆された中村一忠は、自ら刀を抜き、油断していた後見役の横田村詮に斬りかかり、これを謀殺したのである 9 。この事件は、単なる家中の権力闘争に留まらず、徳川家康が自ら任命した後見人を殺害するという、幕府の権威に対する挑戦とも受け取れる、極めて重大な意味を持つものであった。
主君による非道な謀殺に対し、横田一族は激しく憤った。村詮の嫡男・横田主馬助(しゅめのすけ)らは、一族郎党や村詮を支持する家臣たち二百余名を率い、米子城の出城である飯山(いいのやま)城に立て籠もり、一忠に対して反旗を翻した 19 。
この時、柳生宗章は、中村家に対して直接的な恨みがあったわけではない。しかし彼は、迷うことなく横田方への加勢を決意した。史料は、その動機を「義憤と横田への恩義」と明確に記している 9 。自らを高く評価し、客将として厚遇してくれた村詮への「恩」に、自らの命を懸けて報いる。それは、私利私欲を捨て、信義を何よりも重んじる武士道精神「義」の、純粋な発露であった 22 。彼の剣は、もはや禄を受ける主君のためではなく、恩人への信義を守るために振るわれることとなった。
横田一族の蜂起に対し、中村一忠は自軍だけでの鎮圧は困難と判断し、隣国である出雲松江藩の藩主・堀尾吉晴に援軍を要請した 19 。堀尾氏の援軍が加わったことで、中村方の軍勢は圧倒的優位に立ち、飯山城への総攻撃が開始された。
この絶望的な状況の中、柳生宗章は獅子奮迅の働きを見せる。『伯耆志』などの軍記物には、その凄まじい戦闘の様子が記録されている。宗章は長槍を巧みに操って敵陣に切り込み、中村方の武将である遠山小兵衛や今井治郎七らを次々と討ち取った 11 。やがて槍が折れると、数本の刀を腰に差し、吹雪が舞う中で敵兵の中へ躍り込み、一人で18人を斬り倒したと伝えられる 12 。
しかし、衆寡敵せず、彼の奮戦も空しく、横田方の敗色は濃厚となっていく。激闘の末、ついに刀は折れ、宗章は壮絶な討死を遂げた。享年38。彼の死は、戦国の「義」が、江戸の「理」へと移り変わる時代の転換点を象徴する悲劇であった。
この一連の騒動は「米子騒動」または「横田騒動」と呼ばれ、その後の関係者の運命を大きく変えることとなった。
人物名 |
立場・役割 |
騒動における行動 |
結末 |
柳生宗章 |
横田村詮の客将、剣豪 |
村詮への恩義から横田方に加勢。飯山城で奮戦。 |
慶長8年(1603年)、討死(享年38) 12 。 |
横田村詮 |
中村家執政家老(家康任命) |
藩政を主導するが、側近の讒言により標的となる。 |
慶長8年(1603年)、主君・一忠に謀殺される 12 。 |
中村一忠 |
伯耆米子藩主(幼君) |
側近の讒言を信じ、後見役の村詮を自ら殺害。 |
騒動後、幕府に統治能力を問われ、慶長14年(1609年)に20歳で急死。嗣子なく中村家は改易となる 27 。 |
安井清一郎 |
中村一忠の側近 |
村詮を讒言し、一忠に殺害を唆した主犯格。 |
騒動後、徳川家康の命により切腹させられる 28 。 |
天野宗杷 |
中村一忠の側近 |
安井と共に村詮排斥を画策した主犯格。 |
騒動後、徳川家康の命により切腹(一説に斬首)させられる 28 。 |
堀尾吉晴 |
出雲松江藩主 |
一忠の要請に応じ、援軍を派遣して騒動を鎮圧。 |
騒動鎮圧の功により、幕府内での評価を高める 25 。 |
徳川家康 |
江戸幕府初代将軍 |
村詮を後見人に任命。事件の報告に激怒。 |
騒動の首謀者である安井・天野を厳しく処罰し、中村家の統治に介入。騒動の最終的な裁定者となった 16 。 |
この騒動は、単なる御家騒動ではなかった。それは、家康が築こうとする中央集権体制と、地方大名家の内部論理との衝突であり、その中で柳生宗章という一個人の「義」が、大きな政治の流れに飲み込まれていく悲劇でもあった。家康が騒動の首謀者たちを即刻処断した事実は、この事件が徳川の天下統治の根幹に関わる問題であったことを示している。宗章は、この巨大な政治力学の中で、ある意味では時代遅れになりつつあった、個人間の信義という価値観に殉じたのである。
柳生宗章の剣技について、彼自身が書き残した伝書などは存在しない。しかし、米子騒動における彼の戦いぶりを記した『伯耆志』などの史料から、その技量の高さを窺い知ることができる 11 。彼は新陰流の剣術はもとより、十文字槍をはじめとする槍術にも極めて長けていた 11 。飯山城の戦いでは、長槍を自在に操り、それが使えなくなると刀に持ち替えて多数を相手に渡り合った。この複数の武器を高いレベルで使いこなす能力は、実戦経験の豊富さ、とりわけ武者修行の賜物であったと考えられる。彼の剣は、道場で型を競うためのものではなく、あくまで戦場で生き抜き、敵を倒すための「実戦の武術」であった。
柳生新陰流の根幹には、人を活かすための剣、「活人剣」の思想がある。一見すると、多数の敵を斬り倒した宗章の行動は、この思想と矛盾するように思えるかもしれない。しかし、彼の行動原理を深く考察すると、彼なりの「活人剣」の実践であったと解釈することも可能である。
彼にとっての「悪」とは、恩人である横田村詮を無実の罪で謀殺した主君・中村一忠とその側近たちの非道な行いであった。そして、その「悪」を断ち、村詮から受けた「恩義」に報いるという「義」を立てることこそが、彼にとっての「活かす」べき道であった。弟・宗矩が「活人剣」を国家や組織を治めるための「大なる兵法」へと発展させたのに対し、宗章はそれを一個人の道徳的実践、すなわち自らの信じる正義を貫くための「小なる兵法」の次元で、その生涯を懸けて体現しようとしたのである。
柳生宗章という人物を理解する上で、弟・宗矩との比較は不可欠である。同じ父から同じ流儀を学びながら、二人の生き様はあらゆる面で対照的であった。
この比較は、戦国乱世の終焉期を生きた武士の、二つの典型的な生き方を示している。宗章は、個人の武勇と名誉、そして信義を重んじる、滅びゆく「戦国武士」の理想像を最後まで体現した。対照的に、宗矩は、組織への忠誠と政治的手腕によって立身出世を目指す、新たな「江戸武士」の先駆けとなった。
宗矩が確立した「江戸柳生」が、徳川幕府という巨大な権力と結びつくことで、ある意味で洗練され、政治的に変質したものであるとすれば、純粋な武と個人の信義に生きた宗章の姿こそ、父・石舟斎が目指した「剣禅一如」の、より原初的な姿を留めていたのではないか、という見方もできる。宗章の生き方は、柳生一族の歴史における「もう一つの可能性」を示す、極めて重要な傍流なのである。彼の存在は、柳生一族の歴史が、単線的な成功物語ではなく、時代の変化の中で様々な選択を迫られた、多様な個人の物語の集合体であったことを教えてくれる。
柳生宗章の生涯は、権力や組織への隷属を潔しとせず、個人への恩義と自らが信じる「義」を貫き通した、一人の孤高の剣豪の物語であった。彼の選択は、結果として政治的な成功や家の安泰には繋がらなかった。しかし、その生き様は、武士としての美学を最後まで貫徹したという点で、強い光彩を放っている。
彼の壮絶な最期は、伯耆国米子の地に強烈な印象を残した。その証拠に、彼が立て籠もった飯山城の跡地には、今なおその墓と伝えられる祠がひっそりと佇み、訪れる人々に彼の物語を語りかけている 12 。権力者の公式記録よりも、地方の伝承の中で彼の奮戦が生き生きと語り継がれている事実は、時代や立場を超えて、人々が彼の純粋な「義」に共感した証左と言えよう。
柳生宗章は、単に「宗矩の兄」という言葉で片付けられるべき存在ではない。彼は、柳生という剣豪一族が持つ、政治性とは異なる純粋な武人としての側面を、その短い生涯をもって体現した人物である。彼の存在を歴史の中に正しく位置づけることで、柳生一族の物語は、より深く、多層的なものとして理解される。
柳生宗章の死は、一つの時代の終わりを告げる象徴的な出来事であった。個人の武勇と信義が絶対的な価値を持った戦国の「義」が、組織の論理と秩序を重んじる江戸の「理」へと移り変わる、その大きな歴史の転換点に、彼は自らの命を懸けて一つの墓標を打ち立てたのである。その生き様は、たとえ歴史の敗者となろうとも、己の信じる道を貫くことの尊さを、現代に生きる我々に静かに、しかし力強く問いかけている。