清水義氏は出羽の豪族で、最上義光と連携し大宝寺氏と抗争。養子縁組と娘の輿入れで最上家との絆を深めたが、最上家内紛で清水氏は滅亡した。
戦国時代の日本列島が群雄割拠の様相を呈する中、東北地方の出羽国もまた、激しい権力闘争の舞台であった。本報告書は、その渦中にあって一族の存亡を賭して戦い、巧みな戦略で時代を駆け抜けようとした一人の武将、清水義氏(しみず よしうじ)の生涯を、彼を取り巻く環境と人間関係、そしてその決断がもたらした結末に至るまで、詳細に解明するものである。
清水義氏が生きた時代の出羽国は、大きく二つの地域に分けられる。一つは、山形盆地を中心とする内陸の村山・最上地方。そしてもう一つは、日本海に面し、酒田湊を擁する沿岸部の庄内地方である。この二つの地域は、最上川という経済と交通の大動脈によって結ばれながらも、それぞれが独自の勢力圏を形成し、緊張関係にあった 1 。
内陸部では、山形城を拠点とする最上氏が、一族や周辺国人衆との抗争を繰り返しながら、羽州探題としての権威の回復と領国拡大を目指していた 3 。一方、庄内地方では、古くからの在地領主である大宝寺(武藤)氏が覇を唱え、諸領主を束ねる存在として君臨していた 5 。最上氏にとって、日本海への出口である庄内地方の掌握は悲願であり、大宝寺氏にとって内陸への進出は勢力拡大の好機であった。両者の対立は、この地域の歴史を貫く宿命的な構図だったのである。
この二大勢力の狭間にあって、重要な役割を担ったのが清水氏である。清水氏は、清和源氏足利氏の一門で、室町幕府の管領家であった斯波氏の庶流、すなわち最上氏のさらに分家筋にあたる名門であった 7 。その歴史は、文明8年(1476年)頃、最上氏の祖・斯波兼頼の曾孫にあたる成沢満久が、最上川西岸の要害の地、現在の山形県最上郡大蔵村清水に城を築き、その地名をとって「清水」を称したことに始まる 7 。
清水氏が本拠とした清水城の位置は、彼らの歴史的役割を何よりも雄弁に物語っている。この地は、最上氏の本拠地・山形と、大宝寺氏が支配する庄内平野とを結ぶ、まさに境界線上にあった。これは、本家である最上氏が、庄内への進出路を確保し、同時に大宝寺氏の侵攻に対する防波堤とするという、明確な戦略的意図をもって一族を配置した結果に他ならない。清水氏は、単なる地方豪族ではなく、創設の時点から最上氏の勢力圏における「最前線の管理者」としての役割を宿命づけられていた。そして、その地理的・戦略的な要衝性こそが、清水氏の存在価値を高めると同時に、後に両勢力による激しい争奪の的となる根源的な要因となったのである 1 。
清水義氏は、天文16年(1547年)、清水氏5代当主・清水義高の子として誕生した 11 。彼が生まれた頃、宗家である最上家では、当主・最上義守とその嫡男・義光の間で深刻な対立が生じるなど(天正最上の乱)、内憂を抱えた不安定な時期にあった 18 。このような主家の混乱は、その分家である清水氏の立場をも危うくするものであり、義氏は幼少期から予断を許さない政治情勢の中で育ったと考えられる。
清水氏にとって決定的な転機が訪れたのは、永禄8年(1565年)のことである。この年、父である清水義高は、庄内の大宝寺義増が率いる軍勢と本合海(現・新庄市)で激突し、敗北、討死するという悲劇に見舞われた 15 。この「本合海の戦い」は、清水氏にとって当主を失うという計り知れない打撃であった。それと同時に、最上川舟運の拠点を巡る庄内勢力の脅威が、もはや看過できない現実であることを一族に痛感させる出来事となった。
父の突然の死により、清水義氏はわずか19歳で家督を相続し、清水氏6代当主となった 11 。一族が存亡の危機に瀕する中での、あまりにも若く、そして重い船出であった。父・義高は、大宝寺氏と正面から戦い、命を落とした。この現実は、若き義氏にとって強烈な教訓となったに違いない。自らの力のみで大宝寺氏という強大な敵に対抗することの限界を悟った彼は、父の轍を踏むのではなく、より確実な生き残りの道を模索する必要に迫られた。この青年期に受けた衝撃と、そこから学んだであろう冷徹な教訓こそが、彼のその後の生涯を方向づける「現実主義的生存戦略」の原点となった。すなわち、本家である最上義光との連携を絶対的なものとして追求し、一族の安泰を図るという、極めて合理的かつ戦略的な判断へと彼を導いたのである。
家督を継いだ清水義氏が直面した最大の課題は、父を討った大宝寺氏の脅威にいかに対処するかであった。若き当主が選んだ道は、単独での抵抗ではなく、本家筋にあたる最上義光との連携を極限まで強化することだった。
本章以降に展開される複雑な人間関係を理解するため、ここに主要な登場人物を整理する。
人物名 |
よみ |
生没年 |
清水義氏との関係 |
備考 |
清水義氏 |
しみず よしうじ |
1547-1586 |
本報告書の主人公 |
清水氏6代当主。清水城主。 |
清水義高 |
しみず よしたか |
?-1565 |
父 |
5代当主。大宝寺義増との戦いで討死。 |
最上義光 |
もがみ よしあき |
1546-1614 |
主君、後に舅 |
出羽の戦国大名。山形藩初代藩主。 |
清水義親 |
しみず よしちか |
1582-1614 |
養子 |
最上義光の三男。清水氏7代当主。 |
お辰の方 |
おたつのかた |
1577-1638 |
娘 |
最上義光の継室(清水夫人)。 |
大宝寺義増 |
だいほうじ よします |
?-? |
敵対者(父の仇) |
庄内の戦国大名。義高を討死させた。 |
大宝寺義氏 |
だいほうじ よしうじ |
?-1583 |
敵対者 |
義増の子。義氏と度々争う。 |
義氏は、当主となるや否や、最上義光への接近を強めた 11 。これは、父の死という教訓から導き出された、最も合理的な生存戦略であった。一方、当時、天童氏をはじめとする村山郡の国人衆との抗争に明け暮れていた義光にとっても、庄内進出の足掛かりとして、また大宝寺氏に対する防波堤として、清水城とその当主である義氏を自らの影響下に置くことは、領国経営上、極めて重要な意味を持っていた 13 。両者の利害は完全に一致し、ここに強固な軍事同盟が形成されることとなる。
最上義光という強力な後ろ盾を得た清水義氏は、大宝寺氏との抗争を有利に進めていく。彼は、大宝寺氏による度重なる侵攻を、義光の支援を得てことごとく撃退した 20 。記録によれば、天正9年(1581年)には大宝寺義氏(義増の子)が清水城に侵攻し 23 、天正11年(1583年)にも村山郡で清水城を攻めたが、清水・鮭延・最上連合軍の頑強な抵抗により進出を阻まれている 24 。さらに天正12年(1584年)頃には、武藤(大宝寺)勢が清水城に来襲したが、義氏は義光の援軍を得てこれを撃退し、逆に庄内へ出撃するという攻勢に転じる場面さえあった 18 。
この一連の戦いは、単なる清水氏と大宝寺氏の局地的な紛争ではなかった。それは、最上義光による庄内攻略という、より大きな戦略の一環として位置づけられるべきものである。清水城は、内陸の最上氏が、大宝寺氏の支配する庄内平野に打ち込む「楔(くさび)」そのものであった。清水義氏がこの楔を命懸けで維持し続けることで、最上義光は庄内への介入を可能にし、大宝寺家臣である東禅寺義長らを内応させるなどの調略を進める時間的猶予と戦略的拠点を確保できたのである 24 。義氏の奮闘は、彼個人の武功であると同時に、主君・義光の天下統一事業に不可欠な一部として組み込まれていた。彼の役割は、単に命令を待つ受動的な家臣ではなく、主君の戦略を最前線で能動的に実行する、極めて重要な戦略的パートナーであったと評価できる。
清水義氏の生涯を語る上で、その本拠地であった清水城の存在を抜きにすることはできない。この城の持つ地理的・経済的な特性こそが、清水氏の運命を大きく左右したからである。
清水城は、現在の山形県最上郡大蔵村清水に位置し、最上川とその支流である藤田沢川に挟まれた舌状台地の先端に築かれた、天然の要害であった 10 。その構造は、台地の北端に本丸を置き、南側に二の丸を配し、それぞれを大規模な空堀で区画した連郭式の平山城である 12 。現在も土塁や空堀が良好な状態で残存しており、中世城郭の構造を知る上で貴重な史跡となっている 14 。城の南方に広がる平地は「二日町」と呼ばれ、当時、家臣たちの武家屋敷が立ち並ぶ城下町が形成されていたことがわかっている 28 。
清水城の戦略的価値は、その立地に集約される。軍事的には、内陸の村山・最上地方と、日本海沿岸の庄内地方を結ぶ回廊を扼する位置にあり、この城を抑えることは、両地域間の人や物資の往来を支配することを意味した。
しかし、それ以上に重要だったのが経済的な価値である。城の眼下には、当時、物流の大動脈であった最上川が流れており、清水城は舟運の結節点、すなわち「船継地」として機能していた 1 。戦国時代において、大量の兵員や兵糧、あるいは年貢米といった物資を効率的に輸送する手段は水運をおいて他になかった。清水城は、その流れを管理・支配できる一種の「関所」であり、地域の物流と経済を左右する「ハブ」であった。清水氏の力は、兵の数や石高といった軍事力だけでなく、この経済的支配力に支えられていた可能性が高い。そして、最上氏と大宝寺氏がこの地を巡って長年激しく争った最大の理由も、この経済的利権の掌握にあったと考えられる。後に、最上家親が清水氏を滅ぼすに至った背景の一つにも、この最上川舟運の利権を本家が直接掌握しようとしたため、という見方があることは 13 、この城の経済的重要性を裏付けている。清水城の価値を軍事面だけでなく経済面から捉えることで、清水氏を巡る争いの根源がより深く理解できるのである。
大宝寺氏との熾烈な抗争を繰り広げる一方、清水義氏は一族の将来を見据え、極めて戦略的な手を打った。それは、主家・最上家との間に「血縁」という最も強固な絆を二重に結ぶことであった。
清水義氏には、跡を継ぐべき男子がいなかった 11 。これは、戦国の世にあって一族の断絶に直結しかねない深刻な問題であった。この危機を乗り越え、かつ最上家との関係を決定的なものにするため、義氏は主君・最上義光の三男であった光氏(後の清水義親)を養子として迎え入れるという、重大な政治的決断を下す 9 。これにより、清水氏は名実ともに最上氏の「一門」となり、単なる家臣から、主家と運命を共にする特別な存在へとその地位を高めた。これは、家格の維持と安全保障を両立させるための、義氏一代の深謀遠慮であった。
義氏の戦略は、養子縁組だけに留まらなかった。彼はさらに、自らの娘であるお辰の方(清水姫とも呼ばれる)を、当時、正室の大崎夫人と死別していた最上義光の継室(あるいは側室)として嫁がせたのである 1 。この輿入れにより、義氏は義光の家臣であると同時に「舅」という極めて近しい姻戚関係となり、両家の結びつきは盤石なものとなった。お辰の方は「清水夫人」と呼ばれ、山形城に入った後、義光の死後も出家して「光浄院殿」と号し、最上家の行く末を見守り続けた 1 。
義氏が講じたこの「二重の血縁策」は、一族の生存を未来に託すための、いわば究極の保険であった。養子(義親)によって清水家の「未来」の血統と存続を本家・最上家に委ね、娘(お辰の方)によって義氏「自身」の代における立場と主君への影響力を確保する。この二重の安全保障は、出羽国内の勢力バランスという枠組みの中では、完璧に近い戦略であったと言えよう。
しかし、この策は、義氏の想像を超えた大きな時代のうねりの中で、破滅の種を内包する諸刃の剣となる。養子となった義親は、清水家の家督を継ぐ以前に、豊臣秀吉の人質として大坂で過ごし、豊臣秀頼に近習として仕えた経験を持っていた 7 。この「豊臣との縁」こそが、後に徳川家との関係を重視する最上本家との間に、致命的な亀裂を生じさせることになる。義氏が未来の安泰を願って結んだ縁が、次世代の政変の嵐の中で、逆に一族を滅亡へと導く火種となったのである。これは、戦国の地方豪族が駆使した生存戦略が、中央政界の激変という巨大な奔流の前ではいかに脆いものであったかを示す、非情な皮肉と悲劇を象徴している。
一族の未来のためにあらゆる布石を打った清水義氏は、天正14年10月18日(西暦1586年11月28日)、40年の生涯を閉じた 11 。その死因に関する具体的な記録は見当たらないが、彼の死は、清水氏にとって、そして最上氏の庄内戦略にとっても大きな転換点となった。
義氏の死後、家督は養子である清水義親が継ぎ、清水氏7代当主となった。義親は最上一門の将として、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いと連動して発生した慶長出羽合戦では、長谷堂城で上杉軍と対峙する叔父・楯岡光直らの救援に向かうなど、武功を挙げている 15 。
しかし、最上家の絶対的な当主であった最上義光が慶長19年(1614年)に亡くなると、事態は暗転する。家督を継いだのは、徳川家康との関係が深い次兄の最上家親であった。一方で、義親には前述の通り豊臣秀頼への近習経験があり、豊臣方との繋がりを疑われていた 7 。義氏が築いた生存戦略は、あくまで「出羽国内の勢力バランス」という閉じた世界の中での最適解であった。しかし、彼の死後、時代は織豊政権から徳川の世へと大きく動いた。この中央政界の地殻変動は、最上家内部に「徳川方(家親)」と「豊臣方(義親)」という、義氏の時代には存在しなかった新たな断層を生み出したのである。
大坂冬の陣を目前に控えた慶長19年(1614年)、最上家親は、徳川家康や幕府からの内通の嫌疑を晴らすため、実の弟である清水義親の討伐という非情な決断を下す。延沢光昌らに率いられた最上軍は清水城を急襲し、城は落城した 7 。義親は、当時13歳であった嫡男・義継と共に自刃を余儀なくされ、ここに、斯波氏の血を引く名門・清水氏は、約140年の歴史に幕を閉じたのである 7 。
義氏が結んだ縁は、この全国規模の対立構造に巻き込まれ、本来は一族を守るはずであった「最上家との一体化」が、逆に家中の政争に直接飲み込まれる原因となってしまった。清水氏の滅亡は、一個人の選択の成否を超え、地方の論理が中央の論理によって覆されていく、戦国末期から江戸初期への移行期を象徴する出来事であった。
なお、清水氏が滅亡した後も、その名は土地に残された。現在の山形県大蔵村の名は、7代当主・清水義親の官位であった「大蔵大輔」に由来すると伝えられている 28 。
清水義氏の生涯を総括するならば、彼は「激動の時代を生き抜いた、卓越した現実主義者」と評価することができよう。父の戦死という逆境から出発し、自家の置かれた地政学的な弱点を冷静に分析。そして、主家との連携強化、さらには養子縁組と娘の輿入れという二重の血縁政策を駆使して、一族の存続と地位の向上にその生涯を捧げた。
彼の一連の決断は、彼が生きている間においては見事に功を奏し、清水氏に一時的な安定と繁栄をもたらした。彼は、最上氏の庄内攻略における「楔」としての役割を完璧に果たし、主君・義光からの絶大な信頼を勝ち得た。その戦略は、出羽国内の力学の中では、最善に近いものであったと言える。
しかし、その緻密な生存戦略は、彼の死後、日本全体を巻き込む「徳川対豊臣」という、より大きな政治的変動の前にはあまりにも脆かった。彼が未来の安泰を願って結んだはずの血縁の絆が、次世代においては家中の対立を激化させ、結果として一族の悲劇的な結末を準備する形となったのである。
清水義氏の生涯は、戦国時代に生きた数多の地方豪族が直面した、生き残りを賭けた巧みな立ち回りと、時代の大きな潮流には抗うことのできない非情な現実を、我々に鮮やかに示してくれる。彼は、自らの知略と決断で運命を切り拓こうとしたが、その運命さえもが、より大きな歴史のうねりに飲み込まれていった。その意味において、清水義氏という一人の武将の軌跡は、戦国という時代の複雑さと、そこに生きた人々の悲哀を映し出す、極めて貴重な歴史の一断面なのである。