横田高松は武田信玄の足軽大将。戸石崩れで殿を務め壮絶な戦死を遂げ、信玄を救った。その忠義が横田家の繁栄の礎となった。
戦国時代の甲斐国を拠点に、その勢力を天下に轟かせた武田信玄。彼の麾下には、綺羅星のごとく数多の名将が名を連ねていた。その中でも、後世に「武田二十四将」の一人として、また特に「甲陽五名臣」の一角として記憶される武将がいる。その名は横田高松(よこた たかとし) 1 。一般的には、武田信玄の信濃侵攻において、宿敵・村上義清との「戸石崩れ」と呼ばれる壮絶な戦いで殿(しんがり)を務め、主君の危機を救うために命を散らした忠烈の将として知られている 3 。
しかし、その人物像は、悲劇的な最期という一点のみに集約されるべきではない。本報告書は、この横田高松という一人の武将の生涯を、その出自から武田家への仕官、戦場での具体的な武功、そして彼の死が後世に与えた影響に至るまで、多角的かつ徹底的に掘り下げることを目的とする。特に、彼が外様出身でありながらいかにして武田家臣団の中核に食い込んだのか、そして彼が駆使したとされる「敵の先手を打つ」戦術の本質とは何だったのかを解明することに主眼を置く。
この調査を進める上で、避けて通れないのが史料の問題である。高松の人物像や逸話の多くは、江戸時代に成立した軍記物『甲陽軍鑑』に依拠している 5 。『甲陽軍鑑』は武田家の内情を詳細に描く一方で、年月日の誤りや文学的な脚色も多く含まれるため、その史料的価値については長年議論が続いてきた 7 。近年の研究では、史料批判を経ることでその価値が再評価されているものの 8 、全面的に鵜呑みにすることはできない。したがって、本報告書では『甲陽軍鑑』の記述を基軸としつつも、武田氏の動向を記した信頼性の高い一次史料である『高白斎記』や、同時代の記録である『勝山記(妙法寺記)』などとの比較検討を通じて、可能な限り史実に迫る分析を試みる 6 。これにより、伝説として語られる英雄像と、歴史の中に実在した武将としての横田高松の姿を、複眼的に描き出すことを目指すものである。
横田高松の出自は、甲斐国ではなく、近江国甲賀郡横田郷にあったとされる 11 。甲賀は、伊賀と並び、忍術で名高い地であり、この地理的背景は後の彼の経歴に少なからぬ影響を与えた可能性がある。
横田氏の家系を遡ると、そのルーツは宇多源氏佐々木氏の一族に行き着くと伝えられている 14 。佐々木氏は近江を本拠とする名門武家であり、横田氏もその支流として近江に根を張っていた。『横田氏家譜』によれば、「佐々木三郎秀義の末孫、次郎兵衛尉義綱」という人物が、浅井伊予守吉高に仕えて戦功を挙げ、横田川和泉村のほとりに采地(領地)を与えられたことから、家号を「横田」に改めたと記されている 12 。この伝承は、横田氏が甲斐の外から来た新参者ではなく、近江に確固たる基盤を持つ武家であったことを示唆している。
高松が武田家に仕える以前にどの主君に仕えていたかについては、複数の説が存在する。多くの資料では、南近江の守護大名であった六角氏の家臣であったとされている 3 。一方で、前述の家譜の伝承では、その祖先は北近江の国人から戦国大名へと成長した浅井氏に仕えていたとされている 12 。
この二つの説は、必ずしも矛盾するものではない。当時の近江は、南の六角氏と北の浅井氏が覇権を巡って激しく争う、まさに動乱の地であった 16 。浅井氏は元々六角氏の被官であったが、浅井長政の代に独立を果たすなど、両家の関係は極めて流動的であった 17 。このような政治状況下では、国人領主が時勢に応じて仕える主君を変えることは珍しくなかった。高松の祖先が浅井氏に仕え、その後の情勢変化により、高松の代では六角氏の麾下に入っていたという経緯は十分に考えられる。
高松が故郷の近江を離れ、甲斐の武田信虎に仕官したのは、永正十六年(1519年)頃と伝えられている 12 。彼がなぜ新天地を求めたのか、その直接的な理由は史料に残されておらず不明である。しかし、その背景には、当時の武田家の状況が大きく関わっていたと考えられる。
この時期の武田信虎は、長年にわたる内乱を鎮め、甲斐国の統一を成し遂げたばかりであった。国内を安定させ、さらなる勢力拡大を目指す信虎は、家臣団の強化を急務としており、国籍を問わず広く有能な人材を募集していた 15 。高松もまた、この信虎の政策に応じた一人であった可能性が高い。近江での将来に見切りをつけ、実力主義で人材を登用する新興勢力・武田家に自らの活躍の場を見出したとしても不思議ではない。
甲斐へ移った高松だが、信虎の治世下では、目立った武功を立てたという記録はあまり見られない 12 。しかし、これは彼が不遇をかこっていたことを意味するものではない。いくつかの資料によれば、信虎時代の高松は、彼の出自である甲賀の地の利を生かし、甲賀の忍者衆との連絡役や、彼らを率いての情報収集活動に従事していたとされている 12 。
この役割は、彼の武田家における地位確立の鍵であったと考えられる。甲斐という閉鎖的な国で権力を固めつつあった信虎にとって、外部からの正確な情報は死活問題であった。特に、諜報や謀略に長けた甲賀衆を扱える能力は、他に代えがたい特殊技能であった。高松は、この専門性を武器に、外様(とざま)という不利な立場でありながら、猜疑心の強い信虎の信頼を勝ち取っていったのである。後年、彼が「敵の動静を察知するに敏な武将」 1 と評され、「敵の裏をかきその場所を陣取る先手必勝を得意とした」 18 とされる戦術眼は、単なる天性の勘ではなく、この諜報活動の経験によって培われた、情報分析に基づく合理的な能力であった可能性が極めて高い。この情報という無形の武器こそが、彼が武田家で生き残り、やがて信玄の時代に軍団の中核を担う武将へと飛躍するための礎となったのである。
武田信虎が嫡男・晴信(後の信玄)によって駿河へ追放され、信玄が武田家の新当主となると、横田高松の運命は大きく好転する 12 。信玄の時代、高松は足軽大将として本格的にその才能を開花させることになる。
この背景には、戦国時代の合戦形態の大きな変化があった。鎌倉・室町時代に主流であった武士個人の武勇に頼る一騎討ちから、兵農分離が進むにつれて、槍や弓、鉄砲で武装した足軽による集団戦法へと戦いの主役が移行していったのである 19 。この変化に対応するため、信玄は軍制改革を断行し、訓練された足軽部隊を組織的に運用する体制を構築した。その中で、これらの部隊を直接指揮する「足軽大将」という役職は、極めて重要な意味を持つようになった 21 。足軽大将に求められたのは、個人の武勇以上に、部隊を統率し、戦況に応じて的確な判断を下す高度なリーダーシップと戦術的知見であった 21 。高松は、まさにこの新しい時代の要請に応える能力を備えた、新時代の指揮官であった。
信玄の代になると、高松は騎馬30騎、そしてその配下として足軽100人を率いる侍大将格の指揮官に抜擢された 1 。これは、一個の独立した戦闘単位を任される、家臣団の中でも中核的な存在であったことを示している。彼の知行(所領からの収入)は三千貫に達したと記録されているが 1 、これは信玄の治世下で彼が立てた功績に応じて与えられた最高時の待遇と考えるのが妥当であろう。
特筆すべきは、高松が武田家の宿老である甘利虎泰の部隊の「相備え(あいぞなえ)」を務めたという点である 6 。相備えとは、主力の「本備え」と連携し、側面支援や遊撃、あるいは別動隊として行動する極めて重要な役割を担う部隊である。本隊とは異なる機動性と、独立した戦術判断力が要求されるため、相備えを任されることは、主君からの深い信頼の証であった。武田軍団が誇る精緻な部隊編成システム「備(そなえ)」 24 の中で、高松がいかに重要な戦力として位置づけられていたかが窺える。
高松の武勇を物語るものとして、彼が生涯で34度の合戦に出陣し、その身に受けた刀傷は31箇所にも及んだという伝承が残されている 1 。この驚くべき数の傷跡は、単に彼が勇猛な戦士であったことを示すだけではない。
それは、彼が外様出身の家臣であったことと深く関わっている。譜代(ふだい)と呼ばれる、代々武田家に仕える家臣たちの忠誠が自明のものとされる一方で、高松のような外様家臣は、常に自らの価値と忠誠心を戦場で証明し続けなければならなかった 23 。彼の全身に刻まれた無数の傷は、彼が武田家のために命を賭して戦ったことの何より雄弁な証拠であった。それは、譜代家臣たちのいかなる言葉よりも説得力を持つ、彼の忠誠心を可視化した「動かぬ履歴書」だったのである。この肉体的な犠牲を通じて、彼は家臣団内のあらゆる懐疑的な視線を沈黙させ、実力でのし上がった者としての地位を不動のものとした。この絶え間ない自己証明の積み重ねこそが、彼を信玄にとってかけがえのない存在へと押し上げた原動力であった。
信玄による信濃侵攻が本格化すると、横田高松は足軽大将としてその戦術家としての真価を遺憾なく発揮する。彼の武功の中でも特に名高いのが、天文十六年(1547年)の志賀城攻めである。
信濃国佐久郡に位置する志賀城は、城主・笠原清繁が守る堅固な城であった。武田軍はこの城の攻略にあたり、高松は極めて高度な作戦を展開した。まず、彼は自らの部隊を率いて城の正面から猛攻を仕掛け、城兵の注意を一身に引きつけた 1 。これは、敵に正攻法で攻めかかっていると見せかけるための陽動であった。
その一方で、高松は密かに別動隊を編成し、城の裏手にある険しい崖をよじ登らせた 1 。この部隊の目的は、籠城戦における生命線である「水の手」、すなわち城の水源を断つことにあった。この奇襲は見事に成功し、城内の兵士たちの士気と継戦能力を内部から打ち砕いた。これは、単なる力押しではなく、敵の弱点を的確に突く知略の勝利であった。
志賀城が窮地に陥ったことを知った関東管領・上杉憲政は、城を救うべく後詰(救援部隊)を派遣した。この後詰軍を迎え撃ったのが、またしても横田高松の部隊であった。高松は小田井原(おたいはら)において上杉軍と激突し、これを徹底的に撃破した 1 。
この小田井原の戦いでの勝利は、志賀城の運命を決定づけた。外部からの救援の望みを完全に断たれた志賀城は、もはや落城を待つのみとなったのである。この一連の戦いにおいて、高松は正面からの攻撃(陽動)、裏からの奇襲(兵站破壊)、そして敵救援部隊の迎撃(野戦)という、性質の異なる三つの作戦を完璧に遂行してみせた。
この志賀城攻めにおける縦横無尽の活躍は、主君・信玄を深く感嘆させた。後に信玄は近習の者たちに対し、「武篇(ぶへん)の者になろうとするなら、原美濃(虎胤)、横田備中(高松)のようになれ」と語り、その戦上手ぶりを家臣たちの模範として称えたと伝えられている 1 。
信玄が高く評価したのは、単なる武勇ではなかった。高松が見せた戦術は、敵軍そのものだけでなく、敵の兵站、士気、そして外部との連携という、戦争を構成するあらゆる要素を視野に入れた、極めて高度なものであった。それは、敵の動きを事前に察知し、その裏をかいて先手を打つという彼の得意戦術が、諜報活動に裏打ちされた情報戦と、それを具現化する柔軟な部隊運用能力の賜物であったことを示している。この多角的な視点を持つ非対称戦の巧みさこそが、彼を単なる猛将ではなく、信玄が認める「戦上手」たらしめた本質であった。
輝かしい武功を重ねてきた横田高松であったが、その生涯は天文十九年(1550年)、信濃国戸石城(砥石城)を巡る戦いにおいて、壮絶な幕切れを迎える。
この戦いの2年前、天文十七年(1548年)の上田原の戦いで、武田軍は北信濃の猛将・村上義清の前に生涯初となる大敗を喫していた。この一戦で、信玄は譜代の重臣である板垣信方と甘利虎泰という両翼を一度に失うという甚大な被害を受けていた 5 。
したがって、天文十九年(1550年)9月に開始された村上方の支城・戸石城への攻撃は、単なる領土拡大以上の意味を持っていた。それは、上田原の雪辱を果たし、失墜した武田の威信を回復するための、信玄にとって絶対に負けられない戦いであった 10 。
武田軍は7000という大軍を率いて戸石城を包囲した。対する城兵はわずか500名ほどであったが、この城は東西を険しい崖に囲まれ、攻め口が砥石のように切り立った南西の崖に限られるという天然の要害であった 10 。
さらに、城兵の中には、かつて武田軍によって攻め滅ぼされた志賀城の残党が多く含まれており、その士気は復讐心に燃え、極めて高かった 10 。武田軍は、高松の部隊が崖を登るなど果敢に攻め立てたが、城兵は上から巨石を落とし、煮え湯を浴びせるなどして頑強に抵抗した。20日以上にわたる猛攻も実らず、戦況は膠着状態に陥った 10 。
武田軍が堅城を前に攻めあぐねている間に、事態は最悪の方向へ進む。敵対していた高梨氏と和睦を成立させた村上義清が、2000の主力部隊を率いて戸石城の後詰に駆けつけたのである 10 。これにより、武田軍は戸石城の城兵と村上本隊に挟撃されるという、絶体絶命の危機に陥った。
戦況の不利を悟った信玄は、全軍に撤退を命令。しかし、これを好機と見た村上軍は、退却する武田軍に猛烈な追撃を開始した。統制を失った武田軍は総崩れとなり、大混乱に陥った。これが後世に「戸石崩れ」として語り継がれる、信玄の生涯における二度目の大敗であった 5 。
この地獄のような混乱の中、一人の老将が進み出た。横田高松である。彼は、崩壊する自軍と、迫り来る敵軍の間に立ちはだかり、全軍の退却を援護する殿(しんがり)の役目を自ら引き受けた 1 。
殿軍とは、本隊を無事に逃がすため、最後尾で敵の追撃を一身に引き受ける、最も危険で、そして最も名誉ある任務である。この時、高松は齢64歳に達していた 5 。老骨に鞭打ち、死を覚悟してこの役目を担った彼の胸中にあったのは、主君・信玄への揺るぎない忠誠心だけであった。
高松率いる殿軍は、鬼神のごとき奮戦を見せ、村上軍の猛烈な追撃を食い止めた。彼らの命を賭した抵抗により、信玄率いる本隊は辛くも窮地を脱することに成功する。しかし、その代償はあまりにも大きかった。高松は敵中に孤立し、最後まで奮戦したものの、彼が率いた部隊もろとも壊滅。高松自身を含む1000名以上の将兵がこの地で討死を遂げたのである 1 。
横田高松の死は、単なる一武将の戦死ではなかった。それは、彼の家名の未来を決定づける、極めて重要な意味を持つ行為であった。武士の価値観において、主君のために命を捧げる自己犠牲的な死は、最高の栄誉とされた。この「完璧な死」は、高松を単なる有能な指揮官から、忠義の化身という不滅の存在へと昇華させた。そして、この壮絶な最期によって得られた名声は、一種の社会的・政治的資本となり、彼の子孫たちが後世を生き抜くための強力な礎となった。彼の死は、滅びではなく、一族の未来への最大の「投資」だったのである。
戸石崩れにおける横田高松の壮絶な戦死は、彼の武士としての生涯を締めくくると同時に、横田家の新たな歴史の始まりを告げるものであった。
高松には実子がおらず、彼の死によって横田家は家名断絶の危機に瀕していた 10 。忠臣の家系が途絶えることを惜しんだ信玄は、特別な計らいをもって家名の存続を図る。信玄は、同じく「甲陽五名臣」に数えられる猛将・原虎胤の子である康景(やすかげ、または綱松とも)を高松の婿養子として迎え、横田家の家督を継がせたのである 5 。この縁組は、武田家臣団の結束を象徴する出来事であると同時に、高松の功績がいかに高く評価されていたかを示すものであった。
養子として横田家を継いだ康景もまた、父祖に劣らぬ武勇の士であった。彼は足軽大将として信玄・勝頼の二代に仕えたが、天正三年(1575年)の長篠の戦いにおいて、織田・徳川連合軍を相手に奮戦の末、討死を遂げた 5 。
二代続けて当主が戦死するという悲運に見舞われた横田家であったが、その血脈は途絶えなかった。康景の子、すなわち高松から見れば孫にあたる横田尹松(ただとし、通称は甚五郎)が家督を継いだ 5 。彼は武田勝頼に仕え、高天神城の守備などで活躍したが、天正十年(1582年)に武田家が滅亡。主家を失った尹松であったが、彼の祖父・高松の忠名と、父・康景の武勇は、新たな天下人となった徳川家康の知るところであった。尹松は家康に召し出されて仕官し、旗本として横田家を再興することに成功した 5 。
江戸時代に入ると、横田家は徳川幕府の旗本として大いに繁栄した。尹松の代に5000石という大身旗本の待遇を与えられたのを皮切りに、その子孫は代々幕府の要職を歴任した 6 。
特に、尹松から数えて三代後の由松(よしまつ)は、将軍の側近である側衆(そばしゅう)に任ぜられ、従五位下備中守に叙任された 6 。さらにその後の準松(のりとし)の代には、加増を重ねて知行高は9500石に達し、旗本としては最高位の格式を誇るに至った 6 。一万石未満の将軍直参を指す旗本 35 の中で、この待遇は破格中の破格であり、大名に匹敵するものであった。戦国の世に散った一人の武将の忠義が、数世代後の子孫にこれほどの繁栄をもたらしたのである。これは、高松が戸石城で命を賭して守り抜いたものが、主君の命だけでなく、自らの一族の未来そのものであったことを物語っている。
【表1:横田家の存続と繁栄 ― 高松から江戸時代まで】
代 |
氏名 |
続柄 |
生没年 |
主な事績・役職 |
石高/知行 |
典拠 |
初代 |
横田高松 |
- |
1487年?~1550年 |
武田家足軽大将、戸石崩れで戦死 |
3000貫 |
1 |
二代 |
横田康景(綱松) |
高松の婿養子(原虎胤の子) |
1525年~1575年 |
武田家足軽大将、長篠の戦いで戦死 |
不明 |
5 |
三代 |
横田尹松 |
康景の五男 |
1554年~没年不詳 |
徳川家旗本、足軽大将 |
5000石 |
5 |
後代 |
横田由松 |
尹松の子孫 |
不詳 |
徳川家旗本、側衆、従五位下備中守 |
不明 |
6 |
後代 |
横田準松 |
由松の子孫 |
不詳 |
徳川家旗本、側衆、従五位下筑後守 |
9500石 |
6 |
横田高松の墓については、山梨県甲府市にある東光寺に存在するという伝承がある 36 。東光寺は武田信玄が定めた甲府五山の一つに数えられる名刹であり、信玄の嫡男・義信や、信玄の側室・諏訪御料人の父である諏訪頼重の墓があることで知られている 37 。しかし、高松の墓が同寺に確定的に存在するかどうかについては、現時点では決定的な史料に乏しく、さらなる考証が待たれるところである。
横田高松の生涯を俯瞰する時、我々は一人の武士の生き様と死に様が、いかにして後世に大きな影響を与えうるかという、戦国時代のダイナミズムを目の当たりにする。彼は近江出身の外様という、決して恵まれているとは言えない立場から出発した。しかし、情報戦に通じた類稀なる実力と、戦場での命を惜しまぬ比類なき忠誠心によって、主君・武田信玄の絶対的な信頼を勝ち取った。そして最期は、崩壊する軍の中で自らの命を盾とし、主君の窮地を救うという、まさに「武士の鑑」たる壮絶な死を遂げた。
彼の物語は、その死が単なる滅びではなく、一族の再生と繁栄の礎となったという逆説的な構造を持つ。戦国の世における「忠義の死」という最高の価値が、泰平の江戸時代において「家格」という社会的な地位へといかに転換され得たか、その見事な実例が横田家の歴史である。彼の死は、武田家への最後の奉公であると同時に、彼の子孫たちへの最大の遺産となったのである。
最終的に、横田高松という人物は、史実として確認できる確かな武功と、『甲陽軍鑑』に代表される軍記物によって増幅された伝説とが、分かちがたく結びついた存在として我々の前に現れる。戸石の崖を駆け下りる村上軍の猛追を一身に受け止めた老将の姿を想像する時、我々はその史実の重みと、それによって紡がれた伝説の輝きの両方を認識する必要がある。その両側面を理解することこそが、横田高松という武将の人物像を、より深く、そして豊かに捉えるための鍵となるであろう。