毛利秀頼は斯波氏の貴種。信長・秀吉に仕え、信濃飯田10万石の大名となる。文禄の役中に病死し、遺領は娘婿が継承。息子秀秋は大坂夏の陣で討死し、尾張毛利氏は断絶した。
日本の戦国時代史において、「毛利」の名は中国地方に覇を唱えた安芸の毛利元就・輝元父子の一族を想起させることが多い。また、「秀頼」という名は、豊臣秀吉の嫡男にして悲劇の貴公子、豊臣秀頼を思い起こさせる。しかし、本報告書が主題とする「毛利秀頼(もうり ひでより)」は、これら二者とは全く異なる経歴を持つ、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した一人の武将である 1 。
彼は、織田信長、そして豊臣秀吉に仕え、最終的には信濃国伊那郡に十万石の領地を安堵された大名であった 1 。その出自は、安芸毛利氏とは縁遠く、室町幕府の管領を務めた名門・斯波氏の血を引く貴種である 3 。彼が拠点としたのは尾張国であり、安芸毛利氏と区別して「尾張毛利氏」と見なすべき存在である。天正16年(1588年)には、上洛中であった毛利輝元が秀頼の邸宅を訪問した記録も残っており、同姓であることから交流はあったものの、両者は別個の家系として認識されていた 4 。
また、豊臣秀頼(文禄2年、1593年生)とは同名であるが、毛利秀頼は豊臣秀頼が生まれたまさにその年に病没しており、活躍した時代は明確に異なる 1 。これらの混同が、毛利秀頼という人物像を歴史の中に埋没させ、その実像を曖昧にしてきた一因と言える。
彼の生涯を丹念に追うことは、単に一武将の立身出世物語をなぞることに留まらない。それは、室町幕府という「旧体制」の権威の象徴であった斯波氏の血を引きながら、織田・豊臣という「新体制」が標榜する実力主義の世界を生き抜き、そしてその体制の矛盾の中で一族が終焉を迎えるまでを描き出すことである。彼の人生は、旧来の権威が崩壊し、新たな権力が勃興する時代の転換期そのものを映し出す、貴重な歴史の証左なのである。
毛利秀頼の出自を理解するためには、まず彼が血を引く斯波氏について知る必要がある。斯波氏は清和源氏足利氏の嫡流に連なる名門であり、室町幕府においては細川氏、畠山氏と並んで将軍に次ぐ重職である管領を世襲する「三管領」の一角を占めた 6 。当主は代々左兵衛督(さひょうえのかみ)などに任官されたことから、その唐名である「武衛(ぶえい)」を家名とし、「武衛家」と称されるほどの高い家格を誇った。
しかし、応仁の乱を経て戦国時代に突入すると、守護代や国人領主の台頭、そして一族の内紛によってその権勢は急速に衰退していく。秀頼の父である第14代当主・斯波義統(しば よしむね)の代には、尾張守護の職位こそ保持していたものの、その実権は完全に守護代の織田氏に掌握され、傀儡(かいらい)当主としての地位に甘んじる他なかった 8 。
斯波氏の没落を決定づけたのが、天文23年(1554年)に発生した当主・義統の暗殺事件である。当時、尾張では織田信長の勢力が急速に拡大しており、これを危険視した清洲城主で守護代の織田信友は、主君である義統が信長と内通していると疑い、謀反を起こした。義統は清洲城内の守護邸で家臣らと共に自刃に追い込まれ、ここに尾張守護・斯波武衛家はその権威を完全に失墜した 8 。
この政変の最中、義統の子の一人(後の秀頼)は、織田信長配下の家臣であった 毛利十郎 という人物によって危機一髪のところを救出され、那古野城の信長のもとへと無事に送り届けられた 4 。秀頼が「毛利」の姓を名乗るようになったのは、この命の恩人である毛利十郎の養子となったか、あるいはその庇護下で元服したことに由来すると考えられている 4 。当初は信長から「長」の一字を拝領し、「毛利長秀」と名乗った 8 。
この毛利十郎は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元の首級を挙げる大功を立てた毛利新介(良勝)と近親者であったとされ、『信長公記』には、新介が義元を討ち取れたのは、十郎が斯波氏の幼君を保護した功徳に対する神仏の加護(冥加)であると、当時の人々が噂したという逸話が記されている 4 。このことは、秀頼の保護という行為が、単なる個人的な救出劇ではなく、織田家中で非常に重要な出来事として認識されていたことを示している。
斯波氏という滅びゆく権威の象徴である姓を捨て、信長に忠実な家臣の姓である「毛利」を名乗るという選択は、単なる養子縁組や感謝の表明に留まるものではなかった。それは、過去の政治的しがらみを断ち切り、信長が新たに築きつつある権力構造の中に、自らの身を完全に投じるという、極めて意識的かつ戦略的な政治判断であった。これは、没落する旧勢力から勃興する新勢力へといち早く乗り換えるための、秀頼自身の「リブランディング」戦略と解釈することが可能である。
斯波義統の死後、遺された子供たちはそれぞれ異なる道を歩んだ。嫡男であった兄の斯波義銀は、父の仇である織田信友を討った信長によって一時的に斯波家当主として擁立された。しかし、彼は旧来の権威に固執し、信長と対立した結果、尾張から追放される。後に信長と和解は果たしたものの、斯波の名を憚り「津川義近」と改名して、信長の家臣団の一員として生きる道を選んだ 9 。
また、弟の津川義冬も同様に織田家に仕え、信長の次男・織田信雄の家老として重用されている 15 。秀頼を含め、兄弟たちが揃って「斯波」という名跡を捨てた事実は、もはやその名が政治的価値を失ったことを象徴している。彼らは、過去の栄光にすがるのではなく、新たな支配者である信長との関係性の中に活路を見出すという、極めて現実的な判断を下したのである。兄・義銀が一度は旧来の権威を背負って挫折し、弟たちが早々に信長の直臣として順応したことは、結果的に一族が生き残るためのリスク分散として機能した側面もあったかもしれない。
織田信長に仕えることになった秀頼(当時は長秀)は、その出自や若年にもかかわらず、早くからその才覚を認められた。彼は信長の側近警護や伝令といった重要な役割を担う精鋭部隊「馬廻衆」に組み込まれ、さらにその中でも特に武勇と忠誠に優れた者だけが選抜されるエリート部隊「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の一員に抜擢されている 1 。母衣衆は戦場で非常に目立つ存在であり、その一員であることは武士として最高の栄誉の一つであった。この抜擢は、秀頼が信長から個人的な信頼を寄せられ、その武勇が高く評価されていたことの証左に他ならない。
赤母衣衆として信長の側に仕えた秀頼は、織田軍の主要な合戦の多くに参加し、着実に武功を重ねていった。
秀頼が歩んだキャリアは、信長政権下における人材登用の典型的な成功例を示している。斯波氏という出自による特別扱いはなく、まず信長の側近(馬廻・母衣衆)として忠誠心と実戦能力を試され、数々の戦場で功績を積むことで一部隊を率いる将となり、最終的には方面軍の一翼を担う城主大名へと出世していく。これは、柴田勝家や羽柴秀吉といった他の重臣たちと同様の、身分や家格よりも実力を重んじる信長政権のシステムに、秀頼が巧みに適応したことを物語っている。
高遠城攻略における功績を高く評価された秀頼は、武田氏滅亡後、信長からその論功行賞として信濃国伊那郡と高遠城を与えられた 1 。これにより、彼は初めて城持ち大名となり、一国一城の主としてのキャリアをスタートさせた。
しかし、その統治は長くは続かなかった。同年6月、京都で本能寺の変が勃発し、絶対的な後ろ盾であった信長が横死する。この中央政権の突然の崩壊は、平定されたばかりの旧武田領に深刻な動揺をもたらした。信長という重石がなくなったことで、武田家の旧臣や在地領主たちが一斉に蜂起し、信濃・甲斐・上野の三国は「天正壬午の乱」と呼ばれる大混乱に陥った 17 。
伊那郡に派遣されたばかりで、領内の支配基盤が脆弱であった秀頼は、この反乱の波を抑えることができなかった。彼は支配の維持を断念し、与えられたばかりの所領を放棄して、本拠地である尾張へと退却せざるを得なかった 4 。彼の居城であった飯田城は、地元の国衆である下条頼安によって掌握された 4 。
この信濃統治の失敗は、秀頼個人の力量不足という側面以上に、織田政権が抱えていた構造的な脆弱性を露呈した出来事であった。織田家の支配は、信長個人の圧倒的なカリスマと軍事力に大きく依存していた。そのため、信長が死去すると、新たに征服された領国では、派遣されたばかりの支配者(秀頼や河尻秀隆など)は容易にその権威を失い、在地勢力の抵抗の前に無力化したのである。この教訓は、後の豊臣政権が、検地や徹底した大名の国替えによって在地勢力の力を削ぎ、中央集権的な支配体制を確立しようとする政策の、重要な伏線となったと言えるだろう。
本能寺の変によって信濃の領地を失い、一時は浪人同様の身となった秀頼であったが、彼は時代の流れを的確に読んでいた。織田家中の後継者争いにおいて、いち早く明智光秀を討ち、主導権を握った羽柴秀吉に臣従する 1 。この迅速な政治判断が、彼のキャリアを再び上昇気流に乗せる決定的な一歩となった。
秀吉の配下となった秀頼は、単なる武将としてだけでなく、多方面でその能力を発揮し、秀吉の信頼を勝ち取っていった。
小田原征伐によって後北条氏が滅亡し、秀吉による天下統一が完成すると、徳川家康は関東へ移封された。これに伴う大規模な大名の配置転換の中で、秀頼は再び信濃伊那郡を与えられ、飯田城主として返り咲くことになった 1 。かつて失意のうちに去った土地へ、今度は豊臣政権の有力大名として凱旋したのである。
その石高は、当初7万石とされ 17 、その後の太閤検地によって10万石にまで加増された 1 。10万石という石高は、方面軍を率いる大大名に匹敵する規模であり、秀吉がいかに秀頼を高く評価し、信頼していたかを如実に物語っている。
さらに、天正13年(1585年)には侍従に叙任され、豊臣の姓と羽柴の名乗りを許された 4 。天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸の際には、関白秀吉の牛車に供奉する栄誉を得ており、豊臣政権の中枢に近い、名実ともに大名としての地位を確立したことがわかる 4 。
秀頼が再び信濃に配置された背景には、秀吉の巧みな天下統治戦略があった。天正18年(1590年)の時点で、信濃伊那郡は、東に新たに関東の支配者となった徳川家康、北に越後の上杉景勝という、秀吉にとって潜在的な脅威となりうる大大名と国境を接する、地政学的に極めて重要な最前線であった。この地に、かつて織田家臣として信濃統治の経験があり、かつ秀吉の腹心として信頼できる秀頼を10万石という破格の待遇で配置することは、東国の強豪大名を牽制し、豊臣政権の東方への睨みを効かせるための、極めて重要な戦略的布石だったのである。秀頼の飯田拝領は、単なる論功行賞ではなく、秀吉の全国支配構想に組み込まれた、戦略的人事であった。
時期(元号) |
主君 |
主な役職・戦功 |
所領・石高 |
備考 |
天文23年(1554)以降 |
織田信長 |
馬廻衆、赤母衣衆 |
不明 |
父・斯波義統の死後、毛利十郎の庇護下で信長に仕える。 |
永禄3年-天正9年 |
織田信長 |
桶狭間の戦い、伊勢侵攻、石山合戦等に従軍 |
|
信長の主要な合戦で武功を重ねる。 |
天正10年(1582) 3月 |
織田信長 |
甲州征伐(高遠城攻略) |
信濃国 伊那郡・高遠城 |
武田氏滅亡後の論功行賞として城主となる。 |
天正10年(1582) 6月 |
(なし) |
|
所領を放棄し尾張へ帰還 |
本能寺の変と天正壬午の乱により支配を維持できず。 |
天正10年以降 |
羽柴(豊臣)秀吉 |
小牧・長久手の戦い(調略)、九州征伐、小田原征伐 |
|
秀吉に臣従し、天下統一事業で活躍。 |
天正18年(1590) |
豊臣秀吉 |
飯田城主 |
信濃国 伊那郡・飯田城 7万石 |
小田原征伐後、再び伊那郡の大名となる。 |
文禄年間 |
豊臣秀吉 |
(飯田城主) |
信濃国 伊那郡・飯田城 10万石 |
太閤検地により加増。豊臣政権下の有力大名となる。 |
信濃飯田10万石の大名となった秀頼は、単に領地を支配するだけでなく、その拠点である飯田城と城下町の抜本的な整備事業に着手した。これは、彼の統治者としての能力を示すと共に、豊臣政権が目指した近世的な支配体制を地方で具現化する試みでもあった。
秀頼が入城した当時の飯田城は、在地領主・坂西氏が築いた中世的な山城の様相を色濃く残していた。秀頼は、この城を豊臣大名の居城にふさわしい、近世的な平山城へと大改修した 20 。江戸時代の地誌『飯田町旧記』によれば、従来の山伏丸・本丸・二ノ丸といった中心郭に加え、新たに三ノ丸を造成し、城の西側に正規の正面玄関である大手門(追手門)を設けるなど、城の縄張りを大幅に拡張したと記録されている 2 。
この改修に伴い、防御施設も強化された。特に、本格的な石垣の導入はこの時期からとされ、現在も飯田城跡の「水の手御門」周辺には、当時のものとみられる石垣が遺されている 2 。これにより、飯田城は単なる軍事拠点から、領国支配の中心地としての威容を内外に示す政治的シンボルへと変貌を遂げた。
秀頼は城の拡張と並行して、城下町の建設にも力を注いだ。それまで存在した伊勢町や番匠町に加え、新たに城の正面に「本町」を建設するなど、計画的な都市開発を進めた 2 。これが、現在の飯田市中心市街地の原型となった。
秀頼の死後、その遺領と事業は娘婿の京極高知に引き継がれた。高知は秀頼の構想を発展させ、神の峰城下から商人を移住させて「知久町」を、松尾から町人を移して「松尾町」を造るなど、城下町の規模をさらに拡大した 2 。そして文禄5年(1596年)には、町全体を碁盤の目状に区画整理し、城下町全体を外堀(惣堀)で囲う「惣構(そうがまえ)」を完成させた 2 。秀頼が着手した都市計画は、次代の統治者の手によって見事に完成されたのである。
秀頼が行った城と城下町の一体的な整備は、単なる土木事業に留まるものではない。それは、在地勢力が各地に割拠する中世的な「点」の支配から、領主が城下町を拠点として領国全体を統治する近世的な「面」の支配へと移行する、豊臣政権の基本的な地方支配理念を体現したものであった。城を政治・経済・軍事の中心として明確に位置づけ、その周囲に家臣団や商工業者を集住させることで、領主の権力を領国全体に浸透させ、富国強兵を図る。秀頼は、まさに秀吉の代理人として、この新しい時代の支配システムを信濃の地で忠実に実行したのである。
これらの大規模な事業は、秀頼が単に名目上の領主ではなく、実質的な統治を行っていたことを示している。その具体的な証拠として、長野県立歴史館には、彼の治世を物語る貴重な古文書が所蔵されている。その中には、文禄元年(1592年)に秀頼が病に罹ったため、家臣が諏訪大社に平癒の祈祷を依頼した記録が残っている 24 。また、秀頼の家臣が奉行人として年貢の進納を命じている文書も確認されており 25 、彼が領国経営の細部に至るまで関与していたことがうかがえる。
豊臣政権の有力大名として順風満帆なキャリアを歩んでいた秀頼であったが、その最期は突然訪れた。文禄元年(1592年)、秀吉が大陸侵攻を開始すると(文禄の役)、秀頼も他の大名と同様に動員された。ただし、彼自身が朝鮮半島へ渡海することはなく、出兵の一大拠点であった肥前国名護屋城(佐賀県唐津市)に駐屯し、後方支援の任にあたった 1 。
しかし、この名護屋在陣中に病を得たようである 24 。病状は回復することなく、翌文禄2年(1593年)閏9月17日、秀頼は名護屋の陣中にて死去した 1 。享年53であったと伝わる 4 。
秀頼の死後、その遺領である信濃飯田10万石の相続は、極めて不可解な形で決着した。通常であれば嫡男が継承するはずの家督であったが、実子である 毛利秀秋 が相続を許されたのは、わずか1万石に過ぎなかった 4 。
残りの9万石と、領国の中心である飯田城という主要部分は、秀頼の娘婿、すなわち義理の息子にあたる 京極高知 が継承することになったのである 4 。この異常な分割相続の背景には、当時の豊臣政権中枢における、極めて政治的な力学が働いていた。
京極高知の母・京極マリアは、浅井久政の娘であり、織田信長の妻・濃姫の義姉、そして信長の妹・お市の方の姉妹にあたる。つまり、高知は淀殿(浅井長政とお市の長女)の従兄弟という、極めて近い姻戚関係にあった 4 。秀頼が亡くなった文禄2年(1593年)は、奇しくも秀吉の嫡男・豊臣秀頼が誕生した年でもある。この時期、生母である淀殿の政権内における発言力は絶頂に達しており、彼女が自らの権力基盤を固めるため、信頼できる縁者である京極高知に巨大な領地を与えようと秀吉に働きかけた可能性は極めて高い。秀吉にとっても、待望の後継者である秀頼を支える体制を固める上で、淀殿の一族を優遇することは理に適った判断であった。
大名の家督相続は、本来はその家の問題(私事)であるべきだが、豊臣政権下では、天下人である秀吉の意向(公)が絶対的な決定権を持った。秀頼の遺領相続は、毛利家の家臣団や嫡男・秀秋の意向よりも、秀吉と淀殿の個人的な関係性や政権内の派閥力学が優先された典型的な事例である。このような縁故主義とも言える権力配分は、一見、政権の安定に寄与するように見えるが、長期的には譜代の家臣たちの不満を募らせ、政権の構造的な脆弱性を生み出す要因となった。秀頼の死後の処置は、秀吉の死後に豊臣政権が内部から崩壊していく、その前兆となる出来事であったと言えるだろう。
父の遺領の大部分を継承できず、1万石の小大名となった毛利秀秋は、その後、豊臣秀頼の直臣として仕えた 26 。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、秀秋は豊臣家への恩義から西軍に与し、伏見城攻めなどに参加した。しかし、西軍は敗北し、戦後、秀秋は所領を没収され、改易の処分を受けた 26 。
大名の地位を失った後も、彼は豊臣家への忠誠を貫いた。大坂城に入り、5,000石で再び豊臣秀頼に召し抱えられ、その家臣となった 26 。そして慶長20年(1615年)の大坂夏の陣、豊臣家の命運を賭けた最後の戦いにおいて、彼は毛利勝永の隊に所属し、激戦地となった天王寺・岡山の戦いで奮戦の末、討死を遂げた 26 。
父・秀頼は、織田から豊臣へという権力の移行を巧みに乗りこなし、大名として成功を収めた。しかし、息子・秀秋は、関ヶ原、そして大坂の陣という次の時代の転換点において、結果的に「敗者」となる豊臣方を選択した。彼の選択は、父の代から続く豊臣家への恩義に基づくものであったかもしれないが、その結果、家は断絶した。斯波氏の血を引く尾張毛利氏の系譜は、秀秋の死をもって、歴史の表舞台から完全に姿を消すこととなった。父の成功と子の悲劇は、時代の大きなうねりに翻弄された一族の宿命を、そして戦国から江戸へと移行する時代の過酷さを浮き彫りにしている。
毛利秀頼の生涯は、室町幕府の最高権門である斯波氏に生まれながら、その権威が地に墜ちる時代に直面し、旧来の家格に頼ることなく、自らの才覚と時流を読む鋭い政治感覚によって、織田・豊臣という新たな天下人の下で大大名にまで登り詰めた、激動の人生であった。彼の生涯は、血筋という旧来の権威と、実力という新たな価値観が激しく交錯した、戦国時代という時代のダイナミズムそのものを体現している。
彼は、信長の赤母衣衆として数々の戦場を駆け抜けた武勇に優れた武将であると同時に、小牧・長久手の戦いで見せたような調略の才、そして飯田の地で展開した築城や都市計画に見られるような、有能な統治者としての一面も併せ持っていた。しかし、その輝かしい成功は、あくまで織田信長、そして豊臣秀吉という絶対的な後援者の存在に大きく依存していた。彼の死後、その遺領が息子の秀秋ではなく、政権中枢と繋がりの深い娘婿の京極高知に継承された事実は、彼が築いた地位が、一個人の能力や功績だけでは盤石な基盤となり得なかった、戦国時代の非情な現実を物語っている。
斯波氏の血を引く秀頼が豊臣政権下で大名として栄達し、その息子・秀秋が豊臣家の滅亡と運命を共にするという一族の物語は、足利将軍の権威が失墜した応仁の乱以降の時代が、織豊政権という過渡期を経て、徳川による安定した幕藩体制へと至る、約半世紀にわたる日本の歴史の縮図と言えるだろう。毛利秀頼は、時代の波に巧みに乗りこなし、そして最後はその波に呑み込まれていった、過渡期の武将の典型であった。彼の存在は、華々しい英雄たちの影に隠れがちではあるが、時代の転換点を理解する上で、決して忘れてはならない重要な人物である。