最終更新日 2025-06-07

池田盛周

「池田盛周」の画像

戦国武将 池田盛周に関する調査報告

序章:池田盛周とは

本報告は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、出羽国庄内地方を舞台に活動した武将、池田盛周(いけだ もりちか)の生涯と事績を明らかにすることを目的とする。盛周は、朝日山城主として、大宝寺氏、最上氏、上杉氏といった当時の有力大名との複雑な関係の中で、その名を地域の歴史に刻んだ人物である 1

本報告では、現存する資料群を丹念に分析し、池田盛周の出自、武将としての活動、関与した主要な合戦、そして彼が生きた時代の特質を多角的に考察する。資料間に見られる情報の整合性や、時に存在する矛盾点についても検討を加え、可能な限り実像に迫ることを試みる。彼の生涯を追うことは、戦国末期から近世へと移行する激動の時代における、地方武士の生き様と地域社会の様相を理解する一助となるであろう。

第一章:池田盛周の出自と家系

第一節:出羽池田氏の起源

出羽国飽海郡(あくみぐん)朝日山城を本拠とした池田氏の起源については、複数の説が伝えられている。その中でも有力視されるのは、平安時代中期の武将、藤原秀郷の嫡流とされる藤原仲光が摂津国池田の地に土着し、池田氏を名乗ったことに始まるというものである。その後、時代は下り平安時代末期、平家に仕えた池田源三郎快光の子孫である池田彦太郎秀盛が、治承・寿永の乱(源平合戦)において敗れ、兄弟と共に鳥海山の山麓に落ち延びたとされる。そして、その子孫が建武年間(1334年~1338年)に朝日山城を築いたと伝えられている 3

この藤原秀郷流という名門の出自を称することは、戦国時代の在地領主が自らの権威を正当化し、周辺勢力との交渉や家臣団の統制を有利に進めるための戦略であった可能性が考えられる。また、源平合戦の敗者側の末裔という伝承は、中央の権力闘争から距離を置き、在地に深く根を張るという独自のアイデンティティを強調する意図があったのかもしれない。こうした出自の主張は、在地領主としての池田氏が、厳しい戦国の世を生き抜くための精神的な支柱、あるいは外交的な道具として機能した側面があったと推察される。

全国的に見れば、池田氏には土岐氏流、紀氏流、あるいは藤原姓を称する家など、多様な系統が存在する 8 。しかしながら、これらの系譜と出羽朝日山城の池田氏とを直接的に結びつける確たる史料は、現在のところ限定的であると言わざるを得ない。出羽池田氏の家紋は「丸に揚羽蝶」であったと記録されている 3

表1:出羽池田氏略系図(伝承に基づく)

祖先

(中略)

(中略)

(中略)

(中略)

子孫

藤原秀郷

藤原仲光 (池田氏称す)

池田源三郎快光

池田彦太郎秀盛

(13代略)

池田盛国

池田盛周

池田盛邦

典拠:3 を統合。

この系図は、池田盛周の血縁的背景と、一族が在地で長年にわたり勢力を維持してきた歴史的連続性を示唆するものである。特に、武家の名門である藤原秀郷に連なるという系譜は、当時の武家社会における権威の源泉の一つであり、これを明示することは池田氏の立場を理解する上で重要である。ただし、あくまで伝承に基づく部分も含まれるため、その史実性については慎重な検討を要する。

第二節:父・池田盛国

池田盛周の父は、池田盛国(いけだ もりくに)という人物である。盛国は戦国時代に活動した武将で、出羽の大名である大宝寺義氏に仕えていたと伝えられる 1 。彼は、前述の池田彦太郎秀盛から数えて15代目の子孫とされ、出羽朝日山城主であった 4

一部の資料には、盛国が『池田家一千年誌』なる書物を編纂したとの記述が見られる 6 。もしこの編纂が事実であれば、それは池田氏が自らの家の歴史と正統性を強く意識し、それを記録として後世に残そうとした証左となる。戦国期において、自家の歴史を編纂する行為は、一族の結束を高め、家の権威を内外に示すという政治的な意味合いも持ち得た。盛周の代だけでなく、父盛国の代からそのような意識があったとすれば、池田氏の在地領主としての自己認識の深さを示唆するものであろう。しかしながら、この『池田家一千年誌』の現存や具体的な内容については、現時点では確認されておらず、詳細については不明である。

第二章:朝日山城主としての池田盛周

第一節:居城・朝日山城

池田盛周の拠点であった朝日山城は、現在の山形県酒田市生石矢流川、あるいは同市北沢字楯山に位置したとされる 1 。この城は矢流川に面した山城であり、庄内平野の北部を一望できる戦略的に極めて重要な場所に築かれていた。築城年代は定かではないが、建武年間(1334年~1338年頃)に池田氏によって築かれたとの伝承が残る 5

城の遺構としては、曲輪(くるわ)、石垣、空堀、枡形虎口(ますがたこぐち)などが確認できるとされ、中世山城の典型的な姿を留めていたと考えられる 7 。また、城周辺には城主池田氏に関連する伝承も残されている。例えば、城の麓を流れる川が、かつて合戦で矢が盛んに飛び交ったことから「矢流川(やだれがわ)」と名付けられたという話や、城の裏手にあった鷹尾山が修験の地であったといった伝承である 7

盛周の勢力規模を示すものとして、『安倍氏筆余』という記録には「朝日山は池田氏累代の城址にして、当時川北の大身なり、慶長二年朝日山皆済状に池田讃岐(盛周)三千丁、与力七百二十丁と載す」との記述がある 8 。また、別の資料では「50騎の地侍を従え3000町歩を領した」とも記されており 4 、これらの記述から、盛周が相当規模の兵力と経済基盤を有していたことが窺える。さらに、池田氏は「朝日山五十人衆」と呼ばれる家臣団を形成していたとされ 11 、城を中心とした軍事・経済ネットワークが機能し、単なる城主ではなく、周辺地域に広範な影響力を持つ在地領主であったことが強く示唆される。

第二節:周辺勢力との関係

池田盛周は天文年間(1532年~1555年)に生まれたとされ、若くして武将としての頭角を現し、当初は出羽の有力国人であった大宝寺氏(武藤氏とも呼ばれる)に仕えていた 1

彼の武将としてのキャリアにおいて、最初の大きな転機は天正11年(1583年)に訪れる。主君であった大宝寺義氏が家臣の謀反によって自刃するという事件が発生したのである。この混乱に乗じ、盛周は隣国の有力大名である最上義光と通じ、義氏の家督を継いだ弟の大宝寺義興に抵抗した。この行動により、盛周は一時的に所領を没収されるという危機に陥るが、後に許されて所領を安堵されたという 3 。この一連の動きは、盛周が単なる従属的な家臣ではなく、自立的な判断で行動する勢力としての側面を持っていたことを示している。

その後、池田盛周の所属は、大宝寺氏、上杉氏、そして最上氏へと変遷を重ねたと記録されている 1 。これは、当時の庄内地方が、これらの有力大名による勢力争いの最前線であったことを物語っている。大宝寺氏の内紛や、最上氏と上杉氏という二大勢力の狭間で、池田盛周が所属を変えながらも自家の所領と勢力を維持しようとした動きは、戦国時代の小規模な国人領主が生き残るための典型的な戦略と言えるだろう。絶対的な忠誠という観念よりも、時々の政治・軍事状況を冷静に判断し、実利を重視する現実的な外交政策を展開していた様子が窺える。こうした巧みな立ち回りは、彼が単に武勇に優れただけでなく、政治的な嗅覚も持ち合わせていたことを示唆している。

第三章:主要な事績と合戦への関与

第一節:十五里ヶ原の戦い(天正16年・1588年)

天正16年(1588年)、大宝寺氏の家督相続を巡る争いは、庄内地方を揺るがす大規模な合戦へと発展した。これが十五里ヶ原の戦いである。この戦いにおいて、池田盛周は最上義光方に与し、大宝寺義勝(実際には義興の養子で、上杉景勝が後援)を擁立する越後の上杉家臣・本庄繁長(ほんじょう しげなが)の軍勢と激しく衝突した 1

盛周は居城である朝日山城に籠もり、寡兵ながらも最後まで勇猛に抗戦したと伝えられる。しかし、衆寡敵せず、城はついに落城し、盛周は降伏を余儀なくされた。戦後、彼は大宝寺義勝(実質的には勝利した上杉方)によって所領を安堵された 1 。この処遇は、盛周の武勇や在地での影響力が、敵対した側からも一定の評価を得ていた可能性を示すものかもしれない。

一方で、この十五里ヶ原の戦いにおける野戦で池田盛周は討死したとする説も一部には存在する 1 。しかしながら、その後の慶長出羽合戦への参加など、彼が生存していたことを示す資料が多数存在することから、この討死説は限定的なものとして扱われるべきであろう。戦国時代の合戦における個々の武将の生死に関する情報は錯綜しやすく、特に敗軍側の情報は不正確になりがちである。朝日山城が落城したという事実や、一時的に盛周が勢力を失った状況から、このような誤伝が生じた可能性、あるいは本庄繁長側の戦果報告が誇張された可能性などが考えられる。いずれにせよ、その後の盛周の活動記録の多さから、討死説よりも生存説を主軸に歴史を追うのが妥当である。

第二節:太閤検地への抵抗と「悪次郎」

十五里ヶ原の戦いから二年後の天正18年(1590年)、豊臣秀吉による全国統一政策の一環として、庄内地方にも太閤検地の波が押し寄せた。この検地は、従来の複雑な土地所有関係を整理し、石高に基づく新たな支配体制を確立しようとするものであったが、しばしば在地領主や農民の既得権益を侵害し、強い反発を招いた。池田盛周は、この太閤検地に反対し、地元の農民たちと共に一揆(土一揆)に加わったと記録されている 3

この一揆は、庄内検地奉行であった上杉景勝の軍勢と対立し、盛周の居城・朝日山城が一揆軍の拠点の一つとなった。しかし、同年12月、一揆軍は上杉勢の前に敗北を喫し、盛周は城を捨てて最上領へと逃れ、鮭延城主・鮭延秀綱(さけのべ ひでつな)のもとに身を寄せたとされる 3

この頃から、池田盛周は「悪次郎(あくじろう)」と名乗ったと伝えられている 1 。この「悪」という字は、現代的な「悪い」という意味合いだけでなく、古くは「強勇」「型破りな行動力」を示す美称としての側面も持っていた。盛周の場合、体制に反抗する者としての自称、あるいは他称であったと同時に、民衆からは「弱き者の味方」として慕われたという伝承 1 と結びつけて考える必要がある。太閤検地という中央集権化の大きな流れに対し、在地領主として、また民衆と共に抵抗した盛周の姿勢が、この「悪次郎」という異名に集約されているのかもしれない。それは、体制側から見れば「反逆者」としての「悪」であり、民衆側から見れば旧来の秩序や生活を守ろうとする「頼もしさ」や「強さ」を伴う「悪」であったと解釈できる。

鮭延秀綱に匿われている間、盛周は治水事業で功績を挙げたという伝承も残っている 3 。これが事実であれば、彼は武勇だけでなく、民政にも通じた人物であったことを示唆する。ただし、具体的な治水の内容に関する詳細な資料は現時点では確認されていない。

第三節:慶長出羽合戦(慶長5年・1600年)

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、その影響は全国各地に波及し、出羽国においても「慶長出羽合戦」と呼ばれる大規模な戦闘が繰り広げられた。この合戦は、関ヶ原で西軍に与した上杉景勝と、東軍に与した最上義光・伊達政宗連合軍との間で戦われた。

この重要な局面において、池田盛周は息子とされる池田盛邦、及び舎弟(弟)とされる池田忠内と共に、かつての居城であった朝日山城に再び籠もり、東軍である最上義光方として参戦した 3 。これは、太閤検地以来の上杉氏との対立関係や、最上氏による旧領回復への期待などが背景にあったと考えられる。

盛周らは上杉家臣・志駄義秀(しだ よしひで)の軍勢と戦ったが、局地戦では敗北を喫したとされる 3 。しかし、関ヶ原の本戦において徳川家康率いる東軍が勝利を収めたことにより、出羽戦線においても形勢は逆転し、最終的に最上勢が勝利を収めることとなった。この戦いでは、盛周が最上方の支援を受けて朝日山城に復帰し、一揆(この場合は小規模な反乱に近いものか)を起こしたものの、上杉軍によって一時鎮圧されたという経緯も記録されている 11 。この「一揆」が、盛周個人の挙兵であったのか、あるいは広範な民衆蜂起を伴うものであったのかは、現存する資料からは判然としない。

慶長出羽合戦は、関ヶ原の戦いが地方の勢力図に直接的な影響を与えた典型例であり、池田盛周の動向は、中央の政局がいかに地方領主の運命を大きく左右したかを示す好例と言える。彼の行動は、単なる忠誠心だけでなく、激動期における在地領主としての現実的な状況判断に基づいていたと推察される。

表2:池田盛周 略年表

年代

出来事

典拠例

天文年間 (1532-1555年)

出生

1

(詳細時期不明)

大宝寺義氏に仕える

1

天正11年 (1583年)

主君・大宝寺義氏自刃。最上義光と通じ、大宝寺義興に抵抗。一時所領没収後、安堵。

3

天正16年 (1588年)

十五里ヶ原の戦い。最上勢として参戦。朝日山城落城後、降伏し所領安堵。

1

天正18年 (1590年)

太閤検地に反対し一揆に参加。敗れて鮭延秀綱を頼る。「悪次郎」と名乗る。

3

慶長5年 (1600年)

慶長出羽合戦。最上勢として朝日山城に籠もり参戦。上杉家臣志駄義秀と戦う。

3

慶長6年 (1601年) 以降

最上氏の庄内領有後、旧功により旧領荒瀬郷古川村を与えられ、志村光安に仕える。

3

元和8年 (1622年)

最上家改易。以後、池田家は帰農し大肝煎を務めたと伝わる。

3

没年不詳

荒瀬川の南蓬田原に葬られたとの伝説あり。

3

この年表は、池田盛周の生涯における主要な出来事と所属勢力の変遷を時系列で整理したものであり、彼の複雑な経歴と、彼が生きた時代の流動性を理解する一助となることを意図している。

第四章:晩年と池田家のその後

第一節:最上氏への再仕官と所領

慶長出羽合戦において東軍(最上・伊達方)が勝利し、庄内地方が最上義光の領有となると、池田盛周はこれまでの功績、特に上杉氏に対する抵抗や慶長出羽合戦での働きが認められた。その結果、彼は旧領であった出羽国荒瀬郷古川村(一部資料では百石余とも 3 )を与えられ、酒田城に入部した最上氏の重臣・志村伊豆守光安(しむら いずのかみ みつやす)に仕えることとなった 3

この時期の盛周の具体的な活動内容については、詳細な記録が乏しい。しかし、長年にわたり在地領主として庄内地方に関わってきた経験や、地域の事情に精通していた知識は、新たな支配者となった最上氏にとって貴重であったはずである。最上氏が庄内を安定的に統治するにあたり、盛周のような旧在地領主を完全に排除するのではなく、所領を与えて家臣団に組み込むことは、地域の安定化と円滑な行政のために有効な手段であった。盛周のこれまでの経験や地域への影響力を、最上氏が統治のために活用しようとしたと考えるのは自然なことであろう。

第二節:最上氏改易と池田家の帰農

平穏な時期は長くは続かなかった。元和8年(1622年)、最上家はお家騒動などが原因で幕府により改易され、その広大な所領は分割された。これにより、池田盛周が仕えていた主家も失われることとなった。この大きな変化の後、池田盛周の家は武士の身分を離れて帰農し、その後長い間、村役人の長である大肝煎(おおきもいり)を務めたと伝えられている 3

最上氏改易後、庄内地方には酒井氏が庄内藩主として入部し、近隣には新庄藩などが成立した。このような新たな支配体制の下で、池田家は在地社会において一定の役割を担い続けたと考えられる。寛永9年(1632年)の記録には、荒瀬郷の大肝煎であった「池田刑部左衛門(いけだ ぎょうぶざえもん)」という人物が、年貢未進問題に関連して罷免されたとの記述が見られる 16 。池田盛周の通称は「讃岐守」や「悪次郎」であり、「刑部左衛門」という名乗りとの直接的な関連を示す資料は提供されていない。年代的に見ても、天文年間生まれとされる盛周がこの時期に壮年期の役職名で記録されるのはやや考えにくい。しかし、盛周の子息や近親者の一人がこの「池田刑部左衛門」であった可能性は十分に考慮されるべきである。この記録は、盛周の直系か傍系かは不明ながら、池田一族が引き続き肝煎として地域行政に関わっていたことを示唆しており、一貫した在地領主としての性格を裏付けている。武士としての地位を失った後も、在地における名望家として、新たな支配体制の中で村落運営に深く関与し続けたことは、池田氏が単なる武力だけでなく、地域社会に根差した影響力を有していたことの証左と言える。

池田盛周自身の没年は不詳であるが、荒瀬川の南、蓬田原(よもぎたはら)に葬られたという伝説が残されている 3

第三節:子孫に関する伝承

池田盛周の子孫に関しては、いくつかの伝承が残されている。まず、慶長出羽合戦に父と共に参戦したとされる息子・池田盛邦の名が記録されている 3 。また、盛周が太閤検地への抵抗に敗れて鮭延城へ逃れる際、家老であった堀玄藩(ほり げんばん)に幼い息子・池田幸右衛門(いけだ こうえもん)を預けたという言い伝えもある。庄内に残った堀玄藩は、数名の家来と共に現在の酒田市新青渡(にいあおど)村を開墾したとされ、同地には現在も池田姓や堀姓の家が現存しているという 4

これらの伝承に加え、庄内地方には現在も池田姓の旧家が少なからず見られ、中には庄内藩士となったり、あるいは上杉家臣として米沢藩士となり幕末を迎えた家系もあるとされている 3 。これらの事実は、池田一族が単一の家系としてだけでなく、分家や縁戚関係を通じて広がり、地域社会に深く根付いていったことを示唆している。武士として存続した家系、帰農して村役人となった家系、あるいは他藩に仕官した家系など、多様な形でその命脈を保ったと考えられる。困難な状況下での一族維持の努力を物語る伝承も含め、これらは戦国から江戸期にかけての一族の存続戦略の多様性を反映していると言えよう。

第五章:池田盛周の人物像と評価

第一節:史料・伝承に見る性格

池田盛周の人物像を具体的に伝える一次史料は限られているものの、後世の文献や伝承、逸話などからは、彼のある種の性格が浮かび上がってくる。それらによれば、盛周は「実直かつ正義感が強く、領民には情け深く、弱者救済に一命を賭していた」と評されている 1

特に、急な増税で苦しむ民のために太閤検地に反対し一揆を指導したという行動 1 や、民に慕われ「悪次郎」と親しみを込めて呼ばれたという伝承 1 は、彼の民衆的な側面を強く印象付ける。これらの伝承の多くが、彼の義侠心や民衆への配慮を強調している点は注目に値する。これは、史実をある程度反映している可能性と共に、後世の人々が理想的な領主像を彼に投影した結果である可能性も考慮すべきである。「悪次郎」という異名が、体制への反抗と民衆からの親しみの両義性を持つことは、彼が単なる支配者ではなく、共同体のリーダーとして地域住民から認識されていたことを示唆する。

また、鮭延氏に身を寄せていた際に治水事業で功績を挙げたという伝承 3 も、彼が武勇だけでなく、領民の生活向上に貢献する為政者としての一面を持っていたことを示唆している。これらの要素が複合的に絡み合い、池田盛周という人物のイメージを形成している。

第二節:歴史的評価の試み

池田盛周は、戦国時代の末期から江戸時代初期にかけての激動の時代を、出羽国庄内という一地方において、大勢力の狭間で翻弄されながらも生き抜いた武将である。彼は、巧みな処世術と、時には民衆と結びついた抵抗によって家名を保ち、在地領主としての矜持を示した人物として評価することができる。

彼の生涯は、太閤検地、関ヶ原の戦い、そして大名の改易といった中央の大きな歴史的事件が、地方の武士や民衆にどのような影響を与えたかを示す具体的な事例として重要である。盛周の行動は、中央集権化の波に抗った地方領主、あるいは民衆の側に立った英雄としての側面を色濃く持っている。これは、特に庄内地方のローカルヒストリーにおいて、地域のアイデンティティや誇りを象徴する人物として語り継がれてきた可能性を示唆する。

また、十五里ヶ原の戦いでの討死説や「悪次郎」という特異な異名の存在など、彼に関する多様な情報や伝承が存在すること自体が、池田盛周が地域社会において記憶されるべき強い印象を残した人物であったことの証左と言えるだろう。彼の生涯は、大きな歴史のうねりの中で翻弄されつつも、主体的に行動しようとした中小領主の姿を体現しており、戦国武将の多様な生き様を考察する上で興味深い事例を提供している。

第六章:池田盛周ゆかりの文化財

池田盛周に関連する文化財として、最も著名なものの一つが、彼が所用したと伝えられる「革包日の丸 丸胴具足(かわづつみ ひのまる まるどうぐそく)」である。この具足は桃山期に製作されたものとされ、現在は矢流川八幡神社に寄託されており、酒田市の指定有形文化財となっている 11

この具足の特徴として、兜に五輪塔をかたどった前立(まえだて)が付いている点が挙げられる。五輪塔は地・水・火・風・空の五大を表し、仏教的な世界観を象徴するものであるが、同時に死を覚悟して戦に臨む武将たちに好まれたモチーフでもあった 11 。この前立は、池田盛周の武将としての気概や、死と隣り合わせの戦国時代を生きた彼の精神性の一端を示していると解釈できる。

この具足は、池田氏の子孫によって、刀剣類と共に矢流川八幡神社に奉納されたと伝えられている 11 。武具を神社に奉納する行為は、単に先祖の遺品を保存するという意味合いだけでなく、より深い宗教的・社会的な意味を持っていたと考えられる。これは、先祖の武功を称え、その霊を慰めると共に、一族の由緒と地域社会との繋がりを再確認し、後世に伝えようとする意識の表れと解釈できる。また、武具を神聖な場に納めることで、一族の安泰や繁栄を祈願する意味合いも含まれていた可能性がある。池田氏の場合、帰農し肝煎となった後も、先祖が武士であったことの記憶と誇りを持ち続け、それを象徴する品々を大切に伝世し、最終的に地域の氏神に奉納したことは、一族のアイデンティティの維持と地域社会への帰属意識を示すものと言えよう。

この他にも、酒田市立資料館には池田讃岐守(盛周)の甲冑などが展示されているとの情報もあるが、これは常設展示ではないとされている 19 。これらの遺品は、池田盛周という武将が実在し、この地で活動したことを示す貴重な物証である。

終章:まとめ

本報告では、戦国時代から江戸時代初期にかけて出羽国庄内地方で活動した武将、池田盛周の生涯と事績について、現存する資料と伝承を基に考察を加えてきた。

池田盛周は、出羽国の一在地領主として、戦国の動乱期から近世社会への移行期という大きな歴史の転換点を生き抜いた。彼の軌跡は、大名間の激しい勢力争い、豊臣政権による太閤検地という中央集権化の波、関ヶ原の戦いとそれに伴う地方勢力図の再編、そして最上氏の改易という主家の変動など、目まぐるしく変化する状況下での抵抗、順応、そして時には民衆との深い関わりを示している。

彼の存在は、戦国武将の多様な生き様や、中央の政治動向が地方社会に与えた具体的な影響を考察する上で、貴重な事例を提供している。特に、太閤検地への抵抗や「悪次郎」という異名に象徴される民衆との繋がりは、単なる武勇や権謀術数だけでは語れない、彼の多面的な人物像を浮かび上がらせる。

池田盛周に関する史料は断片的であり、特に晩年や詳細な人物像については伝承に頼らざるを得ない部分も少なくない。しかしながら、それらの情報を総合的に分析することで、一人の地方武士の輪郭とその時代性をある程度明らかにすることができたと考える。彼の物語は、中央集権的な歴史観だけでは捉えきれない、地域に根差した武士たちの営みと、彼らが残した記憶の重要性を示唆している。

今後の研究によって新たな史料が発見され、池田盛周に関するより詳細な事実関係や人物像が解明されることへの期待を込めて、本報告の結びとしたい。

引用文献

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  9. 「池田氏一族の群像」伊予池田氏。 川村一彦」 | 歴史の回想のブログ川村一彦 - 楽天ブログ https://plaza.rakuten.co.jp/rekisinokkaisou/diary/202410290009/
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  12. 太閤検地に反抗して一揆に加わった民衆のヒーロー!『悪次郎』こと池田盛周とは? - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=Z2vYwK0Keso&t=0s
  13. 鮭延秀綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AD%E5%BB%B6%E7%A7%80%E7%B6%B1
  14. 池田盛周(いけだもりちか):最上義光プロジェクト - samidare http://samidare.jp/mogapro/note?p=log&lid=347004
  15. 慶長出羽合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%90%88%E6%88%A6
  16. 高橋太郎左衛門 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
  17. 【寛永9年(1632)】 - ADEAC https://adeac.jp/kokyubunko/text-list/d100010/ht016320
  18. 高橋太郎左衛門とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
  19. 池田盛周とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E7%9B%9B%E5%91%A8