森脇祐有は吉川家の宿老。主君興経の失政と寵臣専横に危機感を抱き、吉川経世と共に興経を隠居させ、毛利元就の次男元春を擁立。吉川家存続に貢献した。
戦国時代の日本史において、毛利元就の次男・吉川元春が安芸国の名門・吉川氏の家督を継承した出来事は、毛利氏が中国地方の覇者へと飛躍する上で決定的な転換点であった。この歴史的事件の陰で、主君を追放し、新たな当主を外部から迎えるという、前代未聞のクーデターを主導した人物がいた。それが、本報告書の主題である吉川家の宿老、森脇祐有(もりわき すけあり)である。生年は明応7年(1498年)、没年は天文21年(1552年)と推定されている 1 。
森脇祐有の名は、一般的には「主君・吉川興経に近侍する寵臣・大塩氏の圧政を退け、興経を隠居させて元春を当主として迎えた忠臣」として語られることが多い 1 。しかし、彼の行動を単なる忠義や反逆といった二元論で評価することは、戦国乱世の複雑な実態を見誤らせる。本報告書は、森脇祐有を、主君個人への忠誠よりも「家(イエ)」の存続という至上命題のために、主君廃立という非常手段を断行した、戦国期国人層の合理的かつ非情な判断を体現する人物として再評価することを目的とする。
当時の安芸国は、西の周防を本拠とする大内氏と、東の出雲を本拠とする尼子氏という二大勢力の狭間にあり、文字通りの草刈り場と化していた 3 。吉川氏をはじめとする国人領主たちは、自家の存続を賭けて両勢力の間で離合集散を繰り返すことを余儀なくされる、極めて不安定な状況に置かれていた 5 。このような時代背景の中で、当主・吉川興経の優柔不断な外交政策は、家中に深刻な危機感をもたらした。森脇祐有の決断は、この危機的状況を打開し、結果として安芸の一国人領主に過ぎなかった吉川氏を、毛利宗家を支える強力な一翼「毛利両川」へと変貌させる歴史的契機となったのである。
本報告書では、祐有の出自と吉川家中における立場、彼が主導したクーデターの具体的な経緯と背景、そして新体制下での彼の役割と一族のその後を、複数の史料を比較検討しながら多角的に解明する。特に、後世に編纂された軍記物語である『陰徳太平記』の記述と、信頼性の高い一次史料や『森脇覚書』のような記録を照合することで、森脇祐有という人物の実像に迫る。彼の生涯を追うことは、戦国時代の国人領主が直面した厳しい現実と、彼らの下した決断が歴史に与えた重大な影響を理解する上で、極めて重要な示唆を与えるであろう。
西暦 |
和暦 |
年齢(推定) |
出来事 |
典拠 |
1497年 |
明応6年 |
|
毛利元就、生まれる。 |
6 |
1498年 |
明応7年 |
1歳 |
森脇祐有、生まれる(推定)。 |
1 |
1508年 |
永正5年 |
11歳 |
吉川興経、生まれる。 |
3 |
1522年 |
大永2年 |
25歳 |
興経、父・元経の死により家督を継承。 |
3 |
1542年 |
天文11年 |
45歳 |
月山富田城の戦い。興経が大内氏を裏切り、家中の不信感が高まる。 |
5 |
1547年 |
天文16年 |
50歳 |
森脇祐有と吉川経世がクーデターを決行。大塩氏を討ち、興経を隠居させ、吉川元春を養子に迎える。 |
3 |
1550年 |
天文19年 |
53歳 |
元春が吉川家の家督を正式に相続。同年9月、元就の命により興経と子・千法師が殺害される。 |
3 |
1550年 |
天文19年 |
53歳 |
元春が森脇祐有に対し、讒言を信じないと誓う起請文を発給する。 |
9 |
1552年 |
天文21年 |
55歳 |
森脇祐有、死去(推定)。 |
1 |
森脇祐有の行動を理解するためには、まず吉川家における森脇氏の特別な地位を把握する必要がある。森脇家は、単なる家臣ではなく、吉川家の歴史と深く結びついた譜代中の譜代であった。
史料によれば、森脇家は吉川氏がまだ本拠を駿河国(現在の静岡県)に置いていた鎌倉時代から仕えてきた、極めて家柄の古い家臣であった 10 。吉川氏が鎌倉時代末期に安芸国大朝荘へ移住した際にも、森脇氏はこれに従い、数百年にわたって主家と運命を共にしてきた。このような家は、当主が代替わりしても家中に留まり続け、家の伝統や記憶を継承する「番人」とも言うべき役割を担っていた。
さらに、森脇家は城や館といった防御施設の設計・築造を得意とする技術者集団としての側面も持っていた可能性が指摘されている 10 。戦国時代において、城郭の構築・維持管理は領国経営の根幹をなす重要事であり、こうした専門技能は、森脇氏が吉川家中で単なる武辺者としてだけでなく、技術官僚としても重用され、強い発言力を持つ一因となっていたと考えられる。
森脇祐有は、こうした由緒ある家柄の当主として、吉川家の「宿老」という重職にあった 3 。宿老とは、家の運営に関する最高意思決定に関与する筆頭家老格の重臣であり、その立場は主君・吉川興経の叔父である吉川経世と並び称されるほどのものであった 3 。これは、祐有が単に個人的な能力で取り立てられたのではなく、譜代の家臣団を代表し、その意見を家政に反映させる責務を負う立場にあったことを意味する。
彼の行動を考察する上で、この「譜代の宿老」という立場は極めて重要である。彼らの忠誠の対象は、必ずしもその時々の当主個人に向けられるものではなく、吉川という「家」そのものの永続性に向けられていた。したがって、当主が家の存続を危うくするような愚行や失政を犯した場合、それを諫め、時には実力をもって是正することも、彼らにとっては譜代筆頭としての「責任の行使」であり、究極の忠義であるという価値観が存在した。祐有が後に起こすクーデターは、まさにこの価値観に根差した行動であったと解釈できる。
なお、同時代には出雲の尼子氏にも重臣として森脇久仍(もりわき ひさのり)という同姓の武将が存在し、「尼子分限帳」によれば28,750石もの所領を持つ有力者であったが 11 、安芸吉川氏に仕えた森脇祐有とは全くの別系統である。調査の正確性を期すため、両者を明確に区別する必要がある。
森脇祐有ら宿老が、主君の廃立という非常手段に踏み切った背景には、当主・吉川興経(きっかわ おきつね)の度重なる失政と、それによって引き起こされた家中の深刻な亀裂があった。
吉川興経は武勇に優れた武将であったとされる一方、当主としての戦略眼や政治力に著しく欠けていた 3 。彼の治世は、安芸国を挟む大内氏と尼子氏という二大勢力の動向に終始翻弄され続けた。興経は、目先の形勢利害によって大内方と尼子方の間を何度も行き来し、その態度は一貫性を欠いていた 3 。
その優柔不断さが最も致命的な形で露呈したのが、天文11年(1542年)の第一次月山富田城の戦いである。この戦いで興経は、当初大内方として尼子氏の本拠地・月山富田城攻めに参加していたにもかかわらず、戦況が膠着する重要な局面で突如として大内氏を裏切り、尼子方へ寝返った 5 。この裏切りが引き金となり、大内軍は総崩れとなり大敗。大内義隆の養嗣子・大内晴持や、毛利氏の重臣・渡辺通など多くの将兵を失うという壊滅的な打撃を被った 5 。
この一件は、興経の信用を完全に失墜させた。他の国人領主からだけでなく、吉川家中の家臣団からも「当主として頼むに足らず」という評価が決定的なものとなり、彼の孤立を深めていった 5 。
外交政策の失敗に加え、興経は内政においても家中の和を乱す行動に出た。彼は、森脇祐有や叔父の吉川経世といった鎌倉以来の譜代の宿老たちを軽んじ、出自の明らかでない大塩右衛門尉(おおしお うえもんのじょう)という人物を寵臣として重用したのである 3 。
『陰徳太平記』などの軍記物によれば、この大塩氏が興経の威光を笠に着て「圧政」を敷き、その政治は「横妨極まる」ものであったと記されている 1 。具体的な圧政の内容を記した一次史料は乏しいものの、譜代家臣層が持つ伝統的な権益を侵害したり、家中の秩序を無視した独断専行を行ったりしたことで、家臣団の不満が鬱積していったことは想像に難くない。興経がこうした宿老たちの諫言に耳を貸さず、大塩氏を偏愛し続けたことが、家中の亀裂を修復不可能なレベルにまで深める結果となった。
この状況は、森脇祐有ら譜代家臣団にとって、もはや看過できない事態であった。当主の興経自身が、家の存立基盤である家臣団の結束を破壊していると映ったのである。この危機感が、やがて彼らを具体的な行動へと駆り立てていくことになる。
年代 |
所属勢力 |
主な関連事項 |
典拠 |
大永2年(1522年)頃 |
尼子方 |
父・元経の代からの路線を継承し、尼子経久に属する。 |
3 |
大永5年(1525年) |
尼子方 |
毛利元就が大内方へ転じるが、興経は尼子方に留まる。 |
3 |
天文9-10年(1540-41年) |
尼子方 |
尼子氏による毛利氏の吉田郡山城攻めに尼子方として参陣。宮崎長尾の合戦で奮戦する。 |
3 |
天文10年(1541年) |
大内方 |
郡山城攻めの失敗後、他の国人衆と共に大内義隆に服属する。 |
3 |
天文11年(1542年) |
大内方 → 尼子方 |
大内氏の出雲遠征(月山富田城の戦い)に従軍するも、戦いの最中に再び尼子方へ寝返る。 |
3 |
天文12年(1543年) |
大内方 |
毛利元就の取り成しにより、再び大内氏に降伏し、所領を安堵される。 |
3 |
主君・吉川興経への不信と、寵臣・大塩氏への憎悪が頂点に達した時、森脇祐有と吉川経世は、ついに家の存続を賭けた実力行使に踏み切った。この一連の動きは、周到に計画されたクーデターであった。
天文16年(1547年)頃、森脇祐有と吉川経世は行動を開始した。彼らがまず標的としたのは、興経の権勢の源泉となっていた寵臣・大塩右衛門尉であった。『陰徳太平記』によれば、祐有らは兵を率いて大塩の館を急襲し、抵抗する大塩父子をはじめ一族をことごとく討ち果たし、その館に火を放ったとされている 7 。これは、興経本人を直接攻撃する前に、その手足をもぎ、完全に孤立させるための、計算された第一段階であった。
大塩氏を排除した後、祐有と経世は直ちに家中の重臣たちを集めて会議を開き、興経を当主の座から引きずり下ろし、強制的に隠居させることを満場一致で決定した 14 。そして、後継者として白羽の矢を立てたのが、隣国で勢力を拡大しつつあった毛利元就の次男・元春(後の吉川元春)であった。元春の母・妙玖は興経の祖父・国経の娘であり、元春は興経にとって従甥にあたる血縁関係にあった 3 。この血縁が、外部からの養子縁組を正当化する上で重要な名分となった。
重臣団の総意を得た祐有らは、毛利元就に使者を送り、元春を吉川家の嗣子として迎え入れたい旨を正式に申し入れた。この申し出は、元就にとって、安芸国の名門であり屈強な軍事力を誇る吉川家を、自家の勢力圏に組み込むまたとない好機であった。
元就は熟考の末、この要請を承諾するが、その際にいくつかの条件を提示したとされる 7 。『陰徳太平記』などによれば、その内容は「興経を隠居させ毛利領内の布川に移すこと」「興経に異心がない限り、その身柄の安全は保証すること」「興経の子・千法師の処遇」などであった 7 。一見すると、これは旧主への配慮を見せた穏当な条件のように思える。しかし、これは吉川家中の反発を抑え、家督の乗っ取りを円滑に進めるための、元就の深謀遠慮に満ちた政治的駆け引きであった。祐有ら吉川家臣団は、主家を救うために元就の力を借りたが、それは同時に、自家の運命を元就の掌中に委ねることを意味していた。
天文16年(1547年)8月、興経は家臣団の圧力に屈し、長年本拠としてきた小倉山城を退去、毛利領内である深川(現在の広島市安佐北区)の館へ移り、隠居生活に入った 3 。
しかし、物語はここで終わらなかった。元就は、隠居させたとはいえ、武勇で知られる興経が再起を図ることを終始警戒していた。興経が尼子氏と密かに通じているという風説も絶えなかった 16 。将来の禍根を完全に断つことを決意した元就は、天文19年(1550年)9月27日、家臣の熊谷信直と天野隆重に命じ、深川の興経の館を奇襲させた 3 。『陰徳記』によれば、この時、元就はあらかじめ内応者を通じて興経の愛刀の刃を潰し、弓の弦を切らせていたという 17 。抵抗する術を奪われた興経は、嫡男の千法師もろとも殺害された 3 。享年43。これにより、鎌倉時代から続いた藤原姓吉川氏の嫡流は、完全に断絶した。
森脇祐有らが目指したのは、あくまで当主の交代による「家の再生」であっただろう。しかし、彼らが引き入れた毛利元就という外部の力は、彼らの想定をはるかに超える非情さと冷徹さで事態を収拾した。祐有のクーデターは、吉川家を滅亡の危機から救った一方で、その独立性を完全に失わせ、毛利家の権力構造に組み込むという、皮肉な結果をもたらしたのである。
吉川興経の追放と殺害という衝撃的な事件を経て、吉川家は毛利元就の次男・元春を新たな当主として迎えた。この権力移行期において、クーデターの首謀者であった森脇祐有が、新体制下でどのように処遇されたのかは、彼の功績と影響力を測る上で極めて重要な指標となる。
吉川元春が家督を相続した後も、森脇祐有は旧臣の筆頭、そして宿老として家中で重きをなし続けた。その事実を最も雄弁に物語るのが、天文19年(1550年)に元春が祐有に対して発給した起請文(誓約書)の存在である 9 。
通常、起請文は家臣が主君に対して忠誠を誓うために提出するものである。しかし、この史料では、主君である元春が、家臣である森脇祐有に対して特定の事柄を誓約するという、異例の形式を取っている。この事実自体が、当時の両者の力関係の特殊性を物語っている。
この起請文の追って書きには、「もし他人が森脇祐有について(悪く)告げ口したとしても、その動向を勝手に邪推することはなく、祐有本人に直接尋ねて真偽を確かめる」という趣旨の一文が含まれている 9 。
この一文は、複数の重要な意味合いを持つ。第一に、新当主である元春が、クーデターの最大の功労者であり、旧臣たちの代表格である祐有の立場を最大限に尊重し、讒言によって両者の信頼関係が損なわれることのないよう、公式に保証したものである。これは、元春の新体制が、祐有ら旧臣たちの協力なくしては安定し得なかったことの証左である。
第二に、この文書の背景には、元春側の深い警戒心があったと推測されている。当時の研究では、この起請文は「尼子氏からの働きかけを念頭に置いて」書かれたものと指摘されている 9 。つまり、毛利・吉川側は、尼子氏が再び吉川家中の不満分子に接触し、森脇祐有を担ぎ出して再クーデターを起こす可能性すら危惧していたのである。元春にとって祐有は、新体制の功労者であると同時に、一歩間違えれば最も危険な敵になりうる存在でもあった。
したがって、この起請文は、元春から祐有への「信頼の表明」という側面と、祐有を新体制にしっかりと縛り付け、その影響力をコントロールしようとする高度な政治的駆け引きという、二つの側面を併せ持っていたと解釈できる。祐有は、主家を救った功労者として丁重に遇される一方で、その一挙手一投足を厳しく監視される存在でもあった。この緊張感こそが、権力移行期の真実の姿であった。
森脇祐有は、この起請文が書かれた2年後の天文21年(1552年)、55歳でその生涯を閉じたと推定されている 1 。彼の死は、吉川家が興経時代の旧体制から、元春を頂点とする毛利両川の一翼としての新体制へと完全に移行する、一つの象徴的な区切りとなったと言えるだろう。
森脇祐有の死後も、彼が築いた功績は一族の地位を安泰にし、森脇氏は吉川家の重臣として代々仕え続けた。また、一族の中から歴史を記録する人物が現れたことは、後世の研究にとって大きな財産となっている。
祐有の死後も、森脇一族は吉川元春・元長父子、そしてその後の当主の下で重用された。
これらの事例は、祐有が断行したクーデターと元春擁立が、結果として森脇一族の吉川家中における地位を確固たるものにし、その後の繁栄の礎となったことを示している。関ヶ原の戦いの後、吉川氏が周防国岩国領主となると、森脇一族もそれに従って岩国へ移住し、江戸時代を通じて家臣として存続した 25 。近代の史料には、子孫である森脇継友が、主君であった吉川元長の肖像画を所蔵していたという記録も残っている 27 。
森脇一族が後世に残した最も重要な功績の一つが、森脇春方によって著された『森脇覚書』(別称:元就記、森脇飛騨覚書)である。この覚書は、元和4年(1618年)に完成し、まず主君の吉川広家に、次いで毛利輝元に献上された 23 。
内容は、天文18年(1549年)の毛利元就と大内義隆の会見から、元亀3年(1572年)の尼子勝久の敗走までの、毛利氏および吉川氏の動向を記録したものである 23 。江戸時代に成立した『陰徳太平記』が、文学的な潤色が多く含まれる軍記物語であるのに対し、『森脇覚書』は同時代に近い人物による簡潔かつ事実に基づいた記録であり、その史料的価値は非常に高いと評価されている 23 。現代の歴史研究においても、この『森脇覚書』は、二宮俊実の覚書などと共に『陰徳太平記』の元になった一次史料群の一つとして、また毛利・吉川氏の動向を検証する上での信頼性の高い基準点として重視されている 29 。
人物名 |
活躍時代 |
主な役割・功績 |
祐有との関係(推定) |
典拠 |
森脇 祐有 |
戦国時代(天文期) |
吉川家宿老。興経追放、元春擁立のクーデターを主導。 |
本人 |
1 |
森脇 春親 |
戦国時代(天正期) |
吉川元春・元長の奉行。城の普請などを担当。 |
一族(詳細不明) |
20 |
森脇 若狭守 |
戦国時代(天正期) |
伯耆国・天守山城主。吉川氏の山陰支配の拠点管理を担う。 |
一族(詳細不明) |
22 |
森脇 飛騨守 春方 |
戦国時代~江戸初期 |
吉川元春の部将。『森脇覚書』を著し、貴重な記録を残す。 |
一族(詳細不明) |
23 |
森脇 継友 |
江戸時代以降 |
吉川元長の肖像画を所蔵。 |
祐有の子孫 |
27 |
森脇祐有の生涯、特に彼が主導した吉川興経の追放と毛利元春の擁立という一連の行動は、戦国時代における「忠義」の概念そのものを問い直す、示唆に富んだ事例である。
彼の行動を、近世以降に確立された儒教的な主君個人への絶対的忠誠という価値観から見れば、主君を追放し、結果的にその死を招いた「不忠の臣」と断じることも可能かもしれない。しかし、それは時代の文脈を無視した評価と言わざるを得ない。戦国時代の国人領主にとって、最も優先されるべきは個々の当主ではなく、「家(イエ)」そのものの存続と安泰であった。当主がその器量を欠き、家の存続を危うくするならば、家臣団がそれを是正するのは、彼らにとっての責務であり、究極の「忠義」の発露であった。この観点に立てば、森脇祐有は、滅亡の危機に瀕した吉川家を救うために、最も現実的かつ効果的な手段を選択した、卓越した現実主義者であったと評価できる。
祐有の決断が持つ歴史的な意義は、単に吉川家の内紛というミクロな事象に留まらない。それは、毛利元就による中国地方の勢力圏拡大というマクロな歴史の潮流に、安芸の名門・吉川家を合流させる、決定的な役割を果たした。彼が主導したクーデターがなければ、毛利宗家を両翼から支える「毛利両川」体制は成立せず、その後の毛利氏の中国地方制覇も、織田信長との長期にわたる抗争も、全く異なる様相を呈していた可能性が高い。祐有は、彼自身がどこまで自覚的であったかは定かでないにせよ、まさしく歴史の転換点を演出した重要人物の一人であった。
現存する史料は、森脇祐有の個人的な人柄を多くは伝えない。しかし、その大胆かつ周到なクーデターの計画と実行力、そして新たな当主となった元春からでさえ一目置かれ、その動向を警戒されるほどの存在感は、彼が卓越した政治力と判断力、そして家中をまとめ上げる人望を兼ね備えた稀有な人物であったことを雄弁に物語っている。森脇祐有は、戦国乱世という激動の時代を生き抜き、自らの決断で主家の運命、ひいては地域の歴史を大きく動かした、国人領主層のしたたかさと合理性を象徴する、記憶されるべき武将である。