毛利秀就は長州藩初代藩主。関ヶ原の敗戦で毛利家が減封される中、幼くして家督を継ぎ、父輝元の後見を受けつつ藩の再建に尽力。秀元との対立を乗り越え、藩政の基礎を固めた。
毛利秀就(もうり ひでなり)は、日本の歴史が戦国の乱世から徳川幕府による治世へと大きく転換する、まさにその渦中に生を受けた人物である。長州藩(萩藩)の初代藩主として、彼の名は幕末維新を主導した雄藩の創業者として記憶されている。しかし、その生涯は、栄光とは程遠い、苦難と忍耐の連続であった。彼の人生を理解するためには、まず彼が誕生した時代の政治的背景と、毛利家が置かれていた特殊な状況を深く掘り下げねばならない。
秀就の父、毛利輝元は、祖父である稀代の謀将・毛利元就、そして元就の死後、輝元を支えた二人の叔父、吉川元春と小早川隆景という偉大な先達の遺産を受け継いだ武将であった 1 。織田信長との激しい抗争を経て、本能寺の変後は天下人となった豊臣秀吉に臣従し、中国地方に広大な領地を安堵された 2 。その勢力は、徳川家康や前田利家らと並び称され、輝元は豊臣政権の最高意思決定機関である「五大老」の一角を占めるに至る 1 。秀吉からは「西国の儀任せ置かるの由候」(西国のことは輝元に任せる)との言葉を受けるほど、その実力と地位は高く評価されていた 1 。
しかし、その栄華の裏で、毛利家は豊臣政権という巨大な権力構造の中で、常に潜在的な脅威に晒されていた。特に、秀吉による大名家への内政干渉、とりわけ後継者問題への介入は、各大名家にとって存亡に関わる深刻な問題であった。
文禄4年(1595年)、輝元が42歳の時、側室であった清泰院(児玉元良の娘)との間に、待望の嫡男・松寿丸、すなわち後の毛利秀就が誕生した 5 。この誕生は、単なる一人の世継ぎの誕生に留まらなかった。それは、毛利家が直面していた最大の危機を回避し、同時に新たな火種を生むという、極めて政治的な意味合いを帯びた出来事であった。
秀就の誕生に先立ち、長年実子に恵まれなかった輝元に対し、秀吉は自身の養子である羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を毛利家の養嗣子として送り込もうと画策していた 5 。これは、秀吉が大名家の血統を支配下に置き、将来的にはその家を乗っ取る意図さえ含まれていた可能性のある、危険極まりない動きであった。この危機に対し、毛利家の血統を何よりも重んじた輝元の叔父・小早川隆景が機転を利かせる。彼は秀吉に面会し、秀俊の器量は毛利本家を継ぐには足らないと述べ、代わりに輝元の従弟にあたる毛利秀元(毛利元就の四男・穂井田元清の長子)を輝元の養嗣子とすることを提案。そして、秀俊は自らが養子として引き取り、小早川家を継がせることで、毛利本家の血統を守り抜いたのである 5 。
この暫定的な継承体制は、秀就の誕生によって根底から覆されることとなった。血統における最優先事項である実子の誕生により、秀元は養嗣子の座を辞退せざるを得なくなり、輝元から領地を分与されて独立大名(後の長府藩祖)となる 5 。この一連の経緯は、秀就と秀元の間に、生涯にわたって続く複雑な感情と力学の源流を形成した。一度は毛利宗家を継ぐはずだった秀元の心中には、本家の安泰への安堵と共に、自らの運命を翻弄されたことへの拭いがたいわだかまりが残ったであろうことは、想像に難くない。
慶長4年(1599年)、秀就は豊臣秀頼の近侍となり、秀頼を烏帽子親として元服する。その際、秀頼から「秀」の一字を賜り、曾祖父・元就の「就」の字と合わせて「秀就」と名乗った 5 。これは、毛利家が豊臣家の忠実な臣下であることを天下に示す、象徴的な儀式であった。秀就の生涯は、このように、生まれる以前から天下の政治力学の奔流の中にあり、彼の家督相続は、後の藩内対立の構造的・心理的な原因を内包していたのである。
表1:毛利秀就 関連年表
西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
1595年(文禄4年) |
1歳 |
10月18日、毛利輝元の長男として安芸国で誕生。幼名は松寿丸 5 。 |
1599年(慶長4年) |
5歳 |
豊臣秀頼を烏帽子親として元服し、「秀就」と名乗る 5 。 |
1600年(慶長5年) |
6歳 |
関ヶ原の戦い。父・輝元が西軍総大将となり敗北。毛利家は防長二国に減封され、秀就が形式的に家督を相続し、初代長州藩主となる 10 。 |
1604年(慶長9年) |
10歳 |
輝元と共に、新たな居城となる萩城の築城を開始し、入城する 13 。 |
1608年(慶長13年) |
14歳 |
徳川家康の養女・喜佐姫(結城秀康の娘)と婚姻 5 。 |
1615年(慶長20年) |
21歳 |
大坂の陣に徳川方として参陣する 5 。 |
1623年(元和9年) |
29歳 |
父・輝元が正式に隠居。名実ともに藩主となるが、後見人政治が続く 5 。 |
1625年(寛永2年) |
31歳 |
父・輝元が死去 10 。 |
1631年(寛永8年) |
37歳 |
後見人であった毛利秀元が職を辞任。秀元との対立が深刻化する 5 。 |
1634年(寛永11年) |
40歳 |
秀元が秀就の弟・就隆を誘い独立を画策。幕府の介入を招く 5 。 |
1636年(寛永13年) |
42歳 |
幕府の仲裁により、秀元と和解する 5 。 |
1651年(慶安4年) |
57歳 |
1月5日、江戸桜田の藩邸にて死去。家督は四男・綱広が継承 5 。 |
表2:毛利家関連人物 系図
コード スニペット
graph TD
A[毛利元就] --> B(毛利隆元);
A --> C(吉川元春);
A --> D(小早川隆景);
A --> E(穂井田元清);
B --> F(毛利輝元);
E --> G(毛利秀元<br>長府藩祖);
subgraph 徳川家
H(徳川家康) --> I(結城秀康);
I --> J(喜佐姫);
end
subgraph 毛利宗家
F -- 婚姻 --- K(清泰院<br>側室);
F -- 婚姻 --- J;
F & K --> L(毛利秀就<br>初代長州藩主);
L -- 婚姻 --- J;
L --> M(毛利綱広<br>二代長州藩主);
end
F & K --> N(毛利就隆<br>徳山藩祖);
style G fill:#f9f,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
style L fill:#ccf,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
(注:簡略化のため、主要人物のみを記載)
毛利秀就が形式的にせよ藩主としてその歩みを始めたのは、毛利家がその歴史上、最大の屈辱と存亡の危機に立たされた瞬間であった。天下分け目の関ヶ原の戦いは、彼の運命、そして長州藩の未来を決定づける分水嶺となった。
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立が頂点に達すると、五大老の一人であった父・輝元は、三成や毛利家の外交僧であった安国寺恵瓊らの説得を受け、西軍の総大将に就任するという重大な決断を下す 4 。輝元自身は大坂城の西の丸に入り、西国諸大名を束ねる総帥としての役割を担った 2 。この時、わずか6歳の秀就は、主君である豊臣秀頼の側に仕え、大坂城の本丸に留め置かれた 9 。これは、毛利家が豊臣方の中核として戦うことを示す、人質としての意味合いも色濃く持っていた。輝元が大坂から動かなかったこともあり、秀就自身が戦火に直接見舞われることはなかったが、彼の立場は毛利家の命運と完全に一体化していた。
関ヶ原の本戦における西軍の敗北は、毛利家に破滅的な結果をもたらした。輝元の従弟である吉川広家は、東軍勝利を予見し、家康と内通して毛利本隊の戦闘参加を阻止する工作を行っていた 4 。この「宰相殿の空弁当」と呼ばれる逸話に象徴される広家の行動は、毛利家の所領安堵を目的としたものであった。しかし、戦後、家康は輝元が西軍総大将として積極的に四国や九州への侵攻を指示していた事実を問題視し、一度は所領安堵を示唆しながらも、その約束を反故にして毛利家の全面改易(領地没収)を命じた 10 。
毛利家はまさに断絶の淵に立たされたが、広家や重臣たちの必死の嘆願、そして家康の側近であった井伊直政が約束を違えることの不義を説いたことなどもあり、改易は辛うじて免れた 10 。しかし、その代償はあまりにも大きかった。祖父・元就の代から築き上げた中国地方8カ国、約120万5千石(石高には諸説あり)の広大な所領は没収され、周防・長門の二国のみが残された 2 。この「防長減封」により、毛利家の石高は公式には約36万9千石、実質的には約29万8千石へと、実に4分の1以下に激減したのである 12 。
この苛烈な処分を受け入れる条件として、輝元は隠居して剃髪し、「幻庵宗瑞」と号した。そして形式的に家督を嫡男の秀就に譲ることで、毛利家の存続が許された 4 。こうして、秀就は敗戦処理という屈辱の中で、長州藩(当初は萩藩)の初代藩主となった。それは輝かしい建国ではなく、破滅の淵からの再出発であった。
表3:関ヶ原戦前後の毛利氏所領石高の比較表
項目 |
関ヶ原の戦い以前 |
関ヶ原の戦い以後(防長減封) |
主要領国 |
安芸、周防、長門、備後、備中半国、伯耆半国、出雲、石見、隠岐(中国地方8カ国以上) |
周防、長門(2国) |
総石高(推定) |
約112万石~120万5千石 2 |
表高:約36万9千石 朱印高:29万8480石 12 |
本拠地 |
広島城(安芸国) 4 |
萩城(長門国) 11 |
変化 |
所領を約75%削減され、本拠地を山陽道の中枢から山陰の僻地へ移転させられる。 |
- |
防長減封の衝撃は、領地の縮小だけに留まらなかった。毛利家は、それに追い打ちをかける二つの深刻な財政問題に直面する。
第一に、「六カ国返租問題」である 19 。これは、減封によって手放すことになった安芸や備後など旧領6カ国において、慶長5年(1600年)にすでに徴収していた年貢を、福島正則や堀尾吉晴といった新たな領主へ全額返還せよという、前代未聞の命令であった 12 。広島城の建設や朝鮮出兵でただでさえ疲弊していた藩財政にとって、これは致命的な打撃であった。返還額は米に換算して少なくとも15~16万石に上り、その多くは銀での納入を求められた 20 。収入基盤の大部分を失った直後に、過去の収入を吐き出せというこの過酷な要求は、毛利家を経済的破綻の寸前まで追い込んだ。
第二に、膨大な家臣団の処遇問題である。120万石の大大名であった毛利家には多くの家臣がいたが、領地が4分の1になったことで、彼らに与える知行地が絶対的に不足した。この危機を乗り切るため、藩は家臣の知行を原則として従来の5分の1に削減するという苦渋の決断を下した 20 。当然、家臣たちの生活は困窮を極め、中には家財や武具を売り払ったり、毛利家を見限って出奔する者も現れた 20 。
これらの財政危機は、領民にも直接的な負担となって跳ね返った。藩は財源を確保するため、一時期「七公三民」(収穫の7割を税として納める)という、全国的にも類を見ないほどの高率な年貢を課した 18 。この重税に耐えかねた農民が土地を捨てて逃げ出す「走り百姓」が相次ぎ、領内の村々は荒廃した 18 。この「建国のトラウマ」とも言うべき経験は、徳川幕府への拭いがたい反感を領主から領民に至るまで植え付け、後の長州藩の気風を形成する根源的な要因となった。
慶長8年(1603年)、幕府は輝元に新たな居城の築城を命じた。輝元は山口や防府も候補地として挙げたが、最終的に幕府が指定したのは、日本海に面した長門国の萩であった 10 。これは、外様大名の雄である毛利氏を、交通の便の悪い山陰の僻地に押し込め、その力を削ごうとする幕府の明確な意図があったと言われている 14 。
慶長9年(1604年)、財政が極度に逼迫する中で萩城の築城が開始され、輝元と秀就はまだ未完成の城へと入った 13 。萩城は、指月山を背後に控えた堅固な平山城であり、防衛を強く意識した構造となっていた 22 。この築城は、藩財政をさらに圧迫する大きな負担であったが、新たな国づくりの象徴として、また幕府への恭順の意を示す事業として、避けては通れないものであった。秀就が藩主となった長州藩は、このように、敗戦の屈辱、経済的破綻、そして幕府の厳しい監視という三重の苦しみの中から、その歴史をスタートさせたのである。
毛利秀就が初代藩主となってから父・輝元が没するまでの約23年間、長州藩は特異な統治体制下にあった。それは、表向きの藩主である秀就と、隠居しながらも実権を握り続ける輝元による「二頭政治」である。この体制は、敗戦大名・毛利家が徳川の世で生き残るための、計算された政治戦略であった。
慶長5年(1600年)に家督を譲った後も、輝元は「幻庵宗瑞」という法体のまま、藩の実質的な最高権力者として君臨し続けた 4 。藩の統治機構は、国許の萩にあって輝元を補佐する家臣団と、参勤交代や証人(人質)として江戸に滞在する藩主・秀就に随行する家臣団という、二元的な構造で運営された 10 。これは、藩の内政と対幕府外交という二つの重要な機能を分離させ、それぞれに専門のチームを当たらせるという合理的なシステムでもあった。
萩城の築城計画、防長減封後の領内再編の根幹となる検地(三井検地)、そして深刻な財政危機に対応するための初期政策など、藩の根幹に関わる重要事項は、すべて経験豊富な輝元の強力なリーダーシップの下で決定・実行された 10 。秀就は、この「大御所」である父の決定を追認し、対外的に藩主としての顔を立てる役割を担っていた。この体制は、輝元が藩内で恨みを買う可能性のある痛みを伴う改革(家臣のリストラ、増税、粛清)を「悪役」として断行し、若く清廉な秀就が徳川家との関係構築という「善玉」の役割を担うことで、藩の内外における危機を同時に管理しようとする、巧みな役割分担であったと分析できる。
輝元が内政に注力する一方、秀就は対幕府関係の安定化という極めて重要な任務を担った。その最大の象徴が、慶長13年(1608年)に実現した、徳川家康の養女・喜佐姫(家康の次男・結城秀康の娘)との婚姻である 5 。これにより、かつて家康と敵対した毛利家は徳川家と姻戚関係を結び、外様大名としての立場を安定させる大きな一歩を踏み出した。秀就は「松平長門守」を称することを許され、越前松平家の一門として扱われることになった 5 。
さらに、慶長19年(1614年)から翌年にかけての「大坂の陣」では、毛利家は重大な岐路に立たされた。旧主である豊臣家からの参陣要請があったが、輝元はこれに応じず、徳川方への協力を明確にした 10 。この際、輝元は病と称して出陣を控え、若き藩主である秀就が毛利軍を率いて徳川方として参戦した 5 。これは、毛利家が完全に徳川の治世に従うことを内外に示すための、決定的な行動であった。
一方で、大坂夏の陣の際には、輝元の母方の従兄弟にあたる内藤元盛(佐野道可)が独断で豊臣方に馳せ参じるという事件が起きる。これが毛利家の謀略ではないかとの嫌疑がかけられたが、元盛が自刃したことで毛利家への追及は不問に付された 10 。輝元はこの事件を逆手に取り、家中統制をさらに強化する口実とした。秀就は、藩主として江戸で証人として過ごす期間が長く、幕府との儀礼的・外交的な窓口としての役割を忠実に果たすことで、藩の存続に貢献したのである 9 。
輝元は、関ヶ原の敗戦で失墜した自らの権威を回復し、新たな藩体制を盤石にするため、容赦ない家中粛清を断行した。慶長6年(1601年)には、側近の一人であった張元至を、秀就の乳母との密通を理由に切腹させている 10 。これは表向きの理由であり、真の目的は、敗戦の責任を巡る不満の芽を摘み、後継者である秀就の周辺から自らの影響力を排除しようとする勢力を一掃することにあったとされる。
さらに慶長10年(1605年)には、萩城築城の際に起きた「五郎太石事件」と呼ばれる騒動に絡めて、熊谷元直や天野元信らを粛清 10 。元和4年(1618年)には、長年対立関係にあった吉見広長を、幕府への接近や独立の動きを警戒して追討・殺害している 10 。これらの粛清は、一度裏切った者、あるいはその可能性のある者を決して許さないという輝元の冷徹な統治哲学を示すと同時に、秀就への権力移譲を見据え、将来の不安要素を自らの手で排除するという深謀遠慮の現れでもあった。
この輝元による「大御所政治」は、長州藩の初期の混乱を収拾し、再建の道筋をつける上で大きな役割を果たした。しかしその一方で、秀就が藩主としての主体性を発揮し、自ら藩政を主導してリーダーシップを学ぶ機会を奪う結果にも繋がった。父の敷いたレールの上を走ることを求められた秀就の経験不足は、輝元の死後、藩政の主導権を巡る新たな混乱、すなわち毛利秀元との深刻な対立を招く遠因となったのである。
父・輝元の死は、毛利秀就にとって、そして長州藩にとって大きな転換点であった。約四半世紀にわたる「大御所政治」が終わりを告げ、秀就は名実ともに藩の唯一の君主となった。しかし、彼の親政の始まりは、藩を二分しかねない深刻な内紛によって、その前途に暗い影を落とすこととなる。
元和9年(1623年)、輝元は江戸城で将軍・徳川秀忠に拝謁し、正式に秀就への家督譲渡を完了させる儀式を行った。そして寛永2年(1625年)、73歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた 10 。輝元の死により、秀就は31歳にして、ようやく自らの名で藩を統治する立場を得た。しかし、長年の大御所政治の影響は根強く、藩政の実権は依然として、輝元時代からの重臣たち、特に後見人筆頭であった毛利秀元、益田元祥、清水景治らが握っていた 5 。秀就が真の藩主権力を確立するためには、この重臣合議制的な体制を乗り越える必要があった。
親政を目指す秀就の前に最大の壁として立ちはだかったのが、従兄であり、かつては毛利宗家の養嗣子でもあった長府藩主・毛利秀元であった。藩主としての権威を確立したい秀就と、一門の長老として藩政を主導しようとする秀元との間には、次第に修復不可能なほどの深い溝が生じていく 5 。
この対立の原因は、複数の要因が複雑に絡み合ったものであった。
第一に、宗主権を巡る対立である。秀元は、自らが毛利一門の最有力者であり、宗家を指導・監督する立場にあるという「宗主権」を主張した 7。これは、藩主である秀就の権威を根本から揺るがすものであった。
第二に、個人的な感情のもつれである。秀元の嫡男・光広と秀就の娘との間で進められていた縁談が、秀就側から一方的に反故にされたことが、両者の感情的な対立を決定的にした 7。
第三に、根本的な権力闘争である。秀就が遊興や飲酒を好むとされた一方で、秀元は朝鮮出兵で武功を挙げた歴戦の武将であり、文治にも通じた英明な人物と評価されていた 25。秀就にとって、あまりに有能で存在感の大きな秀元の存在は、常にプレッシャーであり、自らの権力を脅かす脅威と映ったのである 24。
寛永8年(1631年)、両者の不和は頂点に達し、秀元は後見人の職を辞任。これにより、両者の対立は公然のものとなり、藩内は秀就派と秀元派に分かれて緊張が高まった 5 。
後見人を辞した秀元は、さらに驚くべき行動に出る。寛永11年(1634年)、彼は秀就の弟であり、自身の婿でもあった毛利就隆(後の徳山藩初代藩主)を誘い、長州藩から離脱して幕府から直接朱印状を受け、独立した大名になろうと画策したのである 5 。これは、毛利家の分裂を意味する重大な反逆行為であり、長州藩を根底から揺るがす大事件であった。
激怒した秀就は秀元を処罰しようと試みるが、ここで秀元が築いてきた中央とのパイプが効力を発揮する。秀元は3代将軍・徳川家光の個人的な相談役である「御伽衆」を務めるなど、将軍と非常に親密な関係にあった 7 。そのため、秀就は幕府の最高権力者と繋がる秀元に容易に手出しすることができなかった。
しかし、幕府としても、大大名である毛利家の内紛と分裂は、全国の安定を損なうものとして看過できなかった。事態を憂慮した幕府は、この問題に直接介入し、仲裁に乗り出す。そして寛永13年(1636年)、両者は江戸城に呼び出され、幕府の裁定によって強制的に和解させられた 5 。
この一連の内紛は、単なる叔父と甥の個人的な不和ではなかった。それは、かつての家督継承者(秀元)と現当主(秀就)という歴史的経緯、戦国の価値観を持つ武将(秀元)と徳川体制下の藩主(秀就)という世代間・価値観の対立、そして本藩と支藩の力関係を巡る構造的問題という、江戸初期の大名家が抱えた典型的な内部矛盾の爆発であった。この危機を、最終的には幕府の権威を借りる形で乗り越え、秀元を藩政の中枢から排除したことは、秀就が藩主としての権力を名実ともに確立した、彼の治世における最大の政治的画期であった。秀元の後見人辞任とそれに続く対立の終結は、輝元時代から続いた重臣合議制が終焉を迎え、藩主を中心とする新たな中央集権的統治体制へと移行する象徴的な出来事となったのである 5 。
毛利秀元との深刻な内紛を乗り越え、藩主としての権力を確立した秀就は、父・輝元が敷いた路線を継承しつつ、長州藩の再建と安定化に向けた藩政運営に取り組んだ。彼の治世は、派手な改革や華々しい成果こそ見られないものの、後の長州藩の発展の礎となる地道な「基礎工事」の時代として評価することができる。
秀就の治世における最重要課題は、依然として深刻な状況にあった藩財政の立て直しであった。彼は父・輝元から続く二つの大きな方針を推し進めた。
一つは、 徹底した検地による実質的な増収 である。輝元時代の慶長12年(1607年)から15年にかけて実施された「三井検地(慶長検地)」に続き、秀就の親政が始まった直後の寛永2年(1625年)からは、その見直しともいえる「寛永検地」が領内全域で実施された 10 。これらの検地は、田畑や屋敷地の面積と等級を厳密に再調査し、藩が把握する領内の総石高(内高)を大幅に引き上げることを目的としていた。検地の結果、長州藩の公式な石高である「表高」(朱印高)約37万石は幕末まで変わらなかったが、藩内部で把握する「内高」は慶長検地で約54万石、寛永検地では約66万石にまで増加したとされる 17 。この「内高」を基準に年貢を徴収することで、藩は幕府に届け出ている以上の実質的な収入を確保し、財政再建の原資とした。これは、幕府の監視下で生き残るための、外様大名の知恵であった。
もう一つは、 殖産興業政策の推進 である。年貢(米)だけに依存する財政構造の脆弱性を克服するため、藩外に販売して現金収入を得られる特産品の生産が奨励された。特に、米・紙・塩は、その色が白いことから「防長三白」と呼ばれ、藩の重要な収入源となった 29 。秀就の治世下で、瀬戸内海沿岸部では大規模な干拓(開作)による塩田開発が進められ、山間部では和紙の原料となる楮(こうぞ)や三椏(みつまた)の栽培が奨励された 29 。後の時代にはこれに櫨蝋(はぜろう)が加わり「防長四白」として藩財政を支えることになるが、その基礎はこの時代に築かれたのである 29 。これらの政策は、長州藩が米本位経済から商品経済へと移行し、経済的な実力を蓄える上で決定的な役割を果たした。
秀就は、藩内の統治体制を固めることにも注力した。秀元との対立の要因ともなった弟・就隆には、寛永11年(1634年)に領地を分与して徳山藩を創設させ、独立性を認めることで藩内の安定を図った 11 。また、秀元が治める長府藩、吉川氏が治める岩国領、そして清末藩といった支藩・一家との関係を再整理し、萩の宗藩を中心とする支配秩序を確立した 11 。
法制面では、秀就の治世に直接的な法典が編纂された記録は明確ではないが、彼の没後、3代藩主・綱広の時代に制定された長州藩の基本法典「万治制法」は、輝元・秀就時代の統治の積み重ねを成文化したものであった 11 。秀就の時代を通じて、藩の行政機構や支配ルールが徐々に整備されていったと考えられる。
長州藩の教育の象徴である藩校「明倫館」が萩に創建されたのは、秀就の死後、5代藩主・毛利吉元の時代である享保4年(1719年)のことであり、秀就の治世下ではまだ存在しなかった 32 。しかし、儒学を基本とした武士教育の重要性は認識されており、後の明倫館設立に繋がる学問奨励の気風は、この頃から醸成されていたと見られる。また、秀就自身は、自らの法号を寺号とする菩提寺「大照院」を建立しており、宗教・文化活動への関心と支援を行っていたことがうかがえる 36 。
財政難を補うための藩札発行も、長州藩では秀就の時代より後の延宝5年(1677年)に初めて実施されている 37 。しかし、彼の治世を通じて続いた深刻な財政難と、現金収入を求める殖産興業への傾斜が、将来的な紙幣発行の必要性を生み出す土壌となったことは間違いない。
秀就の治世は、徳川幕府の厳格な統制下で、長州藩がいかにして生き残り、再興の道を歩むかという、極めて現実的かつ長期的な課題への挑戦であった。彼とその家臣団が選択した、内政の充実と経済力の蓄積という路線は、250年後に幕府を打倒する強大な力を生み出す、長い道のりの確かな第一歩となったのである。
毛利秀就という人物を評価する際、歴史は二つの相半ばする見方を提示する。一つは、遊興にふけり、藩政を顧みなかった「凡庸な君主」という姿。もう一つは、歴史の激動と内部の対立という強烈な圧力に耐え、藩の存続という大任を果たした「忍耐の藩主」という姿である。彼の真実に迫るには、この両側面を多角的に検証する必要がある。
秀就に対する否定的な評価は、主に「遊興飲酒を好み、従兄の秀元と対立した」という逸話に集約される 24 。また、「父に似て凡庸だった」という同時代的な評価も残されており、リーダーシップに欠ける人物という印象が強い 24 。偉大な祖父・元就、西国に君臨した父・輝元、そして武勇と知略に優れた従兄・秀元といった、あまりに傑出した親族に囲まれていたことが、彼の評価を相対的に低いものにしていることは否めない。彼は常に比較の対象とされ、そのプレッシャーは計り知れないものがあっただろう。
しかし、彼の治世の結果を冷静に分析すると、異なる側面が浮かび上がってくる。関ヶ原の敗戦と防長減封という国家存亡の危機に瀕し、深刻な財政難と内紛に見舞われながらも、長州藩は彼の51年間にわたる治世の間に崩壊を免れ、むしろ再建の礎を築くことに成功した。この事実を鑑みれば、彼は自らの限界をわきまえ、独断専行に走ることなく、益田元祥ら有能な家臣団に藩政の実務を委ねることで危機を乗り切った、現実的な「調整型の君主」であったと再評価することが可能である。
この統治スタイルは、奇しくも幕末の長州藩主・毛利敬親が、家臣の進言をよく聞き入れ「そうせい候(そのようにせよ、とばかり言う君主)」とあだ名されながらも、最終的に藩をまとめ上げて明治維新を成し遂げた姿と重なる部分がある 3 。秀就の「凡庸さ」や「遊興」は、あるいは幕府に対して「毛利家はもはや天下を望む脅威ではない」と示すためのポーズであり、耐えがたい重圧からの逃避であったと同時に、有能な家臣団が実務に専念できる環境を作り出すという、彼の統治スタイルの一側面であった可能性も考えられる。彼は戦国的な英雄ではなく、近世的な官僚制藩主への移行期に現れた、新しいタイプの君主であったのかもしれない。
秀就の私生活に目を向けると、彼の家族関係は、当時の大名としては典型的な政略に基づいたものであった。
正室の 喜佐姫 は、前述の通り徳川家康の養女であり、結城秀康の娘であった 5 。この婚姻は、毛利家と徳川幕府との関係を安定させるための最重要政略であり、二人の間に個人的な情愛がどの程度あったかを伝える史料は乏しい。
子女については、嫡男として期待された長男の松寿丸が早世するという不幸に見舞われた 6 。そのため、家督は四男の
毛利綱広 が継承することになった 5 。また、娘たちは越後高田藩主の松平光長や、公家である鷹司家の鷹司房輔に嫁いでいる 5 。これは、幕府の有力大名や朝廷との姻戚関係を築くことで、藩の立場を多方面から安定させようとする、周到な婚姻政策の一環であった。
毛利秀元との和解が成立した寛永13年(1636年)以降、秀就の治世は比較的平穏に推移した。藩政は安定軌道に乗り、彼は藩主としての務めを果たし続けた。
彼の生涯の終焉は、長年のライバルであった秀元の死と奇妙に連動している。慶安3年(1650年)、毛利秀元が72歳で江戸で死去した 25 。そのわずか数ヶ月後の慶安4年(1651年)1月5日、秀就もまるで後を追うかのように、江戸の桜田藩邸にて57歳(満55歳)でその生涯を閉じた 5 。この符合は、秀元という大きな存在が、彼の生涯にいかに重くのしかかっていたかを物語っているようでもある 24 。
彼の亡骸は国元の萩に送られ、菩提寺である天樹院に葬られた。法号は「大照院殿前二州太守四品羽林次将月磵紹澄大居士」と贈られた 5 。彼の墓所は、現在も山口県萩市の大照院(天樹院跡)に、歴代藩主と共に静かに眠っている 36 。
毛利秀就の生涯と治世を総括する時、我々は彼を単なる「凡庸な君主」という紋切り型の評価から解き放ち、その歴史的役割を正当に位置づける必要がある。彼は、偉大な先達のような英雄ではなかったかもしれない。しかし、彼が果たした役割は、後の長州藩の発展、ひいては日本の近代化において、不可欠なものであった。
秀就が藩主を務めた51年間は、関ヶ原の敗戦という存亡の危機から、毛利家が近世大名として再生するための、長く困難な「移行期間」そのものであった。彼の最大の功績は、この危機的状況下で藩を崩壊させることなく、次代へと引き継いだことにある。
彼は、父・輝元と共に、藩の財政的・制度的な基盤をゼロから再構築した。徹底した検地による「内高」の確保と、「防長三白」に代表される殖産興業政策の推進は、表向きの石高に縛られずに実質的な経済力を蓄えるという、長州藩独自の強さの源流となった。この経済的土台なくして、幕末に長州藩が強大な軍事力を保持し、全国の政治を動かす雄藩として台頭することはあり得なかった。
また、毛利秀元との深刻な内紛を、最終的には幕府の権威を利用して乗り越え、藩主を中心とする統治体制を確立したことも、見過ごすことのできない功績である。この経験を通じて藩内の一体性が醸成され、後の時代に藩論が一つにまとまりやすくなる素地が作られた。
秀就の時代に、領主から領民に至るまで深く刻み込まれた、関ヶ原の敗戦による徳川幕府への屈辱の記憶。そして、軍事力ではなく経済力によって自立を目指すという藩の体質。これらは、250年という長い歳月を経て、幕末の倒幕運動へと繋がる長州藩の精神的・物質的なDNAを形成したと言っても過言ではない。
秀就自身に倒幕の意図があったわけではもちろんない。しかし、彼が築いた「礎」の上に、後の世代が新たな時代を切り拓いていったのである。彼の治世がなければ、長州藩は財政的に破綻するか、内紛で分裂し、歴史の表舞台から消えていた可能性も十分に考えられる。その意味で、彼は意図せずして、明治維新を主導する藩の基礎を築いたと言えるのである。
毛利秀就は、偉大な祖父や父、有能な従兄の巨大な影に隠れ、歴史上、過小評価されてきた人物である。しかし、彼が置かれた歴史的状況の絶望的な過酷さを考慮すれば、その評価は一変する。
彼は、崩壊寸前の巨大組織を半世紀以上にわたって維持し、再建の軌道に乗せ、次代に引き継いだ、忍耐と持久力の人であった。彼の治世に輝かしい武功や華々しい改革はないかもしれない。しかし、彼の存在なくして、後の長州藩の栄光はあり得なかった。毛利秀就は、長州藩二百数十年の歴史における、最も重要で、かつ最も正当に評価されてこなかった「礎石」として、今こそ再評価されるべき人物である。