最終更新日 2025-07-21

横岳資誠

戦国武将・横岳資誠の生涯 ― 名門の矜持と激動の時代に生きた一族の軌跡

序章:名門・少弐氏の庶流、横岳氏の勃興

日本の戦国時代、特に群雄が激しく覇を競った北部九州の歴史において、横岳資誠(よこだけ すけまさ)という武将の名は、大友氏や龍造寺氏といった大名の陰に隠れ、広く知られているとは言い難い。しかし、彼の生涯と、彼が属した横岳一族の軌跡を丹念に追うことは、名門の血統を誇りとしつつも、時代の荒波の中で翻弄され、生き残りを図った一地方豪族の実像を浮き彫りにする。本稿は、横岳資誠という一人の人物に焦点を当て、その出自から主家・少弐氏との関係、そして彼を取り巻く一族の流転を徹底的に詳述するものである。

少弐氏の権威と衰退

横岳氏の出自を語る上で、その主家である少弐氏の歴史を抜きにしては考えられない。少弐氏は、鎌倉幕府の御家人・武藤資頼が、大宰府の次官である大宰少弐に任じられたことを起源とする名門である 1 。文永・弘安の役(元寇)においては、時の当主・少弐資能やその子である経資・景資らが日本軍の先頭に立って奮戦し、一族に多大な犠牲を払いながらもこれを退けた 1 。この功により、少弐氏は筑前・肥前・対馬など北部九州一帯に広大な所領を持つ守護大名へと成長し、その権勢は頂点を迎えた。

しかし、鎌倉時代末期から南北朝、室町時代へと至る動乱の中で、少弐氏の運命は暗転する。鎮西探題として九州に派遣された北条氏、次いで室町幕府を樹立した足利氏、そして周防国を拠点に勢力を拡大する大内氏との絶え間ない抗争により、かつて広大を誇った所領は次第に蚕食されていった 1 。横岳氏が歴史の表舞台に登場する15世紀前半には、少弐氏は宿敵・大内氏によって筑前国の本拠地である大宰府を追われ、肥前国へと逼塞を余儀なくされる苦難の時代を迎えていた 2

祖父・横岳頼房の登場と横岳氏の創始

このような状況下で、少弐氏再興の旗頭として頭角を現したのが、横岳資誠の祖父にあたる横岳頼房(よりふさ)である。頼房は、少弐氏10代当主・少弐貞頼の子であり、11代当主・満貞の弟という、まさに宗家に連なる直系の血筋であった 2

永享5年(1433年)、室町幕府の支持を得た大内持世が九州へ侵攻し、兄・満貞は筑前秋月城で自刃、その子・資嗣も討ち死にするという、少弐氏にとって壊滅的な敗北を喫した 2 。この絶体絶命の危機に際し、頼房は満貞の遺児でまだ幼かった嘉頼・教頼兄弟を奉じ、対馬の宗貞盛を頼って落ち延び、再起の機会を窺った 2 。この行動は、横岳氏の創設が単なる分家の独立ではなく、滅亡の危機に瀕した少弐宗家を支え、その血脈を未来へ繋ぐという使命を帯びたものであったことを示唆している。

横岳という姓は、頼房がかつての本拠地であった筑前大宰府北方の「横岳」の地に居住したことに由来するとされる 2 。その故地は、現在も福岡県太宰府市に地名として残っており 3 、失われた本拠への強い意識の表れと見ることもできよう。

肥前三根郡への進出と西島城の築城

対馬へ逃れた頼房は、永享6年(1434年)に肥前で再起の兵を挙げると、高木氏、千葉氏、龍造寺氏といった肥前の国人衆を糾合し、九州探題・渋川満直を神埼で破るという目覚ましい戦果を挙げた 2 。これにより東肥前一帯を掌握した頼房は、自らを「少弐の代官」と称し、肥前国三根郡(現在の佐賀県三養基郡みやき町)へ移住する 2 。そして文安元年(1444年)頃までに、一族の拠点となる西島城を築いた 3

頼房が西島を選んだ背景には、戦略的な計算があったと考えられる。この地は筑後川水系に連なり、有明海の交易路や筑後国への影響力行使に有利な立地であった。加えて、周囲をクリーク(濠)が縦横に巡る低湿地帯は、大内氏のような大軍の侵攻を防ぐ天然の要害となり得た 9 。こうして、横岳氏は少弐氏再興の橋頭堡として、肥前三根郡に確固たる基盤を築き、国人領主としての地位を確立したのである。

以下の表は、横岳頼房からその子孫に至るまでの主要人物と、彼らが置かれた状況の変遷をまとめたものである。

表1:横岳氏主要人物系図と動向

氏名(別名)

続柄

生没年

主要な主君/所属勢力

特記事項

初代

横岳頼房 (孫二郎)

少弐貞頼の次男

生年不詳~1444年

少弐満貞・嘉頼・教頼

横岳氏の祖。西島城を築城 2

二代

横岳資貞 (兵庫頭, 讃岐守)

頼房の子

生年不詳~1530年

少弐政資・資元 → 大内義隆

田手畷の戦いで大内方として参戦し戦死 7

三代

横岳資誠 (彦四郎, 讃岐守)

資貞の子

生年不詳~1569年

少弐資元・冬尚

田手畷の戦いで少弐方として戦う。少弐冬尚の娘を娶る 7

四代

横岳資栄 (孫二郎, 兵庫頭)

資誠の子

生年不詳~1553年

少弐冬尚

父・資誠に先立ち死去 11

五代

横岳鎮貞 (家実, 弥十郎)

資栄の子

生年不詳~1617年

少弐冬尚 → 大友宗麟 → 龍造寺隆信・政家

龍造寺氏に降伏後、「家実」と改名。一族存続を果たす 3

第一章:父・資貞の時代 ― 大内氏と少弐氏の狭間で

横岳資誠の生涯を理解する上で、彼の父である二代当主・横岳資貞(すけさだ)が置かれた苦境と、その悲劇的な結末は避けて通れない。資貞の時代は、主家である少弐氏が一時的に息を吹き返す一方で、宿敵・大内氏の圧力が頂点に達した時期であり、彼の行動は忠義と裏切りという単純な二元論では割り切れない、戦国国人の苦悩を象明している。

少弐氏「中興の祖」の庇護者として

父・頼房の跡を継いだ資貞は、少弐氏15代当主・少弐政資から偏諱(名前の一字を与えられること)を受け、「資貞」と名乗った 7 。この事実は、彼が主君から深く信頼されていたことを示している。政資は、大内氏に奪われていた大宰府を一時的に奪還するなど、「少弐氏中興の祖」と称されるほどの器量を持った人物であったが、大内義興の猛攻の前に力尽き、肥前多久で子の高経と共に討死した 7

主家が再び存亡の機に瀕する中、資貞は政資の遺児である少弐資元を自らの居城・西島城に迎え入れ、庇護・養育した 7 。これは、祖父・頼房以来の、少弐宗家を守護するという横岳氏の使命を、資貞が忠実に受け継いでいたことの証左である。資貞は豊後の大友氏など他勢力の支援も取り付け、資元を支え、神埼の勢福寺城に入城させるなど、少弐氏の勢力回復に大きく貢献した 14

さらに資貞は、武力だけでなく政略によっても少弐氏の勢力圏を固めようと試みた。当時、内紛で分裂していた肥前の名族・千葉氏に対し、資貞は巧みに介入し、自身の三男である満童丸(後の千葉胤勝)を西千葉氏の養子として送り込み、家督を継承させることに成功した 3 。これは、婚姻や養子縁組を通じて周辺国人との連携を強化し、大内氏に対抗する連合戦線を構築しようとする、資貞の優れた政治手腕を示す事例である。

田手畷の戦いと悲劇的結末

しかし、資貞の奮闘も空しく、少弐氏の運命を決定づける時が訪れる。享禄3年(1530年)、大内義隆は少弐資元を完全に滅ぼすべく、筑前守護代・杉興運に大軍を率いさせて肥前へ侵攻させた 7 。大内方の圧倒的な軍事力の前に、肥前の国人衆は次々と戦意を喪失し、横岳資貞もまた、筑紫尚門ら他の少弐一族と共に降伏を余儀なくされた 7

ここで杉興運は、極めて冷徹かつ巧妙な戦術を用いた。彼は、降伏したばかりの資貞や筑紫尚門らを、あえて大内軍の最先鋒に配置し、彼らの旧主君である少弐資元の居城・勢福寺城へと進軍させたのである 7 。これは、降伏者たちに「裏切り者」としての働きを強いることで、彼らの後戻りの道を断ち、少弐方の結束を内側から切り崩そうとする心理戦であった。もし彼らが奮戦すれば少弐方の戦力を削ぐことができ、もし躊躇すれば後方の督戦隊が容赦しない。資貞は、この非情な戦略の駒として、死地へ赴かざるを得なかった。

神埼の田手畷(たてなわて)で行われたこの戦いは、誰もが少弐氏の敗北を予測していた。しかし、少弐方の重臣・龍造寺家兼とその家臣である鍋島清久・清房父子らが率いる奇襲部隊が、赤熊(しゃぐま)の面を被って大内軍本陣に突撃するという奇策によって、戦局は一変する 7 。大混乱に陥った大内軍は敗走し、少弐方は劇的な勝利を収めた。しかし、その勝利の代償として、大内方の先陣に立たされていた横岳資貞は、かつての同胞の刃に倒れ、戦死するという悲劇的な最期を遂げた 7

資貞の「裏切り」は、個人の忠節よりも、一族と領地・西島城の存続という領主としての責任を優先した、苦渋に満ちた政治的決断であったと解釈できる。彼が汚名を着て死ぬことで、横岳一族そのものが根絶やしにされる事態だけは回避しようとしたのかもしれない。彼の墓は、現在も一族の菩提寺である光浄寺に静かに眠っている 10

第二章:横岳資誠の生涯 ― 主家への忠節と激動の半生

父・資貞が非業の死を遂げた田手畷の戦いは、その子・横岳資誠の人生を決定づける分水嶺となった。父とは対照的に、資誠は一貫して主家への忠節を貫き、その生涯は、戦国武将の生き様として、父とは異なる一つの理想形を示している。

父との決別 ― 田手畷での選択

田手畷の戦いにおいて、父・資貞が大内方に降伏し、その先鋒として戦場に立ったのに対し、息子の資誠は終始一貫して少弐方として戦ったことが、複数の史料で一致して記録されている 3 。これは、この戦場において、父と子が敵味方に分かれて対峙したことを意味する。この事実は、資誠の少弐氏に対する忠誠心が、父が下した政治的判断や一族存続という現実的な理屈を超えた、強固な信念に基づくものであったことを何よりも雄弁に物語っている。

父が「裏切り者」として死んだ姿を目の当たりにしたであろう資誠にとって、自らの忠義を貫くことは、横岳家の名誉を回復し、武士としての自己の存在証明を確立するための、強い意志の表れであったのかもしれない。田手畷での劇的な勝利は、彼のその選択が結果的に「正しかった」ことを証明し、その後の彼の生涯を方向づける決定的な出来事となった。

主君・少弐冬尚の重臣として

田手畷の戦いの後、資誠の忠節は主君・少弐資元から高く評価された。資元の子である少弐冬尚の代になると、資誠の立場はさらに重要なものとなる。彼は、主君・冬尚の娘を妻として娶ったのである 3 。この婚姻は、資誠が単なる有力家臣という立場を超え、主君の一門に連なる、名実ともに少弐氏の運命共同体の中核を担う存在となったことを意味する。横岳氏は、資誠の代において、主家と最も緊密な関係を築き、その権勢は頂点に達したと言えるだろう。

龍造寺隆信の台頭と少弐氏の滅亡

しかし、資誠が支える少弐氏の前には、新たな脅威が台頭しつつあった。かつて田手畷で共に戦い、少弐氏を勝利に導いた龍造寺氏である。龍造寺家兼の死後、その曾孫である龍造寺隆信が家督を継ぐと、その類稀なる智謀と武勇によって急速に勢力を拡大し、やがては主家である少弐氏の権威を脅かす存在へと変貌していった。

隆信は、かつての主君である少弐冬尚との対立を深め、ついに永禄2年(1559年)、冬尚が籠る勢福寺城に大軍を差し向けた。冬尚は奮戦するも力及ばず、自害を余儀なくされた 16 。これにより、鎌倉時代から約400年にわたって北部九州に君臨した名門・少弐氏は、事実上、歴史の表舞台からその姿を消したのである 16

永禄12年(1569年)の死

主家の滅亡という悲劇から10年後、永禄12年(1569年)5月26日、横岳資誠はこの世を去った 11 。戒名は寶屋本珍(ほうおくほんちん)といい、墓所は父と同じく、みやき町の光浄寺にある 3

主家滅亡後の10年間における彼の具体的な動向を伝える史料は乏しい。しかし、旧主・少弐氏の娘婿であり、その忠臣として名高かった資誠が、本拠地・西島城に健在であること自体が、肥前統一を目指す龍造寺隆信にとって大きな脅威であったことは想像に難くない。旧少弐家臣団が、資誠を旗頭として結集し、反龍造寺の兵を挙げる危険性は常に存在した。隆信の視点から見れば、資誠の存在は肥前東部を完全に掌握する上での「目の上のこぶ」であり、その死は一つの大きな障害が取り除かれたことを意味した。資誠の死因は不明であるが、彼の晩年が極めて緊張を強いられる状況にあったことは間違いないだろう。彼の死は、忠節を貫いた一つの時代が終わり、横岳氏が新たな存続の道を模索せざるを得ない、重大な転換点となったのである。

第三章:少弐氏滅亡と横岳一族の流転

横岳資誠の死は、一族に新たな試練をもたらした。もはや「少弐氏への忠節」という旧来の価値観では生き残れない時代が到来し、横岳氏は龍造寺氏と大友氏という二大勢力に挟まれながら、一族の存続を賭けた現実的な選択を迫られることになる。資誠の孫の代に至り、横岳氏の戦略は大きな転換期を迎えた。

世代交代と新たな指導者・鎮貞の登場

資誠には資栄(すけしげ)という嫡男がいたが、天文22年(1553年)に父に先立って死去している 11 。このため、資誠の死後、横岳氏の家督を継承したのは、資栄の子、すなわち資誠の孫にあたる横岳鎮貞(しずさだ)であった。鎮貞が家督を継いだ時、かつての主家・少弐氏は既に滅亡しており、肥前では龍造寺隆信がその覇権を確立しつつあった。鎮貞は、祖父・資誠が貫いた忠義の記憶と、目の前に広がる厳しい現実との間で、一族の舵取りを担うことになった。

反龍造寺の旗頭として ― 大友氏との連携

当初、鎮貞は龍造寺隆信に屈することを拒み、抵抗の道を選んだ。彼は、隆信の最大の宿敵であった豊後のキリシタン大名・大友宗麟と結び、その支援を背景に、本拠地・西島城に籠城して龍造寺軍の侵攻を幾度となく撃退した 4 。この時期の横岳氏は、旧主・少弐氏に代わる新たな庇護者として大友氏を明確に選択し、その勢力圏に組み込まれることで自立を保とうとしたのである。

その関係を象徴するのが、元亀元年(1570年)に起こった今山の戦いである。この戦いで、大友宗麟は龍造寺隆信を討つべく数万の大軍を派遣したが、鎮貞も大友軍の一員としてこれに従軍している 12 。西島城は、龍造寺領の東端に位置する、対大友氏の最前線であり、鎮貞の抵抗は龍造寺隆信にとって極めて厄介な存在であった。

龍造寺氏への降伏と臣従

しかし、大友氏は耳川の戦いで島津氏に大敗を喫するなど、次第にその勢力を衰退させていく。大友からの有効な支援が期待できなくなると、西島城の横岳氏は孤立無援の状態に陥った。天正3年(1575年)頃、一族の横岳頼続(よりつぐ)らの説得もあり、鎮貞はついに抵抗を断念し、龍造寺隆信に降伏して西島城を開城した 3

この降伏は、単なる敗北ではなく、一族が生き残るための戦略的転換であった。鎮貞は龍造寺氏の家臣となり、隆信の子である龍造寺政家から偏諱を受け、名を「家実(いえざね)」と改めた 3 。これは、横岳氏が独立した領主としての地位を完全に放棄し、龍造寺氏の支配体制に組み込まれたことを象徴する出来事である。以後、家実(鎮貞)は龍造寺軍の武将として、西肥前や筑後への侵攻に従軍し、戦功を挙げることで新たな主君の下での地位を確保していった 12

江戸時代への道 ― 小城藩士として

龍造寺氏が沖田畷の戦いで隆信の戦死により衰退し、その実権が重臣の鍋島氏に移ると、横岳氏の運命も再び変わる。江戸時代に入り、鍋島氏が佐賀藩主となると、横岳氏はその支藩である小城藩の家臣として仕えることになった 8 。それに伴い、一族は祖父・頼房以来、約150年にわたって本拠地としてきた三根郡西島を離れ、小城へ移り住んだ 8

資誠の「忠義」、鎮貞(家実)の「抵抗」、そして最終的な「従属」。横岳氏の存続戦略は、世代を追うごとに、名門の誇りから一族の血脈を繋ぐという現実主義へと、その色彩を明確に変えていった。それは、戦国乱世を生き抜いた数多の地方豪族が辿った、典型的な軌跡でもあった。

終章:史跡に見る横岳氏の足跡

横岳資誠とその一族が繰り広げた歴史は、文献史料の中にその記録を留めるだけでなく、彼らが活動した土地に今なおその痕跡を伝えている。現代に残る城跡や寺院は、彼らが確かにその地で生き、戦い、そして祈った無言の証人である。

拠点・肥前国西島城跡

横岳氏が約140年間にわたり本拠とした西島城は、現在の佐賀県三養基郡みやき町西島にその跡地が比定されている 5 。地域の鎮守である西乃宮八幡宮の南東一帯が城の中心部であったとされ、現地にはその歴史を伝える案内板も設置されている 18

西島城は、佐賀平野に特徴的なクリーク(環濠)を巧みに利用した平城であった 9 。現在、城跡の多くは宅地化されているものの、往時を偲ばせる堀の一部が今も残存しており 20 、水郷地帯における防衛拠点の様相をうかがい知ることができる。この城で、資貞は苦悩し、資誠は忠節を誓い、そして鎮貞は抵抗の末に降伏を決断した。城跡は、横岳一族の栄枯盛衰のすべてを見つめてきた場所なのである。

菩提寺・光浄寺

西島城跡の東に位置する光浄禅寺(光浄寺)は、横岳氏代々の菩提寺である 19 。その境内には、田手畷で非業の死を遂げた二代・資貞、主家に殉じた三代・資誠、そして一族の存続に尽力したその子孫たちのものと伝えられる墓碑が、今も静かに佇んでいる 8 。これらの墓碑は、文献史料だけでは窺い知れない一族の歴史の重みを、現代に伝える貴重な史跡である。

歴史の中に埋もれた一族の記憶とその意義

横岳氏の歴史は、「名門の誇り」と「在地領主としての現実」との間で繰り広げられた、絶え間ない緊張関係の物語であったと言える。彼らは、少弐氏の血を引くという「名門の誇り」を自らのアイデンティティの核としていた。それは、資誠が父と袂を分かってまで貫いた忠節の源泉であった。一方で、彼らは三根郡西島という土地に根差した「在地領主」であり、領地と一族の血脈を守るという、極めて「現実的」な課題に常に向き合わなければならなかった。それは、資貞を降伏へと導き、孫の鎮貞(家実)を新たな主君への臣従へと向かわせた原動力であった。

横岳資誠とその一族の物語は、九州戦国史の主役である大内、大友、龍造寺といった大名の華々しい歴史の陰に隠れがちである。しかし、彼らが生きた軌跡は、時代の激流の中で自らの拠り所を求め、時には誇りに殉じ、時には現実を受け入れて生き残りを図った、無数の国人領主たちの縮図である。その歴史を紐解くことは、戦国という時代の多様性と深層を理解する上で、不可欠な視点を提供してくれるのである。

引用文献

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