江上家種(えがみ いえたね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて肥前国を中心に活動した武将である。龍造寺隆信の次男として生まれ、後に龍造寺氏の重臣である江上氏の家督を継いだ。彼は「当世無双の大力」と評されるほどの勇将であり、父・隆信に従って各地の合戦で武功を挙げた。しかし、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)に従軍し、異郷の地である釜山でその生涯を閉じた。
本報告書は、江上家種という一人の武将の生涯を、現存する史料や研究に基づいて多角的に掘り下げ、その出自、武功、人物像、そして後世に与えた影響について詳細に明らかにすることを目的とする。利用者様が既に把握されている概要、すなわち龍造寺家臣であり、龍造寺隆信の次男として江上家の家督を継ぎ、勇将として各地で活躍し、朝鮮で客死したという点を踏まえつつ、これらの情報をより深く、網羅的に解説していく。
江上家種の生涯を理解する上で、まず彼の出自と家族構成、そして彼が江上家を継ぐに至った経緯を明らかにする必要がある。これらは、彼の武将としてのキャリアや人間関係、さらには龍造寺氏内部の権力構造を読み解く鍵となる。
江上家種は、戦国時代の肥前国を代表する大名、「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信の次男として生を受けた 1 。一部資料では三男とする記述も見られるが 2 、本報告では次男説を主として扱う。幼名は又四郎と伝えられている 1 。残念ながら、彼の正確な生年は不明である 1 。
実父である龍造寺隆信は、少弐氏を滅ぼし、大友氏や島津氏と九州の覇権を争った戦国大名であり、その強力なリーダーシップと武威によって龍造寺氏を一代で大大名へと押し上げた人物である 2 。家種が生まれた時期は、まさしく龍造寺氏が勢力を急拡大させていた頃であり、彼はその渦中で成長した。
実母は、龍造寺家門の娘であり、隆信の正室であった 2 。彼女は家種の他にも、長男の龍造寺政家、龍造寺隆平、後藤家信、娘の玉鶴姫(蒲池鎮漣室)、倉町信俊室らを産んでいる 1 。これらの兄弟姉妹の存在は、後の龍造寺家の家督問題や、周辺豪族との婚姻政策にも影響を与えていくことになる。
隆信の次男という立場は、当時の武家社会の慣習からすれば、家督を継ぐ長男とは異なり、他家への養子縁組や分家創設の有力な候補者であったことを意味する。戦国大名家では、次男以下の男子は一門の結束を固めるため、あるいは敵対・従属関係にある他勢力を自家の影響下に置くための政略的な駒として利用されることが一般的であった。家種もまた、この慣例に則り、龍造寺家の勢力拡大戦略の一翼を担う存在として、その将来がある程度方向づけられていたと考えられる。このことは、後に彼が江上家の家督を継承する背景を理解する上で重要な点となる 3 。
江上家種は、龍造寺氏の重臣であった江上武種の養子となり、江上氏の家督を継承した 1 。江上氏は、元々は肥前国の有力国人で少弐氏に仕えていたが、15代当主である江上武種の代に、少弐氏が龍造寺隆信によって滅亡させられる直前の永禄2年(1559年)に隆信に降伏した 3 。
しかし、武種はその後、龍造寺氏から離反して大友氏に従ったため、龍造寺氏による征討を受けることになった。この事態を収拾するため、武種は和議を申し出て隠居し、その和議の条件として、龍造寺隆信の子である家種を養子として迎え、江上家の家督を譲ることになったのである 3 。この養子縁組は、単なる家督相続の問題ではなく、龍造寺氏が江上氏という潜在的な敵対勢力を確実に自らの支配下に組み込むための、極めて政治的な判断に基づくものであった。龍造寺隆信は、江上氏の武勇を惜しみ、これを自軍の戦力として活用する意図も持っていたとされる 4 。
この養子縁組は、龍造寺隆信による肥前国統一戦略の一環として位置づけられる。一度降伏しながらも再び敵対した江上武種の存在は、隆信にとって看過できない脅威であった。そこで、武種を隠居に追い込み、自らの実子である家種を江上氏の当主として送り込むことで、江上氏の武力を完全に龍造寺家の統制下に置き、かつ将来的な再離反の可能性を断つという、一石二鳥の効果を狙った戦略であったと言えよう。これは、単に家を存続させるという以上に、龍造寺家の支配体制をより強固なものにするための、高度な政治的判断の結果であった。
江上家種の正室は、於二九(おふく)という女性であった 1 。彼女は、日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠の次女であり、法名を香山芳春大姉といった 1 。一部資料では「ふく」とも記されている 5 。
大村純忠は、龍造寺氏とは地理的にも近く、時には同盟し、時には敵対するという複雑な関係にあった。この婚姻もまた、当時の肥前国における諸勢力の力関係や外交戦略を色濃く反映した政略結婚であった可能性が極めて高い。龍造寺隆信の勢力拡大期において、隣接する大村氏は戦略的に重要な存在であった。特に大村純忠はポルトガルやイエズス会といった海外勢力との結びつきも強く、その動向は肥前国全体の情勢に大きな影響を与えた。家種と純忠の娘との婚姻は、龍造寺氏と大村氏との間の同盟関係を強化する、あるいは一時的な緊張状態を緩和し、互いの背後を安定させるという戦略的な狙いがあったと推測される。特に、南方からの島津氏の圧力が強まる中で、肥前国内の諸勢力との連携は龍造寺氏にとって死活問題であり、この婚姻もその文脈の中で理解することができる。
江上家種には、正室於福との間に複数の子女がいた。記録によれば、娘の秋山砂智(智子とも。後に鍋島忠茂の正室となる)、長男の佐野茂義(茂美、佐野右京亮とも。法名は安心宗清)、次男の江上勝種(後に勝山大蔵と名乗る)がいた 1 。
また、家種は一時的に鍋島直茂の嫡男である鍋島勝茂(後の佐賀藩初代藩主)を養子として迎えていた時期がある 1 。この養子縁組は後に解消されているが 1 、勝茂は家種の養子として蓮池城の徳恩寺で学んだと伝えられている 7 。この事実は、龍造寺氏内部の権力構造の変動や、後の鍋島氏による龍造寺氏の実権掌握へと繋がる複雑な背景を暗示している。
龍造寺隆信の母であり、家種の祖母にあたる慶誾尼は、隆信の死後、龍造寺家の存続を深く憂慮していた。彼女は、龍造寺政家の子である高房の後継者として、鍋島勝茂を江上家種の跡目(つまり江上家)を継がせることで、龍造寺氏と鍋島氏の融合を図り、龍造寺家の名跡を保とうと画策したことがあった 8 。この構想は、龍造寺家の存続を第一に考えたものであったが、結果として鍋島氏のさらなる台頭を促す側面も持っていた。
家種と鍋島勝茂との養子縁組は、このような龍造寺本家の後継者問題や、龍造寺家中における鍋島氏の勢力拡大と深く関連しており、単なる家督継承の問題を超えた、複雑な政治的背景が存在したと考えられる。家種の死後、この養子縁組が解消されたことは 6 、その後の佐賀藩成立に至る権力移行の過程がいかに流動的で複雑であったかを物語っている。
以下に、江上家種の略年譜と主要な関係人物をまとめた表を示す。
表1:江上家種 略年譜
年代(西暦) |
出来事 |
典拠例 |
生年不明 |
龍造寺隆信の次男として誕生。幼名は又四郎。 |
1 |
元亀2年(1571年)以降か |
江上武種の養子となり、江上氏の家督を相続。肥前国神埼郡勢福寺城主となる。 |
1 |
天正12年(1584年) |
3月24日、沖田畷の戦いに参戦。父・隆信は討死するも、家種は奮戦し生還。 |
3 |
天正14年(1586年) |
4月、龍造寺家の領国支配を鍋島直茂に委任する起請文に、龍造寺一族重臣の一人として名を連ねる。 |
11 |
天正15年(1587年) |
豊臣秀吉の九州征伐に従軍。立花宗茂、鍋島直茂と共に先陣を務め、島津軍討伐に活躍。 |
12 |
天正17年(1589年) |
鍋島直茂の佐賀城移転に伴い、蓮池城主となる。この頃、鍋島直茂の嫡男・勝茂を一時養子に迎える(後に解消)。 |
1 |
文禄元年(1592年) |
豊臣秀吉による文禄の役(朝鮮出兵)に従軍し渡海。 |
1 |
文禄2年(1593年) |
2月2日(旧暦)、朝鮮の釜山にて死去。死因については病没説が有力だが、戦死説や狂死説(鍋島直茂との不和が原因とする説)も伝えられる。 |
1 |
表2:江上家種 関係人物一覧
関係 |
氏名 |
備考 |
典拠例 |
実父 |
龍造寺隆信 |
肥前の戦国大名、「肥前の熊」 |
1 |
実母 |
龍造寺家門娘 |
隆信の正室 |
2 |
養父 |
江上武種 |
江上氏15代当主。後に隆信に屈し、家種を養子に迎える。 |
3 |
正室 |
於福(おふく、於二九) |
大村純忠の次女。法名:香山芳春大姉。 |
1 |
長兄 |
龍造寺政家 |
龍造寺氏当主。 |
1 |
弟 |
後藤家信 |
後藤氏へ養子。 |
1 |
長女 |
秋山砂智(智子) |
鍋島忠茂室。 |
1 |
長男 |
佐野茂義(茂美) |
佐野氏を名乗り、佐賀藩士佐野氏の祖となる。法名:安心宗清。 |
1 |
次男 |
江上勝種(勝山大蔵) |
龍造寺家再興運動後、会津藩士となり江上氏を再興。 |
3 |
養子(一時) |
鍋島勝茂 |
鍋島直茂の長男。後の佐賀藩初代藩主。 |
1 |
義弟(主筋) |
鍋島直茂(信生) |
龍造寺隆信の義弟(隆信の母・慶誾尼が直茂の父・清房に再嫁)。龍造寺家の実権を掌握し、後の佐賀藩の基礎を築く。 |
2 |
江上家種は、龍造寺隆信の子として、また江上家の当主として、戦国乱世の肥前国において数々の戦いに身を投じた。彼の武将としての生涯は、父・隆信の覇業を支え、その死後は龍造寺家の困難な時期を乗り越えようとする奮闘の連続であった。
江上家種は、江上氏の家督を継いだ後、父・龍造寺隆信から肥前国神埼郡にある勢福寺城の城主に任じられた 1 。勢福寺城は、かつて龍造寺氏の宿敵であった少弐氏の拠点の一つであり、永禄2年(1559年)に隆信によって攻め落とされた後、龍造寺氏の支配下に入った城である 13 。
この勢福寺城は、肥前国における戦略的な要衝の一つであった。交通の結節点に位置し、周辺地域への影響力も大きかった。隆信が実子である家種をこの重要な城の主に据えたことは、彼に対する信頼の厚さを示すと同時に、この地域を確実に掌握し、龍造寺氏の支配基盤を固めるという明確な意図があったと考えられる。旧少弐氏勢力の残存や、隣接する大友氏の勢力圏を考慮すれば、勢福寺城の戦略的価値は極めて高く、そこに信頼できる武将を配置することは、龍造寺氏の勢力維持にとって不可欠であった。また、神埼郡は肥沃な穀倉地帯でもあり、経済的な観点からも重要な地域であった。家種がこの城を任されたことは、彼が龍造寺軍の主要な戦力として、また地域支配の責任者として大いに期待されていたことを物語っている。関連史跡として、現在の佐賀県神埼市には勢福寺城跡が残されている 14 。
天正12年(1584年)3月24日、龍造寺隆信は島津家久・有馬晴信連合軍と島原半島の沖田畷で激突した(沖田畷の戦い)。江上家種もこの戦いに龍造寺軍の一翼を担って参陣し、弟の後藤家信らと共に海岸沿いの浜手勢として布陣した 3 。
しかし、この戦いは龍造寺軍にとって悲劇的な結果に終わる。総大将である龍造寺隆信が島津軍の策にはまり討死し、龍造寺軍は総崩れとなった 2 。『九州治乱記』によれば、この戦いで龍造寺方は隆信をはじめ重臣の成松信勝、百武賢兼ら230余名が戦死するという壊滅的な敗北を喫した 10 。
このような絶望的な状況の中、江上家種は奮戦し、九死に一生を得て戦場を離脱した 3 。『城島村郷土誌』所収の「江上氏と荒人神社」には、「江上権兵衛家種は大豪無双の武将で鬼神の様な働きをしましたが、戦い利あらず僅か七名の従者と共に死地を脱しました」との記述があり 4 、その勇猛果敢な戦いぶりが伝えられている。しかし、この撤退行も過酷なものであり、配下の勇将・執行種兼らを失っている 10 。
沖田畷の戦いは、九州の勢力図を大きく塗り替える転換点となり、龍造寺氏の勢力は急速に衰退することになる。総大将を失い、多くの重臣を喪った龍造寺家にとって、隆信の子であり勇将として知られた家種の生還は、数少ない光明であった。彼の武勇伝は、敗戦に沈む龍造寺家臣団の士気をわずかながらも繋ぎ止め、その後の龍造寺家の再建において精神的な支柱の一つとなった可能性が考えられる。
沖田畷の戦いから5年後の天正17年(1589年)、江上家種は勢福寺城から蓮池城へと移封された 1 。これは、龍造寺隆信の義弟であり、当時龍造寺家の実権を掌握しつつあった鍋島直茂が、本拠を佐賀城に移したことに伴う措置であった 1 。
蓮池城は、佐賀平野の東部に位置し、筑後国との国境に近い戦略的要衝であった。この移封は、沖田畷の戦い後の龍造寺領内の再編と、鍋島直茂を中心とする新たな権力構造の形成過程で起こったものと考えられる。直茂が龍造寺家の本拠地である佐賀城に入り、家政を統括するにあたり、信頼できる一門の武将を国境防衛の要となる蓮池城に配置する必要があった。家種を蓮池城主に据えることは、彼の武勇を活かして筑後方面への備えを固めるという軍事的な意味合いと同時に、龍造寺家の中心部から物理的に距離を置かせることで、直茂の佐賀城における支配体制をより強固にするという政治的な意図も含まれていた可能性がある。この時期に、家種が鍋島直茂の嫡男である勝茂を養子に迎えていること 1 も、龍造寺家と鍋島家の関係性の複雑さ、そして権力移行の過渡期であったことを示している。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定が行われ、九州の諸大名は豊臣政権の支配体制下に組み込まれた。龍造寺氏もその例外ではなく、江上家種もまた、この新たな政治秩序の中で活動することになる。九州征伐の際には、家種は立花宗茂や鍋島信昌(直茂)と共に先陣の一隊を構成し、島津軍の討伐に活躍したと記録されている 12 。
豊臣政権下における龍造寺家の内部では、鍋島直茂の権力と影響力がますます増大していった。天正14年(1586年)4月には、龍造寺政家(隆信の嫡男で家種の兄)、龍造寺一族の重臣たち、そして鍋島直茂の三者間で、龍造寺領の支配権を直茂に委任するという内容の起請文(誓紙)が取り交わされた 11 。この重要な決定の場に、江上家種は龍造寺一族の重臣10人の一人として名を連ねている 11 。
この起請文は、龍造寺隆信亡き後の龍造寺家の統治体制を形式上確定させるものであり、実質的には鍋島直茂への大幅な権力移譲を追認するものであった。家種がこの歴史的な文書に署名したという事実は、彼が依然として龍造寺家中で重要な地位を占めていたことを示すと同時に、龍造寺家の実権が鍋島氏へと移行していく大きな流れの中に身を置いていたことを意味する。隆信の実子であり、勇将としても知られる家種がこの取り決めに加わることは、他の家臣に対する説得力を持ち、直茂の支配体制への移行を円滑に進める上で不可欠だったと考えられる。しかし、その内心には複雑な思いがあったとしても不思議ではなく、後の朝鮮出兵時の鍋島直茂との関係に影を落とす遠因となった可能性も否定できない。
天正20年・文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は朝鮮への出兵を開始した(文禄の役)。江上家種もこの戦役に龍造寺軍の一員として参加し、朝鮮半島へ渡海した 1 。当時の龍造寺家臣団は、鍋島直茂の指揮下に編成されて出陣したとされており 12 、家種もその一翼を担ったと考えられる。鍋島直茂・勝茂親子は四番隊に所属していた記録がある 17 。
しかし、家種の朝鮮での戦いは長くは続かなかった。文禄2年2月2日(西暦1593年3月4日)、家種は朝鮮半島の釜山において陣没した 1 。その死因については、史料によって記述に差異が見られる。
最も一般的に伝えられているのは「病死」である 1 。異郷の地での厳しい陣中生活は、多くの将兵の健康を蝕み、病による死は決して珍しいことではなかった。
一方で、「討死」したとする記述も存在する 9 。家種の武勇を考えれば、戦闘中に命を落とした可能性も十分に考えられる。
さらに注目すべきは、「狂死」したという説である 12 。この説の背景には、家種が鍋島直茂の指揮下に入ることを快く思っておらず、その無念さや憤懣が死に繋がったのではないかという推測が含まれている。龍造寺隆信の実子であり、かつては父と共に龍造寺軍の中核を担い、勇将として名を馳せた家種にとって、元は家臣筋であった鍋島直茂の指揮下で戦うことは、内心、屈辱的であったかもしれない。朝鮮の役において龍造寺家臣団が事実上、鍋島直茂の軍団として編成されたことは、龍造寺家の実権が完全に鍋島氏に移ったことを内外に示す象徴的な出来事であった。これに対する家種の不満や葛藤が、何らかの形で彼の精神や健康に影響を与え、「狂死」という形で伝承された可能性が考えられる。あるいは、当時の権力闘争の常として、直茂にとって潜在的に不都合な存在であった家種が、何らかの不慮の死を遂げ、それが曖昧な形で処理されたという深読みも、戦国時代の複雑な人間関係を考慮すれば完全には否定しきれない。
いずれにせよ、江上家種の死因に関する諸説の存在自体が、彼の最期が穏やかなものではなかった可能性、そして当時の龍造寺家(あるいは実質的にそれを継承しつつあった鍋島家)内部の複雑な事情を反映していると言えるだろう。
江上家種は、その勇猛さや器量について、同時代や後世の記録にいくつかの評価を残している。これらの記述は、彼の人物像を具体的に浮かび上がらせる手がかりとなる。
江上家種は、その並外れた武勇で知られていた。利用者様がご存知の通り、「当世無双の大力」と評されたという。この評価を裏付けるように、複数の史料が彼の武勇について言及している。『葉隠』の記述を引く資料によれば、「威風堂々とした体格で、特に武勇に優れていた」とされ 1 、また別の資料では「父・隆信譲りの立派な体格で、武勇に秀でていた」と記されている 9 。
特に、沖田畷の戦いにおける彼の奮戦ぶりは、その武勇を物語る具体的な事例として伝えられている。『城島村郷土誌』に引用される伝承では、「江上権兵衛家種は大豪無双の武将で鬼神の様な働きをした」と形容され、父・隆信が討死し龍造寺軍が総崩れとなる絶望的な状況下で、わずかな手勢と共に死地を脱したとされている 4 。
戦国武将にとって、個人の武勇は自らの存在価値を示す最も重要な資質の一つであった。家種のこの「大力」「無双」といった評価は、彼が単なる大名の次男ではなく、一人の優れた武人として周囲から認められていたことを示している。「肥前の熊」と称された父・龍造寺隆信の武威は、龍造寺家躍進の原動力であったが、その父譲りの「立派な体格」と「武勇」を持つ家種は、家臣たちにとって隆信の面影を重ね見る存在であった可能性がある。特に隆信の死後、弱体化した龍造寺家において、家種の武勇は精神的な支柱となり、内外に対する抑止力としても機能したのではないかと考えられる。彼の武勇伝が語り継がれることは、龍造寺家の武威を維持し、家臣の忠誠心を繋ぎとめる上で重要な役割を果たしたと推測される。
残念ながら、『肥陽軍記』や『北肥戦誌』といった軍記物に、彼の武勇を示す具体的なエピソードがどのように記されているかについては、提供された資料の範囲では詳細を確認できなかったが 18 、これらの評価は彼の武将としての際立った特徴をよく表している。
江上家種は、単に武勇に秀でていただけの猛将ではなかった可能性が示唆されている。『葉隠』の記述を引く資料には、「兄弟の中で最も父、隆信の才を受け継いでいた事が窺える」との評価が見られる 1 。
ここでいう「隆信の才」とは、単に戦場での勇猛さだけを指すのではなく、より広範な武将としての資質、例えば家臣を統率する力、戦略的な判断力、あるいは政治的な駆け引きの能力なども含んでいた可能性がある。龍造寺隆信は、一代で龍造寺家を九州三強の一角にまで押し上げた傑物であり、その成功は武力だけでなく、知略や人心掌握術にも長けていた結果であった。家種がその「才」を最も受け継いだと評価されるのは、彼が戦場での働きに加えて、大局観や指導力といった面でも非凡なものを持っていたからかもしれない。
もし彼が龍造寺家の全権を掌握する立場にあれば、父・隆信とはまた異なる形で家を導き、その「才」を存分に発揮した可能性も考えられる。しかし、現実には隆信の死後、龍造寺家の実権は義弟である鍋島直茂へと徐々に移行していった。家種は、その過程において重要な役割を担いつつも、自らが主体的に家全体を動かす機会は限られていたかもしれない。彼の持つ「才」が、時代の大きな流れの中で十分に開花する前にその生涯を終えたとすれば、それは龍造寺家にとっても、家種自身にとっても大きな損失であったと言えるだろう。
江上家種に関連する興味深い伝承として、沖田畷の戦いで戦死した江上衆の祟りと、それを鎮めるために建立された荒人神社の話がある。複数の資料によれば 4 、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで、江上家種に従って出陣した江上氏の家臣団(江上衆)は奮戦の末、そのほとんどが玉砕したという。その後、彼らの亡魂が祟りをなし、特にイナゴが大量発生して農作物に被害を与えるなどの災厄が起こったため、享保九年(1724年)になって、これらの戦死者を「荒人神」として祀り、江上氏の旧城跡(あるいはその近辺の西江上)に神社を建立してその霊を鎮めたと伝えられている 4 。
戦死者の怨霊や祟りを鎮めるための祭祀は、日本の民間信仰において広く見られる現象である。沖田畷の戦いという悲劇的な出来事、特に江上衆の壮絶な最期は、地域の人々にとって強烈な記憶として残り、後世まで語り継がれたのであろう。その無念の死が、時代を経てイナゴの発生といった自然災害と結びつけられ、「祟り」として認識されたと考えられる。荒人神社を建立し、彼らを神として祀るという行為は、怨霊を鎮め、地域の安寧と豊穣を願う人々の切実な思いの表れである。
この伝承は、江上家種とその家臣たちが、単なる歴史上の人物としてではなく、地域の記憶や信仰の中で生き続けていることを示している。注目すべきは、祟りをなしたのは家種自身ではなく「江上衆」とされている点である。家種は辛うじて生き延びたものの、多くの忠実な家臣を失ったことに対する彼の無念さや、あるいは生き残った者の負い目のような感情が、この伝承の形成に影響を与えた可能性も考えられる。この荒人神社の存在は、戦国時代の記憶が後世の地域社会にどのように受容され、変容していったかを示す貴重な事例と言えるだろう。
江上家種の死後、彼の子女たちはそれぞれ異なる道を歩み、江上家の血筋を後世に伝えた。特に、佐賀藩と会津藩という、地理的にも政治的にも大きく異なる場所で家名を存続させたことは注目に値する。
江上家種の長男であった茂義(茂美とも、通称は右京亮)は、父の死後、江上姓を捨てて佐野氏を名乗った 1 。彼の法名は安心宗清と伝えられている 1 。そして、その子孫は佐賀藩士佐野氏として家名を継いでいった 3 。
茂義がなぜ江上姓から佐野姓へと改めたのか、その明確な理由は史料からは判然としない。しかし、いくつかの可能性が考えられる。一つは、当時、龍造寺家の実権を完全に掌握し佐賀藩の藩祖となった鍋島氏の体制下で、旧主家である龍造寺隆信の直系の血を色濃く引く「江上」という姓を持つことが、政治的に微妙な立場に置かれる可能性を考慮したというものである。新たな支配体制の中で家を存続させるための、一種の処世術であったのかもしれない。あるいは、母方や妻方の姓など、何らかの縁故に基づいて佐野姓を名乗った可能性も考えられる。
いずれにせよ、佐野氏と改姓した茂義の子孫が佐賀藩士として続いたという事実は、鍋島藩体制下において、旧龍造寺一門に対しても一定の配慮がなされ、その家系が藩内で受け入れられていったことを示している。
江上家種の次男である勝種(幼名は勝山大蔵、後に江上隼人と称す)は、兄とは異なり、波乱に満ちた生涯を送った後、遠く離れた会津の地で江上家を再興することになる 3 。
勝種は、初め勝山姓を名乗っていた。彼は、龍造寺宗家の血を引く龍造寺伯庵(龍造寺高房の子)を擁立し、江戸幕府に対して龍造寺家の再興を訴える運動を起こした 3 。しかし、この訴えは認められず敗訴に終わる。その結果、勝種は正保元年(1644年)に会津藩主である保科正之(徳川家光の異母弟)のもとに預けられる身となった 3 。
会津に移った後、勝種は江上氏に復姓し、江上氏17代当主として名跡を復活させた 3 。そして慶安元年(1648年)、正式に会津藩に召し抱えられ、以後、彼の子孫は会津藩士として幕末まで続くことになった 20 。龍造寺伯庵の後見役であったことが考慮され、藩主から特別な計らいを受けたとも伝えられている 3 。
江上勝種による龍造寺家再興運動は、父祖の無念を晴らそうとする強い意志の表れであったと言えるだろう。その試みが失敗に終わった後も、彼は江上姓を再興し、遠く会津の地で家名を存続させた。これは、一族の誇りとアイデンティティを守り抜こうとした彼の執念を示すものである。会津藩に召し抱えられた背景には、藩主保科正之の器量の大きさと、かつての敵対勢力の血を引く者であっても、その能力や忠誠を評価する姿勢があったのかもしれない。
この会津藩士江上家の系譜からは、幕末の動乱期に活躍した人物が出ている。江戸時代最後の当主とされる江上種順の子、江上種明は、秋月登之助と名乗り、戊辰戦争においては旧幕府軍の精鋭部隊である伝習第一大隊の隊長として、土方歳三らと共に各地を転戦し勇名を馳せた 3 。彼の墓は、会津若松市の興徳寺にある江上家の墓所にあり、「秋月登之助 明治18年1月6日 行年44才」と刻まれている 21 。江上家種の武勇の血が、数代を経て幕末の会津で再び発揮されたことは、歴史の興味深い巡り合わせと言えるだろう。
江上家種の生涯や彼の一族に関連する史跡は、主に佐賀県と福島県会津若松市に残されている。これらの史跡は、彼の足跡や一族の歴史を今に伝える貴重な文化遺産である。
江上家種の墓所は、佐賀県神埼市神埼町にある種福寺に存在する 1 。この寺は江上氏の菩提寺であり 23 、家種とその妻・於福(大村純忠の娘)の墓が並んで現存していると伝えられている 1 。
家種は文禄の役の最中に朝鮮の釜山で客死したが 1 、その遺骨か遺髪が故郷に持ち帰られ、養子先の菩提寺である種福寺に、江上氏の当主として正式に埋葬されたと考えられる。妻と共に祀られていることは、彼が江上氏の後継者としての地位を最後まで(あるいは死後も)認められていたことの証左となる。この墓所の存在は、家種が江上氏の正当な当主として、またその地域の領主として、人々に記憶されていたことを示しており、地域史における彼の存在を物理的に証明するものである。
江上家種が城主を務めた城の跡地も、彼の武将としての活動を偲ぶ上で重要な史跡である。
これらの城跡は、家種の武将としての活動拠点であり、当時の地域の軍事・政治状況を考察する上で貴重な手がかりとなる。特に、勢福寺城から蓮池城への移封は、龍造寺家内部における権力構造の変化や、家種の役割の変遷を示唆している。勢福寺城が神埼郡の中心に位置し、肥前東部支配の拠点であったのに対し、蓮池城はより軍事的な前線基地としての性格が強かった。この配置転換は、武勇に優れた家種を国境の要に据えるという適材適所の判断であると同時に、彼を権力の中枢からやや距離を置かせるという政治的配慮も含まれていた可能性がある。
江上家種本人に直接関わる史跡ではないが、彼の子孫の歴史を伝える重要な場所として、福島県会津若松市の興徳寺が挙げられる。この寺には、会津藩士となった江上勝種とその子孫たちの墓所があり、その中には幕末に秋月登之助として活躍した江上種明の墓碑も含まれている 21 。
興徳寺の江上家墓所は、江上家種から始まる一族の歴史が、九州の戦国時代から遠く離れた東北の地で、幕末という新たな動乱の時代まで続いていたことを示す貴重な証である。これは、江上家の歴史の広がりと、武士としての家系の継続性を物語っている。
江上家種は、龍造寺隆信の次男という出自を持ちながら、江上家の家督を継ぎ、戦国乱世の肥前国で勇将としてその名を馳せた武将であった。彼の生涯は、父・隆信の覇業を支える輝かしい武功と、主家の衰退、そして異郷での早すぎる死という悲運に彩られている。
「当世無双の大力」と評されたその武勇は、沖田畷の戦いでの絶望的な状況下での奮戦ぶりにも見て取れる。また、「兄弟の中で最も父、隆信の才を受け継いでいた」との評価は、彼が単なる猛将ではなく、統率力や戦略眼をも備えた器量の大きな人物であったことを示唆している。
しかし、彼の生きた時代は、龍造寺氏の急速な勢力拡大とその後の衰退、豊臣政権による全国統一、そして龍造寺家の実権を掌握していく鍋島氏の台頭という、まさに激動の時代であった。父・隆信の死後、龍造寺家の屋台骨を支える存在として期待されながらも、その実権が義弟である鍋島直茂へと移っていく過程で、家種が抱いたであろう苦悩や葛藤は察するに余りある。朝鮮出兵における彼の死因について、病死説の他に戦死説や、鍋島直茂との不和を背景とする狂死説まで伝えられていることは、その最期が穏やかなものではなかった可能性を強く示唆している。
家種の死後、その血筋は二つの流れに分かれた。長男・茂義の系統は佐野氏と改姓し佐賀藩士として続き、次男・勝種の系統は龍造寺家再興運動の夢破れた後、遠く会津の地で江上姓を再興し会津藩士として家名を繋いだ。特に、勝種の子孫から幕末に旧幕府軍として活躍した秋月登之助(江上種明)が出たことは、江上家の武門の系譜が数世紀にわたり受け継がれたことを物語っている。
江上家種という一人の武将の生涯を追うことは、戦国時代から近世へと移行する激動期を生きた武士の生き様、そして地方の有力な武家一族が辿った複雑な運命の一端を垣間見ることでもある。彼の武勇と悲運の物語は、多くの史料や伝承の中に断片的に残されており、それらを繋ぎ合わせることで、より鮮明な人物像が浮かび上がってくる。本報告書が、江上家種という武将への理解を深める一助となれば幸いである。