最終更新日 2025-07-01

津軽信牧

弘前藩二代藩主 津軽信牧の生涯と治世 ―激動の時代における藩政の確立―

序章:激動の時代に生まれた藩祖の三男

津軽信牧(つがる のぶひら、別名:信枚)は、戦国の動乱が終焉を迎え、徳川幕府による新たな秩序が形成されつつあった激動の時代に、弘前藩の未来をその双肩に担った人物である。彼の生涯を理解するためには、まず、その父であり、一代で津軽の地を切り取った藩祖・津軽為信の存在を抜きにしては語れない。

為信は、南部氏の一族から身を起こし、謀略と武力を駆使して津軽統一を成し遂げた、まさに戦国乱世を体現する武将であった 1 。その生存戦略は巧みであり、中央の覇者・豊臣秀吉に取り入るため、公家の近衛家の落胤を自称してその猶子となり、藤原姓と家紋である杏葉牡丹紋を得るという大胆な策を弄した 3 。天下分け目の関ヶ原の戦いにおいては、嫡男・信建を西軍(大坂城)に、自らと三男・信牧を東軍(徳川方)に配するという両属策をとり、家の存続を確実なものとした 5 。この「謀将」とも評される父の処世術は、信牧の政治感覚に深甚な影響を与えることになる。

信牧は天正14年(1586年)、この為信の三男として生を受けた 6 。母は側室の栄源院であり 6 、当初は家督相続の序列から遠い立場にあった。彼の少年期における特筆すべき出来事として、慶長元年(1596年)、父の命により兄たちと共にキリスト教の洗礼を受けたことが挙げられる 6 。これは、個人的な信仰心の発露というよりも、当時の国際情勢や貿易の利益を鑑みた父・為信による、極めて政治的な判断であった可能性が高い。

信牧の生涯は、父から受け継いだ「いかにして中央権力と結びつき、辺境の領国を安定させるか」という生存戦略を、武力ではなく政略によって実践した過程であったと見ることができる。父が戦場で勝ち取ったものを、彼は政治の場で守り、そして育て上げたのである。

第一章:家督相続を巡る嵐 ―津軽騒動(大熊騒動)―

信牧の運命が大きく転換したのは、慶長12年(1607年)のことである。藩の後継者として嘱望されていた長兄・信建が京で病に倒れ、父・為信もまた、その看病に赴いた同地で後を追うように世を去った 5 。次兄・信堅は既に早世しており 5 、津軽家の家督は突如として宙に浮くこととなった。

これにより、藩内は二つに割れた。一方は、信建の遺児である熊千代(当時8歳)を正統な後継者として擁立する派閥である。重臣の津軽建広(大熊)らがその中心となり、幼君を推した 6 。もう一方は、為信の遺言と、かねてより徳川家との関係構築を進めていた信牧を藩主として推す派閥であった 6 。このお家騒動、世に言う「津軽騒動(大熊騒動)」は、藩の存亡を揺るがす深刻な内紛へと発展した。

最終的な決着は、津軽の地ではなく、江戸の幕府によってもたらされた。双方の訴えは幕府に持ち込まれ、慶長14年(1609年)、幕府年寄衆の連署奉書をもって、信牧の家督相続が正式に認められたのである 7 。この裁定により、熊千代派の中心人物であった津軽建広らは追放され、騒動は一応の終結を見た。

しかし、この幕府裁定は信牧の治世に大きな影を落とすことになる。彼の藩主としての地位は、藩内の総意によって確立されたものではなく、「幕府の威光によって得たもの」であった。事実、この裁定を伝える奉書が信牧個人ではなく「津軽年寄中」に宛てられていたことは、幕府が彼の家中統制力の脆弱さを見抜いていたことを示唆している 13 。この正統性の弱さ、いわば「権力基盤の脆弱性」こそが、その後の信牧の行動を規定する最大の動機となった。彼は自らの権威を内外に示すため、そしてその正統性を補強するために、矢継ぎ早に藩政の基盤固めへと邁進していくのである。

第二章:弘前藩の礎を築く ―築城、城下町整備、経済政策―

家督相続という嵐を乗り越えた信牧は、自らの権力基盤を確立し、津軽を近世的な「藩」として再構築すべく、壮大な事業に着手した。それは単なる土木事業の連続ではなく、津軽の未来を見据えた国家建設であった。

高岡城(弘前城)の築城と城下町の建設

騒動の直後、信牧がまず取り組んだのが、新たな居城の建設であった。父・為信が計画したものの、その死によって中断していた高岡城(後の弘前城)の築城を慶長15年(1610年)に再開 5 。大浦城や堀越城の資材を転用するなど、極めて効率的な手法で普請を進め、わずか1年余りという驚異的な速さで、五層の天守閣を誇る城を完成させた 5 。この迅速な築城は、藩内に信牧の権威を視覚的に示す、強力なメッセージとなった。

さらに信牧は、城の建設と並行して、戦略的な城下町の整備を進めた。城の周囲に家臣団や商工業者を集住させ、政治・経済の中心地を形成 17 。特筆すべきは、城の南西に、菩提寺である長勝寺を中心とした33の寺院からなる寺院街(長勝寺構え)を配置したことである 18 。これは平時には信仰の場であるが、有事の際には巨大な防御拠点として機能するよう設計された、巧みな都市計画であった。

青森港の開港と経済振興

信牧の先見性は、内陸の城下町整備に留まらなかった。彼は津軽の経済的発展のためには、江戸市場と直結する良港が不可欠であると考えた。そこで寛永元年(1624年)、天然の良港であった善知鳥(うとう)村に新たな港を開き、これを「青森」と命名 7 。翌年には幕府から江戸への廻船運行許可を取り付け、津軽の産物を直接江戸へ輸送するルートを確立した 20

さらに、家臣の森山弥七郎を開港奉行に任じ、近江や越前から積極的に商人や技術者を誘致。彼らに10年間の免税特権を与えるなど、当時としては画期的な経済振興策を講じ、青森の町づくりを強力に推進した 22 。この政策により、青森港は津軽藩の経済を支える一大拠点へと成長していく。

藩政の基盤強化

これらの大事業と並行し、信牧は灌漑用水の整備や新田開発にも力を注ぎ、米の生産力向上に努めた 6 。また、後の藩財政に大きく貢献することになる尾太鉱山の開発も、彼の治世にその端緒が見られる 25

為信が戦国武将として「領土を獲た」創業者であるならば、信牧は、その領土を近世的な統治機構を持つ「藩として創り上げた」実質的な創業者であった。彼が築いた城と城下町、そして港は、津軽藩が徳川幕藩体制の中で自立した政治経済単位として存続していくための、まさに骨格そのものであった。

第三章:徳川と豊臣の狭間で ―信仰と婚姻政策―

信牧の治世において最も複雑かつ劇的な様相を呈するのが、彼の私生活にも深く関わる婚姻と信仰の問題である。これらは単なる個人的な選択ではなく、徳川幕府という新たな支配者と、いまだ人心に影響を残す旧豊臣勢力との間で、絶妙なバランスを取ろうとする彼の高度な政治戦略の核心であった。

二人の妻 ―辰姫と満天姫―

信牧の正室は、徳川家康の養女・満天姫(まてひめ)であった 6 。これは、家康の姪(松平康元の娘)を正室に迎えることで、幕府との間に揺るぎない血縁関係を築こうとする、信牧の極めて政治的な決断であった 1

しかし、この婚姻以前、信牧には事実上の妻として深く愛する女性がいた。関ヶ原の戦いで西軍を率い、徳川に敗れた石田三成の三女・辰姫である 28 。彼女は父の死後、兄・信建によって津軽に匿われ、信牧の庇護のもとで暮らしていた 27 。二人は相愛の仲であったと伝わる 5

幕府からの縁談は、津軽家にとって名誉である一方、拒否することは許されない。信牧は苦渋の決断の末、満天姫を正室として迎え、辰姫を側室へと降格させた。さらに、幕府の目を憚り、辰姫を津軽藩の飛び地であった上野国大館(現在の群馬県太田市)へと移した 27 。しかし、信牧の辰姫への愛情は衰えることなく、参勤交代の際には必ず大館の館に立ち寄り、逢瀬を重ねたという 31 。そして、この二人の間から、後に藩の家督を継ぐことになる長男・信義が誕生するのである 31 。一方で、正室・満天姫との間にも次男・信英が生まれており 6 、信牧の家督は二つの対立する血脈を抱え込むことになった。

信仰の転換と天海僧正

婚姻政策と並行して、信牧は信仰の面でも幕府への恭順を鮮明にした。少年期に受洗したキリシタン信仰を棄て、家督相続後、天台宗に改宗。江戸において、将軍家康・秀忠の絶大な信頼を得ていた「黒衣の宰相」天海僧正に弟子入りしたのである 1

この関係は深く、信牧は天海から「津梁院権大僧都寛海」という法号を授かり、江戸の菩提寺も津梁院と名付けた 5 。これは、幕府の中枢と精神的な師弟関係を結ぶことで、自らの政治的立場を盤石にしようとする、計算された行動であった。

大坂冬の陣(慶長19年)では、信牧は徳川方として参陣したものの、家康から江戸勤番を命じられ、実際の戦闘には加わらなかった 8 。藩の公式記録である『津軽一統志』は、これを「津軽は北の守りの要であるから、国元に帰るべし」と家康に諭されたためだと美化しているが 8 、これは後世の脚色であり、外様大名、それも旧豊臣方と縁の深い大名としての彼の微妙な立場を物語っている。

信牧は、敵対する二つの血脈をあえて自らの家中に共存させ、幕府に対しては信仰と婚姻で絶対的な忠誠を示しつつ、藩内に残る旧来の家臣団(豊臣恩顧)に対しては三成の血脈を保護することで配慮を示した。これは、藩の内外双方に向けた、極めて高度なバランス外交であり、彼の政治家としての真骨頂であった。

第四章:血脈の継承と遺産

寛永8年(1631年)、信牧は46歳の若さでその生涯を閉じた 6 。彼の死後、弘前藩が直面したのは、彼の治世が生み出した最も困難な問題、すなわち後継者問題であった。跡を継ぐのは、石田三成の孫か、それとも徳川家康の縁者か。この選択は、藩の未来を左右する究極の決断であった。

信牧には、対照的な出自を持つ二人の息子がいた。側室・辰姫が生んだ長男・信義と、正室・満天姫が生んだ次男・信英である 8 。信義の血筋は、幕府から見れば逆臣・石田三成に連なるものであり、一方の信英は、将軍家と縁戚関係にある。常識的に考えれば、信英を立てることが藩の安泰に繋がる道であった。

しかし、信牧が後継者として指名したのは、長男の信義であった 6 。その明確な理由は史料に乏しいが、辰姫への深い愛情に加え、武家の慣習である「長幼の序」を重んじたこと、そして一説には、信牧が満天姫を説得し、その容認を取り付けていたことなどが背景にあったと考えられている 5 。かくして、石田三成の血を引く信義が、弘前藩三代藩主として家督を継いだのである 5

この決断は、後に波紋を広げる。信義の治世下において、信英を藩主に擁立しようとするクーデター未遂事件(正保の変)が起こるが、これは失敗に終わる 30 。しかし、信義は異母弟である信英を粛清することはなかった。信英には後に5000石が分知され、黒石津軽家の祖となった 35 。これは、徳川家と繋がる信英を厚遇することで、幕府との関係を維持しようとする藩の政治的判断の表れであった。信牧が家中に取り込んだ二つの血脈は、弘前藩と分家の黒石藩として、幕末に至るまで津軽の歴史の根幹を形成し続けることになる。

津軽信牧の家族構成(主要人物)

関係

氏名

生母

備考

津軽為信

-

弘前藩初代藩主。

栄源院

-

為信の側室。白鳥長久の娘。

本人

津軽信牧(信枚)

栄源院

弘前藩二代藩主。

正室

満天姫(葉縦院)

-

徳川家康の養女。松平康元の娘。

側室

辰姫(荘厳院)

-

石田三成の三女。当初は正室格。

長男

津軽信義

辰姫

**三代藩主。**石田三成の孫にあたる。

次男

津軽信英

満天姫

**黒石津軽家初代。**徳川家と縁戚。

終章:二代藩主・信牧の総合評価

津軽信牧は、初代藩主・為信の強烈な個性と、四代藩主・信政の「中興の英主」としての名声の間に挟まれ、その歴史的評価は必ずしも高いとは言えなかった。しかし、彼の治世を詳細に検証する時、その姿は全く異なって見えてくる。

信牧は、父の遺産を守る単なる「守成の君主」ではなかった。彼は、父が武力で獲得した領地を、近世的な統治機構と経済基盤を持つ「藩」へと生まれ変わらせた、「創成の君主」であった。弘前城の建設、城下町の整備、そして青森港の開港という一連の事業は、津軽藩が江戸時代を通じて存続し、発展するための礎を築いた。彼は武力ではなく、卓越した政治バランス感覚と長期的なビジョンによって、藩の未来を切り拓いたのである。

その生涯は、冷徹な政治判断と人間的な情愛が交錯する、極めて人間味あふれるものであった。石田三成の娘・辰姫への愛を貫きながら、藩の存続のために徳川家康の養女・満天姫を正室に迎えるという決断は、彼の置かれた立場の厳しさと、大名としての非凡な覚悟を物語っている。

彼が残した最大の遺産は、安定した統治基盤そのものである。信牧が築いた土台があったからこそ、四代藩主・信政はその上で藩政改革を断行し、弘前藩に未曾有の繁栄をもたらすことができた 1 。また、彼が苦心して共存させた二つの血脈は、弘前藩と黒石藩として津軽の地に根付き、その歴史を彩り豊かにした。津軽信牧の治世なくして、その後の弘前藩の安定と繁栄はあり得なかった。彼は、戦国の終焉と江戸の黎明という時代の狭間で、見事に藩の舵を取り、次代へと繋いだ、稀代の政治家であったと評価できる。

引用文献

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  35. 弘前藩主津軽家一門について - 家系図探訪人 https://genealogy-research.hatenablog.com/entry/hirosaki