森可春は戦国から江戸初期の武将。大坂夏の陣で武功を挙げ、津山藩家老として藩政と外交で活躍。泰平の世の武士像を体現し、森家の礎を築いた。
森一族と聞けば、多くの人々が想起するのは、戦国の世を駆け抜けた猛々しい武将たちの姿であろう。織田信長の家臣としてその名を轟かせ、近江の地で散った知勇兼備の将、森可成 1 。その子にして「鬼武蔵」と畏怖され、小牧・長久手の戦いで若き命を燃やし尽くした森長可 2 。そして、信長の寵愛を受け、本能寺にて主君と運命を共にした森蘭丸(成利)ら三兄弟 4 。彼らの生涯は、まさしく「武」を以て家名を高め、動乱の時代を象徴するものであった。
しかし、本報告書が主題とする森可春(もり よしはる)は、こうした森一族の一般的なイメージとは一線を画す、いわば「異色の武士」である。彼の生きた時代は、戦国の残り香が燻る安土桃山時代から、徳川幕藩体制が盤石となる江戸時代初期へと移り変わる、まさに歴史の転換期であった。この新たな時代において、武士に求められる資質は、戦場での武勇のみならず、政治、外交、儀礼といった、いわゆる「文」の能力へと大きくシフトしていく。森可春の生涯は、この時代の要請に応え、吏僚(りりょう)としての才覚を以て主家と自らの家を支えた、新時代の武士の姿を体現するものであった。
本報告書は、森可春という一人の武士の生涯を、その出自から晩年に至るまで詳細に追うものである。同時に、彼の個々の事績を、美作津山藩森家という藩レベルのミクロな視点と、徳川幕府が確立していく天下泰平というマクロな視点の双方から分析し、その歴史的意義を多角的に解き明かすことを目的とする。戦国の血脈を受け継ぎながらも、泰平の世の礎を築くために奔走した森可春の実像に迫ることで、近世初期における武士のあり方の一端を明らかにしたい。
西暦(和暦) |
可春の年齢 |
森可春の事績 |
関連する歴史上の出来事 |
1594年(文禄3年) |
1歳 |
父・森可政の四男として誕生 6 。 |
豊臣秀吉による太閤検地が進行中。 |
1612年(慶長17年) |
19歳 |
父・可政と共に美作津山藩主・森忠政に仕官。父とは別に3,000石を与えられる 6 。 |
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見。 |
1615年(慶長20年/元和元年) |
22歳 |
大坂夏の陣に初陣。豊臣方の武将・布施屋飛騨守を討ち取る武功を挙げる 6 。 |
大坂夏の陣により豊臣氏が滅亡。元号が元和となる。 |
1623年(元和9年) |
30歳 |
父・可政が死去。遺領の一部を相続し、合計7,000石の家老となる 6 。 |
徳川家光が第3代将軍に就任。 |
1626年(寛永3年) |
33歳 |
森忠広と徳川秀忠養女・亀鶴姫の婚儀で、「貝桶渡し」の受け取り役を務める 6 。 |
後水尾天皇が譲位(明正天皇が即位)。 |
1630年(寛永7年) |
37歳 |
唯一の男子である息子(越後守)が17歳で早世 6 。 |
|
1634年(寛永11年) |
41歳 |
藩主・忠政の死去に伴い、新藩主・長継の家督相続御礼言上の使者として将軍家光に拝謁 6 。 |
藩主・森忠政が死去。森長継が家督を継ぐ。 |
1638年(寛永15年) |
45歳 |
改易された松倉勝家の身柄引き渡しに際し、幕府からの使者の饗応役を務める 6 。 |
島原の乱が終結。 |
1651年(慶安4年) |
58歳 |
8月9日、死去。享年58 6 。 |
由井正雪の乱(慶安の変)が発覚。 |
森可春という人物を理解するためには、まず彼が背負った森一族の歴史と、特にその父・森可政(もり よしまさ)が歩んだ特異な道程を深く知る必要がある。可春の資質や生涯の選択は、この血脈と父の生き様から多大な影響を受けているからである。
可春の祖父にあたる森可成は、尾張の織田信長に早くから仕え、槍の名手として数々の戦で功績を挙げた武将であった 1 。その功により美濃金山城主となり、知勇兼備の将として信長の信頼も厚かったが、元亀元年(1570年)、浅井・朝倉連合軍との宇佐山城の戦いで壮絶な戦死を遂げた 1 。
可成の死後、家督を継いだのは次男の森長可である。彼は父譲りの武勇に苛烈な気性を併せ持ち、「鬼武蔵」の異名で敵味方から畏怖された 2 。信長の甲州征伐では先鋒として目覚ましい活躍を見せたが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、徳川軍の銃弾に倒れ、27歳の若さでこの世を去った 12 。
さらに、森家にとって最大の悲劇は、天正10年(1582年)の本能寺の変である。信長の小姓として側に仕えていた可成の三男・成利(蘭丸)、四男・長隆(坊丸)、五男・長氏(力丸)の三兄弟が、主君信長を守って明智光秀の軍勢と戦い、全員が討死した 4 。
相次ぐ当主や後継者候補の戦死により、森宗家は断絶の危機に瀕した。この窮地の中で家督を継承したのが、可成の六男であり末子であった森忠政である。彼は兄たちとは異なり、豊臣秀吉、そして徳川家康の時代を巧みに生き抜き、関ヶ原の戦いの功績によって美作一国18万6千石余を与えられ、津山藩初代藩主となった 7 。森可春の主君となる人物である。
森可春の父・可政は、永禄3年(1560年)頃、森可行(可成の父)の子として生まれた 9 。兄である可成とは37歳もの年齢差があり、可成の子である長可や蘭丸よりも年下という、複雑な立場にあった 14 。
当初、可政は甥である当主・長可を補佐していたが、本能寺の変後の混乱期に両者の関係は悪化する。甲賀衆を用いて安土城から人質(長可の母・妙向尼と弟・忠政)を救出する際、長可が可政の娘(於鍋)を城内に見捨てたことに憤慨し、森家を出奔したのである 9 。
出奔後の可政は、天下人となりつつあった羽柴秀吉に仕え、その親衛隊ともいえる黄母衣衆(きぼろしゅう)の一員に抜擢されるなど、その能力を高く評価された 14 。文禄・慶長の役にも従軍し、釜山城攻略などで武功を挙げている 9 。しかし、彼の真骨頂は単なる武勇ではなかった。秀吉の生前から次代の覇者と目される徳川家康に接近し、次男の可澄を徳川家に仕えさせるなど、先見の明に基づいた巧みな政治的立ち回りを見せた 14 。関ヶ原の戦いでは迷わず東軍に属して戦功を挙げ、戦後、家康の直臣となっている 9 。
可政の生涯は、戦国の猛将然とした兄・可成や甥・長可とは対照的である。彼は主家との不和、出奔、新主君への仕官、そして時代の流れを読んで巧みに主筋を変えるといった、激動の時代を生き抜くための政治力と処世術を身につけていた。この父の生き様こそ、可春のキャリアの原型、いわば青写真となったのである。可春が後に見せる外交や儀礼における手腕は、戦場で槍を振るうだけではない、この父から受け継いだ「泰平の世を生きるためのスキルセット」であったと言えよう。
森可春は、文禄3年(1594年)、森可政の四男として生を受けた 6 。父・可政が豊臣秀吉の家臣として活躍し、まさにその政治的手腕を発揮していた時期である。母は高木左吉の娘。兄弟には、長兄・重政、次兄・可澄、三兄・成正、そして弟に正次、正信がいた 6 。可春は、戦国の動乱が終焉を迎え、新たな秩序が形成されつつある時代の中に生を受けた、新世代の武士であった。
父・可政が歩んだ複雑な道のりは、結果として息子・可春のキャリアに異例ともいえる好機をもたらすことになった。津山藩への仕官は、可春の生涯を決定づける重要な転機であり、その始まりから彼は特別な期待を寄せられていたことがうかがえる。
慶長17年(1612年)、津山藩主・森忠政は、長年疎遠であった叔父・可政の森宗家への復帰を熱心に働きかけた 9 。忠政にとって、父・可成の弟であり、徳川家康の直臣として幕府にも通じている可政の存在は、新たに立藩した津山藩の基盤を固める上で不可欠なものであった 7 。忠政の熱意に応え、可政は18年ぶりに森宗家に帰参。執政(家老筆頭)の職と5,000石(後に7,000石に加増)の知行を与えられるという破格の待遇で迎えられた 9 。
この時、可春は2人の弟、正次と正信と共に父に従い、美作津山へと赴き、森忠政に仕えることとなった 6 。時に可春、19歳。彼にとって、ここが武士としての人生の本格的な出発点となった。
この仕官に際し、森可春は他の兄弟とは一線を画す、極めて異例の待遇を受けた。父・可政に与えられた知行とは別に、可春個人に3,000石という広大な所領が与えられたのである 6 。これは単なる給与としての米の支給(蔵米取)ではなく、家臣を抱え、土地を支配する独立した知行地(地方知行)であり、19歳の青年、しかも藩主の直接の家臣となって間もない者への待遇としては、まさに破格であった。
この異例の抜擢の裏には、藩主・森忠政の深謀遠慮があったと考えられる。忠政は、美作一国という広大な領地を得たばかりであり、藩内の統治体制を早急に確立する必要に迫られていた 13 。その中で、最も重要な課題の一つが、長年の確執を経て復帰させた叔父・可政とその一族を、完全に藩の中枢に組み込み、その忠誠心を確固たるものにすることであった。
忠政は、経験豊富な可政に執政という最高の地位と高禄を与えることで、その能力と経験を藩経営に活かそうとした。それに加え、可政の後継者と目される四男・可春を特別に厚遇し、独立した大身の家臣として取り立てることで、二重の布石を打ったのである。これは、単に可政個人への信頼を示すだけでなく、「可政の血筋そのものを、次世代にわたって森宗家は重用する」という強力なメッセージであった。可春を父とは別の、忠政直属の重臣として遇することで、可政一族の忠誠心を未来永劫にわたって津山藩に繋ぎ止めようとしたのである。この3,000石は、可春の将来性に対する期待であると同時に、藩の安泰を願う忠政の高度な政治的判断に基づく戦略的投資であったと言えよう。
藩主・忠政からの並々ならぬ期待を背負って津山藩士となった森可春に、その真価を証明する機会が早くも訪れる。徳川と豊臣の最終決戦、大坂の陣である。この戦いは、可春にとって武士としての門出であると同時に、彼の武勇を世に知らしめる絶好の舞台となった。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣を経て、翌慶長20年(1615年)4月、大坂夏の陣が勃発した 15 。講和条件によって大坂城の堀を埋められ、裸城同然となった豊臣方は、城外での決戦に最後の望みを託した 17 。津山藩主・森忠政は徳川方としてこの決戦に参陣し、22歳となっていた森可春も忠政の軍勢に加わって従軍した。これが可春にとっての初陣(ういじん)であった 6 。
武士にとって初陣は、その後の評価を大きく左右する重要な儀式である。特に、可春のように仕官の当初から破格の待遇を受けていた者にとっては、その期待に応える武功を挙げることが強く求められていた。
決戦の火蓋が切られると、森可春は初陣の緊張をものともせず、大いに奮戦した。そして、この戦の最中、彼は豊臣方の武将「布施屋飛騨守(ふせや ひだのかみ)」を討ち取るという、大きな武功を挙げたのである 6 。
この戦功は高く評価され、可春は戦後に500石を加増された。これにより、彼の知行は3,500石となり、津山藩内における彼の地位はさらに盤石なものとなった 6 。初陣で明確な武功を立てたことは、彼が単に血筋や縁故だけで厚遇されているのではなく、一人の武士として優れた資質を持っていることを内外に証明するものであった。
森可春が討ち取った布施屋飛騨守(史料によっては伏屋とも記される)は、決して無名の雑兵ではなかった。彼の経歴を追うと、この武功がいかに価値の高いものであったかが明らかになる。
布施屋飛騨守は、豊臣秀頼に仕える1,100石取りの家臣であり、豊臣政権の中枢に関わる重臣クラスの人物であった 8 。慶長11年(1606年)に徳川幕府が主導した江戸城の公儀普請(公共工事)においては、豊臣家の普請奉行として派遣されており、これは彼が豊臣公儀における重要な役割を担っていたことを示している 8 。さらに、大坂の陣が始まる直前の慶長19年(1619年)、豊臣家と徳川家の間を取り持とうとした片桐且元が城内急進派によって追放される事件が起きたが、この際に且元の所領を没収する指揮を執ったのが、大野治長とこの布施屋飛騨守であった 18 。
つまり、布施屋飛騨守は、単なる一武将ではなく、豊臣政権の重要政策の執行に関与する高級官僚(吏僚)だったのである。このような大物を、初陣の若武者であった可春が討ち取ったことの意義は計り知れない。これは単に「敵将の首を挙げた」という武功に留まらず、敵陣の指揮系統にいた重要人物を排除したという戦略的な意味合いも持つ。
この華々しい初陣は、藩主・忠政の期待に見事に応えるものであった。3,000石という破格の待遇が、決して過大評価ではなかったことを、可春は自らの槍働きで証明して見せたのである。この戦功は、彼の武士としての名声を確立し、その後の藩内での発言力を揺るぎないものにする上で、決定的な役割を果たした。
大坂の陣での鮮烈なデビューは、森可春の藩内における地位を不動のものとした。武勇を以て期待に応えた彼は、父・可政の死を契機に、名実ともに津山藩の中枢を担う重鎮、家老へと昇進する。ここから彼のキャリアは、軍事的な側面よりも、藩政の運営や外交といった、より高度な政治的手腕が求められる領域へと移行していく。
元和9年(1623年)、父・森可政が64歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた 9 。津山藩の執政として、藩主・忠政を支え続けた功臣の死であった。
可政の死後、その遺領である7,000石は息子たちに分与されることになった。この時、可春は遺領の中から3,500石を相続した 6 。これにより、彼が元々拝領していた3,500石と合わせて、知行は合計7,000石に達した。この石高は、大藩である津山藩においても最高位の家臣に匹敵するものであり、可春はこの家禄をもって正式に家老職に就任した 6 。時に30歳。若くして藩政の最高責任者の一人となったのである。
家老としての可春の役割は多岐にわたった。藩主・森忠政の補佐役として藩の統治全般に関与し、軍事はもちろんのこと、財政、民政、そして後述する対外的な折衝や儀礼の執行まで、その職責は広範であった。
特に可春の家系は、藩主一門という特別な血縁的地位に加え、父・可政の代から徳川幕府と直接的な繋がりを持っていたという点で、他の家老とは異なる独自の立場にあった。この背景は、幕府との関係が藩の存続に直結する江戸時代において、彼の藩内での重要性を一層高める要因となったと考えられる。彼は、津山藩と幕府、あるいは他藩とを繋ぐ重要なパイプ役としての役割を期待されていたのである。
森可春の生涯と、彼が下した重要な決断を理解するためには、その家族構成、特に後継者に関する問題を把握することが不可欠である。
コード スニペット
graph TD
subgraph 森一族
Mori_Yoshimasa[森可政<br/>(可春の父)<br/>高木左吉の娘 (母)]
Mori_Kasumi[森可澄<br/>(可春の兄)]
Mori_Yoshiharu[<b>森可春</b>]
Wife[妻: 高木義政の娘]
Mori_Mitsunobu[森三信<br/>(可澄の次男、可春の養子)]
Nagatsugu_Sister[於長<br/>(2代藩主 森長継の妹)]
Mori_Yoshimasa --> Mori_Kasumi
Mori_Yoshimasa --> Mori_Yoshiharu
Mori_Yoshiharu -- 婚姻 --> Wife
Mori_Kasumi --> Mori_Mitsunobu
Mori_Yoshiharu -. 養子縁組.-> Mori_Mitsunobu
Mori_Mitsunobu -- 婚姻 --> Nagatsugu_Sister
subgraph 可春の子
Son[息子: 越後守<br/>(早世)]
Daughter1[娘<br/>(佐藤権平室)]
Daughter2[娘<br/>(吉原重秋室)]
end
Wife --> Son
Wife --> Daughter1
Wife --> Daughter2
end
この系図が示すように、可春は男子に恵まれながらもその後継者を失うという悲劇に見舞われる。しかし、彼は家の存続のために巧みな手を打ち、自らの家系を藩主家とより強固に結びつけることに成功するのである。
家老となった森可春の真価が最も発揮されたのは、戦場ではなく、華やかな儀礼と緊迫した外交の舞台であった。戦国の世が終わり、武士の価値基準が「武功」から「吏才」へと転換する中で、可春は時代の要請に完璧に応える能力を示した。特に、将軍家との縁組に際して彼が果たした役割は、そのキャリアの頂点を示すものであった。
寛永3年(1626年)、美作津山藩にとって、その将来を左右するほどの極めて重要な政略結婚が執り行われた。藩主・森忠政の三男で嫡子となっていた森忠広と、時の将軍・徳川秀忠の養女である亀鶴姫(きかくひめ)との婚姻である 6 。
この亀鶴姫の血筋は、当代随一のものであった。彼女は加賀百万石の藩主・前田利常の長女であり、その母は秀忠の次女・珠姫であった。つまり、亀鶴姫は将軍・秀忠と正室・お江の方にとっての初孫にあたる 10 。この婚姻は、外様大名である森家が、徳川将軍家、そして御三家に次ぐ大々名である前田家と、三重の姻戚関係で結ばれることを意味した。これは最高の栄誉であると同時に、藩の安泰を未来永劫にわたって保障する、この上ない政治的成功であった 19 。
この世紀の婚儀において、森可春は生涯で最も重要な役目を担うこととなる。それは「貝桶渡し(かいおけわたし)」の儀における、森家側の受け取り役であった 6 。
「貝桶」とは、蛤(はまぐり)の貝殻を用いた遊戯「貝合わせ」の道具一式を納める、八角形の華麗な蒔絵が施された桶のことである。蛤の貝殻は、元の一対でなければ決してぴったりと合わないことから、夫婦和合や貞節の象徴とされた 20 。そのため、貝桶は数ある婚礼調度の中でも最も重要な意味を持つとされ、大名家の嫁入り行列では先頭を行くのが慣わしであった 22 。
そして、行列が婚家に到着した際、まず最初に行われるのが、この貝桶を花嫁側から花婿側へと正式に引き渡す「貝桶渡し」の儀式である 24 。この儀式は、単なる道具の受け渡しではない。花嫁を正式に迎え入れ、両家の縁組が成立したことを内外に示す、極めて象徴的で厳粛なものであった。そのため、この大役は、両家の家老の中でも筆頭格の、最も信頼篤く、儀礼に通じた重臣が務めるのが通例であった 22 。
この婚儀は、相手が将軍家の孫姫である。その儀式における失敗は、徳川家と前田家の双方に対する重大な侮辱となり、藩の命運を揺るがしかねない。そのような計り知れない重圧のかかる大役を、森可春は拝命したのである。彼がこの役に選ばれたという事実は、この時点で彼が、津山藩において儀礼・典礼に関する第一人者であり、藩主・忠政から絶対的な信頼を寄せられていたことを何よりも雄弁に物語っている。大坂の陣での武功もさることながら、平和な時代における藩の顔として、徳川の宮廷儀礼という複雑な世界を完璧に渡り歩く能力こそ、可春の真の価値であった。この「貝桶渡し」の大役は、戦国の遺風を残す武士から、泰平の世を治める吏僚へと進化した、新時代の武士としての彼の完成を象徴する出来事であった。
可春の外交的手腕は、この一度きりの大舞台に留まるものではなかった。彼は家老として、藩の「顔」となり、幕府や他藩との様々な折衝の任にあたっている。
これらの事績は、森可春が津山藩の外交責任者として、藩主から全幅の信頼を置かれていたことを示している。
藩の重鎮として多忙な日々を送る一方、森可春は自身の家の存続という、武士の当主として最も重要な課題に直面することになる。彼はここでもまた、卓越した先見性と戦略的な手腕を発揮し、自らの家系に確固たる未来を築き上げた。
可春は、妻・高木義政の娘との間に、二人の娘と一人の息子を儲けた 6 。娘たちはそれぞれ、津山藩士の佐藤権平と吉原重秋に嫁ぎ、家臣団との結びつきを強める役割を果たした 6 。
しかし、可春家にとって大きな悲劇が訪れる。待望の跡継ぎであった唯一の男子、通称・越後守(えちごのかみ、諱は不明)が、寛永7年(1630年)に17歳という若さで早世してしまったのである 6 。これにより、可春の家は断絶の危機に瀕した。武士の家にとって、跡継ぎを失うことは家の終わりを意味する。可春は、早急に後継者を定め、家を存続させるという重大な決断を迫られた。
この危機に際し、可春は兄である森可澄の次男・三信(みつのぶ)を養子として迎え、後継者とすることを決めた 6 。甥を養子に迎えることは、血筋の近さから当時はごく一般的に行われていた相続方法である。可春はこれにより、ひとまず家の断絶という最悪の事態を回避した。
しかし、彼の深慮はそれだけでは終わらなかった。可春は、この養子縁組を単なる家督相続に留めず、自らの家系を藩内でより一層盤石なものにするための戦略的な一手に昇華させたのである。彼の養子となった三信は、後に津山藩2代藩主・森長継の妹である於長(おちょう)を正室に迎えた 26 。
この婚姻の意義は計り知れない。これにより、可春の家(の分家)は、藩主・森長継の義弟の家という立場になったのである。つまり、単なる重臣の家から、藩主家の外戚(母方または妻方の親族)という、極めて特別な地位へと飛躍を遂げたのだ。これは、可春が長年にわたって藩に尽くしてきた功績と、藩主からの絶大な信頼がなければ到底実現不可能な縁組であった。彼は、自らが直面した跡継ぎの危機を逆手にとり、巧みな政治力で、自らの家系の未来に最高の栄誉と安定をもたらしたのである。これは、忠実な家臣であると同時に、自らの家を巧みに経営する「家長」としての、可春のもう一つの顔を示す逸話である。
次代への布石を打ち終えた森可春は、慶安4年(1651年)8月9日、突如として体の痛みを訴え、そのまま息を引き取った。享年58 6 。戦国の動乱の終焉を見届け、徳川の泰平の世の確立に貢献したその生涯は、静かに幕を閉じた。
戒名は「法雲院殿前岳道忠居士(ほううんいんでんぜんがくどうちゅうこじ)」 6 。墓所は、京都の建仁寺およびその塔頭である常光院にあると伝えられている 6 。また、津山藩森家の菩提寺である岡山県津山市の本源寺には、藩主一門の壮大な墓所が築かれており 27 、一族の霊はここに祀られている。
森可春は、その祖父・可成や従兄・長可、蘭丸のように、物語や伝説の主人公として華々しく語られるタイプの武将ではない。彼の名は、歴史の教科書に大きく記されることも稀である。しかし、彼の生涯を丹念に追うことで、戦国から江戸へと移行する時代の大きなうねりの中で、一人の武士が果たした極めて重要な役割が浮かび上がってくる。
森可春の生涯は、森一族という一つの武家が、戦国の荒波を乗り越え、近世大名として徳川の世で生き残り、繁栄していくための「変容」そのものを象徴している。彼の祖父や従兄たちが、その卓越した「武」の力によって森家の礎を築いたとすれば、可春は、その上に立つ「文」の力、すなわち政治力、外交力、そして儀礼の実践能力によって、家を盤石なものにした。彼は、戦国武士の血脈を受け継ぎながらも、泰平の世が求める新しい武士像を自ら体現し、一族を新時代に適応させるための架け橋となったのである。
大坂夏の陣における布施屋飛騨守討伐の武功は、可春が戦国の武士としての優れた素養を確かに備えていたことを証明している。彼は、いざという時には槍を手に取り、敵将の首を挙げることのできる武人であった。しかし、彼の真価は、その後の平和な時代においてこそ発揮された。
将軍家との縁組という、藩の命運を賭けた一大事業において、「貝桶渡し」という儀礼の華やかさと政治的重圧が交差する舞台で大役を果たした手腕。幕府の命令を円滑に遂行し、有力大名との関係を良好に保つための、細やかで粘り強い外交能力。これらこそ、18万石余の津山藩の安定と発展に不可欠なものであった。彼は、江戸時代に数多く現れる「吏僚派武士」の、まさに典型であり、その先駆けともいえる存在であった。
森可春は、歴史の表舞台に立つ英雄ではないかもしれない。しかし、彼の堅実な働きと、時代の変化を的確に捉え、自らをそれに適応させていく冷静な判断力は、戦国大名から近世大名へと脱皮する過程にあった森家にとって、まさに「礎石」となる重要性を持っていた。彼は、武勇一辺倒ではない、新たな時代が求めた武士の理想像を、その生涯をもって静かに、しかし明確に示した人物として、再評価されるべきである。彼の存在なくして、美作津山藩森家の泰平はなかったと言っても過言ではないだろう。