最終更新日 2025-07-17

森本具俊

森本具俊は伊勢国司北畠氏の忠臣。通説の松ヶ島城戦死説は誤りで、永禄12年(1569年)に織田信長の伊勢侵攻における阿坂城攻防戦で討ち死にした可能性が高い。

伊勢の忠臣、森本具俊の実像 ―史料の再検討から浮かび上がる生涯と最期―

序論

日本の戦国時代は、数多の武将たちが己の野心と信念のために激しくぶつかり合った時代である。その歴史は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の物語を中心に語られることが多い。しかし、その華々しい歴史の影には、彼らの覇業の礎となり、あるいはその波に呑まれて消えていった無数の国人領主や武士たちの存在があった。伊勢国司・北畠家に仕えた森本具俊も、そうした歴史の片隅に名を残す人物の一人である。彼について一般的に知られている情報は、「北畠家臣。台城(森本城)の城主。俊信の子。木造家の一族。士15人、兵50人を率いた。木造家に従って伊勢松ヶ島城攻撃戦に参陣し、戦死した」という、極めて断片的なものに過ぎない 1

しかし、この簡潔な記述の裏には、一人の武将の生涯をめぐる重大な謎が隠されている。それは、彼の最期に関する二つの全く異なる伝承の存在である。一つは、主家である北畠氏を裏切った木造氏に従い、天正12年(1584年)の松ヶ島城攻撃で戦死したという、いわば「裏切者の一味」としての最期である 2 。もう一つは、それより15年も前の永禄12年(1569年)、織田信長の伊勢侵攻に際し、主君・北畠氏を守るために阿坂城の攻防戦で討ち死にしたという、「忠臣」としての最期である 3 。この二つの説は、森本具俊という人物の評価を180度変えてしまう、根本的な矛盾をはらんでいる。彼は、主家を裏切った一族に与したのか、それとも主家のために命を捧げたのか。この忠誠をめぐるパラドックスこそが、本報告書が解明を目指す中心的な問いである。

本報告書は、森本具俊という一人の武将の実像に迫るため、現存する断片的な史料を丹念に突き合わせ、その生涯を再構築することを目的とする。具体的には、森本氏の出自と北畠一門内での複雑な立場、主家・北畠氏と本家・木造氏との間に生じた深刻な対立、そして具俊の最期をめぐる二つの説の根拠となる史料の批判的検討を通じて、その謎に挑む。このプロセスを通じて、通説の影に隠されてきた具俊の真の姿を明らかにし、戦国の世を生きた一人の武士の忠義の物語を、歴史の中に正しく位置づけることを目指すものである。

第一章:森本氏の出自と北畠一門における地位

森本具俊の生涯と忠誠のあり方を理解するためには、まず彼が属した森本氏の出自と、伊勢国における複雑な主従関係の中での彼らの地位を正確に把握する必要がある。森本氏は、伊勢国司・北畠氏の広大な権力構造の末端に位置しながらも、その血縁の連鎖の中に組み込まれた特異な存在であった。

第一節:伊勢国司・北畠氏の権勢

伊勢国に覇を唱えた北畠氏は、南北朝時代の公卿・北畠親房の子、顕能が伊勢国司に任じられたことに始まる名門である 4 。彼らは村上源氏の流れを汲む公家でありながら、伊勢に土着して武家化し、多気城(後の霧山城)を本拠として南伊勢一帯に絶大な権勢を誇った 3 。戦国時代においても、彼らは「国司」という権威を背景に、他の戦国大名とは一線を画す「公家大名」としての独特の地位を保っていた。その支配体制は、本家を中心として、血縁関係にある分家や譜代の家臣団が支えるという、強固な一門支配体制によって特徴づけられていた 5

第二節:名門分家・木造氏の成立

北畠氏の一門の中でも、特に高い家格を誇ったのが木造(こづくり)氏である。木造氏は、初代伊勢国司・北畠顕能の子である顕俊が、一志郡木造荘を領して分家したことに始まるとされる 6 。彼らは、同じく分家である大河内氏、坂内氏とともに「北畠三家」と称され、宗家当主に準ずる存在として「御所」という敬称で呼ばれるほどの特権的な地位にあった 5 。木造氏は北畠領の北の玄関口ともいえる木造城を拠点とし、宗家の重要な支えであると同時に、独自の勢力を持つ存在であった。しかし、その高い家格と独立性は、時に宗家との間に緊張関係を生む要因ともなった。事実、木造氏は歴史の中で度々宗家に反旗を翻した記録が残っており、両者の関係は常に良好であったわけではない 6

第三節:木造氏からの分流、森本氏の誕生

森本具俊が属する森本氏は、この名門・木造氏からさらに分かれた一族である。史料によれば、森本氏は木造顕俊の子・俊氏(または俊重)が一志郡森本を領して森本姓を名乗ったことを起源とする 2 。彼らの居城である森本城は「台城」とも呼ばれ、北畠氏の本拠である多気城の支城として、戦略的に重要な役割を担っていた 1 。森本氏の当主は代々「飛騨守」を称しており、これは彼らが北畠家臣団の中で一定の評価と格式を与えられていたことを示唆している 2

しかし、その兵力規模は、二代当主・俊重の代で「士15人、兵50人持ち」であったと記録されており 3 、大勢力とは言えない、まさしく在地に根差した小規模な国人領主であったことがわかる。彼らは北畠氏の直臣であると同時に、血筋の上では木造氏の分家という立場にあり、その存在は二重の主従関係の中に位置づけられていた。

本章の考察:忠誠のジレンマ

森本氏の出自をたどると、彼らが置かれた立場の固有の複雑性が浮かび上がってくる。彼らは伊勢国全体の支配者である北畠宗家に対して忠誠を誓う家臣である。しかし同時に、彼らの直接の血の源流は、宗家内で特権的な地位を占める木造氏にある。この二重の帰属意識は、平時においては問題とならないかもしれない。だが、ひとたび宗家である北畠氏と、本家である木造氏の利害が対立し、両者が相争う事態に発展した場合、森本氏のような小規模な一族は、深刻なジレンマに直面することになる。

自らの血の源流である木造氏に従うのか、それとも最高主君である北畠氏への忠義を貫くのか。それは、一族の存亡を賭けた究極の選択となる。この構造的な緊張関係こそが、後に森本具俊を襲う悲劇の伏線であり、彼の生涯を理解する上で不可欠な鍵となるのである。

第二章:激動の伊勢国 ―主家・北畠氏と本家・木造氏の相克―

森本具俊が生きた時代、伊勢国はかつてない激動の渦中にあった。尾張から急速に勢力を拡大する織田信長の脅威が、長らく続いた北畠氏の支配体制を根底から揺るがし始めたのである。この外部からの圧力は、北畠一門の内部に潜んでいた亀裂を顕在化させ、深刻な対立を引き起こすことになる。

第一節:織田信長の伊勢侵攻と北畠氏の凋落

永禄年間(1558年~1570年)、天下布武を掲げる織田信長は、美濃を平定した後、次なる目標として伊勢国に狙いを定めた。永禄12年(1569年)8月、信長は数万の大軍を率いて伊勢に侵攻を開始する。北畠軍は善戦したものの、織田軍の圧倒的な物量の前に次第に追い詰められ、当主・北畠具房と隠居していた父・具教は、本拠である大河内城に籠城して最後の抵抗を試みた 5

約二ヶ月にわたる攻防の末、同年10月、両者は和議を結ぶ。しかしその条件は、信長の次男・茶筅丸(後の織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れ、具教の娘・雪姫を娶らせるという、事実上、北畠家を織田家が乗っ取るに等しい屈辱的なものであった 5 。これにより、伊勢国の名門・北畠氏の権威は大きく失墜し、その命運は信長の掌中に握られることとなった。

第二節:木造氏の裏切りと三瀬の変

この織田信長の伊勢侵攻において、北畠氏にとって致命傷となったのが、一門筆頭であるはずの木造氏の裏切りであった。当時の木造氏当主・木造具政は、驚くべきことに北畠具教の実の弟であったにもかかわらず、信長に内通し、織田軍の先導役を務めたのである 8 。一門の重鎮によるこの内応は、北畠方の士気を著しく低下させ、組織的な抵抗を内部から崩壊させる決定的な要因となった 5

そして、この裏切りがもたらした悲劇の頂点が、天正4年(1576年)に起こった「三瀬の変」である。北畠家の家督を継いだ織田信雄は、父・信長の意を受け、旧北畠勢力の排除に乗り出す。同年11月、信雄は三瀬御所に隠居していた義父・北畠具教を急襲し、その一族郎党もろとも惨殺した 5 。この粛清により、戦国大名としての北畠氏は事実上滅亡し、伊勢国は完全に織田家の支配下に置かれた。この一連の過程において、木造具政は信雄の家老として重用され、主家を滅ぼした功労者として生き延びたのである 8

本章の考察:忠臣が置かれた絶望的状況

木造氏の裏切りと、それに続く三瀬の変は、単なる政変や権力闘争にはとどまらない、北畠家臣団の忠誠心そのものを根底から揺るがす出来事であった。森本具俊のような、北畠宗家に忠誠を誓う武士にとって、この状況はまさに絶望的であったと言える。

彼が仕えるべき最高主君である北畠氏は、外部からの侵略者・織田氏によって滅亡の淵に追いやられている。そして、その侵略の手引きをした裏切者が、自らの直接の血の源流であり、本家筋にあたる木造氏なのである。これはもはや、第一章で述べたような理論上のジレンマではない。目の前で繰り広げられる、血塗られた現実であった。

北畠宗家への忠義を貫こうとすれば、圧倒的な戦力差の織田軍に立ち向かうだけでなく、自らの本家である木造氏をも敵に回さなければならない。それは、ほとんど勝ち目のない戦いに身を投じることを意味する。一方で、木造氏に従い、新たな支配者である織田家に与することは、滅びゆく主君を見捨て、裏切りに加担することに他ならない。どちらの道を選んでも、過酷な運命が待ち受けている。この八方塞がりの状況こそが、森本具俊の最期をめぐる謎を解く上で、決定的に重要な背景となるのである。

第三章:森本具俊の最期 ―二つの戦死説の徹底比較―

森本具俊の生涯における最大の謎は、その最期にある。彼の死については、全く異なる二つの説が存在し、どちらを採るかによって彼の人物像は「忠臣」から「裏切者の一味」へと大きく変貌する。ここでは、両説を詳細に検討し、史料批判を通じてその真相に迫る。

第一節:通説 ― 天正十二年(1584年)松ヶ島城攻撃戦没説

一般的に流布しているのは、森本具俊が天正12年(1584年)に伊勢松ヶ島城を攻撃した際に戦死した、という説である 2 。これは、ユーザーが当初把握していた情報とも合致する。

この説の歴史的背景は、本能寺の変後に勃発した「小牧・長久手の戦い」である。この戦役において、伊勢国は織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴(豊臣)秀吉軍が激突する主要な戦線の一つとなった。かつて主家を裏切った木造氏は、信長の息子である信雄の麾下として、信雄方の中核戦力となっていた。特に木造氏の居城である戸木城(へきじょう)は、秀吉方の猛将・蒲生氏郷が率いる大軍の包囲を受けながらも、和睦成立まで半年以上にわたって持ちこたえるという、驚異的な防戦を見せている 13

松ヶ島城は、この時すでに秀吉方の蒲生氏郷の支配下にあり、織田信雄軍はこの城を奪還すべく攻撃を仕掛けた 15 。この通説に従うならば、森本具俊は木造氏の配下としてこの松ヶ島城攻撃に参加し、命を落としたことになる。

しかし、この説には看過できない論理的矛盾が存在する。それは、具俊が「忠臣」であったとするならば、なぜ主家・北畠氏を滅亡に追いやった張本人である木造氏に従い、その新たな主君である信雄のために戦うのか、という点である。この行動は、北畠家への忠義とは相容れない。この説は、具俊を単に木造氏の分家とみなし、その機械的な追随者として描いているが、彼の忠誠心のあり方については何ら説明を与えていない。

第二節:異説 ― 永禄十二年(1569年)阿坂城攻防戦没説

通説に対して、全く異なるシナリオを提示するのが、具俊の死をそれより15年前の永禄12年(1569年)とする異説である。この説によれば、具俊は織田信長の伊勢侵攻における緒戦の一つ、阿坂城の攻防戦において討ち死にしたとされる 3

この説の歴史的背景は、第二章で述べた信長の第一次伊勢侵攻である。阿坂城は、北畠氏の支配領域を守る重要な支城であり、織田軍の侵攻に対して激しい抵抗が繰り広げられた。

このシナリオにおける森本具俊の姿は、通説とは全く異なる。彼は、侵略者である織田信長とその内通者である木造氏に与するのではなく、主君・北畠氏の家臣として、領国を守るために戦った忠臣として描かれる。彼の死は、裏切りに加担した結果ではなく、主家への忠義を貫いた末の、名誉ある戦死となる。この物語は、彼の行動に一貫性を与え、「忠臣」という評価と完全に合致する。

第三節:史料批判と結論 ―「俊貞の古記録」の決定的価値

二つの説は、森本具俊の人物像を正反対に描き出す。どちらが真実なのか。その答えは、それぞれの説が依拠する史料の性質を比較検討することによって見出すことができる。

通説である「松ヶ島城戦没説」の出典は、明確には示されていないものの、その内容から江戸時代以降に編纂された軍記物や地誌類に由来する可能性が高い。これらの文献は、大きな戦役の全体像を描くことには長けているが、森本具俊のような一国人領主の個別の動向については、伝聞や混同に基づいた誤記を含むことが少なくない。

一方、異説である「阿坂城戦没説」には、極めて重要かつ具体的な根拠が示されている。ある郷土史料は、「子の俊貞の古記録を検証すれば、松ヶ島城ではなく阿坂城の攻防戦での討ち死にが妥当と判断される」と明記しているのである 3 。これは、具俊の死に関する情報が、彼の息子である森本俊貞自身が残した記録に基づいていることを示唆している。

歴史学において、一次史料(当事者やそれに極めて近い人物による記録)の価値は、二次史料(後世の編纂物)に比べて格段に高い。一族の歴史、特に自らの父がいつ、どこで、誰のために戦って死んだかという事実は、その息子にとって最も重要で、正確に後世に伝えようとする情報のはずである。後世の軍記作者が個々の武将の死を混同する可能性は十分にあるが、息子が父の死に様を間違えて記録するとは考えにくい。したがって、「俊貞の古記録」は、他のいかなる伝承よりも高い信頼性を持つと判断すべきである。

この史料批判に基づけば、結論は明白である。森本具俊の最期は、天正12年(1584年)の松ヶ島城ではなく、永禄12年(1569年)の阿坂城であった可能性が極めて高い。彼は、裏切り者の一族に従ったのではなく、主君・北畠氏への忠義を貫き、織田信長の侵攻軍を相手に戦い、命を落としたのである。

本章の付属資料:戦死説比較表

本章で論じた二つの戦死説の比較を、以下の表にまとめる。

項目

松ヶ島城攻撃戦没説(通説)

阿坂城攻防戦没説(異説)

年代

天正12年 (1584)

永禄12年 (1569)

戦役

小牧・長久手の戦い

織田信長の伊勢侵攻

立場

織田信雄方(木造氏に従属)

北畠氏方(宗家への忠誠)

行動の整合性

忠臣が裏切者の一族に従うという矛盾

忠臣として主家のために戦死するという一貫性

根拠史料

軍記物など(推定)

子・俊貞の古記録 3

蓋然性

低い

非常に高い

この表が示すように、史料的根拠と行動の一貫性の両面から、「阿坂城攻防戦没説」が歴史的事実としてより妥当であると結論づけられる。

第四章:具俊亡き後の森本一族と忠義の行方

森本具俊が永禄12年(1569年)に忠義の死を遂げたという結論は、その後の森本一族の動向を追うことによって、さらに強固なものとなる。父の遺志を継いだ息子・森本俊貞の行動は、森本家が貫いた忠誠のあり方を雄弁に物語っている。

第一節:武士を捨て、土に還る

父・具俊の死後、家督を継いだ森本俊貞は、戦国の世の大きなうねりに翻弄されることになる。父の死から7年後の天正4年(1576年)、三瀬の変によって主家・北畠氏は事実上滅亡する。主君を失った俊貞は、ある重大な決断を下す。それは、裏切者として栄達の道を歩んだ本家・木造氏に仕えることでも、新たな支配者である織田氏に臣従することでもなかった。

彼は、武士としての地位を捨て、先祖伝来の地である飯高郡下栃川村に帰農したのである。この選択は、史料に「弔国司一族菩提終成百姓(国司一族の菩提を弔い、終に百姓と成る)」と記されている 3 。これは、滅びた主君への忠義を貫くために、あえて武士の身分を放棄し、一介の農民として生きる道を選んだことを意味する。もし父・具俊が木造氏に従って死んだのであれば、息子の俊貞が木造氏やその後継である織田信雄に仕え、武士として家名を保つ道もあったはずである。しかし、彼はその道を選ばなかった。この行動自体が、森本家が木造氏の裏切りに与しなかったことの強力な状況証拠となる。

第二節:称念寺建立に込められた想い

俊貞の行動の中で、森本家の忠誠心を最も象徴するのが、称念寺という一宇の寺院を建立したことである。彼がこの寺を建てた目的は、極めて明確であった。それは、他ならぬ「北畠氏一族の菩提を弔う」ためであった 3

当時、北畠氏は織田信長・信雄親子によって滅ぼされた「逆賊」に近い存在であった。その滅びた一族のために公然と寺を建て、菩提を弔うという行為は、新たな支配者である織田氏の意向に逆らうものであり、決して安全な行動ではなかった。それでもなお俊貞が称念寺を建立したのは、滅びた主君への変わらぬ忠誠心と、そのために命を落とした父・具俊への鎮魂の想いがあったからに他ならない。

この称念寺の存在は、森本家の忠義の行方を決定づける物証である。もし森本家が木造氏と運命を共にしていたのであれば、このような寺を建てる理由はどこにもない。俊貞が祈りを捧げた対象が、栄華を誇る木造氏ではなく、滅び去った北畠氏であったという事実こそが、父・具俊がどちらの側に立って死んだのかを、何よりも雄弁に物語っている。

本章の考察:世代を超えた忠誠の証明

森本俊貞が選んだ道は、父・具俊の生き様、そして死に様を映す鏡である。父が主君のために命を捧げたからこそ、息子は武士の身分を捨ててまで、その主君の菩提を弔う道を選んだ。この世代を超えて受け継がれた忠誠心は、一つの連続した物語を形成している。

俊貞の行動は、第三章で下した「阿坂城戦没説が史実である」という結論に対する、最後の、そして最も説得力のある裏付けとなる。父が裏切りに加担して死んだのであれば、息子が滅亡した旧主のために寺を建てるという行動は、論理的に成り立たない。俊貞の行動は、父・具俊が北畠家への忠義を貫いた殉教者であったという前提があって初めて、完全に理解することができる。こうして、父の死と息子のその後の人生は、一つの「忠義」というテーマで結ばれ、森本具俊の実像を鮮やかに浮かび上がらせるのである。

結論

本報告書は、伊勢国の戦国武将・森本具俊をめぐる断片的な史料を再検討し、その生涯と最期の実像を明らかにすることを試みた。その結果、通説として流布してきた人物像とは大きく異なる、新たな結論に至った。

第一に、森本具俊の最期は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおける松ヶ島城攻撃ではなく、それより15年前の永禄12年(1569年)、織田信長の伊勢侵攻における阿坂城攻防戦であった可能性が極めて高い。彼は、主家を裏切った木造氏に与したのではなく、最後まで主君・北畠氏への忠誠を貫き、侵略者である織田軍と戦って討ち死にした忠臣であった。この結論は、彼の息子・俊貞が残したとされる古記録の記述と、その後の俊貞が滅びた北畠氏の菩提を弔うために称念寺を建立したという行動によって、強力に裏付けられる。

第二に、この調査過程は、歴史研究における史料批判の重要性を改めて示す好例となった。広範な出来事を記した二次史料である軍記物語の記述よりも、特定の個人や家族に関する一次史料(ここでは「子の古記録」)が、人物の実像を解き明かす上で決定的な価値を持つことがある。森本具俊の物語は、歴史の大きな物語の影に埋もれがちな、地域や一家族に伝わる記録を丹念に拾い上げることの意義を教えてくれる。

最後に、正しく理解された森本具俊の生涯は、裏切りと下剋上が横行した戦国の世にあって、忠義を貫くことがいかに困難で、また尊いものであったかを我々に伝えている。彼は、圧倒的な時代の変化の前に、滅びゆく主君と運命を共にする道を選んだ。そしてその遺志は、武士の身分を捨ててまで主君の冥福を祈り続けた息子・俊貞に受け継がれた。森本具俊の物語は、歴史の片隅に消えた無名の忠臣たちの悲劇と、その静かな誇りの象徴として、後世に語り継がれるべき価値を持つものである。

引用文献

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  3. 称念寺 | いいなん.net http://iinan.net/id-2/id-4/
  4. 北畠(きたばたけ)家 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/jiten/ki2.html
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  7. 伊勢の名門北畠氏の光と影 ~なぜ国司は滅んだのか~① https://raisoku.com/9229
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  9. 戦国!室町時代・国巡り(3)伊勢・志摩編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n0d30d0b9bc2a
  10. 伊勢 森本城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/ise/morimoto-jyo/
  11. 大河内城の戦いと城跡 | いいなん.net http://iinan.net/id/id/id-5/
  12. 松阪物語~商都松阪の基礎を築いた~ - お肉のまち 松阪市公式ホームページ https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/kanko/matsusakastory.html
  13. 第3回 織田・徳川連合軍の城・砦②(長島城と伊勢の城を中心に) https://shirobito.jp/article/1504
  14. 戸木城|宮山城(三重県津市)の周辺スポット - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/4955/pins/18635
  15. 松ヶ島城 - MATSUKINのページ! - Jimdo https://matsukin.jimdofree.com/%E6%9D%BE%E3%83%B6%E5%B3%B6%E5%9F%8E/
  16. 松ヶ島城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/matsugashima.j/matsugashima.j.html