毛利秀元は元就の孫。輝元の養子となり朝鮮出兵で武功。関ヶ原で「空弁当」の汚名も、戦後佐伯藩主となり藩政確立。家光の御咄衆となるなど乱世を生き抜いた。
毛利秀元。その名は日本の歴史において、一つの逆説的な響きを持つ。戦国大名毛利元就の孫として輝かしい血脈に生まれ、一時は西国随一の大大名・毛利家の後継者と目されながらも、その座を実子の誕生によって譲る運命にあった男。文禄・慶長の役では10代の若さで数万の大軍を率いて武勲を轟かせた勇将でありながら、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、絶好の布陣にありながら一兵も動かせず、「宰相殿の空弁当」という不名誉な逸話で記憶されることになった将。そして、西軍の主力を担った敗軍の将でありながら、戦後は旧敵である徳川幕府の三代将軍・家光から「友となすに足る」とまで評され、厚遇を受けた大名。
彼の生涯は、栄光と挫折、武勇と屈辱、忠誠と反骨といった、相矛盾する要素が複雑に絡み合ったタペストリーのようである。その軌跡を追うことは、単なる一武将の成功譚や失敗談を語ることには留まらない。それは、戦国の価値観が終焉を迎え、泰平の世が形成されていく時代の大きな転換期を、その身一つで体現した人間の苦悩と適応の物語を解き明かすことに他ならない。秀元の人生は、常に「条件付きの栄光」と「不本意な現実」との間の絶え間ない緊張関係によって動かされてきた。毛利宗家の後継者という地位は、実子誕生までの「仮初め」のものであり、関ヶ原での指揮権は、味方の裏切りによって無力化された。
本報告書は、この毛利秀元という人物の生涯を、その出自から、若き日の武功、関ヶ原での苦渋の決断、そして江戸時代における新たな自己形成に至るまで、あらゆる角度から徹底的に掘り下げ、分析するものである。彼の行動原理の根底にあったものは何だったのか。「宰相殿の空弁当」という逸話の裏に隠された真実とは。そして、彼はなぜ敗者でありながら、新たな時代の勝者と深い絆を結ぶことができたのか。これらの問いを通じて、時代の激流の中で自らの存在価値を問い続けた一人の人間の、多角的で深遠な肖像を描き出すことを目指す。
毛利秀元の生涯を理解する上で、その出発点である彼の出自と、毛利宗家の後継者となった経緯を深く考察することは不可欠である。彼は、戦国の雄・毛利元就の血を引く「貴種」として、生まれながらにして特別な期待を背負っていた。しかし、その輝かしい立場は、当初から「仮初め」という本質的な不安定さを内包していた。この章では、秀元が後継者へと押し上げられた背景と、その地位に課せられた制約が、彼のその後の人格形成と行動に与えた深遠な影響を明らかにする。
毛利秀元は、天正7年(1579年)11月7日、備中国の猿掛城にて生を受けた 1 。父は、中国地方に覇を唱えた毛利元就の四男、穂井田元清。母は、伊予の水軍衆を束ねた村上通康の娘、松渓妙寿(妙寿院)である 2 。この血筋そのものが、秀元の将来を運命づける上で極めて重要な意味を持っていた。
父である穂井田元清は、元就が三人の息子たち(隆元、元春、隆景)に宛てた有名な「三子教訓状」の中で、他の弟たちと共に「唯今虫けらのやうなる子ども候」と記された人物である 4 。一見すると、これは父から子への辛辣な評価のようにも読める。しかし、この文書が書かれた弘治3年(1557年)当時、元清はまだ7歳の幼童に過ぎなかった。既に成人し、毛利家の中核を担っていた三人の兄たちに対し、まだ幼い弟たちの将来を託す文脈で用いられたこの言葉は、元就特有の謙遜と期待を込めた修辞的表現と解釈するのが妥当であろう。元就は、兄たちの情に訴えかける形で、弟たちの後見を強く促したのである 4 。
そして、その元就の懸念を払拭するかのように、元清は長じて優れた武将としての器量を発揮する。彼は備中の国人・穂井田元資の名跡を継ぎ、毛利家の備中経略の先兵として活躍した。特筆すべきは、織田信長の中国侵攻が本格化し、毛利家が織田方についた宇喜多直家と対峙した際、元清は宇喜多軍を打ち破り、敗走させている。さらに、羽柴秀吉の大軍に包囲され、落城寸前であった備中嶋城の桂広繁を救うため、自ら三千の兵を率いて救援に駆けつけ、見事に包囲を解くという大功を立てた 4 。これらの戦功は、元清が単なる「虫けら」などではなく、父・元就の血を色濃く受け継いだ智勇兼備の将であったことを雄弁に物語っている。
一方、母方の出自もまた、秀元の貴種性を補強するものであった。母・松渓妙寿は、瀬戸内海にその名を轟かせた村上水軍の将・村上通康の娘であり、伊予の守護大名であった河野氏とも縁戚関係にあった 2 。すなわち秀元は、陸の謀将として知られる毛利元就の智略と、海の覇者たる村上氏の武勇、その双方の血を受け継いでいたのである。この陸海にまたがる名将の血脈は、彼が毛利一門の中で次代の後継者候補として注目される上で、極めて強力な正当性の源泉となった。
秀元が歴史の表舞台に登場するのは、従兄にあたる毛利宗家当主・毛利輝元の養子となったことによる。天正12年(1584年)、兄の宮鶴丸が早世したことで元清の嫡男となった秀元は、同年に実子に恵まれなかった輝元の養子として迎え入れられた 2 。この養子縁組は、単なる毛利家内の問題に留まらなかった。天正20年(1592年)、文禄の役の出陣に際して広島城に立ち寄った天下人・豊臣秀吉は、秀元と直々に対面し、彼を輝元の継嗣として正式に承認したのである 5 。この時、秀吉は秀元を大いに気に入り、自らの姓である羽柴姓と、「秀」の一字を与えて「秀元」と名乗らせた 5 。
この秀吉との出会いを象徴する逸話が残されている。秀吉が乗船していた船が岩に衝突して難破した際、小舟に乗った若者が現れて秀吉一行を救助した。この若者こそが秀元であり、彼の勇敢な行動に感銘を受けた秀吉が、彼を輝元の養子にするよう命じた、というものである 7 。この逸話の真偽は定かではないが、それが事実として語られること自体が、秀元と天下人・秀吉との間に特別な結びつきがあったことを示唆し、毛利家における彼の立場を一層強固なものにした。
しかし、この輝かしい後継者という地位には、当初から一つの重大な制約が付されていた。それは、「将来、輝元に男子が生まれた場合には、秀元は別家を立てて分家する」という明確な条件であった 5 。この条件は、秀元の立場が本質的に「仮初め」のものであることを示していた。彼は毛利宗家を継ぐ者として、帝王学を学び、一門の期待を一身に背負いながらも、その地位がいつ覆されるか分からないという、極めて不安定な状況に置かれ続けたのである。
そして、その運命の日は訪れる。文禄4年(1595年)、輝元に待望の実子・松寿丸(後の毛利秀就)が誕生した 8 。これを受けて、秀元は約束通り家督の相続を固辞。豊臣政権も慶長3年(1598年)に秀就を毛利家の正式な後継者として承認し、秀元は事実上廃嫡される形で分家を立てることが決定された 6 。
この一連の経緯は、秀元の内面に複雑な感情を刻み込んだに違いない。毛利家を率いる者としての自負と責任感を育まれながら、それを発揮する場を最終的に奪われたという経験。この「条件付きの運命」は、一方で自らの価値を戦場で証明したいという強烈な功名心を刺激し、他方で宗家に対する忠誠心と、自らの地位を確立しようとする潜在的な対抗意識という、アンビバレントな感情を育む土壌となった。彼の生涯を貫くことになる、宗家との微妙で緊張をはらんだ関係性は、まさにこの「仮初めの後継者」であった時代にその萌芽を見出すことができるのである。
人物名 |
秀元との関係 |
備考 |
典拠 |
毛利元就 |
祖父 |
戦国時代の中国地方の覇者。 |
4 |
穂井田元清 |
実父 |
元就の四男。智勇兼備の武将。 |
2 |
松渓妙寿 |
実母 |
村上水軍の将・村上通康の娘。 |
2 |
毛利輝元 |
養父(従兄) |
毛利宗家当主。元就の孫。 |
2 |
毛利秀就 |
従弟(義理の弟) |
輝元の実子。秀元の跡を継ぎ宗家当主となる。 |
9 |
吉川広家 |
従兄 |
吉川元春の三男。関ヶ原で東軍に内通。 |
10 |
小早川隆景 |
大叔父 |
元就の三男。秀元を後見。 |
6 |
大善院 |
正室 |
豊臣秀長の長女。秀吉の養女。 |
2 |
浄明院 |
継室 |
徳川家康の養女。松平康元の娘。 |
2 |
毛利光広 |
次男 |
長府藩二代藩主。 |
1 |
毛利宗家の後継者という立場を離れた秀元であったが、彼の武将としての真価が天下に示されるまでに、さして時間はかからなかった。豊臣秀吉が引き起こした二度の朝鮮出兵、すなわち文禄・慶長の役は、多くの大名家にとって多大な負担を強いるものであったが、秀元にとっては、自らの軍才を証明し、その名を轟かせる絶好の機会となった。この章では、10代の若さで大軍を率いた彼の朝鮮での戦いぶりを具体的に検証し、その卓越した指揮能力と、それが豊臣政権下での彼の地位にいかなる影響を与えたのかを明らかにする。
秀元の朝鮮での初陣は文禄の役の最中、文禄2年(1593年)に遡る。日本軍は当初こそ破竹の勢いで進撃したものの、朝鮮各地での抵抗と明の援軍により戦線は膠着。特に第一次晋州城の戦いでの敗北は、秀吉を苛立たせた。これを受け、秀吉は大規模な増派を決定。その一員として、当時まだ15歳であった秀元も海を渡ることになった 11 。彼は加藤清正、黒田長政といった歴戦の猛者たちと共に、9万2千というこの戦役で最大規模の軍団に加わり、第二次晋州城攻めに参加した。11日間にわたる激戦の末、晋州城は陥落し、城内の軍民6万余りが犠牲となる凄惨な結果に終わったが、この経験は若き秀元にとって、大軍の運用と攻城戦の現実を肌で学ぶ貴重な機会となった 11 。
秀元の軍才が真に開花するのは、慶長の役においてであった。慶長2年(1597年)、秀吉は朝鮮への再出兵を命令。この時、毛利宗家当主の輝元は病を患っており、渡海することができなかった。その代理として、毛利家3万の大軍を率いる総大将という重責を担ったのが、若干19歳の秀元であった 1 。彼は宇喜多秀家と共に日本軍全体の総帥格とされ、加藤清正、黒田長政らを麾下に置く右軍の総帥として、慶尚道から忠清道を目指して北進する作戦の指揮を執ることになった 11 。
輝元の代理とはいえ、19歳の若者に3万という、当時最大級の軍団の采配が委ねられたという事実は、極めて異例であった。これは、彼が単なる「元・後継者」という血筋だけの存在ではなく、その器量と軍才が豊臣政権中枢および毛利家内部から既に高く評価されていたことを明確に物語っている。この大抜擢は、秀元の自尊心と、毛利家の命運を背負うという強烈な責任感を育んだに違いない。彼はもはや誰かの代理ではなく、一人の独立した将帥として、異国の戦場でその手腕を試されることになったのである。
右軍総帥として北進を開始した秀元の部隊は、やがて明・朝鮮連合軍と激突することになる。その最初の大きな戦いが、稷山(チクサン)の戦いであった。慶長2年(1597年)9月、秀元軍の先鋒を務めていた黒田長政の部隊が、稷山付近で明軍の急襲を受け、苦戦に陥った。その報に接した秀元は、躊躇することなく即座に救援を決断。自ら本隊を率いて戦場に駆けつけ、黒田軍と合流して反撃に転じた 1 。両軍入り乱れての激戦となり、双方に多くの死傷者を出したが、秀元の迅速な救援行動によって黒田軍の壊滅は回避され、最終的に明軍を撃退することに成功した 11 。この戦いは、秀元が単に大将として後方に控えるだけでなく、戦況を的確に判断し、機を逃さずに行動できる優れた指揮官であることを示した。
そして、慶長の役における秀元の武名を不朽のものとしたのが、蔚山(ウルサン)城の戦いである。稷山の戦いから約2ヶ月後、加藤清正が築城中であった蔚山倭城が、明の楊鎬、麻貴、そして朝鮮の権慄が率いる数万の明・朝鮮連合軍によって完全に包囲された 11 。城への補給路と水源は断たれ、城内の日本軍は飢えと渇きに苦しんだ。兵糧の備蓄がないまま籠城戦に突入した清正軍は絶体絶命の窮地に陥り、投降者が続出。猛将として知られた清正自身も、和議を考えざるを得ないほど追い詰められていた 2 。
この報は、在鮮の日本軍諸将に衝撃を与えた。年が明けた慶長3年(1598年)正月、秀元は再び救援軍の総大将として立ち上がる。彼は黒田長政、鍋島直茂らと共に1万数千の兵を率い、厳寒の中を蔚山へと急行した。そして、蔚山城を包囲する連合軍の背後から、予期せぬ奇襲攻撃を敢行したのである 11 。完全に意表を突かれた連合軍は大混乱に陥り、包囲陣は崩壊。秀元ら救援軍の猛攻により、連合軍は壊滅的な打撃を受けて敗走した 13 。こうして、加藤清正は九死に一生を得たのである。
この蔚山城での劇的な勝利は、秀元の名を「無双の勇士」として天下に知らしめる決定的な戦功となった 14 。絶望的な状況下で、冷静に戦況を分析し、大胆な機動戦を展開して友軍を救い出したその手腕は、彼の軍事的才能が紛れもなく本物であることを証明した。自らの采配で数万の軍勢を動かし、輝かしい勝利を掴んだこの経験は、若き秀元に計り知れない自信を与えたであろう。しかし、皮肉なことに、この輝かしい武将としての実績は、わずか2年後の関ヶ原において、彼が味わうことになる深い苦悩と屈辱を、より一層際立たせる伏線ともなるのであった。
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原。日本の歴史上、最も有名にして最も決定的なこの一日は、毛利秀元の生涯においても、その運命を大きく左右する分水嶺となった。西軍総大将の名代として、毛利家の実質的な軍権を握り、戦場の趨勢を決定づける位置に布陣しながら、彼はついに一兵も動かすことができなかった。この不可解な行動は、「宰相殿の空弁当」という、武将にとってこれ以上ない不名誉な逸話を生み、彼の名に長く影を落とすことになる。本章では、この毛利家の、そして秀元の悲劇を、彼の内なる意図、従兄・吉川広家の密計、そして「空弁当」の逸話が生まれた背景という三つの視点から重層的に分析し、毛利家の運命を決定づけた一日を再構築する。
豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が急速に台頭すると、これに反発する石田三成らが挙兵。毛利輝元は、安国寺恵瓊らの説得を受け、西軍の総大将に就任した 15 。しかし、輝元自身は大坂城にあって動かず、関ヶ原の決戦場には、輝元の名代として毛利秀元が派遣された。彼は毛利一門の安国寺恵瓊、そして長宗我部盛親、長束正家らの部隊を合わせた約3万の軍勢を率い、関ヶ原の南東にそびえる南宮山に布陣した 16 。この場所は、家康の本陣の背後を脅かし、東軍の主力を側面から攻撃できる、まさに戦術上の要衝であった。朝鮮の役で輝かしい武功を立てた秀元自身、戦意は極めて旺盛であり、眼下の敵を前にして、今こそ雌雄を決する時と逸る心を抑えきれなかったであろう 2 。
しかし、この毛利軍の布陣には、一つの致命的な欠陥が存在した。秀元率いる本隊の前面、すなわち東軍と対峙する最前線に、従兄である吉川広家の部隊が陣取っていたのである 17 。そして、この広家こそが、毛利家の運命を裏で操る張本人であった。東軍の勝利を確信していた広家は、毛利家の存続を第一に考え、当主の輝元や現場総大将の秀元にも一切知らせることなく、独断で東軍と密約を結んでいた 15 。彼は黒田長政を仲介役として徳川家康と内通し、「関ヶ原において毛利勢は一切戦闘に参加しない。その代わり、戦後には毛利本領を安堵する」という約束を取り付けていたのである 10 。この密約の存在を、秀元は全く知らなかった 17 。
この状況は、関ヶ原における毛利軍が、組織として完全に崩壊していたことを示している。名目上の総大将である輝元は遠い大坂城にいて戦況を把握できず、現場の総大将である秀元は、自らの部隊の先鋒を務める一人の部将の裏切りによって、完全に手足を縛られていた。秀元の悲劇は、彼の個人的な資質の問題ではなく、指揮系統が麻痺し、ガバナンスが機能不全に陥った組織の犠牲者であったという側面が極めて強い。
ここには、二つの異なる「合理性」の衝突があった。広家の行動は、「いかなる手段を用いても毛利家を存続させる」という一点においては、冷徹なまでに合理的であった。しかし、それは西軍総大将という家の立場を公然と裏切り、武士としての名誉を著しく損なう行為であった。一方、秀元の「戦うべきだ」という姿勢は、武将としての矜持と与えられた任務への忠実さという点では合理的だが、もし西軍が敗北すれば、家そのものを滅亡の淵に追いやる危険性を孕んでいた。この、家名存続の「政治的合理性」と、武門の名誉を守る「武士的合理性」との間の埋めがたい亀裂が、南宮山での動かぬ大軍という悲劇的な光景を生み出したのである。
9月15日の早朝、関ヶ原の盆地に立ち込めた霧が晴れると同時に、東西両軍の激突が始まった。戦況が激しさを増すにつれ、西軍の諸将、特に毛利軍の南下に期待を寄せていた長束正家や安国寺恵瓊からは、南宮山の毛利本陣に使者が送られ、再三にわたって出陣が要請された 16 。
秀元は、この要請に応じようと何度も試みた。しかし、彼が軍を動かそうとするたびに、眼前の吉川広家の部隊が壁となって立ちはだかり、物理的に進軍を阻んだ 16 。広家は「霧が深くて視界が悪い」「兵の準備が整わない」などと理由をつけて、頑として動こうとしなかった。進軍したくても進めない秀元は、矢のような催促に訪れる使者に対し、ついに苦し紛れの言い訳を口にする。「今、兵に弁当を食わせている最中である」と 18 。
この、戦場の緊張感とはあまりに不釣り合いな返答が、後に「宰相殿の空弁当」という逸話の源流となる。当時、秀元は参議の官位にあり、その唐名が「宰相」であったことから、この不名誉な呼び名が定着した 19 。この発言の主が秀元自身であったのか、あるいは広家が秀元にそう言うように進言したのかについては諸説あるが 21 、いずれにせよ、現場の総大将であった秀元がその責任を一身に負う形となった。
この「弁当」という言葉には、深い意味が隠されている。それは、戦場において最も不自然で、最も説得力のない言い訳である。なぜ、そのような言葉が選ばれたのか。それは、動けない真の理由、すなわち「味方であるはずの吉川広家に進軍を妨害されている」という、毛利家の内部崩壊を象徴する醜態を、他家に明かすわけにはいかなかったからである。秀元の無念と屈辱は、単に戦えなかったこと以上に、このような滑稽で惨めな言い訳をせざるを得なかった状況そのものにあった。蔚山の城で死線を越え、武勇の誉れを天下に馳せた若き将帥が、味方の裏切りによって、戦わずして愚将の烙印を押される。これほどの屈辱はなかったであろう。
関ヶ原の戦いは、小早川秀秋の裏切りを決定打として、わずか半日で東軍の圧勝に終わった。南宮山の毛利勢は、一戦も交えることなく、すごすごと戦場を離脱するしかなかった 18 。
戦いが終わった後、秀元はついに広家の内通という驚愕の事実を知らされる。彼の怒りと絶望は、察するに余りある。自らの武人としての誇りを踏みにじられ、毛利家の名誉を地に堕としめた裏切りは、到底許せるものではなかった。秀元の憤激は凄まじかったと伝えられている 18 。
さらに追い打ちをかけたのが、戦後の徳川家康による裁定であった。広家は、自らが取り付けた「本領安堵」の密約が履行されると信じていた。しかし、家康は「輝元が西軍の総大将であった」という事実を重く見て、一度は毛利家の全領地没収、すなわち改易を通告する。広家が必死に嘆願し、自らの命と引き換えに宗家の存続を願った結果、毛利家は改易こそ免れたものの、安芸など8か国112万石という広大な領地を全て失い、周防・長門の二国、わずか29万8千石(公称は後に36万9千石に高直しされる)にまで大減封されるという、極めて厳しい処分を受けることになった 6 。
裏切りの代償は、毛利家にとってあまりにも大きかった。そして、この関ヶ原での一日は、毛利一門の内部に、その後何世紀にもわたって癒えることのない深い亀裂を残した。秀元の広家に対する個人的な憤激は、やがて彼の子孫が治める長府毛利家と、広家の子孫が治める岩国吉川家との間の、幕末に至るまで続く根深い確執へと発展していく 15 。関ヶ原の戦いは、毛利家の勢力を決定的に削いだだけでなく、一族の心に長い影を落とす、忘れがたいトラウマとなったのである。秀元のその後の人生における、宗家への複雑な感情や、時に反抗的ともいえる態度の根源には、この時の「裏切り」に対する消えることのない不信感が深く横たわっていると解釈できる。
関ヶ原での敗北とそれに続く大幅な減封は、毛利家にとって未曾有の国難であった。この逆境の中、毛利秀元は新たな役割を担うことになる。一つは、毛利宗家(長州藩)の支藩である長府藩の初代藩主として、新たな領国経営に乗り出すこと。もう一つは、幼い宗家当主・毛利秀就の後見役として、危機に瀕した本家の再建を主導することであった。しかし、この二つの役割は、やがて彼の中に新たな野心と葛藤を生み、宗家との深刻な対立へと発展していく。この章では、秀元がいかにして毛利家の再建に貢献し、そして同時になぜ宗家と相克するに至ったのか、その複雑な過程を分析する。
関ヶ原の戦後処理において、毛利家は周防・長門の二国に押し込められた。当主の輝元は、新たな本拠を萩に定めると、藩屏として一門を要所に配置した。東の守りとして岩国に吉川広家を置いたのに対し、西の守り、すなわち九州に対する最前線である長門国豊浦郡(現在の下関市一帯)には、毛利秀元が配された 6 。彼は豊浦郡を中心に6万石の所領を与えられ、ここに長州藩の筆頭支藩である長府藩が成立した 23 。
初代藩主となった秀元は、敗戦の将という失意から立ち直り、現実的な領国経営者へと迅速にその役割を転換させた。彼はまず、長府に入ると、戦国時代の山城であった櫛崎城を、幕府が発布する一国一城令に先んじて自ら破却。その麓に藩主の居館を新たに造営し、平時の行政拠点とした 25 。この行動は、幕府への恭順の意を明確に示すと同時に、軍事優先の戦国時代との決別を象徴するものであり、彼の優れた政治感覚と統治能力を示している。さらに彼は、藩校の前身となる学問所を設けるなど、文治にも意を注ぎ、新たな藩の統治基盤を着実に固めていった 25 。こうして、今日の城下町長府の礎が築かれたのである 26 。
一方で、秀元は長府藩主であると同時に、毛利宗家においても極めて重要な役割を担っていた。関ヶ原の後、輝元は隠居こそしなかったものの、藩政の実権は徐々に次世代へと移っていく。しかし、跡を継ぐべき毛利秀就はまだ幼かった。そのため、輝元に代わって幼い秀就を後見し、重臣の益田元祥らと共に長州藩の藩政を実質的に総覧したのが、秀元であった 23 。
かつて毛利宗家の後継者として教育を受け、文禄・慶長の役では大軍を率いた経験を持つ秀元の政治手腕と軍事的知見は、危機的状況にあった長州藩の再建に不可欠であった。彼の辣腕により、厳しい検地を乗り越え、藩の財政基盤を安定させ、公称37万石弱であった長州藩の実質的な石高を54万石にまで増加させることができたのは、秀元や益田元祥らの功績によるところが大きいとされる 23 。
この時期、秀元は「支藩の主」でありながら「本藩の実質的な最高権力者の一人」という、極めて強力かつ、ねじれた立場にあった。彼の権勢は、毛利家の再建に大きく貢献したが、同時に、やがて訪れる宗家との深刻な対立の火種を孕むものでもあった。
時が経ち、宗家の当主である毛利秀就が成長して自ら藩政を執るようになると、秀元との間にあった微妙なバランスは崩れ始める。寛永7年(1630年)頃から、両者の間の軋轢は次第に表面化し、深刻な対立へと発展していった 5 。
その直接的な原因は、秀元の嫡男・光広と秀就の娘との間で進められていた縁談が、秀就側から一方的に破談にされたことや、秀元が後見役としての立場から宗家の当主である秀就に対して宗主権を主張するかのような振る舞いを見せたことなどが挙げられている 5 。不和は決定的となり、秀元はついに後見役を辞任するに至った 5 。
この対立の根底には、単なる個人的な感情のもつれ以上の、構造的な問題があった。それは、秀元の生涯を貫く「自らの価値と地位を確立したい」という強い動機である。関ヶ原で裏切られ、武人としての名誉を傷つけられた彼にとって、後見役として再び毛利家の中枢で権力を握ったことは、失われた自尊心を回復する過程であったのかもしれない。しかし、秀就が成人するにつれ、彼は再び「宗家の家臣」という立場に押し戻されることになる。かつて宗家の後継者であり、本藩の実権を握っていた彼にとって、もはや単なる一支藩の主に甘んじることは耐え難いことであった。
この鬱屈した感情は、ついに大胆な行動となって現れる。秀元は、幕府から直接朱印状を得ることで、長州藩から完全に独立した大名になろうと画策したのである。彼は姻戚関係にあった幕府の重臣・永井尚政を通じて工作を行い、さらには秀就の弟で自らの婿でもあった毛利就隆(徳山藩祖)を誘い、共に独立しようとさえ試みた 1 。この計画は、最終的に幕府の仲裁によって失敗に終わるが、秀元の宗家に対する反骨精神と、独立した大名としての地位への渇望を如実に示している 5 。
この一連の行動は、秀元個人の野心の発露であると同時に、江戸時代初期において、強大な力を持つようになった有力支藩と本藩との間に頻発した緊張関係の典型的な一例でもあった。関ヶ原での裏切りから始まった宗家への不信感は、後見役としての権勢と自負を経て、最終的に独立画策という形での権力闘争へと至った。この相克は、秀元の人生における最後の大きな闘争であった。
毛利宗家との深刻な対立は、秀元を窮地に追い込む可能性があった。しかし、彼はその危機を乗り越え、晩年には意外な形でその存在感を再び高めることになる。それは、かつて関ヶ原で敵対した徳川幕府、特に三代将軍・家光との間に築かれた特異な関係性によるものであった。戦国の猛将は、泰平の世において、その役割を巧みに変容させ、新たな時代の権力中枢に確固たる地位を築くことに成功する。この章では、秀元が旧敵である徳川家と和解し、将軍の「友」となるに至った過程を検証し、彼の晩年における見事な自己再創造の軌跡を描き出す。
秀元は、関ヶ原の敗戦直後から、新たな支配者である徳川家との関係改善に細心の注意を払っていた。その最も象徴的な行動が、徳川家康の養女(下総関宿藩主・松平康元の娘)である浄明院を継室として迎えたことであった 1 。これは、毛利家が徳川家に臣従することを明確に示すジェスチャーであり、政治的な意図が色濃い婚姻であった。さらに、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、豊臣恩顧の大名でありながら迷わず徳川方として参陣し、幕府への忠誠を行動で示した 23 。
これらの地道な努力は、やがて実を結ぶ。特に、三代将軍・徳川家光は、秀元に対して異例ともいえるほどの好意と信頼を寄せた。秀元は晩年、江戸に居住することが多くなったが、その中で家光の側近的な相談役である「御咄衆(おはなししゅう)」の一員に抜擢されたのである 1 。御咄衆は、将軍の私的な会話の相手を務め、様々な相談に応じる役職であり、将軍と極めて親密な関係にある者でなければ務まらなかった。
家光は秀元を高く評価し、ある時「友となすに足る人物」とまで評したと伝えられている 29 。関ヶ原で敵軍の主力大将であった人物が、敵将の孫から「友」と呼ばれる。これは、日本の歴史上でも稀有な関係性といえる。この家光との強固な個人的な絆は、秀元にとって最大の政治的資産となった。宗家の毛利秀就は、独立を画策するなど宗家を軽んじる秀元の行動に激怒し、彼を処罰することも考えていたが、将軍家光と親密な関係にある秀元に手を出すことは、事実上不可能であった 5 。幕府との太いパイプは、宗家との対立において、秀元の立場を守る最強の盾となったのである。
なぜ、家光はこれほどまでに秀元を重用したのか。その背景には、家光が「生まれながらの将軍」であったことが深く関係している。祖父・家康や父・秀忠とは異なり、戦乱の時代を知らない家光にとって、秀元はまさに「生きた歴史の証人」であった。祖父・家康と天下を争った戦国の気風をその身にまとい、朝鮮の役で武勇を轟かせた彼の存在そのものと、彼が語る武勇譚に、家光は強い魅力と憧憬を感じたのであろう 5 。秀元は、自らの戦歴と武将としての矜持を、新たな時代における「物語」という名の文化資本へと巧みに転換させることに成功したのである。
秀元が家光らに愛された理由は、単に戦国武将としての武勇だけではなかった。彼はまた、当代一流の文化人としての素養を兼ね備えた、洗練された人物でもあった。特に茶の湯に対する造詣は深く、彼の文化人としての一面をよく示している。
慶長4年(1599年)、秀元は博多の豪商であり高名な茶人でもあった神屋宗湛と共に、当代随一の茶人・古田織部の茶会に招かれている。その席で、当時最先端であった織部焼の茶碗を初めて目にした宗湛が、その歪んだ斬新な形に驚き、「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也(瀬戸の茶碗が歪んでいる。風変わりなものだ)」と自身の日記(『宗湛日記』)に記しているが、秀元もまた、この新しい時代の美意識に触れていたのである 2 。彼はまた、豊臣秀吉から朝鮮出兵の戦功として、名物として名高い唐物茶壺「玉蟲」を拝領しており、これは彼が秀吉から一目置かれる存在であったことを物語っている 31 。さらに、奥州の雄・伊達政宗とも、秀元が献茶したことに対する礼状が残されていることから、茶の湯を通じた交流があったことがわかる 31 。
彼の茶人としての一面が最も華やかに発揮されたのが、寛永17年(1640年)の出来事である。この年、秀元は江戸の品川屋敷に将軍家光を招き、贅を尽くした盛大な饗応(茶会)を催した 5 。この時、秀元は家光に備前国景の名刀を献上し、返礼として家光から秘蔵の左文字の脇差を拝領している。これは、二人の親密な関係を象徴する出来事であった。茶の湯は、当時の大名社会における極めて重要なコミュニケーションツールであり、秀元はこれを巧みに利用して、幕府中枢との人間関係を築き上げていったのである。
一方で、彼の豪胆さや人間的な魅力を伝える逸話も数多く残されている。人を乗せた重い碁盤を両手で軽々と持ち上げたという、その腕力の強さを伝える話 5 。また、江戸城に出仕した際、弁当に入れていた鮭の切り身が、当時は非常に高価で珍しい食材であったため、周りの大名たちが羨ましがって群がり、ほとんどを奪われてしまったという、どこか微笑ましい逸話も伝わっている 5 。
これらの逸話は、秀元が単なる武骨な武人でも、計算高い政治家でもない、多面的な人物であったことを示している。武勇(碁盤の逸話)と風流(茶の湯)、豪胆さと繊細さを併せ持つ、その人間的な魅力こそが、敵であったはずの徳川将軍家の人々をも惹きつけた最大の要因だったのかもしれない。
毛利秀元の72年の生涯は、慶安3年(1650年)、江戸の屋敷で静かに幕を閉じた 1 。彼の人生は、戦国の動乱から泰平の世へと移行する、日本の歴史における大きな転換期と完全に重なっている。彼の死後、その評価は「宰相殿の空弁当」という一つの逸話に集約され、不名誉なものとして語られることが多かった。しかし、彼の生涯を多角的に検証したとき、その評価は決して一面的であってはならないことがわかる。この終章では、秀元の生涯を総括し、彼が後世に遺した有形無形の遺産と、歴史におけるその真の位置づけを再評価する。
秀元が後世に遺した最も明確な遺産は、彼が初代藩主となった長府藩そのものである。彼が創設した長府藩は、その後、毛利宗家(長州藩)の筆頭支藩として、幕末に至るまで宗家を支え続ける重要な役割を果たした 6 。歴代藩主の中には、宗家を継いで長州藩主となった者も複数おり(毛利吉元、毛利重就など)、長府毛利家は毛利一門の中で特別な地位を保ち続けた 6 。秀元の血脈は、長府藩を通じて明治維新まで続き、彼の子孫は華族令によって子爵に叙せられている 15 。
しかし、秀元の生涯は、負の遺産も残した。それは、関ヶ原の戦いにおける吉川広家の内通に端を発する、岩国吉川家との根深い確執である 18 。秀元が抱いた広家への個人的な憤激は、世代を超えて受け継がれ、長府毛利家と岩国吉川家との間の家格をめぐる対立など、江戸時代を通じて毛利一門の内部に微妙な緊張関係をもたらし続けた 15 。関ヶ原の戦場で生じた一族の亀裂は、その後250年以上にわたって、完全には癒えることがなかったのである。秀元の遺産は、安定した支藩の創設という正の側面と、一族内に修復困難な対立構造を残した負の側面を併せ持っていた。
毛利秀元の生涯を貫くテーマは、戦国の価値観(武勇と名誉)と、江戸の価値観(秩序と処世術)との狭間で生きた、一人の人間の葛藤と適応の物語である。
彼は、毛利宗家の後継者という、武将として望みうる最高の栄光をその手に掴みかけながら、時代の大きなうねりの中でその座を失った。天下分け目の決戦では、若き日に蔚山で示したような武人としての本領を発揮する機会を、味方の裏切りによって無残に奪われた。彼の前半生は、自らの意志ではどうすることもできない力によって、輝かしい運命から引きずり下ろされる、挫折の連続であったといえるかもしれない。
しかし、彼の真価は、その逆境に屈しなかった点にある。彼は敗戦の将という汚名を背負いながらも、長府藩の初代藩主として新たな領国経営に手腕を発揮し、危機にあった毛利宗家の再建に大きく貢献した。さらに、宗家との対立という新たな苦境に直面した際には、かつての敵であった徳川幕府との間に強固な人間関係を築くという、驚くべき処世術を見せた。そして最終的には、戦国の武勇を泰平の世における「物語」へと昇華させ、将軍家光の「友」という、他の誰にも得られない特異な地位を確立したのである。
彼の人生は、一個人の物語であると同時に、日本がその姿を大きく変えた時代の転換期そのものを体現している。彼は、「もしも」を最も想起させる武将の一人である。もし、輝元に秀就が生まれなければ。もし、関ヶ原で吉川広家が内通しなければ。毛利家の、ひいては日本の歴史は、少し違った様相を呈していたかもしれない。
しかし、歴史に「もしも」はない。秀元の真の価値は、その「もしも」が実現しなかった不本意な現実の中で、いかにして自らの尊厳を保ち、新たな道を切り拓いていったかという、その強靭な精神力と適応能力にある。彼の評価は、「宰相殿の空弁当」という一面的な揶揄に留まるべきではない。その汚名の裏に隠された苦悩、逆境の中での再生、そして新たな時代を生き抜いた知恵の物語として、より深く、より立体的に理解されるべきである。毛利秀元は、戦国最後の世代が生んだ「敗れざる者」の一人として、歴史に記憶されるに値する人物である。