毛受勝照は柴田勝家の忠臣。長島で武功を挙げ一万石を領す。賤ヶ岳で主君を逃がすため兄と共に身代わり討死。その忠義は敵将秀吉も感嘆し、後世に語り継がれる。
天正11年(1583年)4月、春霞の立ち込める近江国賤ヶ岳。織田信長亡き後の天下の覇権を巡り、織田家筆頭家老・柴田勝家と、信長の草履取りから成り上がった羽柴秀吉の両雄が、ついに激突した。当初は一進一退の攻防が続いたものの、秀吉の驚異的な機動力「美濃大返し」と、味方であったはずの前田利家の戦線離脱により、柴田軍の戦線は瞬く間に崩壊を始める 1 。
敗走する兵、裏切る将。自軍が瓦解していく様を本陣から見つめる主君・柴田勝家は、もはやこれまでと、この地を死に場所と覚悟した。その絶望的な戦況の中、一人の若き武将が勝家の前に静かに進み出た。彼の名は、毛受勝照(めんじゅ かつてる)。勝家の小姓頭として一万石を領する、若き側近であった 2 。彼の進言が、戦国史に類を見ない壮絶な忠義の物語の幕開けを告げることとなる 4 。
毛受勝照の名は、領土の広さや戦略の巧みさで知られる戦国大名たちのように、華々しく語られることは少ない。しかし、その名は400年以上の時を超え、今なお忠義の象徴として、特に彼が散った地や故郷で篤く語り継がれている。本報告書は、毛受勝照という一人の武将の出自から、主君との絆、鮮烈な武功、そして壮絶な最期、さらには現代に至るその記憶までを徹底的に掘り下げ、彼の武名がなぜ不滅のものとなったのか、その核心を解き明かすことを目的とする。
毛受勝照は、永禄元年(1558年)または永禄2年(1559年)に生を受けたとされる 3 。幼名は「荘介(しょうすけ)」、初めは「照景(てるかげ)」と名乗っていたという記録が残る 2 。彼の運命が大きく転換するのは、主君・柴田勝家に仕えてからのことである。
後述する伊勢長島での武功により、勝照は主君・勝家から偏諱(へんき)を賜るという、家臣として最高級の栄誉に浴する。この時、勝家の名から「勝」と「家」の二文字を与えられ、「勝助家照(かつすけ いえてる)」と改名したと伝えられている 2 。通称として広く知られる「勝助(かつすけ)」、そして後世に伝わる「勝照(かつてる)」という名は、この主君からの絶大な信頼の証であった。
単に恩賞として金銭や土地を与えるのではなく、主君が自らの名の一部、それも二文字もを家臣に与えるという行為は、極めて異例である。これは、勝家が勝照を単なる有能な部下としてではなく、我が子や一門に準ずる、極めて近しい存在として認めていたことを強く示唆している。二人の間に結ばれたこの人格的な深い絆こそが、後の賤ヶ岳における勝照の捨身の行動の根源にあったと解釈できる。それは単なる主従の義務感を超えた、深い恩義に報いようとする強烈な意志の発露だったのである。
勝照の出身地は、尾張国春日井郡稲葉村、現在の愛知県尾張旭市稲葉町一帯とされる 5 。この地との縁は深く、現代においても尾張旭市文化会館の前には、故郷の英雄として彼の勇壮な銅像が建立されている 6 。
「毛受」という非常に珍しい姓の読み方には、「めんじゅ」の他に「めんじゅう」「めんじょ」「めんじょう」など複数の伝承がある 1 。その出自についても諸説が存在し、定説を見ていない。最も有力視されているのは、新居城主であった水野良春の四世孫にあたる毛受照昌(あるいは鵜飼勝明とも)が稲葉村に移り住み、開墾した際に新たに「毛受」姓を名乗ったのが始まりだとする説である 1 。このため、本姓は水野であったとも言われる 2 。他にも、姓の語源として、物部氏の一族である百舌鳥(もず)氏が転訛したものであるという説や 10 、清和源氏頼光流を称する系図も存在するが 1 、その信憑性については慎重な検討を要する。
これらの伝承から浮かび上がるのは、毛受氏が古くからの名門貴族ではなく、父・照昌の代に特定の土地に根を下ろして勃興した、比較的新しい在地武士の一族であった可能性である。このような新興の武士にとって、古い家名の権威に頼ることはできない。自らの実力と主君への忠誠心によって武功を立て、己の名を上げることこそが、立身出世の唯一の道であった。勝照の行動原理が、旧来の権威や家格ではなく、主君・柴田勝家という一個人に向けられた強烈な帰属意識に根差していたことは、こうした出自の背景を鑑みれば、より深く理解できるであろう。
勝照の父は毛受照昌と伝わる 4 。彼には兄弟がおり、特に知られるのが、賤ヶ岳で運命を共にすることになる兄の茂左衛門(もざえもん)である 8 。茂左衛門は勝惟(かつこれ)という別名も持っていた。また、史料によっては三男として庄兵衛(しょうべえ、別名:吉勝)の存在も記されている 1 。彼ら兄弟は三人そろって柴田勝家に仕え、その武名を共に高めていったのである 1 。
勝照は、12歳という若さで織田信長の筆頭家老であり、「鬼柴田」の異名で知られた猛将・柴田勝家の小姓として仕官した 2 。当時の勝家は、信長から北陸方面軍の総司令官に任じられ、一向一揆を平定した後の越前国を本拠としていた 14 。勝照もまた、若くして主君に従い、北陸の厳しい戦場を駆け巡ったと推察される 4 。小姓という役職は、主君の身辺に常に侍る側近であり、この時期に勝家からの深い信頼と薫陶を受けたことは想像に難くない。
勝照の名を一躍、柴田家中に轟かせたのが、天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆討伐戦での出来事であった。当時17歳だった勝照(荘介)も、この過酷な戦いに従軍していた 13 。
激戦の最中、柴田軍の馬印(うまじるし)が一揆勢に奪われるという事件が発生する。馬印は主将の所在を示す軍団の象徴であり、これを敵に奪われることは、軍にとって最大の屈辱であり、敗北に等しい失態であった 2 。主君・勝家はこれに激しく憤り、武門の恥辱を雪ぐべく、自ら敵中に討ち入って死のうとさえした。その時、勝家の前に立ちはだかり、主君の無謀を諫止したのが、若き勝照であった。彼は主君を押しとどめると、ただ一騎で敵陣の真っ只中へと突入。数多の敵兵をものともせず、見事に馬印を奪還して勝家のもとへ送り届けた後、再び敵中に斬り込んで奮戦したと伝えられる 2 。
この常軌を逸した勇猛さと忠誠心に、勝家は大いに喜び、すぐさま精鋭の兵を派遣して勝照を救出させた 15 。この一件は、単なる武勇伝に留まらなかった。勝照の類稀なる器量と忠義を確信した勝家は、彼を破格の待遇で遇するようになる。前述した「勝」「家」の二字を与えられての改名も、この時の功績に報いるものであった 2 。
長島での目覚ましい活躍以降、勝照は勝家の厚い信任を得て、側近中の側近である小姓頭(こしょうがしら)へと昇進する 2 。そして、度重なる戦功が認められ、最終的には越前国内の鯖江付近に一万石の所領を与えられるに至った 2 。
一万石という知行高は、戦国時代において独立した大名として認められる画期であり、極めて大きな意味を持つ。当時、勝家の与力として越前府中に配された前田利家、佐々成政、不破光治の「府中三人衆」が合わせて十万石を知行していたことからも 16 、勝家の直臣、それも譜代ではない若手の勝照に一万石が与えられたことが、いかに破格の抜擢であったかがわかる。
これは、勝照が単に主君のお気に入りの側近(寵臣)であっただけでなく、一個の将として、また領主として、極めて高い軍事能力と統治能力を兼ね備えていたことを証明している。長島での武功はもとより、その後の地道な働きと実績が評価されなければ、このような待遇はあり得ない。賤ヶ岳での彼の最期の行動は、この破格の恩義に対する純粋な感謝の念の現れであると同時に、一万石の将としての重い責任感に裏打ちされた、冷静な判断の結果でもあったのである。
本能寺の変で織田信長が斃れた後、その後継者の地位と天下の覇権を巡る争いは、織田家の二大巨頭、柴田勝家と羽柴秀吉との間の決定的な対立へと発展した。そして天正11年(1583年)4月、両軍は近江国賤ヶ岳で対峙し、天下分け目の戦いの火蓋が切られた 1 。
当初、戦況は膠着していたが、柴田方の猛将・佐久間盛政が秀吉方の砦を急襲し、中川清秀を討ち取るなど戦果を挙げたことで均衡が破れる。しかし、勝利に逸った盛政は、勝家の再三の撤退命令に従わず、前線に居座り続けた 1 。この隙を、秀吉は見逃さなかった。岐阜城にいたはずの秀吉は、わずか5時間で約52キロメートルを走破するという驚異的な速度で戦場に帰還(美濃大返し)。さらに、柴田軍の重鎮であった前田利家が突如戦線を離脱したことで、柴田軍の士気は崩壊し、全面的な総崩れとなったのである 1 。
本陣の置かれた狐塚で、味方が次々と敗走していく様を目の当たりにした勝家は、自らの敗北を悟り、武士としてこの場で討死する覚悟を固めた 1 。その時、勝家の馬前に進み出たのが、小姓頭の毛受勝照であった。彼は、涙ながらに主君の自決を諫めたと伝えられる。
「殿、ここでの御討死はなりませぬ。雑兵の手に掛かり、首を晒されることこそ、柴田家の末代までの恥辱。ひとまず本拠の越前北ノ庄城へお戻りいただき、そこでこそ武士として、静かに御最期を遂げられますよう」 4 。
勝家の決意が固いと見るや、勝照は驚くべき策を進言する。自らが勝家の身代わりとなって敵の大軍を引きつけ、その間に主君を落ち延びさせるという、まさに捨て身の作戦であった。そのために、柴田家の象徴である馬印「金の御幣(きんのごへい)」を貸してほしいと願い出たのである 2 。
勝照の壮絶な覚悟を知った兄・茂左衛門は、弟と共に死ぬことを望んだ。しかし、勝照は一度それを制する。「兄上まで討死しては、故郷で我らの帰りを待つ母上があまりに不憫。兄弟そろって死ぬは不孝の極みです。兄上は生き延び、母上の面倒を見てくだされ」と、母を気遣う言葉を口にした 2 。
この勝照の言葉に対し、茂左衛門は毅然として首を横に振った。「いや、それこそが最大の不孝となろう。義を重んじ、武士の道を尊ぶ我らが母上のこと、弟を見捨てて己一人生き永らえたと知れば、どれほど嘆き悲しまれるか。弟と共に主君のために死ぬことこそが、母上の御心に沿う、真の孝行である」 2 。
この兄弟の問答は、単なる美談ではない。そこには、当時の武士が最も重んじた「忠(主君への忠義)」「孝(親への孝行)」「義(人としての正しい道)」という三つの徳目が凝縮されている。勝照はまず、人として自然な「孝」の情を示したが、茂左衛門は、主君のために兄弟が共に戦うという「忠」と「義」を貫くことこそが、より高次の「孝」に繋がるという、武士道特有の崇高な倫理観を提示した。このやり取りによって、彼らの死は単なる犬死ではなく、武士としての美学と倫理に殉じた、意味のある死として昇華されたのである。
兄弟の問答は終わり、二人は心を一つにした。毛受勝照・茂左衛門兄弟は、最後まで主君を見限らなかった柴田家の精鋭約200名から300名を率い、追撃してくる羽柴軍を食い止めるべく、防御に適した林谷山の砦(現在の滋賀県長浜市余呉町)に布陣した 21 。
勝照は、主君・勝家から預かった馬印「金の御幣」を高く掲げ、「我こそは柴田修理亮勝家なり!」と大音声に名乗りを上げた。堀秀政らが率いる羽柴の大軍は、これを本物の勝家と信じ込み、砦に殺到した 8 。毛受勢は数で圧倒的に劣りながらも、主君の退路を確保すべく、鬼神の如く奮戦した。
ある軍記物によれば、この時、後に豊臣家の重臣となる猛将・島左近が勝照に一騎打ちを挑み、槍を付けたという。しかし、左近はそのあまりの若さから影武者であることを見破り、「若武者、汝は勝家にあらじ。まことの名を名乗れ」と迫った。だが勝照は、最後まで「我こそは柴田勝家なり」と名乗り続け、壮絶な討死を遂げたとされる 1 。
天正11年(1583年)4月21日、毛受勝照は兄・茂左衛門と共に、その短い生涯の幕を閉じた。享年25(あるいは26) 3 。彼ら兄弟と家臣たちの尊い犠牲によって稼がれた時間により、柴田勝家は無事に本拠・北ノ庄城へと退くことができたのであった。
毛受勝照の死は、一つの戦の終わりではなかった。彼の示した比類なき忠義は、敵味方の垣根を越えて人々の心を打ち、その武名は死してなお、後世に大きな影響を与え続けることになる。
表1:毛受勝照を巡る主要人物相関表
人物名 |
立場/関係性 |
概要 |
毛受勝照 |
本人 |
柴田勝家の小姓頭。賤ヶ岳の戦いで主君の身代わりとなり討死した忠臣。 |
柴田勝家 |
主君 |
織田家筆頭家老。勝照の忠誠心に支えられ、北ノ庄城で最期を遂げた。 |
毛受茂左衛門 |
兄 |
勝照と共に柴田家に仕え、賤ヶ岳で弟と運命を共にした。 |
豊臣秀吉 |
敵将(後の天下人) |
賤ヶ岳で柴田軍を破る。勝照兄弟の忠義に深く感嘆し、手厚く弔った。 |
前田利家 |
(元)同僚 |
柴田勝家の与力であったが、賤ヶ岳で戦線を離脱。後に毛受氏の子孫が仕えたとされる。 |
島左近 |
対峙した武将 |
筒井順慶の家臣。賤ヶ岳で勝照と対峙し、その若さから影武者と見破ったという逸話がある。 |
籠手田安定 |
顕彰者 |
明治時代の滋賀県令。兄弟の忠節に感銘を受け、現在の墓碑を建立した。 |
勝照兄弟の壮絶な討死と、主君を思うその純粋な忠義の深さは、敵将である羽柴秀吉の心をも強く揺さぶったと伝えられている 20 。秀吉は、彼らの遺骸を丁重に集めさせ、戦場近くの全長寺の僧に命じて手厚く弔わせた 20 。さらに、北ノ庄城が落城した後、兄弟の首を検分した上で、故郷で待つ母のもとへ返還させたという逸話も残っている 8 。
秀吉のこの行動は、単なる個人的な感嘆や同情に留まるものではない。そこには、天下統一を目指す彼ならではの、高度な政治的計算が見て取れる。敵方の忠臣を手厚く顕彰することで、「自分は武士の義理人情を深く理解する、器の大きな人物である」と天下に示すことができる。これは、いまだ抵抗を続ける柴田方の残党や、日和見をしている他の大名たちを心理的に懐柔する上で、極めて有効な手段であった。武士社会において最高の美徳とされる「忠義」を称賛することは、自らがその価値観の守護者であることを天下に宣言するに等しい。勝照の「美しく、潔い死」は、秀吉が自らの天下取りの物語を正当化し、人心を掌握していく上で、格好の材料となったのである。
秀吉は、勝照の遺族を探し出し、厚遇したとも伝えられている 1 。勝照には、賤ヶ岳の合戦があった天正11年に生まれたばかりの幼い男子がいたとされ 1 、その血脈は途絶えることなく後世へと繋がっていった。ただし、その子孫の動向については、複数の伝承が存在する。
一つは、孫の信友の代に尾張徳川家の家臣となり、明治維新後、一族本来の姓である「水野」に復したという説である 1 。これは、彼らの故郷が尾張であったことと整合性が高い。
もう一つは、加賀前田家に仕えたという説である。この伝承によれば、子孫は一時「三井」姓を名乗った後、江戸時代末期に再び毛受姓に復したという 2 。この説を裏付ける興味深い物証が、石川県金沢市に現存する。加賀藩前田家の広大な墓所である野田山墓地には、藩祖・前田利家の墓のほど近くに、「毛受兼庵」「毛受大学」などと刻まれた毛受家の墓が5基、今も残されているのである 2 。これは、毛受一族が加賀藩において、特別な待遇を受けていた可能性を示唆している。
毛受兄弟が壮絶な最期を遂げた地、滋賀県長浜市余呉町新堂(旧・林谷山麓)には、現在も「毛受兄弟の墓」として、二人の忠臣を祀る墓碑が静かに佇んでいる。この墓は、地元の人々によって今日まで大切に守り継がれてきた 9 。
現在の朱色の柵で囲まれた墓碑は、明治9年(1876年)に建立されたものである。建立者は、当時の滋賀県令(現在の知事にあたる)であった籠手田安定(こてだ やすさだ)であった。籠手田は、この地を訪れた際に兄弟の忠節の物語に深く感銘を受け、彼らの徳を後世に伝えるべく、墓碑を建立したのである 22 。
この顕彰事業は、単なる一個人の思いつきではない。幕末の動乱を経て、西洋列強に伍する新しい国民国家を建設しようとしていた明治政府にとって、「主君への忠義」や「自己犠牲」といった武士道の徳目は、国民精神を涵養するための重要なイデオロギーであった。元幕臣で剣客としても知られた籠手田県令が、公的な立場で毛受兄弟の墓を建立した行為は、こうした時代の要請に応えるものであった。封建時代の「主君への忠誠」の物語は、近代国家における「天皇や国家への忠誠」を国民に教化するための格好の教材として再発見され、利用されたのである。勝照の物語もまた、この大きな歴史の文脈の中で、理想的な「忠臣」のモデルとして、新たな光を当てられたと言えるだろう。
勝照の故郷である愛知県尾張旭市もまた、この地の英雄を忘れてはいない。市の文化会館前には、馬上で采配を振るう勝照の勇壮な騎馬像が建立され、市民の誇りとなっている 6 。
特筆すべきは、その銅像の台座に刻まれた「毛受家照公」という揮毫が、元内閣総理大臣である中曽根康弘氏の手によるものであることだ 6 。一地方の武将の顕彰に、国家の最高指導者であった人物が関わっているという事実は、毛受勝照の生き様が持つ物語の力が、戦後の日本においてもなお、為政者層にまで感銘を与える普遍的な力を持っていることを示している。
毛受勝照の生涯を振り返る時、我々はその短くも鮮烈な軌跡に心を打たれる。彼の名は、広大な領土を支配したわけでも、天下の趨勢を左右する戦略を巡らせたわけでもない。しかし、彼の名は歴史に深く刻まれた。それは、ただ一点、主君・柴田勝家への純粋で絶対的な忠義によって、不滅の光を放つことになったからである。
12歳で小姓として仕え、17歳で主君の最大の危機を救い、若くして一万石の大身となりながらも、決して驕ることなく、最期の瞬間まで主君のためにその身を捧げた。その生き様は、封建時代の「忠義」という価値観の究極的な体現であった。
しかし、彼の物語は単なる過去の美談に留まらない。組織への帰属意識、信義を貫くことの尊さ、そして己の命を懸けて守るべきものは何かという問い。彼の生涯は、時代や社会体制を超えて、現代を生きる我々に対しても、重く、そして普遍的なテーマを投げかけている。
賤ヶ岳の戦場に露と消えた若き武将の魂は、400年以上の時を経て、今なお「武士の鑑」として語り継がれる。毛受勝照の生涯は、人が何を以て歴史に記憶されるのか、その一つの崇高な答えを、我々に示し続けているのである。