森好之は筒井順慶の姻戚で宿老。天正9年(1581年)に病没。筒井定次への仕官や帰農の逸話は、息子の好高の生涯が混同された可能性が高い。
大和国(現在の奈良県)の戦国大名・筒井氏。その栄枯盛衰を語る上で、島清興(左近)や松倉重信(右近)と並び、「筒井家三老臣」の一人としてその名を馳せた武将がいる。森好之、官途名は志摩守 1 。彼の名は、筒井家を支えた忠臣として、戦国史に関心を持つ者たちの間で広く知られている。しかし、その高名とは裏腹に、彼の生涯、とりわけその最期には多くの謎と矛盾がつきまとう。
森好之の生涯については、大きく分けて二つの、全く異なる伝承が存在する。一つは、主君・筒井順慶が没する3年前の天正9年(1581年)に病没したとする説 1 。もう一つは、順慶の跡を継いだ養子・定次の代まで生き、天正13年(1585年)の伊賀転封にも従った後、主家を致仕して故郷の大和へ戻り、武士の身分を捨てて帰農したという説である 1 。一人の著名な武将の死をめぐり、なぜこれほど明確な矛盾が生じたのか。そもそも、後世に語り継がれる「三老臣」という評価は、同時代において確立されたものだったのか、それとも後世に創出された英雄譚の一部なのか。
本報告書は、これらの根源的な問いに答えるべく、現存する資料を網羅的に渉猟し、多角的な視点から分析を試みるものである。信頼性の高い一次史料である『多聞院日記』などの記述と、江戸時代に成立した『和州諸将軍伝』に代表される軍記物の物語性を比較検討し、史実と伝説を峻別する。さらに、森好之個人の生涯に留まらず、その嫡子・好高を含む森一族の動向を丹念に追跡する。そして、筒井家の内紛、豊臣政権による兵農分離という時代の大きなうねりの中に彼らを位置づけることで、これまで断片的に語られてきた人物像を、より立体的かつ実証的に再構築することを目的とする。史実と伝説の狭間に埋もれた一人の武将とその一族の真実の姿を、ここに明らかにしていく。
森好之という人物を理解する上で、まず彼の出自、本拠地、そして筒井家における立場を明確にする必要がある。彼は単なる一介の家臣ではなく、主家と深い血縁関係を持ち、大和の地に根差した在地領主であった。この章では、彼の基盤となった要素を分析し、後世に定着した「三老臣」という呼称の妥当性を検証する。
森好之のルーツは、大和国山辺郡森、すなわち現在の奈良県天理市守目堂町および森本町一帯にあった 1 。この地域には、現在も森氏の痕跡を留める森神社が鎮座し、「杜本庄」という古い地名も記録されている 5 。また、この地には、目の病にご利益のある観音様を祀ったお堂が「森面堂」から「守目堂」と呼ばれるようになったという地名由来譚も伝わっており、一族が古くからこの地と深く関わってきたことを物語っている 7 。彼の家系が、美濃の森可成などに代表される清和源氏系の森氏と直接的な関係があったかを示す史料はないが 9 、大和の地に深く根を下ろした国人領主であったことは確実である。
彼の生没年については、史料によって記述が大きく異なり、本報告書の中心的な謎の一つとなっている。最も広く知られているのは、永正16年(1519年)に生まれ、天正9年(1581年)に63歳で没したとする説である 1 。一方で、江戸時代の軍記物などには、これを覆し、1526年生まれで、主君・順慶の死後、天正13年(1585年)の伊賀転封にも従い、その後も生存していたことを示唆する記述も見られる 4 。この矛盾については、後の章でその真相を詳述する。
森好之が筒井家中で重きをなした最大の要因は、その婚姻関係にあった。彼の妻は、筒井家の当主であり、大和統一の礎を築いた筒井順昭の妹であった 1 。これは、好之が単なる譜代の家臣という立場を超え、主家の姻戚、すなわち一門衆に準ずる極めて重要な地位にあったことを示す決定的な証拠である。この血縁的な結びつきこそが、彼を筒井家中の長老格、そして重臣たらしめた揺るぎない基盤であったと言えよう。
一族としては、嫡子に森好高(通称は九兵衛、後に縫殿助)、従弟に森伝介好久がいたことが記録されている 1 。特に嫡子・好高の動向は、父・好之の謎に満ちた晩年の伝承を解き明かす鍵となる。
森好之を語る際に枕詞のように用いられるのが、「筒井家三老臣」という呼称である。島清興(左近)、松倉重信(右近)と共に、筒井家を支えた三人の柱石として数えられるこの評価は、果たして同時代的なものだったのだろうか。
「三老臣」という呼称が明確に現れるのは、主に江戸時代に成立した軍記物、特に『和州諸将軍伝』などの二次史料においてである 2 。これらの書物は、読者の興味を引くために英雄たちの活躍を劇的に描き、特定の人物を理想化する傾向が強い 14 。例えば、島左近は後に関ヶ原の戦いで石田三成の腹心として華々しい活躍を見せたため、その前半生である筒井家時代も遡って「名家老」として脚色された可能性が指摘できる。同様に、松倉右近、そして森志摩守も、この物語的な枠組みの中で理想的な家老像として描かれたと考えられる。
しかし、同時代の一次史料に目を転じると、その様相は大きく異なる。大和の動向を克明に記録した興福寺多聞院の僧侶による日記『多聞院日記』には、筒井家の家臣として福住氏や中坊氏らの名は頻繁に登場するものの、森好之の名はほとんど見出すことができない 16 。また、同じく三老臣の一人とされる島清興についても、天正11年(1583年)の時点ではまだ家中の最高幹部、すなわち重臣の地位にはなかったことが他の史料から示唆されている 2 。
これらの事実を突き合わせると、「三老臣」という呼称が、同時代における実際の職制や評価を正確に反映したものではない可能性が浮かび上がってくる。むしろ、後世の人々が筒井家の歴史を理解しやすくするために創出された、物語的な枠組みであったと考える方が自然であろう。森好之が主君の叔父婿という血縁的な近さから、家中の長老格として重きをなしていたことは事実である。しかし、彼が島左近や松倉重信と常に同格の「三頭体制」で家政を動かしていたと考えるのは早計である。彼らはそれぞれ異なる時期に、異なる役割と地位をもって筒井家を支えていたと見るべきである。
結論として、「筒井家三老臣」という呼称は、森好之が筒井家中で重要な地位を占めていたことを象徴する言葉としては有効であるが、歴史的な実態そのものではない。「主君の姻戚である宿老・重臣」というのが、彼の立場をより正確に表す評価と言えるだろう。
森好之の武将としてのキャリアは、主君・筒井順慶の波乱に満ちた生涯と密接に結びついている。幼くして家督を継いだ主君を支え、宿敵・松永久秀との長きにわたる攻防を戦い抜いた。この章では、順慶の時代における好之の具体的な活動と、その人物像を形成する上で重要な役割を果たした逸話の史実性を検証する。
天文20年(1551年)、大和に覇を唱えつつあった筒井順昭が28歳の若さで病死し、わずか2歳の嫡男・藤勝(後の順慶)が家督を継ぐという、筒井家にとって最大の危機が訪れた 12 。この未曾有の国難において、森好之は順慶の叔父である筒井順政や、一族の重鎮である福住順弘らと共に後見役を務め、幼い主君を支える宿老の一人として家中の安定に尽力した 12 。主君の叔父婿という彼の立場は、この困難な時期において家中の求心力を維持する上で極めて重要な意味を持っていたと推測される。
彼の公的な活動が記録として残っている数少ない例が、天文23年(1554年)1月5日の出来事である。この日、6歳になった藤勝(順慶)が元服後初めて春日社へ参詣した際、好之は福住順弘らと共に2,000人余りの大軍勢を率いて付き従った 1 。これは、内外に筒井家の健在ぶりと軍事力を誇示する重要な示威行動であり、好之が家中の軍事を担う中核的な武将であったことを物語っている。
永禄年間に入ると、畿内に勢力を拡大した三好長慶の重臣・松永久秀が大和へ侵攻し、筒井家との間で十数年に及ぶ激しい抗争が繰り広げられた 18 。順慶は居城の筒井城を追われるなど、苦難の時代を過ごす。この一連の戦いの中で、森好之も筒井軍の主力として戦ったことは想像に難くないが、彼の具体的な戦功を記した一次史料は乏しく、その活躍の詳細は後代の軍記物に頼らざるを得ないのが現状である。
森好之の武将としての評価を決定づける逸話として、天正5年(1577年)の信貴山城の戦いにおける活躍が挙げられる。この戦いは、織田信長に反旗を翻した松永久秀が居城の信貴山城に籠もり、織田・筒井連合軍に攻め滅ぼされた、大和の戦国史における一大決戦であった。
『和州諸将軍伝』などの江戸時代の軍記物によれば、この戦いで森好之は驚くべき奇策を用いたとされる 20 。彼は松永久秀に偽って投降し、信貴山城に入城。城内の兵糧や防備の状況といった内部情報を密かに筒井順慶に報告し、軍資金と精鋭の鉄砲隊200名の援助を受けた。そして、連合軍による総攻撃が開始されると、それに呼応して城内で反乱を起こし、内部から城を大混乱に陥れた。この好之の働きが決定打となり、信貴山城は陥落、松永久秀は自害に追い込まれたという 20 。
この逸話は、森好之の智謀と忠誠心を際立たせる非常に劇的なものであり、彼の人物像を英雄的に描いている。しかし、その史実性には大きな疑問符が付く。信頼性の高い一次史料である『多聞院日記』は、信貴山城の落城と松永親子の自害について、「昨夜松永親子切腹自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了」(昨夜、松永親子が切腹し、自ら火を放って果てた。今日、安土へ首が四つ送られた)と簡潔に記すのみで、森好之によるこのような奇策については一切言及していない 21 。
このことから、信貴山城での活躍譚は、後世に「三老臣」の一人として森好之の人物像を理想化するために創作された逸話である可能性が極めて高い。彼の武将としての器量を強調するための物語装置であり、史実として扱うことには慎重であるべきだろう。彼の評価は、より確実な史料に基づいて行われる必要がある。
主君・順慶を支え続けた森好之の生涯は、その最期をめぐって二つの全く異なる伝承に分かれる。この矛盾こそが、彼の人物像を最も謎めいたものにしている。
第一の説は、 天正9年(1581年)没説 である。複数の二次資料が、好之は主君・筒井順慶が死去する3年前の天正9年に、63歳でその生涯を閉じたと記している 1 。この説に従うならば、彼の活動は順慶の時代で完結する。松永久秀を滅ぼし、大和一国を平定した主君の治世を見届け、その後の筒井家の激動を知ることなく世を去った忠臣、という姿が浮かび上がる。
第二の説は、 伊賀転封後・帰農説 である。こちらは、順慶の死後も生き永らえ、その跡を継いだ養子・筒井定次に仕えたとする伝承だ。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の命により筒井家が伊賀へ転封された際にもこれに従ったが、やがて定次と対立して主家を離れ、故郷の大和へ戻って帰農したという 1 。この説は、主家の変質と新たな時代の到来を見据え、武士としての生き方に終止符を打った老将の姿を描き出している。
なぜ、一人の武将の生涯にこれほど明確に異なる二つの物語が生まれたのか。この謎を解く鍵は、森好之個人の生涯と、その息子・好高の生涯が、後世の記録の中で混同され、融合してしまった可能性にある。次章以降で、この仮説を軸に、筒井家の内情と時代の変化を追いながら、森一族の辿った軌跡を明らかにしていく。
【表1:森好之の経歴に関する諸説比較】
史料・文献 |
生没年 |
筒井定次への仕官 |
晩年・最期 |
典拠・信憑性 |
Wikipedia (ja) 1 |
永正16年(1519) - 天正9年(1581)? |
あり(伊賀転封に従う) |
大和に戻り帰農したともいわれる(子孫の説も併記) |
研究書と軍記物の両説を併記しており、情報の錯綜を示唆。 |
『和州諸将軍伝』準拠の説 4 |
1526年生 - 没年不詳 |
あり(伊賀転封に従う) |
主君・定次と対立して致仕、大和に戻って帰農。 |
江戸時代の軍記物。物語性が強く、史実性は要検証。 |
籔景三『筒井順慶とその一族』など 1 |
永正16年(1519) - 天正9年(1581) |
なし |
天正9年に病死。 |
専門家による研究書。一次史料に基づき、軍記物の説を排した可能性が高い。 |
その他軍記物の記述 20 |
不明 |
あり(ただし定次と不仲) |
出奔し農民になったともいう。本能寺の変(天正10年)の前には死去。 |
複数の伝承が混在しており、情報が錯綜していることを示す。 |
天正12年(1584年)、大和国主・筒井順慶の死は、筒井家だけでなく、それに仕える森一族にとっても大きな転換点となった。若き新当主・定次の下で家臣団の内部対立が表面化し、豊臣政権による統治体制の変革が、武士たちの生き方に根本的な変化を迫った。この章では、筒井家の内紛と、森一族が下した「帰農」という決断の背景を深く掘り下げ、前章で提示した父子の物語の混同という謎に最終的な結論を下す。
天正12年(1584年)8月、筒井順慶が36歳の若さで病死すると、その養子であった従弟の筒井定次が23歳で家督を継承した 23 。翌天正13年(1585年)、豊臣秀吉は筒井家の本拠を大和郡山から伊賀上野へと移し、20万石に加増するという国替えを命じた 23 。これは栄転であると同時に、豊臣政権が畿内の軍事的重要地である大和を直轄下に置こうとする意図の表れでもあった。
しかし、新天地・伊賀での統治は、若き定次にとって困難の連続であった。入封早々に発生した一揆への対応を巡って家臣団の意見が分裂し、定次は強硬派の家臣を抑えきれず、その統率力不足を露呈してしまう 23 。このような状況下で、定次は旧来の宿老たちよりも、中坊秀祐(飛騨守)に代表される新参の側近を重用するようになる。秀祐は主君の信任を背景に権勢を振るい、これが筒井家中の深刻な亀裂を生む原因となった 18 。
この内部対立は、筒井家の屋台骨を支えてきた有力家臣の相次ぐ出奔という最悪の形で表面化する。その象徴的な事件が、天正14年(1586年)頃に起きた島左近の出奔である。灌漑用水の利権を巡る争いにおいて、定次が昵懇の仲であった中坊秀祐に有利な裁定を下したことに憤激した左近は、筒井家に見切りをつけ、後に豊臣秀長を経て石田三成に破格の待遇で迎えられることとなる 24 。そして、この左近の出奔に前後して、松倉重信の子・重政、布施慶春、そして森好之の嫡子・森好高といった、順慶の時代から筒井家を支えてきた功臣やその二世たちが次々と定次の下を去っていったのである 24 。
彼らの離反は、単なる個人的な不満に起因するものではない。それは、若き当主の統率力不足と、それに乗じて台頭した新興側近派に対する、旧臣派の構造的な反発であった。筒井家は、順慶というカリスマを失ったことで、その内部に深刻な分裂を抱え込み、緩やかに崩壊への道を歩み始めていたのである。
森一族が選んだとされる「帰農」という道は、この時代の大きな社会変動を背景に捉え直す必要がある。それは単なる「没落」や「引退」を意味するものではなかった。
豊臣秀吉が天下統一を進める中で、太閤検地や刀狩といった一連の政策が強力に推進された 28 。これらの政策の根幹にあったのが「兵農分離」である。武士は土地との直接的な結びつきから切り離されて城下町に集住し、大名への奉公によって生計を立てる専門の戦闘員階級となった。一方で、農民は検地帳に登録されて土地に緊縛され、武器を没収されることで、農業生産に専念する存在とされた 28 。これにより、戦国時代まで一般的であった、在地に土着し自ら土地経営も行う「半農半士」の武士の生き方は、制度的に否定されることになった。
このような時代における「帰農」は、極めて重い選択であった。それは、大名への奉公という武士としてのキャリアを放棄し、新たな身分秩序の中で生きていくことを意味したからである。しかし、森氏のように元々がその土地の領主であった国人出身の武士にとって、この選択は必ずしも敗北を意味しなかった。彼らは、武士の身分を捨てる代わりに、本拠地である土地に戻り、「郷士」や「豪農」として新たな支配者層を形成する道を選んだのである 32 。郷士は、平時は農業経営に携わりながらも苗字帯刀を許され、村落共同体の中で庄屋などの指導的な役割を担い、有事の際には軍役を負うこともあった。彼らは、大名家への奉公という不安定な生き方よりも、土地に根ざした経済的基盤と地域社会における影響力を確保するという、極めて戦略的な生存戦略を選んだと言える。
森一族の「帰農」も、この文脈で理解すべきである。主家である筒井家は大和から伊賀へ移り、故郷との地縁は薄れた。その上、家内は内紛で不安定であり、将来性には大きな疑問符が付いていた。このような状況で、不確かな主君に仕え続けるよりも、一族のルーツである大和の地に戻り、在地勢力としての存続を図ることは、極めて合理的かつ戦略的な転身であった。それは「没落」ではなく、戦国から近世へと移行する社会変革期を生き抜くための、したたかな選択だったのである。
ここで、本報告書の中心的な謎である、森好之の生涯に関する二つの伝承の矛盾について、最終的な結論を導き出す。これまでの分析を踏まえ、以下の仮説を提示する。
「筒井順慶を支えた宿老・森好之は、天正9年(1581年)に没した。その後、主君・定次の代に筒井家の内紛と時代の変化の中で主家を離れ、大和へ帰農するという大きな決断を下したのは、その嫡子・森好高であった。しかし後代、特に江戸時代の軍記物において、この父子の物語が混同・融合され、より高名で劇的な逸話にふさわしい父・好之の生涯として再構成された」
この仮説は、史料間の矛盾を最も合理的に説明することができる。その根拠は以下の通りである。
以上の分析から、森好之は主君・順慶に忠実に仕え、大和統一を見届けた後、天正9年にその生涯を終えた宿老であり、その後の激動の時代を生き抜き、「帰農」という一族の運命を左右する決断を下したのは息子・好高であったと結論づける。これまで森好之の逸話とされてきた物語の後半部分は、実際には二代目・好高の物語だったのである。
【表2:筒井家主要家臣の動向比較(天正12年~慶長13年)】
年代 |
主要な出来事 |
森 好高 |
島 清興(左近) |
松倉 重信・重政 |
中坊 秀祐 |
天正12 (1584) |
順慶死去、定次が家督相続。 |
父・好之(前年死去)の遺領を継承か。 |
順慶の葬儀を松倉重信と共に取り仕切る。 |
順慶の葬儀を取り仕切る。重信は右近大夫に任官 2 。 |
定次の側近として台頭し始める。 |
天正13 (1585) |
筒井家、伊賀上野へ転封。 |
定次に従い伊賀へ移るが、家中の内紛に直面。 |
定次に従い伊賀へ移る。 |
重信は定次に従い伊賀へ。子・重政は名張に8千石を与えられる 2 。 |
定次の側近として権勢を強める。 |
天正14-16年頃 |
家臣団の内紛が激化。 |
定次・中坊派と対立し、筒井家を出奔。大和へ帰農 24 。 |
用水問題で定次と対立し出奔。豊臣秀長、後に石田三成に仕官 25 。 |
重政もこの時期に筒井家を離れたとみられる 35 。 |
左近ら旧臣派を追い落とし、家中の実権を掌握。 |
文禄2 (1593) |
|
(大和で郷士として生活) |
(石田三成に仕官) |
父・重信が伊賀で死去(享年56) 2 。 |
(定次の下で専権を振るう) |
慶長5 (1600) |
関ヶ原の戦い |
(不参加) |
西軍の主力として奮戦し、戦死 36 。 |
重政は東軍に属し功を挙げ、戦後大名となる 35 。 |
定次と対立し、戦いの最中に筒井家を出奔 23 。 |
慶長13 (1608) |
中坊秀祐の讒言により筒井家改易。 |
(大和の郷士) |
(故人) |
(大和五條藩主) |
家康に定次の悪政を訴え、改易の直接の原因を作る 18 。 |
慶長14 (1609) |
|
|
|
|
奈良奉行に任じられるも、旧同僚に暗殺される 38 。 |
筒井家を離れ、武士としてのキャリアに終止符を打った森一族は、そのルーツである大和の地で新たな生き方を見出した。彼らは歴史の表舞台から姿を消したのではなく、近世社会の新たな担い手である「郷士」として、その血脈を未来へと繋いでいった。この章では、帰農後の森氏の足跡と、彼らが生きた近世大和の社会状況を明らかにする。
大和へ戻った森好高とその一族は、北柳生(現在の奈良県大和郡山市の一部)に居を構えたと伝えられている 1 。また、近世初期の有力農民として、南柳生(現在の天理市から奈良市にまたがる地域)にも森氏の名が見えることから、柳生谷一帯を新たな生活の拠点としたことがうかがえる 1 。
この柳生という土地の選択には、戦略的な意味があったと考えられる。柳生の地は、剣術の新陰流で名を馳せた柳生氏の本拠地である 40 。柳生氏もまた、元々は筒井氏の配下にあったが、松永久秀の侵攻を機に離反するなど、独自の動きを見せた大和の有力国人であった 42 。筒井家臣時代からの旧知の間柄であった柳生氏の支配地であれば、森氏も比較的容易に根を下ろすことができたであろう。さらに、江戸時代に入ると柳生宗矩が徳川将軍家の兵法指南役として重用され、この地に柳生藩が立藩される。これにより地域の安定がもたらされ、森氏のような帰農武士が生活基盤を築く上で有利な環境が整ったと推測される。
帰農した森氏は、単なる一介の農民になったわけではない。彼らは、近世の村落社会において特別な地位を占める「郷士」あるいは「豪農」として存在したと考えられる。郷士とは、農村に居住しながらも苗字帯刀を許され、村役人などを務めるなど、武士的身分と農民的性格を併せ持った階層である 32 。彼らは広大な土地を経営する地主でもあり、平時は村の運営を指導し、有事の際には藩の軍役を担うこともあった。
大和国では、慶長13年(1608年)の筒井家改易に伴い、多くの旧臣が新たな仕官先を見つけられずに浪人となり、故郷に戻って帰農するケースが少なくなかった。例えば、筒井氏の重臣であった十市氏の一族・十市新二郎は、筒井家改易後に武士を捨てて帰農し、その子孫は上田姓を名乗って存続したと伝えられている 43 。また、生駒郡斑鳩町の旧家である大方家のように、筒井家旧臣の家系が江戸時代を通じて庄屋を務めたという伝承を持つ家も存在する 44 。森氏もまた、こうした元筒井家臣のネットワークの中で、互いに連携しながら新たな時代に適応していったのだろう。彼らは武士としての誇りを持ちつつも、土地に根ざした経営者として、近世の村落社会を支える重要な役割を担ったのである。
森一族の歴史を物語る痕跡は、今も大和の各地に残されている。
一族の原点である天理市森本町・守目堂町には、彼らが氏神として崇敬したであろう森神社が、今も静かな森の中に鎮座している 6 。この神社の存在そのものが、森氏がこの地に深く根を下ろしていたことの何よりの証拠である。
一方、子孫が移り住んだとされる柳生地域には、直接的な森氏の史跡を見出すことは困難である。しかし、この一帯には、柳生氏ゆかりの芳徳寺や旧柳生藩家老屋敷、そして美しい庭園で知られる円成寺といった名刹古社が点在しており 47 、森一族が生きたであろう近世大和の村落の景観と歴史の息吹を今に伝えている。彼らは、こうした風景の中で、かつての武士としての記憶を胸に秘めながら、郷士としての日々を送っていたのかもしれない。
本報告書における網羅的な史料分析の結果、戦国武将・森好之の実像は、後世に広く流布した「筒井家三老臣筆頭」という伝説的なイメージとは異なる、より複雑で人間味のある姿で浮かび上がってきた。
森好之は、主君・筒井順昭の妹を娶った姻戚という極めて強い血縁的結びつきを背景に、家中で重きをなした人物であった。順昭の早逝後、わずか2歳で家督を継いだ幼君・順慶を支える後見役の一人として、筒井家の危機を乗り越えるために尽力した忠実な宿老であったことは間違いない。しかし、その活動の記録は主に順慶の時代に限定されており、複数の研究が示すように、大和統一を見届けた後の天正9年(1581年)にその生涯を終えた可能性が極めて高い。
一方で、これまで彼の逸話として語られてきた「主君・定次との対立と帰農」というドラマチックな物語は、実際にはその嫡子・森好高の生涯であったと結論づけられる。好高は、父の死後、筒井家の家督を継いだ定次の下で、家中の深刻な内紛と、豊臣政権による兵農分離という社会の大きな変革に直面した。彼は、将来性の見えない主家に見切りをつけ、武士としての生き方を捨てるという大きな決断を下す。そして、一族のルーツである大和の地に戻り、郷士・豪農として土地に根ざして生きる道を選択したのである。後代の軍記物が、この父子の物語を混同し、より高名な父・好之の逸話として集約・再構成したことで、今日まで続く伝承の矛盾が生じたと考えられる。
森好之と好高、父子の物語は、単に一人の著名な武将の伝記に留まらない。それは、戦国乱世の終焉から近世の安定した社会へと移行する激動の時代において、多くの武士たちが経験したであろう運命の分岐と、生き残りをかけた選択の縮図である。大名家への奉公というキャリアから、土地に根ざした在地領主としての生活へ。森一族の歩みは、時代の大きな転換点における、ある国人領主一族のしたたかな生存戦略の証左として、歴史にその名を深く刻んでいる。彼らの物語は、華々しい合戦の記録の陰で、武士たちがどのように新たな時代に適応し、その家名を未来へと繋いでいったのかを我々に教えてくれる、貴重な歴史的ケーススタディと言えるだろう。