江戸通泰は水戸城主で、佐竹氏と対立しつつ巧みな外交で独立を保った。しかし、子の代で佐竹氏に従属し、江戸氏は滅亡した。
本報告書は、戦国時代初期の常陸国にその名を刻んだ武将、江戸通泰(えど みちやす)の生涯と、彼が率いた常陸江戸氏の興亡を、多角的な視点から徹底的に分析・考察するものである。通泰は、常陸の有力国人であり、水戸城主として知られるが、その実像は単なる一地方領主の枠に収まるものではない。本報告書では、通泰を、主家である佐竹氏との従属と対立の狭間で巧みに立ち回り、関東地方全体の政治力学を読み解きながら自家の独立と発展を追求した、高度な戦略眼を持つ独立領主として再評価することを目的とする。彼の行動原理を、①主家・佐竹氏との関係性の変遷、②古河公方を巡る広域的な政争への介入、③自身の婚姻政策を基軸とした外交ネットワーク、という三つの軸から解き明かしていく。
通泰が活躍した16世紀前半の関東地方は、室町幕府の権威が著しく低下し、応仁の乱に先立つ享徳の乱 1 以降、古河公方・足利氏と関東管領・上杉氏の対立を根源とする恒常的な戦乱状態にあった。この権力の空白地帯と化した関東において、常陸国もまた例外ではなかった。守護大名である佐竹氏を中心に、小田氏、大掾氏といった国人領主たちが、互いに勢力拡大を目指して鎬を削る、まさに群雄割拠の様相を呈していた 2 。
このような厳しい競争環境の中で、常陸江戸氏は極めて特異な立ち位置を占めていた。彼らは、常陸守護・佐竹氏の「宿老」という家臣としての立場にありながら 5 、その実態は佐竹氏の統制に容易には服さない、極めて強い独立性を保持していたのである 5 。この「従属と独立の二面性」こそが、江戸通泰という人物、そして彼の一族の行動を理解する上で最も重要な鍵となる。本報告書は、この視座に基づき、通泰の生涯を丹念に追うことで、戦国時代初期における地方権力の生存戦略と、その栄光と悲劇の実像に迫るものである。
常陸江戸氏の出自は、鎮守府将軍・藤原秀郷を遠祖とする名門、那珂氏の傍流とされている 7 。伝承によれば、藤原秀郷から数えて五代目の子孫である藤原公道が常陸国久慈郡太田郷に着任し、その次男・通直が那珂郡川辺郷を拠点としたことに始まる 8 。その後、通直の子が那珂郷に移り住み、那珂氏を称するようになったという。しかし、南北朝時代の動乱の中で那珂氏は宗家が滅亡の危機に瀕し、その際に一族の那珂通辰の子・通泰(本稿の江戸通泰とは同名の別人)ただ一人が生き延び、那珂川沿いの下江戸という地域を本拠として「江戸氏」を称したのが、その発祥と伝えられている 8 。
ただし、これらの平安時代末期にまで遡る系譜については、それを裏付ける確かな史料に乏しく、不確実な部分が多いのも事実である 8 。戦国時代の江戸氏が、自らの権威を高めるために名門の系譜を称した可能性も考慮に入れる必要があろう。確かな歴史の舞台に江戸氏が登場するのは、15世紀に入ってからのことである。
当初、江戸氏は那珂川中流域の河和田城(現在の水戸市河和田町)などを拠点としていた 8 。しかし、一族の歴史における最大の転機は、江戸通房の代に訪れる。応永年間(15世紀初頭)、通房は上杉禅秀の乱において足利幕府方として戦功を挙げ、それまで水戸城(当時は馬場城と呼ばれた)を拠点としていた大掾(馬場)氏を追放し、遂に水戸城を奪取した 11 。この年代については、応永23年(1416年)説と応永33年(1426年)説があるが 8 、いずれにせよ、この水戸城の掌握が、その後の江戸氏の飛躍の土台を築いたことは間違いない。
水戸城は、那珂川と千波湖に挟まれた台地上に位置する天然の要害であり、那珂川水運を扼する交通の要衝でもあった。この戦略的拠点を手に入れたことで、江戸氏は那珂川下流域から涸沼北岸に至る広大な地域に支配権を確立し、単なる一土豪から、常陸国における有力な国人領主へと成長を遂げたのである。以後、天正18年(1590年)に佐竹氏によって滅ぼされるまでの約170年間にわたり、水戸城は江戸氏累代の居城として、その支配の中心地であり続けた 2 。
江戸通泰の父であり、常陸江戸氏の5代当主にあたる通雅(みちまさ)の時代には、一族の支配体制はさらに強固なものとなっていった。水戸城下には一族や家臣団の屋敷、宿所が整備され、城主としての威容が整えられた 10 。
また、この時期の常陸国では、守護・佐竹氏の内部で宗家と有力庶子家の山入氏との間で約100年にも及ぶ深刻な内紛、いわゆる「山入一揆」が続いていた 13 。この内紛において、通雅は一貫して佐竹宗家の当主・佐竹義舜(よしきよ)を支持し、その勝利に貢献した 14 。この功績が、後に息子・通泰の代で結実することになる、佐竹氏との関係を大きく変える布石となったのである。
江戸通泰は、文明18年(1486年)に江戸通雅の子として生を受けた 7 。通称を彦五郎、官途名を但馬守と称した 5 。永正7年(1510年)、父・通雅が没し、兄の通則もそれに先立って死去していたため、通泰が常陸江戸氏6代当主として家督を相続することとなった 7 。
通泰の家督相続に先立つことわずか、永正7年(1510年)12月2日、江戸氏の歴史において画期的ともいえる出来事が起こる。父・通雅と、当時まだ若年の通泰が連名で、主家である佐竹義舜との間に新たな盟約を締結したのである 5 。この盟約の核心は「一家同位(いっかどうい)」という取り決めにあった。これは、佐竹氏が江戸氏に対し、末永く佐竹宗家と同等の家格をもって処遇することを約束するという、主従関係の常識を覆す極めて異例の内容であった 17 。
この盟約は、南陸奥の戦国大名・岩城氏の仲介によって成立しており 17 、残された史料の文面から、江戸氏側からの強い働きかけによって実現したことがうかがえる 18 。盟約の内容は、対面の際の礼儀作法や書状の形式に至るまで、江戸氏を佐竹一門と同等に扱うことを具体的に定めていた。
この「一家同位」の盟約は、一見すると主君である佐竹氏が、忠実な家臣である江戸氏に対して与えた破格の恩恵のように映る。しかし、その締結に至る背景を深く探ると、全く異なる様相が浮かび上がってくる。これは、江戸通雅・通泰父子が、佐竹氏の置かれた窮地を巧みに利用し、自らの政治的地位を飛躍的に向上させた、高度な政治交渉の産物であった。
当時の佐竹義舜は、約一世紀にわたって続いた一族の内紛「山入一揆」の最終局面にあった 14 。彼は庶流の山入氏によって本拠地である太田城を追われ、各地を転々としながら苦しい戦いを強いられる絶体絶命の状況に追い込まれていた 14 。この劣勢を覆し、宗家の権威を再確立するためには、江戸氏や小野崎氏といった常陸国内の有力国人たちの軍事協力が不可欠であった 14 。
江戸氏はこの千載一遇の好機を見逃さなかった。彼らは自らの軍事協力を最大の「取引材料」として、佐竹義舜に対し、家格の平等を要求したのである。これは単なる名誉の問題ではなかった。「一家同位」の承認は、事実上、佐竹氏の直接的な指揮命令系統から半ば離脱し、江戸氏が独自の外交権や軍事行動権を持つことを黙認させるに等しい、極めて重い政治的意味合いを持っていた。守護家の家臣という立場から、対等な「盟友」へと、自らの地位を法的に再定義する試みだったのである。
事実、この盟約が締結された直後から、家督を継いだ江戸通泰は、佐竹氏とは全く異なる独自の外交路線を大胆に展開し始める。彼のその後の全ての行動は、この「一家同位」という盟約によって獲得した、強固な政治的地位に立脚していた。それは、父・通雅から子・通泰へと受け継がれた、戦国の世を生き抜くための深慮遠謀の表れであったといえよう。
通泰が家督を継いだ16世紀初頭の関東では、室町幕府の権威に代わって関東一円に影響力を行使していた古河公方家で、深刻な内紛が勃発していた。当主であった足利政氏と、その嫡男・高基が家督を巡って激しく対立し、関東の諸大名を巻き込む大乱、いわゆる「永正の乱」へと発展したのである 7 。
この争乱において、江戸氏の主家である佐竹義舜は、一貫して父・政氏を支持する立場をとった 5 。主従関係の論理からすれば、その宿老である江戸通泰もまた、義舜に従い政氏方に与するのが当然の道であった。しかし、通泰は驚くべき行動に出る。彼は佐竹氏の方針に公然と背き、政氏と敵対する子・高基を支持するという、主家とは完全に相反する立場を明確にしたのである 5 。これは、「一家同位」の盟約がインクも乾かぬうちの出来事であり、江戸氏がもはや佐竹氏の意向に縛られない独立した政治勢力であることを、内外に強く誇示する行動であった。
通泰の独立志向は、さらに先鋭化していく。永正9年(1512年)、隣国の下野で、宇都宮城主・宇都宮成綱とその重臣である芳賀氏一族が対立する内紛、いわゆる「宇都宮錯乱」が発生した 5 。この内紛に、古河公方の足利高基が宇都宮成綱を支援する形で軍事介入すると、通泰もまた高基方としてこれに加担した。
一方で、佐竹義舜は芳賀氏と、彼らが支持する足利政氏の陣営に属していたため、通泰はまたしても佐竹氏と戦場で矛を交える敵対関係に入ったのである 5 。永正11年(1514年)には、政氏方の佐竹・岩城連合軍が、高基を擁する宇都宮忠綱(成綱の子)らを宇都宮城に攻め、大敗を喫している(竹林の戦い) 18 。この合戦に直接通泰が参陣した記録はないものの、彼が属する高基方が勝利を収めたことで、江戸氏の政治的立場はさらに強化されることとなった。
江戸通泰が、主家である佐竹氏に公然と反旗を翻すという大きな政治的危険を冒してまで、足利高基を支持し続けたのはなぜか。その行動は、単なる場当たり的な判断や、若さゆえの無謀さによるものではなかった。彼の外交戦略の根底には、周到に張り巡らされた婚姻関係という、強固なセーフティネットが存在した。彼の選択は、このネットワーク全体の利益を最大化するための、極めて合理的かつ計算されたものであった。
まず、通泰の家族構成を詳細に見ていく必要がある。彼の母は、常陸の有力国人である小野崎朝通の娘であった 7 。そして彼の正室は、下野の雄・宇都宮氏の宿老であり、当時大きな影響力を持っていた芳賀高経の娘だったのである 7 。
通泰が足利高基を支持するにあたり、常に緊密な連携をとっていたのが、母方の実家である小野崎氏であったことは史料からも明らかである 18 。これは血縁に基づく、容易には揺るがない強固な同盟関係であった。さらに重要なのが、正室の実家である芳賀氏との関係である。芳賀氏は宇都宮家の重臣であり、その宇都宮氏は足利高基を支える中核的な勢力であった。つまり、通泰は婚姻政策を通じて、高基陣営の中枢と直接的かつ個人的なパイプを構築していたのである。
これらの事実を繋ぎ合わせると、通泰の戦略的な思考が鮮明に浮かび上がってくる。彼の前には二つの道があった。一つは、これまで通り常陸の一国人として佐竹氏に従属し続ける道。もう一つは、自らが築いた婚姻と血縁のネットワークを最大限に活用し、関東全体の覇権を争う足利高基陣営の中核に身を投じる道である。彼は後者を選んだ。それは、一地方領主である佐竹氏の麾下に留まるよりも、関東全域を舞台とする広域的な政争に参加する方が、江戸氏の政治的価値を飛躍的に高め、ひいては自家の独立を確固たるものにできると判断したからに他ならない。
通泰は、佐竹氏という単線的な主従関係にのみ依存する旧来のあり方を脱却し、小野崎氏(血縁)、芳賀・宇都宮氏(姻戚)という複数の関係性を巧みに組み合わせた、多層的な外交安全保障ネットワークを構築・駆使していた。これは、戦国時代初期の地方領主が、激動の時代を生き抜くために編み出した、極めて先進的なリスク分散戦略であり、江戸通泰の非凡な戦略家としての一面を如実に示している。
水戸城主となった江戸氏は、この天然の要害を拠点に、その支配体制を着実に固めていった。城郭は、本丸に相当する「内城」と、重臣の屋敷地などが置かれた「宿城(二の丸)」を中心に構成され、特に関ヶ原の合戦後に佐竹氏が大規模な改修を行うまでは、本丸を中心とした縄張りが用いられていたとされる 11 。
通泰は、軍事的な防衛体制の強化にも意を用いていた。特に、主家でありながら潜在的な脅威でもある佐竹氏の本拠・太田城が北方に位置することから、その方面への備えを重視した。具体的には、実弟の通弘を水戸城の対岸にある枝川に分封して枝川氏を興させ、那珂川の渡河点を掌握させるとともに、北方に対する最前線の防御拠点とした 18 。このように一族を戦略的な要所に配置することで、領国の防衛網を固めていたのである。
通泰の治世は、周辺の国人領主たちとの絶え間ない緊張と駆け引きの連続であった。
通泰を取り巻く人間関係は、血縁、婚姻、そして利害が複雑に絡み合い、彼の政治的決断に大きな影響を与えていた。その多層的なネットワークを理解するため、主要な関係者を以下の表に整理する。この図式は、彼が佐竹氏との関係と、古河公方を巡る広域的な関係をいかに連動させ、また時には対立させながら自家の存立を図ったかを視覚的に示している。
関係性 |
人物名 |
所属・役職 |
通泰との関係と主要な動向 |
典拠 |
家族 |
江戸通雅 |
父、江戸氏5代当主 |
佐竹義舜と「一家同位」の盟約を締結。通泰と共に署名し、一族の地位向上を果たす。 |
5 |
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小野崎朝通の娘 |
母 |
常陸の有力国人・小野崎氏との血縁関係を構築し、通泰の外交における重要な基盤となる。 |
7 |
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芳賀高経の娘 |
正室 |
下野の雄・宇都宮氏の宿老・芳賀氏との姻戚関係を構築。宇都宮錯乱への介入と足利高基支持の背景となる。 |
7 |
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江戸忠通 |
嫡男、江戸氏7代当主 |
佐竹義舜の娘を娶り、佐竹氏との関係修復を図る。父の死後、一時佐竹氏と対立するも、後に従属。 |
7 |
主家・同盟 |
佐竹義舜 |
常陸守護、佐竹氏15代当主 |
「山入一揆」平定のため通雅・通泰父子の支持を得るが、古河公方を巡る対立では敵対関係となる。 |
5 |
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足利高基 |
古河公方 |
父・政氏と対立(永正の乱)。通泰は一貫して高基を支持し、佐竹氏と対立する外交路線を展開。 |
5 |
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小野崎氏 |
常陸の国人 |
通泰の母方の実家。足利高基支持において、血縁に基づく最も緊密な同盟勢力として行動を共にする。 |
18 |
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宇都宮成綱 |
下野の戦国大名 |
宇都宮錯乱で重臣・芳賀氏と対立。足利高基、そして姻戚関係にある通泰が成綱を支援。 |
5 |
対立・競合 |
足利政氏 |
古河公方 |
息子・高基と対立。佐竹義舜が支持したため、通泰にとっては主要な敵対勢力となる。 |
5 |
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岩城氏 |
南陸奥の戦国大名 |
当初は佐竹氏と共に政氏を支持。一方で、江戸氏と佐竹氏の「一家同位」盟約を仲介するなど、複雑な立場をとる。 |
17 |
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小田氏 |
常陸の国人 |
永正の乱では敵対。常陸国内の覇権を争う最大のライバルであり、状況に応じて連携と対立を繰り返した。 |
7 |
|
大掾氏 |
常陸の国人 |
江戸氏に水戸城を奪われた旧領主。領地回復を目指す潜在的な敵対勢力として、常に緊張関係にあった。 |
10 |
関東の動乱期を巧みな戦略で生き抜き、常陸江戸氏の最盛期を築き上げた江戸通泰であったが、その生涯は天文4年(1535年)7月12日、終わりを迎える。享年50であった 5 。その戒名は梁山道棟と伝えられている 7 。彼の死は、江戸氏の栄光の時代の終焉と、その後の長い黄昏の時代の始まりを告げるものであった。
通泰の跡は、嫡男の忠通(ただみち)が継いだ 27 。忠通は、かつて父・通泰が敵対した佐竹義舜の娘を正室に迎えており 27 、佐竹氏との関係改善が期待された。しかし、父の死後、忠通は佐竹氏の所領を侵犯するなど、再び対立の道を選ぶ 15 。これは、父・通泰が築いた独立領主としての自負と行動様式を、忠通もまた受け継いでいたことを示している。
しかし、時代は既に変わりつつあった。佐竹氏は義舜の子・義篤の代に、長年の内紛を完全に克服し、一族の統制を強化して、強力な戦国大名へと変貌を遂げていた 6 。忠通の反抗は、強大化した佐竹氏の前に長くは続かず、奥州の伊達稙宗の斡旋を受けて、佐竹義篤との和睦を余儀なくされた 15 。この和睦以降、江戸氏は再び佐竹氏の指揮下に組み込まれる従属的な立場へと後退していくことになった 28 。
通泰の死後、江戸氏がかつての輝きを取り戻すことはなかった。佐竹氏は義篤、そしてその子・義重の代にかけて、常陸国内の国人たちを次々と支配下に収め、領国の一元的な支配体制を確立していった。江戸氏が独立を保つことは、もはや不可能な状況となっていたのである。
そして、一族の運命を決定づける時が訪れる。通泰の孫にあたる江戸重通の時代、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げである小田原征伐が開始された。この歴史的な大事件に際し、佐竹義重・義宣父子は逸早く秀吉に参陣し、その歓心を得た。一方で、江戸重通は関東の旧秩序の盟主であった小田原の北条氏に与し、秀吉への参陣を拒否したのである 11 。
この判断が、江戸氏の命運を尽きさせた。秀吉から常陸一国の支配権を公認された佐竹氏は、その権威を背景に、同年、留守の江戸氏を急襲し、水戸城を攻略した 9 。城を追われた重通は、姻戚関係にあった結城氏のもとへ逃れ、ここに約170年続いた江戸氏の水戸支配は、あまりにもあっけない幕切れを迎えた 8 。常陸国は佐竹氏によって完全に統一され、江戸氏は歴史の表舞台から姿を消すこととなったのである 35 。
なぜ、通泰の時代に栄華を極めた江戸氏が、その孫の代にこれほどまで簡単にも滅び去ってしまったのか。その要因は、皮肉にも、通泰自身が築き上げた偉大な成功体験の中にあった。
江戸通泰の戦略は、佐竹氏の内紛、古河公方家の分裂、そして周辺国人衆の群雄割拠という、特定の「時代環境」に完璧に最適化されたものであった。彼は、各勢力間の「力の均衡」を巧みに利用し、その間を縫うように立ち回ることで、自らの政治的価値を最大化し、独立を勝ち取った。
しかし、彼の死後、この「時代環境」は劇的に変化した。佐竹氏は内紛を収束させ、強力な中央集権的戦国大名へと変貌を遂げた。もはや江戸氏が対等に渡り合える相手ではなくなっていたことは、息子・忠通が反抗の末に従属を余儀なくされた事実が物語っている 31 。
そして、その流れを決定づけたのが、豊臣秀吉による天下統一という、日本全体の構造変化であった。佐竹氏がいち早く中央政権と結びつき、新たな秩序の中での地位を確保した 33 のに対し、江戸氏は、かつて通泰が成功を収めた関東のローカルな論理(この場合は北条氏との連携)に固執し、時代の大きな潮流を完全に見誤った。
通泰が築き上げた「独立領主」としての誇りと、主家に対しても臆さず独自の行動をとるという成功体験は、もはや新しい秩序の中では許されない「体制への反逆」と見なされる、極めて危険なものでしかなくなっていた。通泰の偉大な遺産であったはずの「独立志向」は、時代の変化の中で、結果的に一族を滅亡へと導く「負の遺産」へと変質してしまったのである。これは、一個人の能力や一族の栄光だけでは抗うことのできない、歴史の構造的変化の非情さを示す、一つの悲劇的な事例といえるだろう。
江戸通泰の生涯を総括するならば、彼は父・通雅が築いた基盤の上に、類稀なる戦略眼と巧みな外交手腕によって常陸江戸氏の最盛期を現出した、戦国初期を代表する傑物であったと評価できる。彼は、常陸国という一地方に留まらず、関東全体の政治情勢を的確に読み解き、特に婚姻政策というソフトパワーを駆使して自家の存立と発展を図った、優れた戦略家であった。彼の生涯は、守護大名の権威が揺らぐ中で、地方の国人領主がいかにして自立し、勢力を拡大していったかを示す、一つの典型的なモデルを提示している。
しかし同時に、彼の成功は、佐竹氏の内紛という特殊な政治的真空状態と、関東全体の流動的な情勢という、限定的な条件下でのみ可能であったという限界も内包していた。彼が勝ち取った「独立」は、結果として強大化した佐竹氏の強い警戒心を煽り、遠因となって一族の命運を縮めることにも繋がった。
江戸通泰は、中世的な国人領主が、近世的な戦国大名へと変貌を遂げていく、まさに歴史の過渡期に生きた人物であった。彼はその類稀な才覚で一時は時代の寵児となったが、彼が作り上げた成功モデルそのものが、次代のより強大な権力構造の前では通用しなかった。彼の栄光と、その後に続く一族の没落は、戦国という時代のダイナミズムと、その非情な変化の前に、個人の力が及ばぬ歴史の大きな潮流を我々に示している。江戸通泰は、自らの手で一族の未来を切り拓き、そして皮肉にもその未来を規定してしまった、極めて象徴的な人物として、歴史に記憶されるべきであろう。