深堀純賢は西郷氏出身で深堀氏を継ぎ、大村氏と戦う。秀吉に領地没収されるも鍋島氏に臣従し、深堀鍋島家の礎を築いた。
戦国時代の肥前国(現在の佐賀県・長崎県)は、群雄が割拠し、絶え間ない争乱に明け暮れていた。東部では「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信が急速に勢力を拡大し、肥前統一の野望を燃やしていた。一方、南西部では高来半島を地盤とする有馬氏と、日本初のキリシタン大名として知られる大村氏が、ポルトガルとの南蛮貿易を背景に独自の勢力を築いていた。さらに北部には、松浦党と呼ばれる中小武士団が複雑な離合集散を繰り返しており、肥前の情勢は混沌の極みにあった。
このような有力大名の狭間で、深堀氏のような在地領主、いわゆる「国人」たちは、常に厳しい生存競争に晒されていた。彼らは自らの所領と家名を維持するため、ある時は強大な勢力に従属し、またある時は離反して敵対勢力と結ぶなど、目まぐるしく変わる情勢の中で巧みな外交戦略と武力を駆使する必要があった。婚姻や養子縁組は、血縁による同盟を固めるための重要な手段であり、しばしば政略の道具として用いられた。
本報告書で詳述する深堀純賢(ふかぼり すみかた)は、まさにこの激動の時代を象徴する国人領主の一人である。彼は諫早の西郷氏に生まれながら、長崎湾南部に勢力を持つ名門・深堀氏の家督を継ぎ、その生涯を通じて大村氏や長崎氏と熾烈な戦いを繰り広げた。龍造寺隆信の麾下に入り、その肥前統一戦の一翼を担う一方で、豊臣秀吉による天下統一という新たな時代の秩序に適応できずに没落の危機に瀕するなど、彼の人生は戦国期から近世への移行期を生きた地方領主の苦悩と葛藤を色濃く反映している。
純賢の生涯を丹念に追うことは、単に一武将の事績を知るに留まらない。それは、戦国時代末期の九州における権力構造の力学、宗教対立の深刻さ、そして近世大名体制へと組み込まれていく国人領主のリアルな存続戦略を、具体的に解明する上で不可欠な作業となるであろう。
深堀純賢の生涯と、彼が生きた時代の主要な出来事を以下に示す。
西暦 |
元号 |
純賢の動向および関連事項 |
日本史上の主要な出来事 |
不明 |
- |
西郷純久の子として誕生 1 |
- |
1565年 |
永禄8年 |
深堀氏の養子となり、第18代当主となる 1 |
- |
1570年 |
元亀元年 |
兄・西郷純堯に呼応し、大村方の長崎氏を攻撃 1 |
- |
1572年 |
元亀3年 |
再び西郷純堯と連携し大村・長崎氏を攻撃。教会を焼き払う 2 |
- |
1577年 |
天正5年 |
龍造寺隆信の麾下に入り、その支援を受けて長崎を攻撃 1 |
- |
1578年-1580年 |
天正6-8年 |
西郷純堯と共に大村方の鶴城を攻撃 1 |
- |
1584年 |
天正12年 |
沖田畷の戦いで主君・龍造寺隆信が戦死。純賢は龍造寺方に留まる 4 |
沖田畷の戦い |
1587年 |
天正15年 |
豊臣秀吉の九州平定に従い、本領を安堵される 5 |
豊臣秀吉による九州平定 |
1588年 |
天正16年 |
長崎入港船から通行税を徴収し、秀吉の怒りを買い領地を没収される 5 |
刀狩令 |
時期不明 |
- |
鍋島直茂の取りなしで領地の一部を返還され、鍋島氏の家臣となる 7 |
- |
1592年- |
文禄元年- |
文禄・慶長の役に従軍(養子・茂賢が陣代として参加した記録あり) 1 |
文禄・慶長の役 |
時期不明 |
- |
石井忠俊の娘・大宝院を後妻に迎え、その連れ子・鍋島茂賢を養子とする 1 |
- |
不明 |
- |
純賢、死去。法名は茂宅 1 。没年は1619年(元和5年)説あり 5 |
- |
深堀純賢の生涯を理解する上で、彼の出自と深堀家継承の経緯は極めて重要である。彼は血筋の上では「西郷氏」であり、その立場が彼の行動原理を大きく規定した。
純賢は、肥前国高来郡諫早を本拠とする国人・西郷純久(さいごう すみひさ)の子として生まれた 1 。西郷氏は、有馬氏の一族から養子を迎えるなど、肥前南部の有力国人として一定の勢力を保持していた 2 。純賢には西郷純堯(すみたか)という兄がおり、彼は西郷氏の惣領として一族を率いていた 1 。後述するように、純賢の軍事行動や政治判断は、常にこの兄・純堯と連携した西郷氏全体の戦略の中に位置づけられることになる。
一方、純賢の養子先となった深堀氏は、桓武平氏三浦氏の支流を称する由緒ある一族であった 7 。鎌倉時代の建長7年(1255年)、三浦一族の深堀仲光が幕府から肥前国戸八浦(とのはちのうら、現在の長崎市深堀地区一帯)の地頭職を与えられ、関東から下向したことに始まる 5 。以来、三百年にわたってこの地を支配し、長崎半島一帯に影響力を持つ名門国人としてその名を知られていた 7 。
永禄8年(1565年)8月、純賢は深堀氏の養子となり、第18代当主の座に就いた 1 。しかし、この家督継承は、単に血筋の断絶を防ぐための平和的な養子縁組ではなかった。その背景には、西郷氏による巧妙な政治戦略が存在した。
当時の深堀氏当主であった深堀直時は、有馬氏寄りの姿勢を見せていた。これに対し、深堀氏の一族の中には、西郷氏と通じ、反有馬の立場を取る者たちがいた。彼らは直時を追放し、その後継として西郷純久の子である純賢を迎え入れたのである 11 。
この一連の動きは、事実上、西郷氏による深堀氏の乗っ取りであったと解釈できる。西郷氏は、深堀氏内部の路線対立に巧みに介入し、自らの息のかかった人物を当主として送り込むことで、深堀氏の領地と軍事力を自らの勢力圏に組み込むことに成功した。この結果、深堀氏は西郷氏の強力な衛星勢力となり、純賢は名目上「深堀氏当主」でありながら、その本質は「西郷一族の一員」として行動することになる。彼の生涯にわたる大村氏との激しい抗争は、この出自によって運命づけられていたと言っても過言ではない。
純賢の権力基盤は、長崎湾の南に聳える俵石城(たわらいしじょう)であった。この城の戦略的価値を分析することは、彼が「平戸水軍の武将」とも称される所以を明らかにする上で不可欠である。
俵石城は、長崎市深堀町の背後に位置する標高約350メートルの城山山頂に築かれた、典型的な中世の山城である 14 。山頂の比較的平坦な部分に本丸が置かれ、その周囲を堅固な石塁(石垣)と深い空堀(横堀)が取り巻いていた 15 。さらに、城の斜面には放射状に複数の竪堀が穿たれ、敵の侵攻を阻むための防御施設が幾重にも施されていた 16 。
この城の最大の価値は、その戦略的な立地にあった。俵石城からは、眼下に広がる長崎湾の入口を一望でき、入港する船舶の動きを完全に監視することが可能であった 18 。戦国時代、深堀の港は外国船が停泊できる数少ない良港の一つであり、海上交通の要衝として経済的にも軍事的にも極めて重要な拠点であった 18 。
俵石城の地理的優位性は、純賢率いる深堀氏に富と力をもたらす源泉であった。彼はこの地から海上交通を支配し、その権益を享受していた。しかし、この海上支配権こそが、後に彼の運命を暗転させるアキレス腱となる。
時代が下り、織田信長や豊臣秀吉といった天下人が中央に登場すると、彼らは長崎を国際貿易港として重視し、その支配権を国家の管理下に置こうとした。このような中央政権の構想にとって、長崎湾の入口で独立した関税権を主張する深堀氏の存在は、看過できない障害であった。
天正16年(1588年)、純賢が長崎に入港する商船から独断で通行税を徴収した行為は、まさにこの新しい時代の秩序に対する挑戦と見なされた 5 。結果として豊臣秀吉の逆鱗に触れ、領地没収という最大の危機を招くことになる。純賢のこの行動は、彼の個人的な失策という側面もさることながら、海上交易の支配という地理的条件が引き起こした、旧来の国人領主の権益と中央集権化を目指す統一政権との必然的な衝突であったと解釈できる。俵石城がもたらした力は、時代の変化とともに、彼の破滅を招く要因ともなったのである。
深堀氏の家督を継いだ純賢の武将としての生涯は、隣接する大村純忠とその与党である長崎氏との絶え間ない戦いに終始した。その戦いの背景には、領土を巡る争いだけでなく、複雑な人間関係と深刻な宗教的対立が存在した。
純賢の軍事行動は、常に兄である西郷純堯と密接に連携して行われた 1 。例えば、元亀3年(1572年)の戦いでは、純堯が大村純忠の本拠を、純賢が大村方に属する長崎氏の所領を同時に攻撃するという、見事な連携攻撃を見せている 2 。これは、西郷・深堀連合軍として、共通の敵である大村氏を打倒するという明確な戦略目標に基づいたものであった。
しかし、この関係は極めて複雑な様相を呈していた。純賢の宿敵である大村純忠は、純賢の姉または妹である「おえん」を正室に迎えており、二人は敵同士でありながら義理の兄弟という関係にあったのである 1 。肉親や親戚が敵味方に分かれて骨肉の争いを繰り広げるという、戦国の世の非情さを象徴する関係であった 20 。
両者の対立をさらに深刻にしたのが、宗教の問題であった。西郷純堯と深堀純賢の兄弟が熱心な仏教徒であったのに対し、大村純忠は日本初のキリシタン大名として、領内でのキリスト教布教を強力に推進していた 2 。
純賢による大村領への攻撃は、単なる領土拡張を目的とした軍事行動に留まらなかった。彼は攻撃の際に、村々や長崎氏の館だけでなく、教会をも焼き払っている 2 。この行為は、純賢のキリスト教に対する強い敵愾心と、異教を排斥しようとする宗教的動機に基づいていたことを示唆している。一方、大村・長崎側のキリシタン武士や信徒たちの抵抗もまた激しく、信仰を守るための戦いは熾烈を極めた。純賢は、このキリシタン勢の頑強な抵抗に遭い、撤兵を余儀なくされたことも一度ではなかった 1 。この戦いは、領土を巡る国人同士の抗争であると同時に、仏教徒とキリシタンとの間の宗教戦争という側面を色濃く帯びていたのである。
純賢を取り巻く複雑な人間関係を以下に示す。この図は、血縁、姻戚、養子縁組が、いかに敵味方の関係と複雑に絡み合っていたかを視覚的に示している。
コード スニペット
\begin{figure}[h]
\centering
\begin{tikzpicture}[
node distance=2.5cm and 1.5cm,
every node/.style={
draw,
rectangle,
align=center,
minimum height=1.2cm
}
]
% Nodes
\node (Sumihisa) {西郷 純久};
\node (Sumitaka) {西郷 純堯\\(兄・西郷氏当主)};
\node (Sumikata) {**深堀 純賢**\\(三男・深堀氏へ養子)};
\node (Oen) {おえん\\(妹 or 姉)};
\node[right=of Oen, node distance=3cm] (Sumitada) {大村 純忠\\(キリシタン大名)};
\node (Arima) {有馬氏};
% Edges
\draw (Sumihisa) -- (Sumitaka);
\draw (Sumihisa) -- (Sumikata);
\draw (Sumihisa) -- (Oen);
% Relationships
\draw[dashed] (Oen) -- (Sumitada) node[midway, above, draw=none] {婚姻};
% Alliances & Conflicts
\path (Sumitaka.south) edge[<->, red, thick, bend right=20] node[midway, below, draw=none, sloped] {敵対} (Sumitada.south);
\path (Sumikata.east) edge[<->, red, thick] node[midway, above, draw=none] {敵対} (Sumitada.west);
\draw[dashed, blue] (Sumitada) -- (Arima) node[midway, right, draw=none] {同盟};
\draw[dashed, green] (Sumitaka) -- (Sumikata) node[midway, below, draw=none] {連携};
% Labels
\node (Label1) {\small \textbf{勢力A: 西郷・深堀連合}};
\node (Label2) {\small \textbf{勢力B: 大村・有馬連合}};
\end{tikzpicture}
\caption{深堀純賢 関係者系図}
\end{figure}
肥前国で最大勢力を誇った龍造寺隆信との関係は、国人領主としての純賢の立ち回りを分析する上で重要な指標となる。
当初、深堀氏が属していたのは有馬氏であった 1 。しかし、兄の西郷純堯が有馬氏と対立を深め、龍造寺氏に接近する中で、純賢の立場も変化していく。天正5年(1577年)、兄・純堯が龍造寺軍に攻撃された際には、純賢が両者の間に入って調停し、兄の降伏を取り成した 1 。この一件などを経て、純賢は兄と共に龍造寺隆信の麾下に入り、その家臣団の一員となった。
龍造寺氏に従属した純賢は、その強大な軍事力を背景に、長年にわたる宿敵・大村氏への攻撃をさらに激化させた。天正5年(1577年)以降、彼は龍造寺隆信の援助を受け、繰り返し大村領や長崎を攻撃した 1 。これは、もはや西郷・深堀氏という一国人勢力の私闘ではなく、龍造寺氏が進める肥前統一戦略の重要な一翼を担う公的な軍事行動であった。
天正12年(1584年)、主君である龍造寺隆信が島津・有馬連合軍との「沖田畷の戦い」で討ち死にするという、龍造寺家にとって壊滅的な敗北が訪れる。龍造寺家の権威は失墜し、多くの国人領主がこれを機に離反して、勝者である島津氏になびいた。
しかし、このような状況下にあっても、深堀純賢は龍造寺方としての立場を崩さず、肥前に進出してきた島津氏に対して抵抗を続けた 4 。この行動は、単なる主家への忠誠心だけでは説明ができない。むしろ、極めて現実的な戦略判断に基づいたものと見るべきである。純賢にとっての直接の敵は、依然として大村・有馬氏であった。そして、その大村・有馬氏は、沖田畷の戦いで島津氏と連合していた。つまり、龍造寺氏が弱体化したとしても、その敵である島津・有馬連合に対抗するためには、同じく彼らと敵対する龍造寺方に留まることが、自らの領地と家名を保つための最も合理的な選択だったのである。純賢のこの行動は、主家への義理を果たしつつも、自らの安全保障を最優先する、戦国国人の現実主義的な生存戦略の表れであった。
深堀純賢の人物像を伝える上で、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』の記述は、他に類を見ない貴重な史料である。しかし、その記述を鵜呑みにすることはできず、史料批判の観点から慎重に分析する必要がある。
フロイスは『日本史』の中で、純賢について「容貌と体つきが甚だ醜く滑稽であると同時に、彼の所業もまたそれ相応なものである」と、極めて辛辣な評価を下している 16 。この記述は、純賢に「醜悪な武将」という強烈なイメージを与え、後世の評価に大きな影響を及ぼした。
この記述を解釈するにあたり、フロイス自身の立場を理解することが不可欠である。フロイスは、日本でのキリスト教布教を至上の使命とするイエズス会の宣教師であった 23 。彼の記録は、ヨーロッパの支援者へ活動を報告するためのものであり、その視点は当然ながらキリスト教の側に立っている。
そして、フロイスが酷評する深堀純賢こそ、彼が手塩にかけて育てた長崎のキリシタン共同体を蹂躙し、神聖な教会堂を焼き払った張本人であった 2 。フロイスにとって、純賢は単なる敵対国の武将ではなく、神の教えに背き、信仰を破壊する「悪魔の使い」にも等しい存在であった。
したがって、フロイスの記述は、客観的な人物評とは到底言えない。むしろ、それは信仰の敵に対する強烈な憎悪と侮蔑が込められた、一種のプロパガンダ(宣伝・中傷)としての側面が強いと考えるべきである。近年の研究では、フロイスの記述には伝聞や意図的な脚色が含まれる可能性も指摘されている 26 。
純賢の「醜さ」とは、物理的な容姿以上に、フロイスの目から見た「霊的な醜さ」の表象であった可能性が高い。この記述は、純賢個人の真の姿を伝えるものとしてではなく、当時の宗教対立がいかに激しく、深刻であったかを物語る一次史料として読むべきである。それは、16世紀のキリスト教徒にとって、信仰を破壊する異教徒の領主がどのように見えたかという、当時の精神性を理解するための貴重な窓なのである。
戦国時代の終焉を告げる豊臣秀吉の天下統一事業は、純賢のような地方国人にとって、自らの存亡を賭けた大きな転換点となった。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉が20万を超える大軍を率いて九州平定に乗り出すと、純賢も他の九州の国人たちと同様に秀吉軍に従軍した。その結果、一度は本領の安堵を認められ、秀吉に直接仕える直参の地位を得た 5 。これにより、長年続いた大村氏との抗争にも終止符が打たれ、独立領主としての地位をひとまずは確保したかに見えた。
しかし、その安堵は長くは続かなかった。翌天正16年(1588年)、純賢は長崎に入港する商船から独断で通行税を徴収するという、彼の運命を決定づける行動に出る 5 。
この行為は、中世の荘園領主や国人領主が伝統的に行使してきた「関所料」の徴収という、旧来の常識に基づいたものであった。しかし、天下統一を進める秀吉は、国内の関所を撤廃し、長崎のような重要港を直轄地として国家管理下に置くことで、自由な商業・貿易を促進する政策を推し進めていた。純賢の行動は、秀吉が構築しようとしていたこの新しい「近世的秩序」に真っ向から挑戦するものであり、秀吉の逆鱗に触れるのは当然の帰結であった。結果、純賢は領地の全てを没収されるという、一族滅亡の危機に瀕した。
この事件は、純賢の個人的な判断ミスというよりも、時代の大きな転換期に生じた新旧秩序の衝突の象徴であった。彼は、国人が独立した権力として存在できた時代が終わりつつあることを、まだ理解していなかったのである。
この絶体絶命の窮地を救ったのが、かつての主家・龍造寺氏の実権を握っていた鍋島直茂であった。直茂は旧知の純賢のために秀吉への取りなしを行い、その尽力の結果、純賢は罪を赦され、野母、高浜、川原の三か村を除く本領を返還された 5 。
しかし、この代償は大きかった。彼は秀吉直参という独立領主の地位を失い、鍋島直茂の家臣団に組み込まれることになったのである 6 。以後、彼は鍋島軍の一員として文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも従軍した 6 。この屈辱的な事件が、皮肉にも深堀氏が鍋島藩の重臣として近世を生き抜く道を開くことになった。
鍋島氏の家臣となった純賢は、自らの代で失った独立領主としての地位に代わり、一族が新しい時代の中で確固たる地位を築くための、極めて現実的かつ戦略的な決断を下す。
純賢には実子がいなかったとされる 11 。彼は、鍋島氏との関係を盤石なものにするため、鍋島一門の中でも特に重きをなす外戚・石井家の出身である大宝院(石井忠俊の娘)を後妻として迎えた 1 。
そして、純賢は自らの血縁者ではなく、この大宝院が前夫との間にもうけた連れ子である石井孫六を養子とし、家督を継がせた 1 。この石井孫六こそ、後の鍋島茂賢(なべしま しげまさ)である。茂賢の血筋は、鍋島家中枢との強い繋がりを持っていた。彼の実父・石井信忠は龍造寺隆信の旗本であり、実兄の鍋島茂里は鍋島直茂の養子となって鍋島一門に列せられていた 29 。
この養子縁組は、単なる家督相続以上の意味を持っていた。それは、中世的な「血の継承」から、近世的な「家(イエ)の存続と家格の維持」へと、価値観を大きく転換させる決断であった。主君である鍋島氏の中枢に連なる血を自らの家に入れることで、深堀家は新興の佐賀藩における安泰な地位を確実なものにしたのである。
この功績により、茂賢は主君から鍋島姓を名乗ることを許され、ここに鎌倉時代から続いた名門・深堀氏は、佐賀藩の家老職を担う知行六千石の「深堀鍋島家」として、新たな歴史を歩み始めることとなった 7 。純賢は、自らの代で「独立領主・深堀氏」の歴史に幕を引くことと引き換えに、子孫のために「佐賀藩家老・深堀鍋島家」という永続的な地位を確保した。これは、領地没収事件の失敗から学び、新しい時代の秩序の中で生き残るための、彼の最後の、そして最大の武略であった。
戦国の荒波を乗り越え、一族存続の道筋をつけた深堀純賢であったが、その最期は多くの謎に包まれている。
純賢は鍋島氏の家臣となった後、「鍋島左馬助」を名乗り、やがて出家して「茂宅(もたく)」と号した 1 。彼の没年については、多くの史料で「不明」とされているが 1 、一部の資料には「鍋島茂宅 1547〜1619」という記述も見られ、1619年(元和5年)に73歳前後で亡くなったという説が有力視されている 5 。
彼の終焉をさらに不明瞭にしているのが、墓所の問題である。
長崎市深堀町には、深堀鍋島家の菩提寺があり、歴代領主の墓が並んでいる。しかし、驚くべきことに、この公式の墓地に純賢の墓は存在しない。ここにあるのは、養子で家督を継いだ19代当主(深堀鍋島家初代)の鍋島茂賢以降の墓なのである 30 。
一方、佐賀市本庄町にある妙玉寺には「深堀代々領主の墓」があり 6 、養子・茂賢の墓もこの寺にあるとされている 33 。妙玉寺は茂賢の実家である石井氏の菩提寺でもあり、純賢が妻の実家の寺に葬られた可能性は考えられるが、なぜ近世深堀家の礎を築いた重要人物の墓が、公式の家系の墓地から外されているのかは大きな謎である。
この事実は、一つの仮説を導き出す。純賢は「旧体制(独立国人)」の最後の当主であり、茂賢は「新体制(佐賀藩家老)」の最初の当主である。深堀鍋島家にとって、家の歴史は象徴的に茂賢から「リセット」されたのではないだろうか。純賢は、新時代の家系図からは意図的に「前史」の人物として扱われ、その墓所も公式の菩提寺には移されなかった可能性がある。彼の不明瞭な最期は、彼自身が中世と近世の「はざま」に生きた移行期の人物であったことを、何よりも雄弁に物語っている。
深堀純賢は、戦国武将として華々しい成功を収めた英雄ではない。しかし、彼の生涯は、時代の大きな転換点を生き抜いた地方領主のリアルな姿を我々に伝えている。
国人領主としての純賢は、戦国の常道に則り、兄と連携し、時には大勢力に従属しながらも、自らの領地と一族を守るために戦い抜いた。その行動は、教会焼き討ちに見られるように暴力的であり、通行税事件に見られるように政治的に未熟な面もあった。
しかし、彼の最大の功績は、独立領主としての道を諦め、主君の家臣団に組み込まれるという現実的な選択を下したことにある。その屈辱的な決断と、血縁によらない養子縁組という大胆な戦略によって、鎌倉時代から続いた「深堀」の名跡を、佐賀藩家老「深堀鍋島家」として明治維新まで存続させる礎を築いた。
彼が繋いだ深堀鍋島家は、江戸時代を通じて、その立地から佐賀藩の長崎警備という国家的な重要任務を担い続けた 8 。また、元禄期に深堀鍋島家の家臣が起こした「深堀騒動(長崎喧嘩騒動)」は、後に赤穂浪士の討ち入りの参考にされたという逸話も残っている 7 。これら後世の歴史はすべて、純賢の激動の生涯と最後の決断の上に成り立っている。
結論として、深堀純賢は、戦国乱世の終焉と近世封建体制の確立という、日本史の大きな転換点を、失敗と屈辱の中から生き抜き、一族に新たな活路を見出した、極めて重要な「移行期の人物」として再評価されるべきである。彼の物語は、歴史の表舞台に立つことの少ない、しかし確かに時代を動かした一人の国人領主の、確かな足跡を示している。