油屋常言は堺の豪商。本姓は伊達。油、医薬品、軍需品を扱い、三好・織田・豊臣・徳川と交流。妙國寺建立、茶の湯を嗜み、名物茶入「油屋肩衝」を所有した。
戦国乱世の日本において、経済、文化、そして時には政治の中心として独自の輝きを放った自由都市・堺。応仁の乱以降、中央の権力が揺らぐ中で、堺は環濠に囲まれた要塞都市として自治を確立し、海外貿易や鉄砲生産を通じて莫大な富を蓄積した。この特異な都市空間から、数多くの豪商が歴史の表舞台に登場した。本報告書は、その堺を代表する豪商の一人、「油屋常言(あぶらや じょうげん)」およびその一族の実像に、深く、そして多角的に迫るものである。
利用者様によって示された「堺の商人。油屋家は常言・常祐・常悦と代を伝えた。常言は堺に妙國寺を建立し子・日晄を開山とした。常祐は武野紹鴎に、常悦は千利休に茶の湯を学んだ」という概要は、油屋一族の活動の輪郭を的確に捉えている。しかし、この簡潔な記述の背後には、戦国という時代のダイナミズムと複雑に絡み合った、一族の壮大な物語が隠されている。彼らは単なる富裕な商人だったのか。それとも、財力、信仰、文化資本を巧みに操り、天下の動向さえ左右した戦略家集団だったのか。
本稿では、断片的に残された史料を丹念に繋ぎ合わせ、油屋一族の事業内容、各時代の権力者との交錯、信仰の遺産としての妙國寺建立、そして茶の湯文化における卓越した地位を解き明かす。これにより、油屋常言という一人の商人、そして彼が率いた一族が、戦国時代において果たした複合的かつ戦略的な役割を明らかにしていく。
油屋一族の活動を理解するためには、まず彼らが根を下ろした舞台、自由都市・堺の特異性を把握する必要がある。この章では、堺の社会構造、油屋一族のプロファイル、そして彼らの事業の実態について論じる。
室町時代後期から戦国時代にかけ、堺は日本における最も重要な国際貿易港の一つであった。明や東南アジアとの交易により、硝石、生糸、薬種といった貴重な輸入品がもたらされ、同時に日本からは銀や刀剣などが輸出された。また、種子島に鉄砲が伝来して以降、堺はその一大生産拠点となり、日本の戦術を根底から変えるほどの技術力を有していた。
このような経済的・軍事的優位性を背景に、堺の商人たちは「会合衆(えごうしゅう)」と呼ばれる自治組織を形成し、都市の運営を自らの手で行った 1 。会合衆は36人から成るとされ、都市の防衛、訴訟の裁定、対外的な交渉などを担った。この会合衆の母体となったのが、「納屋衆(なやしゅう)」と呼ばれる富裕な倉庫業者たちであった 1 。彼らは港湾に倉庫(納屋)を所有し、商品の保管や金融業、廻船業を営むことで巨万の富を築き、堺の経済インフラを支配していた 1 。油屋一族が、堺の会合衆の一員として、あるいはそれに準ずる有力な納屋衆として、都市運営に深く関与していたことは、彼らの後の活動から見ても疑いようがない。
油屋一族は、本姓を「伊達」と称したことが複数の史料から確認できる 3 。これは、彼らが単なる町人ではなく、武士階級に連なる出自を持つ可能性を示唆しているが、その詳細は定かではない。一族の主要な人物は以下の通りである。
この一族構成は、家業を継ぐ者(常祐)、文化の担い手(常祐・常悦)、そして宗教的権威を確立する者(日珖)という、役割分担がなされた戦略的な布陣であった可能性をうかがわせる。
屋号である「油屋」は、一族の事業の根幹が、灯明や食用、あるいは武具の手入れなどに用いられる油の売買にあったことを示唆している。しかし、彼らの活動範囲は、その名が示す単一の事業に留まるものではなかった。
史料の中には、油屋常祐が「薬市問屋」を営んでいたという注目すべき記述が存在する 12 。これは、彼らが南蛮や明から輸入される漢方薬の原料や、当時最先端であった外科的治療に用いる道具などを扱い、専門家である薬師たちに卸していたことを意味する。医薬品は、人々の命を救うだけでなく、戦国大名にとっては負傷した兵士を治療し、軍の士気を維持するための極めて重要な戦略物資であった。このような最先端の輸入業は、莫大な利益を生み出すと同時に、医療という機微な情報にアクセスできる立場を油屋一族にもたらした。
さらに、彼らが堺の「納屋衆」であったことを考え合わせると、その事業は倉庫業や金融業にも及んでいたと見なすのが自然である 1 。また、織田信長が堺に目を付けた理由の一つとして、鉄砲だけでなく火薬の原料である硝石の入手があったとされることから 13 、油屋のような有力商人がこれらの軍需物資の取引に関与していた可能性は非常に高い。
これらの事実を総合すると、油屋一族の実像は、単なる「油商人」という枠組みを大きく超える。彼らは、油という生活必需品を基盤としつつ、医薬品輸入、金融、不動産(倉庫貸付)、そして軍需品までをも手掛ける、いわば戦国時代の**「総合戦略商社」**とでも言うべき複合的事業体であった。この強固で多角的な経済基盤こそが、彼らが政治や文化の世界で絶大な影響力を行使することを可能にした富の源泉だったのである。
油屋一族を率いた家長・常言は、激動の時代を生き抜くために、商人として卓越した経営手腕を発揮するだけでなく、時の最高権力者たちと巧みに関わり、一族を導いた。彼の生涯は、三好、織田、豊臣、徳川という、目まぐるしく入れ替わる天下人との交錯の連続であった。
油屋一族が堺で大きく台頭した時期は、阿波から兵を起こし、畿内一円に覇を唱えた三好長慶とその弟・実休(義賢)の時代と重なる。特に、油屋一族と三好氏との関係は極めて緊密であった。その最も明確な証拠が、後に油屋一族が建立する妙國寺の土地が、三好実休から寄進されたという事実である 5 。
この土地寄進は、単なる有力者から寺社への寄進という形式を超え、三好氏が油屋一族を経済的・情報的なパートナーとして深く信頼していたことを物語っている。油屋は三好氏の軍事行動を財政面で支え、見返りとして様々な利権を得ていたと推測される。実休が久米田の戦いで討死した際、その子・日珖が城中の人々を率いて堺に戻ったという逸話も 14 、両者の人的な繋がりの深さを示している。この三好氏との「創業パートナーシップ」ともいえる関係が、油屋一族の飛躍の礎となった。
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、畿内の政治情勢は一変する。信長は、堺が三好三人衆を支援していたことを咎め、矢銭(軍資金)として二万貫という巨額の支払いを命じた 15 。この時、堺の会合衆が信長との交渉の矢面に立ったが、油屋一族もその中心的な役割を担っていたことは間違いない。最終的に堺はこの要求を受け入れ、信長の支配下に入った。
この信長の強権と、それに屈しつつも気概を見せる堺商人の関係を象徴するのが、妙國寺の蘇鉄にまつわる有名な逸話である。信長はこの見事な大蘇鉄を気に入り、安土城へと移植させた。しかし、蘇鉄は毎夜「堺へ帰りたい」とすすり泣き、不気味に思った信長はついにこれを妙國寺へ返却したという 10 。この物語は、信長の絶対的な権力でさえも、堺の持つ聖性や精神性(あるいは商人が作り上げた物語の力)には抗しきれなかったことを示唆しており、圧力に屈しない堺商人の矜持を後世に伝えている。
本能寺の変の後、天下人となった豊臣秀吉に対し、油屋一族は巧みに順応し、その地位を確保する。天正16年(1588年)、常言は息子の常祐と共に伏見城に伺候し、秀吉に仕えたという記録が残っている 6 。これは、旧主である三好氏や、一時的に対立した織田信長との時代が終わり、新たな支配者である豊臣政権の秩序に積極的に組み込まれていったことを示している。
この臣従の証として、後に詳述する一族の至宝、名物茶入「油屋肩衝」が秀吉に献上された。これは、武力ではなく文化的な権威をもって秀吉の支配を認め、その見返りとして新たな体制下での安全と繁栄を確保するという、高度な政治的判断であった。
油屋常言の政治的嗅覚と決断力を最も劇的に示すのが、徳川家康の生涯最大の危機「神君伊賀越え」との関わりである。天正10年(1582年)、本能寺の変が起きた際、家康はわずかな供回りと共に堺に滞在していた。そしてその宿所こそが、油屋一族が建立した妙國寺であったという伝承が残っている 16 。
信長の死を知り、絶体絶命の窮地に陥った家康に対し、油屋一族は救いの手を差し伸べたとされる。常言の策に従い、家康は商人の体に変装し、油屋一族や筒井氏らの助けを得て、危険な大和路を抜けて本国三河へと奇跡的な帰還を果たしたという 6 。この援助が事実であれば、それは常言の驚くべき情報収集能力と、混沌とした状況の中で家康の将来性を見抜いた卓越した投資感覚の証左である。三好氏との関係構築、信長への対応、秀吉への臣従、そして家康への先行投資。これらは単なる場当たり的な対応ではなく、常言が一貫して情報、財力、文化資本を駆使し、権力構造の変化を乗りこなし続けた、極めて高度な戦略の現れであった。
油屋一族が後世に残した最も永続的かつ有形な遺産は、堺の地に今なおそびえ立つ日蓮宗本山・妙國寺である。この寺院の建立は、単なる一族の敬虔な信仰心の発露に留まらず、その社会的・政治的影響力を不動のものとするための、計算され尽くした戦略的事業であった。
妙國寺建立の直接的なきっかけは、永禄5年(1562年)、畿内の支配者であった三好実休が、名木「大蘇鉄」を含む一画の土地を、常言の子である日珖上人に寄進したことに始まる 5 。この寄進を受け、永禄9年(1566年)から、父である油屋常言と兄の常祐が発願主となり、私財を投じて堂塔伽藍の建設に着手した 10 。そして2年後の永禄11年(1568年)に壮麗な寺院が完成し、開山(初代住職)には、土地の寄進を受けた日珖上人が就任した 10 。
この事業は、父・常言の財力と、子・日珖の宗教的権威が見事に融合した、一族総出のプロジェクトであった。常言が建立を発願し、経済的な基盤を提供することで事業を主導し、その完成した寺院のトップに、学識と徳望を兼ね備えた実子を据える。これにより、妙國寺は名実ともに「油屋の寺」として、その後の歴史を歩むことになったのである。
妙國寺の初代住職となった日珖(1532-1598)は、単に豪商の子という出自に恵まれただけの人物ではなかった。彼は当代随一の学僧として、宗派を超えた尊敬を集めていた。その経歴は、日蓮宗の僧侶としてだけでなく、三井寺(天台寺門宗)、比叡山延暦寺(天台宗)、そして奈良の諸寺で仏学を深く究め、さらには神道の大家である卜部兼石にも師事して神道を修めるなど、驚くほど広範な学識を身につけていた 3 。
特に説法が巧みで、その学識と徳行は多くの人々の心を捉えたという 11 。日蓮宗の僧侶として初めて紫衣(朝廷から高徳の僧に下賜される特別な色の法衣)の着用を許された人物とも伝えられており 14 、その宗教界における地位の高さがうかがえる。油屋常言は、この傑出した息子を寺の顔とすることで、妙國寺に単なる金銭の力だけでは得られない、崇高な権威と名声を与えることに成功したのである。
妙國寺の建立は、永禄11年(1568年)3月に行われた三好実休の七回忌供養に合わせて完成しており、公式には実休の菩提を弔うことが最大の目的であった 15 。これは、かつての最大のパトロンであった三好氏への「義理」を果たすという、武家社会の徳義に適った行動であり、油屋一族の社会的評価を大いに高めるものであった。
しかし、その役割はそれだけに留まらない。建立後は油屋一族の菩提寺として、その繁栄と名声を永続させるための精神的支柱となった。さらに、寺院という一種の治外法権的な空間は、政治的な舞台としても機能した。前述の通り、本能寺の変の際には徳川家康の宿所となり、一族の存亡を賭けた政治的決断の場となった 16 。また、時代は下るが、幕末にはフランス兵が殺傷された「堺事件」の舞台となり、土佐藩士が切腹するなど、日本の歴史の重要な節目にその名をとどめている 5 。
このように、妙國寺の建立は、信仰心、親子愛、旧主への忠義、政治的計算、そして一族の永続的なブランディング戦略が完璧に融合した、油屋常言の生涯における最大の傑作であったと言える。
戦国時代、茶の湯は単なる喫茶の風習ではなく、武将や豪商たちが集い、情報交換を行い、政治的な駆け引きを繰り広げる、極めて重要な文化的・社会的装置であった。油屋一族は、この茶の湯の世界において、三世代にわたって主導的な役割を果たし続けた。それは偶然の産物ではなく、文化的な影響力を維持・拡大するための、計算された長期戦略であった。
一族の茶の湯への傾倒は、家長の常言から始まる。『堺市史』には、常言が当代随一の茶人であった津田宗及が主催する茶会に、頻繁に客として招かれていた記録が残っている 6 。これは、常言が茶の湯を嗜むだけでなく、堺の文化サロンの中心にいた人物たちと密接なネットワークを築いていたことを示している。彼にとって茶室は、くつろぎの場であると同時に、最新の情報を入手し、ビジネスや政治の交渉を行うための重要な舞台であった。常言は、まず茶の湯の世界に「参加」することで、その価値と影響力を正確に把握したのである。
常言の子・常祐の代になると、油屋一族の茶の湯への関与は、単なる参加から主導へと移行する。常祐は、千利休の師としても知られ、「わび茶」の潮流を形作った武野紹鴎に直接茶道を学んだ 4 。これは、当時の茶道界のまさに本流に連なることを意味し、常祐が正統な担い手であることを証明するものであった。
さらに常祐は、優れた茶人であると同時に、当代屈指の数寄者(美術品コレクター)として、その財力を背景に天下の名物を収集した。彼が所蔵したとされる器物は、いずれも茶道具の歴史に燦然と輝くものばかりである。
紹鴎の直弟子という「血統」と、天下の名物を所有するという「権威」。常祐は、この二つを兼ね備えることで、茶の湯の世界における文化的なパトロンとしての地位を確立した。
油屋一族の文化戦略の巧みさは、次の世代にも受け継がれる。常祐の一族である常悦は、わび茶を大成させ、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として絶大な権勢を誇った千利休の門人となった 6 。
これは、茶の湯の流行が武野紹鴎からその弟子である千利休へと移り、新たな価値観が生まれていく時代の変化を、油屋一族が敏感に察知していたことを示している。彼らは過去の権威に安住することなく、常に文化の最前線に身を置き、新たな潮流の中心人物と関係を築くことで、その影響力を維持し続けたのである。
第一世代(常言)が茶の湯に「参加」し、第二世代(常祐)が「権威」となり、第三世代(常悦)が新たな「潮流」に乗る。この世代を超えた継承は、政治体制がいかに変わろうとも、文化の中心に居続けることで、いかなる権力者とも対等に近い立場で交渉できる「文化資本」を蓄積し続けるという、武力を持たない商人が乱世を生き抜くための、極めて洗練された生存戦略であった。
油屋一族の名を日本の歴史に不朽のものとした存在、それが大名物茶入「油屋肩衝(あぶらや かたつき)」である。この小さな陶器は、単なる茶道具ではない。油屋一族の富と文化の象徴であり、やがては彼らの手を離れ、天下人たちの間を渡り歩くことで、日本の歴史そのものを映し出す鏡となった。
「油屋肩衝」は、中国の南宋から元時代(13~14世紀)にかけて作られたとされる、いわゆる唐物の肩衝茶入である 19 。高さ約8.3センチメートル、胴径約8.0センチメートル 20 。その姿は、張りのある肩から胴にかけて緩やかな曲線を描き、総体には美しい柿色の釉薬がかかり、その上から黒飴色の釉薬が景色となって流れる、気品と風格を兼ね備えた逸品である 7 。古来、「初花肩衝」や「新田肩衝」といった天下三肩衝に並び称されることもある、大名物の中の大名物として茶人垂涎の的であった 7 。
この名物は、元は竹蔵屋紹滴という人物が所持していたが、やがて油屋常言の手に渡り、その後、子の常祐、そして常悦へと伝えられたとされる 20 。油屋一族にとって、この茶入は自らの財力と文化的権威を凝縮した、最高の切り札であった。
永禄10年(1567年)や天正15年(1587年)などに、常祐や常悦が主催した茶会でこの「油屋肩衝」が披露されたことが、津田宗及らの茶会記に記録されている 22 。限られた客しか招かれない特別な茶会で、この至宝を披露することは、油屋一族が堺の、ひいては日本の文化シーンの中心にいることを満天下に示す行為であった。
やがてこの茶入は、天下人となった豊臣秀吉の所有となる。献上の時期については、常言の代であったとする説や、常祐あるいはその後の世代であったとする説など諸説あるが 7 、天正15年(1587年)の茶会記に常悦が使用した記録があることから、秀吉の手に渡ったのはそれ以降であることは確実視されている 22 。
この献上は、単なる贈物ではなかった。「北野茄子茶入由緒書」によれば、油屋常言が「油屋肩衝」を献上した見返りとして、秀吉から同じく名物茶入である「北野茄子」と鳥目三百貫文を賜ったと記されている 22 。これは、堺の事実上の支配者として君臨した秀吉に対し、油屋一族がその絶対的権威を認め、文化的な至宝を差し出すことで忠誠を示す、極めて高度な政治的儀式であった。同時に、見返りを得るという取引の形式を取ることで、一方的な没収ではなく、商人としての面子を保つというしたたかな計算も見て取れる。
秀吉の手に渡って以降、「油屋肩衝」は日本の歴史を動かした権力者や大商人、そして近代の実業家の手を渡り歩く数奇な運命を辿る。その壮大な旅路は、一つの器物が辿った歴史というだけでなく、日本の権力構造と富の移動の歴史そのものを物語っている。その複雑な伝来を以下の表にまとめる。
表1:「油屋肩衝」の伝来表 |
所有者 |
油屋常言・常祐・常悦 |
豊臣秀吉 |
福島正則 |
徳川家光 (将軍家) |
土井利勝 |
河村瑞賢 |
冬木喜平次 |
松平不昧 (治郷) |
畠山一清 (即翁) |
畠山記念館 |
この伝来表が示すのは、戦国商人から天下人、譜代大名、新興豪商、大名茶人、そして近代実業家へと至る、日本の支配者層と富の担い手の変遷そのものである。「油屋肩衝」という一つの「モノ」は、時代を超えて最高レベルの価値を維持し続け、その時々の最も力ある者の手を渡ることで、自らの来歴を日本の歴史に刻みつけていったのである。
本報告書で明らかにしてきたように、油屋常言とその一族は、単に「堺の商人」という言葉では到底捉えきれない、多面的で戦略的な存在であった。彼らは、戦国という激動の時代を生き抜くために、商人が持ちうるあらゆる資本を駆使し、見事なまでにその影響力を発揮した。その遺産は、経済、政治、宗教、文化という、複数の領域にわたって今なおその痕跡を留めている。
第一に、 経済的遺産 として、彼らは屋号である「油屋」の枠を遥かに超え、医薬品、金融、物流、軍需品までを掌握する複合事業体を築き上げた。この強固な経済基盤こそが、他のあらゆる活動を可能にする源泉であった。
第二に、 政治的遺産 として、家長・常言は三好、織田、豊臣、徳川という権力者の変遷を巧みに乗りこなし、時には歴史の転換点(神君伊賀越え)で決定的な役割を果たした。その行動は、商人が単なる経済活動の担い手ではなく、政治を動かし得るアクターであった時代の証左である。
第三に、 宗教的遺産 として、妙國寺の建立は、一族の信仰心と社会的権勢を示す不朽の記念碑となった。それは旧主への義理を果たし、新たな権威を創造し、一族の永続的な拠点となる、極めて高度な戦略的投資であった。
そして第四に、 文化的遺産 として、彼らは三世代にわたり茶の湯文化の中心にあり続け、その究極の象徴である大名物「油屋肩衝」は、数々の歴史の目撃者として、その輝きを現代にまで伝えている。この茶入の物語は、油屋一族の物語そのものである。
油屋常言は、財力、情報網、信仰心、文化資本、そして何よりも未来を見通す政治的嗅覚という、商人が持ちうる全ての武器を駆使して、戦国という荒波を乗りこなし、一族を後世に導いた偉大な航海士であった。その生涯と一族の軌跡は、乱世を生きる一つの卓越したモデルとして、我々に多くの示唆を与えてくれる。