最終更新日 2025-05-16

柿崎景家

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柿崎景家:越後の猛将、その実像と謎

序章:柿崎景家とは

柿崎景家が生きた戦国時代、越後国は守護たる上杉氏の権威が著しく衰え、その地位を代行する守護代長尾氏が国内の実権を掌握しつつありました。しかし、その長尾氏の支配も盤石とは言い難く、国内の国人衆は各地に割拠し、内乱が頻発する不安定な情勢下にありました。柿崎氏は、越後国頸城郡柿崎(現在の新潟県上越市柿崎区)を本拠とした国人領主であり、その出自は鎌倉時代に遡るとも伝えられています 1 。このような混乱の時代にあって、柿崎景家は長尾氏、後の上杉氏の家臣として、歴史の表舞台にその名を刻むことになります。

柿崎景家は、長尾景虎、後の上杉謙信が家督を相続するにあたり、これを支持して以来、謙信の腹心として軍事、外交の両面にわたり重用されました 3 。主君謙信からは「越後七郡に彼にかなう者はなし」とまで評されたと伝えられるほどの武勇を誇り 4 、上杉軍団の中核をなす、欠くべからざる存在でした。本報告書では、柿崎景家の生涯と輝かしい武功、その人物像、そして今日なお謎に包まれた最期について、現存する資料に基づき詳細に検討を加えるものです。

第一章:柿崎景家の生涯

柿崎景家は、永正10年(1513年)に越後の国人領主である柿崎利家の子として生を受けたと伝えられています。ただし、その生年については異説も存在しており、確たるものとは言えません 3 。通称は弥次郎と称しました 3 。柿崎氏は大見氏の一族ともいわれ、古くから越後の地に根を下ろした由緒ある武家であったとされています 1

景家は、はじめ長尾為景に仕え、為景の没後はその子である晴景の麾下にありました 3 。この時期における景家の具体的な活動を伝える詳細な記録は乏しいものの、柿崎郷を領する国人領主として、長尾氏の指揮のもと、越後国内における軍事行動などに参加していたものと考えられます。

景家の運命を大きく左右する転機が訪れたのは、長尾晴景とその弟である景虎(後の上杉謙信)との間で、長尾家の家督をめぐる争いが生じた時でした。この家督相続争いにおいて、景家は景虎を断固として支持しました 3 。この景家の決断は、単に一方の勢力に与したという以上の意味を持ちます。当時の越後国は、国内の有力国人がそれぞれの利害のもとに離合集散を繰り返す、極めて流動的な状況にありました。そのような中で、晴景の器量に見切りをつけ、若き景虎の非凡な才能と将来性を見抜いてその麾下に馳せ参じたことは、国人領主柿崎家の存続と発展を賭けた、景家の戦略的な判断であった可能性が高いと言えます。景虎が持つ軍事的才能や人を惹きつけるカリスマ性が、景家のような実力主義の武将を引き寄せたのでしょう。この早期の支持こそが、後に謙信からの絶大な信頼を得るための強固な基盤となったことは想像に難くありません。この選択が、その後の景家の目覚ましい活躍と、謙信政権下における重臣としての地位を確固たるものとする道を開いたのです。

第二章:上杉謙信の腹心としての活躍

軍事における功績

柿崎景家は、上杉謙信の麾下において、その武勇を遺憾なく発揮しました。「越後七手組大将」の一人と称され、上杉軍の精鋭部隊を率いたとされています 3 。この「七手組」の具体的な編成や、それが常設の組織であったかについては諸説ありますが、景家が謙信の軍事行動において、特に信頼され、困難な任務を託される中核的な指揮官の一人であったことは疑いありません。NHK大河ドラマ『天と地と』においては、「謙信七手組を全期に渡ったほどの長尾家きっての猛将」として描かれており 8 、その武勇が後世においても広く認識されていたことが窺えます。「七手組大将」という呼称は、単なる一介の部隊長以上の意味合いを持ち、先鋒など戦の帰趨を左右する重要な局面を任される、主君からの深い信頼の証左と言えるでしょう。

景家の武名を不朽のものとしたのは、宿敵武田信玄との間で繰り広げられた川中島の戦いにおける目覚ましい活躍です。特に永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いにおいては、上杉軍の先鋒として、濃霧の中、武田信玄の本陣に猛攻を加えました。この激戦の最中、武田軍の伝説的軍師であった山本勘助を討ち取ったのは、実に柿崎景家の率いる部隊であったとの伝承が、軍記物語である『甲越信戦録』に記されています 1 。この山本勘助討ち取りの伝承は、柿崎隊の比類なき勇猛さを示すものであると同時に、第四次川中島の戦いにおける上杉軍の戦術、いわゆる「車懸りの陣」による一点突破が効果的に機能したことを象徴する出来事とも解釈できます。景家率いる先鋒隊が、敵本陣を脅かすほどの凄まじい突破力を示したことが、この戦いを戦国史上屈指の激戦たらしめた要因の一つであったと言えるでしょう。武田軍本陣を大混乱に陥れ、信玄自身をも危機に晒した可能性すら示唆されます。このような顕著な活躍は、敵方である武田方にも大きな衝撃を与え、柿崎景家の名を天下に轟かせたと考えられます。ただし、この逸話は軍記物語の記述であり、その史実性については慎重な検証を要することも付言しておかねばなりません。

政務・外交における手腕

柿崎景家は、その武勇ばかりでなく、内政や外交といった分野においても卓越した手腕を発揮しました 7 。謙信が関東管領職に就任した際の式典においては、斎藤朝信と共に太刀持ちの大役を務めるという栄誉を担いました 3 。これは、景家の家格の高さと、謙信からの信頼がいかに厚かったかを示すものです。関東管領就任式の太刀持ちは、単なる儀仗兵の役割ではなく、主君の権威を内外に示す極めて重要な役目であり、家臣団の中でも特に信頼され、かつ高い家格を有する者にしか許されないものでした。

さらに、外交使節の饗応といった、古式に精通し、高度な機知や教養が求められる重任も拝していました 3 。戦国時代の武将には、武勇のみならず、こうした政治的センスや文化的な素養も不可欠であり、景家がこれらの分野でも活躍したことは、彼が単なる猛将ではなく、総合的な能力を備えた稀有な武将であったことを物語っています。元亀元年(1570年)に上杉家と北条家との間で越相同盟が締結された際には、景家の子である晴家が人質として小田原へ送られるなど、同盟の成立と維持に重要な役割を果たしました 6 。実子を人質として差し出すという行為は、同盟の保証という極めて重い意味を持ち、景家が上杉家の外交政策に深く関与し、その成否に責任を負う立場にあったことを明確に示しています。これらの事実は、景家が謙信政権において、軍事・政治の両面で不可欠な柱石であったことを裏付けていると言えるでしょう。

謙信からの信頼

上杉謙信の柿崎景家に対する信頼は絶大であったと伝えられています 3 。主君である謙信自らが、「越後七郡で彼にかなう者はなし」と景家を評したとされ 4 、これは景家の武勇、忠誠心、そして多岐にわたる能力に対する謙信からの最大限の評価を示す言葉として知られています。

この「越後七郡に彼にかなう者はなし」という評価は、単に一個人の武勇の強さを指すだけでなく、景家が有していた総合的な国政運営能力や家臣団を統率する力量までをも含意している可能性があります。上杉謙信は、その生涯において家臣の裏切りに苦慮することも少なくありませんでした 11 。そのような状況下にあって、景家のような揺るぎない忠誠心と卓越した実力を兼ね備えた腹心の存在は、謙信にとって政権安定のまさに要であったと言えます。この強固な信頼関係があったからこそ、後に議論の的となる誅殺説がもし事実であったとするならば、その理由はよほど深刻かつ重大なものであったはずであり、逆に病死であったとすれば、謙信にとって計り知れない大きな損失であったことは論を俟ちません。この強い信頼関係の存在は、景家の最期を巡る謎を解き明かす上で、逆説的に重要な論点となるのです。

第三章:景家の人物像と信仰

柿崎景家は、家中随一の勇将と評される武勇の誉れ高い人物であったと同時に 4 、高い家格を有し、古式に通じ、機知や教養にも富んでいたと伝えられています 3 。これらの事実は、景家が武辺一辺倒の人物ではなく、知勇兼備の洗練された武将であったことを示しています。

また、景家は信仰心の篤い人物でもありました。柿崎氏は代々、越後の名山として知られる米山薬師を篤く信仰しており、景家自身もその信仰心が非常に深かったとされています 3 。米山薬師は日本三薬師の一つにも数えられる霊峰であり 13 、景家にとって精神的な支柱の一つであったと考えられます。景家の墓所とされる楞厳寺(新潟県上越市柿崎区)は、景家を開基として天文3年(1534年)に建立された禅寺であり、謙信の師としても名高い天室光育を招いたと伝えられ、柿崎の地に学問文化を花開かせたとも言われています 3

景家の篤い信仰心は、戦乱の世に生きた武将が精神的な拠り所を求めていたことを示す一例であると同時に、地域社会における宗教的権威との結びつきの重要性をも示唆しています。米山薬師への信仰は、柿崎氏の領民支配における精神的な基盤としても機能していた可能性があります。景家が楞厳寺を開基し、高名な禅僧である天室光育を招聘したという事実は、単なる個人的な信仰の範疇を超え、柿崎氏が地域の文化的・宗教的な中心としての役割を担っていたことを物語っています。このような信仰心や文化的な活動は、武将としての景家の人間的な深みや、領主としての多面的な側面を浮き彫りにするものです。

第四章:その死をめぐる諸説

柿崎景家の最期については、複数の説が存在し、今日に至るまで確定的な見解は得られていません。

病死説:天正2年(1574年)没とする記録

通説の一つとして、景家は天正2年(1574年)11月22日に病により死去したとされています 3 。これは比較的穏当な死因であり、多くの編纂物などで採用されている説です。景家の墓所は、彼が開基したとされる楞厳寺(新潟県上越市柿崎区)にあり、同寺には景家夫妻を描いたとされる肖像画が所蔵されています 3 。この病死説の根拠としては、楞厳寺の過去帳などが挙げられることがありますが、その史料としての信頼性や成立時期については、提供された資料群からは直接的に判断することは困難です 3

誅殺説:織田信長への内通疑惑による謙信からの誅殺説

その一方で、柿崎景家は主君である上杉謙信によって誅殺されたという説も根強く存在します。この説によれば、景家は当時急速に勢力を拡大していた織田信長への内通を疑われ、これが謙信の逆鱗に触れ、天正3年(1575年)頃に誅殺されたとされています 2 。この説は、義を重んじ、裏切りを許さない謙信の厳格な性格や、当時の上杉氏と織田氏との間に漂う緊迫した政治情勢などを背景として語られることが多いようです。

室岡博氏による病死説の支持・誅殺説への反論

歴史研究家の室岡博氏は、その著書『柿崎景家と上杉謙信 関係史跡・城館跡』などを通じて、柿崎景家は上杉謙信に殺害されたのではなく、病死であったと強く主張し、誅殺説に対して明確な反論を展開しています 12 。誅殺説と病死説の対立は、景家の死に関する同時代の記録が乏しいことや、後世の解釈が加わっている可能性を示唆しています。室岡氏が誅殺説を否定する具体的な論拠、例えば一次史料の新たな解釈や状況証拠の詳細については、提供された資料からは詳らかにできませんが、専門の研究者による異論が存在するという事実は、この問題を考察する上で極めて重要です。

クーデター計画説:片桐昭彦氏による、景虎擁立クーデター計画と、その処罰に関する新説

近年、歴史研究家の片桐昭彦氏らによって、柿崎景家の死因を、従来の織田信長との関係に求めるのではなく、謙信没後の家督を巡る上杉家内部の権力闘争、特に親北条派(上杉景虎支持派)との関係に求める新たな説が提唱されています 3 。この説によれば、景家父子は、謙信が能登へ遠征している隙を突き、北条氏康の子であり謙信の養子となっていた上杉景虎を新たな当主として擁立しようとするクーデターを計画したものの、これが露見し、処罰されたというものです 3 。この事件が、後の御館の乱の遠因の一つになったとも指摘されています。

このクーデター計画説は、景家の死を天正5年(1577年)頃とするものであり、従来の病死説(天正2年)や誅殺説(天正3年頃)とは、その時期も背景も大きく異なります。もしこの説が事実であるとすれば、景家は謙信の晩年において、謙信の後継者問題に深く関与し、結果として悲劇的な最期を迎えたことになります。上杉景虎が北条家の出身であることを考慮すると、かつての越相同盟との関連や、謙信政権内部における親北条派と反北条派の対立構造が、このクーデター計画の背景にあった可能性も探る必要があります。この説の史料的根拠や詳細な論証過程については、提供された資料からは具体的に明らかにすることはできませんが 19 、景家の死をめぐる議論に新たな視点を提供するものとして注目されます。誅殺説が「織田との内通」という外部要因を死の原因とするのに対し、このクーデター説は「上杉家内部の後継者問題」という内部要因を重視する点で対照的です。

各説の比較検討と史料的根拠

これまでに述べた各説には、それぞれ論拠とされるものが存在しますが、いずれも決定的な一次史料に欠ける部分があり、柿崎景家の死因については未だ議論の余地が残されているのが現状です。病死説は『楞厳寺過去帳』などが根拠とされるものの、その史料の成立時期や記述の信頼性については更なる検討が必要です。誅殺説は、軍記物語や後世の編纂物の中にしばしば見受けられますが、同時代史料による具体的な証拠は乏しいと言わざるを得ません。クーデター説は、比較的近年提唱された新しい学説であり、今後の史料の発掘や研究の進展が待たれるところです。

柿崎景家の死因をめぐるこれらの諸説の存在は、戦国時代の史料が現代にまで残されていることの限界と、歴史上の人物像が後世の解釈によっていかに多様に形成されうるかという様相を如実に示しています。それぞれの説が依拠する史料の性質(一次史料か二次史料か、編纂物か軍記物かなど)を丹念に吟味し、多角的な視点から検討を続けることが、真相に迫るためには不可欠でしょう。

柿崎景家の死因に関する諸説比較

説の名称

主な内容(死因・時期)

主な論者・典拠

関連する背景・論点

病死説

天正2年(1574年)11月22日、病により死去。

『楞厳寺過去帳』など 3 。多くの編纂物で採用。

比較的穏当な最期。

誅殺説

天正3年(1575年)頃、織田信長への内通を疑われ謙信が誅殺。

軍記物、後世の編纂物 6

謙信の厳格さ、当時の上杉と織田の緊張関係。室岡博氏による反論あり 12

クーデター説

天正5年(1577年)頃?景虎擁立クーデター計画が露見し処罰。

片桐昭彦氏などの新説 3

謙信晩年の後継者問題、親北条派との対立、御館の乱の遠因。

第五章:柿崎家のその後と後世への影響

景家死後の柿崎家:嫡男・祐家の越中攻めでの負傷、晴家による家督相続、御館の乱と憲家の時代

柿崎景家の死後、柿崎家の家督は長男の晴家が継いだとされています 3 。景家の嫡男と目される祐家は、景家が没する前年の越中攻めの際に深手を負っており、その後の消息は詳らかではありません 3 。晴家は、かつて景家が北条氏との越相同盟を締結した際に、同盟の証として人質として小田原城に送られていた人物です 3

景家の死、そしてその後の上杉謙信の急死は、柿崎家を大きな混乱の渦に巻き込みました。天正6年(1578年)に勃発した上杉家の家督相続争いである御館の乱において、当主であった晴家は上杉景虎(北条氏康の子、謙信の養子)を支持しました。しかし、柿崎家の家臣団の中には、もう一方の養子である上杉景勝を支持する一派も存在し、晴家の遺児(景家の子とする説もある)である千熊丸(後の柿崎憲家)を擁して晴家に反旗を翻したと伝えられています 2 。この内紛の結果、晴家は景勝方に謀殺されたとも言われていますが 2 、その死については異説も存在します 20 。景家の死後、柿崎家が御館の乱という上杉家内部の深刻な対立に巻き込まれ、家中でさえ分裂が生じたという事実は、当時の国人領主が中央の政争と決して無縁ではいられなかった過酷な現実を物語っています。当主の選択一つが、家の存亡に直結する厳しい時代であったのです。

最終的に御館の乱は上杉景勝の勝利に終わり、柿崎家は憲家(天正4年(1576年)生 - 寛永10年(1633年)没)の代になって家名の存続を許されました。憲家はその後、上杉景勝、そしてその子である定勝に仕え、上杉家の会津移封、さらには米沢移封に従い、米沢藩士として家名を後世に伝えました。憲家は一時改易の憂き目に遭うも、後に名誉を回復し、柿崎家は再興を果たしています 3 。景家の嫡男とされた祐家の「生死不詳」という記録は 3 、戦国期の武家の後継者問題がいかに不安定であったかを物語っており、もし祐家が無事であったならば、柿崎家の運命もまた異なったものになっていたかもしれません。

柿崎家文書の上越市への寄贈とその意義

柿崎景家の子孫は、江戸時代を通じて米沢藩士として過ごし、明治維新後には北海道開拓のために厚岸へと移住しました。そして近年、柿崎家に代々伝えられてきた古文書群のうち、約200点の中から、戦国時代から江戸時代にかけての貴重な文書80点あまりが、景縁の地である新潟県上越市へ寄贈されました 22 。この寄贈文書の中には、実際に柿崎家が上越の地で受け取ったとされる戦国時代の文書10点も含まれており、その中には上杉輝虎(謙信)が発給した朱印状の写真も確認されています 22

これらの古文書は、柿崎氏一族の歴史を明らかにする上で貴重であることはもちろん、上杉氏や当時の越後国の政治・社会状況を研究する上でも、極めて重要な学術的価値を有するものです。数百年という長い時を経て故郷である上越の地に里帰りしたこれらの古文書群は、今後の研究によって、歴史に新たな光を当てる可能性を秘めています。特に戦国時代の一次史料は現存するものが限られており、その一つ一つが当時の状況を解明するための重要な手がかりとなります。「上杉輝虎朱印状」などは、謙信から柿崎氏への直接的な指示や意思伝達を示すものであり、その内容は柿崎景家と謙信との関係性を具体的に知る上で極めて重要です。これらの史料の公開と詳細な研究が進むことで、柿崎景家という人物像、ひいては上杉氏研究全体が一層深化することが大いに期待されます。

歴史的評価と関連作品(テレビドラマ、漫画など)

柿崎景家は、上杉謙信麾下の勇猛果敢な武将として、また時には知略にも長けた将として、後世においても一定の高い評価を得ています。その波乱に満ちた劇的な生涯や数々の武勇伝は、歴史小説の題材として好まれ、NHK大河ドラマ『天と地と』(1969年放送、演:藤木悠氏)や『風林火山』(2007年放送、演:金田賢一氏)といったテレビドラマ、さらには複数の漫画作品においても描かれています 3 。これらの創作物において柿崎景家が繰り返し取り上げられることは、彼という人物が持つ歴史的な魅力と、その存在が一般の人々にも広く認知されていることを示していると言えるでしょう。

終章:柿崎景家研究の現在と展望

柿崎景家は、上杉謙信による越後国の統一と、その後の勢力拡大に多大な貢献を果たした傑出した武将であり、その比類なき武勇と確かな政治的手腕は、改めて高く評価されるべきです。彼の生涯は、戦国乱世を生きた一人の武将の鮮烈な生き様、主君との間に結ばれた固い絆(あるいはその終焉の謎)、そして時代の荒波に翻弄されながらも家名を繋ごうとした国人領主の姿を、私たちに力強く示しています。

しかしながら、柿崎景家に関する研究には、未だ解明されていない点が多く残されています。特にその死因については、本報告書でも詳述した通り、複数の説が提示されていながらも確定的な結論には至っておらず、さらなる史料の発見と精密な分析が強く求められています。この点において、近年上越市に寄贈された柿崎家文書の詳細な分析は、新たな事実を明らかにする可能性を秘めており、大きな期待が寄せられています 22

また、「越後七手組」と称される組織の実態や、謙信政権内における景家の具体的な役割分担、さらには彼の信仰や文化的側面などについても、より踏み込んだ研究が必要です。これらの研究課題に真摯に取り組むことを通じて、柿崎景家という一人の武将の多面的な実像がより鮮明になるとともに、彼が生きた上杉謙信の時代、ひいては戦国時代そのものへの理解が一層深まることが期待されます。柿崎景家研究は、死因をめぐる論争や新たな史料の登場により、今なお進展の途上にある、魅力的な研究テーマであり続けるでしょう。

引用文献

  1. 柿崎和泉守景家 - 川中島の戦い・主要人物 | Battle of Kawanakajima https://kawanakajima.nagano.jp/character/kakizaki-kageie/
  2. 柿崎城(上越市) - 新潟県:歴史・観光・見所 https://www.niitabi.com/siro/kakizakijyou.html
  3. 柿崎景家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E5%B4%8E%E6%99%AF%E5%AE%B6
  4. 【越後二天】 柿崎景家 【信長の野望 出陣】 https://www.kakedashi.site/meikan-uesugi-kakizakikageie/
  5. 【信長の野望 覇道】柿崎景家の戦法と技能 - ゲームウィズ https://gamewith.jp/nobunaga-hadou/article/show/377477
  6. 柿崎景家 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/kakizaki.html
  7. 柿崎景家の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介 - 戦国ガイド https://sengoku-g.net/men/view/228
  8. 天と地と (NHK大河ドラマ)とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A9%E3%81%A8%E5%9C%B0%E3%81%A8+%28NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%29
  9. 宇佐美駿河守定行 - 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu6.php.html
  10. 上杉家臣団 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_sengoku/05/
  11. 上杉謙信の家臣団/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/91115/
  12. Amazon.co.jp: 柿崎景家と上杉謙信 関係史跡・城館跡 室岡博 米峯出版 柿崎景家は謙信に殺されず、謙信は実兄や重臣正影を殺さず。景家の米山薬師徹底信仰 https://www.amazon.co.jp/%E6%9F%BF%E5%B4%8E%E6%99%AF%E5%AE%B6%E3%81%A8%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1-%E9%96%A2%E4%BF%82%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E3%83%BB%E5%9F%8E%E9%A4%A8%E8%B7%A1-%E5%AE%A4%E5%B2%A1%E5%8D%9A-%E7%B1%B3%E5%B3%AF%E5%87%BA%E7%89%88-%E6%9F%BF%E5%B4%8E%E6%99%AF%E5%AE%B6%E3%81%AF%E8%AC%99%E4%BF%A1%E3%81%AB%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%80%81%E8%AC%99%E4%BF%A1%E3%81%AF%E5%AE%9F%E5%85%84%E3%82%84%E9%87%8D%E8%87%A3%E6%AD%A3%E5%BD%B1%E3%82%92%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%81%9A%E3%80%82%E6%99%AF%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%B1%B3%E5%B1%B1%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%BE%B9%E5%BA%95%E4%BF%A1%E4%BB%B0/dp/B0F636YBTX
  13. 歴 | Mysite - 柿崎観光協会 https://www.kakizakikanko.com/blank-4
  14. 柿崎って? | Mysite https://www.kakizakikanko.com/blank-10
  15. 親鸞聖人ってどんなお方? - セント・メプレス https://st.mepres.net/bonkura-column/bonkura-11
  16. 柿崎景家:上杉きっての猛将!その名を聞けば敵が逃げ出す - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=kVbrZuKH6DI&pp=ygUNI-afv-W0juaGsuWutg%3D%3D
  17. 柿崎景家と上杉謙信 関係史跡・城館跡(室岡博) / 古本 - 日本の古本屋 https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=552694463
  18. 柿崎景家とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%9F%BF%E5%B4%8E%E6%99%AF%E5%AE%B6
  19. 御館の乱の発生について http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=5510
  20. 御館の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
  21. 柿崎憲家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E5%B4%8E%E6%86%B2%E5%AE%B6
  22. 柿崎家文書について - 上越市ホームページ https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/koubunsho/kakizakikemonzyo.html