津田宗達は堺の豪商・天王寺屋の二代目。三好政権の政商として活躍し、武野紹鴎に茶の湯を学んだ茶人。茶会記『天王寺屋会記』を創始し、時代の記録者となった。
戦国時代の日本史において、津田宗達(つだ そうたつ、1504-1566)という名は、彼の息子であり「天下三宗匠」の一人に数えられる津田宗及(そうぎゅう)や、茶聖・千利休の輝かしい名声の影に隠れがちである。しかし、宗達の生涯を丹念に追うとき、我々は彼が単なる一介の豪商ではなく、戦国中期の政治・経済・文化が複雑に交錯する、まさに時代の結節点に位置した稀有な人物であったことに気づかされる。本報告書は、津田宗達という人物を、三好政権を経済的に支えた「政商」、わび茶の潮流を牽引した「茶人」、そして後世に一級の史料を遺した「記録者」という三つの側面から多角的に分析し、その歴史的意義を再評価することを目的とする。
宗達が生きた16世紀中葉は、日本の歴史における大きな転換期であった。応仁の乱以降続いた戦乱は、旧来の荘園制を崩壊させ、各地に戦国大名が割拠する下克上の時代を現出させた。その一方で、畿内では国際貿易港・堺に代表されるような、大名の権力から自立した「自治都市」が未曾有の繁栄を謳歌していた。津田宗達は、この自治都市・堺の黄金時代を象徴する存在である。彼の生涯は、中世的な自治共同体の繁栄の頂点と、織田信長に代表される中央集権的な統一権力への移行期という、時代の光と影そのものを映し出す鏡であった。本報告書を通じて、彼の足跡を徹底的に掘り下げ、戦国史におけるその真の価値を明らかにしていく。
津田宗達という個人を理解するためには、まず彼が活動の拠点とした「堺」という都市の特異性と、彼の一族「天王寺屋」が築き上げた経済的・文化的基盤を解明することが不可欠である。宗達の人格と業績は、この土壌なくしては語り得ない。
堺は、摂津・和泉・河内の三国の境に位置するという地理的優位性から、古くより交通の要衝として発展した 1 。室町時代に入ると、15世紀には遣明船の発着港となり、中国大陸や琉球、さらには東南アジア諸国との交易を通じて、日本を代表する国際貿易港としての地位を確立する 2 。イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラが、その繁栄と自治の様子を「ベニス市の如く執政官によりて治めらる」と驚嘆をもって本国に報告したように、堺は「東洋のベニス」と称されるほどの栄華を極めた 4 。
この繁栄を支えたのが、「会合衆(えごうしゅう、かいごうしゅうとも)」と呼ばれる有力商人たちによる独自の自治システムであった。納屋衆(なやしゅう)とも呼ばれた彼らは、合議制によって町政を運営し、都市の防衛、紛争の調停、司法権の行使、さらには寺社の保護に至るまで、広範な権限を掌握していた 4 。彼らは町の周囲に濠を巡らせて「環濠都市」を形成し、傭兵を雇って物理的な防衛力を確保することで、守護大名をはじめとする外部権力の介入を巧みに排除し、自由な商業活動の場を守り抜いたのである 2 。
この堺の自治は、単なる理念や理想によって支えられていたわけではない。その根底には、会合衆が掌握する圧倒的な経済力があった。特に二つの産業が、その富の源泉となっていた。一つは、16世紀半ばに種子島に伝来した鉄砲の生産である。堺の商人はその価値にいち早く着目し、製法を習得すると、堺を日本一の鉄砲生産拠点へと変貌させた 2 。鉄砲鍛冶が軒を連ねる専門の区画が形成され 12 、会合衆は武器商人として、火薬の原料である硝石や弾丸の材料となる鉛の輸入ルートを独占し、生産から販売に至るまでのサプライチェーンを完全に掌握していた 14 。もう一つは、前述の国際貿易である。生糸、絹織物、陶磁器、香木、薬種といった海外の希少な産品が堺にもたらされ、莫大な利益を生み出した 16 。その他にも、古くからの伝統である刃物生産や、貿易で入手しやすい香木を原料とした線香製造、茶の湯文化の発展に伴う和菓子作りなども盛んであった 18 。
このように、堺の「自治」と「経済力」は、相互に依存し補完し合う、不可分の関係にあった。会合衆は、商業活動で得た莫大な富を投じて環濠を維持し、傭兵を雇い、物理的に都市の自治を守った。そして、その自治が保証されているからこそ、商人は大名の気まぐれな収奪や不当な課税を恐れることなく、自由に経済活動に邁進し、さらなる富を生み出すことができた。この「自治」と「経済力」の好循環こそが、戦国時代における堺の特異な繁栄の核心であり、津田宗達は、このシステムの頂点に立つ会合衆の一員として、その恩恵を最大限に享受すると同時に、システムそのものを支える中心的な役割を担っていたのである 20 。
津田家が屋号とした「天王寺屋」は、その名の通り、初代・津田宗柏(そうはく)の時代に大坂の四天王寺近辺から堺へ移り住んだことに由来すると考えられている 21 。一族は、堺のメインストリートである大小路(おおしょうじ)に面した南荘の材木町に広大な屋敷を構え、堺を代表する豪商としてその名を轟かせた 23 。
天王寺屋の成功は、単なる経済活動の巧みさだけに起因するものではない。その礎には、初代・宗柏(1444-1527)が築き上げた、他に類を見ない「文化資本」が存在した。宗柏は、わび茶の創始者と評される村田珠光(むらた じゅこう)に茶の湯を学び、当代一流の連歌師であった牡丹花肖柏(ぼたんか しょうはく)からは古今伝授を受けるほどの、傑出した文化人であった 22 。公家の三条西実隆といった最高峰の知識人とも交流があったことが記録されており 23 、単なる富裕な商人という枠を完全に超越していた。この高い文化的素養と、それを通じて築かれた公家や有力武家との人脈こそが、天王寺屋が他の商人と一線を画す決定的な要因となった。経済力(カネ)と文化的権威(ステータス)という両輪を巧みに回すことで、天王寺屋は権力者にとって単なる御用商人ではなく、文化的な営みを共にする対等なパートナーとしての地位を確立したのである。津田宗達が父の代に築かれたこの強固な基盤を継承し、さらに発展させることができたのは、この類まれな遺産があったからに他ならない。
天王寺屋の事業は多角的であった。琉球や九州との南方貿易で莫大な富を築いたことは広く知られているが 22 、その戦略は巧妙であった。宗達が畿内の中央政権である三好氏との関係を深める一方で、彼の弟である津田道叱(どうしつ)は、九州の有力大名・大友宗麟に重用され、博多の豪商である神屋宗湛(かみや そうたん)や島井宗室(しまい そうしつ)らとの太いパイプを築いていた 21 。これは、一族内で中央と地方の有力者それぞれに働きかけるという、リスクを分散しつつ影響力を最大化する、高度な経営戦略であったと評価できる。さらに、天王寺屋は金融業にも進出しており、信用取引に用いられる「手形」を創始したという説もあるほど、当時の経済界において革新的な役割を果たしていた 21 。
父・宗柏が築いた盤石な基盤の上に、津田宗達は天王寺屋二代目として、その黄金時代を現出させた。彼の生涯は、畿内の覇者・三好長慶を支える「商人」としての顔と、わび茶の精神を探求する「茶人」としての顔、その二つの側面を軸に展開される。
津田宗達 関連年表
西暦(和暦) |
津田宗達・天王寺屋の動向 |
堺・三好・織田家の動向 |
日本全体の主要な出来事 |
1504(永正元) |
津田宗達、生まれる 30 。 |
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1527(大永七) |
父・津田宗柏、死去 26 。宗達が家督継承か。 |
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1543(天文十二) |
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鉄砲、種子島に伝来。 |
1548(天文十七) |
『天王寺屋会記』を書き始める 30 。 |
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1549(天文十八) |
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三好長慶、江口の戦いで勝利し、畿内の実権を掌握。 |
フランシスコ・ザビエル、来日。 |
1555(弘治元) |
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師・武野紹鴎、死去 31 。 |
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1562(永禄五) |
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三好実休、戦死 32 。 |
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1564(永禄七) |
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三好長慶、死去 33 。 |
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1565(永禄八) |
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永禄の変。足利義輝、殺害される。 |
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1566(永禄九) |
8月2日、死去。享年63歳 30 。息子・宗及が家督継承。 |
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1568(永禄十一) |
(宗及の代) |
織田信長、足利義昭を奉じて上洛。堺に矢銭2万貫を要求 34 。 |
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1569(永禄十二) |
(宗及の代) |
堺、信長の要求に屈服 7 。 |
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永正元年(1504年)に生を受けた宗達は 30 、父・宗柏の死後、天王寺屋の舵取りを任された。彼の活動期は、織田信長に先んじて畿内を支配し「天下人」と称された三好長慶の全盛期とほぼ重なる。長慶は、堺の持つ強大な経済力に着目し、それを自らの軍事・政治活動の基盤とした 33 。堺の会合衆は、長慶にとって不可欠な経済的パートナーであり、その中でも津田宗達は中心的な役割を担う「御用商人」であった。
宗達と三好一族の関係は、単なる金銭的な結びつきに留まるものではなかった。特に、長慶の弟で、三好家の本国である阿波(徳島県)と讃岐を統治し、兄を支えた三好実休(じっきゅう、義賢)とは、茶の湯を通じて深い親交を結んでいた。実休自身も熱心な茶人であり、宗達を自身の居城である勝瑞城に招いて茶会を催すなど、文化的な交流を重ねていた記録が残っている 32 。また、三好一族の重鎮である三好康長(笑岩)も、宗達とその息子・宗及が主催する茶会に頻繁に顔を出していた 32 。
この事実は、宗達と三好政権の関係が、単なる「御用商人」という一方的な従属関係ではなく、互いの価値を認め合う「共生関係」であったことを示している。三好政権は、宗達の持つ経済力と、堺の商人ネットワークを通じて調達される軍需品(鉄砲や火薬など)を必要とした。一方、宗達は、三好政権という強力な政治的後ろ盾を得ることで、商業活動の安定とさらなる拡大を図ることができた。茶会は、この相互依存関係を円滑にし、深めるための重要な社交の場として機能していたのである。また、宗達は当時畿内で大きな宗教的・軍事的勢力であった石山本願寺とも深い関係を維持しており 34 、特定の権力にのみ依存しない、商人らしい巧みなリスク管理能力も見て取れる。
津田宗達は、卓越した商人であると同時に、当代一流の茶人でもあった。彼の茶の湯は、千利休の師としても知られる武野紹鴎(たけの じょうおう)に学んだものであった 25 。紹鴎は、村田珠光が切り開いた「わび茶」の精神をさらに深化させ、「枯カジケテ寒カレ」という言葉で表現されるような、華美を削ぎ落とした静寂の美を追求した人物である 38 。宗達は、この紹鴎が開く茶会に度々客として招かれており、その薫陶を深く受けた 39 。
さらに、彼の精神的探求は茶の湯に留まらなかった。禅宗、特に臨済宗大徳寺派との関わりも深く、住持であった大林宗套(だいりん そうとう)に参禅し、「大通(だいつう)」という道号を授けられている 25 。これは、彼の茶の湯が単なる趣味や芸事ではなく、禅の思想に裏打ちされた深い精神性を伴うものであったことを示唆している。この禅への帰依は、息子・宗及にも引き継がれた 34 。
一方で、宗達は「名物茶器三十種を所持した」と評されるほど 30 、当代随一の茶道具コレクターであり、優れた鑑識眼の持ち主でもあった。彼のコレクションの中でも特に名高いのが、大名物として知られる唐物肩衝茶入「北野肩衝」である。この茶入は、室町幕府八代将軍・足利義政から三好宗三(長慶の父の従兄弟)を経て、宗達の手に渡ったとされる、まさに天下の名宝であった 41 。また、三好実休が所持していた天下無双の葉茶壺「三日月」を、その茶会で拝見した記録も残しており、彼が常に最高峰の茶道具に触れる環境にあったことがわかる 42 。
紹鴎から学んだ「わび」の精神と、唐物の「名物」を蒐集・愛玩する行為は、一見すると矛盾しているように映るかもしれない。しかし、これこそが津田宗達という茶人の本質であり、彼が生きた時代の茶の湯の姿そのものであった。当時の茶の湯は、内面的な精神性を重視する「わび」の価値観と、道具の来歴や美術的価値を尊ぶ「名物主義」という二つの大きな潮流が混在する、まさに過渡期にあった。宗達は、この二つの価値観の狭間に立ち、その両方を自身の茶の湯の中で実践した人物として位置づけられる。質素を旨とする精神性を探求しながらも、豪商としての財力と文化的権威の象徴である名物道具を誇示することも厭わない。この過渡期的なあり方こそが、後の息子・宗及、そして千利休による「わび茶」の大成へと繋がる、極めて重要なステップであったと評価できるのである。
天王寺屋(津田宗達・宗及)所蔵の主要名物道具一覧
道具名 |
種類 |
特徴・由来 |
主な伝来(判明分) |
典拠 |
北野肩衝 |
唐物肩衝茶入 |
大名物。豊臣秀吉が主催した北野大茶会に出品されたことからこの名がついた。 |
足利義政 → 三好宗三 → 津田宗達・宗及 → 烏丸家 →... → 三井記念美術館 |
41 |
三日月 |
葉茶壺 |
天下無双と讃えられた大名物。宗達が三好実休の茶会で拝見した記録がある。 |
興福寺 →... → 三好実休 → 織田信長(本能寺の変で焼失) |
42 |
紹鴎茄子 |
唐物茄子茶入 |
大名物。師である武野紹鴎が所持していたことに由来。 |
武野紹鴎 → 今井宗久 → 織田信長 → 津田宗及 (信長より下賜) |
38 |
珠光文琳 |
唐物文琳茶入 |
大名物。わび茶の祖・村田珠光ゆかりの品。 |
(伝)村田珠光 →... → 織田信長 → 津田宗及 (信長より下賜) |
38 |
藤棚 |
茶道具一式 |
宗達ゆずりの名物。平水指、建水など4種からなる。宗及が「松本茶碗」入手のため質入れした。 |
津田宗達 → 津田宗及 |
46 |
津田宗達の数ある功績の中でも、後世に最も大きな影響を与えたのは、彼が創始した茶会記録『天王寺屋会記』であろう。この記録は、彼を単なる時代の当事者から、客観的な視座を持つ「時代の記録者」へと昇華させた。この章では、『天王寺屋会記』の価値を分析し、宗達がなぜこの壮大な記録事業に着手したのか、その動機に迫る。
『天王寺屋会記』は、天文17年(1548年)に津田宗達が筆を起こし、その死後は息子の宗及、さらに孫の宗凡へと引き継がれ、天正18年(1590年)を主たる終期としながら、一部はそれ以降も書き継がれた、親子三代にわたる壮大な茶会記録である 23 。その内容は驚くほど詳細を極める。茶会が催された日時、場所、亭主と客の名前はもちろんのこと、床の間に飾られた掛物や花入、茶席で用いられた茶入、茶碗、水指といった道具の種類と来歴、さらには懐石料理の献立や、その日の茶会の雰囲気までが、克明に記されている 23 。
このため、『天王寺屋会記』は、茶道史研究における基本史料であることは言うまでもなく、安土桃山時代の政治、経済、文化の動向を知る上で他に類を見ない、第一級の歴史史料として極めて高く評価されている 23 。記録に登場する人物の人間関係や勢力図、名物道具の所有者の変遷、当時の文化的な流行や価値観の移り変わりなど、この記録から読み解ける情報は計り知れない 49 。
『天王寺屋会記』の中でも、宗達自身が筆を執った前半部分を分析することで、彼の茶人としての実践と思想を具体的に垣間見ることができる。記録に登場する客の顔ぶれは、三好実休や三好康長といった三好一族の有力者、今井宗久や北向道陳といった堺の会合衆仲間、そして師である武野紹鴎など、当時の畿内における政治・経済・文化の中心人物たちで占められている 32 。このことから、茶会が彼らの社会的ネットワークを維持・強化し、情報交換を行うための、極めて重要な社交の場として機能していたことが明確にわかる。
また、どのような道具を、どのような趣向で組み合わせ、客に披露したかという「道具組」の記録は、宗達の美意識や価値観を直接的に物語る。特に、前章で触れた「三日月」の茶壺のような天下の名物を披露する茶会は、天王寺屋の財力と、それを超えた文化的な権威を内外に誇示する、戦略的な意味合いを持つ場でもあった 42 。
これほどまでに詳細かつ長期にわたる記録を、宗達はなぜ始めようと思い立ったのだろうか。その動機は、彼の商人としての本質に根差していると考察できる。商人が日々の金銭の出入りや取引の内容を帳面に meticulously に記録するのは、当然の行為である。宗達は、この商人的な合理性と記録の精神を、茶の湯という無形の文化活動にも適用したのではないだろうか。
この視点に立つと、『天王寺屋会記』は単なる日記ではなく、天王寺屋という商家が保有する「文化資本の帳簿」としての性格を帯びてくる。どの名物道具を所有し、それを誰に披露したかという記録は「資産の目録であり、その開示の記録」である。茶会で誰がどのような道具を持参したかの記録は「競合他社の資産状況の把握」に繋がる。そして、誰と誰が同じ茶席に同席したかという記録は、すなわち「人脈と信用の台帳」に他ならない。これらはすべて、天王寺屋という「家」の存続と繁栄にとって不可欠な情報資産であった。宗達は、これらの無形の資産を有形の「記録」として体系化し、後継者である宗及に引き継ぐことで、家の永続を図ろうとした。この記録行為そのものが、天王寺屋の強さの源泉の一つであったと言える。
さらに、『天王寺屋会記』を宗達の時代から宗及の時代まで通覧すると、戦国時代における茶の湯の役割の変容が鮮やかに浮かび上がる。宗達の時代の茶会は、三好家や堺衆といった、比較的対等な文化人同士の「社交」が中心であった 32 。しかし、宗及の時代に入り、織田信長や豊臣秀吉といった絶対的な権力者が茶会の主役として登場すると、その性格は一変する 23 。茶の湯は、家臣への恩賞として名物道具が下賜されたり、権力者の威光を誇示するための儀礼として催されたりと、より直接的に「政治利用」されるようになる 51 。『天王寺屋会記』は、茶の湯が「社交の場」から「政治儀礼の場」へと、その役割をダイナミックにシフトさせていく歴史の過程を、当事者の視点から克明に捉えた、比類なきドキュメントなのである。
永禄9年(1566年)、津田宗達はこの世を去った。彼の死は、単に一個人の生涯の終わりを意味するだけでなく、天王寺屋、そして堺という都市そのものが、時代の大きな転換点に直面する序曲であった。この章では、宗達が遺した有形無形の資産が、息子・宗及によっていかに継承され、新たな時代の荒波の中でどう活かされたのかを考察する。
宗達が亡くなる数年前から、彼が最大のパトロンとしてきた三好政権は、その屋台骨を揺るがす深刻な事態に見舞われていた。永禄5年(1562年)には、三好家の軍事力を支えた長慶の弟・実休が戦死し、永禄7年(1564年)には、当主である長慶自身が病没した 32 。相次ぐ指導者の死により、三好家は急速にその勢力を弱体化させていく。
そして永禄8年(1565年)、三好三人衆らが室町幕府十三代将軍・足利義輝を御所で殺害するという「永禄の変」が勃発。畿内の政治秩序は完全に崩壊し、先の見えない混乱状態に陥った。津田宗達の死は、まさにこの激動の渦中であった。天王寺屋にとって、最大の庇護者であった三好政権の瓦解は、その存亡を揺るがしかねない深刻な危機であったことは想像に難くない。
混沌とする畿内に、新たな秩序をもたらすべく登場したのが、尾張の織田信長であった。永禄11年(1568年)、信長は足利義昭を次期将軍として奉じ、大軍を率いて上洛を果たす 54 。旧来の権力構造を次々と打破していく信長は、その矛先を、独立した経済王国として繁栄する堺にも向けた。
信長は、将軍家再興を名目に、堺の会合衆に対して軍資金として2万貫という、当時としては天文学的な額の矢銭(やせん)の供出を要求した 7 。これは単なる資金調達が目的ではなく、堺の持つ強大な経済力と自治権を、自らの支配下に組み込もうとする明確な意思表示であった。会合衆は、環濠を深くし、矢倉を設けて浪人を雇い入れるなど、一度は徹底抗戦の構えを見せた 8 。しかし、三好三人衆が信長に敗北するなど、軍事的な後ろ盾を失っていた堺は、信長の圧倒的な武力の前に屈服せざるを得ず、永禄12年(1569年)正月、ついに要求を受け入れた 4 。これにより、堺が長年にわたって享受してきた完全な自治は大きく揺らぎ、信長の支配下に組み込まれていくことになる。
父・宗達の死と、三好政権の崩壊、そして信長という新たな権力者の台頭という三重の危機に直面したのが、天王寺屋の三代目当主となった息子・津田宗及(生年不詳-1591年)であった 30 。宗及は、父から『天王寺屋会記』という記録の事業、莫大な財産、そして「北野肩衝」や「紹鴎茄子」といった数々の名物茶道具、さらには当代随一と評された茶人としての技量と人脈という、計り知れない遺産をすべて受け継いでいた 38 。
宗及の真価は、この父の遺産を、激変する時代の中でいかに活用したかに表れている。彼は、旧来の三好家や本願寺との関係を維持しつつも、時代の流れが信長にあることを的確に見抜き、いち早く新たな権力者への接近を図る。前述の矢銭要求問題においては、徹底抗戦を叫ぶ強硬派を説得する穏健派の急先鋒として立ち回り、信長との関係構築の糸口を掴んだ 34 。
その結果、宗及は茶人としての卓越した力量と、父から受け継いだ文化資本(名物道具のコレクション)を信長に高く評価され、今井宗久、千利休とともに信長の側近である「茶頭(さどう)」として重用されるに至る 34 。宗達が三好政権との間に築いた「政商」としての地位を、宗及は織田政権との関係へと、見事にスライドさせてみせたのである。
この戦略転換を象徴する逸話がある。宗及は、信長の命で青磁の名物茶碗「松本茶碗」を手に入れるため、父・宗達から譲り受けた「藤棚」と呼ばれる名物道具一式を質に入れて資金を調達したという 46 。これは、父の遺産を、新たな権力者との関係を強化し、自らの地位を盤石にするための戦略的な「投資」として活用したことを示している。
宗達から宗及への事業承継は、単なる代替わりではなかった。それは、三好氏が支配した「旧時代」から、織田氏が支配する「新時代」へと、天王寺屋という巨大な商家をソフトランディングさせるための、極めて戦略的なものであった。宗及にとっての課題は、父の遺産をただ守ることではなく、それを新時代の支配者である信長の信頼という「新たな通貨」に「両替」することであった。彼が矢銭問題で見せた現実的な判断や、父の遺産を元手に信長の歓心を買った行為は、この戦略的事業承継の具体的な現れに他ならない。宗達が築き上げた膨大な「資産」を、宗及は新時代を生き抜くための「資本」として、実に見事に転換させたのである。
この父子の生涯は、そのまま堺という都市の運命の変遷を体現している。津田宗達の生涯は、堺が会合衆による自治を謳歌し、三好政権と対等に近いパートナーシップを築いていた黄金時代と重なる 27 。彼は、自治都市の自由な空気の中で、商人としても茶人としても、その能力を最大限に発揮することができた。一方で、息子・宗及の生涯は、信長、秀吉という絶対的な統一権力の下で、堺がその自治権を徐々に削がれ、中央権力に従属していく過程と重なる 4 。宗達が「堺の津田宗達」として自立した存在であったのに対し、宗及は「信長(秀吉)の茶頭、津田宗及」としての顔を強く持たざるを得なかった。この父子の生き方の違いは、中世から近世へと移行する時代の大きなうねりの中で、一つの都市がその性格を変えていった歴史そのものを象徴しているのである。
津田宗達は、戦国時代の堺という特異な都市空間が生み出した、まさに巨人であった。彼の生涯を振り返るとき、その歴史的意義は以下の三点に集約される。
第一に、宗達は中世日本の自治都市が到達した繁栄の頂点を、その生涯を通じて体現した人物であった。彼の活動は、国際貿易や先進的な産業によって蓄積された経済力と、茶の湯に代表される高度な文化資本を両輪として、社会的な地位と影響力を築き上げた戦国期堺商人の、最も完成された姿を示している。
第二に、宗達は経済と文化、そして政治の結節点に立つ存在であった。彼は単に富を蓄積するだけでなく、その富を茶の湯という文化活動に惜しみなく投じ、それを三好政権との関係構築という政治的な影響力へと巧みに転換させた。彼の存在は、戦国時代において経済、文化、政治がいかに不可分であり、相互に影響を与え合いながらダイナミックに社会を動かしていたかを、我々に如実に示してくれる。
そして第三に、彼の最大の功績は、個人的な活動の記録に留まらない、不滅の遺産『天王寺屋会記』を創始したことにある。もしこの記録がなければ、我々は16世紀の日本、特に畿内における社会や文化の様相を、これほど生きた人間の営みとして具体的に知ることはできなかったであろう。津田宗達は、自らが時代の中心的な当事者であると同時に、驚くほど冷静な「時代の記録者」でもあった。彼が遺したこの「文化の帳簿」は、日本史研究における不滅の金字塔として、今後も輝き続けるに違いない。
宗達の死後、天王寺屋本家は孫・宗凡の代で跡継ぎがなく断絶する 23 。しかし、宗及の次男・江月宗玩が大徳寺の住持として高名を馳せるなど 23 、その血脈と文化的影響は、形を変えて後世に受け継がれていった。津田宗達の研究は、これまで息子・宗及や千利休といった、より知名度の高い人物の文脈で語られることが多かった。しかし、本報告書で明らかにしたように、彼は時代の転換期を力強く生き抜き、旧時代から新時代への困難な橋渡し役を果たした、極めて重要な人物である。その歴史的意義は、今後さらに光が当てられ、正当に再評価されていくべきであろう。