毛利勝信は秀吉の譜代家臣で豊前小倉城主。朝鮮出兵で活躍するも関ヶ原で西軍につき改易。土佐へ配流されたが厚遇され、子・勝永は大阪の陣で活躍。
毛利勝信(もうり かつのぶ)。豊前小倉六万石の領主として豊臣秀吉に重用されたこの武将の名は、今日、歴史の表舞台で語られる機会は多くない。むしろ、大坂の陣で真田信繁(幸村)と並び称されるほどの武勇を示した嫡男・勝永の父として、その名がわずかに記憶されるに過ぎないのが実情であろう。しかし、彼の生涯を丹念に追うとき、そこには秀吉個人の絶大な信頼を背景に立身し、秀吉の死と共に崩壊した豊臣政権の運命と軌を一にする、一人の譜代大名の典型的な栄光と悲運が色濃く映し出されている。
本報告書は、断片的に伝わる史料を丹念に拾い上げ、これまで子・勝永の武勇伝の影に隠れがちであった毛利勝信自身の生涯に光を当てることを目的とする。彼は単なる一武将ではない。豊臣政権の構造的特徴と、その脆弱性を体現する存在として捉え直すことで、戦国末期から江戸初期へと至る時代の転換点をより深く理解することができる 1 。
なぜ彼は、出自も定かでない身から秀吉の懐刀とまで呼ばれるほどの信頼を得たのか。なぜ九州という戦略的要衝を任されたのか。そして、あれほどの信頼を得ながら、なぜ関ヶ原の戦いにおいて、かくも呆気なく本拠地を失うことになったのか。これらの問いを解き明かすことは、毛利勝信という一人の武将の評伝に留まらず、豊臣政権という巨大なシステムの盛衰の力学を解明する一助となるはずである。
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物・場所 |
備考・典拠 |
生年不詳 |
尾張国にて誕生(近江長浜説もあり)。本姓は森、初名は吉成。 |
- |
3 |
時期不詳 |
早くから羽柴(豊臣)秀吉に仕え、黄母衣衆の一員となる。 |
豊臣秀吉 |
3 |
1587年(天正15年) |
九州平定に従軍し軍功を挙げる。戦後、豊前小倉六万石を与えられ、秀吉の命により「森」から「毛利」に改姓。 |
豊臣秀吉、小倉城 |
5 |
1590年(天正18年) |
巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノを小倉で出迎える。 |
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ |
5 |
1592年(文禄元年) |
文禄の役に従軍。第四軍団の隊長として島津義弘らを率いる。 |
島津義弘、朝鮮半島 |
7 |
1597年(慶長2年) |
慶長の役に従軍。子・勝永と共に蔚山城の戦いで加藤清正を救援し、大功を立てる。 |
毛利勝永、加藤清正 |
6 |
1598年(慶長3年) |
秀吉の死に際し、遺物として金20枚を受領。 |
豊臣秀吉 |
6 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦いで西軍に属す。勝永は伏見城攻めに参加。勝信は在国中、黒田如水の策略により小倉城を失い降伏。 |
石田三成、黒田如水 |
2 |
1600年(慶長5年) |
戦後、改易。加藤清正を経て、山内一豊に預けられる。 |
徳川家康、山内一豊 |
5 |
1611年(慶長16年) |
配流先の土佐国にて死去。 |
土佐国(高知県) |
5 |
毛利勝信の出自は、必ずしも明確ではない。複数の史料が、彼が尾張国の出身であり、本姓を「森」、初名を「吉成(よしなり)」といったことを示している 3 。尾張国葉栗郡の曼陀羅寺を菩提寺とする森一族であったとする説も存在するが 6 、尾張に数多存在する森氏のどの系統に連なるのか、その具体的な家系を特定するまでには至っておらず、彼の前半生は依然として謎の靄に包まれている 3 。一部には、秀吉が城主を務めた近江国長浜の出身とする説もあり 5 、この出自の曖昧さこそが、彼が特定の家柄に頼ることなく、実力一つで秀吉に抜擢された、いわば叩き上げの人物であったことを強く示唆している。
彼の人生における最初の大きな転機は、天正15年(1587年)に訪れる。豊臣秀吉による九州平定が完了した後、その軍功を賞されて豊前国小倉に六万石の領地を与えられた。この時、秀吉自身の直接的な命令によって、彼は姓を「森(もり)」から「毛利(もうり)」へと改めることになった 5 。
この改姓が、中国地方に覇を唱えた太守、安芸の毛利元就の一族とは全く血縁関係がないことは言うまでもない 14 。一説には、姓の漢字は変えたものの、読み方は従来の「もり」のままであったとも伝えられている 14 。では、なぜ秀吉は、譜代の家臣に、無関係な大大名の姓を名乗らせたのであろうか。
ここに、秀吉の巧みな人事戦略と、天下人としての高度な政治的計算が見て取れる。当時の「毛利」という姓は、西国において最大級の権威と威光を持つ、いわば一つの「ブランド」であった。秀吉は、自らの直臣である勝信にこの威光ある姓を与えることで、九州という、島津や大友といった旧来の有力大名が割拠し、国人衆の力が根強く残る地域において、新領主としての権威付けを効果的に行おうとしたのである。これは、秀吉による家臣の「ブランディング」政策の一環であり、領地の石高だけでは測れない権威を、姓の力によって補完しようとする試みであった。
さらに踏み込んで考察すれば、この措置は、本家である安芸毛利氏に対する牽制、あるいは豊臣政権の威光の下に西国大名を完全に組み込むという、秀吉の強い意志表示であった可能性も否定できない。自らの譜代家臣に「毛利」を名乗らせ、九州の玄関口に配置することで、本家毛利氏もまた豊臣体制の一部に過ぎないことを暗黙のうちに示す。これは、単なる改姓命令に留まらない、極めて高度な政治的パフォーマンスであったと解釈できるのである。
毛利勝信の立身出世の根幹をなすもの、それは豊臣秀吉からの絶大な「信頼」であった。彼は、秀吉がまだ織田信長の一将校に過ぎなかった頃から仕えていた、数少ない古参の譜代家臣の一人であった 2 。信長が本能寺で倒れ、秀吉が「中国大返し」を経て天下取りへの道を突き進む激動の時代 18 を通じて、勝信は一貫して秀吉に忠誠を尽くした。その揺るぎない忠誠心こそが、彼の最大の資産となったのである。
その信頼の証として最も象徴的なのが、彼が秀吉の馬廻衆の中でも特に精鋭を集めた親衛隊「黄母衣衆(きぼろしゅう)」の一員に抜擢されたことである 3 。黄母衣衆は、戸田勝隆や青木一重といった、いずれも後に大名となる秀吉子飼いの猛者たちで構成されていた 3 。
母衣は、戦場で流れ矢を防ぐ武具であると同時に、これを背負うことを許された母衣衆は、主君の伝令として敵中を駆け、あるいは主君の背後を固めるという、極めて重要かつ名誉ある役割を担っていた。黄母衣衆に選ばれるということは、単に武勇に優れているだけでなく、主君との間に絶対的な信頼関係が存在することの何よりの証明であった。
この事実は、彼のキャリアを考える上で決定的に重要である。黄母衣衆であることは、単なる名誉職ではない。それは、秀吉との物理的、そして心理的な「近さ」を意味した。この「近さ」こそが、彼の出世の原動力となったのである。秀吉からの個人的な信頼を背景に、彼は他の外様大名との交渉や連絡役を務め、さらには山内一豊のような、比較的新参の家臣たちの面倒を見る指導役といった、政権内部の潤滑油的な役割も担っていたと推測される 2 。彼の出世は、戦場での軍功のみならず、この「信頼」という無形の資産を最大限に活用した結果であった。この一点からも、豊臣政権がいかに能力主義を標榜しつつも、その実、秀吉個人との関係性を重視する属人的な性格の強い組織であったかが窺えるのである。
毛利勝信は、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定において、その軍事的能力を遺憾なく発揮する。彼はこの戦役に参陣し、特に豊前国人一揆の鎮圧や、難攻不落で知られた城井谷城(きいだにじょう)の攻略過程などで軍功を挙げ、九州平定に大きく貢献した 6 。
戦後、秀吉は論功行賞において、勝信に豊前国の規矩郡(きくぐん)と高羽郡(たかはぐん)の二郡、すなわち小倉を中心とする六万石の領地を与えた 5 。この配置は、単なる恩賞という言葉では片付けられない、秀吉の深謀遠慮に満ちた戦略的な一手であった。
小倉という土地が持つ地政学的な重要性を理解することが、この配置の意図を読み解く鍵となる。小倉は関門海峡に面し、本州と九州を結ぶ結節点に位置する。陸路においても海路においても、九州全体の玄関口と言える、軍事・経済上の最重要拠点(チョークポイント)である 19 。なぜ秀吉は、六万石という、大大名とは言えない規模の勝信に、これほど重要な土地を委ねたのであろうか。
ここに、豊臣政権の地方統治モデルの一端が明確に表れている。それは、石高(経済力・軍事力)の多寡よりも、領主個人の「忠誠心」を最優先する「要衝支配」の思想である。秀吉は、九州に依然として強大な力を持つ島津氏や鍋島氏といった有力外様大名を常に監視し、その動向を牽制する必要性を痛感していた。そのための役割を、誰よりも信頼できる譜代の腹心である勝信に託したのである。勝信の小倉配置は、豊臣政権の九州支配における、文字通りの「楔(くさび)」そのものであった。
この戦略の有効性は、後の歴史が証明している。関ヶ原の戦いの後、天下を掌握した徳川家康もまた、この小倉の地に譜代大名である小笠原氏を配置している 2 。敵対勢力となりうる有力大名の監視役として、最も信頼できる譜代の家臣を戦略的要衝に置くという統治思想は、豊臣、徳川を通じて一貫していた。毛利勝信の小倉拝領は、まさにその先駆けとなる事例だったのである。
小倉の領主となった勝信は、この地の統治に乗り出す。彼が入城した当時の小倉城は、もともと中国地方の毛利氏が築いた城砦が基礎となっていた 20 。勝信はこれを改修し、自らの居城として整備した。後に細川忠興が七年の歳月をかけて近世城郭としての大規模な築城を行うが 3 、勝信の時代の整備がその基礎を築いたことは間違いない。
新領主として着任した勝信が直面した大きな課題の一つが、在地勢力との関係構築であった。特に、豊前国内で絶大な宗教的権威と経済的基盤を誇っていた修験道の拠点、英彦山(ひこさん)との関係は、彼の統治能力を試す試金石となった。
勝信は、この英彦山を自らの完全な支配下に置こうと画策し、弟である毛利吉勝(一説に吉雄)の子を彦山の座主(ざす、最高位の僧職)に据えようと、強引な圧力をかけた 15 。しかし、長年にわたり独立した権威を保ってきた英彦山側はこれに激しく抵抗。時の座主は、豊臣政権の中枢にいる大谷吉継や、黒田孝高(官兵衛)の叔父にあたる小寺休夢といった人物を通じて、秀吉政権に勝信の介入の不当性を訴え続けた。古文書には、この対立の中で秀吉から勝信に対し、「彦山に於いて、違乱有る間敷き候(ひこさんにおいて、いらんあるまじきそうろう)」、すなわち英彦山への介入を禁じるという内容の朱印状が発給された記録が残っている 24 。
一方で勝信は、新しい時代の潮流であったキリスト教に対しては、寛容な姿勢を見せている。彼はイエズス会の宣教師を厚遇し、キリスト教に深い関心を示したとされ、彼の治世下で小倉のキリシタン信者の数は増加したという 15 。天正18年(1590年)には、イエズス会東インド巡察師として再来日したアレッサンドロ・ヴァリニャーノ一行を、小倉の地で自ら出迎えている記録も残る 5 。
これら英彦山との対立とキリスト教への関心は、一見すると別個の事象に見えるが、「新来の領主がいかにして在地社会に自らの権力を浸透させようとしたか」という共通のテーマで繋がっている。英彦山に対しては、中央の権威を背景とした直接的な権力介入という強硬策を試みたが、英彦山側がそれを上回る中央政権とのパイプを持っていたために失敗に終わった。この一件は、豊臣政権の権力構造が決して一枚岩ではなく、地方領主の権限が必ずしも絶対ではなかったことを物語っている。他方、キリスト教の受容は、南蛮貿易がもたらす経済的利益や新しい文化を取り込むことで、英彦山に代表される旧来の仏教勢力に対抗し、領主としての自らの権威を高めようとする狙いがあった可能性も考えられる。勝信の統治は、中央の威光を借りた強権的な側面と、新しい文化を柔軟に取り入れる側面を併せ持っていたが、在地社会の強固な権力構造の前に、必ずしもその意のままにはならなかった。彼の苦闘は、豊臣大名が直面した地方支配の難しさを象徴していると言えよう。
天正15年の九州平定から5年後の文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は朝鮮半島への大規模な出兵、すなわち文禄の役を開始する。この未曾有の大遠征において、毛利勝信は再びその存在感を示すこととなる。彼は、渡海する日本軍の中核をなす第四軍団の隊長に任命されたのである 7 。
勝信が率いる直属部隊の兵力は2,000人であったが、彼が指揮する第四軍団全体は、島津義弘(一万)、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津豊久といった、南九州から日向にかけての有力大名たちで構成される、総勢一万四千にも及ぶ大部隊であった 7 。勝信率いる第四軍団は朝鮮半島に上陸後、江原道(カンウォンド)方面へと侵攻した 7 。
この第四軍団の編成には、豊臣政権の軍事指揮系統の本質を解き明かす上で、極めて重要な点が隠されている。それは、軍団長である毛利勝信の石高(六万石)と、彼が指揮下に置いた島津義弘の石高(二十一万石余)との間に存在する、圧倒的な格差である。
戦国時代の軍事編成において、部隊の指揮権は石高や家格が上の者が執るのが通例であった。しかし、この第四軍団ではその原則が完全に覆されている。この「逆転現象」は、単なる偶然や例外ではありえない。それは、秀吉が外様、特に島津のような、かつては敵対し、将来的にも潜在的な脅威となりうる大大名を、自らが最も信頼する譜代家臣の指揮下に置くことで、確実にコントロールしようとした、明確な意図を持った人事戦略の表れであった。
この文脈において、勝信の役割は単なる一軍の将ではなく、秀吉の意向を前線の戦場で代行する「総監」あるいは「目付」に近い、極めて政治的なものであった。彼の軍団長就任は、戦場における個人の武勇以上に、秀吉からの絶対的な「信頼」の証左に他ならない。そしてこの事実は、豊臣政権の軍事指揮系統が、石高や家格といった旧来の秩序ではなく、秀吉個人との関係性を核とする譜代家臣を中心に構築されていたことを、何よりも雄弁に物語っているのである。
武将名 |
居城・領地 |
石高(万石) |
動員兵力 |
毛利吉成(勝信) |
豊前・小倉 |
6.0 |
2,000 |
島津義弘 |
大隈・栗野 |
21.4 |
10,000 |
高橋元種 |
日向・県 |
5.0 |
2,000 |
秋月種長 |
日向・高鍋 |
3.0 |
2,000 |
伊東祐兵 |
日向・飫肥 |
1.7 |
2,000 |
島津豊久 |
日向・佐土原 |
2.8 |
2,000 |
合計 |
- |
40.0 |
18,000 |
注:石高と動員兵力は『肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会』のデータ 9 に基づく。諸説あり、合計値は必ずしも一致しない。伊東祐兵と島津豊久の動員兵力は、それぞれ2,000人との資料 7 との差異があるが、ここでは編成表の数値を優先した。
文禄の役が講和交渉の停滞により中断された後、慶長2年(1597年)、秀吉は再び朝鮮への出兵を命じる(慶長の役)。この戦役において、毛利勝信は嫡男・勝永と共に再び渡海し、その武名を朝鮮の地で、そして日本全国に轟かせることとなる 3 。
勝信・勝永親子は、まず黄石(ファンソク)山城の攻略戦に参加し、戦功を挙げた 3 。そして、彼の武人としての評価を決定づけたのが、同年末から翌年にかけて繰り広げられた第一次蔚山(ウルサン)城の戦いであった。加藤清正が築いた蔚山倭城は、明・朝鮮連合軍の大軍に包囲され、兵糧も尽きかけて絶体絶命の窮地に陥っていた。このとき、救援軍として駆けつけたのが、毛利勝信・勝永親子であり、黒田長政らの部隊であった。彼らは果敢に攻城中の明軍に攻撃を仕掛け、これを大破。見事、清正を救出するという大功を立てたのである 2 。この戦いの後、勝信は西生浦(ソセンポ)倭城の守備に移り、戦争が終結する最終局面までその任を果たした 2 。
この蔚山城での目覚ましい活躍により、勝信・勝永父子の武名は一躍全国に知れ渡ることとなった 10 。文禄の役における軍団長任命が、秀吉からの「政治的信頼」の証であったとすれば、この慶長の役での戦功は、彼の卓越した「軍事的能力」を万人に証明するものであった。彼はもはや単なる秀吉の寵臣ではなく、実戦においても傑出した結果を出せる、文武両道の有能な武将であることを内外に示したのである。
この武功により、彼の「信用」は、政治的なものから軍事的なものへと広がり、より強固なものとなった。秀吉からの信頼もさらに厚くなり、慶長3年(1598年)に秀吉がその生涯を閉じた際には、遺物として金20枚を賜るという栄誉に浴している 6 。領国経営、大軍の指揮、そして実戦での武功。大名に求められる全ての要素で成功を収めたこの時期こそ、毛利勝信の人生における絶頂期であったと言えよう。しかし、皮肉なことに、彼が積み上げたこの輝かしい「信用」と実績が、秀吉という絶対的な後ろ盾を失ったとき、彼の運命を暗転させる伏線となっていくのである。
太閤秀吉の死は、豊臣政権の内部に隠されていた亀裂を顕在化させた。加藤清正や福島正則に代表される武断派と、石田三成を中心とする文治(奉行)派の対立は、もはや修復不可能なレベルに達していた。この派閥抗争の中で、毛利勝信は一貫して石田三成ら奉行派の立場を支持した 2 。
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げると、これを好機と見た石田三成が挙兵。天下分け目の関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。このとき、毛利勝信は一切の迷いなく西軍に与した 3 。嫡男の勝永は、西軍の先鋒部隊の一翼を担い、関ヶ原の前哨戦である伏見城攻めに参加。激戦の末に城を陥落させる武功を挙げ、西軍総大将の毛利輝元、および宇喜多秀家から感状と三千石の加増を受けるという高い評価を得た 5 。
なぜ勝信は西軍への参加をためらわなかったのであろうか。それは、彼にとってこの選択が、損得勘定や日和見主義の結果ではなかったからに他ならない。彼は、秀吉個人への忠誠心によって、一介の武士から大名へと成り上がった、生粋の豊臣譜代家臣である。彼の存在基盤そのものが、豊臣家との結びつきの上にあった。
彼から見れば、秀吉亡き後の豊臣家の正統性を継ぐのは、幼主・秀頼を奉じる三成ら奉行派であり、家康の行動は豊臣家の秩序を根底から覆す簒奪行為に他ならなかった。家康の台頭は、秀吉が築き上げた秩序そのものへの挑戦であり、自らの存在意義を揺るがす直接的な脅威と映ったはずである。したがって、彼の西軍参加は、豊臣家への「忠義」であると同時に、自らのアイデンティティと立身の根拠を守るための、いわば必然の選択だったのである。
関ヶ原の決戦が迫る中、毛利家は父子で役割を分担する。嫡男・勝永が伏見城、安濃津城と、畿内から美濃にかけての最前線で戦う一方、父・勝信は本国である豊前小倉城に残り、九州における東軍勢力の抑えとして、領国の守りを固めた 2 。
しかし、その九州で、老練な黒田如水(官兵衛)が東軍として蜂起したことが、勝信の運命を暗転させる。如水は中津城を拠点に、瞬く間に九州の西軍勢力を切り崩していった。そしてその矛先は、豊前の毛利領にも向けられた。
勝信の没落の直接的な引き金となったのは、一つの人事問題であった。勝信の重臣で香春岳(かわらだけ)城主であった毛利信友(毛利九左衛門とも)が、勝永に従って参戦した伏見城攻めで討死してしまったのである 2 。この報を受けた勝信は、動揺する領内を固めるため、後任として自らの息子(勝永とは別の男子)を香春岳城に入れようとした。しかし、この措置が、致命的な内部分裂を招く。
信友の遺族や家臣たちは、この勝信の決定を、亡き主君とその一族に対する不信の表れと受け取った。「我々は勝信公に信用されていない」と感じた彼らは、勝信を見限り、敵である黒田如水に内応。香春岳城を明け渡してしまったのである 2 。
この家臣団の離反は、ドミノ倒しのように勝信の防衛体制を崩壊させた。中核となる城を失い、内部から切り崩された小倉城の兵士たちもまた、戦意を喪失して多くが逃げ散ってしまった。もはや防戦すら不可能な状況に追い込まれた勝信は、戦うことなく城を明け渡し、剃髪して如水に降伏した 2 。
ここに、歴史の皮肉が見て取れる。秀吉からの絶大な「信用」を背景に栄光の道を歩んできた勝信が、天下分け目の最も重要な局面で、自らの足元である家臣団との「信用」関係の構築に失敗し、没落したのである。伏見城で戦死した重臣の跡を、その遺族の心情を慮ることなく、自らの子で埋めようとした行為は、戦時下の混乱の中とはいえ、あまりに高圧的で無神経な対応であった。老獪な如水の策略が巧みであったことは間違いないが、その策略が成功する土壌を、他ならぬ勝信自身が作ってしまっていた。豊臣政権という巨大な後ろ盾を失ったとき、彼自身の地盤がいかに脆いものであったかを露呈した、悲劇的な結末であった。
関ヶ原における西軍の敗北は、毛利勝信の運命を決定づけた。彼は改易処分となり、豊前小倉六万石の領地は全て没収された 7 。西軍に与した大名として、本来であれば死罪となっても何ら不思議ではない立場であったが、彼は一命を救われる。
その背景には、一つの逸話が伝えられている。かつて徳川家康が秀吉の命を受け、伏見城の普請を担当していた際、木材の調達が滞り、工事が難航して窮地に陥ったことがあった。そのとき、必要な木材を提供して家康を助けたのが、他ならぬ毛利勝信であったという。家康はこの時の恩義を忘れず、関ヶ原の戦後に勝信の助命を決めた、とされている 28 。
この逸話の真偽を確定することは困難である。しかし、これが語り継がれること自体に、戦後処理のリアリズムを読み取ることができる。家康にとって、もはや領地を失った勝信は政治的な脅威ではなかった。彼を生かしておくことに、家康にとってのデメリットは存在しない。むしろ、過去のささやかな「恩義」を理由に、敵将であった彼を助命することで、家康は自らの「情け深さ」と「度量の大きさ」を天下にアピールすることができる。これは、数多く存在する旧豊臣系大名を懐柔し、新たな徳川の治世に従わせていく上で、極めて有効な政治的パフォーマンスとなる。
したがって、勝信の助命は、逸話にあるような純粋な「恩返し」という個人的な情の側面と、天下人としての家康の冷徹な「戦後統治戦略」という政治的な計算が複合した結果であったと解釈するのが、最も妥当であろう。武士社会の価値観である「恩義」と、新たな時代を築こうとする天下人のリアリズムが交差した一点に、この処遇の本質を見出すことができるのである。
改易処分となった毛利勝信・勝永父子は、まず肥後の加藤清正に身柄を預けられた後、最終的に土佐二十四万石の新たな藩主となった山内一豊のもとへ送られることになった 5 。
配流の身となった彼らを待っていたのは、意外にも破格の待遇であった。山内家において、父子は罪人としてではなく、賓客に近い形で手厚く遇された。特に、土佐藩の家老格に相当する千石という破格の知行を与えられ、高知城の一角に屋敷も用意されたという 2 。勝信は、新しく築城される高知城の普請を手伝うなど、比較的穏やかな日々を送ったと伝えられている 2 。さらに驚くべきことに、勝永の弟(勝信の次男)に至っては、山内姓を与えられて「山内吉近」と名乗り、二千石もの知行を与えられている 5 。
なぜ、敵軍の将であった勝信が、これほどまでに厚遇されたのであろうか。その理由は、彼と山内一豊との間に存在した、関ヶ原の戦いの勝敗をも越える深い人間関係にあった。
史料は、勝信と一豊が旧知の仲であったことを示唆している 2 。秀吉の古参家臣であった勝信は、いわば先輩格として、後から出世してきた一豊の面倒を見てきた関係にあった 2 。関ヶ原の戦いは、彼らが仕える主君の運命を分けたが、彼ら個人の間に結ばれた関係性までを完全に断ち切るものではなかった。
土佐一国の主となった一豊にとって、かつての先輩であり、ある意味では恩人でもある勝信を厚遇することは、武士としての「仁義」を果たす行為であった。また、同じ秀吉の下で戦国の世を共に生き抜き、同じ釜の飯を食った者同士の、特別な連帯感もあったであろう。このエピソードは、関ヶ原の戦いを単なる「東軍対西軍」という単純な対立構造で捉えることの危うさを教えてくれる。その大きな政治的対立の下には、武将個々の複雑な人間関係のネットワークが、縦横に張り巡らされていたのである。
土佐での穏やかな配流生活の中、毛利勝信はその生涯を閉じる。慶長16年(1611年)5月6日(一説には9月8日 8 )、配流先の土佐で静かに息を引き取った 3 。その死因に関する具体的な記録は残されていない 6 。
彼の亡骸は、当初、高知城下の江ノ口村にあった法華宗の喜円坊に葬られたが、後に秦村泰山(現在の高知市中秦泉寺)に改葬された 5 。その墓石は、彼を厚遇した山内家によって建立されたと伝えられている 6 。
父・勝信の死から3年後の慶長19年(1614年)、豊臣家と徳川家の対立が避けられないものとなると、嫡男の勝永は、豊臣家から受けた大恩に殉じることを決意する。彼は巧みな計略を用いて土佐を脱出し、大坂城へと馳せ参じた 5 。そして翌年の大坂夏の陣において、真田信繁らと共に豊臣方の主力を担い、徳川家康の本陣に肉薄する獅子奮迅の働きを見せた後、壮絶な最期を遂げる 1 。
この父子の対照的な最期は、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを象徴しているかのようである。父・勝信は、豊臣政権の栄光と共に立身し、その没落と共に全てを失い、過去の人として静かに生涯を終えた。一方で、子・勝永は、滅びゆく豊臣家に殉じるという、武士としての最後の花道を駆け抜けることで、その名を後世にまで鮮烈に刻み付けた。勝信の静かな終焉は、来るべき泰平の世を予感させ、勝永の壮絶な死は、戦国の世の最後の輝きであったと言えるのかもしれない。
毛利勝信の生涯を総括するとき、彼は豊臣秀吉個人の「信用」を唯一無二の梯子として、戦国の世の頂点近くまで駆け上がった、典型的な豊臣譜代大名であったと結論付けられる。彼の人生は、主君への揺るぎない忠誠心、九州の要衝を治める統治能力、そして大陸での戦役で証明された武勇を兼ね備えながらも、その全ての基盤であった豊臣政権の崩壊と共に、全てを失うという、時代の非情さを凝縮したものであった。
彼の栄光の軌跡は、豊臣政権がその最盛期に有していた機能性と求心力の高さを証明している。一方で、彼のあまりにも速やかな没落は、秀吉個人との属人的な「信用」に過度に依存した政権の構造的脆弱性と、その絶対的な中心を失ったとき、いかに組織が内部から崩壊していくかを如実に示している。
後世、彼自身の名は、大坂の陣で「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と、その武勇を真田信繁に比肩されるも、語られる機会の少なさを惜しまれた嫡子・勝永の華々しい活躍の影に、完全に隠れてしまった 15 。しかし、その勝永が示した驚異的な戦闘能力と、滅びゆく豊臣家への純粋な忠誠心は、父である勝信が築き上げた武士としての教育と、豊臣家への奉公の精神の上に成り立っていたことを忘れてはならない。
毛利勝信の生涯を再検証することは、単に忘れられた武将に光を当てるだけでなく、息子・勝永の悲劇的な英雄譚に、より深い歴史的文脈と人間的な奥行きを与えることにも繋がる。彼は、歴史の片隅に追いやられるべき凡将ではない。秀吉の夢見た天下とその終焉を、誰よりも忠実に体現した、記憶されるべき武将なのである。