本報告書は、日本の戦国時代、特に奥州の地において大崎氏の家臣として活動した武将、氏家隆継(うじいえ たかつぐ)に焦点を当て、その生涯、一族の背景、そして歴史の中で果たした役割を明らかにすることを目的とする。利用者より提供された情報、すなわち氏家隆継が大崎家臣であり三丁目城主であったこと、その祖先が斯波家兼の執事を務めた氏家左衛門重定とされ、子である吉継が岩出山城主となった際に三丁目城に隠棲したという概要を基点とし、これを専門的知見と現存史料の分析によって深化・拡充させる形で論を進める。
氏家隆継個人に関する直接的な史料は極めて限定的である。しかしながら、その息子であり大崎氏の執事として、また後に伊達政宗に仕えた氏家吉継(うじいえ よしつぐ)や、主家である大崎氏、さらには関連する斯波氏、伊達氏に関する記録は比較的多く残されている 1 。これらの間接的な情報源を丹念に渉猟し、相互に関連付けることで、氏家隆継の実像に可能な限り迫ることを試みる。
氏家隆継に関する直接的な史料が乏しいという事実は、戦国期の地方家臣団における記録の残存状況の一端を示唆している。当主が代替わりした後、先代の当主、特に隠居した人物に関する記録は、特筆すべき事績がない限り急激に減少する傾向が見られる。氏家隆継もまた、その例に漏れず、息子の吉継が氏家氏の当主として歴史の表舞台で活動を始めるとともに、記録の中心も吉継へと移行していったと考えられる。これは、当時の武家社会における家督相続の重要性と、記録保存の慣習を反映していると言えよう。
そのような中にあって、天正14年(1586年)頃のものと推定される氏家隆継自身が発したとされる書状の写しが存在することは特筆に値する 8 。この書状は、隆継自身の言葉で当時の彼の置かれた状況や伊達氏との関係を垣間見ることができる、極めて貴重な史料である。本報告書では、この書状をはじめとする断片的な情報を繋ぎ合わせ、氏家隆継という一人の武将の生涯を再構築することを目指す。
奥州氏家氏の出自については、複数の伝承が存在する。一つは、下野国(現在の栃木県)を本拠とした名族・宇都宮氏の庶流であるとする説である 1 。宇都宮氏は鎌倉時代から室町時代にかけて幕府の要職を歴任し、その一族は各地に広がった。奥州への進出もその一環であった可能性が考えられる 21 。
一方で、利用者より提供された情報にある通り、氏家氏の祖が斯波家兼(しば いえかね)の執事を務めた氏家左衛門重定(うじいえ さえもんしげさだ)であるという伝承も重要である。斯波氏は足利氏の一門であり、室町幕府において管領を輩出するなど高い家格を誇り、奥州においては探題職を世襲して大きな勢力を有した 5 。
これら二つの情報は、一見すると異なる系統を示しているように思われるが、南北朝時代の動乱期における氏家氏の動向を記した史料が、両者を結びつける鍵となるかもしれない。ある記録によれば、宇都宮氏流とされる氏家重定・氏家重国といった人物が、北朝方であった斯波氏の配下として北陸地方で戦功を挙げ、その恩賞として美濃国(現在の岐阜県南部)に地盤を築いたという 14 。さらに、この氏家氏の一族は、後に奥州探題として下向する斯波家兼とその子息(斯波直持、斯波兼頼)に従い、奥州に移住して奥州氏家氏や出羽氏家氏の祖となったとされている 14 。この氏家重定が、利用者情報の「氏家左衛門重定」と同一人物、あるいは近しい関係にある人物である可能性は十分に考えられる。
主家である大崎氏は、この斯波家兼の子・大崎直持を祖とする斯波氏の支流である 5 。したがって、氏家氏が斯波氏、そしてその分家である大崎氏に仕えるようになった経緯として、南北朝時代に遡る主従関係の存在が強く示唆される 14 。南北朝時代は社会の流動性が高く、武士が新たな主君を求めたり、婚姻関係を通じて複数の家系と結びついたりすることは決して珍しいことではなかった。氏家氏が宇都宮氏の血を引きつつも、ある時点で斯波氏の有力な家臣となり、その奥州下向に従ったという経緯は、当時の時代背景を考慮すれば十分に起こりうる事態である。また、「執事」という役職は必ずしも特定の家系に世襲されるものではなく、能力のある人物が登用されることもあったため、宇都宮氏庶流の氏家氏から斯波氏の執事が出ることも不自然ではない。
これらの情報を踏まえ、氏家氏の関連系図の試案を以下に示す。ただし、確証のない部分についてはその旨を明記する。
表1: 氏家氏関連系図の試案
関連人物・家系 |
備考 |
(源流)宇都宮氏 |
下野国の名族。奥州氏家氏の出自とされる 1 。 |
┣(分流・伝)奥州氏家氏 |
|
┃ (祖・伝)氏家左衛門重定 |
斯波家兼の執事と伝わる。宇都宮氏流の氏家重定が斯波氏に仕えた記録あり 14 。 |
┃ …(数代不詳)… |
|
┃ 氏家隆継 |
本報告書の対象人物。大崎氏家臣。三河守を称した記録あり 16 。 |
┃ ┗ 氏家吉継(弾正、直継) |
隆継の子。奥州氏家氏12代当主。大崎氏執事、後に伊達政宗家臣。岩出山城主 1 。 |
(関連)斯波氏 |
足利氏一門。室町幕府管領家。 |
┣ 斯波家兼 |
奥州管領として下向。大崎氏・最上氏の祖の父 5 。 |
┃ ┗ 大崎氏(斯波氏支流、奥州探題) |
氏家氏の主家。陸奥国大崎五郡を支配した戦国大名 5 。 |
┃ ┣ 大崎義隆 |
氏家吉継が仕えた大崎氏当主 1 。 |
(関連)伊達氏 |
奥州の有力戦国大名。後に氏家吉継が仕える。 |
┗ 伊達政宗 |
氏家吉継と連携し、後に主君となる 1 。 |
注意: 本系図は現存史料と伝承に基づく試案であり、全ての関係性が確定しているわけではない。
氏家氏は、奥州探題大崎氏の重臣として、その歴史の中で重要な役割を担ってきた。特に、陸奥国玉造郡に位置する岩出山城(当初は岩手沢城とも呼ばれた)を居城としていたことは、大崎領内における氏家氏の軍事的・政治的な重要性を示している 1 。この城は、北羽前街道と羽後街道が交わる交通の要衝にあり、戦略的にも価値の高い拠点であった 28 。
氏家隆継の子である吉継は、大崎義隆の時代に「執事」として家政の中枢に関与しており、その権勢は大きかった 7 。執事という役職は、主君を補佐し、家中の庶務や財政、さらには外交に至るまで広範な権限を持つことが多く、吉継がこの地位にあったことは、氏家氏が大崎家中で筆頭家老格の家柄であったことを物語っている。その父である隆継もまた、吉継が家督を継ぐ以前、そして隠居後も、大崎家中で一定の影響力を保持していたと推測される。
大崎氏自体は、奥州探題斯波氏の直系という高い家格を誇りながらも、戦国時代に至ると、南からは伊達氏、北からは最上氏といった新興勢力の圧迫を受け、その勢力は次第に衰退しつつあった 3 。このような厳しい国際環境の中で、大崎氏が領国を維持し、独立を保つためには、氏家氏のような有力家臣の忠誠と能力が不可欠であった。隆継から吉継への代替わりは、まさにこの大崎氏が内外の困難に直面していた不安定な時期に行われており、氏家氏の動向は、主家である大崎氏の存亡にも大きな影響を与えうるものであったと言えるだろう。
氏家隆継の具体的な活動を伝える直接的な史料は少ないものの、その断片からは、彼が戦国末期の奥州の激動の中で、大崎氏の家臣として、また一家の長として苦慮しつつ行動していた様子がうかがえる。
特に注目されるのが、天正14年(1586年)頃のものと推定される氏家隆継発給の書状の写しである 8 。この書状の中で隆継は、伊達氏に対して再三にわたり助勢を要請しているものの、伊達側には手透きがない(余裕がない)との返答があったことを記している。それにもかかわらず隆継は、「縦(たと)い切腹仕り候共、一筋に仰ぎ奉る外別意無く候」(たとえ切腹することになろうとも、ひたすら伊達氏を頼みとする以外に他意はない)と述べ、伊達氏への強い忠誠心と、何らかの窮地に立たされている切迫した状況を示している。この書状は、隆継が単なる武将としてだけでなく、外交交渉の一端を担い、特に伊達氏との間のパイプ役として機能していた可能性を示唆している。当時の大崎氏、あるいは氏家氏が置かれていた厳しい状況を反映したものと言えよう。
また、時代は下って大崎合戦後の天正16年(1588年)7月頃の記録には、氏家弾正(吉継)と主君・大崎義隆との間に生じた不和を融和させるため、父である隆継(史料中では三河守隆継と記されている)が一栗兵部(いちくり ひょうぶ)と共に調停に尽力したとある 16 。これは、隆継が家督を吉継に譲り隠居した後も、大崎家中で依然として一定の発言力を持ち、家中の長老として、あるいはその経験と人脈を活かして調停役としての重要な役割を果たしていたことを示している。
これら二つの史料に見える隆継の姿は、彼が単に隠居して余生を送っていたわけではなく、息子の吉継が当主となった後も、氏家氏の家としての存続と発展のため、特に伊達氏との関係構築や大崎家中の安定化のために、陰に陽に活動を続けていたことを物語っている。天正14年の書状で伊達氏への助勢を求めていたのは、当時まだ家督を継いで間もないか、あるいは継承前夜であった息子吉継の立場を強化するため、あるいは大崎氏内部でくすぶっていた対立(後の大崎合戦の一因となる新井田氏との確執など)を有利に進めるための布石であった可能性も考えられる。
利用者より提供された情報によれば、氏家隆継は三丁目城(さんちょうめじょう、あるいは、さんのめじょう)の城主であったとされる。しかしながら、この三丁目城の具体的な所在地や規模、構造については、現時点で渉猟し得た史料からは残念ながら特定することができなかった 27 。これらの断片的な情報は、別の城や地名に関するものであるか、あるいは三丁目城との直接的な関連性を見出すには情報が不足している。
戦国時代において、大名に仕える有力な家臣が、主君から与えられた所領内に自身の居館や城(あるいは砦規模の防御施設)を構えることは一般的であった。これらの施設は、平時においては所領経営の拠点として、また有事においては地域防衛の核としての役割を果たした。したがって、三丁目城は、氏家隆継の私的な所領の中心地であり、彼の生活基盤であった可能性が高い。
氏家氏の本拠地が岩出山城であったことを考慮すると、三丁目城の位置づけについてはいくつかの可能性が考えられる。一つは、隆継個人の隠居所としての性格である。これは利用者情報とも合致する。しかし、それだけではなく、氏家氏の広大な所領の一部を構成する重要な拠点であり、経済的な基盤となる村落や耕地を背後に控えた場所であった可能性も否定できない。あるいは、岩出山城に対する支城としての戦略的な役割を担っていたことも考えられる。今後の考古学的調査や新たな文献史料の発見によって、三丁目城の具体的な姿が明らかになることが期待される。
氏家吉継は、父である隆継の隠居に伴い、氏家氏の家督を相続したとされている 1 。この家督相続が具体的にいつ行われたのかを正確に示す史料は現在のところ見当たらない。しかし、吉継が天正15年(1587年)末には、同じ大崎氏の家臣である新井田隆景(にいだ たかかげ)と対立し、伊達政宗と内通するといった積極的な政治行動を開始していることから 1 、家督相続はこの年か、あるいはそれより少し前に行われたと推定するのが妥当であろう。
利用者情報によれば、息子・吉継が岩出山城主となった際に、父・隆継は三丁目城に隠棲したとされている。これは、氏家氏内部における当主の交代と、それに伴う本拠地の事実上の移行が連動して行われたことを示唆している。当主は一族の中心拠点である岩出山城に居住し、隠居した先代は別の城館(この場合は三丁目城)に移るという形式は、戦国期の武家においてしばしば見られる事例である。
隆継の隠居と吉継への家督相続は、単なる世代交代という以上の意味合いを持っていた可能性も考慮すべきである。前述の天正14年頃の隆継書状 8 が示すように、氏家氏が伊達氏への接近を模索していたことは、隆継の代からの動きであった。この流れの中で行われた家督相続は、大崎氏内部における権力闘争や、対伊達氏政策をより明確に推進するための氏家氏内部の意思統一、あるいは世代交代による方針転換の象徴であった可能性も否定できない。息子・吉継がその後展開する積極的な外交策や伊達政宗との連携は、父・隆継が築いた、あるいは築こうとしていた伊達氏との関係という布石の上に成り立っていたと考えることもできるだろう。隆継の隠居は、表舞台からの退場を意味する一方で、経験豊かな先代として、新たな当主である吉継を後方から支え、助言を与えるという新たな役割の始まりでもあったのかもしれない。
氏家隆継の隠居と家督相続を経て、氏家氏の歴史の前面に登場するのが、その息子である氏家吉継である。吉継の時代は、主家である大崎氏が内外の危機に直面し、奥州の勢力図が大きく塗り替えられていく激動の時代であった。
氏家吉継は、奥州氏家氏の第12代当主とされ 1 、父・隆継から家督を継いだ後、陸奥国岩出山城主として活動した 1 。この岩出山城は、古くは岩手沢城と呼ばれ、室町時代初期の応永年間(1394年~1428年)に氏家直益(うじいえ なおます)によって築かれたと伝えられる、氏家氏代々の拠点であった 12 。吉継は通称を弾正(だんじょう)と称し、また直継(なおつぐ)という別名も伝わっている 1 。
吉継が家督を相続して間もない天正15年(1587年)末、大崎氏の家中において深刻な内部対立が発生する。吉継は、同じく大崎氏の有力家臣であった新井田隆景と激しく対立したのである 1 。
新井田隆景は、上狼塚城主・里見隆成の子として生まれ、その美貌から主君・大崎義隆の寵愛を受けたとされる 11 。この主君の寵を背景に権勢を振るい、家中での影響力を強めていたことが、旧来の重臣層、特に執事の家柄である氏家吉継との間に軋轢を生んだ主要な原因の一つと考えられている 11 。
この家中における深刻な対立の中で、氏家吉継は単独で新井田隆景に対抗するのではなく、外部勢力である伊達政宗に接近し、内通するに至った 1 。この吉継の行動は、大崎氏の内部紛争をさらに複雑化させ、伊達氏の介入を招く直接的な引き金となった。
この一連の動きは、単に家臣同士の個人的な感情のもつれや勢力争いという側面だけでなく、より大きな文脈の中で捉える必要がある。すなわち、戦国末期における大崎氏の求心力の低下と家中統制の緩み、そしてそれに乗じる形で周辺の有力大名が影響力を行使しようとする当時の奥州の政治状況を如実に反映している。吉継が伊達政宗と結んだ背景には、父・隆継の代から続けられていた伊達氏との外交交渉の積み重ね 8 が、少なからず影響していた可能性も考えられる。氏家氏としては、主家内部での立場を強化し、自家の存続を図るために、伊達氏という強力な後ろ盾を必要としたのであろう。
氏家吉継と新井田隆景の対立は、ついに大崎氏の領国全体を巻き込む大規模な武力衝突へと発展する。これが天正16年(1588年)に勃発した「大崎合戦」である 1 。
この合戦において、伊達政宗は氏家吉継からの援軍要請に応じる形で、大崎領へ大軍を侵攻させた。表向きの名目は、あくまで大崎氏の内紛を鎮圧し、正当な家臣である吉継を助けるというものであった 7 。政宗は陣代として浜田景隆を派遣し、留守政景や泉田重光といった重臣たちに出兵を命じた 19 。一方、大崎義隆方は中新田城を拠点に籠城戦を展開した 19 。
しかし、伊達軍の侵攻は必ずしも順調には進まなかった。大崎方の頑強な抵抗に加え、伊達方についていた黒川晴氏(くろかわ はるうじ)が土壇場で大崎方に寝返るという事態も発生し、伊達軍は苦戦を強いられ、最終的には敗北を喫した 2 。この結果、氏家吉継も大崎義隆と和睦し、大崎氏に帰参することとなった 2 。
この大崎合戦の評価については、歴史学者の遠藤ゆり子氏による詳細な研究があり、注目される 8 。遠藤氏は、この合戦が従来言われてきたような伊達政宗や氏家吉継の領土的「野望」や一方的な侵略行為によるものではなく、むしろ大崎「家」内部の紛争を解決する過程で、執事としての立場にあった氏家吉継と当主である大崎義隆が、それぞれ伊達氏と最上氏という外部の有力者を「呼び出した」結果、戦国大名間の戦争へとエスカレートしていったものと分析している。この解釈によれば、吉継の役割は、主家の取次として培った外交ルートを駆使し、伊達氏からの「合力」(軍事支援)を得ることで大崎領内の平和を維持しようとしたものであり、その行動は執事としての機能に基づいたものであったとされる 8 。
この遠藤氏の指摘は、氏家吉継の行動を単なる主家への裏切りや個人的な野心と短絡的に捉えるのではなく、主家内部の秩序回復と自勢力の保全という、より複雑で多層的な動機に基づいていた可能性を示唆しており、大崎合戦に関する従来の通説的な理解に再考を迫るものである。また、合戦後、吉継の父である隆継が、吉継と大崎義隆との和解の仲介に奔走したという記録 16 も、氏家氏が大崎家内の調停と安定に深く関与し、その存続に腐心していたことを裏付けていると言えよう。大崎合戦は、氏家氏、特に吉継が大崎氏という枠組みを超えて、奥州全体の勢力図に少なからぬ影響を与える存在であったことを示すと同時に、戦国末期の地域権力の複雑な関係性を浮き彫りにした事件であった。
大崎合戦後も、奥州の情勢は流動的であったが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業は最終段階を迎え、小田原北条氏が滅亡すると、その矛先は奥羽に向けられた。いわゆる「奥州仕置」である。この奥州仕置において、大崎氏は豊臣秀吉の下への参陣を怠った(あるいは遅参した)ことを理由に、所領を没収され改易処分となった 3 。長らく奥州探題としての権威を誇った名門大崎氏も、ここに戦国大名としての歴史を閉じることとなったのである。
主家である大崎氏の改易に伴い、その重臣であった氏家吉継もまた没落を余儀なくされた。その後、吉継は伊達政宗の家臣として迎え入れられた 1 。これは、大崎合戦における共闘関係や、それ以前からの父・隆継の代からの伊達氏との繋がり 8 が伏線となっていたと考えられる。政宗としても、大崎氏旧領の統治や、旧大崎家臣団の掌握において、氏家吉継のような旧大崎氏の重臣を取り込むことには大きな意味があったであろう。
しかし、伊達家臣としての吉継の活動期間は長くはなかった。その死没時期については、天正19年(1591年)5月21日(旧暦)とする説が一般的である 1 。一方で、伊達政宗が小田原征伐の陣中(天正18年)に吉継の死を知り、小成田重長を岩出山城の城代として派遣したとする記録も存在することから、実際には天正18年(1590年)5月に死去した可能性が高いとする研究もある 1 。いずれにしても、大崎氏改易とほぼ時を同じくして、あるいはその直後に吉継が世を去ったことは、氏家氏にとって大きな転換点であったと言える。
氏家吉継には娘がおり、この娘は冨田守実(富田守実とも記される)に嫁いでいる 1 。この婚姻を通じて、氏家氏の血脈は冨田氏へと繋がっていくことになった。
大崎氏の改易と氏家吉継の伊達氏への帰属、そしてその早すぎる死は、豊臣中央政権の強大な力が奥州の伝統的な地域権力構造を解体し、再編成していく過程を象徴する出来事であった。吉継の死は、伊達家臣としての氏家氏の新たな展開を予感させつつも、それを本格化させる前に断ち切ってしまった感がある。しかし、娘婿を通じて家系が間接的ながらも存続したことは、戦国乱世を生き抜いた武家のしぶとさを示していると言えるかもしれない。
これらの氏家隆継・吉継父子に関わる主要な出来事を時系列で整理すると、以下のようになる。
表2: 氏家隆継・吉継 関連年表
年代(和暦) |
西暦 |
氏家隆継・吉継の動向 |
大崎氏・伊達氏・中央の動向 |
主な典拠 |
天正14年頃 |
1586年頃 |
氏家隆継、伊達氏に助勢を求める書状を発給か。 |
|
8 |
天正15年末 |
1587年末 |
氏家吉継(隆継の子、家督相続後か)、大崎家臣・新井田隆景と対立。伊達政宗に内通。 |
大崎氏内部で対立深刻化。 |
1 |
天正16年1月~7月頃 |
1588年 |
大崎合戦 勃発。氏家吉継、伊達政宗の援軍を得て新井田方と戦う。伊達軍敗北。吉継、大崎義隆と和睦し帰参。氏家隆継、吉継と義隆の和解に尽力。 |
伊達政宗、大崎領に侵攻。黒川晴氏の裏切り等で敗北。最上義光も調停に関与か。 |
2 |
天正18年 |
1590年 |
豊臣秀吉の小田原征伐。大崎氏参陣せず(または遅参)。 |
豊臣秀吉、小田原北条氏を滅ぼす。 奥州仕置 に着手。 |
3 |
同年5月頃(説A) |
1590年5月頃 |
氏家吉継、死去か(小田原征伐中に伊達政宗が死を知り岩出山城代を派遣した記録による)。 |
大崎氏、改易される。 |
13 |
同年 |
1590年 |
(吉継死去が説Aの場合)氏家隆継、息子の死と主家の滅亡に直面。 |
大崎氏旧領は木村吉清に与えられるが、葛西大崎一揆勃発。 |
|
天正19年5月21日(説B) |
1591年7月11日 |
氏家吉継、死去か(通説)。 |
葛西大崎一揆鎮圧後、伊達政宗が岩出山城に入り、旧大崎・葛西領を与えられる。 |
1 |
同年 |
1591年 |
(吉継死去が説Bの場合)氏家吉継、主家滅亡後、伊達政宗に仕えるも間もなく死去。 |
伊達政宗、岩出山を本拠とし領国経営を開始。 |
1 |
注意: 氏家吉継の没年には二つの説が存在する。
利用者より提供された情報によれば、息子である氏家吉継が岩出山城主として氏家氏の家督を継いだ後、父・隆継は三丁目城に隠棲したとされている。この隠居が始まった正確な時期は不明であるが、吉継の活動が活発化する天正15年(1587年)前後と考えられ、まさに奥州が激動の時代へと突入する直前であった。
隆継が三丁目城で過ごしたであろう時期は、大崎氏内部では吉継と新井田隆景の対立が先鋭化し(天正15年~)、それが引き金となって伊達政宗が介入する大崎合戦が勃発(天正16年)、そして最終的には豊臣秀吉による奥州仕置によって主家大崎氏が改易される(天正18年)という、まさに息つく暇もないほどの変転の連続であった。
このような状況下で、隆継の隠居生活が必ずしも平穏無事なものであったとは考えにくい。事実、前述の通り、天正16年の大崎合戦後には、隆継が息子・吉継と主君・大崎義隆との和解調停に奔走した記録が残っている 16 。これは、隆継が隠居の身でありながらも、依然として大崎家中の動向に深く関与し、一定の影響力を行使し得たことを示している。三丁目城は、単なる静養の場としてだけでなく、長年の経験で培った人脈を通じて情報を収集し、時には水面下で政治的な活動を行うための拠点としての機能も有していた可能性が考えられる。
隆継は、三丁目城の静かな居室から、日に日に緊迫の度を増していく奥州の情勢を見守り、一族の将来、そして何よりも当主となった息子・吉継の身の上を案じ続けていたことであろう。彼の豊富な経験と広い人脈は、若き当主である吉継にとって、計り知れないほど大きな精神的支柱であり、また実質的な助けともなっていたに違いない。
氏家隆継の没年や、その具体的な最期に関する直接的な史料は、現在のところ発見されていない。そのため、彼の晩年については、周囲の状況からの推測に頼らざるを得ない。
息子の吉継は、天正18年(1590年)5月、あるいは天正19年(1591年)5月に死去したとされる。隆継がこの息子の死を見届けたのか、あるいはそれ以前に世を去っていたのかは、史料がないため不明である。
もし、隆継が豊臣秀吉による奥州仕置(天正18年)以降も存命であったと仮定するならば、彼は主家である大崎氏の改易という衝撃的な出来事を目の当たりにし、さらには伊達氏に仕えることになった息子・吉継の早すぎる死という悲運にも直面したことになる。長年にわたり仕え、また時にはその内部抗争の調停に尽力した大崎氏の滅亡、そして自らが築き上げてきた伊達氏との関係を背景に新たな道を歩み始めたはずの息子の夭折は、老いた隆継にとって耐え難い心痛であったろうと想像される。
氏家隆継の生涯は、戦国時代末期の奥州における地域権力の栄枯盛衰と、その激しい変化の波の中で、自らの「家」を守り、生き抜こうとした一人の武将の姿を象徴していると言えるかもしれない。彼自身の名を記した記録は今日多くは残されていない。しかし、その存在は、息子・吉継の行動を通じて、また、彼自身が発した書状の写し 8 や、大崎家中の調停に関わった記録 16 といった断片的な史料を通じて、奥州の戦国史の一隅を確かに照らし出している。彼の生きた時代と、その中での苦闘は、歴史の表舞台に華々しく名を残した英雄豪傑の物語とは異なる、地方武士のリアルな姿を我々に伝えてくれるのである。
本報告書では、戦国時代の奥州に生きた武将・氏家隆継について、現存する史料と関連情報を基に、その出自、大崎氏家臣としての立場、息子・吉継との関係、そして彼が生きた時代の歴史的背景における役割の解明を試みた。
調査の結果、氏家隆継は、その祖先が下野国の名族・宇都宮氏の庶流であり、かつ南北朝期に斯波氏(大崎氏の宗家)に仕え、その奥州下向に従った家系に連なる可能性が高いことが示唆された。隆継自身は、大崎氏の家臣として活動し、特に天正14年(1586年)頃には伊達氏との外交交渉の一端を担い、窮状の中で伊達氏への助勢を求めていたことが史料から確認された 8 。また、天正16年(1588年)の大崎合戦後には、隠居の身でありながら息子・吉継と主君・大崎義隆との和解調停に尽力するなど 16 、大崎家中で一定の影響力を保持していたことがうかがえる。
利用者より提供された情報に基づき、隆継は三丁目城主であり、息子・吉継が氏家氏の本拠である岩出山城主となった際に同地に隠棲したとされる。その隠居生活は、主家・大崎氏の存亡が揺らぐ激動の時代と重なっており、決して平穏なものではなかったと推測される。
本調査を通じて、氏家隆継に関するいくつかの具体的な事実や、その人物像を推測する上での重要な手がかりが得られた一方で、依然として多くの謎が残されていることも明らかになった。
氏家隆継の具体的な活動や事績を詳細に伝える一次史料は極めて限定的である。特に、彼が城主であったとされる三丁目城の正確な所在地、規模、性格については、今後の考古学的調査や新たな文献史料の発見が待たれる。現状では、その実態は依然として不明瞭なままである。
また、隆継から息子・吉継への家督相続が具体的にいつ、どのような背景で行われたのか、そして隆継自身の正確な没年やその最期についても、確たる史料は見出せなかった。これらの点は、今後の研究によって明らかにされるべき重要な課題である。
天正14年頃の氏家隆継書状写 8 は、彼の動向を知る上で極めて貴重な史料であるが、これはあくまで写しであり、その原本の所在確認や、書状が発給された具体的な状況、宛所などについてのさらなる検討が望まれる。加えて、大崎氏や伊達氏、あるいは氏家氏に関連する未発見の古文書や記録類が、各地の文書館や旧家などに眠っている可能性も否定できない。これらの新たな史料の発見が、氏家隆継研究を大きく進展させる鍵となるであろう。
氏家隆継のような、歴史の表舞台において必ずしも中心的な役割を果たしたとは言えない武将であっても、彼らが地域社会や自らの「家」の存続のために果たした役割は決して小さくない。彼ら一人ひとりの生涯を丹念に追うことは、戦国時代という時代の多様な武士の生き様を理解し、歴史の重層性を明らかにする上で不可欠な作業である。今後のさらなる史料の発見と研究の深化により、氏家隆継という人物の姿がより鮮明に浮かび上がり、奥州戦国史における彼の位置づけが一層明確になることが期待される。