最終更新日 2025-06-10

氏家光氏

「氏家光氏」の画像

氏家光氏の生涯と事績:最上家臣から長州藩士へ

序章

本報告は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、出羽国の雄・最上家に仕えた武将、氏家光氏(うじいえ あきうじ、みつうじ とも 1 )の生涯と事績について、現存する史料に基づき、詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とします。利用者が既に有している「最上家臣。成沢家の出身で、守棟の跡を継いだ。関ヶ原合戦では、侵攻してきた上杉景勝軍を相手に奮戦する。家親が当主になると、領国の治政を担当した」という概要は、光氏の生涯の重要な側面を捉えていますが、本報告ではこれを基点とし、その背景、詳細、そして後年の動向を含めて大幅に拡充・深化させる内容を目指します。

氏家光氏に関する調査においては、いくつかの史料上の留意点が存在します。特に、光氏の養父であり、最上義光の懐刀として名高い氏家守棟も「尾張守」の官途名を称したため 4 、両者の事績、特に守棟晩年から光氏初期にかけての活動が混同されている可能性が指摘されています。また、『奥羽永慶軍記』のような後世に編纂された軍記物語に見られる記述 5 については、その史料的性格を十分に考慮し、他の一次史料との比較検討を通じて慎重な取り扱いが求められます。光氏は、最上義光や氏家守棟といった著名な人物の陰に隠れがちで、彼に関する情報は断片的であり、しばしば他の人物の伝記や合戦記録の中に散見される傾向があります。このため、光氏個人の足跡を明確に浮かび上がらせるには、これらの散逸した情報を丹念に拾い上げ、批判的に吟味し、再構成する作業が不可欠となります。本報告では、これらの点を踏まえ、史料を多角的に分析することで、可能な限り客観的な光氏像の構築を試みます。

本報告の構成は以下の通りです。まず、光氏の出自である成沢氏と実父・成沢道忠、そして養父・氏家守棟と氏家氏の家系、氏家家相続の経緯を明らかにします。次に、最上家臣としての活躍、特に主君・最上義光の娘である竹姫との婚姻、慶長出羽合戦における奮戦、そして義光からの信任について詳述します。続いて、最上義光没後の最上家親・義俊の代における光氏の動静、家中の混乱と彼の役割、そして最上家の改易という転機を追います。さらに、改易後の光氏とその子・親定が毛利家に仕官し、長州藩士として氏家家が存続した経緯を述べます。最後に、これらの事績を通じて浮かび上がってくる光氏の人物像について考察し、結論として彼の生涯と歴史的意義を総括します。

氏家光氏 略年表

年号 (和暦)

西暦

出来事

関連人物・備考

主要出典

永禄8年頃?

1565年頃?

成沢道忠の子として誕生か

父:成沢道忠

7

天正16年

1588年

氏家守棟の嫡子・光棟が十五里ヶ原の戦いで戦死

(養父の兄):氏家光棟

7

文禄2-4年頃

1593-95年頃

養父・氏家守棟死去。その後、氏家家家督を相続

養父:氏家守棟

3

時期不詳

-

最上義光の娘・竹姫と婚姻。宿老となる(1万8千石)

妻:竹姫、舅:最上義光

3

慶長5年

1600年

慶長出羽合戦(長谷堂合戦)に参陣、長谷堂城救援で奮戦

主君:最上義光、父:成沢道忠も参陣か

7

慶長19年

1614年

主君・最上義光死去。

3

慶長19年以降

1614年以降

最上家親・義俊に仕え、国内政務を担当、家中の混乱収拾に努力

主君:最上家親、最上義俊

3

元和8年8月21日

1622年

最上家改易。

3

元和8年以降

1622年以降

子・親定と共に毛利氏に預けられ仕官

子:氏家親定、新主君:毛利秀就

3

没年不詳

-

(毛利家仕官中に死去)

1

第一部:氏家光氏の出自と氏家家相続

氏家光氏の生涯を理解する上で、まず彼の出自である成沢氏と、彼がその名跡を継いだ氏家氏という二つの家系について把握することが不可欠です。これらの家系は、いずれも最上家において重要な地位を占めていました。

1. 成沢氏の血脈と実父・成沢道忠

氏家光氏は、成沢道忠(なりさわ みちただ)の子として生を受けました 3 。初名は成沢光氏(なるさわ あきうじ、または、みつうじ)と伝えられています 3 。光氏の生年については正確には不明ですが、一部の資料では「1565年(永禄8年)か」と推定されています 7 。一方で、「生卒年不詳」とする資料も存在します 1

実父である成沢道忠は、山形城南方の要衝である成沢城(山形市)の城主であり、最上義光に仕えた重臣でした 7 。道忠の事績として特筆すべきは、元亀年間から天正年間初頭(1570年代初頭)にかけての柏木山合戦です。この戦いで、米沢城主・伊達輝宗と上山城主・上山満兼の連合軍が最上領に侵攻した際、道忠は成沢城に籠城し、伊良子宗牛と共に敵の進軍を食い止めるという重要な役割を果たしました 7 。また、天正13年(1585年)頃、最上義光が庄内地方の安保氏を攻めた際には、先陣を務めたとされます 8 。さらに、慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦(長谷堂合戦)においても、長谷堂城主・志村光安と共に参陣し活躍、戦後にその功により5千石の領地を賜ったと伝えられています 8 。史料によっては「大剛の老侍大将」とも評されており [ 17 (4.2) citing 23 ]、勇猛な武将であったことがうかがえます。

成沢道忠のこれらの活動は、彼が数十年にわたり最上家の主要な軍事作戦に従事し、重要な防衛拠点や攻撃部隊の指揮を任されるなど、一貫して忠勤に励んだ信頼厚い武将であったことを示しています。成沢家が最上家中で確固たる地位を築いていたことは、その子である光氏にとっても大きな意味を持ちました。このような名声ある武門の家柄は、光氏が幼少期より最上家の武家社会や政治的環境に触れる機会を与え、彼自身の武将としての素養を育む土壌となったと考えられます。そして何よりも、成沢家の確かな実績と信頼性は、後に光氏がより重要な家系である氏家家の後継者として選ばれる際に、彼がその任に足る人物であるとの評価を得る上で有利に働いたと言えるでしょう。

氏家光氏 関係主要人物一覧

氏名

読み

光氏との関係

主要な役割・役職

主要出典

成沢道忠

なりさわ みちただ

実父

成沢城主、最上家臣、慶長出羽合戦で活躍

7

氏家守棟

うじいえ もりむね

養父

最上家家老・宿老、「義光の懐刀」、尾張守

4

氏家光棟

うじいえ みつむね

(養父の)実子

氏家守棟嫡男、十五里ヶ原の戦いで戦死

7

最上義光

もがみ よしあき

主君、舅

出羽山形藩初代藩主、57万石の大名

3

竹姫

たけひめ

最上義光の娘(三女または長女)

3

最上家親

もがみ いえちか

主君

最上義光の子、山形藩二代藩主

3

最上義俊

もがみ よしとし

主君

最上家親の子、山形藩三代藩主、改易時の当主

3

氏家親定

うじいえ ちかさだ

最上家改易後、父と共に毛利氏に仕官、長州藩士(500石)

17

毛利秀就

もうり ひでなり

(新たな)主君

長州藩初代藩主

17

2. 養父・氏家守棟と氏家氏

氏家光氏が養子として迎えられた氏家氏は、最上家において特別な位置を占める家系でした。氏家氏の淵源は古く、最上氏の始祖である斯波兼頼(しば かねより)が羽州探題として出羽国に入部した際、その後見役を務めたとされる氏家道誠(うじいえ どうせい)の後裔と見なされています 4 。この伝承は、氏家氏が最上家にとって草創期からの譜代の家臣であり、代々重用されてきたことを示唆しています。

光氏の養父となった氏家守棟(うじいえ もりむね)は、その中でも特に傑出した人物でした。守棟は、最上義守(もがみ よしもり)およびその子・最上義光の二代にわたり家老として仕え、特に義光の時代にはその智謀と戦略によって数々の功績を挙げました 4 。その卓越した知略から「最上義光の懐刀」と称され、天童氏や上山氏といった出羽国内の有力豪族を謀略をもって攻略し、義光による出羽統一に大きく貢献しました 4 。鮭延城攻めや観音寺城攻めなど、具体的な戦役においてもその手腕を発揮しています 7 。守棟はまた、主君である最上義光に対しても臆することなく諫言を行った逸話も伝えられており 11 、単なる謀臣ではなく、義光から絶対的な信任を得ていた重臣であったことがうかがえます。守棟もまた、後に光氏が称することになる「尾張守」の官途名を名乗っていました 1

しかし、この氏家守棟の家にも危機が訪れます。守棟の嫡男であった氏家光棟(うじいえ みつむね)が、天正16年(1588年)に勃発した庄内三人衆の一人・本庄繁長軍との戦いである十五里ヶ原の戦いにおいて戦死してしまったのです 4 。これにより、最上家の重鎮であり、戦略の中枢を担っていた氏家本家は嫡流を失い、家名断絶の危機に瀕しました。この事態は、氏家家個人の問題に留まらず、最上家の支配体制にとっても大きな損失であり、早急な対策が求められる状況でした。

3. 氏家家相続の経緯と意義

氏家光棟の戦死という事態を受け、氏家守棟は自身の家名と役割を継承させるため、養子を迎えることを決断します。白羽の矢が立ったのが、守棟の従兄弟にあたる成沢道忠の子、すなわち後の氏家光氏でした 3 。成沢氏が最上氏の一族であったとする記録もあり 9 、血縁的にも、また成沢道忠のこれまでの功績や最上家への忠誠心からも、光氏は氏家家の後継者として申し分のない人物と見なされたのでしょう。

光氏が正式に氏家家の家督を相続したのは、養父である守棟が文禄2年(1593年)から文禄4年(1595年)の間に死去した後とされています 3 。この相続は、単に一つの家名が存続したという以上の意味を持っていました。最上義光にとって不可欠な戦略家であり、腹心であった氏家守棟の家名と、その家が担ってきた軍事的・政治的に重要な役割が、これにより維持されることになったのです。光氏自身も養父と同じく「尾張守」を称したことは 4 、彼が名実ともに守棟の後継者としての地位を継承したことを象徴しています。史料によっては、守棟晩年の業績と光氏の業績が混同されることがあるほど、その影響力を色濃く引き継いだことが示唆されており 4 、これは最上家における氏家氏の重要性が光氏の代においても継続されたことを物語っています。

この養子縁組と家督相続は、最上家の指導層、特に最上義光と氏家守棟自身による戦略的な判断であったと考えられます。守棟のような傑出した家臣の家系が途絶えることは、最上家にとって大きな戦力ダウンを意味します。そこで、同じく信頼のおける譜代の家臣であり、かつ武勇にも実績のある成沢家から、将来有望な光氏を後継者として迎え入れることで、氏家家が担ってきた重要な機能を確実に次代へと繋ごうとしたのです。これは、戦国大名家が家臣団の結束を維持し、有能な人材を確保するためにしばしば用いた手法であり、最上家における氏家光氏の登場も、まさにそのような文脈の中で理解することができます。

第二部:最上家臣としての活躍

氏家家の名跡を継いだ光氏は、最上義光の家臣団の中核として、その能力を遺憾なく発揮していくことになります。特に、主君・義光の娘婿となることでその地位を確固たるものとし、慶長出羽合戦という未曽有の国難においては、その武勇をもって主家の危機を救うべく奮戦しました。

1. 最上義光の娘・竹姫との婚姻と宿老としての地位

氏家光氏は、最上義光の娘である竹姫(たけひめ)を妻として迎えました 3 。竹姫は義光の三女とされることが多いですが 7 、長女説も存在し 12 、その母は大崎氏の出身と伝えられています 12 。この婚姻は、光氏の人生において極めて重要な意味を持ちました。主君の娘婿となることで、光氏は最上宗家と極めて強固な姻戚関係を結ぶことになり、彼の家中における発言力や影響力は飛躍的に増大しました。これは、単に個人的な関係に留まらず、光氏が名実ともに最上家の中枢を担う一員として公式に位置づけられたことを意味します。

この婚姻と並行して、光氏は最上家において宿老の地位にあり、1万8千石という破格の知行を与えられていました 3 。この石高は、最上家臣団の中でもトップクラスであり、彼が軍事・政務の両面で極めて重要な役割を期待されていたことを如実に物語っています。氏家守棟の後継者としての期待、そして義光の娘婿という立場が、このような厚遇に繋がったと考えられます。最上義光は、氏家家の伝統的な役割と光氏個人の能力を高く評価し、彼を自らの支配体制を支える重要な柱の一つとして明確に位置づけたのです。この一連の措置は、有能な家臣を抜擢し、血縁と恩賞によってその忠誠心を確固たるものにしようとする、戦国大名特有の人材登用策の典型例と言えるでしょう。

2. 慶長出羽合戦における奮戦

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、これに呼応した会津の上杉景勝が、徳川家康方に与した最上義光の領国である出羽国に大軍を率いて侵攻しました。これが慶長出羽合戦であり、最上家は存亡の危機に立たされました 6 。この国難に際して、氏家光氏は最上軍の主力として奮戦することになります。

上杉軍の総大将・直江兼続が率いる大軍は、最上領深くに破竹の勢いで侵攻し、最上氏の重要拠点である長谷堂城を包囲しました。長谷堂城は山形城の西を守る最後の砦であり、ここが陥落すれば山形城も危うくなるという戦略的に極めて重要な拠点でした。氏家光氏は、この長谷堂城の救援部隊として出陣し、上杉軍と激しく戦ったとされています 7 。長谷堂城では、城主・志村光安らが寡兵ながらも上杉軍の猛攻を半月以上にわたり耐え抜きました 15 。この粘り強い籠城戦と、光氏ら救援部隊の奮戦、さらには関ヶ原本戦における東軍勝利の報などが複合的に作用し、最終的に上杉軍は撤退を余儀なくされ、最上家は危機を脱しました。

光氏の具体的な戦功については、史料によって記述に若干の差異が見られます。ある資料 (戦国観光やまがた情報局) によれば、光氏はこの戦いの功績により長谷堂城を賜ったとされています 7 。しかし、同サイトの別記事や他の資料では、長谷堂城は戦後に志村光安から坂光秀に引き継がれたとの記述も見られます 7 。また、光氏の実父である成沢道忠もこの長谷堂合戦に参陣し、志村光安と共に活躍したとされており 8 、光氏が父と共に、あるいは別動隊を率いて奮戦した可能性も考えられます。この時期の「氏家尾張守」の活躍が、養父・守棟のものなのか、あるいは光氏自身のものなのか、慎重な検討が必要な部分もありますが、いずれにせよ、光氏がこの最上家の存亡をかけた戦いにおいて重要な役割を果たしたことは間違いありません。この危機的状況下で信頼され、最前線に送られたという事実は、彼の軍事的能力と主君からの期待の大きさを物語っています。

3. 主君・最上義光からの信任

最上義光が氏家光氏に寄せた信任の厚さは、これまでに述べた数々の事実からも明らかです。宿老への抜擢、1万8千石という家臣団の中でも屈指の高禄の付与、そして自身の娘である竹姫を嫁がせたという事実は 3 、義光が光氏を単なる一武将としてではなく、自らの片腕として、また一族の一員として遇していたことを示しています。

人物評としても、「勇猛果敢」かつ「知略に長けた」武将であったと伝えられており 7 、義光が光氏の多岐にわたる能力を高く評価していたことがうかがえます。養父・氏家守棟が「知略」の人であったのに対し、光氏には「勇猛」という側面も強調されており、両者の長所を兼ね備えた武将であった可能性も考えられます。最上義光は、その鋭い洞察力で数々の戦国武将を評価し、登用してきた人物です。そのような義光が、氏家守棟の後継者として光氏を選び、さらに自らの娘婿として迎え入れ、家中の最高幹部の一人に据えたという事実は、光氏がそれだけの器量と忠誠心を備えた人物であったことの証左と言えるでしょう。これは単なる個人的な寵愛ではなく、最上家の将来を見据えた上での戦略的な人材配置であり、光氏への深い信頼なくしてはあり得ない処遇でした。

第三部:最上義光没後の動静と最上家の改易

戦国の梟雄と称された最上義光の死は、最上家にとって大きな転換点となりました。氏家光氏は、義光亡き後の混乱期において、引き続き重臣として最上家に仕えましたが、やがて家は改易という悲運に見舞われます。

1. 最上家親・義俊への奉公と領国治政

出羽国に一大勢力を築き上げた最上義光が慶長19年(1614年)に死去すると 3 、最上家は新たな指導者の下で領国経営を行っていくことになります。氏家光氏は、義光の跡を継いだ最上家親(もがみ いえちか)、さらにその子である最上義俊(もがみ よしとし)の二代にわたり、引き続き宿老として仕えました。

義光というカリスマ的な指導者を失った後の最上家では、家督相続や家臣団の統制が大きな課題となりました。このような状況下で、光氏は最上領国内の政務を担当し 3 、特に家督相続などに伴う家中の混乱を制御すべく尽力したと記録されています 3 。これは、光氏が単なる武勇に優れた武人としてだけでなく、複雑な領国統治や家中調整といった行政手腕にも長けた人物であったことを示しています。義光の時代にはその武勇や知略が戦場で発揮されることが多かったかもしれませんが、義光没後は、より内政面での手腕が求められるようになり、光氏はその期待に応えようとしたと考えられます。特に、家親、義俊といった若い当主たちにとって、義光時代からの宿老である光氏の存在は、政務運営における安定と継続性を保つ上で不可欠だったでしょう。

2. 最上家中の混乱と光氏の役割

しかし、最上義光という絶対的な求心力を失った最上家中は、その後、家督相続を巡る混乱が頻発し、不安定な状況が続くことになります。義光の後を継いだ家親が元和3年(1617年)に急死する 16 など、指導者の相次ぐ交代は家臣団の動揺を招きました。当時の最上家の主要な一族や家臣の状況を伝える史料 16 からは、家中の複雑な力関係や潜在的な対立構造をうかがい知ることができます。

このような困難な状況下で、氏家光氏は「家中の混乱を制御しようと努力」したとされています 3 。具体的な行動については史料からは詳細を明らかにすることは難しいものの、宿老という立場から、対立する派閥間の調停役を務めたり、幼い当主を補佐して家中秩序の維持に奔走したりしたことが推察されます。しかし、最上義俊の代になると、いわゆる「最上騒動」と呼ばれる深刻な内紛が表面化し、これが最終的に最上家改易の大きな要因の一つとなりました。この騒動において、光氏が具体的にどのような立場を取り、どのように関与したかについての直接的な史料は見当たりません。しかし、彼が混乱の収拾に努めたという一貫した記述は、彼が最後まで最上家の安定と存続のために尽力したものの、その努力もむなしく、家中の分裂という大きな流れを押しとどめることはできなかったことを示唆しています。最上騒動は、単一の家臣の力ではどうにもならないほど根深い対立や、幕府の介入といった外部要因も絡んだ複雑な事態であったと考えられ、光氏の苦衷が偲ばれます。

3. 最上家の改易

元和8年(1622年)8月21日、最上家は江戸幕府により改易を命じられました 3 。かつて最上義光の下で57万石を領する大大名であった最上氏の所領は没収され、山形藩は消滅しました 18 。この改易により、氏家光氏も長年仕えた主家を失い、禄を離れ、いわゆる浪人の身となりました。

最上家の改易は、光氏をはじめとする多くの最上家臣にとって、まさに青天の霹靂であり、その生活基盤と武士としてのアイデンティティを根底から揺るがす大事件でした。特に光氏は、宿老の地位にあり、主君の娘婿という特別な立場にあったため、その衝撃は計り知れないものがあったでしょう。長年にわたり築き上げてきた地位、名誉、そして生活の全てが一瞬にして失われたのです。この出来事は、戦国時代が終焉し、徳川幕府による全国支配体制が確立していく過程で、多くの大名家が経験した盛衰の一例であり、その中で翻弄される家臣たちの過酷な運命を象徴しています。光氏にとって、ここから新たな生き残りの道を探る厳しい試練が始まることになります。

第四部:最上家改易後の光氏とその一族

主家である最上家の改易という大きな転機を迎えた氏家光氏でしたが、彼の武士としての道が完全に閉ざされたわけではありませんでした。彼は子息と共に新たな仕官先を見出し、氏家家の血脈を後世に繋ぐことに成功します。

1. 毛利家への仕官

最上家が改易された後、氏家光氏は息子の親定(ちかさだ)と共に、長州藩主である毛利氏に預けられ、そのまま仕官することになりました 3 。この仕官が実現したのは、元和8年(1622年)の最上家改易以降、比較的早い段階であったと考えられます。

「毛利氏に預けられて仕官」という表現は、単に浪人となった光氏親子が自力で仕官先を探し当てたというよりも、何らかの仲介や幕府の斡旋、あるいは毛利家側からの働きかけがあった可能性を示唆しています。最上家は大大名であり、その宿老であった光氏の能力や名声は他藩にも知られていた可能性があります。また、改易された大名の有力家臣が、幕府の指示や有力大名の計らいによって他の大名家に預けられるという事例は、江戸時代初期にはしばしば見られました。光氏の場合も、その経歴や最上家での地位が考慮され、長州藩という西国有数の大藩への仕官が実現したのかもしれません。これは、光氏が単なる一介の浪人ではなく、一定の評価と人脈を持つ人物であったことの証左と言えるでしょう。

しかし、毛利家に仕官した後の光氏自身の具体的な活動や、正確な没年、墓所の所在地などに関する詳細な記録は、現時点の資料からは乏しい状況です。一部の資料では「生卒年不詳」とされており 1 、長州藩での彼の晩年については、今後の研究による解明が待たれます。

2. 子・氏家親定と長州藩士としての氏家家

氏家光氏の子である氏家親定(うじいえ ちかさだ)は、父と共に毛利家に仕え、長州藩士として氏家家の新たな歴史を刻みました。親定は文禄4年(1595年)の生まれとされており 17 、最上家臣時代には、祖父にあたる最上義光、伯父の最上家親、そして従兄弟にあたる最上義俊の三代に仕えたと記録されています 17

最上家改易後、父・光氏と共に長州藩へ移り住んだ親定は、寛永2年(1625年)8月13日、長州藩初代藩主・毛利秀就(もうり ひでなり)から周防国吉敷郡恒富村(現在の山口県山口市の一部)に500石の知行を与えられ、正式に毛利氏家臣となりました 17 。この500石という禄高は、新たに召し抱えられた外様家臣としては決して低いものではなく、毛利家が氏家親子、特に将来を担う親定の能力に期待を寄せていたことがうかがえます。親定はその後、寛永15年(1638年)4月12日に44歳で死去し、その跡は子の就棟(なりむね)が継ぎました 17

氏家光氏と親定親子が毛利家に仕官したことにより、かつて最上家の重臣であった氏家家は、長州藩士として家名を保ち、幕末まで存続したことが確認されています 3 。長州藩の公式な藩士の系譜や由緒をまとめた史料である『萩藩閥閲録』には、「氏家」という家名が記載されており [ 8 (3.1)]、これが光氏の子孫の家系であると強く推測されます。この史料を詳細に調査することで、長州藩における氏家家の具体的な活動や家系の変遷について、さらに多くの情報が得られる可能性があります 19 。主家の改易という困難を乗り越え、新たな土地で家名を後世に伝えた氏家家の事例は、戦国時代から江戸時代への移行期における武士の生き方の一端を示すものとして注目されます。

第五部:人物像の考察

氏家光氏の生涯を追っていく中で、断片的ながらも彼の人物像をうかがわせるいくつかの評価や行動が見えてきます。これらを総合的に考察することで、光氏がどのような武将であったのか、その一端に迫ることができるでしょう。

史料からうかがえる光氏への評価として、まず最上家臣時代においては、「勇猛果敢」であり「知略に長けた」武将であったと評されています 7 。これは、彼が戦場において臆することなく敵に立ち向かう武勇と、状況を的確に判断し策を巡らす知謀を兼ね備えていたことを示唆します。また、主君・最上義光から宿老の地位と1万8千石もの厚遇を受けていたという事実は 3 、その能力が周囲から高く評価され、主君からの深い信頼を得ていたことの何よりの証です。

義光没後には「国内の政務を担当」し、「家中の混乱を制御しようと努力」したという記述 3 からは、単なる武人としてだけでなく、領国経営や家中統制といった政治的な手腕も持ち合わせていたことが推察されます。特に、主君の代替わりや家中の対立といった困難な状況において、秩序を維持し、安定を図ろうとしたその姿勢には、強い責任感と統治能力、そして困難に立ち向かう精神力がうかがえます。一部には「領民からも慕われ、善政を敷いた」との評価も見られますが 7 、具体的な善政の内容を示す史料は現時点では確認できないため、これは武将に対する一般的な称賛の言葉である可能性も考慮に入れる必要があります。

養父である氏家守棟が、その卓越した智謀から「謀将」として名高いのに対し 4 、光氏には「奮戦する」(利用者提供情報)や「勇猛果敢」 7 といった武勇を前面に出した評価が目立ちます。しかし同時に、義光没後の「政務を担当」 3 という記述は、彼が行政官としての一面も持っていたことを示しています。これは、守棟の戦略眼や知謀を受け継ぎつつも、光氏自身は実戦での指揮や領国経営といったより実践的な分野で能力を発揮した、バランスの取れた武将であった可能性を示唆しています。

また、光氏が養父・守棟と同じ「尾張守」の官途名を名乗ったこと 4 も、彼の人物像を考える上で興味深い点です。これは単なる偶然ではなく、守棟の正統な後継者としての自負、あるいは周囲からの期待の表れであったと考えられます。この官途名を名乗ることで、守棟が築き上げた名声や影響力を引き継ぎ、最上家における氏家氏の伝統的な役割を全うしようとする意志があったのかもしれません。

これらの点を総合すると、氏家光氏は、戦国武将に求められる武勇と知略を兼ね備え、さらに領国経営にも通じた多才な人物であったと推測されます。主家の危機には身を挺して戦い、平時においては領国の安定に尽力し、そして主家改易という逆境にあっても新たな道を切り拓き家名を存続させたその生涯は、激動の時代を生きた武士の強靭さと適応力を示していると言えるでしょう。

第六部:結論

本報告では、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・氏家光氏の生涯と事績について、現存する史料に基づいて詳細な調査を行いました。

氏家光氏は、成沢道忠の子として生まれ、後に最上家の重臣・氏家守棟の養子となり、その名跡と「尾張守」の官途名を継承しました。主君・最上義光の下では、義光の娘・竹姫を娶り、宿老として1万8千石という厚遇を受け、軍事・政務の両面で重用されました。特に慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦においては、上杉景勝軍の侵攻という最上家の未曽有の危機に際し、長谷堂城救援などで奮戦し、その武勇を示しました。

最上義光の没後は、後継の家親・義俊の二代に仕え、混乱する家中の安定と領国経営に尽力しました。しかし、元和8年(1622年)、最上家は内紛などを理由に改易され、光氏も禄を失います。この悲運に見舞われた後も、光氏は子・親定と共に長州藩主毛利氏に仕官し、氏家家の血脈を後世に繋ぐことに成功しました。

氏家光氏の生涯は、戦国乱世の終焉から江戸幕藩体制の確立期という、日本史における大きな転換点を生き抜いた武士の一つの典型を示しています。彼は、主家の興隆と衰退、そして自身の立場の変化という激動の中で、常に重責を担い、困難に立ち向かい続けた人物であったと言えます。

歴史的に見れば、氏家光氏は、最上家の全盛期から改易に至るまでの重要な時期に、家臣団の中核として活動した人物として評価できます。彼の存在は、最上家臣団の構成や、戦国大名家における宿老クラスの家臣が果たした役割を具体的に理解する上で貴重な事例を提供します。また、主家改易後に新たな仕官先を見出し、家名を後世に伝えたことは、当時の武士の処世術や家意識のあり方を考える上で示唆に富んでいます。

本報告では、現存する史料に基づいて氏家光氏の生涯を概観しましたが、なお不明な点も多く残されています。特に、毛利家仕官後の光氏自身の具体的な活動内容、正確な没年や墓所の特定などは、今後の研究課題と言えるでしょう。長州藩の藩政史料、とりわけ『萩藩閥閲録』の更なる詳細な分析や、関連する地方史料、古文書の発掘・研究が進められることにより、氏家光氏の実像がより一層明らかになることが期待されます。

第七部:参考文献

本報告を作成するにあたり参照した、あるいは今後の調査で重要となる可能性のある主要史料および資料は以下の通りです。

  • 古文書・編纂史料 :
  • 『萩藩閥閲録』( 8 (3.1) などで言及。山口県文書館所蔵のものが中心となる)
  • 『最上義光記』( 7 で言及。最上義光歴史館関連資料の可能性)
  • 『最上家譜』( 7 で言及。同様に最上義光歴史館関連資料の可能性)
  • 軍記物語 :
  • 『奥羽永慶軍記』(戸部正直著。 5 などで言及。史料批判が必要)
  • 現代の研究・資料 :
  • 各関連人物・事項に関するWikipedia記事(例:氏家光氏、氏家守棟、最上義光、成沢道忠、氏家親定、慶長出羽合戦など。 1 など)
  • 「戦国観光やまがた情報局」ウェブサイト (sengoku.oki-tama.jp) 7
  • 「最上義光歴史館」ウェブサイト (mogamiyoshiaki.jp, sp.mogamiyoshiaki.jp) 5
  • その他、各出典情報に記載されているURLおよびその発行元資料。

引用文献

  1. 氏家光氏- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E5%85%89%E6%B0%8F
  2. 氏家光氏- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E5%85%89%E6%B0%8F
  3. 氏家光氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E5%85%89%E6%B0%8F
  4. 氏家守棟 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E5%AE%88%E6%A3%9F
  5. 最上義光歴史館/最上家をめぐる人々 19 【志村伊豆守光安/しむらいずのかみあきやす】 https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=151097
  6. 「武士の時代 中世庄内のつわものたち」 - 酒田市 https://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/siryoukan/kikakuten201-.files/0203.pdf
  7. 最上家の武将たち:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光 ... https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=149233
  8. 成沢城跡公園あれこれ 沢城出土の脇差 (個人蔵) - 山形市 https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/675/narisawa.pdf
  9. 氏家氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E6%B0%8F
  10. 最上家の歴史と武具(刀剣・甲冑)/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/30362/
  11. 最上義光の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/50952/
  12. 最上義光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89
  13. 山形県米沢市に活動拠点を置く戦国武将隊 https://ainobushoutai.jp/free/profile
  14. 最上家の武将たち:大河ドラマ「天地人」直江兼続 - samidare http://samidare.jp/naoe/m/?p=log&l=149233
  15. 古城の歴史 長谷堂城 http://takayama.tonosama.jp/html/hasedo.html
  16. 最上家をめぐる人々 13 【最上源五郎家信/もがみげんごろういえのぶ】 - 最上義光歴史館 https://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=121435
  17. 氏家親定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E5%AE%9A
  18. 最上氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E6%B0%8F
  19. 大 内 氏 受 発 給 文 書 目 録 - 山口市 https://www.city.yamaguchi.lg.jp/uploaded/attachment/93498.pdf
  20. 閥閲録 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A5%E9%96%B2%E9%8C%B2
  21. 閥閲録 - 所蔵文書検索 – 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/cls_search/301
  22. 山形おきたま観光協議会 - 戦国観光やまがた情報局 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=listlog&c=&kw=&off=1540
  23. 最上氏と最上義光 - 最上義光歴史館 https://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=history1
  24. 長州藩(萩藩)家臣のご先祖調べ - 家系図作成からご先祖探しの専門サイト https://www.kakeisi.com/han/han_hagi.html