桜田元親は伊達政宗の家臣で宇和島藩創設に貢献。関ヶ原で武功を挙げたが、和霊騒動で政敵を排除し「悪役」とされた。藩の安定に尽力した功臣として再評価されるべき人物。
本報告書は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、桜田元親(さくらだ もとちか、生年不詳 - 寛永9年(1632年))の生涯を、多角的な史料分析を通じて徹底的に解明することを目的とする 1 。伊達政宗の麾下で数々の武功を重ね、後に伊予宇和島藩の創設に深く関与した元親は、その経歴において二つの異なる顔を持つ人物として知られている。
一方で、彼は伊達家の領土拡大に貢献した勇将であり、特に関ヶ原の戦いにおける白石城攻めでは、見事な陽動作戦を成功させ、その軍事的才能を証明した。しかしその一方で、伊予宇和島藩に移ってからは、藩政の主導権を巡る深刻なお家騒動「和霊騒動」の中心人物となり、政敵であった山家公頼(やんべ きんより)を死に追いやった張本人として、後世の歌舞伎や伝説では「悪役」の烙印を押されることが多い 3 。
しかし、現存する史料を丹念に読み解くと、その人物像は単純な二元論では捉えきれない複雑さを帯びている。本報告書では、伊達家譜代の武将としての輝かしい戦歴と、新興の宇和島藩で藩主の側近として権謀を振るった臣としての一面を、史料に基づき再構築する。特に、宇和島桜田家が独自に編纂した『櫻田家史』と、仙台伊達家の公式記録との比較検討を通じて、歴史記述の多層性を明らかにし、桜田元親という武将の歴史的実像に迫る。報告書は、桜田一族の出自から説き起こし、伊達政宗時代の武功、宇和島移封後の藩政への関与、和霊騒動の真相、そしてその死と一族のその後までを時系列に沿って詳述する。
桜田氏は、一族の伝承によれば越後城氏の末裔を称し、室町時代の伊達家9代当主・伊達持宗の代から伊達家に仕えたとされる、由緒ある譜代の家臣であった 3 。伊達家12代・成宗、13代・尚宗の時代には、伊達家の最高意思決定機関である「宿老」の一員を務めるなど、伊達家中において極めて高い地位を占めていたことが確認されている 5 。
その重用ぶりを具体的に示す事例として、伊達尚宗が越後上杉氏から正室を迎えた際の交渉が挙げられる。この時、桜田隠岐守が伊達家の使者として交渉の奉行を務めた記録が、桜田家が編纂した『櫻田家史』だけでなく、交渉相手である上杉家の『上杉中条家文書』にも残されており、両家の記録が一致することから、桜田氏が伊達家の外交を担うほどの重臣であったことは史実と考えられる 3 。
伊達家14代当主・伊達稙宗の時代、桜田氏は宿老の地位から外される 5 。そして、稙宗とその子・晴宗が家中の覇権を巡って争った大規模な内乱、いわゆる「天文の乱」(1542年-1548年)において、桜田一族は分裂するという悲劇に見舞われた。
『櫻田家史』によると、稙宗の命により小梁川氏から養子に入り家を継いだ桜田親茂は、主君である稙宗方についた。一方で、川俣に残った分家を含む他の家臣たちは晴宗方につき、一族は敵味方に分かれて骨肉の争いを繰り広げることとなった 5 。この内乱の過程で親茂は戦死し、乱の終結後に晴宗の命で跡を継いだ四郎右兵衛尉吉基も、分家に渡った旧領の所有権を巡って家中での私戦を起こした末に出奔した。これにより、かつて宿老を輩出した名門・桜田本家は、その勢力を著しく失い、衰退の道をたどることになった 5 。
没落した桜田家を、その武功によって再興したのが、桜田元親の父である桜田資親(すけちか)であった。資親は、出奔した吉基の次男であり、伊達家16代当主・輝宗の時代に再び家臣として取り立てられた 5 。
資親は、永禄11年(1568年)に輪王寺(現在の仙台市)の防衛戦で功績を挙げ、輝宗から旧領であった川俣の一部を安堵されている 5 。川俣町の伝承においても、資親は「勇猛を誇る」武将として河股城に拠点を構えていたと伝えられる 7 。その後、輝宗の子・政宗の代には、小手森城攻めや人取橋の戦いといった主要な合戦に従軍し、数々の武功を立てた 5 。
桜田元親は、このようにして伊達家臣として再び確固たる地位を築き上げた父・資親の子として、歴史の舞台に登場する 1 。彼の生涯は、一族の栄光と没落、そして父による再興という記憶を色濃く背負って始まったのである。この背景は、元親の行動原理を理解する上で極めて重要である。彼は単なる譜代の重臣ではなく、「一度没落し、実力で再興した家の当主」として、一族の栄光を取り戻し、その地位をさらに高めようとする強い意志を持っていたと考えられる。この野心と自負が、後の政宗の下での武功への渇望や、新天地・宇和島での権力闘争への積極的な関与につながった一因と推察される。
桜田元親が武将として初めて戦場に立ったのは、天正17年(1589年)の駒ヶ嶺城(現在の福島県新地町)防衛戦であったと記録されている 5 。同年、伊達政宗が南奥州の覇権をかけて蘆名氏・佐竹氏の連合軍と激突した摺上原の戦いにも従軍しており、若くして伊達家の存亡をかけた重要な合戦に参加し、武将としての経験を積んでいった 8 。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、伊達政宗は徳川家康方に与し、北の敵対勢力である上杉景勝領への侵攻を開始した(慶長出羽合戦)。この戦役において、桜田元親は彼の軍事的能力を最大限に発揮し、極めて重要な役割を担うこととなる。
政宗が上杉方の重要拠点である白石城(現在の宮城県白石市)を攻略するにあたり、元親は主力とは別行動をとる陽動部隊の指揮を任された。彼は部隊を率いて敵地深くに侵入し、かつての一族の拠点であった河股城(川俣城)を電撃的に奪取したのである 5 。
この作戦の戦略的価値は、河股城の地理的位置にあった。河股城は、目標である白石城を通り越し、上杉方の拠点・福島城のさらに南に位置していた。上杉軍からすれば、自領の奥深くに突如として伊達の軍勢が出現した形となり、前線の白石城と後方の福島城との連携を断たれる危機に陥った 5 。
元親は河股城を拠点とすると、さらに兵を分散させて周辺の小島、大波、飯野へも進出させ、福島城の上杉勢を公然と挑発した 5 。この動きにより、福島城および梁川城の上杉軍は元親の部隊に釘付けとなり、白石城へ救援部隊を送ることが完全に不可能となった。その結果、政宗率いる本隊は白石城を包囲後、わずか1日で守将を降伏させ、無血開城させるという大きな戦果を挙げた 9 。
陽動という最大の目的を達成した元親は、上杉軍の反撃により敵中で孤立することを冷静に判断し、深入りを避けて河股城を焼き払い、見事に味方本隊へと撤退した 11 。この一連の行動は、単なる武勇に優れた猪武者ではなく、戦局全体を俯瞰する戦略眼と、冷静な状況判断に基づく戦術遂行能力を兼ね備えた、優れた指揮官であったことを明確に示している。
関ヶ原の戦いが終結し、仙台藩が成立した後も、元親は武将として活躍を続けた。慶長7年(1602年)、仙台城の築城工事中に発生した小人(こびと、城の普請などに従事した身分の低い人々)による暴動を、重臣の鬼庭綱元と共に鎮圧するという功績を挙げている 6 。
桜田家の家史である『櫻田家史』によれば、この暴動は単なる労務者の不満によるものではなく、上杉家の家臣が潜伏して扇動した組織的な反乱であったと記されている。同史料では、元親はこの戦闘で一時自害寸前にまで追い詰められたとされており、その鎮圧が極めて困難な任務であったことがうかがえる 6 。これらの輝かしい武功により、元親は主君・政宗からの信頼を確固たるものとし、伊達家中における有力な武将として、その地位を不動のものとしたのである。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣における伊達軍の功績により、徳川幕府(二代将軍・秀忠)は伊達政宗の庶長子である伊達秀宗に対し、伊予国宇和郡に10万石の新たな領地を与えた 12 。これは、政宗が伊達本家の家督を継ぐことができない秀宗のために、幕府に強く働きかけて実現した、宇和島伊達家の分家創設であった 12 。
翌元和元年(1615年)、秀宗が新たな領地である伊予宇和島へ入部するに際し、父・政宗は藩政の基盤を固めるため、桜田元親を含む譜代の家臣団を秀宗に附属させた。この家臣団は「五十七騎」と称され、新生宇和島藩の中核を担うこととなる 2 。
この時、桜田元親は藩の軍事全般を統括する「侍大将」という重職に任命された 6 。その禄高は、自身の家禄1,700石に与力(配下の武士)分250石を加えた、合計1,950石という破格の待遇であった 16 。これは、仙台から附属された家臣団の中でも最高位の知行であり、父・政宗と新藩主・秀宗の双方から寄せられた期待がいかに大きかったかを物語っている。
宇和島藩の草創期の藩政は、政宗によって選抜され、仙台から送り込まれたこの家臣団によって運営された。その中でも、藩の軍事を統括する侍大将・桜田元親と、財政・民政の全てを取り仕切る惣奉行・山家公頼が、藩政を動かす二人の中心人物であった 12 。
この二人の存在は、当初は藩政を支える両輪として機能したが、やがてその政策や思想の違いから、後の宇和島藩を揺るがす深刻な対立の火種となっていく。元親の宇和島移封は、彼の武将としてのキャリアの頂点であったと同時に、彼を仙台伊達本家という巨大な権力構造から切り離し、新興の小藩における剥き出しの権力闘争の舞台へと引きずり込む結果となった。仙台藩では数多いる有能な武将の一人に過ぎなかったが、宇和島藩では藩主秀宗に次ぐ軍事の最高責任者となり、その権限と責任は格段に増大した。しかし、藩の財政は仙台藩からの6万両もの借金に依存するなど極めて脆弱であり、財政再建を担う山家公頼の権限もまた絶大であった 19 。この状況は、軍事(桜田)と財政(山家)のトップが、限られた藩のリソースを巡って対立せざるを得ない構造を、当初から内包していたのである。
藩主秀宗を支える二大巨頭、桜田元親と山家公頼の藩内における立場、役割、そして禄高を比較することで、両者の力関係と、その後の対立構造の背景を以下に示す。この表は、両者が藩の軍事と民政・財政という、国家運営の根幹を分担する同格に近い存在であったことを示しており、路線対立が生じた際に妥協が難しく、深刻な政争に発展しやすい危険性を内包していたことを示唆している。
家臣名 |
役職 |
禄高(推定) |
背景・役割 |
典拠 |
桜田 元親 |
侍大将 |
1,950石(家禄1,700石、与力分250石) |
伊達家譜代の武将。藩の軍事全般を統括する武功派の筆頭。 |
12 |
山家 公頼 |
惣奉行(筆頭家老) |
不明だが元親に匹敵する高禄と推定 |
元は最上氏家臣。藩の財政・民政を統括する文治派。父・政宗の信任が厚い。 |
12 |
桜田元親と山家公頼との対立は、単なる個人的な感情のもつれではなく、藩政運営の基本方針を巡る深刻な路線対立に根差していた。惣奉行であった山家公頼は、仙台本家からの借金返済と脆弱な藩財政の健全化を最優先課題とし、領民の負担を軽減しつつ、藩全体に厳しい倹約令を敷いて財政再建を進めた 20 。
この政策の中で、特に軍事費を大幅に削減したことは、侍大将である元親をはじめとする武功派の家臣たちから猛烈な反発を招いた 21 。彼らにとって、軍備の縮小は藩の武威を損ない、武士としての存在意義を揺るがす、到底容認できないものであった。
両者の対立が決定的なものとなったのは、元和6年(1620年)に幕府から宇和島藩に命じられた大坂城修築普請であった。この工事の現場責任者であった元親(あるいはその一派)は、国元で財政の全権を握る公頼が、必要経費以外の支出を厳しく抑制したことに対し、面目を潰されたとして強い不満と憎悪を抱いたとされている 22 。
さらに、両者の関係を複雑にしたのは、藩主・秀宗と公頼との関係であった。公頼は、父・政宗が若き秀宗を監視するために送り込んだ「お目付役」としての側面も持っており、秀宗の浪費癖などを度々諫め、その行状を逐一政宗に報告していた 13 。そのため、秀宗にとって公頼は次第に煙たい存在となり、自らの意向を肯定する桜田元親を重用するようになっていった 13 。こうして、藩主・秀宗と侍大将・元親の利害が、反・山家公頼という一点で一致することになったのである。
元和6年6月29日(1620年7月28日)の深夜、藩主・伊達秀宗の命令を受けたとされる桜田元親の一派が、山家公頼の屋敷を襲撃した 2 。この襲撃により、公頼本人だけでなく、彼の次男と三男、そして隣家に住んでいた娘婿の塩谷内匠とその子供たちも惨殺された。特に、公頼のわずか9歳の四男は井戸に投げ込まれて殺害されるという、凄惨を極める事件となった 8 。
この事件は、後に「和霊騒動」と呼ばれ、江戸時代に上演された歌舞伎『君臣船浪宇和島』などでは、桜田元親一派の私怨による暴走として描かれた 3 。しかし、複数の史料は、この襲撃が藩主・秀宗の意向を受けた公式な「上意討ち(御成敗)」であったことを強く示唆している 3 。つまり元親は、主君の意を汲んで政敵を合法的に排除する、実行者としての役割を担ったのである。
なお、事件当日、元親自身は大坂に滞在中で宇和島には不在であったという説も存在する 13 。これが事実であれば、彼は直接手を下したわけではなく、自らの一派に指示を与えた首謀者という立場になる。いずれにせよ、この粛清劇の背後に元親の強い意志があったことは疑いようがない。
藩主・秀宗は、この重大事件を父・政宗に報告しなかった。やがて事件が政宗の知るところとなると、政宗は激怒し、秀宗を勘当した 19 。この一件は、宇和島伊達家と仙台本家の間に深刻な亀裂を生み、その後の関係を長く冷却化させる原因となった 14 。
事件後、宇和島藩では不可解な災厄が続発した。公頼殺害に関与した者たちが次々と落雷や海難事故で変死を遂げ、領内では大地震や飢饉が頻発し、さらには藩主・秀宗の子息までもが相次いで早世した 8 。
領民たちはこれを「山家公頼の祟り」であると恐れ、その怨霊を鎮めるために、承応2年(1653年)、秀宗の命により和霊神社が創建された 8 。この強力な「祟り」の物語の中で、桜田元親の死もまた、公頼の怨霊による「変死」として語り継がれることになったのである。この「祟り」の伝説は、血腥い政治的粛清の記憶を超自然的な物語へと昇華させる機能を果たした。これにより、藩主・秀宗の直接的な責任は曖昧にされ、藩内の動揺を鎮め、新たに生まれた和霊信仰による統治の安定化を図るという、高度な政治的効果をもたらした可能性が指摘できる。
桜田元親は、和霊騒動から12年後の寛永9年(1632年)に死去した 1 。彼の死は、宇和島で形成された和霊信仰の文脈において、山家公頼の「祟りによる変死」として一括りに語られることが非常に多い 26 。
しかし、その死について全く異なる様相を伝える、極めて貴重な史料が存在する。同時代の大名である肥前平戸藩主・松浦鎮信が編纂した見聞録『武功雑記』の巻十七には、桜田元親の最期について次のような記述が残されている。「(建物が崩壊するなどの)危険が迫った際、元親は周囲の者たちをまず避難させた。その上で、自分はただ一人その場に残り、法要を続けていたところ、姿勢を少しも崩さぬまま圧死した」という内容である 6 。
この記述は、元親が祟りに怯えることなく、動乱に際しても冷静さを失わず、武士として、また信仰心ある人間として、威厳を保ったまま死を迎えた姿を伝えている。これは、宇和島のローカルな「祟り物語」とは一線を画す、他藩の大名による客観的な評価と見なすことができ、元親の人物像を再考する上で決定的に重要である。
元親の死後、桜田家の家督相続は、近世武家の家の存続戦略を示す典型的な事例となった。元親には当時、家を継ぐべき男子がいなかったため、娘婿であった桜田監物親宣(ちかのぶ)が家督を相続した 17 。これは、血筋の断絶による家の取り潰し(改易)を防ぐため、江戸時代に広く行われた「婿養子」による家督継承であった。
しかし、奇しくも元親が亡くなったのと同じ年に、実子である数馬(後の親茂(ちかしげ))が誕生した 17 。長じた数馬(親茂)は、婿養子が継いだ本家を相続するのではなく、承応元年(1652年)に藩主・秀宗から新たに1,000石の知行を与えられ、分家を創設することが許された 16 。これにより、婿養子・監物親宣の系統を本家(大桜田)、実子・親茂の系統を分家(中桜田)とする体制が確立した。この措置は、一度定まった家督相続を覆すことによる家中の混乱を避けつつ、藩の創設功臣である元親の直系の血筋も重んじ、別家として厚遇するという、藩主家の巧みな人事政策であったと考えられる。
和霊騒動という大きな政争の中心にありながら、桜田家はその後も宇和島藩の中核を担い続けた。本家・分家ともに代々家老職を世襲し、幕末維新の動乱期には藩兵を率いて活躍するなど、藩政において重きをなした 3 。この事実は、藩主家にとって桜田家が、騒動の責任を負うべき「悪臣」ではなく、藩の創設と維持に不可欠な「功臣」として認識され続けていたことを意味する。最終的に桜田一族は、大桜田、中桜田、小桜田の三家に分かれ、宇和島藩士として存続した 16 。一族の菩提寺は、宇和島市内の臨済宗妙心寺派の寺院である大隆寺や等覚寺などであったと伝えられている 30 。
宇和島に移った桜田家は、独自の家史である『櫻田家史』を編纂した 3 。この史料は、仙台伊達本家の公式記録である『伊達正統世次考』や『伊達世臣家譜』などには採録されなかった、一族独自の視点からの情報や伝承を含む貴重なものである 3 。
例えば、伊達政宗の幼名を一般的に知られる「梵天丸」ではなく、「孫呉丸」と記述している点は、他の史料には見られない独自の伝承である 3 。また、伊達尚宗の家督相続を巡る内紛において、桜田氏が尚宗を擁立する側に立って戦ったことなど、本家の記録からは窺い知れない情報も含まれている 3 。
一方で、合戦の年号の誤りなどが散見されるため、その記述は仙台藩の記録や他の一次史料と照らし合わせ、批判的に検討する必要がある 3 。『櫻田家史』の存在は、歴史が単一の「事実」の集合体ではなく、異なる立場や記憶を持つ人々によって多様に記述され、継承されるものであることを示す好例と言える。
桜田元親の生涯を多角的に検証した結果、その人物像は、従来の「悪役」という一面的な評価では到底捉えきれない、複雑で重層的なものであったことが明らかになった。
彼はまず、伊達政宗の麾下において、戦略眼に長けた極めて有能な武将であった。特に白石城攻略で見せた陽動作戦の遂行能力は、彼の軍事的才能を雄弁に物語っており、その武功によって没落した一族を再興するための礎を築いた。
新天地である伊予宇和島では、侍大将として藩の軍事を一手に担うという重責を任された。しかし、藩政の主導権を巡り、財政再建を推し進める惣奉行・山家公頼と激しく対立。最終的に、自らの藩内での影響力確保と、主君・伊達秀宗の意向を汲む形で、政敵を武力で排除するという苛烈な手段を行使した。彼の生涯は、戦国乱世の気風を残す武勇と、近世初期の藩体制確立期における冷徹な権謀術数の両方を体現している。
彼の歴史的評価は、事件直後から形成された「和霊信仰」の文脈に大きく影響されてきた。この物語の中で、元親は祟りを招いた張本人として「悪役」に位置づけられた。この物語は、藩主・秀宗の直接的な責任を覆い隠し、血腥い粛清によって生じた社会の動揺を鎮める上で、極めて有効に機能した。しかし、『武功雑記』が伝える彼の威厳ある最期や、和霊騒動の後も桜田一族が藩内で重用され続けたという史実を鑑みれば、この評価はあまりに一面的である。彼は、主君の命令に忠実に従い、藩の創設という困難な事業に身を投じた、功罪併せ持つ複雑な人物として再評価されるべきであろう。
結論として、桜田元親の生涯は、一人の武将の物語に留まるものではない。それは、伊達家という巨大な権門から分かたれた支藩が、いかにして自立の道を歩んだかという草創期の苦闘の記録であり、武断政治から文治政治へと移行する時代の狭間で、武士たちが如何なる選択を迫られたかを示す生きた証言である。彼の武功と権謀、そしてその後の運命を丹念に追うことは、近世初期の政治史と社会史を深く理解するための一つの鍵となるだろう。