氏家守棟が生きた時代は、日本史における未曾有の変革期、すなわち戦国時代から安土桃山時代へと移行する激動の最中であった。守棟の活動が活発であった16世紀中葉から後半にかけて、室町幕府の権威は完全に失墜し、日本各地では有力な戦国大名が群雄割拠し、旧来の秩序を破壊する下剋上の風潮が蔓延していた。このような混乱の中から、織田信長、そして豊臣秀吉といった傑出した人物が登場し、天下統一事業を推し進めていくことになる。守棟の生涯は、まさにこの時代の大きなうねりの中で展開された。
特に、守棟の当初の活動拠点であった美濃国は、地政学的に極めて重要な位置を占めていた。京と東国を結ぶ交通の要衝であり、経済的にも軍事的にも戦略的価値が高かったため、常に周辺勢力の争奪の的となった。この複雑な情勢下にあって、美濃の武将たちは度重なる主家の変転や、厳しい政治的選択を迫られることとなった。守棟もまた、その例外ではなかった。
本報告書は、氏家守棟という一武将の生涯と事績を詳細に追跡し、分析することを目的とする。彼の生涯を丹念に検証することを通じて、戦国時代の武将が置かれた状況、彼らが下した主家選択の論理、在地領主としての動態、そして中央集権体制が形成されていく過程における地方勢力の役割といった、より広範な歴史的テーマについて具体的な考察を深めることを目指す。守棟は、美濃の斎藤氏、尾張から興った織田氏、そして天下人となった豊臣氏という、三つの大きな権力に仕えた稀有な経歴を持つ。その生涯の軌跡は、戦国武将の処世術、時代の変化への適応、そして時には非情なまでの現実主義的判断を示す好個の事例と言えよう。
守棟の生涯を考察する上で重要なのは、彼が単なる一介の武将として歴史の波に翻弄されただけでなく、時代の転換期において能動的に自らの、そして一族の運命を切り開こうとした点である。斎藤氏という美濃の旧体制から、新興の織田氏、さらには全国規模の統一政権を樹立した豊臣氏へと主君を変遷させた守棟の行動は、一見すると変節と映るかもしれない。しかし、これを戦国乱世という極限状況下における生存戦略、そして一族の繁栄を希求する上での合理的な判断と捉え直すことで、当時の武将たちが抱えていたリアリズムや、時代の変化に対する鋭敏な感覚を浮き彫りにすることができる。旧体制が崩壊し、新たな秩序が模索される激動期において、個人や家がいかにして生き残り、新たな社会構造の中で確固たる地位を築こうとしたのか、守棟の生涯はその縮図とも言えるのである。
さらに、守棟を含む「美濃三人衆」と称された有力国衆の動向は、単に美濃一国の帰趨を左右したに留まらず、織田信長の天下統一事業の初期段階において、決定的な影響を与えた可能性を再評価する必要がある。美濃は信長にとって、上洛を果たし天下に号令するための最初の、そして最大の障壁の一つであった。この美濃攻略の成否は、稲葉良通(一鉄)、安藤守就、そして氏家守棟ら、在地に深く根を張る国衆たちの向背に大きく依存していたと考えられる。彼らが最終的に信長に与したという事実は、信長の美濃平定を決定づけ、その後の破竹の勢いでの上洛と勢力拡大の強固な基盤を築いたと言っても過言ではない。このように、美濃の地方勢力の選択が、中央政局の力学にまで連鎖的な影響を及ぼしたという視座を持つことは、戦国史の理解をより深める上で不可欠である。
氏家氏の出自については、諸説が存在するが、江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』などの系図資料を参照すると、清和源氏の流れを汲む土岐氏の一族、あるいはそれに連なる家系であったとする説が有力視されている。ただし、戦国時代の武家の系譜には後世の潤色や仮託も多く見られるため、その信憑性については慎重な検討を要する。いずれにせよ、氏家氏は美濃国において古くから勢力を持った一族であったと考えられ、その本拠地は主に大垣城周辺、あるいはその近隣地域であったと推定される。この地域は濃尾平野の西部に位置し、農業生産力も高く、また交通の要衝でもあったため、氏家氏が在地領主として経済的・軍事的な基盤を確立する上で有利な条件を備えていた。
氏家守棟の正確な生年は史料上明らかではない。しかし、後年の活動記録や没年から逆算すると、おおよそ享禄年間(1528年~1532年)から天文年間(1532年~1555年)初頭にかけての生まれではないかと推測される。幼名や元服の時期に関する具体的な記録も乏しいが、当時の美濃国は守護であった土岐氏の内部で権力闘争が頻発し、その混乱に乗じて斎藤道三が台頭するなど、極めて不安定な情勢下にあった。守棟は、このような下剋上の嵐が吹き荒れる環境の中で成長し、武将としての素養を磨いていったものと思われる。青年期の具体的な戦功や活動については不明な点が多いものの、在地領主の子弟として、家督を継承するための教育を受け、武芸に励んでいたことは想像に難くない。
氏家守棟が歴史の表舞台にその名を現し始めるのは、美濃国主斎藤道三、及びその子・義龍の時代である。特に、道三とその嫡男・義龍との間で行われた権力闘争、すなわち弘治2年(1556年)の長良川の戦いは、美濃国衆の動向を大きく左右する出来事であった。この政変に際して、守棟がどのような立場を取ったかについては、詳細な一次史料に乏しく断定は難しいものの、結果的に義龍方に与し、その後の義龍政権下で重用されたと考えられる。軍記物などの記述によれば、守棟は義龍の主要な家臣として、その武勇と知略をもって貢献したとされる。この時期の守棟の具体的な知行高や役職については判然としない部分もあるが、斎藤家における彼の地位は着実に上昇し、美濃国内における有力武将の一人として認識されるようになっていった。
守棟の初期の経歴を考察する上で見逃せないのは、彼が美濃の有力な在地領主、すなわち国衆としての性格を色濃く有していたという点である。戦国時代の国衆は、主家に対して一定の忠誠を誓いつつも、自家の勢力維持と拡大という固有の利害を追求する存在であった。彼らは完全に主家に隷属するのではなく、状況に応じて自立的な行動を取ることも少なくなかった。斎藤道三から義龍への代替わりのような主家の内訌は、国衆にとって自家の立場をより有利にする好機であると同時に、選択を誤れば没落に繋がりかねない危険な局面でもあった。守棟がこの時期にどのような政治的判断を下し、行動したのか、例えば義龍方に早期に与することで信頼を得たのか、あるいは情勢を見極めつつ慎重に行動したのかは、彼の政治的嗅覚やリスク管理能力を測る上での重要な指標となる。
また、斎藤家内部の権力構造や、他の美濃有力国衆、特に後に「美濃三人衆」として共に名を連ねることになる稲葉良通(一鉄)や安藤守就といった人物たちとの関係性も、守棟の初期の地位形成に影響を与えたと考えられる。美濃国内には複数の有力な国衆が存在し、彼らは互いに競争しつつも、時には共通の利害のために連携するという複雑な関係にあった。守棟が斎藤家中で頭角を現していく過程には、こうした他の国衆との力関係や、主君からの個人的な信頼の獲得が不可欠であったはずである。彼が特定の派閥に属していたのか、あるいは巧みなバランス感覚で中立的な立場を保っていたのか、その政治的スタンスは、後の「美濃三人衆」としての活動の伏線となっていた可能性も否定できない。
斎藤義龍が永禄4年(1561年)に急逝すると、その子である龍興が若年で家督を継承した。しかし、龍興の治世は内外に多くの課題を抱えることとなる。国内では、父義龍ほどの統率力を発揮できず、家臣団の動揺を招いた。国外からは、尾張の織田信長による美濃への圧力が日増しに強まっていた。このような困難な状況下で、氏家守棟は、稲葉良通、安藤守就と共に「美濃三人衆」と称され、龍興政権を軍事・政治の両面で支える中心的な役割を担うこととなった。彼らは、対織田戦線の防衛において重要な働きをし、また、若き主君を補佐して国政にも関与したと推測される。この時期、三人衆の連携は美濃の維持にとって不可欠なものとなりつつあった。
織田信長は、斎藤道三の娘婿という立場も利用しつつ、美濃攻略を執拗に繰り返した。信長の侵攻は年々激しさを増し、美濃国内の諸城は次々とその支配下に置かれていった。これに対し、氏家守棟ら美濃三人衆は、斎藤龍興を擁して頑強に抵抗を続けた。しかし、信長は軍事力による攻略と並行して、巧みな調略活動を展開し、美濃三人衆を含む斎藤家家臣団の切り崩しを図った。信長からの内通工作は、三人衆にとっても無視できないものであったろう。主君龍興の器量への不安、長期化する戦いによる疲弊、そして信長の提示するであろう魅力的な条件などを前に、守棟をはじめとする三人衆の内部では、斎藤家への忠誠と自家の将来との間で、深刻な葛藤が生じていた可能性が高い。単に軍事的な抵抗を続けるだけでなく、将来を見据えた戦略的思考、すなわち斎藤氏と共に滅びるか、あるいは新たな覇者となり得る信長に与するかの選択が、彼らに迫られていた。
永禄10年(1567年)8月、織田信長による大規模な美濃侵攻が行われ、斎藤氏の本拠地である稲葉山城(後の岐阜城)はついに陥落した。この決定的な戦いに至る過程で、氏家守棟、稲葉良通、安藤守就の美濃三人衆は、斎藤龍興を見限り、織田信長に内通したとされる。『信長公記』などの史料には、彼らが信長に降ったことが稲葉山城攻略を容易にしたと記されている。斎藤氏の滅亡という現実は、守棟及び氏家氏にとって、これまでの主家を失うという大きな転換点であったと同時に、新たな主君の下で生き残りを図るための次なる行動への出発点ともなった。
斎藤龍興の若年や、一部で指摘される器量不足が、守棟ら美濃三人衆の離反を招いた一因であるという見方は根強い。主君の指導力は、家臣団の結束を維持する上で極めて重要である。龍興が父義龍や祖父道三のような強力なリーダーシップを発揮できなかったとすれば、家中の不満や将来への不安が増大したことは想像に難くない。加えて、織田信長は調略に長けた武将であり、美濃三人衆のような国内に大きな影響力を持つ有力者に対しては、本領安堵やそれ以上の厚遇といった、彼らの心を揺さぶるに足る条件を提示したであろう。龍興政権の弱体化と、信長の巧みな調略が複合的に作用した結果、三人衆は斎藤氏を見限り、信長に与するという決断に至ったと考えられる。これは、単なる裏切り行為として断じるべきではなく、戦国乱世において自らの家と領民を守り、さらには発展させるための、彼らにとっては最も合理的な選択であった可能性が高い。
また、「美濃三人衆」という国衆連合の実態と、その限界についても注目すべきである。彼らは、織田信長の侵攻という共通の危機に対しては、斎藤氏を支えるために一時的に結束し、重要な役割を果たした。しかし、その連合は永続的なものではなく、最終的には個々の家の存続と利益を優先する形で、信長への帰順という形で分裂(あるいは共同での鞍替え)した。この事実は、戦国時代の国衆連合が、いかに流動的で、より強力な中央集権的な権力(この場合は織田信長)の出現に対して脆弱であったかを示している。三人衆は共通の危機に直面してはいたものの、それぞれの家が独自の利害関係と将来展望を持っていた。信長が提示する条件が、個々の家にとって斎藤氏に殉じるよりも魅力的であると判断されれば、連合よりも個別の交渉や共同での帰順を優先する動機が生まれるのは自然な流れであった。この事例は、戦国時代の同盟関係や主従関係が、絶対的なものではなく、常に状況に応じて変化し得るものであったことを如実に物語っている。
ここで、氏家守棟の生涯を理解する上で重要な関連人物を整理しておくことは有益であろう。
氏家守棟 関係主要人物一覧
人物名 |
守棟との関係 |
主要な関わり |
備考 |
斎藤道三 |
旧主君 |
美濃国主、長良川の戦い |
守棟の初期の主君の一人。 |
斎藤義龍 |
旧主君 |
道三の子、長良川の戦いで父を破る |
守棟は義龍政権下で重用されたとされる。 |
斎藤龍興 |
旧主君 |
義龍の子、織田信長により滅ぼされる |
守棟ら美濃三人衆が離反。 |
織田信長 |
新主君 |
尾張の戦国大名、天下統一を進める |
美濃攻略後、守棟を家臣として登用。 |
稲葉良通(一鉄) |
同僚(美濃三人衆)、織田家臣 |
共に斎藤氏に仕え、後に信長に帰順 |
美濃三人衆の一角として、守棟と行動を共にすることが多かった。 |
安藤守就 |
同僚(美濃三人衆)、織田家臣 |
稲葉良通と同様 |
後に信長により追放される。 |
豊臣秀吉 |
新主君 |
信長の後継者、天下人 |
本能寺の変後、守棟は秀吉に仕え、伊勢へ移封。 |
氏家行広 |
嫡男 |
守棟の後継者 |
関ヶ原の戦いで西軍に与し改易。 |
この表は、守棟が仕えた主君の変遷や、同僚との関係性を概観する助けとなり、彼のキャリアがどのような権力構造の中で形成されていったのかを理解する一助となる。特に美濃三人衆の他の二人との関係は、守棟の政治的・軍事的行動を読み解く上で不可欠である。
永禄10年(1567年)の稲葉山城陥落と斎藤氏の滅亡を受け、氏家守棟は織田信長に帰順した。この帰順は、稲葉良通、安藤守就といった他の美濃三人衆と共同歩調を取って行われたものと考えられている。『信長公記』などの同時代史料によれば、彼らの帰順は信長の美濃平定を決定的なものにしたとされる。信長は、長年の宿敵であった斎藤氏の旧臣である彼らを、その実力を評価して積極的に登用した。この背景には、美濃国内の安定化を迅速に達成し、さらなる勢力拡大のための戦力を確保するという、信長の合理的な判断があった。帰順の条件としては、旧領の一部安堵や新たな知行地の付与などがあったと推測されるが、これにより守棟らは織田家臣団の一翼を担うこととなった。
織田信長配下となった後も、氏家守棟、稲葉良通、安藤守就は「美濃三人衆」として一体的に扱われることが多かった。彼らは、信長の主要な合戦に動員され、美濃衆として一定の軍事力を提供した。例えば、近江攻めや伊勢攻めなど、信長の勢力拡大に伴う各地の戦線で、その名が見られる。また、美濃国内の統治においても、彼らは信長の意向を受けて一定の役割を果たしたと考えられる。三人衆の内部関係については、常に協調的であったとは限らず、時には競争関係や潜在的な対立も存在した可能性が指摘される。信長は、彼らのような有力な国衆を効果的に活用しつつも、彼らが過度に結束して新たな脅威となることを警戒し、巧みに統制していたと考えられる。例えば、それぞれを異なる方面軍に配属したり、相互に牽制させたりするような配置を行うことで、その力を分散させつつ利用した可能性が考えられる。これは、信長の高度な政治手腕を示す一端と言えるだろう。
氏家守棟は、織田信長の下で数々の重要な合戦に参加し、武功を挙げたとされる。元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、浅井・朝倉連合軍との激戦において奮戦した。また、天正年間(1573年~1592年)にかけて行われた伊勢長島一向一揆の平定戦や、石山本願寺との戦い(石山合戦)など、信長政権の安定化にとって極めて重要な戦いにも、美濃衆の主力として参加した記録が残されている。これらの戦いにおける守棟の具体的な役割や戦功は、個々の戦闘の記録が詳細でないため必ずしも明確ではないが、継続して信長の主要な軍事行動に動員されていることから、その武将としての能力が高く評価され、信頼を得ていたことが窺える。これらの戦功は、信長政権下での守棟の地位向上や、後の知行加増にも繋がったと考えられる。
織田信長に仕えた氏家守棟は、美濃国内に知行地を与えられた。その具体的な場所や石高については諸説あるが、旧領の一部を安堵される形で、引き続き美濃に拠点を置いていたとされる。軍事面では、一軍の将として兵を率いるだけでなく、方面軍の指揮官(例えば柴田勝家や羽柴秀吉など)の与力として配属され、その指揮下で活動することもあった。軍事以外では、美濃国内の安定化や、占領地の統治に関わる行政的な役割も担った可能性が考えられるが、詳細な記録は乏しい。信長政権下での守棟は、美濃出身の有力武将として、軍事力を提供する重要な存在であったと言える。
信長が守棟ら美濃三人衆を旧敵でありながら重用した事実は、彼の実力主義と合理的な人材登用策の現れと解釈できる。斎藤氏は長年の宿敵であったが、その滅亡後、信長は美濃の有力国衆である三人衆を積極的に登用した。これは、彼らの実力や地元での影響力を正当に評価し、敵対勢力を取り込むことで支配を円滑に進めようとする信長の戦略的判断を反映している。この方針は、後の武田氏旧臣の登用などにも見られる信長政権の特色であり、守棟らの事例はその初期の成功例として位置づけられる。これにより、信長は美濃の安定化を迅速に達成し、上洛後のさらなる勢力拡大のための強固な基盤を築くことができたのである。
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が京都本能寺において家臣の明智光秀に討たれるという衝撃的な事件(本能寺の変)が発生した。この時、氏家守棟がどの方面にいたか、誰の指揮下にあったかなど、具体的な状況を示す史料は必ずしも多くない。しかし、信長の死によって織田政権が崩壊の危機に瀕する中、守棟もまた、自らの進退について重大な決断を迫られたことは間違いない。明智光秀に与するのか、中国地方から急遽帰還した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に接近するのか、あるいは柴田勝家や織田信孝といった他の織田家有力者の動向を見極めるのか、極めて難しい選択であった。
本能寺の変後の混乱期を経て、山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉が急速に台頭し、織田家中の主導権を掌握していった。清洲会議などを経て織田家の勢力図が再編される中で、氏家守棟は最終的に秀吉に臣従する道を選んだ。その具体的な時期や経緯については詳細不明な点もあるが、多くの織田旧臣と同様に、新たな実力者である秀吉の下で生き残りを図ったものと考えられる。秀吉政権下において、守棟は天正13年(1585年)頃、あるいはそれ以降に、美濃から伊勢国桑名郡(現在の三重県桑名市周辺)に2万石余(一説には2万2千石)で移封されたとされる。この伊勢への移封は、守棟のキャリアにとって大きな転機であった。長年拠点としてきた美濃を離れることは、在地領主としての性格を薄め、豊臣大名として中央政権に完全に組み込まれていくことを意味した。
伊勢に移封された後の氏家守棟の具体的な活動については、史料が限られている。しかし、豊臣政権下の大名として、領内統治に努めたことは想像に難くない。検地の実施や、それに伴う新たな知行割、年貢収取体制の整備などが考えられる。また、天正18年(1590年)の小田原征伐や、その後の奥州仕置など、秀吉の天下統一事業における主要な軍事行動にも、一手の軍勢を率いて従軍した可能性が高い。戦国時代を生き抜いてきた武将としての経験を活かし、伊勢の新たな領地において、軍事・行政の両面で豊臣政権に貢献したと推測される。
氏家守棟の没年については、天正19年(1591年)説や慶長元年(1596年)説など諸説あるが、正確な日付や死因、墓所については確実な史料に乏しい。伊勢桑名においてその生涯を閉じたとされる。守棟の死後、家督は嫡男の氏家行広(後に直元と改名)が継承した。行広は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍(石田三成方)に与し、主力として奮戦したが、西軍の敗北により戦後改易処分となった。これにより、大名としての氏家氏は一旦断絶することとなる。ただし、行広の子孫は後に他家へ仕官するなどして家名を存続させたとも伝えられる。
本能寺の変という未曾有の危機的状況において、守棟が最終的に秀吉に接近し、豊臣政権下でも一定の地位を保持できたことは、彼の優れた適応能力と政治的判断力を示している。本能寺の変は、多くの武将にとって誰に味方すべきか、極めて難しい判断を迫られる状況であった。有力な庇護者を失い、先の見えない混乱の中で、守棟が情勢を的確に読み、新たな覇者となり得る秀吉の下で生き残ったという事実は、彼が単なる武勇だけの武将ではなく、激動の時代を乗り切るための政治的嗅覚と現実的な判断力を備えていたことを物語っている。
伊勢への移封は、一見すると旧領美濃からの引き剥がしであり、勢力の削減や中央からの統制強化という側面があったかもしれない。しかし同時に、豊臣政権という新たな全国規模の秩序の中で、大名として新たな役割と知行を与えられたという側面も持つ。これは、守棟個人だけでなく、戦国時代に自立性の高かった多くの国衆や在地領主が、豊臣秀吉による天下統一事業の進展と共に、中央集権的な支配体制へと組み込まれていく過程を象徴する出来事と言える。美濃という土地に深く根差していた守棟のような武将が、その在地性をある程度断ち切られ、中央権力の意向によって配置転換される。これは、戦国時代の割拠状態から、近世の統一的な封建体制へと移行していく時代の大きな流れを示すものであり、日本の封建制度が確立していく上での普遍的な現象の一つと捉えることができる。
氏家守棟が参加したとされる数々の合戦、例えば姉川の戦いや伊勢長島一向一揆との戦いなどにおける具体的な働きを詳細に記した一次史料は限られている。しかし、斎藤氏、織田氏、豊臣氏という三代の有力な主君の下で継続的に軍事行動に動員され、一定の兵力を率いる立場にあったことから、部隊指揮官としての基本的な能力は備えていたと考えられる。特に、美濃三人衆として斎藤氏を支え、後に織田信長の美濃攻略において重要な役割を果たした際には、単なる勇猛さだけでなく、状況に応じた戦術的判断や、時には政治的な駆け引きも辞さない戦略眼を持っていたことが窺える。主君の変遷を通じて見せる状況判断力は、戦国乱世を生き抜く上で不可欠な資質であり、守棟がこれを有していたことは間違いないだろう。
氏家守棟が美濃や伊勢で知行地を支配した際の具体的な統治政策に関する詳細な記録は乏しい。しかし、戦国武将が領国を維持し、軍事力を確保するためには、検地の実施による領内把握、年貢収取体制の整備、新田開発の奨励、あるいは寺社勢力との関係調整など、多岐にわたる領国経営が不可欠であった。守棟もまた、これらの施策を通じて領民の安定と生産力の向上を図り、それによって自らの軍事基盤を固めていたと推測される。戦時における武勇だけでなく、平時における行政手腕も、戦国武将にとっては重要な能力であり、守棟が三代の主君に仕え続けた背景には、こうした統治者としての一面も評価されていた可能性が考えられる。
氏家守棟に対する同時代人からの直接的な評価を伝える史料は、残念ながら多くは見当たらない。織田信長や豊臣秀吉といった主君が、守棟個人を具体的にどのように評価していたかを示す書状や記録は稀である。しかし、彼が美濃三人衆の一人として数えられ、斎藤氏滅亡後も信長に登用され、さらには本能寺の変後の混乱を乗り越えて秀吉にも仕えたという事実は、彼の能力や存在価値が一定程度認められていたことを間接的に示している。特に、信長が旧敵である斎藤氏の有力家臣であった守棟らを登用したことは、彼らの武勇や美濃国内での影響力を高く評価していた証左と言える。また、秀吉政権下で伊勢に2万石余の所領を与えられたことも、その実績と能力に対する評価の表れと考えられる。
江戸時代に成立した軍記物や諸家の系図においては、氏家守棟は主に「美濃三人衆」の一人として、斎藤氏の盛衰や織田信長の美濃攻略といった文脈で語られることが多い。その評価は、記述する書物の立場や時代背景によっても変化する。例えば、主君を次々と変えたことに対して、儒教的な忠義観が重んじられた時代には、変節漢として否定的に捉えられる側面もあったかもしれない。一方で、戦国時代の「実力主義」や「下剋上」の価値観を考慮すれば、より有力な主君に仕えることは、一族の存続と発展のための合理的な選択であり、むしろ時勢を読む能力に長けた武将として評価されることもあり得る。明治以降の近代的な歴史研究においては、特定の倫理観に基づく評価よりも、史実を客観的に分析し、その歴史的背景の中で人物の行動を理解しようとする傾向が強まっている。守棟に関しても、単なる忠臣か変節漢かという二元論ではなく、激動の時代を生きた一人の武将として、その行動原理や歴史的役割を多角的に考察する視点が求められる。
守棟の生涯を総覧すると、彼は突出した英雄譚や華々しい逸話に彩られたタイプの武将ではないかもしれない。しかし、戦場においては確実に任務を遂行し、政治的局面においては状況に応じた的確な判断を下すことのできる、実務能力に長けたバランスの取れた武将であったと評価できる。派手さはないものの、組織の中で自らの役割を堅実にこなし、主君からの信頼を繋ぎとめてきた。斎藤氏、織田氏、豊臣氏という、それぞれ性格の異なる強力な指導者の下で、いずれも一定の地位を保ち続けたという事実は、単なる武勇だけでなく、高度な政治的バランス感覚や、変化する状況への適応能力、そして実務処理能力が高く評価されていたことを示唆している。「美濃三人衆」という集団での活動が彼のキャリアにおいて目立つことも、個人の突出したカリスマ性よりも、むしろ協調性や組織内での役割遂行能力に長けていたことを示しているのかもしれない。
彼の主君の変遷に対する評価は、その評価がなされる時代の価値観や忠義観によって大きく左右される。江戸時代の儒教的道徳観が支配的な社会では、主君を次々と変える行為は不忠と見なされがちであった。しかし、戦国時代という、昨日の敵が今日の友となり得る流動的な社会においては、一族の存続と発展のためにより強力な庇護者を求めることは、ある意味で当然の行動であり、むしろ時流を読む能力として肯定的に評価される側面もあった。現代の歴史学の視点からは、こうした行動を単純な善悪の二元論で裁断するのではなく、当時の社会状況、個人の置かれた立場、そして彼が下した選択の背景にある論理を多角的に理解しようと努めることが重要である。氏家守棟の評価の変遷は、まさにこうした歴史観そのものの変化を反映していると言えるだろう。
本報告書では、戦国時代から安土桃山時代にかけて生きた武将、氏家守棟の生涯と事績について詳細に検討してきた。美濃の国衆として斎藤道三・義龍・龍興の三代に仕え、特に「美濃三人衆」の一人として斎藤氏の屋台骨を支えた。しかし、織田信長の美濃侵攻が激化する中で、最終的には信長に帰順し、その家臣として姉川の戦いや伊勢長島一向一揆平定戦など、信長の主要な軍事行動に参加した。本能寺の変後はいち早く豊臣秀吉に臣従し、伊勢桑名に知行を与えられ、豊臣政権下の大名としてその晩年を過ごした。その生涯は、主君の変転と激動の時代への適応の連続であったと言える。
氏家守棟は、歴史の表舞台で主役を演じるような華々しい存在ではなかったかもしれない。しかし、彼の生涯は、戦国時代から近世へと移行する日本の大きな歴史的転換期において、地方の有力武将(国衆)がどのように生き残り、新たな権力構造の中に組み込まれていったかを示す典型的な事例の一つとして、重要な歴史的意義を持つ。
第一に、守棟の行動は、戦国武将の現実主義的な処世術を如実に示している。斎藤氏から織田氏へ、そして豊臣氏へと主君を変えたことは、単なる変節ではなく、自らの一族と家臣団の存続と発展を最優先に考えた上での、極めて合理的な判断であったと解釈できる。理想や特定のイデオロギーに殉じるよりも、現実的な状況判断に基づいて自らの道を選び、激動の時代を最後まで生き抜いたリアリストとしての側面が強く窺える。
第二に、守棟を含む美濃三人衆の動向は、織田信長の天下統一事業の初期段階において、極めて重要な役割を果たした。彼らの信長への帰順は、美濃攻略を決定的なものとし、信長の上洛とそれに続く急速な勢力拡大の大きな足がかりとなった。これは、地方の有力国衆の向背が、中央の政局、ひいては天下の趨勢にまで影響を及ぼし得たことを示す好例である。
第三に、守棟の伊勢への移封は、豊臣政権による全国的な大名の配置転換の一環であり、在地性の強かった国衆が、中央集権的な支配体制へと完全に組み込まれていく過程を象徴している。これは、戦国時代の割拠的状況から、近世の統一的な封建体制へと移行する上で、多くの武将が経験した変化であった。
氏家守棟のような、いわば中堅層の武将の生涯を丹念に追うことは、英雄豪傑の物語だけでは見えてこない、戦国時代の社会構造や武士の生き方の多様性、そして時代の変化に対する個々人の対応の複雑さを明らかにする上で不可欠である。彼の生涯は、戦国時代という過酷な環境下で、個人や「家」がいかにして存続を図ったかという、普遍的なテーマを我々に提示しており、その現実主義的な処世術と時代への適応能力にこそ、彼の歴史的意義を見出すことができる。本報告書が、氏家守棟という人物、そして彼が生きた時代への理解を深める一助となれば幸いである。
年号(西暦) |
守棟の年齢(推定) |
出来事 |
関連人物・勢力 |
備考・史料根拠(推定含む) |
享禄元~天文初年頃 |
0歳前後 |
生誕(推定) |
氏家氏 |
美濃国にて出生か。 |
天文年間 |
青年期 |
斎藤道三に仕え始めるか |
斎藤道三 |
この頃、美濃は道三の勢力拡大期。 |
弘治2年(1556年) |
20代後半~30代前半 |
長良川の戦い。斎藤義龍方に与したか |
斎藤道三、斎藤義龍 |
義龍政権下で台頭のきっかけとなった可能性。 |
永禄4年(1561年) |
30代 |
斎藤義龍死去、龍興が家督相続。美濃三人衆として龍興を補佐。 |
斎藤龍興、稲葉良通、安藤守就 |
織田信長の美濃侵攻が本格化。 |
永禄10年(1567年) |
30代後半~40代前半 |
稲葉山城陥落。斎藤氏滅亡。織田信長に帰順。 |
織田信長、斎藤龍興、美濃三人衆 |
『信長公記』等に三人衆の降伏が記される。 |
元亀元年(1570年) |
40代前半 |
姉川の戦いに従軍か。 |
織田信長、浅井長政、朝倉義景 |
織田軍の主力として各地を転戦。 |
天正年間初頭~中期 |
40代~50代前半 |
伊勢長島一向一揆平定戦、石山合戦等に従軍。 |
織田信長 |
信長の主要な戦いに継続して参加。 |
天正10年(1582年) |
50代前半~後半 |
本能寺の変。変後、羽柴秀吉に接近。 |
明智光秀、羽柴秀吉 |
織田体制の崩壊と新たな権力闘争。 |
天正13年(1585年)頃 |
50代後半 |
豊臣秀吉より伊勢国桑名郡に2万石余で移封。 |
豊臣秀吉 |
豊臣大名としての地位を確立。 |
天正18年(1590年) |
60歳前後 |
小田原征伐に従軍か。 |
豊臣秀吉、北条氏政・氏直 |
豊臣政権による天下統一の最終段階。 |
天正19年~慶長元年頃 |
60代 |
伊勢桑名にて死去(推定)。 |
氏家行広(嫡男) |
没年には諸説あり。 |
慶長5年(1600年) |
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(参考)嫡男・氏家行広が関ヶ原の戦いで西軍に与し改易。 |
徳川家康、石田三成 |
大名としての氏家氏は断絶。 |