楽巌寺雅方は信濃の僧兵武将。望月・村上氏に仕え、武田信玄に降伏。生島足島神社起請文に署名が残る。乱世を生き抜いた国衆の典型。
戦国時代の信濃国は、守護大名小笠原氏の権威が衰え、村上氏、諏訪氏、木曽氏といった国衆(国人領主)が各地で割拠する、まさに群雄割拠の様相を呈していた。この複雑な情勢に、東から甲斐の武田信玄、北から越後の長尾景虎(後の上杉謙信)という二大勢力が介入し、信濃は彼らの草刈り場と化した。この激動の時代、多くの国衆は侵略者である武田氏に抗戦し、あるいは臣従し、またある者は滅亡の道を辿った。彼らの選択は、一族の存亡を賭けた極めて困難なものであった 1 。
本稿で詳述する楽巌寺雅方(がくがんじ まさかた)は、まさにこの時代の信濃国衆の典型的な生涯を送った人物である。彼の名は、戦国史の主要な舞台に華々しく登場することはない。しかし、断片的な史料を丹念に繋ぎ合わせることで、一人の武将が自らの出自と信仰、主君への忠誠、そして時代の奔流の中でいかに生き抜こうとしたか、その苦闘の軌跡を浮かび上がらせることができる。彼の生涯を追うことは、信濃の国衆が置かれた過酷な現実と、彼らの生き様を理解するための貴重な事例研究となる。
彼の生涯を再構築する上で、まず解決すべきは名前の問題である。『甲陽軍鑑』などの軍記物語や、後世の地誌類では、彼の名は「額岩寺駿河守光氏(がくがんじみつうじ)」として記されることが多い 3 。しかし、現存する最も信頼性の高い一次史料、すなわち永禄10年(1567年)に生島足島神社へ奉納された起請文には、彼の署名は明確に「楽厳寺雅方」と記されている 5 。軍記物語が物語性を重視するあまり、人物名に官途名や勇ましい響きの名を付加することは珍しくない。本稿では、この起請文を最重要の史料と位置づけ、彼の歴史上の実名を「雅方」とし、「光氏」は後世の創作あるいは誤伝であるという立場から論を進める。この史料批判的な視座に立つことこそ、歴史の霧の中に埋もれた一武将の実像に迫るための第一歩である。
楽巌寺雅方の原点は、信濃国佐久郡に位置する天台宗の古刹、布引山釈尊寺(ぬのびきさん しゃくそんじ)にある。通称「布引観音」として知られるこの寺は、寺伝によれば神亀元年(724年)に行基によって開創されたと伝えられる 8 。断崖絶壁に建てられた観音堂は、強欲な老婆が牛に布を引かれて善光寺まで導かれ、仏道に帰依したという「牛にひかれて善光寺参り」の伝説の舞台としても名高い 11 。この伝説が示すように、釈尊寺は古くから地域の人々の篤い信仰を集める霊場であった。
雅方は、この釈尊寺の末寺(あるいは寺坊の一つ)であった「楽巌寺」の僧侶であったと、複数の記録が一貫して伝えている 3 。戦国時代、有力な寺社は自衛のために武装し、独自の兵力を有することが常態化していた。彼らは「僧兵」や「法師武者」と呼ばれ、時には地域の政治・軍事にも大きな影響力を行使した。雅方もまた、そうした法師武者の一人であったと考えられる。「武勇に優れていた」との評価が残ることから 13 、彼は単なる僧侶ではなく、乱世を生き抜くための武芸を身につけた、信仰と武力を兼ね備えた人物であったことが窺える。彼の姓である「楽巌寺」は、この出身寺院の名をそのまま名乗ったものであろう。
僧籍にあった雅方は、やがて武将としての道を歩み始める。彼が仕えたのは、佐久郡に勢力を張る国衆、望月氏であった。望月氏は、古代信濃の豪族・滋野氏の流れを汲む「滋野氏七党」の中でも特に有力な一族であり、佐久郡一帯に大きな影響力を持っていた。雅方は、当時の望月氏当主であった望月信雅(もちづきのぶまさ)の旗本(直属の家臣)となり、その武勇をもって仕えたとされる 3 。
彼の諱(いみな)である「雅方」の「雅」の字は、主君である望月信 雅 から一字を拝領したものである可能性が極めて高い 3 。主君が家臣に自らの名の一字を与える「偏諱(へんき)」は、主従関係を強固にし、忠誠の証とするための重要な儀礼であった。このことから、雅方が望月信雅から一定の評価と信頼を得ていた被官であったことが推察される。
楽巌寺氏そのものの出自については、村上氏の親族である屋代氏の一門であったとする説がある 17 。この伝承は、後の雅方の政治的選択を理解する上で極めて重要な示唆を与える。一方で、その出自を公家とする説も存在するが 18 、これは後世に一族の権威を高めるために創作された系譜である可能性が高く、信憑性は低いと見られる。
望月氏の旗本となった雅方は、自らの拠点として城を築く。それが、現在の長野県小諸市大久保に位置する楽巌寺城である。築城年代は明確ではないが、天文年間(1532年~1555年)に雅方によって築かれたと伝えられている 13 。
この城は、御牧ヶ原台地の北端、千曲川に面した断崖絶壁の上に位置し、背後には出身母体である布引観音釈尊寺を擁するという絶好の立地を誇る 13 。眼下には佐久と小県を結ぶ交通路を見下ろし、軍事・交通の要衝を扼する戦略的拠点であった。
楽巌寺城は単独の城ではなく、西へ約500メートルの距離にある堀之内城などと共に「布引城郭群」を形成していた 8 。堀之内城は、雅方と行動を共にする布下氏の居城であり、両者は緊密な連携関係にあったと考えられる 20 。こうして雅方は、一介の僧侶から、城持ちの武将へとその地位を確立し、信濃の戦国史の舞台に本格的に登場することになる。
天文10年(1541年)、父・信虎を追放して甲斐国の国主となった武田晴信(後の信玄)は、信濃への本格的な侵攻を開始した。その矛先はまず諏訪郡、次いで佐久郡へと向けられた。圧倒的な軍事力を背景にした武田軍の前に、佐久の国衆たちは次々と屈服していった。雅方の主君であった望月氏も例外ではなく、天文16年(1547年)頃、武田氏に降伏した 3 。
主家が侵略者である武田氏に下るという状況に直面し、雅方は重大な決断を迫られた。彼は主君・望月信雅に従うことを良しとせず、袂を分かつ道を選んだ。そして、盟友である堀之内城主・布下仁兵衛雅朝(ぬのしたじんべえまさとも)と共に、当時、北信濃に勢力を張り、武田氏への最大の対抗勢力であった村上義清(むらかみよしきよ)に帰属したのである 3 。
一見すると、この行動は主君への裏切りであり、自らをより危険な立場に置く無謀な選択に見える。しかし、ここで第一章で触れた楽巌寺氏の出自に関する伝承が重要な意味を持ってくる。もし楽巌寺氏が村上氏の親族である屋代氏の一門であったならば 17 、雅方の選択は、単なる主家への反抗ではなく、より大きな血縁的・地政学的枠組みの中での合理的な選択であった可能性が浮かび上がる。つまり、彼は新興の侵略者である武田氏に従うよりも、古くからの縁戚関係にある北信濃の雄・村上氏の旗下に加わることこそが、自らの家と所領を守る道だと判断したのではないだろうか。この決断は、彼の武将としての矜持と、複雑な地域情勢を読み解く戦略眼を示している。
村上義清の配下となった雅方は、早速その武勇を発揮する機会を得る。天文17年(1548年)2月、武田軍と村上軍が上田原(現・長野県上田市)で激突した。この「上田原の戦い」において、『甲陽軍鑑』は雅方が村上軍の先鋒を務めたと記している 3 。この戦いで村上軍は武田軍を打ち破り、武田方の重臣・板垣信方、甘利虎泰を討ち取るという大金星を挙げた 2 。『甲陽軍鑑』は史料としての慎重な扱いを要するものの 24 、村上義清が新参の雅方を先鋒という重要な役に任じたとすれば、彼の武将としての能力が高く評価されていたことの証左となろう。
しかし、上田原での勝利も束の間、武田信玄の反撃は熾烈を極めた。同年8月、武田軍は雅方の本拠地である楽巌寺城、そして盟友・布下氏の堀之内城に猛攻をかけた。この攻撃により両城は陥落し、雅方は辛苦を重ねて築き上げた城を失った 13 。この戦火は城だけでなく、彼の精神的支柱であった布引観音釈尊寺にも及び、多くの堂宇が焼失したと伝えられている 8 。
居城を失った雅方は、村上方の重要拠点であった砥石城(といしじょう、現・上田市)に逃れ、再起を図ることになる 19 。かつての城主としての地位を失い、一介の客将として、彼は武田氏との戦いを続けることとなった。
上田原の戦いで武田軍を破った村上義清であったが、信玄の執拗な信濃侵攻の前に、その勢力は次第に衰退していく。天文19年(1550年)の砥石城攻防戦では、一度は武田軍を撃退し「砥石崩れ」と呼ばれるほどの損害を与えたものの、翌年には謀略によって砥石城は武田の手に落ちた 2 。そして天文22年(1553年)、ついに本拠地である葛尾城も支えきれず、村上義清は越後の長尾景虎を頼って落ち延びていった 1 。
最後の頼みの綱であった主君・村上義清の敗走により、雅方は信濃国内での全ての足場を失った。もはや武田氏に抗う術はなく、彼に残された道は、かつての宿敵に下ることだけであった。村上氏滅亡後、おそらく天文22年(1553年)から23年(1554年)の間に、楽巌寺雅方は武田信玄に降伏し、その家臣団に組み込まれた 13 。
彼のこの軌跡は、戦国時代の国衆が辿る典型的な運命を象徴している。地域の独立領主として立ち、より大きな勢力に抵抗し、敗れてその支配下に入る。それは個人の勇猛さや局地的な戦いの勝利だけでは覆すことのできない、巨大な権力の奔流に飲み込まれていく過程であった。雅方の選択は、武田という地域覇権の確立という、時代の大きな流れの中では不可避なものであったと言える。
武田氏に降ったとはいえ、元は敵対していた雅方の立場は不安定なものであった。『甲陽軍鑑』によれば、天文23年(1554年)、雅方は越後の長尾氏(上杉氏)と内通しているとの嫌疑をかけられ、武田家の将・飯富昌景(おぶ まさかげ)によって処罰されたという逸話が伝えられている 5 。この話の真偽は定かではないが、新たに支配下に入った国衆(「先方衆」と呼ばれる)が、常に旧主や他の勢力との通謀を疑われていた当時の状況をよく反映している。
こうした疑念を払拭し、武田家臣として生き抜くためには、忠誠を形として示す必要があった。その証となる史料が二点現存している。
一点目は、弘治4年(1558年)3月7日付の釈尊寺再建の際の棟札(むなふだ)である。この再建事業は、雅方のかつての主君であり、同じく武田家臣となっていた望月信雅が主導したものであった。この棟札には、事業に協力した人物として「宗栄楽厳寺」の名が刻まれている 3 。「宗栄(そうえい)」は雅方の法名(僧侶としての名)と考えられ、彼が武田氏の支配下にあっても、故郷の寺院の復興に尽力し、地域のネットワークを維持していたことを示している。武田氏もまた、こうした在地領主の地域における影響力を利用し、領国を安定させるために、ある程度の在地活動を容認していたことが窺える。これは、武田氏の巧みな領国経営の一端を示すものであり、雅方が単なる軍事力としてだけでなく、地域社会の一員として存在し続けていたことを物語る貴重な記録である。
そして二点目が、彼の武田家臣としての立場を決定づける最も重要な史料、永禄10年(1567年)8月7日付の「下之郷起請文」である 13 。これは、武田信玄が信濃の国衆たちに、生島足島神社(当時は下之郷大明神と呼ばれた)の神前で武田家への永続的な忠誠を誓わせた際に提出されたものである。この起請文の中に、「楽厳寺雅方」の自筆の署名がはっきりと残されている 6 。
特筆すべきは、この起請文の提出先である。雅方の起請文は、信玄の側近中の側近であった金丸平八郎昌続(かなまる へいはちろう まさつぐ、後の土屋昌続)に宛てて提出されている 3 。金丸昌続は、信玄が手元で育てた「奥近習六人衆」の一人であり、武田家の領国支配を支える中心的役割を担った青年武将であった 32 。信玄は、雅方のような外様の国衆を、譜代の信頼できる側近のいわば「与力」として組織することで、彼らを直接管理・統制するシステムを構築していた。これは、武田氏が急速に拡大した広大な領国と多様な家臣団を統治するための、洗練された支配体制であった。雅方が金丸昌続の指揮下に置かれたことは、彼が正式に武田氏の家臣団の一員として組み込まれ、その軍事・行政システムの中に位置づけられたことを明確に示している。
項目 |
内容 |
歴史的意義 |
日付 |
永禄10年(1567年)8月7日 |
川中島の戦いが永禄7年(1564年)に事実上終結し、武田氏の北信濃支配が確立した後の時期。信濃国衆に対する支配体制を再確認し、固めるための重要な儀式であった。 |
奉納先 |
生島足島神社(下之郷大明神) |
日本列島の中心に位置する「大地」そのものを御神体とする古社 35 。この神前で誓うことは、信濃の土地神に対して忠誠を誓う意味合いを持ち、国衆たちにとって極めて重い意味を持った。 |
誓約内容 |
武田信玄への裏切りの心を一切持たず、二心を抱かないこと。もし偽りがあれば、日本全国の神仏、特に諏訪上下大明神や下之郷大明神の神罰を受けること。 |
武田家への絶対的な忠誠を神仏に誓う形式。違反した場合の神罰を明記することで、誓約の拘束力を最大限に高めている。 |
提出先 |
金丸平八郎(昌続)殿 |
武田信玄の譜代家老であり、側近。外様国衆である雅方が、信玄直属の信頼厚い家臣を介して忠誠を誓うという形式は、武田氏の「寄親・寄子」的な支配体制を示す。これにより、雅方は金丸昌続の指揮下にあることが公的に示された 3 。 |
署名 |
楽厳寺雅方 (花押) |
彼の歴史上の実名が「雅方」であったことを証明する最も確実な一次史料。 |
主な共同提出者 |
布下仁兵衛雅朝 |
かつて楽巌寺城の隣、堀之内城の城主であり、雅方と共に村上義清に属した盟友 22 。彼もまた雅方と同様の道を辿り、武田家臣としてこの起請文を提出していることが確認できる 6 。 |
この起請文は、楽巌寺雅方が武田氏の支配体制に完全に組み込まれ、その家臣として生涯を終えることを誓った、彼の後半生を象徴する記念碑的な史料である。
楽巌寺雅方の武将としての前半生を物語るのが、彼が築いた楽巌寺城の遺構である。城跡は現在も小諸市大久保に残されており、その縄張りから当時の状況を推察することができる。城は、御牧ヶ原台地の北端という天然の要害に築かれ、土塁や堀切、複数の曲輪(郭)によって構成されている 14 。特に大手口(南側)には「血の池」「お歯黒池」と呼ばれる水堀が設けられ、防御を固めていた 19 。
この城の歴史を考える上で興味深いのが、武田氏による改修の痕跡である。武田氏の信頼できる史料である『高白斎記』には、天文17年(1548年)5月、「信州布引ノ城、鍬立」との記述がある 20 。これは、武田氏がこの地域に新たな築城、あるいは改修を行ったことを示している。この「布引ノ城」が雅方の楽巌寺城を指すのか、あるいは隣接する堀之内城を指すのかについては議論がある。
堀之内城は楽巌寺城よりも規模が大きく、広大な平坦地を有するため、大軍を駐留させる拠点としてはより適している 20 。実際に堀之内城跡には、武田流築城術の特徴とされる二重の丸馬出(まるうまだし)のような高度な防御施設が見られることから、「布引ノ城」の改修とは、主として堀之内城を指すのではないかという見方が有力である 20 。
一方で、楽巌寺城跡にも、食い違いの土塁や三日月堀など、武田氏の築城術の影響が見られるとの指摘もある 21 。これらのことから、武田氏は佐久・小県方面への進出拠点として布引城郭群を重視し、主たる兵站基地として堀之内城を大改修すると同時に、その支城である楽巌寺城にも防御機能向上のための改修を加えたと考えるのが最も合理的であろう。雅方が築いた城は、彼が去った後、皮肉にも彼が敵対した武田氏の手によって、より堅固な城へと姿を変えていったのである。
楽巌寺雅方の人物像を再構築するにあたり、利用可能な史料の性質を吟味することは不可欠である。
最も信頼性が高いのは、彼自身が関与した一次史料、すなわち 生島足島神社起請文 6 と
釈尊寺棟札 3 である。起請文は彼の自筆署名(花押)を含み、武田家臣団における彼の公式な立場を証明する。棟札は、武田支配下での彼の地域社会における役割を示唆する。これらは客観的な事実を伝える、第一級の史料と言える。
次に位置するのが、『 高白斎記 』のような同時代の記録である。これは武田氏側の記録ではあるが、比較的信頼性が高いとされる。「布引ノ城鍬立」の記事 20 は、雅方の城が武田氏の戦略上、重要な位置にあったことを間接的に示している。
一方、『 甲陽軍鑑 』は、その扱いが最も難しい史料である。上田原の戦いで雅方が先鋒を務めたという記述 3 や、長尾氏への内通疑惑 5 など、彼の具体的な行動に触れる唯一の物語的史料であり、人物像に彩りを与える。しかし、『甲陽軍鑑』は江戸時代初期に成立した軍学書であり、史実との相違点や、教訓的な意図に基づく脚色が多く含まれることが知られている 24 。したがって、そこに記された内容は、あくまで参考情報として捉え、事実として断定することは避けるべきである。
これらの史料を批判的に比較検討することで、雅方の生涯の骨格は一次史料によって固め、その人物像の肉付けは二次的な史料を慎重に用いて行うという、バランスの取れた歴史像の再構築が可能となる。
永禄10年(1567年)の起請文提出を最後に、楽巌寺雅方の名は信頼できる史料から姿を消す。彼の没年や没地、墓所などは一切不明である 5 。武田信玄の死後、勝頼の代に行われた長篠の戦い(天正3年、1575年)や、武田氏滅亡に至る天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍との戦いなど、武田氏の存亡をかけた重要な局面において、彼の名が参戦記録などに見出すことはできない。
これは、彼が起請文提出後、比較的早い時期に病没したか、あるいは隠居して表舞台から退いた可能性を示唆している。また、彼の子孫に関する確かな記録も見当たらず、楽巌寺氏が武田氏滅亡後も存続したかどうかは不明である。戦国の乱世において、多くの国衆や武将がそうであったように、雅方もまた、歴史の記録の中に静かに消えていった一人なのである。
楽巌寺雅方の生涯は、信濃国という限定された地域を舞台としながらも、戦国時代という巨大な転換期を生きた一人の武将の姿を鮮やかに映し出している。
彼の人生は、いくつかの明確な段階に分けることができる。第一に、布引観音という信仰の地に根差した僧侶から、武勇をもって主君に仕える「法師武者」としての出発。第二に、甲斐武田氏という強大な侵略者に対し、主家と袂を分かってでも地域の雄・村上氏に属して抵抗を試みた、気骨ある国衆としての時期。そして第三に、抗戦の末に敗れ、かつての宿敵の家臣団に組み込まれ、その支配体制の中で忠誠を誓って生きることを選んだ、現実的な選択の後半生である。
この軌跡は、雅方個人の物語であると同時に、信濃の多くの国衆が辿った運命の縮図でもある。彼らは、自らの土地と一族を守るために戦い、同盟し、そして時には屈服するという厳しい選択を繰り返した。雅方の物語は、大名たちの華々しい合戦の陰で、無数の国衆たちが繰り広げた必死の生存競争の実態を、人間的な尺度で示してくれる。
彼の全貌を明らかにする史料は乏しい。しかし、一枚の起請文、一本の棟札、軍記物語の数行の記述、そして今なお残る城跡の土塁や堀。これらの断片的な情報を丹念に拾い集め、批判的に分析し、繋ぎ合わせることで、歴史の表舞台から忘れ去られた一人の武将の輪郭を、これほどまでに具体的に描き出すことが可能となる。
楽巌寺雅方は、歴史を動かした英雄ではないかもしれない。しかし、彼の生き様は、信仰、武勇、地域への誇り、そして何よりも生き残るための現実主義を胸に、戦国の荒波を渡りきろうとした一人の人間の確かな肖像として、我々の前に立ち現れるのである。