江戸時代前期、徳川幕府による統治体制が盤石となりつつあった時代に、一人の卓越した「経営者」として領国の発展にその生涯を捧げた大名がいた。その名は水谷勝隆(みずのや かつたか)。常陸国下館(現在の茨城県筑西市)から備中国松山(現在の岡山県高梁市)へと移り、交通路の整備、新田開発、製鉄業の振興に尽力し、幕府から厚い信頼を得たという評価は、彼の功績の一端を的確に捉えている 1 。しかし、その評価だけでは、彼が成し遂げた事業の壮大さ、そしてその背後にあった緻密な戦略性や政治的手腕の全貌を理解するには不十分である。
本報告書は、水谷勝隆を単なる一地方大名としてではなく、江戸幕府の安定期において、戦国の遺風を継ぎながらも泰平の世に即した新たな価値創造を成し遂げた「開発領主」として再評価することを目的とする。彼の生涯を、その出自から家督相続、常陸下館藩時代、そして彼の名を不朽のものとした備中松山藩での三大事業(玉島新田開発、高瀬通し開削、製鉄業振興)に至るまで、多角的な視点から徹底的に追跡する。
なぜ外様大名である勝隆が、これほど大規模かつ複合的な領国開発を断行し、成功させることができたのか。その成功を支えた政治的背景、経済的基盤、そして技術的要因とは何だったのか。さらに、藩が未曾有の繁栄を謳歌する中で、なぜ彼の孫の代で水谷家は忽然と歴史の表舞台から姿を消すことになったのか。これらの問いに答えることを通じて、本報告書は、近世初期という時代が生んだ稀代の経営者大名、水谷勝隆の実像に深く迫るものである。
年号(西暦) |
年齢 |
出来事 |
慶長2年 (1597) |
1歳 |
水谷勝俊の長男として京都にて誕生 2 。 |
慶長5年 (1600) |
4歳 |
関ヶ原の戦い。西軍に人質とされそうになるが、近衛前久(龍山)に庇護され難を逃れる 3 。 |
慶長11年 (1606) |
10歳 |
父・勝俊の死去に伴い家督を相続。常陸下館藩3万2千石の第2代藩主となる 3 。 |
慶長13年 (1608) |
12歳 |
従五位下・伊勢守に叙任される 3 。 |
慶長19年 (1614) |
18歳 |
大坂冬の陣に従軍。徳川方の酒井家次の組に属す 4 。 |
元和元年 (1615) |
19歳 |
大坂夏のの陣に従軍。 |
寛永16年 (1639) |
43歳 |
備中国成羽藩5万石へ移封される 5 。 |
寛永19年 (1642) |
46歳 |
備中国松山藩5万石へ移封される 2 。玉島新田の開発に着手。 |
万治2年 (1659) |
63歳 |
内陸の城下と玉島港を結ぶ運河「高瀬通し」が開通したと伝わる 9 。 |
寛文4年 (1664) |
68歳 |
閏5月3日、備中松山にて死去 5 。 |
水谷勝隆の経営者としての大胆かつ緻密な手腕を理解するためには、まず彼が相続した「水谷家」という無形の資産、すなわちその家系が持つ歴史的背景と政治的文脈を解き明かす必要がある。
水谷氏の出自には諸説あるが、一般的には藤原北家秀郷流を汲む近藤氏の一族とされている 11 。その発祥の地は陸奥国岩城郡水谷(現在の福島県)とも 11 、あるいは近江国犬上郡水谷郷(現在の滋賀県)ともいわれるが 13 、いずれにせよ古くからの武門の家柄であった。
水谷氏の歴史における最初の大きな転機は、南北朝時代に訪れる。水谷氏盛が関東の名門・結城朝祐の養子となったことを契機に、一族は結城氏の本拠地である下総国結城(現在の茨城県結城市)に移り住み、その重臣として確固たる地位を築いた 15 。以後、水谷氏は結城家の浮沈と運命を共にし、関東の戦乱の中でその武名を高めていく。
そして文明10年(1478年)、水谷勝氏が下館城(現在の茨城県筑西市)を築城するに至り、結城家の重臣という立場にありながらも、半ば独立した領主としての基盤を固め始めた 6 。この下館の地が、後に関東における水谷氏の拠点として、勝隆の代まで続くことになる。
水谷家の名を関東一円に轟かせたのが、勝隆の祖父にあたる水谷正村(蟠龍斎)である。正村は「不敗の猛将」と謳われた戦国武将であり、宇都宮氏や多賀谷氏といった周辺の強敵との抗争に次々と勝利し、水谷氏の所領を飛躍的に拡大させた 15 。彼の圧倒的な武威は、水谷家にとって最大の抑止力であり、その後の家運を切り開く原動力となった。
しかし、正村の非凡さは単なる武勇に留まらなかった。彼は関東の片田舎にありながら、早くから天下の情勢を見据え、中央の覇者である織田信長や、当時まだ東海地方の一大名であった徳川家康と誼を通じ、鷹や駿馬をたびたび献上していた 15 。この先見性あふれる外交戦略が、後の豊臣政権、そして徳川政権下で水谷家が生き残るための重要な布石となる。
正村の跡を継いだのが、彼の養子であり勝隆の父である水谷勝俊であった 17 。勝俊が生きた時代は、豊臣秀吉による天下統一から徳川家康による幕府創設へと至る、日本史上最も激しい政権移行期であった。勝俊はこの激動の時代を巧みに泳ぎ切る。豊臣政権下では、徳川家康の次男であり結城家の養子となっていた結城秀康の与力大名として位置づけられた。そして運命の関ヶ原の戦い(1600年)では、主君・秀康と共に東軍に属して参陣。戦後、その功績により所領を安堵され、秀康が越前国へ転封されると、これまでの結城氏の配下という立場から脱し、常陸下館藩3万1千石の初代藩主として、正式な独立大名となるのである 11 。
この一連の経緯は、勝隆が家督を相続した時点で、彼がどのような資産を手にしていたかを明確に示している。彼が受け継いだのは、単に石高や城といった有形の財産だけではなかった。それは、第一に、祖父・正村が築き上げた「武門としての揺るぎない名誉」。第二に、父・勝俊が激動の時代を乗り越えて確立した「徳川政権下における大名としての安定した地位」。そして第三に、父が結城秀康の与力であったことから生まれる「徳川宗家との特別な縁故」という、三つの複合的な政治的遺産であった。これらこそが、若き勝隆が藩主となり、やがて壮大な領国経営を展開していく上での、何物にも代えがたい後ろ盾となったのである。
父祖が遺した政治的資産を背景に、水谷勝隆は若くして歴史の表舞台に登場する。しかし、その道のりは決して平坦なものではなく、幼少期の危機や大戦への従軍といった試練を経て、彼は徐々に幕府内での信頼を勝ち取り、独自の地位を築き上げていく。
水谷勝隆は、慶長2年(1597年)、父・勝俊が京都に滞在中に生を受けた 2 。彼の人生は、まさに波乱の幕開けと共に始まった。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した際、父・勝俊は主君・結城秀康に従い東軍として関東に下っていた。一方、わずか4歳の勝隆は母と共に京都に残されていたため、西軍を率いる石田三成によって人質として捕らえられるという絶体絶命の危機に瀕した 3 。
この窮地を救ったのが、当代随一の公卿であった近衛前久(龍山)である。前久は、東軍・西軍といった政治的対立を超越し、島津氏の落ち武者をかくまうなど、多くの人々をその庇護下に置いていた 3 。勝隆もまた、前久によって密かにかくまわれ、危うく難を逃れることができたのである。この幼少期の体験は、政治の非情さと、それを乗り越えるための人脈や機転の重要性を、勝隆の心に深く刻み込んだに違いない。
関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わった後、勝隆は関東へ下り、祖父・正村が築いた下野国久下田城に入った 3 。そして慶長11年(1606年)、父・勝俊が65歳でこの世を去ると、勝隆はわずか10歳という若さで家督を相続し、常陸下館藩3万2千石の第2代藩主となった 3 。
若き藩主として、彼が最初に直面した国家的な大戦が、慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけての「大坂の役」であった。この戦いで勝隆は、徳川譜代の重鎮である酒井家次の組に属して参陣し、幕府軍の一員として忠勤に励んだ 4 。この経験は、単に戦功を挙げるという以上に、幕府の中枢を担う有力譜代大名の指揮下で戦うことを通じて、徳川の軍制や指揮系統を肌で学び、幕府への忠誠を形として示す絶好の機会となった。この初陣での働きが、後の彼のキャリアにおいて重要な意味を持つことになる。
水谷勝隆の生涯を考察する上で、最も注目すべき点の一つが、彼が外様大名でありながら、幕府から譜代大名に準ずるほどの厚い信頼を得ていたことである。その事実は、彼に任された特異な任務の数々が雄弁に物語っている。
寛永14年(1637年)、播磨国赤穂藩主・池田輝興が改易(領地没収)された際、勝隆はその居城であった赤穂城の城番(城の管理・警備役)を命じられている。さらに翌年、肥前国唐津藩主・寺沢堅高が改易された際にも、同様に唐津城の城番を務めているのである 5 。改易された大名の城を受け取り、幕府の代官が赴任するまでの間、その地を管理するという任務は、軍事的な能力はもとより、幕府への絶対的な忠誠心と高度な政治的調整能力がなければ務まらない。これを外様大名である勝隆が二度も拝命したという事実は、彼が幕府からいかに特別な存在と見なされていたかを示している。
この「譜代格の外様」ともいうべき特異な地位は、偶然に得られたものではない。そこには、幾重にも張り巡らされた戦略的な関係構築の跡が見て取れる。まず、父・勝俊が徳川家康の次男・結城秀康の与力であったという経歴が、徳川家との特別な縁故の基盤となっている 17 。次に、大坂の役で譜代の重鎮・酒井家次の下で戦った経験が、幕府首脳との直接的な関係を築く契機となった。そして、その関係を決定的なものにしたのが、勝隆が後に酒井家次の娘を最初の正室として迎えたことであった 4 。
このように、父祖からの遺産、自らの戦功、そして有力譜代大名との婚姻政策を巧みに組み合わせることで、勝隆は外様でありながら幕府中枢との強固なパイプを持つ、極めて稀有な政治的ポジションを築き上げた。この絶妙な立ち位置こそが、彼に他の外様大名にはない行動の自由と幕府からの暗黙の支持をもたらし、後の備中松山における前代未聞の大規模な領国開発を断行できた最大の要因であると結論付けられる。
幕府内での信頼を不動のものとした勝隆に、大きな転機が訪れる。30年以上にわたって統治した関東の故地を離れ、西国へと向かう二度の転封(移封)である。これは、彼のキャリアにおける新たなステージの幕開けであり、備中開発という壮大な事業への序曲であった。
寛永16年(1639年)、水谷勝隆は幕府より、常陸下館から備中国成羽(現在の高梁市成羽町)へ、3万2千石から5万石への加増を伴う移封を命じられた 5 。この転封のタイミングは、極めて重要な政治的文脈の中に位置づけられる。
この直前の寛永14年(1637年)から15年にかけて、九州で「島原の乱」が勃発した。このキリシタン一揆は幕府を震撼させた大事件であり、その鎮圧後、幕府は関係した大名に厳しい処分を下した。乱の舞台の一つであった天草を領有していた唐津藩主・寺沢堅高もその一人であり、彼は乱の責任を問われて天草4万石を没収され、失意のうちに自害。これにより寺沢家は改易(断絶)となった 4 。
ここで注目すべきは、この寺沢堅高が、勝隆の後妻の兄(または弟)にあたる、極めて近い姻戚関係にあったという事実である 3 。そして、前述の通り、堅高の改易に伴う唐津城の城番という、幕府にとって非常にデリケートな後始末の任務を命じられたのが、他ならぬ水谷勝隆自身であった 5 。
この「島原の乱 → 姻戚である寺沢家の改易 → 勝隆が後始末を担当 → 勝隆の西国への転封」という一連の流れは、単なる偶然とは考え難い。この転封命令には、幕府の二つの深謀遠慮が隠されていたと推察される。一つは、幕府にとって厄介な任務であった寺沢家改易の後処理を、当事者と近しい立場にありながらも波風を立てずに完遂した勝隆の手腕を評価し、石高を加増した上で西国の要地を与えるという「論功行賞」の側面。もう一つは、より高度な政治的判断として、乱後の九州統治の安定化を図る上で、旧唐津藩主と姻戚関係にある勝隆を、九州から目と鼻の先にある唐津ではなく、少し離れた備中へと移すことで、将来的な政治的リスクの芽を摘み取ろうとしたという側面である。いずれにせよ、勝隆のキャリアにおけるこの大きな一歩は、島原の乱という国家的大事件の政治的力学の中で決定づけられたものであった。
成羽での治世はわずか3年間であったが、勝隆はこの短期間に、早くもその開発領主としての片鱗を見せている。彼は成羽川の流路を変更し、新たな陣屋(政庁)の建設に着手するなど、精力的に領内のインフラ整備に取り掛かっていた 3 。この計画性と実行力は、次の任地で開花することになる。
寛永19年(1642年)、成羽への移封からわずか3年後、勝隆に再び転封命令が下る。隣接する備中松山藩の藩主であった池田長常が嗣子なく死去し、無嗣改易となったため、その後任として勝隆が5万石で入封することになったのである 2 。
当時の備中松山藩は、中国山地の懐深くに位置する内陸の藩であった。そのため、藩の産物を全国市場へ効率的に搬出するための海の出口(外港)を持たないという、構造的な弱点を抱えていた 23 。これが藩の経済発展を阻害する最大の要因であり、歴代藩主にとっての長年の課題であった。
この地への入封は、水谷勝隆にとって、まさに天与の機会であった。彼の卓越した経営手腕と土木技術、そして幕府からの厚い信頼は、この松山藩が抱える長年の課題を根本から解決し、その潜在能力を最大限に引き出すためにこそ、発揮されるべきものであった。水谷勝隆の生涯における最大の事業が、今、始まろうとしていた。
備中松山藩主となった水谷勝隆の真骨頂は、この地で展開された壮大な領国経営にある。彼は、新田開発、水運整備、産業振興という三つの事業を個別の政策としてではなく、相互に連携する一つの巨大なシステムとして構想し、実行した。これは、現代の「地域総合開発」にも通じる、極めて先進的な取り組みであり、彼の名を「開発領主」として不朽のものとした。
事業名 |
目的 |
具体的な内容 |
経済的・社会的効果 |
玉島新田開発 |
外港の確保と実質石高の増加 |
高梁川河口の干潟と島々を堤防で連結し、広大な新田と港湾都市(玉島港)を造成 23 。 |
藩の食糧基盤の強化と、1万石以上ともいわれる実質的な増収。瀬戸内海有数の物流拠点の創出 23 。 |
高瀬通し開削 |
内陸の城下と新港・玉島の物流円滑化 |
城下と玉島港を結ぶ運河を整備し、高瀬舟による水運網を構築 9 。 |
輸送コストと時間の大幅な削減。藩の産品(特に鉄)を効率的に全国市場へ供給する経済動脈の確立 25 。 |
製鉄業振興 |
地域資源の活用と藩財政の強化 |
備中地方の豊富な砂鉄資源に着目し、「たたら製鉄」を藩の基幹産業として育成 1 。 |
鉄、農具、タバコなどが藩の主要な財源となり、公称5万石をはるかに超える実質10万石以上の経済力を藩にもたらした 26 。 |
勝隆が着手した三大事業の中核をなすのが、玉島新田の開発である。これは単なる農地開墾ではなく、藩の地理的弱点を克服し、経済構造を根底から変革するための、壮大な都市建設プロジェクトであった。
その最大の目的は、内陸にある松山藩に待望の外港を確保し、同時に新田開発によって実質的な石高を増加させることにあった 23 。勝隆が目をつけたのは、藩の飛び地であった高梁川の河口部、当時は「甕の海(もたいのうみ)」と呼ばれた広大な干潟であった。彼は、この干潟に点在する乙島、柏島といった島々を巨大な堤防で繋ぎ、海そのものを陸地へと変貌させるという、まさに天地を覆すような構想を抱いたのである 23 。
開発は、長尾外新田を皮切りに、船穂、勇崎、上成へと次々に拡大していった 23 。この前代未聞の大事業を遂行できた背景には、勝隆が「土木事業に堪能な人材を抱えていた」という事実がある 4 。彼の家臣団には、測量、設計、施工管理といった専門知識を持つ、いわばテクノクラート(技術官僚)集団が存在し、彼らが勝隆の構想を現実のものとしていったと推察される。
しかし、これほどの規模の開発は、当然ながら周辺領主との間に軋轢を生んだ。特に、高梁川を挟んで隣接する岡山藩(池田家)との間では、新田開発が競合し、境界線を巡る紛争(争論)がたびたび発生した 28 。このことは、勝隆の事業が自藩の枠を超え、備中南部の地域全体の利害に深く関わるほどのインパクトを持っていたことを物語っている。
このような困難な事業を進めるにあたり、勝隆は精神的な支柱も重視した。彼は、開発工事の安全と成功を祈願して、故郷である常陸下館の菩提寺にあった羽黒宮をこの地に勧請した。これが現在の倉敷市玉島にある羽黒神社の起源であり、この神社が鎮座する小高い丘は、玉島干拓という偉業を象徴する場所として、今なお地元の人々に深く親しまれている 23 。
玉島新田開発と表裏一体をなす事業が、「高瀬通し」と呼ばれる運河の開削であった。この運河は、内陸の城下町・高梁と、新たに創出した海の玄関口・玉島港とを水路で直結させ、藩経済の血液を循環させる大動脈となるものであった 10 。
伝えられるところによれば、この水路は当初、玉島新田に農業用水を供給する目的で計画されたものを、勝隆が藩の物流インフラとして活用することを発案し、高瀬舟が航行可能な運河へと大規模に改修・補強したものであるという 9 。
その技術的な特徴として、運河の要所に複数の樋門(ひもん、水門)を設け、その間に水を溜めて水位を調整し、一度に十数隻もの高瀬舟をまとめて下流へ流すという、極めて効率的な運航システムが採用されていたことが挙げられる 9 。これは、当時の日本の土木技術の水準の高さを如実に示すものであり、勝隆と彼が率いた技術者集団の非凡さを物語っている。
この「高瀬通し」の完成は、備中松山藩に一大流通革命をもたらした。これまで陸路で多大なコストと時間をかけて運ばれていた藩の産品、特に次節で述べる鉄や銅、あるいは和紙やタバコといった産品が、低コストかつ大量に玉島港へと集められるようになった 25 。そして、玉島港から大坂をはじめとする全国の巨大市場へと送られることで、藩に莫大な富をもたらすことになったのである。
玉島新田と高瀬通しというハードウェア(社会基盤)を整備した勝隆が、次に注力したのが、その上で稼働させるソフトウェア(経済活動)の中核、すなわち藩の基幹産業の育成であった。彼は、備中地方が古来より良質な砂鉄の一大産地であること 30 に着目し、伝統的な「たたら製鉄」を藩の財政を支える戦略的産業として強力に振興した 1 。
勝隆の戦略の巧みさは、単に製鉄を奨励しただけではない点にある。彼は、近隣の阿哲(現在の新見市)や成羽(現在の高梁市)で生産された鉄、あるいは吹屋で産出された銅などを藩が一元的に管理し、それを「高瀬通し」という新たな物流網を使って玉島港へ集約し、そこから藩の専売事業として全国市場へ販売するという、生産から流通、販売までを一貫して管理するシステムを構築したのである 26 。
この製鉄業を中心とした産業振興策は、劇的な成功を収めた。藩の財政は驚異的に好転し、公称の石高は5万石のままであったにもかかわらず、その実質的な経済力は10万石を優に超えていたと推計されている 26 。この潤沢な財政こそが、次代の藩主・勝宗による壮大な備中松山城の大改修を可能にした資金源であった。勝隆は、資源、インフラ、市場を巧みに結びつけることで、備中松山藩を全国でも有数の豊かな藩へと変貌させたのである。
数々の大事業を成し遂げた水谷勝隆とは、一体どのような人物だったのか。彼の人間性や為政者としての姿を、残された史料から探る。
戦国時代から続く武家の習いとして、婚姻は極めて重要な政治的意味を持っていた。勝隆の生涯もまた、二つの重要な政略結婚によって特徴づけられる。
最初の正室は、前述の通り、大坂の役で彼がその指揮下に入った譜代の重鎮・酒井家次の娘であった 4 。これは、若き外様大名であった勝隆が、幕府内での政治的立場を安定させ、その中枢に食い込むための、極めて戦略的な一手であったと言える。
その正室と死別した後に迎えた後妻は、肥前唐津藩主・寺沢広高の娘であった 4 。この婚姻は、結果として勝隆を島原の乱後の複雑な政治劇へと巻き込むことになり、彼のキャリアにおける一つの大きな転換点となった。これらの婚姻関係は、彼が常に中央の政治動向を視野に入れ、自家の安泰と発展のために戦略的に行動していたことを示唆している。
勝隆の人物像を伝える貴重な史料として、高梁市歴史美術館に所蔵されている彼の肖像画がある 32 。興味深いことに、その肖像画に描かれた勝隆は、甲冑をまとった武将の姿ではなく、黒の羽織袴という寛いだ服装で、傍らには碁盤が置かれている 32 。これは、彼自身が、もはや戦国の世の武人としてではなく、泰平の世を治める知的な経営者、あるいは文化人としての側面を強く意識していたことの表れかもしれない。
彼の成功は、個人の才能のみならず、優れた人材を登用し、適材適所で活用する卓越したマネジメント能力に負うところが大きかったと考えられる。彼が「土木事業に堪能な人材を抱えていた」 4 という記録は、彼の周囲に、現代でいうところの専門知識を持った技術官僚(テクノクラート)的な家臣団が存在したことを示唆しており、彼らを束ねて巨大プロジェクトを推進するリーダーシップこそが、勝隆の真骨頂であったのだろう 33 。
寛文4年(1664年)閏5月3日、備中松山藩の礎を一代で築き上げた水谷勝隆は、その居城である松山城にて、68年の波乱に満ちた生涯を閉じた 5 。法名は「大竜寺殿鉄山全性大居士」 5 。その法名に「鉄山」の二文字が含まれていることは、彼がいかに製鉄業に情熱を注ぎ、それが彼の治世を象徴するものであったかを物語っている。
彼の墓所については、二つの記録が存在する。一つは、旧領である常陸国下館の菩提寺・定林寺に葬られたというもの 4 。もう一つは、終焉の地である備中松山(岡山県高梁市和田町)の定林寺に墓所があるというものである 5 。これは、下館の定林寺から分骨されたか、あるいは備中の地に同名の菩提寺を新たに建立した可能性が考えられる。いずれにせよ、この事実は、彼が故郷・下館と、自らの手で発展させた新天地・備中松山の両方に対して、深い愛着を抱いていたことを示しているのかもしれない。
水谷勝隆が築いた盤石の基礎の上に、備中松山藩水谷家は栄華を極める。しかし、その繁栄は長くは続かず、突如として悲劇的な終焉を迎えることとなる。
代 |
氏名(よみ) |
官位 |
在任期間 |
石高 |
主要な治績・備考 |
初代 |
水谷 勝隆 (みずのや かつたか) |
従五位下 伊勢守 |
1642年 - 1664年 |
5万石 |
三大事業(玉島新田、高瀬通し、製鉄業)により藩の基礎を築く。 |
二代 |
水谷 勝宗 (みずのや かつむね) |
従五位下 左京亮 |
1664年 - 1689年 |
5万石 |
父の事業を継承・発展。現存する備中松山城天守を修築 4 。 |
三代 |
水谷 勝美 (みずのや かつよし) |
従五位下 出羽守 |
1689年 - 1693年 |
5万石 |
嗣子なく急死。これにより水谷家は無嗣改易となる 22 。 |
勝隆の跡を継いだ長男・勝宗は、父が遺した豊かな財政と安定した藩政基盤の上に、水谷家の治世をさらに発展させた 4 。彼は父の事業を忠実に継承し、新田開発などを継続して藩の経済力を高めた。その治世の晩年には、藩の財政は非常に豊かな状態にあったと伝わっている 34 。
勝宗の最大の功績は、父・勝隆の事業が生み出した潤沢な資金を元手に、現在、我々が目にすることができる備中松山城の天守を修築(天和3年、1683年)し、山麓に藩主の居館と政庁を兼ねた壮大な「御根小屋」を完成させたことである 26 。初代・勝隆と二代・勝宗の治世を合わせた約50年間は、備中松山藩の歴史におけるまさに黄金時代であった。
藩が最も繁栄の頂点にあった元禄6年(1693年)、突如として悲劇が訪れる。三代藩主・水谷勝美が、跡継ぎを定めることのないまま、31歳の若さで急死したのである 34 。
藩は急遽、勝美の従兄弟にあたる勝阜(かつおか)を末期養子(当主の死に際に迎える養子)として幕府に願い出たが、当時の幕府は「末期養子の禁」を厳格に運用しており、この願いを認めなかった。その結果、水谷家は「無嗣断絶」として、5万石の所領は全て没収(改易)という、最も厳しい処分を受けることになった 22 。
この決定には、単に当主が跡継ぎなく急死したという不運だけではない、より複雑な政治的背景があった可能性が指摘できる。元禄期は、幕府財政が次第に厳しさを増し、諸大名への統制を強化していた時代である。その中で、実質10万石以上ともいわれるほどの富を蓄積した外様大名・水谷家の存在は、幕府にとって魅力的であると同時に、潜在的な脅威と映ったとしても不思議ではない。水谷家の経済的成功そのものが幕府の警戒心を招き、厳格な法適用の一因となったという、歴史の皮肉な側面があった可能性は否定できない。
この水谷家の改易は、思わぬ形で日本の歴史における有名な一場面へと繋がっていく。改易に伴う備中松山城の城受け取り役に任じられたのは、播州赤穂藩主・浅野長矩であった。そして、藩主の名代として実際に現地に赴き、松山藩の家老であった鶴見内蔵助と交渉して、城の無血開城を実現させた人物こそ、後に「忠臣蔵」でその名を知られることになる赤穂藩家老・ 大石内蔵助良雄 だったのである 35 。この「二人内蔵助の対面」として知られる出来事は、大石が藩の存亡をかけた重大な交渉を経験する貴重な機会となり、後の赤穂事件へと繋がる歴史の重要な一場面として、特筆すべき価値を持つ。
大名家としての水谷家は、三代わずか51年でその歴史に幕を閉じた。しかし、初代・勝隆がこの地に遺したものは、大名家の盛衰という枠を遥かに超えて、後世に恒久的な影響を与え続けることになる。(なお、勝隆の次男・勝能の家系は、祖先の功績により3千石の旗本として存続を許され、幕末まで続いた 4 。)
勝隆がゼロから創り出した玉島新田と玉島港は、その後に入封した安藤氏、板倉氏といった歴代藩主たちによって引き継がれ、幕末に至るまで備中地方最大の物流拠点として繁栄を続けた。彼が開削した高瀬通しは明治時代まで地域の物流を支え、彼が振興した製鉄業は、後の山田方谷による藩政改革においても重要な産業として位置づけられるなど、地域の経済基盤として深く根付いた。
水谷勝隆の事業は、水谷家一代のものではなかった。それは、現在の岡山県高梁市と倉敷市玉島地区の社会・経済の礎を築いた、不滅の遺産だったのである。
本報告書を通じて、水谷勝隆の生涯とその功績を詳細に検証してきた。彼は、戦国武将の血を引きながらも、その能力と情熱を泰平の世における領国経営と経済開発に注ぎ込んだ、近世初期における「経営者型大名」の傑出した存在であった。
彼の備中松山藩における三大事業は、単なる個別の政策の寄せ集めではない。資源開発(製鉄業)、物流インフラ(高瀬通し)、そして生産・交易拠点(玉島新田・港)という三つの要素を、一つの壮大なシステムとして有機的に結びつけ、藩経済全体に革命的な相乗効果をもたらした、極めて戦略的な「地域総合開発」であった。この構想力と実行力は、同時代の他の大名と比較しても、群を抜いている。
水谷家の突然の断絶という悲劇的な結末は、彼の歴史的評価を何ら損なうものではない。むしろ、彼が一代で築き上げた社会資本が、大名家の盛衰という政治的枠組みを超えて、後世の地域社会を永続的に豊かにし続けたという事実こそが、彼の為政者としての真の価値を最も雄弁に物語っている。
したがって、本報告書は、水谷勝隆の評価を、単に「備中松山藩の有能な初代藩主」という限定的な枠から解き放ち、江戸時代初期の日本が生んだ、先見性に満ちた稀代の「開発領主」の一人として、歴史上然るべき位置に再評価することを強く提言し、結論とする。