最終更新日 2025-07-17

森田浄雲

森田浄雲は伊賀惣国一揆の豪族。天正伊賀の乱で一之宮城に籠城し、織田軍と戦い討死した。甲冑が残ることから、一族は生き延びた可能性も。

伊賀豪族・森田浄雲の実像 ―天正伊賀の乱における生涯と、その最期をめぐる史料的考察―

序章:乱世に散った伊賀の将、森田浄雲

戦国時代、天下統一の巨大な潮流が日本全土を席巻する中、その流れに抗い、自らの共同体の独立を守るために戦った地方勢力は数多い。伊賀国(現在の三重県伊賀市周辺)の豪族、森田浄雲(もりた じょううん)もまた、そうした歴史の奔流の中に身を投じた一人である。彼の名は、織田信長による伊賀侵攻、すなわち「天正伊賀の乱」において、居城である一之宮城に籠り、壮絶な最期を遂げた武将として、後世に断片的に伝えられている 1

永正7年(1510年)に生を受け、天正9年(1581年)に没したとされる浄雲の生涯は、まさに戦国時代の伊賀国の運命そのものを体現している 3 。彼が生きた伊賀は、特定の守護大名を持たず、「伊賀惣国一揆」と呼ばれる地侍たちの合議制によって統治される、特異な自治共同体であった。浄雲は、この豪族連合における中心人物の一人と目されている 4

しかし、彼の具体的な人物像や、惣国一揆における真の役割、そしてその最期をめぐる詳細については、多くの謎に包まれている。特に彼の死に関しては、一之宮城で討死したとする説と、一度は降伏し、後に再び蜂起して討たれたとする説が存在し、歴史的評価は未だ定まっていない 1

本報告書は、この森田浄雲という一人の武将に焦点を当て、その生涯と彼が生きた時代背景を徹底的に調査・分析するものである。『信長公記』や『伊乱記』といった同時代から後代にかけての文献史料、さらには考古学的知見や地域に伝わる伝承を統合し、多角的な視点から彼の実像に迫ることを目的とする。中央集権化を進める織田信長という巨大権力に対し、地域の独立をかけて戦った浄雲の姿を通して、戦国時代における「天下」と「地域」の相克という、より大きな歴史的構図を浮き彫りにしていきたい。

第一章:戦国期伊賀の特異な世界 ―惣国一揆と森田氏―

森田浄雲という人物を理解するためには、彼がその一員であった伊賀国の特異な社会構造と、彼の権力基盤であった猪田郷について深く知る必要がある。伊賀は、戦国時代の他の地域とは一線を画す、独自の自治システムを築き上げていた。

第一節:地侍たちの共和国「伊賀惣国一揆」

戦国期の伊賀国は、特定の守護大名を頂点とする封建的な支配体制が確立されず、国人や地侍といった在地領主たちが共同で地域を統治する「伊賀惣国一揆」と呼ばれる連合体を形成していた 5 。これは、外部からの侵略に対して国全体で団結し、内部の利害を合議によって調整するための、いわば「地侍たちの共和国」ともいえるシステムであった 7

その運営の根幹をなしたのが、「惣国一揆掟之事」として知られる掟書である。近江国甲賀郡の山中家に伝わったこの文書には、伊賀の自治体制の具体的なルールが記されている 6 。例えば、「他国勢の侵入には惣国一味同心して防戦すべきこと」「侵入の注進があれば里々の鐘を鳴らし直ちに出陣すること」「17歳から50歳までのものは出陣義務があること」といった条項は、有事における強固な軍事動員体制を示している 6 。また、裏切り者に対しては所領を没収し討伐するという厳しい罰則も定められており、一揆の結束を維持するための強い意志がうかがえる 6

こうした重要な決定は、伊賀上野の平楽寺などの寺院で開かれる評定(会議)でなされたといい、この合議制こそが、伊賀の独立を長きにわたって支える基盤となっていた 8

第二節:猪田郷の領主、森田氏

森田浄雲の権力基盤は、伊賀国伊賀郡に位置する猪田郷(いだごう)であった 1 。この地は、古代の文献『和名抄』にもその名が見える歴史ある地域であり、平安時代には興福寺の荘園の一部であった記録も残っている 11 。木津川の自然堤防上に集落が形成され、古くから地域の要衝であったことが推察される 13

浄雲を輩出した森田氏は、この猪田郷を本拠とする有力な豪族であった。彼らの居館は「森田氏館」と呼ばれ、その跡地は現在、水田に囲まれた独立した居宅として残っている 14 。戦闘拠点である城とは別に、平地に構えられた居館の存在は、森田氏が平時においては地域の領主として安定した支配を確立していたことを示唆している。ただし、館の遺構はほとんど残っておらず、その具体的な規模や構造をうかがい知ることは難しい 14

第三節:「伊賀十二人衆」と浄雲の立場

森田浄雲は、多くの資料において伊賀惣国一揆の指導者層である「伊賀十二人衆」の一人として数えられている 1 。この「十二人衆」は、惣国一揆の運営を担う代表者会議のような存在であったと考えられている 15

しかし、その構成員については史料によって異同が見られる。ある史料では、荘園の地頭として百田籐兵衛や町井貞信らの名が挙げられているが、ここに森田氏の名は見当たらない 16 。一方で、別の史料では、明らかに軍事的な役割を示す「軍師・四天王」の一人として、藤林正保らと共に森田浄雲の名がはっきりと記されている 17

この食い違いは、単なる記録の誤りではなく、「伊賀十二人衆」という呼称が、複数の機能を持つリーダーシップ層を内包していた可能性を示唆している。すなわち、荘園の管理などを担う行政的な側面を持つ「地頭衆」と、軍事作戦の立案や指揮を担う「将帥衆」という、役割の異なるグループが存在したのではないか。そして、森田浄雲は後者の、軍事指導者として惣国一揆の中で重きをなしていた人物であったと推察される。彼が「豪族連合の中心人物」 4 と呼ばれる所以は、土地の管理権以上に、その卓越した軍事的能力と、いざという時に人々を率いることができる人望にあったと考えられるのである。

第二章:天下布武の波紋 ―二度の天正伊賀の乱―

伊賀の独立と平和は、織田信長による天下統一事業が本格化するにつれて、大きな脅威に晒されることとなる。天正伊賀の乱と呼ばれる二度の戦いは、森田浄雲と伊賀惣国一揆の運命を決定づけることになった。

第一節:第一次天正伊賀の乱 ―織田信雄の拙速と伊賀衆の勝利―

天正6年(1578年)、織田信長の次男で伊勢国を支配していた北畠信雄(織田信雄)のもとに、伊賀の国人である下山甲斐守が訪れ、伊賀侵攻の手引きを申し出たことが乱の引き金となった 10 。信雄はこの誘いに乗り、信長に無断で伊賀攻略を計画。伊賀国を見下ろす要衝・丸山城の修築に着手した 10

この動きをいち早く察知した伊賀衆は、平楽寺で軍議を開き、「城が完成する前に攻撃すべし」と決議 10 。城の普請にあたっていた滝川雄利らの軍勢に奇襲をかけた。地の利を活かし、夜襲や奇襲といったゲリラ戦術を得意とする伊賀衆の前に、織田軍は混乱に陥る 5 。この戦いで織田方は重臣の柘植保重を失うなど甚大な被害を出し、伊勢へと敗走した 5

この第一次天正伊賀の乱(1578-1579年)は、伊賀惣国一揆の完全な勝利に終わった。しかし、この結果は伊賀にとって破滅的な未来を招くことになる。自分に断りなく出兵し、しかも小国である伊賀に大敗を喫した息子に対し、信長は「親子の縁を切る」とまで記した書状を送るほど激怒した 5 。この敗北は、信長のプライドを深く傷つけ、伊賀という反抗勢力の徹底的な殲滅を決意させる直接的な原因となったのである。

第二節:第二次天正伊賀の乱 ―信長、伊賀を蹂躙す―

第一次の敗戦から2年後の天正9年(1581年)9月、信長は満を持して伊賀への再侵攻を開始した。その規模は、第一次とは比較にならないものであった。信長は自ら伊賀攻略の計画を立て、総大将に再び信雄を据えつつも、丹羽長秀、蒲生氏郷、筒井順慶、滝川一益といった織田軍団の主力武将をことごとく動員した 10 。その総兵力は4万から5万、一説には10万以上ともいわれ、伊賀国を伊勢、伊賀、大和、近江など6方向から完全に包囲し、一気に攻め立てるという、まさに殲滅戦の様相を呈していた 10

対する伊賀衆の兵力は、非戦闘員を含めても約1万人程度であったとされる 10 。圧倒的な戦力差である。伊賀衆は比自山城などに籠城して必死の抵抗を試みたが、織田軍の圧倒的な物量の前にはなすすべもなかった 5 。各地の城は次々と陥落し、伊賀全土は焦土と化した。この戦いでは、伊賀の人口の半数が命を落としたとも伝えられる 20

第一次の局地的な戦術的勝利は、伊賀衆に「織田軍と戦える」という過信を抱かせたかもしれない。しかし、それは同時に、信長に「伊賀の存在を根絶やしにする」という冷徹な戦略的決断を促す結果となった。伊賀衆のささやかな勝利は、結果として国家レベルでの破局的な結末を招いてしまったのである。森田浄雲の最後の戦いは、この絶望的な状況の中で繰り広げられた。

第三章:一之宮城の攻防と敢國神社の悲劇

第二次天正伊賀の乱が伊賀全土を席巻する中、森田浄雲は自らの本拠地である一之宮城で最後の抵抗を試みた。この戦いは、単なる一城の攻防戦に留まらず、伊賀国の精神的支柱を揺るがす悲劇へと繋がっていく。

第一節:森田浄雲、最後の拠点・一之宮城

森田浄雲が籠城した一之宮城は、現在の伊賀市一之宮岡崎に位置した丘城である。標高約181メートル、麓からの比高は約32メートルの丘陵上に築かれ、地域の防御拠点としての役割を担っていた 21 。この城については、『三国地誌』や『伊乱記』といった後代の地誌や軍記物にもその名が記されており、古くから伊賀における重要な城館の一つとして認識されていたことがわかる 21 。浄雲がこの城を最後の拠点として選んだのは、伊賀国の中枢部を守る防衛線の一角を担うという戦略的な意図があったものと考えられる。

第二節:壮絶なる玉砕戦の伝承

織田信長が伊賀の地に足を踏み入れたのは、天正9年(1581年)10月10日の夕刻であったと『信長公記』は伝えている 22 。森田浄雲が守る一之宮城での戦いは、この直後、織田軍の総攻撃が本格化する中で行われたとみられる。

その戦いの様子は、後世の記録によって壮絶なものとして語られている。ある記述によれば、浄雲は当時70歳(あるいは73歳)という高齢であったにもかかわらず、自ら先頭に立って奮戦 1 。敵将であった秋山氏(吉野衆を率いた武将か)と一騎打ちを演じ、その末に壮絶な討死を遂げたとされる 22 。そして、城兵や一族郎党も主君と運命を共にし、ことごとく玉砕したと伝えられている 22 。この英雄的な物語は、織田の圧倒的な武力に屈しなかった伊賀武士の意地と誇りの象徴として、語り継がれていった。

第三節:炎上する伊賀一之宮・敢國神社

一之宮城の攻防戦がもたらした悲劇は、城の落城と将兵の死だけではなかった。城のすぐ麓には、伊賀国で唯一の式内大社であり、伊賀全体の総氏神として崇敬を集めてきた敢國神社(あえくにじんじゃ)が鎮座していた 23 。この神社は、社伝によれば飛鳥時代の斉明天皇4年(658年)創建という古い由緒を持ち、伊賀の人々の精神的な拠り所であった 24

一之宮城での激しい戦闘のさなか、折からの強風に煽られた戦火は、この神聖な社殿に燃え移った。斉明天皇の時代から受け継がれてきた壮麗な社殿は、戦火によってことごとく灰燼に帰したのである 22 。この火災により、神社の歴史を記した多くの貴重な社記も失われたとされ、伊賀の文化にとって計り知れない損失となった 24 。荒廃した神社が再建されるのは、乱が終結してから10年以上が経過した文禄2年(1593年)のことであった 24

森田浄雲の戦いは、単なる軍事拠点の防衛戦ではなかった。それは、伊賀国の精神的・宗教的中心地である「一之宮」そのものを守るための戦いであった。彼の敗北と死、そして敢國神社の焼失という物理的な破壊は、二つで一つの出来事として、伊賀惣国一揆という共同体の「魂の死」を象徴する、決定的な悲劇となったのである。

第四章:浄雲の最期をめぐる謎 ―討死か、再起か―

森田浄雲の生涯における最大の謎は、その最期にある。一之宮城で壮絶な討死を遂げたという英雄譚が広く知られる一方で、一度は降伏し、後に再び蜂起して討たれたとする、まったく異なる説も存在するのである。本章では、史料批判の視点からこれら二つの説を徹底的に比較・検討する。

複数の史料は、浄雲の最期について二つの可能性を併記している 1 。一つは、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱において、一之宮城で織田軍と戦い、討死したとする「討死説」。もう一つは、この時は信長に降伏して所領を安堵されたものの、翌年の本能寺の変後に伊賀国人が蜂起した際にそれに加わり、最終的に織田信雄に討伐されたとする「生存・後日蜂起説」である。

項目

討死説

生存・後日蜂起説

時期

天正9年(1581年)10月頃

本能寺の変(天正10年6月)以後

場所

伊賀国・一之宮城

不明(伊賀国内か)

状況

織田軍との籠城戦の末、奮戦し戦死

一度降伏・所領安堵の後、再蜂起し織田信雄に討伐される

典拠

『信長公記』の解釈 22 、『伊乱記』など後代の軍記物

不明確だが、複数の二次資料に併記 1

物語性

高齢の武将の英雄的な玉砕

敗者の再起と最終的な滅亡

蓋然性

伊賀の悲劇を象徴する出来事として整合性が高い

一族の存続を示唆する遺品(甲冑)の存在と関連する可能性

「討死説」は、70歳を超える老将が故郷と一族の名誉のために最後まで戦い抜くという、非常にドラマチックな物語である 1 。これは後世の軍記物や地域の英雄譚として形成されやすく、伊賀武士の抵抗精神を象徴する物語として語り継がれる素地があった。

一方、「生存・後日蜂起説」は、より現実的な戦国武将の行動様式を反映している。圧倒的な戦力差を前に一度は降伏し、中央権力の空白(信長の死)を好機と見て再起を図るという動きは、当時の多くの国人領主に見られたものである。事実、天正伊賀の乱後、生き残った伊賀国人たちが信長の死を機に勢力回復を試みた「第三次天正伊賀の乱」とも呼べる動きがあったことは史実として確認されている 6 。浄雲がこの動きに加わったとしても、何ら不思議ではない。

なぜ、これら二つの説が並立するのか。それは、歴史が「記録された英雄譚」と「伝えられた一族の記憶」という二つの側面から構成されることを示唆している。公式の戦記としては、伊賀の悲劇を象徴する「壮絶な討死」が記録されやすい。しかし、その裏で一族が生き残りをかけてたどった、より複雑で泥臭い道程が、別の伝承として残った可能性がある。

この謎を解く鍵は、次章で詳述する、彼が遺したとされる物証の存在にある。一族郎党がことごとく「玉砕」したのであれば、彼の遺品が現代にまで伝わることは極めて困難だからである。この矛盾点こそが、浄雲の最期の真実へと迫るための重要な糸口となる。

第五章:敗将の遺産 ―後世に伝わるもの―

戦いに敗れ、歴史の表舞台から姿を消した森田浄雲。しかし、彼の存在を現代に伝える確かな遺産が残されている。それは、一領の甲冑と、故地に根付く一族の記憶である。これらの遺産は、前章で提示した浄雲の最期をめぐる謎に、一つの説得力ある答えを与えてくれる。

第一節:伊賀上野城に眠る甲冑

現在、伊賀市のシンボルである伊賀上野城の城内博物館には、森田浄雲が所用したと伝わる実物の甲冑が展示・収蔵されている 1 。この甲冑は、浄雲の子孫によって上野城博物館に寄贈されたものであると伝えられており、浄雲の存在を証明する最も重要な物証といえる 27

もし、伝承の通り一之宮城で浄雲と一族郎党が文字通り「玉砕」し、一人残らず討死していたのであれば、当主の武具である甲冑が戦火を免れ、後世にまで完全な形で受け継がれることは極めて考えにくい。甲冑が子孫の手によって現代まで守り伝えられてきたという事実は、「玉砕」という言葉が、戦闘の激しさや当主の死を強調するための修辞的な表現であり、一族の物理的な全滅を意味するものではなかったことを強く示唆している。

第二節:故地の記憶と子孫の行方

物理的な遺品だけでなく、浄雲の記憶は彼が治めた土地にも息づいている。浄雲の居館であった「森田氏館」の跡地には、現在も子孫と思われる家が居住している可能性が指摘されている 14 。これもまた、森田一族が天正伊賀の乱という破局を乗り越え、その血脈を故地で保ち続けたことを示している。

甲冑の寄贈者が「子孫」であるという事実と、故地に残る一族の痕跡。これらを考慮すると、第四章で提示した二つの死亡説の間に、一つの整合性ある解釈が浮かび上がる。すなわち、「当主である森田浄雲自身は、天正9年(1581年)に一之宮城で討死を遂げた。しかし、彼の子や後継者を含む一族の一部は、城を脱出するか、あるいは降伏することで生き延びた」というシナリオである。

生き残った一族は、家宝である浄雲の甲冑を守り抜き、後世へと伝えた。そして、彼ら一族の記憶の中で、当主の「討死」という事実と、一族がその後も信長の死を機に抵抗を試みた(あるいはその動きに同調した)という事実が語り継がれるうちに、伝承として混ざり合い、「生存・後日蜂起説」というもう一つの物語が生まれたのではないか。この解釈に立てば、「討死説」と一族の存続という、一見矛盾する二つの事実を両立させることが可能となる。

終章:森田浄雲という存在が問いかけるもの

本報告書で詳述してきた森田浄雲の生涯は、戦国時代という大きなうねりの中で、一つの地域共同体がどのように生き、そして滅んでいったかを物語る貴重な事例である。彼は、守護を置かず地侍の合議によって国を治める「伊賀惣国一揆」という特異な共同体を代表する軍事指導者であった。そしてその最期は、地域の独立が中央の巨大な権力によって無慈悲に蹂躙されるという、戦国時代の普遍的な悲劇を体現していた。

彼の死をめぐって「討死説」と「生存・後日蜂起説」という二つの伝承が並立している事実は、歴史が単一の客観的な事実だけで構成されるのではなく、「記録」と「記憶」という二重の構造から成り立っていることを我々に教えてくれる。伊賀の抵抗精神を象徴する「英雄的な討死」という公的な記録の裏側で、一族は現実的な生存の道を模索し、その記憶を家宝である甲冑と共に後世に伝えた。この二つの物語の間にこそ、歴史の複雑な真実が横たわっている。

最終的に、森田浄雲という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げることは、単なる個人史の追究に留まらない。それは、戦国という時代の多様性と残酷さ、そして何よりも、歴史の勝者である織田信長の視点からだけでは見えてこない、敗者の視点から歴史を再構築することの重要性を我々に示してくれるのである。乱世に散った伊賀の将、森田浄雲。彼の物語は、これからも歴史を多角的に読み解くことの意義を静かに問いかけ続けるであろう。

引用文献

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  2. カードリスト/電影武将・宴/宴022森田浄雲 - 戦国大戦あっとwiki - atwiki(アットウィキ) https://w.atwiki.jp/sengokutaisenark/pages/834.html
  3. 戦国!室町時代・国巡り(11)伊賀編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n61b4b7403d4a
  4. 【HR】森田浄雲 - しろくろジョーカー攻略Wikiまとめ - Gamerch https://sirokurojoker.gamerch.com/%E3%80%90HR%E3%80%91%E6%A3%AE%E7%94%B0%E6%B5%84%E9%9B%B2
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  13. 猪田村(いだむら)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%8C%AA%E7%94%B0%E6%9D%91-3069148
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  15. 天正伊賀の乱/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-kosenjo/tensyoiganoran-kosenjo/
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  17. 伊賀忍/甲賀忍 忍者名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/igaSS/index.htm
  18. だから忍者市宣言‼vol5【天正伊賀の乱と城跡】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Vqso8FDSEAg
  19. 天正伊賀の乱(2/2)織田軍と伊賀忍者の壮絶な戦いの結末とは? - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/30/2/
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  21. 一の宮城 - 全国文化財総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/cultural-property/461252
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