本報告書は、戦国時代に肥前国を拠点とした龍造寺氏の家臣、江里口信常(えりぐち のぶつね)について、その出自、龍造寺家への臣従、龍造寺四天王としての活躍、そして沖田畷の戦いにおける壮絶な最期と後世の評価を、現存する史料や伝承を基に詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とする。
利用者各位が既に把握されている江里口信常の概要、すなわち龍造寺家家臣であり、龍造寺四天王の一人に数えられ、沖田畷の戦いで主君・龍造寺隆信戦死の報に接し、単身島津家久軍本陣に突入して戦死、その勇猛さを敵将島津家久に「無双の剛の者」と賞賛されたという点は、本報告書の出発点となる。本報告書では、これらの事績に加え、信常の家系の淵源、龍造寺家における具体的な役割、四天王という呼称の背景、沖田畷での行動の詳細、そして彼の子孫や後世における評価について、より深く掘り下げて考察を行う。
江里口信常の武士としての背景を理解するには、まずその一族の成り立ちと、当時の肥前国における武家社会の動向を把握する必要がある。
江里口氏は、元来、肥前国における名族であった千葉氏の庶流に連なるとされる 1 。具体的には、千葉氏の一族である原氏の末裔であり、原秀胤(対馬守)が文明元年(1469年)12月に肥前国へ下向し原口氏を称したのが始まりとされる。その後、その子孫である常寛(下総守)が、肥前国小城郡江里口村(現在の佐賀県小城市小城町岩蔵江里口周辺)に知行地を与えられ、江里口の姓を名乗るようになったと伝えられている 2 。また、江里山の麓に居住していたことから江里口氏を称したとの記述も見られ 3 、これは地名に由来する姓の成立を示唆している。この出自は、信常が単なる一介の武士ではなく、肥前において一定の歴史的背景を持つ武家の系譜に連なる人物であったことを示している。当時の肥前では、千葉氏のような旧来の勢力が衰退し、龍造寺氏のような新興勢力が台頭する過渡期であり、江里口氏もまた、そうした時代の潮流の中で自らの活路を見出していったと考えられる。
江里口信常が龍造寺氏に仕えるようになった経緯には、龍造寺家の重臣であり、後に佐賀藩祖となる鍋島直茂との関わりが深く影響している。鍋島直茂は、龍造寺家兼の命により、一時的に九州千葉氏の千葉胤連の養子となっていたが、後に龍造寺家と少弐氏(千葉氏が支持)の関係が悪化したことなどから、直茂は千葉氏との養子関係を解消し龍造寺家へ復帰する。その際、江里口信常を含む12名の千葉家臣が直茂に随行し、龍造寺家の家臣となったとされている 4 。この記述は、信常の龍造寺家への臣従が、直茂個人への忠誠心、あるいは直茂との強い結びつきに基づいていた可能性を示唆している。
また、別の記録によれば、信常の養父とされる江里口常併(左馬介)が、元は千葉家の被官であったが、後に龍造寺隆信に仕え、所領を与えられたともある 2 。これが事実であれば、信常の家系は鍋島直茂との関係とは別に、あるいはそれに並行して龍造寺氏との主従関係を築いていたことになる。
いずれにせよ、信常の龍造寺家への仕官は、鍋島直茂という龍造寺家中における実力者との関係抜きには語れない。直茂は龍造寺隆信の義弟であり、その台頭と権力掌握に大きく貢献した人物である。信常が直茂に従って千葉家から龍造寺家へ移ったことは、彼が直茂の側近、あるいは信頼の厚い部将の一人として位置づけられていたことを物語る。この強固な結びつきは、後の信常の龍造寺家中での立身、さらには「龍造寺四天王」の一人に数えられるほどの評価を得る上で、重要な基盤となったであろう。戦国時代において、武士がどの主君に、そして主君のどの派閥に属するかは、その後の運命を大きく左右する要素であり、江里口氏が千葉氏から龍造寺氏へ、そして信常個人が鍋島直茂との関係を深めたことは、まさに時代の変化に対応した戦略的な選択であったと言える。
江里口信常の名を高めた要因の一つに、「龍造寺四天王」の一員として数えられたことが挙げられる。この呼称は、彼の武勇と龍造寺家における重要性を示すものである。
龍造寺四天王とは、戦国時代の肥前国の大名、龍造寺隆信配下の武将の中で、特に武勇に優れた4名(あるいはそれに準ずる者たち)を指す呼称である 6 。史料によっては「隆信(公)四天王」とも記される 6 。戦国時代において、主君の特に優れた家臣を「四天王」や「七本槍」といった形で顕彰することは一般的であり、これは主君の威勢を示すと同時に、家臣団の士気を高め、その武威を内外に誇示する意味合いを持っていた。龍造寺四天王もまた、龍造寺隆信の軍事力を象徴する存在であったと言える。
興味深いことに、「四天王」という呼称でありながら、史料を総合すると該当する武将は5名存在する。成松信勝(遠江守)、百武賢兼(志摩守)、木下昌直(四郎兵衛尉)、江里口信常(藤七兵衛尉)、そして円城寺信胤(美濃守)である 6 。このうち、成松、百武、木下の3名は多くの史料で共通して四天王として挙げられているが、江里口信常と円城寺信胤については、史料によって入れ替わりが見られる 6 。
この構成員の変動を具体的に示すため、主要な史料における龍造寺四天王の記述を以下に表としてまとめる。
年代 (西暦) |
史料 |
名称 |
1 |
2 |
3 |
4 |
慶安3年 (1650年) |
成松遠江守信勝戦功略記 |
龍造寺之四天王 |
(成松)遠江守 |
百武志摩守 |
木下四郎兵衛尉 |
江里口藤七兵衛尉 |
元禄13年 (1700年) |
九州記 |
四本槍 |
成松遠江 |
百武志摩 |
圓城寺美濃 |
江里口藤七兵衛 |
正徳2年 (1712年) |
陰徳太平記 |
四天王之槍柱 |
成松遠江守 |
百武志摩守 |
圓城寺美濃守 |
江里口藤七兵衛 |
享保元年 (1716年) |
葉隠 |
四天王 |
百武志摩守 |
木下四郎兵衛 |
成松遠江守 |
江里口藤七兵衛 |
享保5年 (1720年) |
九州治乱記(北肥戦誌) |
隆信四天王 |
成松遠江守 |
百武志摩守 |
木下四郎兵衛 |
江里口藤七兵衛 |
享保9年 (1724年) |
焼残反故 |
隆信公四天王 |
百武志摩守 |
成松遠江守 |
木下四郎兵衛 |
圓城寺美濃守 |
(出典: 6 に基づき作成)
この表から明らかなように、江里口信常は『成松遠江守信勝戦功略記』、『九州記』、『陰徳太平記』、『葉隠』、『九州治乱記(北肥戦誌)』といった複数の重要な史料において、龍造寺四天王、あるいはそれに準ずる「四本槍」、「四天王之槍柱」の一員として明確に名を連ねている 6 。
「四天王」でありながら5名の候補者が存在するという事実は、この呼称が厳密な定員制ではなく、龍造寺隆信の麾下で特に武勇に優れた複数の武将を讃えるための象徴的な枠組みであった可能性を示唆している。仏教における四天王(四方を守護する神々)に由来するこの名称は、完全性や強力な守護を意味する。5名の高名な武勇の士がいたという歴史的事実を、この権威ある「四天王」の枠組みに当てはめたものかもしれない。また、史料による構成員の違いは、編纂された時代や編者の立場、あるいは当時の家中の力関係を反映している可能性も考えられる。特筆すべきは、木下昌直を除く四天王の候補者たち(成松信勝、百武賢兼、江里口信常、円城寺信胤)は、いずれも天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで主君隆信と運命を共にしたという点である 6 。この共通の悲劇的な最期が、彼らを「隆信に殉じた忠臣たち」として一体のものと捉えさせ、後世の四天王像の形成に影響を与えたのかもしれない。
江里口信常は、龍造寺四天王の「一番槍」と称され、「無双の剛の者」として知られた勇将であったと伝えられる 4 。この「無双の剛の者」という評価は、後に敵将島津家久が信常を評した言葉としても記録されており 3 、その武勇が敵味方に広く認識されていたことを示している。
具体的な武勇伝として、後世の創作物である可能性が高いものの、江里口信常自身が語る形式をとる記録 (『拙者の履歴書』とされるもの) 11 には、若き日の初陣、少弐氏の支城であった基肄城(きいじょう)攻めにおいて、小姓組の一員として先陣を切って堀に飛び込み、敵兵二人を討ち取って龍造寺隆信から賞賛されたという逸話が記されている。これが史実であるか否かは慎重な吟味が必要だが、彼が「四天王」に数えられるに至るには、こうした数々の戦場での武功の積み重ねがあったと想像される。信常の役割は、単に一軍の将として兵を率いるだけでなく、その勇猛さをもって味方を鼓舞し、敵を圧倒する、まさに「龍造寺の矛」としての働きが期待されていたのであろう。
江里口信常の生涯において、最も劇的かつ悲劇的な場面が、天正12年3月24日(西暦1584年5月4日) 1 に肥前国島原半島(現在の長崎県)で勃発した沖田畷の戦いである。
当時、九州の覇権を目指し勢力を拡大していた龍造寺隆信は、「五州二島の太守」を自称し、「肥前の熊」の異名で恐れられていた 12 。その龍造寺氏の圧迫に苦しんでいた島原の有馬晴信が島津氏に救援を求めたことが、この戦いの直接的な引き金となった 10 。九州統一を目指す龍造寺氏と、同じく南九州から勢力を伸ばしてきた島津氏との衝突は、もはや避けられない状況にあった。
戦場となった沖田畷は、「畷(なわて)」の名が示す通り、田んぼの中の細い畦道が続く場所であり、周囲は深田や湿地帯が広がる難所であった 15 。このような地形が、後の戦いの展開に大きな影響を与えることになる。
兵力において、龍造寺軍は2万5千から5万7千(あるいはそれ以上)と諸説あるのに対し 16 、島津・有馬連合軍は1万に満たない寡兵であった 16 。しかし、島津軍を率いた島津家久は、この沖田畷の地形を巧みに利用した。「釣り野伏せ」と呼ばれる、少数の兵で敵を誘い込み、伏兵で包囲撃滅する戦術を得意とした家久は、龍造寺の大軍を深田が広がる隘路へと誘い込んだ 10 。
龍造寺隆信は、自軍の兵力差を過信し、また家久の陣が貧弱に見えたことから油断し、全軍に突撃を命じたとされる 16 。しかし、これは家久の術中にはまるものであった。龍造寺軍の先鋒は湿地に足を取られて進軍が滞り、混乱状態に陥った。そこへ島津軍の鉄砲隊が一斉射撃を加え、さらに伏兵が襲いかかった 16 。大軍の利を活かせないまま、龍造寺軍は次々と討ち取られ、総崩れとなった。そして、乱戦の中、総大将の龍造寺隆信も島津方の川上忠堅らによって討ち取られた 14 。この敗戦により、龍造寺氏は隆信をはじめ、成松信勝、百武賢兼といった重臣の多くを失い、一気に衰退へと向かうことになる 16 。
主君・龍造寺隆信戦死の報は、戦場に残る龍造寺方の将兵に絶望的な衝撃を与えた。その中で、江里口信常は主君の仇を討つべく、驚くべき決断を下す 3 。
信常は、味方の敗走が続く中、単身で島津軍の本陣を目指した。一説には、島津方の兵士を装って敵陣に紛れ込んだとも伝えられている 3 。ゲームのセリフとしてではあるが、「オレは島津の家臣」と呟きながら突入する描写もあり 19 、その際の彼の心理状況をうかがわせる。彼の目標はただ一つ、敵の総大 شمار島津家久の首であった 3 。
信じ難いことに、信常は単身で島津家久の本陣にまで到達し、家久本人に斬りかかった。この時、家久の左足を負傷させたと多くの史料が伝えている 2 。しかし、家久を討ち取るまでには至らず、周囲の島津兵によってその場で討ち取られた 4 。ある記録では「なぶり殺しにされた」とあり 4 、その最期の壮絶さを物語っている。
信常のこの最後の行動は、戦略的な意味では戦局を変えるものではなかった。しかし、主君が討たれ、自軍が壊滅する中で、ただ一人敵の大将に肉薄し一太刀浴びせたその行為は、武士としての意地と主君への忠誠心の極致を示すものであった。それは、合理的な判断を超えた、忠義と復讐心に突き動かされた行動であり、戦国武士の「もののふの道」を象徴するものであったと言えよう。沖田畷の湿地帯という特殊な戦場環境は、龍造寺本軍にとっては不利に働いたが、混乱の中、単独で敵中深く潜入しようとする信常にとっては、あるいは僅かながらも好機を生んだのかもしれない。大軍が身動きを取りにくい状況は、逆に少人数での奇襲的な行動を可能にしたとも考えられる。
江里口信常の最期は、敵である島津家久に強烈な印象を与えた。その勇猛果敢な姿は、敵味方の垣根を越えて称賛されることになる。
自らの命を狙い、実際に手傷を負わせた敵将であるにもかかわらず、島津家久は江里口信常の死を悼み、その勇猛さを「無双の剛の者」(比類なき勇猛な武士)と称賛したと伝えられている 3 。さらに家久は、「彼の一族がいれば召し抱えたい」とまで言わしめたという 3 。
この敵将からの称賛は、戦国時代における武士の価値観を如実に示している。島津家久自身、祖父・島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評されたほどの優れた武将であった 21 。彼が信常の行動に感銘を受けたのは、それが武士として理想的な姿、すなわち主君への絶対的な忠誠と死をも恐れぬ勇気の発露であったからであろう。家久のこの態度は、単に個人的な感情の発露に留まらず、自軍の将兵に対しても、いかなる状況にあってもかくあるべしという武士道の範を示したとも解釈できる。また、討ち取った敵将の家臣の勇猛さを称えることは、自らの勝利の価値をさらに高めるという側面も持っていたかもしれない。
家久のこの言葉は、単なる美辞麗句ではなかった。信常の一族を召し抱えたいと述べたことは、家久が忠誠心や武勇といった資質を高く評価し、自らの家臣団にもそうした人材を求めていたことの証左である。このエピソードは、江里口信常の武勇を後世に伝える上で決定的な役割を果たした。敵将からの称賛という、これ以上ない客観的な評価は、信常の名を単なる戦死者の一人から、特筆すべき忠勇の士へと昇華させた。この評価がなければ、彼の名は龍造寺四天王のリストに頻繁に登場することもなかったかもしれない。家久の言葉は、いわば信常の伝説を不動のものとする「保証書」のような役割を果たしたのである。
江里口信常の人物像は、沖田畷での壮絶な最期によって強烈に印象付けられているが、断片的な記述や後世の創作物から、その人となりを垣間見ることができる。
信常の最も顕著な性格は、沖田畷の戦いで示されたように、主君への絶対的な忠誠心と、死をも恐れぬ比類なき勇猛さである。ゲームのキャラクター紹介といった二次的な資料ではあるが、「男勝りな性格」と評される一方で、「子犬や千代紙などかわいいものを見ると気分が高揚しときめいてしまう」という意外な一面も描かれている 4 。これはあくまで現代の創作による脚色であろうが、勇猛な武将の人間的な側面を想像させる試みと言える。
また、前述の『拙者の履歴書』とされる創作物 11 では、幼少期から龍造寺隆信に感化され、武芸や築城術に励む真摯な姿や、後年には自らの責務や時代の変化に思いを巡らす思慮深い一面も描かれている。これらの記述は史実と断定することはできないが、後世の人々が江里口信常という武将にどのようなイメージを抱いていたか、あるいは抱きたかったかを示唆している。
なお、龍造寺隆信に関して、晩年は酒色に溺れるなどの乱行があったとする逸話が存在するが 22 、これはあくまで隆信に関するものであり、江里口信常の人物評と混同してはならない。
江里口信常の死後、その家系がどのように続いたかについては、『江里口家系図』や『葉隠』などの記録に断片的に見られる 2 。
それらの記録によれば、信常の名跡は子である江里口九郎右衛門が継承したとされる。九郎右衛門の子、九郎左衛門と彦左衛門の兄弟は、元和10年(1624年)、佐賀藩主鍋島勝茂の息女・市姫が米沢藩主上杉定勝に嫁ぐ際に御付として米沢藩に赴き、江戸の米沢藩邸に仕えた。そして、市姫の逝去に際して兄弟揃って追腹(殉死)を遂げたと伝えられている。その後、家督は三男の四郎左衛門が継いだとされる。
ただし、これには異説もあり、上杉家の記録では「江里口右衛門」なる人物が市姫付きの家臣として禄を得ていると記されている。また、信常には男子がおらず、娘婿の藤島氏の子が江里口信貞として家督を継いだという説や、信常の従子にあたる草野永理が信常の未亡人と結婚して家督を継いだという説も存在する 2 。
これらの複数の説が存在することは、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家の家督相続の複雑さや、記録の散逸、あるいは各家系での伝承の違いを反映しているものと考えられる。龍造寺氏の没落と鍋島氏による佐賀藩統治の確立という大きな時代の転換期において、家臣であった諸家の由緒や系譜が必ずしも一貫して記録されなかった可能性は高い。しかし、いずれの説を取るにしても、江里口家が断絶することなく存続し、特に九郎左衛門・彦左衛門兄弟の米沢藩での殉死の逸話は、信常の忠義の精神が子孫にも受け継がれていたことを示唆している。武士の家名を存続させることの重要性、そして主君への忠誠という武士道徳が、時代や場所を超えて実践された例として注目される。
江里口信常の墓所については、明確な史料に乏しい。後世の創作物である『拙者の履歴書』 11 によれば、信常の墓は龍造寺隆信の菩提寺である高伝寺(佐賀市)にあり、墓石には享年六十四と記され、小さな城の彫刻が施されているという。戒名は「城見院殿信誉常全居士」とされる。高伝寺が龍造寺隆信の墓所であることは史実であるが 13 、信常の墓が同寺に実在するか、またその詳細については、この創作物以外の確たる史料による裏付けが待たれる。
江里口氏の故地である小城市や佐賀県内での顕彰碑などの存在も、現時点の資料からは明確ではない 3 。これは、信常が非常に高く評価された武将であったとはいえ、あくまで一家臣であり、大名クラスの人物のように大規模な墓所や顕彰施設が建立されるケースは稀であったためと考えられる。また、子孫の一部が米沢藩に移ったことも、肥前における直接的な顕彰が限定的であった可能性を示唆する。
したがって、江里口信常の最も確かな「記念碑」は、物理的な墓石や石碑以上に、沖田畷での壮絶な死と、それを称えた島津家久の言葉、そしてそれらを記した『葉隠』や『北肥戦誌』といった後世の記録そのものであると言えるだろう。
江里口信常は、戦国時代の肥前国に生きた一武将として、その名を歴史に刻んでいる。彼の評価は、その生涯の大部分よりも、沖田畷の戦いにおける最期の瞬間に集約されると言っても過言ではない。
龍造寺家臣として、信常は「龍造寺四天王」の一人に数えられるほどの武勇を誇り、主君龍造寺隆信の勢力拡大に貢献した。彼の存在は、龍造寺氏の軍事力を支える重要な柱の一つであったと考えられる。そして何よりも、沖田畷の戦いで主君隆信が討死した際に示した、身を挺して敵将に一矢報いようとした行動は、龍造寺家への忠誠心の極みとして、後世に強い感銘を与えた。たとえ敗軍の中の行動であったとしても、その精神は龍造寺武士の鑑として語り継がれるに値するものであった。
江里口信常の歴史的評価は、沖田畷の戦いにおける彼の行動と、敵将島津家久による「無双の剛の者」という称賛によって決定づけられた。彼の生涯の他の時期における具体的な武功に関する詳細な記録は比較的少ないが、この一点において彼の名は不滅のものとなった。
信常の生き様は、戦国時代という厳しい時代における武士の理想像の一つ、すなわち主君への絶対的な忠誠と、死をも恐れぬ勇気を体現している。彼の物語は、戦乱の世の非情さと、その中で貫かれた強靭な精神性を我々に伝え、龍造寺氏の盛衰という大きな歴史の流れの中で、個人の壮絶な生き様がいかに強い印象を残し得るかを示す好例である。江里口信常は、その劇的な最期によって、戦国武将としての名誉を永遠のものとしたと言えるだろう。彼の名は、単なる一地方武将としてではなく、戦国武士の忠勇を象徴する存在として、今後も語り継がれていくに違いない。