本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて、特異な経歴を辿り歴史の舞台に登場した武将、池田重利(いけだ しげとし)の生涯、事績、そして彼が興した家系の変遷について、現存する資料に基づき詳細かつ網羅的に明らかにすることを目的とする。池田重利は、本願寺の坊官という立場から、池田輝政との縁を通じて武士へと転身し、大坂の陣における軍功によって大名へと取り立てられた人物である。彼の人生は、戦国時代の終焉から江戸幕府による統治体制が確立していく過渡期における、個人の才覚と縁故、そして武功が運命を大きく左右した様相を色濃く反映している。
池田重利の生涯は、近世初期における身分制度の流動性や、武功による立身出世の可能性を象徴する事例として捉えることができる。また、彼が創設した播磨新宮藩は、その存続期間こそ短かったものの、彼の家系はその後も旗本として幕府に仕え、近世武家社会の一翼を担い続けた。彼の存在は、有力大名との縁戚関係が個人のキャリア形成に与えた影響の大きさや、小大名が置かれた政治的・経済的状況の厳しさをも示唆している。
池田重利に関する史料は、必ずしも豊富とは言えず、特に彼の母の出自の詳細や、改名の正確な時期、藩主時代の具体的な治績などについては、断片的な記述や諸説が見られる場合がある。本報告書においては、利用可能な複数の資料を比較検討し、客観性を最大限に保ちつつ、事実関係を記述することを心がける。主要な情報源としては、藩史や系譜、人名辞典などが挙げられる 1 。
和暦 |
西暦 |
年齢(推定) |
主要な出来事 |
典拠史料 |
天正14年 |
1586年 |
1歳 |
下間頼龍の長男として誕生。初名は頼広。 |
1 |
慶長14年 |
1609年 |
24歳 |
父・頼龍死去。教如と不和になり、本願寺を出奔。叔父・池田輝政に仕える。 |
1 |
慶長18年 |
1613年 |
28歳 |
池田利隆より池田姓と揚羽蝶紋を許され、偏諱を受けて「池田越前守重利」と改名。一門衆となる。 |
2 |
慶長19年 |
1614年 |
29歳 |
大坂冬の陣に際し、徳川家康の命により尼崎城代官に任じられ、城の守備にあたる。 |
5 |
元和元年 |
1615年 |
30歳 |
大坂夏の陣で戦功を挙げる。戦後、摂津国川辺郡・西成郡尼崎において1万石を与えられ大名となる(尼崎藩主)。 |
2 |
元和3年 |
1617年 |
32歳 |
宗主池田氏の転封に伴い、播磨国揖東郡鵤荘へ1万石で移封(鵤藩立藩)。 |
1 |
寛永3年 |
1626年 |
41歳 |
近隣の龍野藩・姫路藩本多家との対立により、陣屋を鵤から新宮へ移転(新宮藩となる)。 |
2 |
寛永8年1月10日 |
1631年2月10日 |
46歳 |
死去。 |
1 |
この年譜は、重利の生涯における主要な転換点を時系列で整理したものである。坊官の子として生まれながらも、武士としての道を歩み、最終的には大名へと昇り詰める過程は、当時の社会状況と彼自身の資質が複雑に絡み合った結果と言えるだろう。各出来事の詳細は、後続の章で詳述する。
池田重利の生涯を理解する上で、彼の出自と、池田姓を名乗るに至った経緯は極めて重要である。本願寺の有力な坊官の家に生まれながらも、その道を離れ、母方の縁を頼って武家の世界に身を投じたことは、彼の人生における最初の大きな転機であった。
池田重利は、天正14年(1586年)、本願寺の坊官であった下間頼龍(しもつま らいりゅう)の長男として生を受けた 1 。幼名、あるいは初名は下間頼広(しもつま らいこう、または「よりひろ」とも読まれる)と伝えられている 1 。下間氏は、本願寺の歴史において重要な役割を担った家柄であり、父である頼龍は、法主顕如(けんにょ)の執事を務めた人物であったとされる 2 。下間頼龍は、織田信長との石山合戦にも本願寺方として参加し、天正8年(1580年)の和議の際には、下間仲孝や頼廉(らいれん)と共に講和の誓紙に署名している。顕如の没後は、その子である教如(きょうにょ)に従った 7 。このような家系に生まれた頼広は、当初は父祖と同様に本願寺に仕える道を歩むことが期待されていたと考えられる。
重利の母は七条と称し、その出自が池田氏との重要な繋がりをもたらした。彼女は、織田信長の弟である織田信時の娘であり、後に池田恒興(いけだ つねおき)の養女となった人物である 1 。池田恒興は、織田信長に仕えた有力な武将であり、その息子が後の姫路藩主となる池田輝政(いけだ てるまさ)である。このため、重利は池田輝政の義理の甥(母の養父の息子が輝政)という関係にあたった 1 。一部史料では、重利の母を「池田輝政の姉」と簡略に記すものもあるが 4 、池田恒興の養女(織田信時の娘)とする記述 1 が、より詳細かつ正確な情報であると判断される。この縁戚関係が、後に頼広が本願寺を離れ、武士としての道を歩む上で決定的な役割を果たすことになる。
池田氏そのものは、清和源氏頼光流を汲む摂津源氏の系統に属する名門武家である 9 。提供された系図資料によれば、源頼光の子孫である源仲政の流れに池田氏が位置づけられており、その系譜の中に「池田重利」の名も確認できる 9 。これは、重利が池田姓を名乗り、池田一門として認められた後に、公式な系図にもその名が加えられたことを示唆している。武家社会において「家」の系譜は極めて重視されるものであり、功績のあった者を縁戚関係を通じて家系に組み込み、その家の権威や正統性を補強するという慣行が存在したことを物語っている。
頼広は、当初、父である頼龍と共に東本願寺の教如に仕えていた。しかし、教如との間には確執が生じ、折り合いが悪かったと伝えられている 1 。そのような状況下で、慶長14年(1609年)に父の頼龍が死去する 1 。父という後ろ盾を失い、かつ教如との関係も悪化していた頼広にとって、これは本願寺を離れる直接的な契機となった可能性が高い。彼は、母方の縁戚であり、当時播磨姫路藩主として大きな勢力を有していた叔父の池田輝政のもとへと出奔した 1 。
この出奔と輝政への臣従は、単なる個人的な不和や身の振り方の問題に留まらず、当時の宗教勢力と武家勢力の関係性、そして有能な人材が新たな活躍の場を求めて移動していく時代の一側面を映し出している。有力な大名である池田輝政を頼ることは、頼広にとって最も現実的かつ将来性のある選択であったと言えよう。
池田輝政のもとに身を寄せた頼広(後の重利)は、単に縁故によってのみ受け入れられたわけではなかった。史料によれば、彼は学識に優れ、また武芸にも通じていたと記録されている 1 。具体的には、「学識だけではなく武芸にも通じていた事から、叔父から仕官を勧められて3,000石をもって輝政の嫡子・池田利隆の補佐を命じられた」とある 10 。
この才能が輝政に高く評価された結果、輝政の嫡男である池田利隆(いけだ としたか)の補佐役として、3000石という破格の待遇で召し抱えられることとなった 1 。元は坊官であった人物に対し、いきなり3000石の知行と嫡子の補佐という重責を与えることは、輝政が頼広の能力をいかに買っていたか、そして彼に大きな期待を寄せていたかを物語っている。これは、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会において、家柄や縁故だけでなく、個人の実力や才能もまた登用の重要な基準となっていたことを示す好例と言えるだろう。
池田輝政とその嫡子・利隆に仕えるようになった頼広は、その期待に応える働きを見せたものと考えられる。慶長18年(1613年)、輝政の子である池田利隆から、池田の姓と池田家の家紋である揚羽蝶紋を使用することを許された 2 。さらに、利隆の名前から一字(偏諱)である「利」の字を与えられ、「池田越前守重利」と改名した 2 。これにより、彼は正式に池田一門衆の一員として迎え入れられることになった。
この池田姓と偏諱の下賜は、単なる名前の変更以上の大きな意味を持っていた。武家社会において、主君から姓や名の一字を与えられることは、その人物が主君から厚い信頼を得ており、一門として認められたことの証であった。これにより、重利の社会的地位は大きく向上し、武士としての新たなアイデンティティを確立したと言える。実際に、改名の翌年には、池田家の重臣として徳川家康に拝謁する機会を得ている 10 。これは、彼が池田家内部だけでなく、幕府中央にもその存在を認知されるようになったことを示しており、後の大名への道を開く上で重要な布石となった。
池田姓を賜り、一門衆となった重利は、その後、武将としてその才能を本格的に開花させることになる。特に、豊臣氏と徳川氏の最終決戦となった大坂の陣における活躍は、彼の運命を決定づけるものとなった。
元和元年(1615年)に勃発した大坂夏の陣において、池田重利は、主君である池田利隆(およびその弟・忠継)の指揮下で参戦し、目覚ましい戦功を挙げたと記録されている 2 。
その戦功の中でも特筆すべきは、大坂冬の陣(慶長19年、1614年)に先立つ動きである。開戦間近の同年5月、徳川家康は、姫路藩主であった池田利隆に対し、家臣である重利を尼崎城(現在の兵庫県尼崎市)へ派遣するよう命じた 5 。当時、尼崎城主であった建部政長(たけべ まさなが)は、重利の妹を娶っており(つまり重利は政長の義兄)、かつ政長の母は池田輝政の養女(下間頼龍の娘で重利の姉妹)であったため、政長は重利の甥にもあたるという複雑な縁戚関係にあった 1 。この建部政長がまだ幼少であったため、徳川方についた尼崎城の守りを固めるべく、政長の叔父(または義兄)という立場にあり、かつ池田家の有能な武将であった重利が、尼崎代官として城の守備を任されたのである 5 。
尼崎城は、大坂に対する西の重要な戦略拠点であった。徳川家康が、池田家の重臣であり、かつ城主と深い縁戚関係にある重利を代官として派遣したという事実は、この拠点の確保を極めて重視していたことの表れである。重利は、この期待に応え、大坂冬の陣・夏の陣を通じて尼崎城を守り抜いた 5 。この功績は、単に一武将の武勇伝に留まらず、徳川方にとって大坂攻略を円滑に進める上で、戦略的に大きな貢献であったと評価できる。
大坂の陣における一連の戦功、特に尼崎城守備の功績は、池田重利のその後の運命を大きく変えることになった。戦後の元和元年(1615年)、重利は、甥であり、共に尼崎城を守った建部政長と共に、摂津国川辺郡および西成郡内(尼崎周辺地域)において、それぞれ1万石の所領を与えられ、大名に取り立てられた 1 。これにより、重利は摂津尼崎藩の藩主(あるいは建部政長との共同統治に近い形であった可能性も考えられる)となり、名実ともに大名の列に加わることになったのである。
かつて本願寺の坊官であった下間頼広が、池田重利と名を変え、武功によって1万石の大名へと昇進したという事実は、戦国時代の終焉から江戸時代初期にかけての社会の流動性を象徴する出来事と言える。もちろん、池田輝政との縁戚関係という要素も無視できないが、それ以上に大坂の陣という大きな戦乱の中で示した実力と、時勢を的確に捉えた行動が、彼を大名の地位へと押し上げた主要因であった。彼の経歴は、旧体制から徳川幕府による新体制へと移行する過渡期において、出自や従来の身分に必ずしも囚われない、多様な人材登用が行われた一例として注目に値する。
摂津尼崎において大名となった池田重利であったが、その支配は長くは続かなかった。宗主である姫路藩池田家の動向や、周辺大名との関係の中で、彼の所領は播磨国へと移ることになる。
元和3年(1617年)、宗家にあたる姫路藩主池田氏の内部で大きな転封が行われた(池田光政が鳥取へ移るなど)。この一族全体の再編の動きに伴い、池田重利もまた、摂津尼崎の地を離れることとなった。彼は、播磨国揖東郡鵤荘(いかるがのしょう、現在の兵庫県揖保郡太子町及びたつの市誉田町一帯)に、同じく1万石の知行で所領を移された 1 。これにより、播磨鵤藩が新たに立藩し、重利はその初代藩主となった。
この移封は、徳川幕府による全国的な大名配置転換政策の一環として行われたものと考えられる。特に西国においては、豊臣恩顧の大名も依然として存在しており、幕府としては信頼の置ける譜代大名や親藩、そして池田氏のような有力外様大名の一族を巧みに配置することで、支配体制の安定化を図ろうとしていた。重利のような、大坂の陣の戦功によって新たに取り立てられた大名にとっては、幕府の意向に忠実に従うことが、その地位を確固たるものにする上で不可欠であった。
鵤に藩庁を置いた重利であったが、その地での統治も安泰ではなかった。寛永3年(1626年)、近隣の龍野藩(脇坂氏)や姫路藩(本多氏)といった有力大名、特に本多家との間に対立が生じたことが原因で、重利は藩の陣屋を鵤から新宮(しんぐう、現在の兵庫県たつの市新宮町)へと移転せざるを得なくなった 2 。この移転をもって、一般に池田重利は新宮藩の初代藩主と見なされるようになる。
この本多家との対立の背景には、より大きな政治的文脈が存在した。当時、鵤藩(新宮藩)の宗家である因幡鳥取藩主・池田光政と、姫路藩主本多忠刻(ほんだ ただとき)の娘である勝姫との間で、婚儀の交渉が進められていた 2 。勝姫は徳川秀忠の養女であり、その母は豊臣秀頼の正室であった千姫(後に本多忠刻に再嫁)という、極めて高貴な血筋の女性であった。このような重要な縁談が進行している最中に、分家である重利の藩が本多家と紛争を起こすことは、宗家である池田家にとって極めて都合の悪い事態であった。そのため、鳥取藩池田家は、この問題が婚儀に悪影響を及ぼさないよう、重利に対して慎重な対応を求め、紛争の回避に努めたとされている 2 。
この一連の出来事は、1万石という小藩の藩主であった重利が、有力大名との間に挟まれ、いかに困難な立場に置かれていたかを如実に物語っている。本多家は、徳川将軍家と深い姻戚関係を持つ譜代の重鎮であり、彼らとの対立は、重利の藩にとっては存亡に関わる深刻な問題であった。最終的に陣屋を新宮へ移転するという決断は、直接的な衝突を避け、藩の存続を図るための苦渋の選択であった可能性が高い。これは、小大名が常に大藩の意向や幕府の政策に左右されながら、巧みに立ち回らなければならなかった当時の厳しい現実を浮き彫りにしている。
池田重利が新宮藩の初代藩主として、どのような藩政を行ったかについての具体的な治績を詳細に記した史料は、提供された資料群の中からは残念ながら確認することが難しい。しかし、彼の跡を継いだ息子の池田重政が、城下町の整備、藩庁や家老屋敷、侍屋敷の築造、新宮八幡神社の建立(寛永20年(1643年))、そして「播磨国絵図」の作成(慶安3年(1650年))といった多岐にわたる事業を推進していることから 13 、重利の代にある程度の藩政の基盤が築かれていたと推測することは可能である。
特に、藩の領域を示す詳細な絵図の作成や、計画的な城下町の建設といった事業は、藩の統治体制がある程度安定し、一定の財政的・人的資源がなければ実行は困難である。二代藩主・重政のこれらの治績は、初代である重利の時代に、藩運営の基礎固めが行われ、その土台の上に成り立っていたと考えるのが自然であろう。
時期(元号・西暦) |
藩名(または知行地) |
石高 |
所在地(国・郡) |
関連する出来事・典拠史料 |
慶長14年(1609年)頃 |
池田輝政家臣(利隆付) |
3,000石 |
播磨国内 |
池田輝政に仕官 1 |
元和元年(1615年) |
摂津尼崎藩 |
10,000石 |
摂津国 川辺郡・西成郡 |
大坂の陣の戦功による 2 |
元和3年(1617年) |
播磨鵤藩 |
10,000石 |
播磨国 揖東郡鵤荘 |
宗主池田氏の転封に伴う移封 1 |
寛永3年(1626年) |
播磨新宮藩 |
10,000石 |
播磨国 揖東郡新宮 |
本多家との対立により陣屋移転 2 |
この表は、池田重利が武士としてキャリアをスタートさせてから、大名となり、その所領が変遷していく過程をまとめたものである。初めは池田家の一家臣としての3000石から、大坂の陣という大きな転機を経て1万石の大名へと飛躍し、その後も幕府や宗家の都合によって領地を移り変わっていく様子は、当時の武士の身分や領地がいかに流動的であったかを示している。
池田重利がどのような人物であったか、そしてどのようにその生涯を終えたのかについて、残された史料から探る。
前述の通り、池田重利は学識に優れ、武芸にも通じていたとされている 1 。本願寺の坊官という知識人的な立場から、戦国の動乱を生き抜く武士へ、そして一国一城の主である大名へと劇的な転身を遂げたその経歴は、彼が並々ならぬ適応能力と、時流を読む鋭敏な感覚、そして困難な状況を切り開く行動力を持ち合わせていたことを強く示唆している。
一方で、東本願寺の教如との不和や、姫路藩本多家との対立といったエピソードは、彼が単に温厚な人物であっただけでなく、時には自らの信念や立場を強く主張する、あるいは守ろうとする強硬な一面も持ち合わせていた可能性を窺わせる。特に本多家との対立において、最終的に陣屋の移転という形で妥協点を見出したことは、現実的な状況判断能力と、自藩の存続を最優先する冷静さを兼ね備えていたことの表れかもしれない。彼の生涯は、知性と武勇、そして激動の時代を生き抜くための処世術を巧みに駆使した結果と言えるだろう。
播磨新宮藩初代藩主として藩政の基礎を築いた池田重利であったが、その治世は長くは続かなかった。彼は、寛永8年1月10日(西暦1631年2月10日)に死去したとされている 1 。一部の資料では、寛永8年11月10日(西暦1632年)に46歳で死去したとする記述も見られるが 3 、複数の情報源で支持されている寛永8年1月10日没という情報を本報告書では優先的に採用する。享年は46歳であった。
彼の墓所は、かつて鵤藩の陣屋が置かれた地に近い、兵庫県揖保郡太子町鵤にある斑鳩寺(いかるがでら)に設けられている 1 。戒名は、慈照院殿義山宗徳大居士(じしょういんでんぎざんそうとくだいこじ)と伝えられている 1 。
池田重利の死後、彼が興した下間系池田家(新宮藩)は、その子孫によって受け継がれたが、藩としての歴史は比較的短命に終わった。しかし、その後も家名は旗本として存続し、明治維新までその血脈を繋いでいくことになる。
池田重利の家督は、その長男である池田重政(いけだ しげまさ)が継承した 1 。重政は慶長8年(1603年)の生まれで、父の死後、新宮藩の二代藩主となった。彼は藩政の確立に力を注ぎ、具体的な治績も残している。城下町の整備を行い、藩庁や家老屋敷、その他の侍屋敷を築造した。また、信仰の面では、寛永20年(1643年)に新宮八幡神社を建立(上棟)している。さらに特筆すべきは、慶安3年(1650年)に家臣に命じて作成させた「播磨国絵図」であり、これは当時の播磨国の状況を知る上で貴重な文化財となっている 13 。これらの事績は、父・重利が築いた基盤をさらに発展させ、藩体制をより強固なものにしようとした重政の努力を物語っている。池田重政は慶安4年(1651年)に江戸で死去した。享年49歳であった 13 。
池田重利が創設した新宮藩は、残念ながら長くは続かず、重利から数えて4代目の当主の時代に廃藩(改易)の憂き目に遭うこととなった 2 。
二代藩主・重政の跡は、その次男である池田薫彰(いけだ くんしょう)が三代藩主として継いだが、薫彰は寛文3年(1663年)に31歳という若さで病死してしまう 2 。薫彰の跡を継いだのは、その子である池田邦照(いけだ くにてる)であった。邦照はわずか6歳で四代藩主となったが、彼もまた幼くして、寛文10年(1670年)に13歳で早世した 2 。
邦照には弟の池田重教(いけだ しげのり)がいたものの、当時は末期養子(当主が危篤になってから養子を迎えること)の禁が厳しく、藩主が幼くして後継者を指名せずに死去した場合、家名の断絶や領地の没収(改易)となるケースが少なくなかった。新宮藩もこの例に漏れず、邦照の死によって後継者が正式に定まらなかったため、池田重利の興した新宮藩は、わずか4代、約53年で廃藩となってしまったのである 2 。この出来事は、江戸幕府による大名統制の厳しさと、特に小藩が抱える後継者問題の深刻さ、そして家の存続がいかに困難であったかを示す一例と言える。
新宮藩は改易となったものの、池田重利の血筋が完全に途絶えたわけではなかった。廃藩となった寛文10年(1670年)の同年、宗家である備前岡山藩主・池田光政や因幡鳥取藩主・池田光仲らが、幕府に対して働きかけを行った 2 。この有力な本家筋の尽力の結果、改易された邦照の弟である池田重教は、改めて新宮周辺の地に3,000石の知行を与えられ、寄合席の旗本として家名の存続を許されることになった 2 。
大名から旗本へと家格は下がったものの、家名が存続したことは、武家社会における「家」の永続性に対する強い意識と、本家と分家間の相互扶助の精神がいかに重要視されていたかを示している。池田光政ら宗家の働きかけは、一族の結束の強さの表れであり、また、幕府も功臣の家系に対して一定の配慮を示した結果とも言えるだろう。
その後、下間系池田家は旗本として代々幕府に仕えた。幕末期には、12代当主の池田頼方(いけだ よりかた)が奈良奉行、勘定奉行、さらには江戸南町奉行といった幕府の要職を歴任するなど、家名を高める活躍を見せている 4 。そして、13代当主である池田頼誠(いけだ よりなり)の代に明治維新を迎えることとなった 2 。幕末には、かつてのように大名へ復帰することを願い、岡山藩の助力も仰いだが、その願いが叶うことはなかった 2 。
代 |
氏名 |
続柄 |
在任期間(藩主)/活動時期(旗本) |
石高 |
主要な出来事・典拠史料 |
初代 |
池田重利 |
下間頼龍長男 |
元和3年~寛永8年 (藩主) |
10,000石 |
新宮藩(鵤藩)立藩 1 |
2代 |
池田重政 |
重利長男 |
寛永8年~慶安4年 (藩主) |
10,000石 |
藩政確立、「播磨国絵図」作成 1 |
3代 |
池田薫彰 |
重政次男 |
慶安4年~寛文3年 (藩主) |
10,000石 |
31歳で病死 2 |
4代 |
池田邦照 |
薫彰の子 |
寛文3年~寛文10年 (藩主) |
10,000石 |
13歳で早世、新宮藩改易 2 |
5代 |
池田重教 |
邦照の弟 |
寛文10年~ (旗本) |
3,000石 |
旗本として家名存続を許される 2 |
... |
... |
... |
... |
... |
... |
12代 |
池田頼方 |
|
幕末期 (旗本) |
3,000石 |
奈良奉行、勘定奉行、江戸町奉行を歴任 4 |
13代 |
池田頼誠 |
|
明治維新期 (旗本) |
3,000石 |
明治維新を迎える 2 |
この表は、池田重利が興した家が、藩の改易という危機を乗り越え、旗本として近世を通じて存続し、明治という新たな時代を迎えるまでの軌跡を示している。それは、武家の「家」制度が持つ持続性と、同時にその脆弱性をも示す事例と言えるだろう。
池田重利の生涯は、本願寺の坊官の子として生まれながらも、母方の縁を頼って武家の世界に飛び込み、池田輝政という有力な庇護者を得てその才能を開花させ、大坂の陣における武功によって1万石の大名へと駆け上がった、まさに戦国乱世から江戸初期にかけての激動の時代を象徴するものであった。学識と武勇を兼ね備え、時流を的確に捉えて立身出世を果たしたが、彼が創設した新宮藩は、残念ながら4代で改易という形で終焉を迎えた。しかし、その家名は旗本として存続し、幕末までその血脈を伝えた。
池田重利の人生は、いくつかの重要な歴史的側面を我々に示してくれる。第一に、戦国末期から江戸初期にかけての社会的身分の流動性である。坊官の子が大名になるという事例は、決して多くはないが、個人の才覚と努力、そして時運と有力者との縁故が結びつけば、従来の身分秩序を乗り越えることが可能であったことを示している。第二に、個人の能力と縁故の重要性である。重利が池田輝政に見出されたのは、彼の学識と武芸の才があったからこそだが、同時に輝政の甥という縁戚関係がその機会を大きく引き寄せたことは否定できない。第三に、小大名が置かれた厳しい政治的・経済的状況である。1万石という小藩は、常に周辺の大藩や幕府の意向に左右され、藩の存続自体が危うい状況に置かれることも少なくなかった。新宮藩の改易や、本多家との対立による陣屋移転は、その典型的な例と言えるだろう。
また、藩は短命に終わったものの、その子孫が旗本として幕府に仕え続け、中には要職に就く者も現れたことは、近世武家社会における「家」の維持と存続のあり方、そして本家と分家の間の相互扶助関係の重要性を示す事例として評価できる。
提供された史料からは、池田重利が藩主であった時代の具体的な治績や、領民に対してどのような政策を行ったのかといった詳細な情報は乏しい。また、姫路藩本多家との対立の具体的な内容や、それが藩経営に与えた影響の度合いなどについても、より詳細な背景が明らかになれば、彼の人物像や藩主としての力量をさらに深く理解することができるだろう。これらの点については、新たな史料の発見や、既存史料のより詳細な分析が今後の研究課題として期待される。池田重利という一人の武将の生涯を追うことは、近世初期の日本の社会構造や武家社会の実態を多角的に考察する上で、引き続き意義深いテーマであると言える。