森長可は「鬼武蔵」と恐れられた織田信長の猛将。父と兄の死後、13歳で家督を継ぎ、伊勢長島一向一揆や甲州征伐で活躍。本能寺の変後は信濃から決死の撤退。小牧・長久手の戦いで27歳で戦死。
永禄元年(1558年)、尾張の地に生を受けた一人の武将がいた。その名を森長可という 1 。彼は、天正十二年(1584年)にわずか27歳でその生涯を閉じるまでの短い期間に、「鬼武蔵」「夜叉武蔵」という、畏怖の念を込めた異名を戦国の世に轟かせた 2 。織田信長の家臣として数多の戦場で武功を重ね、本能寺の変という未曾有の動乱を乗り越え、最後は小牧・長久手の合戦にその命を散らした。彼の生涯は、激しさと苛烈さ、そして早すぎる死によって特徴づけられる。
本報告書は、森長可という人物の生涯を、現存する史料や伝承を基に多角的かつ徹底的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。利用者諸氏が既に有する「鬼武蔵の異名を持つ織田家臣」という概要的知識の範疇に留まらず、彼の出自、家族との関係、主要な戦功、人物像を形成した逸話の数々、そして彼の死が後世に与えた影響までを網羅的に詳述する。
特に注目すべきは、彼の代名詞ともいえる愛槍「人間無骨」が象徴する破壊的な武人としての側面と、死の直前に残した遺言に見られる家族への深い配慮という、一見矛盾する二面性である 4 。この二つの側面は、森長可という複雑な人物を理解する上で不可欠な鍵となる。本報告書では、これらの要素を統合し、単なる猛将という紋切り型の評価を超え、戦国乱世という時代が生んだ一人の人間の苦悩と輝きを立体的に描き出すことを試みる。
森氏は、その系譜を辿ると清和源氏の源義隆に連なると称する武門である 7 。義隆の子孫が相模国愛甲郡森庄に拠点を構えたことから森姓を名乗るようになったとされ、これは後に長州藩主となる毛利氏と同じルーツを持つという説も存在する 9 。その後、一族の一派が美濃国に土着し、守護大名であった土岐氏の被官となった 7 。
長可の父・森可成の代に至り、斎藤道三の台頭によって主家である土岐氏が没落すると、可成は尾張の織田信長に仕える道を選ぶ 12 。この決断が、森家を戦国時代の中心舞台へと導くことになった。源氏の名門という自負は、後の長可の誇り高い気性と、自らの武功によって家名を高めようとする強烈な意志の根底にあったと考えられる。
父・森可成は、織田信長の尾張統一から美濃攻略に至るまで、数々の戦場で目覚ましい功績を挙げた織田家中の宿老であった 14 。槍の名手として知られ、その勇猛な戦いぶりから「攻めの三左」の異名を取り、敵から恐れられた 12 。天文24年(1555年)の清洲城攻めでは、信長の主筋でありながら謀反を起こした織田信友を討ち取る大手柄を立て、信長の家督相続を巡る稲生の戦いや桶狭間の戦いでも重要な働きを見せた 13 。
その可成は、元亀元年(1570年)9月、信長が浅井・朝倉連合軍との戦いのために近江から撤退した後、近江の宇佐山城の守備を任された 14 。しかし、信長不在の隙を突いた浅井・朝倉連合軍の数に勝る大軍の猛攻を受け、奮戦の末に討死を遂げる 14 。享年48歳。この父の壮絶な死は、当時わずか13歳であった長可に計り知れない衝撃を与えた。信長は可成の死を深く悲しみ、その弔い合戦として浅井・朝倉方に与した比叡山延暦寺の焼き討ちを決行したとされており、この事実は織田家における森可成という武将の重要性を物語っている 14 。
偉大な父の死は、長可のその後の苛烈な生き方を決定づける原体験となった可能性が高い。父は織田家中で確固たる地位を築いた武勇の象徴であった。その父を失い、若くして家督を継いだ長可は、織田家中の厳しい生存競争の中で、侮られることなく自らの存在価値を証明する必要に迫られた。彼が選択した手段は、父をも超えるほどの圧倒的な「武」を追求することであった。彼の戦場での常軌を逸したとも言える勇猛さは、単なる気性の激しさだけでなく、父の死というトラウマと、森家を守り抜くという強迫観念にも似た責任感から生まれた、意識的な自己演出であったと解釈することもできる。
父・可成が戦死した元亀元年、実はその年の4月には長兄の森可隆も越前の手筒山攻めで既に戦死していた 16 。父と兄という二人の支柱を同時に失った森家は、次男であった長可がわずか13歳で家督を相続し、美濃金山城主となる 2 。この若さでの家督相続という重圧が、彼の独立心と自己を強く打ち出す性格の形成に大きく影響したことは想像に難くない。
森家は父・可成と正室・えい(妙向尼)の間に六男三女が生まれるという大家族であった 4 。兄弟の中でも、長可の人生に深く関わったのが弟たちである。特に、三男の成利(通称・蘭丸)、四男の長隆(通称・坊丸)、五男の長氏(通称・力丸)は、信長の小姓として側に仕え、その寵愛を受けたことで知られる 4 。彼らは天正十年(1582年)の本能寺の変において、信長と運命を共にすることになる 19 。
この兄弟構成は、森家内での役割分担を自然と生み出した。弟の蘭丸が、その聡明さと細やかな気配りで信長の側近として「文」の役割を担い、政治的な影響力を高めていく一方で、長可は戦場において武功を挙げる「武」の役割に特化していった 4 。蘭丸が信長の「内」を固め、長可が「外」で武威を示す。この両輪体制が、織田政権下における森家の地位をより強固なものにした。この分業体制は、長可がより純粋な武人として、ある意味で破天荒に振る舞うことを許容する環境を生み出したとも言えるだろう。
そして、兄弟の中で唯一戦国の世を生き抜き、後に森家の家名を再興させることになるのが、末弟の忠政(幼名・千丸)である 11 。彼の存在は、長可の死後の森家を語る上で不可欠な人物となる。
続柄 |
氏名(通称・幼名) |
生没年 |
備考 |
父 |
森可成(もり よしなり、三左衛門) |
1523年 - 1570年 |
「攻めの三左」。近江・宇佐山城の戦いで戦死 13 。 |
母 |
えい(妙向尼) |
不詳 |
可成の正室。六男三女の母 2 。 |
兄 |
森可隆(もり よしたか) |
不詳 - 1570年 |
越前・手筒山攻めで戦死 16 。 |
本人 |
森長可(もり ながよし、勝蔵、武蔵守) |
1558年 - 1584年 |
本報告書の主題。小牧・長久手の戦いで戦死 1 。 |
弟 |
森成利(もり なりとし、蘭丸) |
1565年 - 1582年 |
信長の小姓。本能寺の変で戦死 4 。 |
弟 |
森長隆(もり ながたか、坊丸) |
1566年 - 1582年 |
信長の小姓。本能寺の変で戦死 4 。 |
弟 |
森長氏(もり ながうじ、力丸) |
1567年 - 1582年 |
信長の小姓。本能寺の変で戦死 4 。 |
弟 |
森忠政(もり ただまさ、千丸) |
1570年 - 1634年 |
兄たちの死後、家督を継承。初代津山藩主 11 。 |
妻 |
せん |
不詳 |
池田恒興の娘 2 。 |
子 |
娘(おこう)、他一男 |
不詳 |
遺言状に娘の名が見える 5 。 |
若き当主となった長可が、その武才を初めて戦場で示したのは、元亀4年(1573年)から天正2年(1574年)にかけて行われた伊勢長島一向一揆の鎮圧戦であった 25 。この時、16歳か17歳であった長可は、信長の嫡男・信忠の部隊に属して初陣を飾る 25 。彼は、歴戦の猛者たちに混じっても一切臆することなく、自ら敵陣の奥深くへと突入し、27もの首級を挙げたと伝えられている 1 。この凄まじい戦いぶりは、主君・信長からも高く評価され、彼の武名が織田家中に知れ渡るきっかけとなった 27 。
この初陣の頃から、長可は彼の代名詞となる一振りの十文字槍を振るっていた。その槍には「人間無骨」という四文字が刻まれていた 1 。表の穂先近くに「人間」、裏に「無骨」と彫られたこの銘は、「この槍の前では、人間の骨など無いも同然である」という、その恐るべき切れ味を物語っている 27 。実際に、討ち取った首級を槍に突き刺したまま立てたところ、首が自重で刀身を滑り落ち、鎌刃の部分を突き抜けてしまったという逸話が残るほどであった 27 。この槍は、室町時代後期の名工として名高い二代目和泉守兼定の作とされ、まさしく名将にふさわしい名槍であった 4 。この「人間無骨」は、単なる武器ではなく、長可の武人としての苛烈なアイデンティティそのものであり、敵味方に彼の存在を知らしめる象徴的な装置として機能していた。
天正10年(1582年)、織田家による武田家滅亡戦、いわゆる甲州征伐が開始されると、長可は団忠正と共に先鋒部隊の将に抜擢されるという栄誉にあずかった 5 。2月、木曽口から信濃に侵攻した長可の部隊は、破竹の勢いで進軍。松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、飯田城の保科正直を敗走させるなど、武田方の防衛線を次々と突破していった 5 。
彼の「鬼」としての側面が最も顕著に現れたのが、武田勝頼の弟・仁科盛信が守る高遠城の戦いである 32 。信長は、嫡男・信忠が率いる本隊が到着するまで攻撃を控えるよう命じていたが、長可はこの命令を無視した 31 。戦機を逸することを嫌った彼は、独断で総攻撃を開始。その戦法は常軌を逸していた。重臣の各務元正が城壁に設けられた狭間(鉄砲や弓を射るための小窓)から城内へ突入するという離れ業を演じると、長可自身も三の丸に乗り込むや屋根に駆け上り、屋根板を剥がして本丸を守る城兵の頭上から鉄砲を撃ちかけるという奇策を用いた 2 。
この猛攻の末に高遠城は一日で陥落し、仁科盛信以下、城兵のほとんどが玉砕した 32 。戦いの後、長可の鎧の下半身は敵兵の返り血で真っ赤に染まっており、それを見た信忠が思わず「手負いか」と尋ねたという逸話が残っている 5 。この軍規違反と残虐とも言える戦いぶりは、彼の功名心への渇望と、目的のためには手段を選ばない苛烈な性格を如実に示している。
しかし、この一連の行動は単なる若気の至りや暴走と片付けることはできない。信長という主君が、旧来の権威や慣習よりも実利と結果を何よりも重視する人物であることを、長可は的確に理解していた。命令を待つことで武田方の抵抗が強まり、迅速な征服という織田軍全体の戦略目標が滞ることを彼は危惧した。たとえ軍規違反の咎めを受けたとしても、高遠城を迅速に陥落させるという「結果」を出すことこそが、最終的に信長の評価に繋がると計算した上での、リスクを承知の合理的な判断であった可能性が高い。
長可の読みは的中した。信長は、彼の軍規違反を厳しく罰することはなく、むしろその圧倒的な戦功を高く評価した 5 。武田氏滅亡後に行われた論功行賞において、長可は信濃国の川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城を与えられ、その石高は実に二十万石にも及んだ 5 。これは、織田家臣団の中でも破格の待遇であり、長可が信長の信頼する「刃」として、いかに高く評価されていたかを明確に物語っている。
この時、長可がそれまで治めていた美濃金山城は、信長の側近くに仕える弟の蘭丸(成利)に与えられた 5 。これにより、森兄弟は美濃と信濃にまたがる広大な領地を治める有力大名となり、森家はその絶頂期を迎えることとなったのである。
森長可の人物像は、戦場での勇猛さだけでは語り尽くせない。彼の生涯には、その破天荒で常識外れな性格を示す逸話が数多く残されている。
彼の性格を最も象徴するのが、「武蔵守」の官名を拝命するきっかけとなったとされる関所での一件である。信長が上洛し、京都の治安維持にあたっていた頃、近江国瀬田の橋に関所が設けられ、通行する者は下馬して名乗ることが義務付けられていた。そこを通りかかった長可は、急いでいるとして馬上から名乗っただけで通過しようとした。関所の役人がこれを制止し、規則通り下馬するよう求めると、長可は激高。「信長公の御前ならばともかく、この勝蔵に下馬を強いるとは何事か」と叫び、役人を斬り捨ててしまった。さらに、止めようとする者たちに「邪魔をするなら町ごと焼き払って押し通る」と脅しをかけ、強引に関所を突破したという 2 。
後にこの一件を信長に報告し、切腹も覚悟の上で裁定を仰いだところ、信長は激怒するどころか大笑いした。そして、かつて京の五条大橋で人を斬ったという伝説を持つ武蔵坊弁慶になぞらえ、「お前も瀬田の橋で人を斬ったのだから、今後は弁慶にあやかって『武蔵守』と名乗れ」と命じ、お咎めなしで済ませたと伝えられている 3 。この逸話は、長可の気性の激しさを示すと同時に、信長が彼のそうした型破りな性格をむしろ面白がり、許容していたという特異な信頼関係を浮き彫りにしている。長可のこうした破天荒な行動は、信長という絶対的な庇護者の存在を前提として初めて成立するものであった。
また、小牧・長久手の戦いの直前には、羽黒の八幡林に陣を構えていた際、土地の神主が勝利の吉兆として神の使いとされる蛇を捧げた。すると長可は、その蛇を掴んで二つに引き裂き、あろうことか生で食らい、「我に神仏の加護など無用」と言い放って、残りを神主の顔に投げつけたという逸話も残る 2 。これは、彼の徹底した合理主義と、神仏をも恐れぬ不遜なまでの自己への自信を示すエピソードである。
その他にも、織田信孝に人質として取られていた弟の仙千代(後の忠政)を奪還する際、岐阜城に忍び込み、仙千代を見つけるや否や、約30メートルもの高さがある崖の下に予め用意しておいた布団めがけて突き落として救出したという、作戦の成否はともかくその発想が常識外れな逸話も伝えられている 2 。
一方で、長可は単なる武辺者、粗暴なだけの人物ではなかった。猛将というイメージとは裏腹に、領国経営においても優れた手腕を発揮している。家督を継いでから治めた美濃金山城では、城下を流れる木曽川の水運を活かした商業の振興を重視。川港を整備し、城下町の区画整理を行うと共に、市場を開放する「楽市楽座」のような政策を実施し、領地の経済的発展に貢献した 16 。
甲州征伐後に与えられた信濃の統治においては、彼の冷徹な現実主義が顕著に現れる。信濃の国衆(土着の武士たち)は、表面的には従順な姿勢を見せつつも、いつ裏切るか分からない油断ならない存在であった。これを痛感した長可は、彼らの反乱を未然に防ぐため、国衆の妻子を人質として海津城に住まわせることを義務付けた 4 。これは非常に厳しい策であるが、不安定な占領地を実効支配するための、彼なりの合理的な手段であった。
この統治手法は、彼の戦闘スタイルと表裏一体であったと言える。戦場での彼のやり方は、迅速な攻撃、苛烈な殲滅、そして恐怖による支配である。信濃統治における人質政策は、まさに恐怖を基盤とした支配であり、戦場での論理をそのまま統治に応用したものであった。同時に、彼は領内への禁制の発布や、国衆との会談、所領安堵の判断といった政務も精力的にこなしており、統治者としての務めを十分に理解していたことが窺える 5 。彼の統治は、効率と結果を最優先する、極めて即物的で実利的なものであった。
天正10年(1582年)6月2日、長可が信濃海津城で新たな領地の統治に奮闘していた最中、京より衝撃的な報せがもたらされる。主君・織田信長が、家臣である明智光秀の謀反によって本能寺で自害したというのである 1 。さらに、その場には信長の側に仕えていた弟の蘭丸、坊丸、力丸の三人もおり、主君と運命を共にしたという 1 。
絶対的な権力者であった信長の死は、織田家の支配体制を根底から揺るがした。特に、織田の武威によって押さえつけられていたばかりの信濃では、その影響は即座に現れた。信長という重しがなくなった途端、信濃の国衆は一斉に蜂起し、長可に対して反旗を翻した 2 。長可は、広大な領地を与えられた栄光の頂点から一転、四方を敵に囲まれた絶体絶命の窮地に陥ったのである 39 。
この危機的状況において、長可の武将としての真価が問われた。彼は混乱に陥ることなく、即座に現状を分析し、信濃を放棄して本領である美濃金山城へ撤退することを決断する。その際、彼は海津城に集めていた国衆の人質を最大限に利用した 4 。人質を盾にすることで、国衆の直接的な攻撃を牽制し、撤退の時間と経路を確保しようとしたのである。
この信濃からの脱出行は、壮絶を極めた。道中では一揆勢の追撃を幾度となく撃破し、さらには裏切りを画策していた木曾義昌の居城・木曽福島城を逆に奇襲して人質を奪い取るなど、守勢に回りながらも常に攻めの姿勢を崩さなかった 2 。この絶望的な状況下で、唯一撤退に協力した地元の武士・出浦盛清に対しては、深く感謝して自らの脇差を与えたという逸話も残っており、彼の義理堅い一面を伝えている 4 。
この一連の撤退劇は、彼の武将としての総合力が最も発揮された局面であった。卓越した戦闘力はもちろんのこと、瞬時の判断力、部隊をまとめ上げる統率力、そして人質を利用した交渉力。その全てを駆使して、彼は死地からの脱出を成功させた。この経験は、彼が単なる猪突猛進の猛将ではなく、知略と胆力を兼ね備えた優れた指揮官であったことを証明している。
興味深いことに、この危機において彼の命を救ったのは、皮肉にも彼自身が築き上げた「鬼武蔵」という恐怖の評判であった。信濃において、一揆勢の撫で斬りや厳しい人質政策など、苛烈な統治を行ってきた長可は、国衆から極度に恐れられていた 2 。それゆえに、国衆は蜂起したものの、長可本人と正面から決戦を挑むことに躊躇した可能性がある。人質という物理的な脅威に加え、「鬼武蔵相手に下手に手を出せば、何を仕出かされるか分からない」という心理的な恐怖が、敵の行動を抑制し、彼に生還の道を開いたのである。彼が振りまいてきた恐怖のイメージが、最大の危機において彼自身を守る盾となったという逆説が、ここには存在した。
九死に一生を得て美濃に帰還した長可は、その後の織田家の後継者争いを冷静に見極めていた。信長の死後、家臣団の主導権を巡って開かれた清洲会議を経て、天下の趨勢が羽柴秀吉に傾いていることを察知すると、速やかにその配下に入った 11 。
天正12年(1584年)、信長の次男・織田信雄が、徳川家康と手を結び、秀吉に対して公然と反旗を翻した。これにより、「小牧・長久手の戦い」の火蓋が切られる。長可は秀吉軍の有力武将として、この戦いに参陣することになった 41 。
戦いは、秀吉が築いた小牧山城と、家康が布陣する清洲城との間で膠着状態に陥った。この状況を打破するため、秀吉方の重鎮であり、長可の舅(妻の父)でもあった池田恒興が、大胆な作戦を進言する 42 。それは、家康の本拠地であり、守りが手薄になっているはずの三河国を、別働隊で直接奇襲するという「三河中入り作戦」であった 43 。
長可もこの高リスク・高リターンの作戦に強く同調し、秀吉の甥である羽柴秀次(後の豊臣秀次)を総大将とする約二万の別働隊が編成された 45 。池田恒興が実質的な指揮を執り、長可は池田隊の左翼を担う第二陣の大将として出陣した 46 。この時、長可は自らの死を覚悟していたと見られ、甲冑の上から死に装束を意味する白衣をまとって戦いに臨んだと伝えられている 30 。
しかし、この奇襲作戦は事前に徳川方に察知されていた 17 。家康は自ら本隊を率いて別働隊の進路上に回り込み、これを長久手の地で迎え撃った。天正12年4月9日、両軍は激突する 47 。
長可は、徳川四天王の一人・井伊直政の部隊などと激しく戦い、奮戦した 5 。しかし、乱戦の中、徳川方の水野勝成の家臣である鉄砲足軽・杉山孫六(一説には柏原与兵衛)が放った一弾が、長可の眉間を正確に撃ち抜いた 5 。長可は即死であった。享年27 5 。
この戦いで、作戦を主導した舅の池田恒興、その嫡男・池田元助も相次いで討死し、秀吉軍の別働隊は壊滅的な敗北を喫した 24 。長可が最期の時を迎えたと伝わる愛知県長久手市の地には、現在も彼の官名にちなんだ「武蔵塚」が国の史跡として残り、その短い生涯を今に伝えている 23 。
長可の死は、単なる不運や事故として片付けることはできない。彼の生涯を貫いていたのは、常に先陣を切り、奇襲を好み、防御や膠着を嫌う徹底した攻撃精神であった。三河中入り作戦もまた、彼のそうした気質に完全に合致したものであった。そして、彼は常に指揮官でありながら最前線で自ら槍を振るうことを信条としていた。その結果として、敵の鉄砲隊の格好の標的となったのである。彼の死は、彼の生き方そのものが招いた、ある意味で論理的な帰結であった。もし彼が後方で安全に指揮を執るような武将であったならば、長久手で命を落とすことはなかっただろう。彼はまさしく「鬼武蔵」として生き、「鬼武蔵」として死んだのであった。
小牧・長久手の戦いへ出陣する十三日前、長可は秀吉の家臣である尾藤甚右衛門に一通の遺言状を託していた 17 。その内容は、彼の「鬼武蔵」というパブリックイメージからは想像もつかない、人間味あふれるものであった。
遺言状の中で、彼はこう記している。「娘のおこうは、武士ではない京都の町人、できれば医者のような人物に嫁がせてほしい」 5 。これは、政略結婚の道具とされ、戦乱に翻弄される武家の娘の宿命を熟知していた彼が、愛する娘には穏やかな人生を送ってほしいと願う、父親としての切なる思いの表れであった。
さらに彼は、「末弟の千丸(忠政)に私の跡を継がせるのは絶対に嫌だ」と、二度にわたって強調している 6 。これは、忠政の能力を低く見ていたからではなく、むしろ、自分と同じように常に死と隣り合わせの過酷な武士の道を、愛する弟に歩ませたくないという深い愛情と苦悩の吐露であったと解釈できる。戦場で「鬼」を演じざるを得なかった男が、家族には武士の宿命を負わせたくないと願う。この遺言状は、彼の知られざる素顔を伝える、極めて貴重な史料である。
長可の遺言に反し、秀吉は彼の死後、末弟の忠政に家督を継ぐことを許可した 4 。兄・長可とは対照的に、忠政は武勇一辺倒ではなく、政治的な判断力と時勢を読む能力に優れた武将であった 11 。
忠政は、秀吉の死後、天下の趨勢が徳川家康にあることを見抜くと、早い段階から家康に接近した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、迷わず東軍に与して戦功を挙げた 11 。その功績が認められ、戦後、忠政は美作一国18万6500石を与えられ、津山藩の初代藩主となった 54 。彼は津山城と城下町を建設し、検地の実施や新田開発によって藩の石高を大幅に増加させるなど、優れた内政手腕を発揮して、森家を近世大名として繁栄させる礎を築いたのである 55 。
後に森宗家は後継者問題から改易の悲運に見舞われるが、分家は播磨赤穂藩や三日月藩の藩主家として存続し、明治維新を迎えることができた 7 。
森長可の苛烈な武勇と、信長の死という激動の中で見せた卓越した統率力は、存亡の危機にあった森家を守り抜き、その後の発展の土台を築いた。彼の「武」がなければ、森家は戦国の動乱の中で滅び去っていたかもしれない。しかし、皮肉なことに、その森家を近世大名として安定させ、後世へと繋いだのは、彼が跡継ぎとして否定した弟・忠政の「政」の力であった。
この兄弟の対照的な生き様は、時代の変化を見事に象徴している。長可は、旧来の価値観が崩壊し、個人の「力」が全てを決定した戦国乱世という時代が生んだ、「破壊」と「獲得」の申し子であった。一方、忠政は、天下が統一され、新たな秩序が求められる時代に適合した、「建設」と「統治」の才を持つ武将であった。長可の死は悲劇であったが、それは森家にとって、時代の変化に対応するための、必要不可欠な役割の継承であったとも言える。
森長可の27年の生涯は、燃え尽きるような激しい閃光を放ち、戦国史に忘れがたい印象を残した。彼の「鬼」としての武がなければ森家は滅び、弟・忠政の「治」の才がなければ森家は続かなかった。この二人の兄弟の存在こそ、森家が戦国の動乱を乗り越え、近世へと命脈を保つことができた最大の要因であったと結論づける。
西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
1558年(永禄元年) |
1歳 |
尾張国にて、森可成の次男として誕生 1 。 |
1570年(元亀元年) |
13歳 |
父・可成が宇佐山城で、兄・可隆が越前で戦死。家督を相続し、美濃金山城主となる 2 。 |
1573年(元亀4年) |
16歳 |
伊勢長島一向一揆鎮圧戦に初陣。信忠軍に属し、武功を挙げる 25 。 |
1574年(天正2年) |
17歳 |
第三次長島一向一揆攻めに参加。愛槍「人間無骨」を振るい、27の首級を挙げたとされる 1 。 |
1582年(天正10年) |
25歳 |
2月:甲州征伐で先鋒として活躍。高遠城などを攻略 5 。4月:戦功により信濃川中島四郡と海津城、二十万石を拝領 5 。6月:本能寺の変。主君・信長と弟三人が死去。信濃で蜂起した一揆勢を鎮圧しつつ、決死の撤退行を敢行し、美濃へ帰還 4 。 |
1583年(天正11年) |
26歳 |
羽柴秀吉に臣従。この頃から「武蔵守」を称する 11 。 |
1584年(天正12年) |
27歳 |
3月:小牧・長久手の戦いが勃発。秀吉方として参陣 41 。4月9日:三河中入り作戦の途中、長久手にて徳川軍の奇襲を受け、鉄砲で眉間を撃ち抜かれ戦死 5 。 |