海野棟綱は、戦国時代の信濃国、特に東信濃地方に勢力基盤を有した有力国衆(在地領主)である海野氏の当主として歴史に名を残す人物である。彼が生きた時代は、室町幕府の権威が著しく低下し、日本各地で守護大名や国衆が実力で勢力を争う、いわゆる「下剋上」の風潮が蔓延した戦乱の時代であった。信濃国もその例外ではなく、守護であった小笠原氏や有力国衆である村上氏などが割拠し、国外からは甲斐の武田氏や越後の長尾氏(後の上杉氏)といった強大な戦国大名の勢力が浸透しつつあり、常に複雑な緊張関係の中に置かれていた。このような流動的な時代状況の中で、海野棟綱は一族の存亡をかけて活動したが、その生涯は戦国時代の地方領主が直面した過酷な現実を色濃く反映している。
本報告では、この海野棟綱という人物に焦点を絞り、その出自、生涯、特に彼と海野氏の運命を大きく左右することになった「海野平の戦い」、そして後世に天下に名を馳せることになる真田氏との関係性について、現存する史料や研究成果に基づき、多角的に検討・解説することを目的とする。
本報告は、海野棟綱に関する情報を包括的に提供し、彼の実像と歴史における意義を明らかにすることを目指す。その達成のため、まず海野氏の出自と系譜を概観し、古代からの名族としての背景を明らかにする。次に、棟綱の生涯と主要な事績、とりわけ彼が歴史の表舞台で大きな役割を演じた「海野平の戦い」について、その背景、経過、結果を詳細に追う。続いて、近世大名として発展する真田氏の祖である真田幸隆との関係性という、海野棟綱を語る上で避けて通れない重要な論点について、現存する諸説を整理し検討する。さらに、海野氏ゆかりの史跡や文化的遺産を紹介することで、彼らが地域に残した足跡を辿る。最後に、これらの調査・分析を踏まえ、海野棟綱の歴史的評価を試みる。
海野氏は、信濃国における古代以来の名族である滋野氏の後裔を称している 1 。滋野氏は、貞観8年(866年)に朝臣姓を賜った滋野貞主などが知られ、古くから信濃国小県郡や佐久郡に勢力を有していたとされる 3 。
さらに、滋野氏は清和天皇の第四皇子である貞保親王の後裔であるとも称しており 2 、これにより海野氏もまた清和源氏の流れを汲むとされている。海野氏の本拠地である海野荘は、貞保親王が居住したと伝えられる地であるとも言われている 1 。
しかしながら、これらの系譜、特に清和源氏出自説に関しては、その主張を裏付ける同時代の史料に乏しいという指摘がなされている点に留意が必要である 1 。古代豪族としての滋野氏と、後に清和源氏を称するようになった滋野氏との間にどのような関係性があったのか、あるいは在地で勢力を持った開発領主が滋野氏の名跡を継承した可能性など、その出自については複数の説が存在し、確定的な見解は得られていない。戦国時代において、武家が自らの家格を高め、周辺勢力に対する正当性や影響力を主張するために、権威ある氏族の系譜を称することは珍しいことではなかった。海野氏が清和源氏という名門の出自を称した背景には、単なる伝承というだけでなく、鎌倉幕府以来、武士社会において特別な意味を持っていた源氏の権威を借りることで、政治的・社会的な立場を有利にしようとする戦略的な意図が存在した可能性も考えられる。
海野氏の本拠地は、信濃国小県郡の海野荘(現在の長野県東御市本海野周辺)であった 1 。この地域は、地理的に見ると古くから交通の要衝であり、また、千曲川流域に位置することから、豊かな穀倉地帯であったと考えられ、経済的にも重要な拠点であったと推察される 4 。
海野荘は、かつて摂関家の荘園であったとも伝えられており 1 、古代より中央の権力とも何らかの結びつきがあった地域であった可能性が示唆される。後世には、この地は北国街道の宿場町「海野宿」として発展し、その賑わいを見せた 5 。これは、海野荘が古来より交通の結節点としての機能を有していたことを裏付けるものである。このような地理的・経済的な重要性は、海野氏の勢力基盤を支える大きな要因であった一方で、周辺の有力勢力にとっては魅力的な攻略目標ともなり得た。武田氏による信濃侵攻の背景にも、こうした海野荘の戦略的価値が影響していた可能性は否定できない。
海野氏、禰津氏、望月氏は「滋野三家」と総称され、これらは滋野氏から分かれた一族とされている 2 。一般的に、禰津氏や望月氏は海野家の庶流と位置づけられており、これは海野氏が滋野氏の嫡流とみなされていたことを示唆している。これらの氏族間には強い同族意識が存在したと考えられ、政治的・軍事的な局面において共同で行動することもあった。実際に、後述する海野平の戦いにおいては、海野棟綱と共に根津氏の当主である根津元直も、武田・村上・諏訪連合軍の攻撃対象となっており 7 、滋野三家が一体のものとして認識されていた証左と言える。
海野氏の具体的な系譜に関して、海野氏幸から羽尾氏への分流などが記録されているものの 9 、海野棟綱に直接繋がる詳細な系図は、提供された資料からは明確ではない。しかし、『真田氏の始祖』などの記録によれば、海野幸棟(棟綱の父または祖父か)が大永4年(1524年)7月16日に没し、興禅寺に葬られたこと、そしてその子が第二十八代海野信濃守棟綱であるとの記述が見られる 8 。この海野信濃守棟綱が、本報告で対象とする海野棟綱であると考えられる。
棟綱は、大永7年(1527年)5月20日付で、高野山蓮華定院に宛てた宿坊利用に関する契約書に署名しており 10 、この時点で既に海野氏の当主として活動を開始していたことが確認できる。
海野棟綱自身の明確な生年月日や没年月日を記した同時代の史料は、現在のところ確認されていない。関連する人物として、矢沢頼綱の生没年は1518年から1597年 12 、真田幸隆の生没年は1513年から1574年とされているが 13 、これらは棟綱のものではない。史料においては、棟綱の没年は不明とされており 11 、これは後述する海野平の戦いでの敗北以降、彼の動向が歴史の表舞台から遠ざかり、記録が散逸したことを反映している可能性が高い。戦国時代においては、合戦に敗れて勢力を失った武将や、その後の歴史において中心的な役割を果たさなかった人物に関する記録は、勝者や後継者の視点から編纂されることが多い歴史叙述の中で、失われやすい傾向にある。棟綱の晩年に関する情報が乏しいのも、こうした歴史記録の特性と無縁ではないだろう。
前述の通り、棟綱の父(あるいは祖父)とされる海野幸棟が大永4年(1524年)に没していること 8 、そして棟綱自身が大永7年(1527年)には海野氏当主としての活動が確認できることから 10 、家督相続はこの期間内に行われたと推定される。
棟綱が家督を継いだ当時の信濃国は、守護であった小笠原氏の権威が衰え、村上氏や諏訪氏といった有力な国衆が各地で勢力を拡大し、互いに覇を競っていた。さらに、国外からは甲斐の武田信虎が信濃への侵攻を開始するなど 8 、きわめて不安定で困難な情勢にあった。棟綱は、このような内外ともに多難な時代に、名族海野氏の舵取りを担うことになったのである。
海野棟綱の海野平の戦い以前における具体的な政治的・軍事的活動を示す史料は多くないが、その中で注目されるのが高野山との関係である。大永7年(1527年)、海野氏の一族が高野山に参詣する際の宿坊を蓮華定院と定める旨の契約書に、棟綱が署名している 10 。これは、海野氏が中央の有力な宗教的権威である高野山と深い繋がりを持っていたことを示す重要な史料である。
このような関係は、単に個人的な宗教的信仰心に留まらず、当時の武士階級にとって情報収集の拠点、人脈形成の場、さらには一種の政治的ステータスを示す意味合いも持っていたと考えられる。また、天文9年(1540年)4月26日には、真田幸隆の母(棟綱の娘、あるいは近しい縁者であった可能性が高い)の供養が高野山蓮華定院で行われている記録があり 8 、海野氏およびその縁戚である真田氏と蓮華定院との関係が継続していたことが窺える。
海野棟綱の生涯、そして海野氏の運命にとって最大の転換点となったのが、天文10年(1541年)に勃発した「海野平の戦い」である。
甲斐国をほぼ統一した武田信虎は、天文5年(1536年)頃から本格的な信濃侵攻を開始した 8 。当初の主な攻略目標は、海野氏の勢力圏とはやや離れた佐久郡であった。武田氏は外交戦略も巧みであり、信濃の有力国衆である諏訪頼重とは同盟関係を構築し(信虎は娘の祢々御料人を頼重に嫁がせている)、さらに海野氏ら滋野一族と伝統的に対立関係にあった北信濃の雄、村上義清を味方に引き入れることに成功した 8 。
一方で、海野氏が属する滋野一族の内部に目を向けると、小県郡の利権を巡って海野一族が実田(真田)一族の利権を侵すような動きがあったとの記録もあり 7 、一族内部にも潜在的な緊張関係が存在した可能性が示唆される。また、海野氏自体も広大な国領の維持に苦慮していた状況が伝えられており、外部からの圧力が高まる中で、内部結束の脆弱性が露呈した可能性も考えられる。武田信虎は、こうした信濃国内外の情勢を巧みに利用し、海野氏を孤立させる包囲網を形成していった。海野氏が、武田氏の外交攻勢に対抗しうる広域な同盟関係を構築できなかったことは、後の敗北に繋がる大きな要因の一つであったと言えるだろう。
武田信虎は、諏訪頼重との同盟関係を背景に、村上義清を誘い、共同で小県郡に侵攻する計画を立てた 8 。この連合軍の明確な目的は、小県郡に勢力を有する海野棟綱や、同じく滋野一族である根津元直らを制圧することにあった 7 。
村上義清にとって、隣接する海野氏の勢力を削ぐことは、自領の安定と勢力拡大に繋がり、武田氏にとっては、信濃国攻略を進める上で、東信濃に強固な地盤を持つ海野氏の存在は大きな障害であった。諏訪頼重もまた、武田氏との同盟関係からこの連合に参加したものと考えられる。こうして、それぞれの思惑が一致した結果、海野氏を中心とする滋野一族に対する大規模な軍事行動が開始されることとなった。
天文10年(1541年)5月、武田信虎、村上義清、諏訪頼重の連合軍は、三方向から海野氏の本拠地である海野平へと侵攻を開始した 8 。海野方は各地で防戦に努めたが、連合軍の圧倒的な兵力の前に劣勢を強いられた。5月13日には、海野方の前衛拠点であった尾野山城(後の上田城の原型とも言われる)が落城した 7 。
海野棟綱、そして後に真田氏を興す真田幸隆の父である実田(真田)頼昌、幸隆の兄とされる綱吉らは、この尾野山城などで抵抗したと伝えられるが、衆寡敵せず、敗走を余儀なくされた 7 。この戦いの過程で、海野棟綱の子(あるいは弟、または棟綱の義兄ともされる)である海野幸義が、神川付近で村上軍に討たれるという悲劇が起こる 10 。
さらに、 8 の記録によれば、戦闘期間中に折悪しく五月雨が降り続き、千曲川や神川が増水したため、海野方が期待していた関東管領上杉憲政からの援軍の到着が遅れたことも、敗北の大きな要因の一つとなったとされる。こうした悪条件も重なり、同年5月25日、海野方は総崩れとなり、海野平は連合軍によって完全に占領された 8 。
海野幸義は、棟綱の後継者と目されていた人物であり 8 、彼の戦死は海野氏本宗家の将来にとって計り知れない打撃となった。幸義と棟綱、そして幸隆との関係については諸説あるが(詳細は後述)、いずれにしても海野氏の中核をなす人物であったことは間違いない。幸隆がその遺骸を丁重に葬ったという伝承も残されている 8 。
この海野平の戦いにおける敗北と、後継者たる幸義の死により、信濃国屈指の名族と謳われた海野氏の正系は、事実上ここで滅亡したと評されている 8 。
海野平の戦いに敗れた海野棟綱は、真田幸隆らを含む少数の者たちと共に、当時関東地方に大きな権威を有していた関東管領山内上杉憲政を頼り、上野国(現在の群馬県)へと落ち延びた 8 。一説には、まず上野国にいた海野氏の支族である羽尾氏を頼り、そこを拠点として上杉憲政に援軍を要請したとも伝えられる 7 。
この棟綱らの要請に応じる形で、上杉憲政は信濃国の佐久郡・小県郡へ軍勢を派遣したとされるが 15 、旧領回復という具体的な成果を上げるには至らなかった。当時の関東管領上杉氏は、相模国の北条氏の圧迫などにより、その勢力はかつてほど強大ではなく、また、北条氏との継続的な紛争も抱えていたため、信濃への大規模かつ持続的な軍事介入は困難であった 7 。結果として、上杉軍は大きな戦果なく撤退し、佐久郡は山内上杉氏の影響下に、小県郡は村上義清の支配するところとなった 7 。旧来の権威である関東管領の力が、実力主義でのし上がる戦国大名、特に武田氏や村上氏といった新興勢力の伸張を抑えることができなかった時代の変化を象徴する出来事であったと言える。
上野国へ逃れた棟綱らは、同地の有力国衆であった箕輪城主・長野業正の支援を受けた可能性が複数の記録から示唆されている 7 。一説には、上杉憲政が信濃へ軍を派遣した際、その大将は長野業正であり、棟綱や真田幸隆もこれに同行したとされている 15 。
しかし、亡命後の海野一族の内部では、今後の身の振り方を巡って意見の対立があった可能性も指摘されている。 7 、 7 の記述によれば、関東管領上杉氏を頼ろうとする海野棟綱と、甲斐の武田晴信(後の信玄)に接近しようとする実田頼昌(幸隆の父)との間で路線対立が生じたという。この中で棟綱は、長野業正と上杉憲政の間の微妙な関係を察知し、最終的には沼田方面へ移ったとも伝えられている。これが事実であれば、苦境に立たされた海野一族が、さらなる内部分裂の危機に瀕していたことを示している。
上野国へ逃れた後の海野棟綱の具体的な動向や、その没年については、信頼できる史料が乏しく、詳しくは分かっていないのが現状である 11 。
一説によれば、上野国吾妻郡に勢力を持っていた海野氏系の支族である羽尾氏の庇護のもとにあったとされている 11 。羽尾氏は古くから海野氏の分家であり 9 、棟綱や幸隆が海野平の戦いの直後に最初に身を寄せた場所とも考えられている 8 。
また、羽尾幸全の子である幸光・輝幸兄弟が、後に海野家の名跡を継承し、海野姓を名乗ったという伝承も存在する 11 。これが事実であれば、棟綱自身の血統とは別に、海野氏の名跡そのものは、支族によって細々とながらも受け継がれていった可能性を示唆している。しかし、棟綱個人の最期に関する具体的な情報は、歴史の闇に埋もれたままである。
海野棟綱を語る上で、後の戦国時代に名を馳せる真田幸隆(幸綱)との関係は避けて通れない重要なテーマである。
海野棟綱と真田幸隆の系譜上の関係については、様々な系図や記録が存在し、その記述は必ずしも一定していない 10 。これは、真田氏の出自や初期の歴史を研究する上で、長年にわたり議論の対象となっている論点である。主な説を以下に表として整理する。
表1:真田幸隆と海野棟綱の関係に関する諸説一覧
説の番号 |
主な典拠史料名 |
関係性の概要 |
備考 |
① |
『真田家系図』 |
海野棟綱の嫡男が幸隆 |
|
② |
『真武内伝』(竹内軌定所蔵) |
海野棟綱の二男で、戦死した海野幸義の弟が幸隆 |
享保16年(1731年)成立 |
③ |
『滋野世紀』(松代藩士桃井友直編纂) |
海野棟綱の二男で、戦死した海野幸義の弟が幸隆 |
享保18年(1733年)編纂 |
④ |
『寛政重修諸家譜』 |
海野棟綱の孫(海野幸義の嫡男)が幸隆 |
寛政11年(1799年)成立 |
⑤ |
『滋野正統家系図』(真田家臣飯島家所蔵) |
海野棟綱の娘が真田禅正忠(頼昌か)に嫁ぎ、その子が幸隆 |
|
⑥ |
『海野系図』(東御市海野・白鳥神社所蔵) |
幸隆の母は海野幸義の妹で、棟綱の孫にあたる |
海野家断絶のため名跡を継いだとされる |
⑦ |
『滋野通記』(馬場政常所蔵) |
海野棟綱の長男が幸隆 |
|
⑧ |
『加沢記』(加沢平次左衛門) |
海野棟綱の長男が戦死し、その弟(幸義の弟)が幸隆 |
|
⑨ |
『矢沢氏系図』(良泉寺所蔵) |
海野棟綱の娘が真田右馬佐頼昌に嫁ぎ、その長男が幸隆 |
現在、有力視される説の一つ 8 |
※上記は 10 、 8 の情報を基に作成。
このように、幸隆を棟綱の子とする説、孫とする説、あるいは甥とする説など、多岐にわたっている。ユーザーが初期情報として持っていた「娘は真田頼昌に嫁ぎ、幸隆を生んだ」という説は、上記⑨の『矢沢氏系図』などに近いものであり、現在比較的有力とされている説の一つである。この多様性は、真田氏が後世に大名として発展する中で、その出自を権威づけるために様々な系譜が作成された可能性や、あるいは初期の記録が錯綜していた可能性を示唆している。
海野氏の本宗家が海野平の戦いによって事実上滅亡した後、真田幸隆が何らかの形で海野氏の名跡を継承した、あるいはその影響を強く受けたとされる説が複数存在する 8 。例えば、海野幸義の戦死後、幸隆がその名跡を継承したという記述が見られる 10 。
また、 8 の記述では、真田氏は元々海野氏の本家筋ではなかった幸隆が、名族である海野氏との関係を強調することによって、真田家初代としての自身の立場や正当性を確立しようとしたのではないか、という可能性が指摘されている。戦国時代において、由緒ある旧家の名跡を継承することは、単に家名を存続させる以上の意味を持っていた。それは、旧来の家臣団や所領に対する支配の正当性を主張し、新たな支配体制を地域社会に受け入れさせる上で、重要な大義名分となり得たからである。真田氏が海野氏との繋がりを意識的に強調したとすれば、それは東信濃における自らの勢力拡大を正当化し、地域社会からの支持や協力を得るための戦略的な意図があったと解釈できる。
海野平の戦いで敗北した後、海野棟綱と真田幸隆は共に上野国へ逃れたと一般的に理解されている 8 。その後の幸隆の動向については、 8 において興味深い記述が見られる。それによれば、幸隆は上野国へ逃れた後、何らかの理由で「知られたくない過去の歴史を消滅」させようとし、その一環として先祖の墓所を破棄した可能性や、あるいは苦難の逃避行の中でやむを得ず家伝の文書などを失った可能性が示唆されている。これが事実であれば、幸隆が過去のいきさつを清算し、新たな環境で再起を図ろうとした心情の表れか、あるいは単に過酷な状況下での出来事であったのかもしれない。
その後、真田幸隆は甲斐の武田信玄(当時は晴信)に仕えることになり、武田氏の信濃攻略において重要な役割を果たすことになる。特に、かつての宿敵であった村上義清を戸石城の戦いで破り、旧領である真田郷を回復するなど、その智謀と武勇は高く評価された 13 。海野氏の没落という悲劇を経験した幸隆が、新たな主君のもとでその才能を開花させ、後の真田氏発展の礎を築いたことは、戦国時代のダイナミズムを象徴する出来事と言えるだろう。
海野氏が歴史の表舞台から姿を消した後も、その本拠地であった地域には、彼らの記憶を今に伝える史跡や文化財が数多く残されている。
海野氏の本拠地であった信濃国小県郡海野(現在の長野県東御市本海野周辺)は、江戸時代に入ると北国街道の宿場町「海野宿」として整備され、交通の要衝として賑わった 1 。現在も、往時の面影を残す美しい歴史的な街並みが保存されており、国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている 6 。
記録によれば、1970年代以降、行政による修景・修理事業が計画的に実施され、統一感のある歴史的景観が維持されてきた 6 。海野宿は、東御市における重要な観光資源として認識されている一方で、現在も住民が生活を営む場としての側面も持ち合わせている。宿場内には「海野氏発祥之郷」と刻まれた石碑も建てられており 1 、訪れる人々にこの地がかつて名族海野氏の拠点であったことを伝えている。
海野宿の東端に鎮座する白鳥神社は、海野氏およびその流れを汲むとされる真田氏の氏神として、古くから篤い信仰を集めてきた 5 。神社の縁起によれば、祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)とされ、さらに海野氏・真田氏の祖とされる貞保親王と善淵王も合祀されていると伝えられる 5 。
特に真田氏との関わりは深く、数々の伝承が残されている。天文10年(1541年)の海野平の戦いで敗走中の真田幸隆の前に白鳥明神の使いを名乗る女神が現れ、鉾を授けてその窮地を救ったという伝説は有名である 5 。また、関ヶ原の戦いの後、上田領主となった真田信之(幸隆の孫)が、父祖伝来の所領と家督を継承して間もなく、真っ先にこの白鳥神社へ社領を安堵する文書を発給したことは、真田家がいかにこの神社を重視していたかを示している 5 。さらに、元和8年(1622年)に真田信之が上田から松代へ移封される際にも、白鳥明神が道中の安全を導き、新たな鎮座地を示したという伝承も残る 5 。
これらの伝承や史実は、白鳥神社が海野氏および真田氏にとって、単なる宗教的な信仰の対象を超え、一族の結束を固め、そのアイデンティティを確認する上で極めて重要な意味を持っていたことを物語っている。特に戦乱の世にあって、氏神の加護を信じることは、一族にとって大きな精神的な支柱となり、困難を乗り越えて再興への希望を繋ぐ役割を果たしたと考えられる。
海野氏の菩提寺とされる寺院も、彼らの歴史を今に伝えている。
陽泰寺 は、曹洞宗の寺院で、真田氏の重要な拠点であった砥石城の麓に位置している。この寺は、真田一族の本家筋にあたるとされる海野氏の菩提寺であり、本堂の屋根には海野氏の家紋である「州浜(すはま)」紋があしらわれている 17 。
興善寺 もまた、海野氏の菩提寺として知られている。寺伝によれば、海野氏の開祖ともされる海野幸棟(棟綱の父または祖父か)を供養した「小太郎様の碑」が大切に守られている 10 。また、境内には、海野氏および真田氏の始祖とされる善淵王が座して眼下の海野平を眺めたと伝えられる「善淵王の御座石」と呼ばれる平石も残されている 18 。記録によれば、海野幸棟は興禅寺(興善寺)に葬られ、また陽泰寺の中興開基ともされていることから 8 、これら両寺院が海野氏と極めて深い関わりを持っていたことが窺える。
海野氏の代表的な家紋として知られるのが「州浜(すはま)」紋である。これは、陽泰寺の本堂屋根にも用いられているように 17 、海野氏を象徴する紋章であった。州浜紋は、入り江や河口にできる砂洲の形を図案化したもので、その形状から末広がりで縁起の良い紋とされている。この家紋が菩提寺などに用いられていることは、海野氏が自らのアイデンティティを示す象徴として大切にしていたことを示している。
海野棟綱は、戦国時代初期の信濃国東部において、古代からの名族である滋野三家の宗家・海野氏の当主として、一定の勢力を保持した有力な国衆であったと言える。前述した高野山蓮華定院との関係構築などからも 10 、単なる一地方の豪族に留まらない、中央の権威とも繋がる広がりを持っていたことが推察される。彼が統治した海野荘は、経済的にも戦略的にも重要な地域であり、その支配は容易ではなかったと考えられるが、武田氏の本格的な侵攻が始まるまでは、地域の安定に一定の役割を果たしていたと評価できる。
しかし、天文10年(1541年)の海野平の戦いにおける武田・村上・諏訪連合軍への敗北と、それに続く棟綱の上野国への逃亡は、古代以来信濃国に根を張ってきた名族海野氏の、信濃における勢力基盤を事実上崩壊させる決定的な出来事となった 10 。
この海野氏の退場は、東信濃の勢力図を大きく塗り替える結果をもたらした。短期的には、連合軍の一翼を担った村上義清がその勢力を拡大させることになり 7 、この地域における一時的な権力の空白を埋める形となった。しかし、より長期的に見れば、この出来事は甲斐の武田氏による信濃平定が本格化する一つの契機となったと言える。有力な地域勢力であった海野氏が排除されたことで、武田氏にとって信濃攻略の障害が一つ取り除かれた形となり、その後の武田氏と村上氏の抗争、そして最終的な武田氏による信濃制圧へと繋がる一連の歴史的展開の序章となったのである。海野氏の没落は、信濃における戦国時代のダイナミックな勢力変動を象徴する出来事であった。
海野棟綱の没落と、その縁戚(あるいは子孫、または名跡継承者)とされる真田幸隆のその後の目覚ましい活躍は、歴史の皮肉とも言える対照的な結果を生んだ。幸隆は、海野氏の旧領回復を悲願としつつも、最終的には武田信玄(晴信)に仕えることでその卓越した智謀と武勇を発揮し、後の真田氏発展の強固な礎を築き上げた 13 。
海野氏が培ってきた地域における人脈や、あるいは旧臣の一部が、幸隆を通じて真田氏に引き継がれた可能性も否定できない。また、前述の通り、幸隆が意識的に海野氏との関係を強調したとすれば、それは自らの出自の正当性を高め、旧海野領における影響力を確保するための戦略的な判断であったと解釈できる。つまり、海野氏の「名」は、その実体が失われた後も、真田氏の台頭という形で、ある意味で生き続けたと見ることもできるかもしれない。海野氏の遺産が、形を変えて真田氏の勃興に繋がったという側面は、歴史の複雑な綾を示すものと言えるだろう。
海野棟綱個人に関する直接的な一次史料は、残念ながら限られており、特に海野平の戦いで敗北し上野国へ逃れた後の具体的な動向については、不明な点が多いのが現状である 11 。
近年の真田氏研究の進展に伴い、その出自や初期の動向を明らかにする文脈で、海野氏や棟綱についても言及される機会は増えている。しかし、棟綱自身を主題とした本格的な研究は、まだ十分とは言えない状況にある。
今後の課題としては、関連する可能性のある周辺史料、例えば上杉氏、長野氏、羽尾氏などに関わる古文書の再調査や、新たな史料の発見が期待される。また、海野氏関連の城館跡などの考古学的調査による知見との照合を通じて、棟綱の具体的な活動や、当時の海野氏の統治の実態など、彼の実像に迫る努力が続けられる必要がある。
本報告では、戦国時代の信濃国人海野棟綱について、その出自、生涯、関連する歴史的事件、そして後世への影響などを多角的に調査・分析した。以下にその要点をまとめる。
海野棟綱に関する研究は、史料的な制約から依然として多くの謎を残している。特に、彼の具体的な政治手腕、海野平の戦いにおける詳細な戦略、上野国へ逃れた後の晩年の動向、そして真田幸隆とのより正確な関係性などについては、さらなる史料の発掘と精密な分析が求められる。
地域史研究の深化や、関連する諸氏(武田氏、村上氏、上杉氏、真田氏など)の研究成果との比較検討、さらには考古学的な調査との連携などを通じて、海野棟綱という一人の武将、そして彼が生きた時代の全体像に対する理解が一層深まることが期待される。彼の生涯は、戦国時代という激動の時代を生きた多くの地方領主たちの姿を映し出す鏡であり、その研究は戦国時代史の解明に寄与するものである。