戦国時代の甲斐武田氏に、武田信廉という一人の武将がいた。彼は一般に、偉大な兄・武田信玄の「影武者」として、また、優れた「画才」の持ち主として知られている 1 。その容貌は信玄に酷似し、主君の死という国家の最大機密を糊塗する大役を果たした逸話は、後世の創作物にも多大な影響を与え、彼の人物像を強く印象づけてきた 4 。しかし、これらの象徴的なイメージは、武田信廉という人間の複雑な実像を捉える上で、その一面を照らし出すに過ぎない。
彼は武田一門の重鎮として、いかにして兄・信玄を支え、甥・勝頼の時代を生き、そして一族の滅亡に立ち会ったのか。武将として、政治家として、そして類稀なる芸術家として、彼が乱世で果たした役割は多岐にわたる。信玄の同母弟という血縁は、彼に武田家の中枢における安定した地位を約束した一方で、その生涯に特有の制約と、そしておそらくは深い葛藤をもたらしたであろう。本報告書は、断片的な逸話の奥に埋もれた武田信廉の生涯を、史料に基づき多角的に検証し、その実像を徹底的に再構築することを目的とする。
武田信廉は、甲斐源氏の嫡流であり、甲斐国主であった第18代当主・武田信虎の男子として生を受けた 5 。彼の生母は、西郡の豪族・大井信達の娘である大井の方であり、これは兄の武田信玄(晴信)、次兄の武田信繁と共通する。すなわち信廉は、武田家の将来を担う中核として期待された同母兄弟の末弟という、極めて重要な立場にあった 7 。彼の幼名は孫六と伝わっている 2 。
その生年については、いくつかの説が存在し、いまだ確定を見ていない。天文元年(1532年)説が最も有力視されているが、史料によっては享禄元年(1528年)や大永5年(1525年)とするものもある 2 。兄弟における序列に関しても、史料によって「三男」や「四男」といった記述の揺れが見られるが 7 、信虎の多くの子女の中では六男にあたるとするのが通説である 5 。いずれにせよ、彼は信玄や信繁の弟として、武田家の中枢に位置づけられる血筋であったことは間違いない。
信廉の青年期は、武田家の大きな転換点と重なる。天文10年(1541年)、兄・晴信(信玄)が父・信虎を駿河へ追放し、家督を相続。これにより、武田家の信濃侵攻は一層本格化していく 5 。この激動の時代にあって、信廉が歴史の表舞台に初めてその名を現すのは、軍事的な武功によってではなかった。
彼の名が確認できる初見史料は、天文17年(1548年)11月、信濃諏訪郡の国衆である千野氏に宛てて発給された書状である 5 。この文書において信廉は、武田方に謀反を起こした諏訪西方衆の追放と所領の没収を伝達し、千野氏に対しては知行の増加を約束している。この事実は、彼が若くして信濃統治の最前線において、現地の国衆との利害を調整し、武田家の支配を浸透させる「取次役」という高度に政治的な役割を担っていたことを示している。
さらにその3年後の天文20年(1551年)には、信玄の嫡男・義信と駿河の太守・今川義元の娘との婚姻を正式に伝える使者として、駿河へ赴いている 5 。甲駿同盟の根幹をなすこの重要な婚姻において、彼が使者を務めたことは、武田家の外交の一翼を担う存在として、兄・信玄から厚い信頼を寄せられていたことを物語っている。
信廉のキャリアの初期が、合戦での武勇伝ではなく、占領地の安定化や同盟国との交渉といった、繊細な政治的調整能力を要する任務から始まっている点は極めて示唆に富む。これは、信玄が信廉の資質を、単なる武人としてではなく、知性と交渉能力に長けた政治家として高く評価していた可能性を示している。同母弟という絶対的な信頼関係が、こうした機密性の高い任務への抜擢を可能にしたのであろう。彼の青年期の活動は、後に「親族衆筆頭」や「影武者」といった、兄からの絶大な信頼なくしては務まらない役割へと繋がる、重要な布石であったと解釈できる。
武田家の家臣団は、大名一族で構成される「御一門衆」、信虎の代以前から仕える譜代の家臣である「家老衆」、そして信濃や上野の国人衆といった外様家臣など、複数の階層から成っていた 12 。中でも御一門衆は、血縁者として特別な地位を保証され、合戦においては信玄の本陣を守護するなど、武田軍団の中核を担う存在であった 2 。『甲陽軍鑑』によれば、信廉はこの御一門衆の一人として、80騎の兵を指揮する将であったと記されている 5 。
信玄の治世当初、御一門衆を束ねる筆頭の地位にあったのは、信廉の次兄・武田信繁(典厩)であった。信繁は文武両道に秀で、人格者としても知られ、信玄からの信頼は絶大であったと伝わる 16 。しかし、永禄4年(1561年)に勃発した第四次川中島の戦いにおいて、信繁は上杉軍の猛攻から信玄本陣を守るべく奮戦し、壮絶な戦死を遂げた。
この兄の死を受け、信廉が親族衆の筆頭へと昇格することになる 1 。信繁の嫡子である信豊はまだ若年であったため、年齢と経験を考慮され、信廉がこの重責を担うことになったのである 1 。この昇格により、彼は名実ともに武田一門を代表する立場となった。
親族衆筆頭としての信廉の主な任務は、武力による領土拡大の先鋒を務めることよりも、むしろ獲得した領地の安定化と防衛にあった。彼は信濃支配の重要拠点である諸城の城主(あるいは城代)を歴任している。具体的には、信濃中部の要衝である深志城(現在の松本城)の城代を務めた後、元亀元年(1570年)には、それまで武田勝頼が城主であった高遠城の城主となった 1 。
高遠城は、美濃・尾張方面からの織田・徳川勢に対する最前線の拠点であり、その城主に任じられたことは、信玄からの信頼の厚さを物語っている。信玄の死後、勝頼の代になると、飯田城代や大島城代といった南信濃の防衛ラインを統括する要職も兼任し、その責任はますます重くなった 5 。
彼の統治者としての一面を物語る特筆すべきエピソードとして、父・信虎との関わりが挙げられる。元亀4年(1573年)に信玄が没すると、長年駿河に追放されていた父・信虎が武田領への帰国を望んだ。この際、信廉が信虎の身柄を引き取り、自らの居城である高遠城に住まわせ、その最期を看取ったのである 5 。信虎を追放した信玄に代わり、息子としての情を示したこの行動は、彼の人間性を深く理解する上で重要である。そして、この父との再会の機会に、戦国肖像画の傑作として名高い「武田信虎像」が描かれることとなる 5 。
信廉の親族衆筆頭としての経歴を俯瞰すると、その役割が次兄・信繁とは大きく異なっていたことがわかる。川中島で自ら敵陣に突撃し散った信繁が「矛」であるとすれば、信廉は本陣を守り、後方拠点を安定させ、一門をまとめる「盾」としての役割を期待されていた。これは、信玄が弟たちの性格や能力を的確に見極め、適材適所の配置を行っていたことの証左であり、武田家の安定した領国経営において、信廉が決して欠くことのできない存在であったことを示している。
武田信廉の戦場における役割は、第一線で敵を切り崩す攻撃的な武将というよりも、総大将である信玄の側近にあって本陣を固める、守備的な色彩が強いものであった 2 。これは彼が親族衆筆頭という、武田家の中枢を守るべき立場にあったことを明確に反映している。そのため、彼の武功を華々しく伝える逸話は多くない。
永禄12年(1569年)の後北条氏との三増峠の戦いや、元亀3年(1572年)の徳川家康を打ち破った三方ヶ原の戦いといった主要な合戦にも参陣した記録は残されているが、具体的な活躍は伝わっていない 21 。彼の戦場での存在は、信玄が後顧の憂いなく前線の指揮に専念するための、いわば「最後の砦」としての意味合いが大きかったと考えられる。
信廉の名を戦国史に刻む最も有名な逸話は、兄・信玄と容貌が酷似していたことを利用した「影武者」としての役割である 2 。この役割は、単に顔が似ているというだけでは務まらない、高度な知略と胆力を要するものであった。
彼の影武者としての能力が最も発揮されたのが、元亀4年(1573年)、信玄が西上作戦の途上で病没した際である。武田軍は総大将の死という最大の危機に直面したが、その死を内外に秘匿するため、信廉が信玄に成り代わり、全軍を無事に甲斐へと撤退させたとされる 1 。特に、信玄の死を疑った相模の北条氏政が、その真偽を探るべく重臣の板部岡江雪斎を使者として派遣してきた際の逸話は名高い。信廉は病床に伏せる信玄として江雪斎と応対し、その疑念を晴らして見事に欺き通したと伝えられている 5 。
こうした離れ業を可能にしたのは、単なる容貌の類似性だけではなかった。彼が持つ画家としての卓越した「観察眼」が、兄の些細な仕草や表情、声の調子に至るまでを完璧に模倣することを可能にした、一種の戦略的技能であったと考えられる 1 。彼の芸術的才能は、趣味の域を超越し、武田家の存亡を左右する情報戦・心理戦において、極めて重要な武器として機能していたのである。文化的な技能が、軍事的な目的に転用された稀有な事例として、高く評価されるべきであろう。
天正3年(1575年)5月、武田家の命運を大きく左右することになる長篠の戦いが勃発する。この合戦において、信廉は武田信豊らと共に武田軍の中央隊に布陣した 5 。
この戦いにおける彼の行動については、史料によって異なる記述が見られる。『信長公記』によれば、信廉の部隊は猛将・山県昌景に続く「二番手」として、織田・徳川連合軍が構築した馬防柵へ果敢に攻撃を仕掛けたとされている 5 。しかし、連合軍の繰り出す夥しい数の鉄砲による迎撃は凄まじく、過半数の兵を失う大損害を被り、やむなく退却したと記されている。
一方で、穴山信君ら他の親族衆と共に、早々に戦線を離脱してしまい、それが武田軍の陣形崩壊の一因となったという見方も根強く存在する 16 。この行動の解釈は、単に信廉個人の臆病さや、甥である勝頼への不満といった次元に留まらない。むしろ、絶対的なカリスマであった信玄を失った武田家臣団、とりわけ信玄時代を知る宿老層が、勝頼の新たな戦争指導に対して抱いていた潜在的な不信感や、無謀ともいえる突撃作戦そのものへの合理的な判断が表出した、組織的な問題の兆候であった可能性が指摘されている。信廉の退却は、武田軍団崩壊の「原因」であると同時に、その崩壊が既に始まっていたことの「結果」でもあったと捉えることで、長篠敗戦の要因をより深く理解することができる。
武田信廉の人物像を語る上で、武将としての側面以上に重要となるのが、芸術家としての一面である。彼は戦国時代という動乱の世にあって、際立った画才を発揮し、後世に不朽の名作を残した「武人画家」として、他に類を見ない存在であった 1 。
信廉が残した作品の中でも、特に父と母を描いた二つの肖像画は、日本の絵画史においても高く評価されている。
この肖像画は、天正2年(1574年)、信廉が高遠城にて追放されていた父・信虎と再会した際に、その姿を直接写して描いたものと伝えられている 5 。剃髪し法体となった晩年の信虎が描かれており、その鋭い眼光や歴戦の武将としての風格、そして老境に至った人間の複雑な内面までをも描き出そうとするかのような迫真性は、見る者を圧倒する。対象の内面にまで迫る写実的な表現は、定型化された中世的な肖像画とは一線を画しており、近世肖像画の萌芽を感じさせる傑作である 32 。
父の肖像画とは対照的に、母を描いたこの作品は、深い情愛に満ちている。天文22年(1553年)、母・大井夫人の一周忌に際して、供養のために描かれたものである 31 。頭巾をかぶり法衣をまとった尼僧姿の母の姿は、慈愛に満ちた優しさと気品を湛えており、信廉の母への思慕の念がひしひしと伝わってくる 31 。技術的な面だけでなく、息子が母を偲んで描いたという制作背景が、この作品に特別な価値を与えている。また、この作品は現存する信廉の確実な作例の中で、最も制作年代が古いものとされている 31 。
これらの代表作以外にも、信廉は高野山に奉納された仏画や、兄・信玄の武威を象徴する「鎧不動の図」なども描いたと伝えられており、その画業が多岐にわたっていたことが窺える 31 。
表1:武田信廉の現存・伝承作品一覧
作品名 |
所蔵寺社 |
文化財指定 |
制作年(推定) |
制作背景・意義 |
絹本著色武田信虎像 |
大泉寺(甲府市) |
国指定重要文化財 |
天正2年 (1574) |
追放されていた父・信虎と高遠城で再会した際に描いたとされる。戦国武将の気迫と老境を写実的に描いた傑作 32 。 |
絹本著色武田信虎夫人像 |
長禅寺(甲府市) |
国指定重要文化財 |
天文22年 (1553) |
母・大井夫人の一周忌に際し、供養のために描かれた。慈愛に満ちた表情が特徴で、信廉の現存最古の作品 31 。 |
渡唐天神像 |
長禅寺(甲府市) |
- |
不詳 |
肖像画だけでなく、道釈画(道教・仏教関連の人物画)も手がけていたことを示す作例 5 。 |
穴山信友夫人像 (伝) |
南松院(身延町) |
- |
不詳 |
画風の類似から、信廉筆の可能性が指摘されている 5 ]。 |
束帯天神図 (伝) |
常盤山文庫 |
重要美術品 |
不詳 |
画中に「逍遥軒」の隠し落款があるとされるが、別人の作とする説もある 5 ]。 |
信玄の死後、天正元年(1573年)に信廉は出家し、「逍遙軒信綱(しょうようけんしんこう)」と号した 5 。彼の菩提寺が「逍遥院」と名付けられていることからも、「逍遥」という言葉が彼にとって極めて重要な意味を持っていたことがわかる 39 。
この「逍遥」という号は、中国の古典である『荘子』の冒頭を飾る「逍遥遊篇」に由来するものと解釈するのが最も自然であろう 41 。逍遥遊とは、世俗的な価値基準や利害得失から完全に解放され、何ものにも束縛されず、自由な精神で大いなる世界に遊ぶという、老荘思想の理想的な境地を指す。武田一門の筆頭という、最も世俗的な権力と責任の渦中に身を置きながら、彼がこのような超俗的な思想を象徴する号を選んだという事実は、彼の内面世界を理解する上で極めて重要である。
この号の選択は、彼が単なる武将に留まらず、禅宗文化や漢籍に深い造詣を持ち、戦乱の世にあって精神的な自由を希求する、文人としての側面を強く持っていたことを示唆している。実際に、彼は和歌や漢詩にも通じていたとされ、その文化的素養は高かった 16 。
さらに天正7年(1579年)、武田家の衰亡が色濃くなる中で、彼は自らの死を予期したかのように、自身の位牌を自ら彫り上げ、菩提寺となる逍遥院に納めている 39 。これは、彼の達観した死生観の表れであると同時に、一族の行く末に対する深い洞察と、来るべき運命を受け入れようとする静かな覚悟の表れとも解釈できる。
信廉の画業と「逍遥軒」という号は、彼のアイデンティティの核を形成していた。それは、武将としての公的な顔とは異なる、彼の精神的な「聖域」であったと言える。彼の芸術活動は、単なる趣味や記録を超え、供養(母)、記録(父)、そして自己の魂の解放(逍遥)という、彼の内面と深く結びついた、生きるための切実な行為であった。彼が選んだ「逍遥」という生き方は、武田一門という宿命と、芸術家としての自由な精神との間で葛藤し続けた、彼の生涯そのものを象徴しているのかもしれない。
信玄の死後、武田家の家督は四男の勝頼が継承した。信廉は叔父として、また親族衆筆頭という重鎮として、この新しい当主を補佐する立場にあった 5 。しかし、多くの史料や後世の研究は、両者の関係が決して良好ではなかったことを示唆している 16 。
この不和の根源には、武田家が抱える根深い問題があった。勝頼は、信玄が滅ぼした信濃の名門・諏訪氏の血を引いており、当初は諏訪氏を継ぐ存在とされていた 44 。信玄の嫡男・義信が廃嫡されたことにより、急遽後継者となったものの、その出自の複雑さは、家臣団の中に微妙な空気を生じさせた。さらに信玄は、勝頼を孫の信勝が成人するまでの「陣代(中継ぎ)」と位置づける遺言を残したとされ、勝頼の権力基盤は当初から盤石なものではなかった 45 。
勝頼の治世下で、武田家臣団の内部対立は先鋭化していく。信玄の時代から武田家を支えてきた山県昌景、馬場信春、内藤昌豊といった譜代の宿老たちと、勝頼が自らの権力基盤を固めるために重用した跡部勝資、長坂光堅といった新興の側近層との間に、深刻な亀裂が生じていたのである 45 。
江戸時代に成立した軍学書『甲陽軍鑑』は、この跡部・長坂といった側近たちが勝頼の判断を誤らせ、譜代宿老たちの的確な忠言を退けさせたことが、武田家滅亡の直接的な原因であったと、極めて厳しい論調で批判している 47 。この対立構造の中で、信玄の弟であり、旧体制の重鎮である信廉は、まさしく「譜代家臣団」を象徴する存在であった。勝頼やその側近たちからすれば、信廉は自らの新しい政治を推し進める上で、疎ましい旧勢力の代表と映っていた可能性は高い。
この家臣団の内部亀裂が、戦場で致命的な形で露呈したのが、長篠の戦いであった。軍議の段階で、宿老たちが撤退を進言したにもかかわらず、勝頼と側近たちが主戦論を強行したとされる 48 。そして合戦が始まると、信廉や穴山信君といった親族衆が早期に戦線を離脱したという記録は、勝頼の指揮命令系統が、一門の重鎮にさえ完全には及んでいなかったことを示している 16 。
長篠での大敗によって、山県、馬場、内藤といった譜代の重臣の多くを失ったことは、武田家にとって回復不可能な打撃となった。これにより、勝頼はますます側近たちに依存せざるを得なくなり、家臣団の分裂と組織の弱体化は、もはや誰の目にも明らかとなった 45 。
信廉と勝頼の不和は、単なる叔父と甥の個人的な感情のもつれに留まるものではない。それは、信玄という絶対的な求心力を失った武田家が、その内部に抱えていた深刻な「組織的・構造的欠陥」の象徴であった。信廉の長篠での退却や、後に見せる甲州征伐での消極的な行動は、この構造的欠陥の中から必然的に生まれたものと解釈できる。彼一人を「裏切り者」や「臆病者」として断罪することは、武田家がなぜ滅びたのかという、より本質的な問いを見誤らせる危険性がある。近年の歴史学者・平山優らの研究が、勝頼を単なる暗君として描く従来の評価を見直し、彼が置かれた極めて困難な状況と、武田家という組織が内包していた構造的問題に光を当てていることは、この文脈で非常に重要である 46 。
天正10年(1582年)2月、織田信長は徳川家康、北条氏政と連携し、武田領への総攻撃を開始した。世に言う「甲州征伐」である 54 。信長の嫡男・織田信忠が総大将を務める主力軍は、信濃の伊那谷から怒涛の如く侵攻を開始した。
この織田軍の圧倒的な勢いの前に、武田方の防衛線は蜘蛛の子を散らすように崩壊していく。武田氏の一門である木曽義昌が裏切り、織田軍を領内に引き入れたのを皮切りに 55 、飯田城を守るべき保科正直も戦わずして城を捨てて逃亡した 56 。
この絶望的な状況の中、南信濃の防衛拠点である大島城を守っていた信廉もまた、組織的な抵抗を行うことなく城を放棄し、本国である甲斐へと退却する決断を下した 5 。
この決断の背景には、複数の要因が考えられる。第一に、織田軍との圧倒的な兵力差と、既に勝敗が決したと言っても過言ではない戦況があった。第二に、浅間山の噴火が不吉な前兆と捉えられるなど 56 、武田方の士気は完全に崩壊しており、とても抗戦できる状態ではなかった。そして第三に、周辺の城主が次々と降伏・逃亡する中で、大島城のみで孤立して戦うことは、無益な犠牲を増やすだけの無謀な行為であるという、彼なりの合理的な判断があったと推察される 56 。一部の伝承には、地域の住民(地下人)が織田方に呼応して城に火を放ったため、籠城自体が不可能になったとも記されている 60 。
甲斐へ退却した信廉であったが、もはや彼に安住の地はなかった。主君である武田勝頼は、重臣・小山田信茂の裏切りにあって進退窮まり、天正10年(1582年)3月11日、天目山の麓、田野の地で妻子と共に自害。これにより、戦国大名としての武田氏は事実上滅亡した 61 。
その後、織田軍による武田家残党に対する徹底的な掃討作戦、いわゆる「残党狩り」が開始される 5 。信廉も潜伏していたところを捕らえられ、勝頼の自害から13日後の3月24日、甲斐府中の相川河原において処刑された 5 。享年51であったと伝えられる 5 。
その最期は、武人としての名誉ある死とは程遠い、悲惨なものであった。『森家先代実録』などの記録によれば、織田軍の将・森長可の配下であった各務元正と豊前采女が、長可所有の名馬「百段」を見せると偽って信廉を屋外に誘い出し、油断したところを斬りつけるという、騙し討ちであったとされている 5 , 16 ]。
武田一門の重鎮でありながら、その亡骸は手厚く葬られることもなく、彼の墓は現存しない。ただ、甲府市桜井町にある菩提寺・逍遥院に、彼の霊を祀る祠と、生前に彼自身が彫り上げたという位牌が、その数奇な生涯を静かに物語るのみである 39 。信廉の最期は、一個人の悲劇であると同時に、武田家という巨大な組織が崩壊していく過程の最終局面と、戦国という時代の非情さを象徴する出来事であった。
武田逍遥軒信廉の生涯を多角的に検証した結果、彼は「信玄の弟」「影武者」という一元的なレッテルでは到底語り尽くせない、極めて多面的で深みのある人物像を浮かび上がらせる。
第一に、彼は「忠実なる補佐役」であった。兄・信玄の時代には親族衆筆頭として、外交交渉や後方統治という地味ながらも国家の根幹を支える重責を担い、信玄の絶対的な信頼に応えた。甥・勝頼の時代には、家臣団の内部対立という困難な状況下にあっても、武田一門の重鎮として、その最期まで一族と運命を共にした。
第二に、彼は「類稀なる芸術家」であった。戦国の世にありながら、父・信虎と母・大井夫人の肖像画という、日本の絵画史に残る傑作を生み出した。その卓越した観察眼と表現力は、単なる武人の余技を遥かに超えるものであり、彼の芸術的才能は、信玄の影武者として敵を欺くという情報戦においても、戦略的な価値を発揮した。
第三に、彼は時代のうねりに翻弄された「悲劇の人物」でもあった。信玄という偉大すぎる兄の影に隠れ、勝頼の代には新旧家臣の対立に巻き込まれ、最後は一族の滅亡という抗いがたい運命の中で、騙し討ちという無残な最期を遂げた。彼の人生は、武田家という巨大組織の栄光と衰亡を、その内側から見つめ続けた証言者のそれであった。
信廉が歴史に残した意義は大きい。彼が遺した肖像画は、狩野派のような中央画壇とは異なる、戦国期の地方における武人画家の活動実態と、その芸術的水準の高さを示す一級の史料である 31 。また、彼の生涯は、信玄死後の武田家の権力構造の変化や家臣団の分裂を映し出す鏡であり、武田家滅亡の要因を内側から考察する上で、不可欠な視座を提供してくれる。
彼の存在は、後世にも静かな、しかし確かな影響を与え続けている。富山県高岡市には、信廉の子孫が移り住んだと伝承される「武田家住宅」(国指定重要文化財)が現存し、彼の血脈が北陸の地で受け継がれたという物語を今に伝えている 64 。そして何よりも、彼の「影武者」としての逸話は、黒澤明監督の映画『影武者』をはじめとする数多くの創作物の源泉となり、現代に至るまで私たちの想像力をかき立ててやまない 4 。
武田逍遥軒信廉は、武将としての武功で歴史に名を刻んだわけではない。しかし、彼は芸術家として、また数奇な運命を辿った物語の主人公として、戦国史の中に特異な輝きを放ち続けている。その生涯は、武と文、忠誠と葛藤、栄光と悲劇が交錯する、乱世を生きた一人の人間の、深く豊かな精神世界の記録なのである。