戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、桜庭直綱の生涯を深く理解するためには、まず彼が属した桜庭一族の出自と、南部家におけるその特異な地位を把握することが不可欠である。彼は単なる一個の武将ではなく、由緒ある譜代筆頭の家柄の嫡子として、その行動原理は一族の歴史と密接に結びついていた。
桜庭氏は、その起源を宇多源氏佐々木氏の流れを汲むと自称し、遠祖とされる桜庭介良綱は、南部氏の始祖である南部光行が建久2年(1191年)に甲斐国から陸奥国糠部郡へ下向した際に従ったと伝えられている 1 。この出自は、桜庭家が戦国期に武功を立てて台頭した新参の家臣ではなく、南部家草創期からの譜代であることを示している。
『南部根元記』などの史料によれば、桜庭氏は三上氏、安芸(小笠原)氏、福士氏と共に「南部四天王」と称された 4 。この「四天王」という呼称は、徳川四天王のように同時代に活躍した特定の武功者を指すものではなく、鎌倉時代初期に南部光行の国政を掌ったことに由来する世襲的な職責と権威を象徴するものであった。後世の盛岡藩においては、家老職の源流と見なされており、その歴史的地位は江戸時代を通じて維持された 3 。この事実は、桜庭家が単なる家臣という立場を超え、南部家の統治機構を創設期から支える構成員であり、その正統性の一部を担う存在であったことを意味する。
一族の居城は、南部氏の本拠地であった三戸城(現在の青森県三戸郡三戸町)の至近に位置する赤石館であった 5 。この地理的な近さは、桜庭家が南部宗家にとっていかに重要かつ信頼された一族であったかを物語っている。
直綱の父である桜庭光康の代において、桜庭家はその実力を遺憾なく発揮した。光康は、南部安信の時代に長年南部氏と対立していた閉伊郡の諸豪族を、武力だけでなく知略を駆使して服属させ、同地方の平定に絶大な功績を挙げた 4 。この功により、後世の桜庭家家臣団には閉伊地方の出身者が多く含まれるようになり、一族の勢力基盤を強固なものとした 2 。
また、光康は武将としても優れ、永禄8年(1565年)には鹿角郡へ侵攻してきた安東愛季を撃退し、元亀3年(1572年)には石川高信による津軽平定にも従軍するなど、数々の武功を立てている 4 。光康の活躍は、桜庭家が単に古い家柄というだけでなく、戦国末期の動乱期においても南部家の軍事・統治の両面で中核を担う実力を持っていたことを明確に示している。
この桜庭家の由緒と権威は、単なる伝承に留まらなかった。江戸時代には、盛岡藩主が参勤交代で江戸へ出発する際、必ず桜庭家の屋敷に立ち寄り、特定の儀礼を行うことが恒例となっていた 3 。これは、四天王としての歴史的権威が、藩の公式な儀礼として可視化され、再生産されていたことを示す動かぬ証拠である。藩主の出発に際し、由緒ある譜代筆頭の家から祝福(あるいは忠誠の再確認)を受けるこの儀礼は、道中の安泰と藩の安寧を祈念する上で重要な意味を持っていたと推察される。桜庭直綱が、その生涯において数々の重要な任務を託された背景には、こうした一族が築き上げてきた絶大な信頼と地位が存在したのである。
和暦(西暦) |
年齢(推定) |
出来事 |
典拠 |
生年不詳 |
|
桜庭光康の子として誕生。幼名は佐々木与三郎。 |
5 |
天正10年(1582年) |
不詳 |
元服。主君・南部信直より「直」の字と来国次の太刀を賜り、桜庭安房守直綱と名乗る。 |
5 |
天正19年(1591年) |
不詳 |
九戸政実の乱において、主君・信直の命を受け、領内諸豪族の説得にあたる。 |
5 |
慶長5年(1600年) |
不詳 |
関ヶ原の戦いに連動し、岩崎一揆が勃発。馬上の侍大将として70人の部隊を率いて出陣。 |
5 |
慶長6年(1601年) |
不詳 |
岩崎城攻めで主力を率いて本丸へ突入を図る。戦後、伊達氏と結んだ阿曽沼広長を討伐。 |
5 |
慶長17年(1612年) |
不詳 |
将軍・徳川秀忠が江戸の南部藩邸を訪問した際、藩主らと共に会談に参加。 |
5 |
慶長19年(1614年) |
不詳 |
大坂冬の陣に参陣。弟・北信景が大坂城に豊臣方として籠城する。 |
5 |
元和元年(1615年) |
不詳 |
盛岡藩の家老に就任。弟・北信景が処刑される。 |
5 |
元和2年(1616年) |
不詳 |
後の3代藩主・南部重信の誕生に際し、「御検視」として閉伊郡花輪村へ派遣される。 |
5 |
元和6年(1620年) |
不詳 |
卒去。墓所は青森県三戸町の三光寺。戒名は「捐舘覚翁圓公居士」。 |
5 |
桜庭直綱は、父・光康から家督を継ぐと、南部信直・利直の二代にわたり、武将としてその名声を確立していく。特に、関ヶ原の戦いと連動して発生した一連の戦いにおける彼の役割は、南部家中の主力としての地位を決定づけるものであった。
当初、佐々木与三郎と名乗っていた直綱は、天正10年(1582年)の元服に際し、主君・南部信直から直々に偏諱「直」の一字と名刀来国次を賜り、桜庭安房守直綱と名乗る栄誉に浴した 5 。これは、若くして主君から深い期待と信頼を寄せられていたことの証左である。彼は二千石を知行し、三戸の赤石館を居城とした 5 。
直綱が歴史の表舞台で最初にその能力を示したのは、天正19年(1591年)の九戸政実の乱であった。この乱は、豊臣秀吉の奥州仕置に反発した南部一族の有力者・九戸政実が起こしたもので、南部宗家の支配を揺るがす一大危機であった。この時、直綱は主君・信直の命を受け、武力による鎮圧だけでなく、動揺する領内の諸豪族の説得にあたった 5 。これは、彼が単なる武辺者ではなく、情勢を的確に判断し、交渉をまとめる政治的調整能力をも評価されていたことを示唆している。戦国末期から江戸初期への移行期において、武力と並んでこうした政治的手腕はますます重要となり、直綱が早くからその両方を兼ね備えていたことが窺える。
直綱の武将としての評価を決定的にしたのは、慶長5年(1600年)から翌年にかけての岩崎一揆における活躍である。関ヶ原の戦いが勃発し、主君・南部利直が徳川家康の命により最上義光支援のため出羽へ主力を率いて出陣すると、この隙を好機と見た伊達政宗が、旧領回復を目指す和賀忠親を煽動し、南部領内で大規模な一揆を引き起こした 10 。
この国難に際し、直綱は馬上の侍大将として70人の部隊を率い、南部軍の主力として参陣した 5 。盛岡藩の史書『聞老遺事』の「岩崎御出陣人数定」にその名が明確に記されていることは、彼がこの戦いにおいて軍事的な中核を担っていたことを裏付けている。慶長6年(1601年)3月、南部軍が和賀勢の拠点である岩崎城へ総攻撃を開始すると、直綱は主力を率いて本丸への突入を試みた 10 。また、同月17日には騎馬武者を率いて茶臼台に進み、本丸へ進撃するなど、常に攻撃の先鋒に立って奮戦した記録が残る 16 。
さらに重要なのは、この戦いの出陣軍令書に、南部家の宿老である北信愛、楢山直隆と並んで直綱が連署していることである 5 。これは、彼が単なる一武将ではなく、藩の軍事作戦を立案・決定する最高首脳の一人として、家中における確固たる地位を確立していたことを示している。
岩崎一揆の鎮圧後も、直綱の活躍は続く。慶長6年(1601年)、主君の命を受け、伊達氏と結んで抵抗を続ける遠野地方の豪族・阿曽沼広長を討つため、350人の部隊を率いて出陣した。直綱は阿曽沼軍を撃破し、遠野地方の平定にも大きく貢献した 5 。
九戸の乱から岩崎一揆、阿曽沼氏討伐に至る一連の戦いは、いずれも南部宗家の支配に抵抗する在地勢力を排除し、藩主への権力集中を進めるためのものであった。南部利直が「家臣の多くを処罰、追放して集権化を進め、盛岡藩の基礎を固めていった」 17 と評される政策を、直綱はまさにその手足となって軍事面から実行したのである。彼の活躍は、個人の武功であると同時に、南部家が戦国的な豪族連合体から、藩主を中心とする近世的な大名領国へと変貌を遂げるプロセスにおいて、不可欠な役割を果たしたことを意味している。
桜庭直綱の生涯を語る上で避けて通れないのが、実弟・北信景が引き起こした事件と、それに伴う「家系図偽造疑惑」である。この一件は、単なる一族内の不祥事という範疇を超え、成立期にあった徳川幕府に対し、外様大名である南部家がその存亡を賭けて行った、極めて高度な政治工作の実態を浮き彫りにする。
北信景は、桜庭直綱と同じく桜庭光康を父とする実の弟である 8 。後に母方の伯父であり、南部家の宿老であった北信愛の養子となり、北家を継いだ 12 。信景は兄に劣らぬ有能な人物で、岩崎一揆では手薄な花巻城の救援に駆けつけて功を挙げ、主君・南部利直から「直」の一字を賜り「直吉」と名乗ったこともある 12 。また、白根金山を発見して藩財政に大きく貢献するなど、藩政においても重要な役割を担っていた 12 。
しかし、信景と主君・利直の関係は険悪であったと伝えられる。盛岡藩の史書『祐清私記』によれば、その確執が決定的となった悲劇的な逸話が残されている。ある時、利直の朝食に小石と魚の骨が混入していたことに激怒した利直は、信景のまだ元服前の息子で、自身の側仕えであった北十蔵に対し、料理人を討ち果たすよう命じた。主命は絶対であり、十蔵は命令に従い料理人を討ったものの、その際に自身も深手を負い、それが元で命を落としてしまった。最愛の息子を理不尽な形で失った信景は深く嘆き悲しみ、屋敷に引き籠って出仕しなくなった。これにさらに怒った利直は信景に閉門を命じ、ついに信景は南部家を出奔するに至ったという 12 。
そして慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が勃発すると、出奔していた信景は豊臣方に味方し、「南部十左衛門信景」と名乗り、派手な甲冑を身にまとって奮戦した。その戦いぶりは「南部の光り武者」と称されるほどであったという 12 。しかし、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、信景は伊勢で捕縛され、南部家に引き渡された。そして元和元年(1615年)、盛岡において、かつての主君・利直自らの手によって処刑されるという壮絶な最期を遂げた 12 。
実弟が天下の反逆者である豊臣方に与したという事実は、徳川幕府に対する明確な反逆行為と見なされかねず、南部家は改易、すなわち領地没収という最大の危機に瀕した。この絶体絶命の窮地を脱するため、南部家は藩の存亡を賭けた一大政治工作に打って出る。それが「家系図偽造」の疑惑である 5 。
幕府からの諮問に対し、藩主・南部利直は老中・本多正純らを通じて弁明の書状を提出した。その中で、桜庭直綱の父を「又重雅楽丞なる人物」であるとし、信景とは「異父兄弟」であるかのように記述したのである 5 。これは、幕府に忠実な重臣である桜庭直綱(宗家)と、反逆者である北信景との血縁関係を薄めることで、連座の責任を回避しようとする意図があったことは明らかである。この偽装工作の痕跡は、後に編纂された桜庭家の公式な系図と、他の南部家関連文書との間で、父・光康の活動時期や妻の名前に矛盾が生じている点からも窺い知ることができる 5 。
この一連の動きは、直綱個人の判断で実行できるものではない。藩主・利直が幕府の中枢と直接やり取りしていることから、藩ぐるみで行われた組織的な政治工作であったことは疑いようがない。これは、直綱が主君から絶対的な信頼を寄せられ、藩の最も暗く、危険な任務を託されるほどの人物であったことを示している。
この時、直綱の胸中には複雑な思いが渦巻いていたであろう。弟・信景の出奔の原因が主君・利直の非情な仕打ちにあったとすれば、その主君のために、今度は自らの一族の系譜を歪めなければならない。彼の行動は、単なる「主君への忠誠」という言葉では説明できない。それは、徳川の体制下で主家である南部家を存続させるという「公」の忠誠と、自らの血族である桜庭・北両家を断絶から守るという「私」の忠誠との間で、苦渋の末に下された究極の選択であった。彼は、自家の歴史の「正統性」を犠牲にしてでも、主家と一族の「未来」を守る道を選んだのである。
興味深いことに、『祐清私記』には、徳川家康がこの件について「わざわざ遠い奥州の地から(大坂の陣に)参陣したのは叛意の無い表れである」として、北家や桜庭家の処分をしなかったという逸話が記されている 5 。これは、事実であったと同時に、南部家が後世に対し、「我々は幕府に疑われたが、家康公の英明なご判断によって許された」という公式見解を定着させるための意図的な記述であった可能性も考えられる。実際に家系図の偽造という裏工作があったとすれば、それを隠蔽し、藩の正統性を保つためには、幕府最高権力者からの「お墨付き」があったという物語が必要不可欠であった。この逸話は、南部家がこの危機をいかに乗り越え、その記憶をどのように管理し、後世に伝えていこうとしたかを示す、極めて貴重な史料と言えるだろう。
弟・信景の事件という最大の危機を乗り越えた後、桜庭直綱の人生は新たな段階に入る。戦乱の時代が終わりを告げ、盛岡藩の藩政が確立していく中で、彼は家老として重きをなし、武将としてだけでなく、藩の統治を支える政治家としての一面を強く見せるようになる。
元和元年(1615年)、直綱は盛岡藩の家老に就任する 5 。藩の公式記録である『御系譜』には、晩年は軍事のみならず「政務、財務の取締も行っていた」と記されており、藩政の草創期において、彼が軍事、行政、財政という藩政全般にわたる包括的な役割を担っていたことがわかる 5 。
その政治的重要性は、幕府との関係においても明らかである。慶長17年(1612年)、二代将軍・徳川秀忠が仙洞御所造営の普請を命じるため、江戸の南部藩邸を自ら訪れるという異例の出来事があった。この際、直綱は藩主・利直、世子・重直ら南部家一門と共に、秀忠との会談に参加している 5 。これは、彼が藩の外交や幕府との実務交渉においても中心的な立場にあったことを示している。直綱の生涯は、戦場で武功を立てることが第一であった戦国武将が、藩政の仕組みを構築し、財政や外交を担う近世的な「家老」、すなわち官僚へと役割を変えていく時代の過渡期を象徴している。
また、藩の後継者問題という極めてデリケートな案件にも、直綱は深く関与している。元和2年(1616年)、後の三代藩主となる南部重信が、利直の側室の子として閉伊郡花輪村で誕生した。この時、直綱は利直の命により「御検視」として現地に派遣され、その誕生を確認する役目を果たしている 5 。庶子であった重信の出自は、当初は公式には認められなかった。このような藩の根幹に関わる機密性の高い任務を任されたことは、直綱が藩主から公私にわたり絶対的な信頼を得ていたことを物語っている。
数々の功績を残した直綱は、元和6年(1620年)にその生涯を閉じた 5 。墓所は、一族の拠点であった青森県三戸郡南部町の三光寺にあり、墓石には「捐舘覚翁圓公居士」という戒名が刻まれている 9 。また、父・光康が平定した地であり、桜庭家と縁の深い岩手県宮古市長根の長根寺にも、宮古市指定史跡となっている桜庭家累代の墓所があり、その中に直綱の墓碑も存在する 5 。
直綱の死後、桜庭家の家督と家格は、その子孫によって堅実に受け継がれていく。家督は長男の兵助直際(なおつぐ)が継承した 2 。直際も父と共に諸陣に従軍した武将であったが、寛永6年(1629年)に没した 2 。その跡は嫡子の兵助光英が継ぎ、寛永15年(1638年)には家老に就任している。この時、光英は弟の子である昌統に300石を分地し、桜庭宗家の石高は1800石となった 2 。
その後も桜庭家は、養子縁組や石高の増減を繰り返しながらも、盛岡藩の家老職を輩出し続ける名門としての地位を維持した 2 。直綱が築いた功績と信頼という「無形の資産」は、後継者たちにとって大きな政治的資本となったのである。幕末の慶応元年(1865年)時点での石高は2161石余に達し、家格は藩主一門の御三家に次ぐ「着座高知」という最高位の家臣団に列せられていた 2 。桜庭家が藩政を通じてその影響力を維持し続けた事実は、直綱が築いた基盤がいかに強固であったかを物語っている。
代 |
当主名 |
続柄 |
石高(石) |
主な出来事・役職 |
典拠 |
祖 |
桜庭安房直綱 |
光康の嫡子 |
2,000 |
慶長5年岩崎一揆参陣、元和元年家老就任。元和6年死去。 |
2 |
2 |
桜庭兵助直際 |
直綱の嫡子 |
2,000 |
父と共に諸陣に従軍。寛永6年死去。 |
2 |
3 |
桜庭兵助光英 |
直際の嫡子 |
1,800 |
寛永15年家老就任。弟の子・昌統に300石を分地。 |
2 |
4 |
桜庭安房統任 |
光英の嫡子 |
1,800 |
寛文6年家老就任。 |
2 |
5 |
桜庭兵助統愛 |
統任の嫡子 |
2,000 |
貞享3年家老就任。元禄15年、母(妙解院)の化粧料500石を返上。 |
2 |
6 |
桜庭兵助直高 |
統愛の養子 |
1,643 → 2,147 |
宝永8年相続時に減封。享保5年、妙解院死去により化粧料500石を加増。 |
2 |
7 |
桜庭丹波統起 |
直高の養子 |
2,000 → 1,900 |
享保13年相続時に減封。享保18年、与八郎統英に100石を分地。 |
2 |
8 |
桜庭兵庫綱清 |
統起の嫡子 |
1,900 → 2,166 |
明和元年家老就任。安永2年、起目(新田開発高)により加増。 |
2 |
9 |
桜庭兵庫綱寛 |
綱清の嫡子 |
2,166 |
文化14年御番頭。文政7年死去。 |
2 |
10 |
桜庭肥後綱久 |
綱寛の嫡子 |
2,166 |
文政9年在着使者。嘉永4年死去。 |
2 |
11 |
桜庭陽之助綱清 |
綱久の嫡子 |
2,166 |
嘉永2年加判役列。安政5年死去。 |
2 |
12 |
桜庭祐橘綱忠 |
綱清の嫡子 |
2,161 |
中丸御番頭。慶応元年、寛保新田の改高により加増。 |
2 |
本報告書で詳述した各種史料に基づき、桜庭直綱という人物像を再評価するならば、彼は単に「南部四天王の一人」という勇猛な武将の枠内に収まる存在ではない。
第一に、彼は 忠誠と知略の体現者 であった。主家である南部家が九戸の乱や岩崎一揆といった存亡の危機に瀕した際には、武力をもってこれを鎮圧するだけでなく、外交交渉や政治工作においても中心的な役割を果たした。特に、弟・信景の反逆という絶体絶命の状況下で、自らの一族の系譜を歪めるという非情かつ大胆な知略をもって主家を救ったことは、封建的な主従関係における「忠誠」が、時にいかに複雑で重層的な決断を要求するかを物語っている。
第二に、彼は 時代の変革期の適応者 であった。戦国のいくさ場が主戦場であった時代から、藩政の仕組みを構築し、財政や外交を担うことが求められる近世の世へと、武士に求められる能力が大きく変化する過渡期において、直綱はその両方で卓越した能力を発揮した。彼の生涯は、盛岡藩という新たな統治機構の創設に深く関与し、その礎を築いた、まさに藩祖の一人としての側面を強く持つ。
最後に、彼は 悲劇を背負った家長 でもあった。主君の非情な命令によって息子を失い、出奔の末に反逆者となった弟の存在は、彼に計り知れない苦悩を与えたであろう。主家への忠誠と、血族の存続という相克する命題の間で、彼は極めて困難な決断を下し、結果としてその双方を守り抜いた。
桜庭直綱の生涯は、戦国から江戸へと移行する激動の時代を生きた一人の武将の生き様であると同時に、地方の外様大名がいかにして徳川の世を生き抜いたか、そして近世武家社会における「家」の存続とはいかなるものであったかを物語る、貴重な歴史的ケーススタディである。彼の名は全国的な知名度こそ高くないものの、その生涯を深く掘り下げることは、近世初期の日本の政治史・社会史を理解する上で、豊かな示唆を与えてくれるものである。