楯岡満茂(たておか みつしげ)、後の本城満茂(ほんじょう みつしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけて出羽国を支配した最上氏の家臣である。彼の名は、主君である最上義光(もがみ よしあき)の家臣団の中で、最高の知行高である四万五千石(一説には四万八千石)を領した人物として、歴史に刻まれている 1 。この石高は、当時の小大名に匹敵する規模であり、彼が単なる一武将ではなく、最上家中で極めて重要な地位を占めていたことを雄弁に物語る。
弘治2年(1556年)に生を受け、寛永16年(1639年)に84歳で没するまで、満茂の生涯は激動の時代そのものであった。彼の人生は、主君・最上義光による出羽統一という「栄光」の時代と、義光死後のお家騒動による最上家改易という「没落」の時代、その双方に深く、そして決定的に関わっている。彼は最上氏の版図拡大の尖兵として武功を重ね、関ヶ原の戦いでは主家の危機を救う大功を立て、その功績によって与えられた由利郡の統治者として栄華を極めた。しかし、その栄光の頂点にあった彼が、主家を破滅に導くお家騒動の中心人物の一人となったことは、歴史の大きな皮肉と言わざるを得ない。
本報告書は、この一人の武将の生涯を丹念に追うことで、最上氏の興亡史、ひいては戦国から近世への移行期における武家の在り様、そして個人の忠誠と時代の変化との相克を、多角的な視点から解明することを目的とする。彼の足跡は、戦国武将の成功と悲劇、その両方を内包しているのである。
年号 (西暦) |
満茂の年齢 |
主要な出来事 |
当時の姓名・称号 |
居城 |
弘治2年 (1556) |
1歳 |
楯岡義郡の子として生誕 3 。 |
楯岡満茂 |
楯岡城 |
天正5年 (1577) |
22歳 |
楯岡氏当主・満英が最上八楯に与し、主君・義光に反旗を翻す 6 。 |
楯岡満茂 |
楯岡城 |
天正8年 (1580)頃 |
25歳頃 |
義光により、反逆した主流に代わり楯岡城主に抜擢される。 |
楯岡満茂 |
楯岡城 |
天正14年 (1586) |
31歳 |
有屋峠の戦いにて、最上義康と共に小野寺義道軍を撃退 3 。 |
楯岡満茂 |
楯岡城 |
文禄4年 (1595) |
40歳 |
最上軍の総大将として仙北郡に侵攻、湯沢城を攻略 3 。 |
楯岡満茂 |
楯岡城 |
文禄5年 (1596) |
41歳 |
湯沢城主となり、仙北支配の拠点とする 8 。 |
湯沢豊前守満茂 |
湯沢城 |
慶長2年 (1597) |
42歳 |
湯沢城奪還を図る小野寺軍を策をもって撃退 11 。 |
湯沢豊前守満茂 |
湯沢城 |
慶長5年 (1600) |
45歳 |
慶長出羽合戦。上杉方に呼応した小野寺義道の軍を湯沢城で足止めし、主力の危機を救う 12 。 |
湯沢豊前守満茂 |
湯沢城 |
慶長8年 (1603) |
48歳 |
戦功により由利郡へ転封。当初は赤尾津城に入る 3 。 |
赤尾津満茂 |
赤尾津城 |
慶長15年 (1610)頃 |
55歳頃 |
由利郡尾崎山に本荘城の築城を開始 2 。 |
本城満茂 |
赤尾津城 |
慶長17年 (1612) |
57歳 |
最上氏分限帳にて、家臣団最高の4万5千石を領することが記録される 1 。 |
本城満茂 |
本荘城 |
慶長18年 (1613) |
58歳 |
本荘城が完成し、居城を移す 14 。 |
本城満茂 |
本荘城 |
元和8年 (1622) |
67歳 |
最上騒動により最上家が改易。身柄は前橋藩主・酒井忠世に預けられる 3 。 |
本城満茂 |
- |
元和9年 (1623)頃 |
68歳頃 |
赦免され、酒井忠世に客分1200石で仕える。名を「満慶」と改める 3 。 |
本城満慶 |
- |
寛永7年 (1630) |
75歳 |
養嗣子とした甥・親茂が急逝 3 。 |
本城満慶 |
- |
寛永16年 (1639) |
84歳 |
1月21日、前橋にて死去 3 。 |
本城満慶 |
- |
楯岡満茂の出自を理解するためには、まず彼が属した楯岡氏そのものの歴史を紐解く必要がある。楯岡氏は、出羽探題として勢力を誇った最上氏の祖・斯波兼頼から数えて四代目にあたる最上満直の子、満国を祖とする 6 。満国は、現在の山形県村山市に位置する楯岡城を与えられ、その地名を姓として「楯岡」を名乗った。これにより、楯岡氏は最上氏の数ある分家の中でも、特に宗家と血縁の近い、由緒ある一門として位置づけられることとなった 15 。
しかし、戦国時代の東北地方の常として、宗家と分家の関係は常に安定的であったわけではない。最上義光が家督を継いだ天正年間初頭、最上家は内憂外患に揺れていた。義光は父・義守との対立を乗り越え、領内の統一に乗り出すが、その前に立ちはだかったのが、最上氏の分家や周辺の国人領主たちが形成した反義光連合「最上八楯(もがみやつだて)」であった 6 。そして、この最上八楯に、楯岡氏も一時的に名を連ねていたのである 6 。
天正5年(1577年)、義光が最上八楯の盟主であった天童頼貞を攻撃すると、当時の楯岡城主・楯岡満英は明確に天童方として参陣し、宗家である義光に反旗を翻した 6 。これは、楯岡氏が宗家からの自立を目指す、独立性の高い勢力であったことを示している。この宗家への反逆という歴史的事実こそが、後に楯岡満茂という人物が歴史の表舞台に登場する、重要な伏線となるのであった。
楯岡満茂は、一般的に「楯岡氏の当主」として知られている。しかし、彼の出自を詳しく検証すると、単純な家督相続者ではなかったことが明らかになる。現存する複数の系図史料は、この点に関して興味深い齟齬を示している。
満茂の子孫が江戸時代に作成した「本城氏系図」やその他の記録によれば、満茂の父は楯岡義郡(よしぐん)とされている 3 。一方で、楯岡城主の系譜を伝える史料には、初代満国から数えて、満正、満次といった名が続き、義光に反抗した当主として満英の名が挙げられている 16 。この二つの系譜を比較すると、代々の当主名に全く共通点が見られないのである 16 。
この事実は、極めて重要な可能性を示唆している。すなわち、楯岡満茂は、義光に反旗を翻した楯岡氏の主流(満英の家系)ではなく、その分家筋の出身であったということである 1 。軍記物などでは義光の弟とする説も記されているが、これは信憑性が低く、最上氏一門の分家筋と見るのが妥当である 1 。彼がもし主流の嫡子であったならば、父祖代々の系譜と断絶した形で記録されるはずがない。したがって、満茂は楯岡の主流が宗家への反逆によって没落、あるいは排斥された後に、新たな当主として歴史の表舞台に登場した人物と考えるのが自然である。
最上義光は、領内統一を進めるにあたり、旧来の権威構造を巧みに解体し、自身に忠実な新しい支配体制を構築していくという、卓越した政治手腕を発揮した。その典型的な手法が、宗家に敵対した国人領主を滅ぼした後、その遺領を完全に没収するのではなく、その一族の庶流や、信頼のおける別の家臣を後継に据えるというものであった。天正12年(1584年)に滅ぼされた寒河江氏のケースでは、その庶流であった寒河江肥前らが登用され、後に最上家中で大身となる厚遇を受けている 16 。
この戦略に照らし合わせると、満茂の登用はまさに義光の人事戦略の典型例であったと言える。義光は、宗家に反抗した楯岡満英の系統を排斥し、それに代わる新たな楯岡城主として、血縁はありながらもこれまで主流ではなかった分家筋の満茂を抜擢したのである。これは、旧来の楯岡氏が持っていた独立性を削ぎ、義光個人への忠誠を誓う新しい支配者を据えることで、楯岡の地を完全に掌握しようとする明確な意図の表れであった。
満茂のキャリアは、伝統的な血筋の継承によってではなく、主君・義光個人の信頼と戦略的判断によって始まった。この事実は、彼の生涯を貫く行動原理を理解する上で極めて重要である。彼は伝統的な権威ではなく、義光個人からの恩顧によってその地位を得たため、義光個人への忠誠心は、他の譜代の家臣とは比較にならないほど強固なものであったと推察される。また、義光の四男であり、後に最上家改易の遠因となるお家騒動の主役の一人、山野辺義忠(幼名・聖丸)が、幼少期に満茂の庇護下で育ったという伝承も残っている 19 。これが事実であれば、満茂が義光から単なる家臣としてだけでなく、一門の重鎮として個人的にも深い信頼を寄せられていたことを示す傍証となるだろう。
しかし、この義光による個人的な抜擢という彼のキャリアの出発点こそが、皮肉にも、後の悲劇の伏線となっていた。彼の権力の正当性を保証する最大の根拠は、最上家という組織そのものよりも、義光という一個人にあった。そのため、絶対的な後ろ盾であった義光が没した後、彼の権力基盤は大きく揺らぐことになる。凡庸と見なされた後継者に対し、彼が義光の遺産(強固な最上家)を守るという彼なりの忠誠心から、別の「有能な」主君を立てようと動いたとしても不思議ではない。彼の力の源泉そのものが、後の不安定要因を内包していたのである。
楯岡城主として最上義光の家臣団に組み込まれた満茂は、ほどなくしてその軍事的能力を発揮する機会を得る。義光が推し進める領土拡大戦略において、南に隣接する仙北(現在の秋田県南部)の雄・小野寺氏との対決は、避けては通れない宿命的な課題であった 2 。小野寺氏は鎌倉時代以来の名族であり、仙北三郡(雄勝、平鹿、仙北)から由利郡にまで勢力を広げた戦国大名であった 22 。
両者の勢力圏が直接ぶつかる最前線が、現在の山形県と秋田県の県境に位置する有屋峠であった 7 。この険しい峠は、両国間の交通の要衝であると同時に、軍事的な緩衝地帯でもあり、長年にわたって両氏による熾烈な争奪戦が繰り広げられていた。義光にとって、仙北地方への進出は、出羽統一を完成させるための最終段階であり、満茂はこの重要な戦略方面における中核的な役割を担うことになった。
満茂が対小野寺戦線でその名を上げた最初の大きな戦いが、天正14年(1586年)に勃発した「有屋峠の戦い」である 3 。この年、小野寺義道は満を持して大軍を率い、有屋峠を越えて最上領へと侵攻を開始した。
これに対し、最上義光は嫡男の最上義康を総大将とし、楯岡満茂らを付けて迎撃させた。軍記物によれば、緒戦において最上軍は小野寺方の策にはまり苦戦を強いられたとされる 7 。しかし、義康と満茂らは粘り強く陣容を立て直し、果敢に反撃に転じた。激戦の末、最上軍はついに小野寺勢を撃退することに成功する 3 。この勝利は、小野寺氏の南進を食い止めただけでなく、満茂が単なる城主ではなく、方面軍の一翼を担う有能な武将であることを家中に知らしめる重要な戦功となった。
有屋峠での防衛成功から約10年後の文禄4年(1595年)、満茂は守勢から攻勢へと転じ、最上軍の総大将として小野寺領の仙北郡へ逆侵攻を開始した 3 。この作戦は、単なる武力侵攻ではなく、最上義光らしい周到な謀略が先行していた。
最上方は、小野寺家中で知将として名高く、家中随一の重臣であった八柏大和守道為の存在を脅威と見ていた。そこで、満茂の名で八柏大和守に宛てた内通を約束する偽の書状を作成し、これをわざと小野寺義道の目に触れるように仕向けたのである 23 。この謀略に嵌った義道は、疑心暗鬼から八柏大和守を呼び出して誅殺してしまう。これにより、小野寺氏は自らの手で最も有能な将帥と軍事的な支柱を失い、内部から大きく弱体化した 23 。
この絶好の機会を、満茂は見逃さなかった。彼は勇将・鮭延秀綱を先鋒とし、有屋峠を越えて仙北郡へとなだれ込んだ 25 。内部崩壊を起こしていた小野寺方に、もはや最上軍の勢いを止める力はなかった。満茂の軍勢は、仙北南部の要衝である湯沢城(現在の秋田県湯沢市)を、ついに攻め落としたのである 8 。この一連の作戦は、満茂が義光の高度な情報戦・謀略戦を深く理解し、それを実行できるだけの知略と軍事的能力を兼ね備えていたことを証明している。
湯沢城攻略という大功により、満茂の最上家における地位は不動のものとなった。義光は彼をそのまま湯沢城の城主とし、対小野寺戦線の最前線、そして仙北支配の拠点を完全に委ねた 3 。この時期、彼は居城の名にちなんで「湯沢豊前守」と称したことが記録されており、彼の武功が新たな領地と称号によって公に認められたことを示している 1 。
湯沢城主となった満茂の活躍は続く。慶長2年(1597年)、小野寺義道は雪辱を期して湯沢城の奪還を図り、大島原で合戦が起きた。しかし、満茂はここでも巧みな策を用いて小野寺軍を撃退し、逆に小野寺方の諸城を奪う戦果を挙げている 11 。これにより、最上氏の仙北における支配権はさらに強固なものとなった。湯沢城の攻略とそれに続く防衛成功は、満茂のキャリアにおける決定的な転換点であり、彼を単なる一門衆から、方面軍を率いる大身の城持ち大名へと押し上げたのである。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、その戦火は遠く離れた出羽国にも飛び火した。豊臣政権下で五大老の一人であった上杉景勝は西軍に与し、徳川家康率いる東軍に味方した隣国の最上義光領へ、重臣・直江兼続を総大将とする約2万5千の大軍を差し向けたのである 12 。世に言う「慶長出羽合戦」である。
上杉軍の主力は、山形城を目指して最上領の南から怒涛の勢いで侵攻を開始した。これに呼応し、長年最上氏と敵対関係にあった仙北の小野寺義道も、西軍方として湯沢方面から最上領へ侵攻を開始した 12 。最上氏は、南の上杉軍、西の小野寺軍という二つの脅威に同時に直面し、まさに国家存亡の危機に立たされた。
この絶体絶命の状況下で、主君・最上義光は冷静な戦略判断を下す。彼は、上杉軍の主力を迎え撃つため、長谷堂城をはじめとする南方の防衛線に手持ちの兵力の大部分を集中させた。そして、湯沢城主である楯岡満茂には、上杉軍との直接戦闘に参加するのではなく、湯沢城を固守し、小野寺義道の軍勢をその場に釘付けにすることを厳命した 3 。
これは、極めて重要な戦略的任務であった。満茂の役割は、最上軍が上杉軍と小野寺軍に挟撃されるという、二正面作戦の最悪の事態を絶対に回避することにあった。もし湯沢城が早期に陥落し、小野寺軍が最上領の背後に回り込むことを許せば、主力が戦う長谷堂城の防衛線は背後から脅かされ、最上軍は一瞬にして崩壊する危険性があった。満茂の双肩には、最上家の命運そのものがかかっていたのである。
義光の命令通り、満茂は湯沢城に籠城し、侵攻してくる小野寺軍を迎え撃った。小野寺義道は、上杉軍との連携を期して湯沢城に猛攻を仕掛けたが、城将・楯岡満茂の巧みで粘り強い防衛戦の前に、進軍を完全に阻まれた 12 。
この戦いにおける両軍の具体的な兵力や戦闘の詳細を伝える一次史料は乏しい。しかし、満茂が与えられた兵力をもって、小野寺軍の攻勢を完全に封じ込め、その侵攻を遅滞させたという事実は、複数の史料で一致して記録されている 12 。満茂の奮戦により、小野寺軍はついに湯沢城を抜くことができず、最上軍の主力が戦う南方戦線へ戦力を転用することも、山形城へ向けて進撃することも叶わなかった。彼は、自身の担当戦域において、課せられた戦略目標を完璧に達成したのである。
慶長出羽合戦の結末は、最上氏の奇跡的な勝利に終わった。長谷堂城では、城主・志村光安や救援に駆けつけた鮭延秀綱らの獅子奮迅の活躍が、直江兼続率いる上杉軍の猛攻を食い止め、ついには撤退に追い込んだ。これらの華々しい武功は、後世にまで語り継がれている。
しかし、この勝利の陰には、楯岡満茂による「見えざる最大の功労」があったことを見過ごしてはならない。彼が湯沢城で小野寺軍という背後の脅威を完全に遮断したからこそ、義光は全兵力を対上杉戦線に集中投入するという大胆な采配を振るうことができたのである。満茂の功績は、野戦での華々しい勝利や敵将の首級といった目に見える形のものではなかった。だが、主君の戦略意図を正確に理解し、地味ではあるが決定的に重要な任務を黙々と、そして完璧に遂行した彼の働きは、戦全体の帰趨を左右するほどの価値を持っていた。
このエピソードは、満茂の武将としての資質をより深く浮き彫りにする。彼は、個人的な手柄や名誉を求める前に、まず最上軍全体の勝利という大局を優先できる、極めて理性的で忠実な指揮官であった。この冷静さと大局観こそが、戦後に彼が最上家中最高の栄誉を受ける直接的な理由となった。そして、それはまた、彼が後に広大な領地を治める優れた統治者となることを予感させるものでもあった。慶長出羽合戦における彼の働きは、単なる軍事的な成功に留まらない。それは、彼が広大で困難な新領地・由利郡を統治するにふさわしい人物であることを、主君・義光に対して証明する、資質のデモンストレーションでもあったのである。
慶長出羽合戦における劇的な勝利は、最上家の運命を大きく変えた。徳川家康は義光の功績を高く評価し、戦後、上杉領であった庄内三郡と、佐竹氏との領地交換によって得られた由利郡を最上氏に加増した。これにより、最上氏の石高は一挙に57万石に達し、出羽国最大の大名へと躍進した 17 。
この大幅な領土拡大に伴い、義光は新たな領国の統治体制を構築する必要に迫られた。特に、日本海に面し、秋田の佐竹氏と国境を接する由利郡は、軍事的にも経済的にも極めて重要な地域であった。義光は、この要衝の統治を、慶長出羽合戦における最大の功労者の一人である楯岡満茂に委ねるという、破格の采配を振るった 1 。これは、満茂の武功と忠誠心、そして戦略的価値を義光が誰よりも高く評価していたことの証左であった。慶長8年(1603年)、満茂は長年拠点とした湯沢を離れ、新たな支配地である由利郡へと移った 3 。
由利郡に入部した満茂は、当初、在地勢力であった赤尾津氏の旧城(赤尾津城)を居城とした。この時期、彼は居城の地名にちなんで一時的に「赤尾津氏」を名乗ったと記録されている 3 。しかし、彼は旧来の城郭に満足することなく、由利郡支配の恒久的な拠点として、新たな城の建設を構想する。
慶長15年(1610年)頃、満茂は子吉川下流の尾崎山と呼ばれる戦略的要地に、大規模な近世城郭の築城を開始した 2 。これが、後の本荘城(ほんじょうじょう)である。築城と並行して、城の周囲には武家屋敷や町人地が計画的に配置され、城下町の建設も進められた。慶長18年(1613年)には普請が概ね完了し、満茂は居城をこの新城に移した 14 。この満茂による本荘城と城下町の建設こそが、現在の秋田県由利本荘市の都市としての直接的な基礎を築いたのであり、彼の統治者としての最大の功績と言える 1 。
なお、この頃から彼は「本城満茂」を名乗るようになるが、その由来については二つの説がある。一つは、彼の本姓が元々「本城」であり、それを居城の地名にしたという説である 2 。しかし、より有力視されているのは、その逆の説である。『本城系譜』には「本氏 楯岡」とあり、彼がそれ以前に「本城」を名乗った事例もないことから、元々その地に存在した「本城村」という地名を城の名とし、それに合わせて自らの姓も「本城」に改めたと見るのが妥当であろう 14 。彼は楯岡、湯沢、赤尾津、そして本城と、常に自らの居城の地名を姓とするのが通例であった。
満茂の栄華を象徴するのが、その破格の知行高である。慶長17年(1612年)に最上領内で総検地が実施され、その結果に基づいて作成された分限帳(知行割)には、本城満茂の所領が四万五千石と記録されている 1 。これは、最上家の全家臣の中で突出した最高額であり、第二位であった志村光安の三万石を大きく引き離していた 4 。
由利郡全体の石高は約5万2千石余とされ、満茂の他に、旧由利衆から最上家臣に編入された滝沢氏(約1万石)と岩屋氏(約2千石)にも知行が与えられていた 31 。由利本荘市に残る一次史料「本城満茂書状」の解説によれば、満茂の領分は由利郡5万5千石余のうち3万9千石余であったとの記述もあり、石高の具体的な数字には諸説あるものの、彼が他の家臣を圧倒する大身領主であったことは疑いようがない 32 。
四万五千石という大領を与えられた満茂は、単なる一城主ではなく、事実上の「藩屏(はんぺい)大名」として由利郡に君臨した。彼の権力は、広大な領地の軍事指揮権と、検地に基づく領国経営権に及んだ。さらに、隣接する大大名である久保田藩(佐竹氏)との国境問題など、限定的ながら外交交渉の窓口も務めていた 1 。秋田藩側の記録には、満茂の交渉ぶりが、まるで最上家とは独立した対等な大名同士のようであったと記されており、彼の威勢と独立性の高さを物語っている 1 。
また、由利郡は豊かな金山を有していたとも言われ、満茂は強大な経済力も掌握していたと推測される 1 。彼の統治者としての側面を伝える貴重な史料として、慶長19年(1614年)に主君・義光が死去した際、山形城に滞在していた満茂が、本国の城代家老・大泉茂敦に宛てて情勢を伝えた書状が現存している。これは、確認されている唯一の満茂の書状原本であり、彼の几帳面な人柄や家臣への配慮を窺い知ることができる 32 。
しかし、満茂に与えられたこの破格の待遇と高い独立性は、義光の生存中は最上家の強さの源泉であったが、同時に構造的な脆弱性も内包していた。義光という強力な求心力が失われた時、満茂のような強力すぎる家臣の存在は、藩主の権威を相対的に低下させ、家中の分裂を招く要因へと変質する危険性を秘めていた。彼の栄華の頂点そのものが、来るべき崩壊の序曲であったのである。
最上家の栄光は、偉大な当主・最上義光の死と共に、急速に陰りを見せ始める。慶長19年(1614年)に義光が没すると、家督は次男の家親が継いだ。しかし、その家親も元和3年(1617年)に江戸で急死してしまう。
跡を継いだのは、家親の嫡子・義俊であったが、時にわずか13歳 8 。若年の藩主では、戦国の気風を色濃く残す巨大な家臣団を完全に統率することは困難であった。やがて藩内では、藩政の主導権を巡る深刻な対立が表面化し、最上家は破滅的なお家騒動へと突き進んでいく 25 。
最上家の家臣団は、二つの派閥に分裂した。一つは、若き藩主・義俊を補佐し、藩主の権威を確立しようとする松根光広を中心とした派閥(乙方)。もう一つは、義光の四男であり、山野辺城主として優れた行政手腕を発揮し領民から慕われていた山野辺義忠こそが、次期当主にふさわしいと擁立する派閥(甲方)であった 14 。
そして、この山野辺義忠を推す「甲方」に、本城満茂は名を連ねた。彼と共にこの派閥に与したのは、慶長出羽合戦の勇将・鮭延秀綱や、義光の子である上山光広など、最上家を代表する重臣たちであった 14 。彼らに共通していたのは、満茂を筆頭に、領内に広大な知行地を持つ独立性の高い城持ちの上級家臣であったという点である 14 。
満茂がなぜ義忠派に与したのか、その動機は複雑であったと推測される。幼少期の義忠を庇護したという個人的な関係、独立性の高い大身領主としての既得権益の維持、そして何よりも、「天性魯鈍(てんせいろどん)」と評された義俊では、義光が築き上げた57万石の「家」を安泰に保つことはできないという、彼らなりの危機感と忠誠心があったと考えられる。彼らの行動は、単なる権力欲による謀反ではなく、「より良き主君を立てて家を安泰にせんとする」という、戦国時代以来の価値観に基づくものであった可能性が高い。
両派の対立は、もはや藩内での調停が不可能なレベルにまで激化し、ついに江戸幕府の裁定を求める事態に発展する。世に言う「最上騒動」である。
幕府は当初、老中・酒井忠世らを通じて、重臣たちが一致団結して幼君・義俊を補佐するよう厳命を下した。しかし、満茂ら義忠派はこれを不服とした。彼らは、幕府の裁定に従うどころか、逆に藩主・義俊を「天性魯鈍にして国家を保つべき気質に非ず」と公然と批判し、その更迭と山野辺義忠の家督相続を幕府に願い出るという、前代未聞の行動に出たのである 14 。
この行動は、致命的な判断ミスであった。戦国時代であれば、家中の実力者が主君を廃立することは珍しくなかったかもしれない。しかし、幕藩体制という新たな秩序が確立しつつある江戸初期において、家臣が徒党を組んで藩主の廃立を幕府に直訴することは、幕府の権威そのものに対する重大な挑戦と見なされた。彼らは、中央集権化という時代の大きな変化を、完全に見誤っていたのである。
結果は、最上家にとって最悪のものであった。幕府は、満茂らの行動を「上意に背くもの」と断罪。元和8年(1622年)、将軍・徳川秀忠は、「家臣団の統制が取れていない」ことを理由に、最上家57万石の改易、すなわち領地全没収という、外様大名に対して下される最も厳しい処分を決定した 3 。
この結末には、徳川幕府による「大藩潰し」政策の一環という側面も無視できない。57万石という外様大名は、幕府にとって潜在的な脅威であった。幕府は、このお家騒動を、最上家を合法的かつ円満に取り潰すための絶好の口実として利用した可能性が高い。満茂たちは、幕府に訴え出ることで家を救おうとしたが、その忠誠心に根差した行動が、皮肉にも幕府に家を取り潰すための刀を渡す結果となってしまった。彼の生涯における最大の政治的判断ミスは、彼が人生を捧げた最上家そのものの終焉を招いたのである。
元和8年(1622年)、57万石の大大名・最上家は歴史の舞台から姿を消した。藩主・義俊は近江国に1万石(後に5千石)で減転封され、お家騒動に関わった主要な家臣たちは、それぞれ各藩にお預けの身となった。
騒動の中心人物の一人であった本城満茂は、幕府の老中筆頭であり、前橋藩主であった酒井忠世(さかい ただよ)に身柄を預けられることになった 1 。一国一城の主から、一転して罪人同様の境遇となったのである。
しかし、満茂の武将・統治者としての名声と能力は、主家が滅んでも色褪せることはなかった。ほどなくして彼は罪を赦され、預かり先の酒井忠世から、客分として1200石という破格の待遇で召し抱えられることになった 3 。改易の原因を作った張本人でありながら、幕閣の重鎮にその能力を高く評価されたという事実は、彼の器量の大きさを物語っている。
この時、満茂を慕って由利郡から付き従ってきた一族郎党も、彼と共に酒井家に召し抱えられた。彼らは酒井家中で「最上衆」と呼ばれ、一つの家臣団として扱われたという 3 。この事実は、満茂の個人的な人望や一族の長としての統率力が、主家滅亡という逆境の中にあっても、全く失われていなかったことを示している。彼の晩年は、主家を失った戦国武将の「終着点」として、一つの理想的な形であったと言えるかもしれない。彼は自らの能力と人脈を頼りに新たな仕官先を見つけ、一族郎党の生活を守り抜くという、一族の長としての最後の責任を果たしたのである。
酒井家に仕えてから、満茂は名を「満慶(みつよし)」と改めている 3 。新たな主君の下で、心機一転を図ろうとしたものと思われる。
彼の晩年における最大の課題は、後継者問題であった。満茂には実子がいなかったか、あるいは早世したと見られ、彼は弟である楯岡満広(長門守)の子、すなわち甥にあたる楯岡親茂を養子として迎え、後継に定めた 3 。しかし、悲劇は続く。寛永7年(1630年)、養嗣子とした親茂が、満茂に先立って急逝してしまったのである 3 。
再び後継者を失った満茂は、最終的に、弟・満広の娘が産んだ子、すなわち姪の子(大甥)にあたる本城満旨(みつむね)を養子に迎え、本城家の家名を継がせた 3 。この複雑な相続の経緯は、直系の血筋に固執するのではなく、家そのものを存続させることを最優先する、当時の武家の現実的な家督観を反映している。
数々の栄光と挫折を経験した満茂であったが、その晩年は比較的穏やかなものであった。寛永16年(1639年)1月21日、仕官先の前橋の地で、その波乱に満ちた生涯を閉じた。享年84 3 。主君・最上義光(69歳没)や、その母で伊達政宗の母でもある義姫(76歳没)をも上回る、当時としては驚異的な長寿であった 5 。
彼の墓所は、群馬県前橋市の長昌寺にあり、現在もその妻や養子・親茂のものとされる五輪塔などが残されている 3 。彼の子孫である本城氏は、主家の酒井氏が前橋から姫路へ転封された後も代々付き従い、家老職を務める重臣として家名を保ち、幕末まで存続した 3 。自らは主家を失う悲劇に見舞われたが、自らの家は巧みに存続させたのである。
Mermaidによる関係図
注:上記は主要な人物関係を抜粋したものであり、全ての家族構成を網羅するものではない 3 。
楯岡満茂の84年の生涯は、戦国乱世の終焉から徳川の治世が盤石となるまでの、日本の大きな転換期と重なる。彼の人生を総括する時、その評価は武将として、統治者として、そして最上家臣として、多角的に捉える必要がある。
武将としての満茂は、疑いなく第一級の人物であった。最上義光の信頼厚い宿将として、特に対小野寺戦線では謀略と武勇を駆使して多大な武功を挙げ、最上氏の版図拡大に決定的な貢献を果たした。彼の活躍なくして、義光の出羽統一はより困難なものになっていただろう。さらに、慶長出羽合戦においては、主戦場の華々しい活躍の陰で、主家の背後を完璧に守り抜くという、極めて重要な戦略的任務を完遂した。これは、彼が単なる猛将ではなく、大局を見据えて行動できる知将であったことを証明している。
満茂の功績は、戦場での働きに留まらない。関ヶ原の戦後、由利郡の支配者として転封されると、彼は見事に近世的な領国経営者への転身を遂げた。本荘城と城下町をゼロから建設し、その地における近世支配の礎を築いた功績は計り知れない。彼が築いた都市基盤は、400年の時を超えて現在の由利本荘市へと受け継がれており、彼の統治者としての手腕を今に伝えている。
最上家の家臣としての満茂の評価は、功罪相半ばすると言わざるを得ない。義光存命中は、その期待に応え続ける比類なき忠臣であった。しかし、義光没後のお家騒動では、結果的に主家を改易に導く主要な一因を作ってしまった。彼の行動は、凡庸な君主の下では家が滅びるという戦国武将としての価値観に根差した、彼なりの「家」への忠誠心の発露であったのかもしれない。だが、幕府による中央集権体制が確立しつつある時代の変化を見誤った、致命的な政治的判断ミスであったこともまた、否定できない事実である。
彼の生涯は、奇しくも最上氏の興隆と没落そのものを体現しているかのようである。義光によって抜擢され、その下で武功を重ねて栄華を極めた前半生は、最上氏の躍進と重なる。そして、彼が家中最高の知行を得てその栄光が頂点に達した時、それは同時に、義光という絶対的な求心力を失った最上家が、内部崩壊へと向かう始まりでもあった。彼の存在そのものが、最上家の強さと、その構造的な脆弱性の両方を象徴していたのである。
弘治2年(1556年)の生誕から寛永16年(1639年)の死まで、戦国の動乱を生き抜き、徳川の治世に大往生を遂げた楯岡満茂。彼が築いた由利本荘の街並み、そして遠く離れた前橋の地に眠る墓所は、栄光と悲劇が交錯した一人の武将の記憶を、今なお静かに語り続けている。