最終更新日 2025-07-19

渡辺教忠

渡辺教忠は土佐一条家出身で伊予西園寺氏重臣。実家と主家の争いで主君を裏切り降伏。長宗我部氏には抗戦するも家臣に追放され消息不明に。忠誠と血縁の板挟みに苦しんだ悲劇の武将。

伊予と土佐の狭間で―戦国武将・渡辺教忠の生涯

序章:引き裂かれた忠誠―悲劇の武将・渡辺教忠

戦国時代の日本列島は、数多の武将たちが己の野心と領土、そして一族の存続を賭けて相争う、激動の時代であった。その中で、歴史の表舞台に名を刻む勝者もいれば、時代の奔流に翻弄され、名もなきまま消えていった者も数知れない。本報告書が主題とする渡辺教忠(わたなべ のりただ)は、まさにその後者の一人であり、その生涯は伊予(現在の愛媛県)と土佐(現在の高知県)という二つの大国の狭間で引き裂かれた、悲劇の物語として語ることができる。

一般的に渡辺教忠は、「西園寺家臣。河後森城主。土佐一条家の出身。主家と実家が争った際に傍観し、主家の攻撃を受けるが、人質を出して降伏した。のちに家臣に居城を追われた」といった断片的な情報で知られている 1 。この評価は事実の一面を捉えてはいるものの、彼の人物像の全てを物語るものではない。彼の生涯は、単なる優柔不断や不運といった言葉で片付けられるほど単純なものではなかった。

彼の人生は、戦国時代後期の四国、特に南予地方の勢力図の変遷を凝縮した縮図であった。伊予の伝統的領主である西園寺氏の権威が揺らぎ、隣国から土佐一条氏が介入し、やがて土佐から長宗我部氏がその覇権を伸ばしてくる。そして最終的には、豊臣秀吉による天下統一の波が四国全土を覆い尽くす。渡辺教忠は、この全ての歴史的転換点の渦中に身を置き、その度に困難な選択を迫られ続けたのである。

本報告は、軍記物語『清良記』をはじめとする断片的な史料を丹念に読み解き、それらを当時の政治・社会状況と照らし合わせることで、渡辺教忠の行動原理と、その背景にあった構造的な問題を深く掘り下げるものである。彼の栄光と悲運を追体験することを通じて、一人の武将の物語を超え、戦国という時代の矛盾そのものに迫ることを目的とする。

第一章:渡辺教忠の出自と地政学的背景

渡辺教忠という人物の複雑な生涯を理解するためには、まず彼が背負っていた二つの出自―血縁上の実家である「土佐一条家」と、彼が忠誠を誓った「伊予西園寺家」―について深く知る必要がある。この二つの家が、彼の栄光の源泉であると同時に、悲劇の種子ともなったのである。

第一節:土佐一条家の貴公子として―血の宿命

渡辺教忠は、もともと東小路教忠(ひがしこうじ のりただ)と名乗っていた。彼は、土佐国司であった一条房家(いちじょう ふさいえ)の子、東小路教行(ひがしこうじ のりゆき、別名:一条教行)の次男として生を受けた 2 。一条家は、京都の公家社会の頂点に立つ五摂家の一つであり、教忠は単なる地方武士ではなく、極めて高貴な血筋を引く貴公子であった。

彼の祖父にあたる一条房家が当主であった頃の土佐一条氏は、応仁の乱の戦火を避けて所領である土佐国幡多郡に下向した公家でありながら、在地国人の盟主として幡多・高岡両郡(現在の高知県西部)を支配する「地域権力」として、その最盛期を築いていた 4 。彼らは、公家としての権威と、在地領主としての武力を兼ね備えた、戦国時代における特異な存在であった。この一条家の権威こそが、後に教忠が伊予の有力国人へ養子入りする際の、最も重要な政治的資産となる。

また、軍記物語である『清良記』によれば、教忠は幼少期を、同書の主人公である伊予の武将・土居清良(どい きよよし)と共に過ごしたと記されている 2 。この記述は、彼の物語が同時代の他の武将の視点からも語られることを示唆しており、彼の人物像に奥行きを与えている。

第二節:伊予西園寺家への養子入り―政治の駒として

教忠の運命が大きく動くのは、伊予国へと渡り、渡辺家の養子となった時である。当時、伊予南部の宇和郡を支配していた戦国領主・西園寺氏の重臣で、土佐との国境に位置する要衝・河後森城(かごのもりじょう)の城主であった渡辺越後守政忠(わたなべ えちごのかみ まさただ)には、跡を継ぐべき嗣子がいなかった 2 。そこに、土佐一条家から教忠が養子として送り込まれたのである。

この養子縁組は、単なる家督相続の問題ではなかった。それは、伊予と土佐の二大勢力の思惑が交錯する、高度な政治的取引であった。

一条氏側の狙いは明白であった。当時の当主・一条兼定は、伊予への勢力拡大を企図しており、その布石として、敵対勢力である西園寺氏の家臣団の内部に、自らの血を引く者を楔として打ち込むことを狙ったのである 2 。国境の要衝を押さえる有力家臣を親族とすることで、西園寺氏の内部情報を得ると同時に、有事の際には内部から切り崩すことが可能となる。

一方、養父となった渡辺政忠にも利点があった。土佐一条家という、公家の権威と在地での実力を兼ね備えた名門の血を自らの家に入れることで、西園寺家臣団の中での渡辺家の地位をより一層盤石なものにしようという思惑があったと考えられる。

しかし、この「戦略的養子縁組」は、平時においては双方に利益をもたらす一方で、二つの勢力が本格的に衝突した際には、養子当人を「忠誠の板挟み」という絶望的な状況に追い込む構造的欠陥を内包していた。戦国時代において、同盟強化や勢力拡大のための政略結婚や養子縁組は常套手段であったが 9 、それは両家の友好関係が続くことを前提とした危うい策でもあった。渡辺教忠の後の苦悩と破滅は、彼の個人的な資質の問題以上に、この政治戦略そのものが破綻した必然的な結果であったと解釈することができる。彼の悲劇は、まさにこの養子縁組の瞬間に運命づけられていたのである。

第三節:西園寺十五将筆頭としての栄光

養父・政忠の跡を継いだ渡辺教忠は、伊予国河後森城主となり、その地名から「川原淵殿(かわらぶちどの)」とも呼ばれた 2 。彼の所領は1万6500石に及び、これは西園寺氏配下の国人領主の中では最大級の規模であった 2 。その実力から、彼は「西園寺十五将」の筆頭に数えられ、名実ともに西園寺家中の最有力者の一人として栄華を誇った。

だが、この「西園寺十五将」という体制そのものが、西園寺氏の支配の脆弱性を物語っていた。彼らはもともと西園寺氏から恩給を受けて支配を確立した譜代の家臣というよりは、それぞれが独力で領地を切り拓いてきた独立性の高い国人領主たちの連合体であった 11 。西園寺氏は、絶対的な主君として君臨していたわけではなく、彼ら国人領主たちの盟主という立場に近かった。したがって、連合に属する諸将は、状況次第では西園寺氏と袂を分かつことも厭わない存在だったのである。

教忠がその筆頭であったという事実は、彼の動向一つが、西園寺氏の支配体制全体の安定を揺るがしかねないほどの重みを持っていたことを意味する。後に主君である西園寺公広が、その筆頭家臣である教忠を武力で討伐するという異常事態に至るのは、まさにこの脆弱な連合体制が、外部からの圧力によって内部から崩壊し始めたことの証左であった。この内部分裂こそが、やがて長宗我部氏という強大な外部勢力の侵攻を容易にする土壌を育んでいくことになるのである。

表:渡辺教忠をめぐる主要人物関係図

渡辺教忠の生涯を理解する上で、彼を取り巻く複雑な人間関係を把握することは不可欠である。以下の表は、彼の運命に深く関わった主要人物とその関係性をまとめたものである。

人物名

所属・立場

渡辺教忠との関係

備考

渡辺教忠

伊予西園寺氏家臣、河後森城主

本人

旧名:東小路教忠 2 。別名:川原淵殿 2

東小路教行

土佐一条氏一門

実父

一条房家の子 2

渡辺政忠

伊予西園寺氏家臣、前河後森城主

養父

教忠に家督を譲る 2

西園寺公広

伊予の戦国領主(西園寺家当主)

主君

教忠を討伐 2 。後に戸田勝隆に謀殺される 13

一条兼定

土佐一条家当主

実家の当主

伊予侵攻を主導 2 。後に長宗我部氏に追放される 2

長宗我部元親

土佐の戦国領主

敵対勢力

四国統一を目指す 15 。教忠の家臣・芝政景と通じる 16

芝政景(源三郎)

渡辺教忠の家臣(近習)

教忠を追放した人物

鳥屋ヶ森城主・芝政輔の子 17 。長宗我部氏に寝返る 2

土居清良

伊予の武将(大森城主)

幼少期の知己

軍記『清良記』の主人公 2

第二章:忠誠の岐路―永禄十年、主家と実家の激突

渡辺教忠の栄光と悲劇が交錯する運命の転換点は、永禄十年(1567年)に訪れた。実家である土佐一条氏が、主家である伊予西園寺氏の領国へ本格的な侵攻を開始したのである。この事件は、教忠に究極の選択を迫り、彼の人生を大きく狂わせていく。

第一節:一条兼定の南予侵攻

永禄七年(1564年)、土佐一条家当主の一条兼定は、九州の有力大名である豊後の大友宗麟の娘を正室に迎えた 19 。この婚姻により、大友氏という強力な後援を得た兼定は、長年の懸案であった伊予への勢力拡大に本格的に乗り出す。永禄八年(1565年)頃から、一条軍は断続的に西園寺領へと侵攻を繰り返していた 20

そして永禄十年(1567年)、一条軍は大規模な攻勢をかけた。土佐との国境に位置する河後森城は、この侵攻における最前線であった。城主である渡辺教忠は、まさに実家の軍勢を迎え撃つ立場に立たされたのである。主君である西園寺公広は、家臣団の筆頭であり、国境防衛の要である教忠に対し、当然のことながら出兵を厳命した 2

第二節:日和見か、内通か―教忠の決断

主君からの厳命と、実家からの侵攻という板挟みの中で、渡辺教忠は苦渋の決断を下す。彼は、西園寺公広の出兵命令を拒否したのである。

この行動について、史料は微妙に異なるニュアンスで伝えている。ある史料は、彼が主家と実家の争いに対して「日和見を決め込んだ」と記し、中立を保とうとしたかのように描写する 1 。一方で、より踏み込んだ記述をする史料も存在する。それらによれば、教忠は城に籠って抗戦の姿勢を見せず、意図的に実家である一条軍を自領内へと「通過させた」という 20

この行動が、単なる日和見であったのか、あるいは積極的な内通であったのかを断定することは難しい。しかし、彼の立場を鑑みれば、その行動原理はある程度推測できる。実家である一条家と干戈を交えることを避けたかったのは、人情として当然であろう。また、二大勢力の争いの最前線に立つことで自軍が消耗し、共倒れになることを避けるという、国人領主としての合理的な判断が働いた可能性も否定できない。

だが、どのような理由や思惑があったにせよ、この決断が主君・西園寺公広の目には紛れもない「利敵行為」と映ったことは間違いなかった 7

第三節:主家の懲罰と屈辱的降伏

自らの命令を無視し、あろうことか敵軍の通過を黙認した筆頭家臣の裏切りに、西園寺公広は激怒した。彼は、教忠を討伐すべく、配下の諸将を動員して河後森城へと軍勢を差し向けた 2

主君の軍勢に包囲された教忠は、抗戦したものの、最終的には降伏を余儀なくされる。その条件は、極めて屈辱的なものであった。彼は、自らの跡継ぎとしていた養子(自身の息子であった可能性もある)を人質として差し出すことで、ようやく許しを得たのである 2

この事件は、渡辺教忠の威信を根底から揺るがした。西園寺家臣団内での彼の地位は失墜し、もはや以前のような影響力を行使することはできなくなった。さらに深刻だったのは、彼自身の家臣団に与えた影響である。一度主君を裏切ったという事実は、渡辺家の家臣たちの教忠に対する忠誠心にも大きな動揺を与えた。主君への忠義よりも、自家の都合を優先する主の姿は、家臣たちに「いざとなれば、我々も主君を裏切ってよいのだ」という考えを植え付けかねない。この時に生じた主従間の亀裂が、十数年後の追放劇という、さらなる悲劇の遠因となったことは想像に難くない。

第三章:没落への道程―長宗我部氏の影と家中の崩壊

永禄十年の事件で辛うじて滅亡を免れた渡辺教忠であったが、彼の苦難はまだ終わらなかった。四国の政治情勢は、一人の傑物の登場によって、さらなる激動の時代へと突入する。土佐の長宗我部元親である。

第一節:新たな敵―長宗我部氏との戦い

天正二年(1574年)、一条兼定は家臣の反乱によって本拠地の中村を追われ、豊後へと亡命した。この背後で糸を引いていたのが、長宗我部元親であった 2 。これにより、土佐一条氏は事実上滅亡し、南予にとっての最大の脅威は、一条氏から長宗我部氏へと完全に取って代わられた。

かつての実家を滅ぼした長宗我部氏に対し、渡辺教忠は意外な行動を見せる。彼は、西園寺氏の武将として、長宗我部軍の伊予侵攻に徹底抗戦の構えで臨み、果敢に戦ったのである。その戦いぶりは、「河後森の若城主」と呼ばれて評判になるほどであったという 2 。この行動は、かつて主君を裏切った汚名を返上し、西園寺氏への忠誠を改めて示すための必死の戦いであったのかもしれない。あるいは、自らの血統の源流である一条家を滅ぼした元親への、純粋な敵愾心であった可能性もある。

第二節:家中の分裂と近習の陰謀

しかし、教忠のこの「徹底抗戦」路線は、皮肉にも自らの足元を崩す結果を招く。長宗我部氏の勢いは凄まじく、主家である西園寺氏の勢力は日に日に衰退していった 15 。度重なる戦乱は渡辺家中の経済的・人的資源を著しく消耗させ、家臣たちの間に厭戦気分と将来への不安を蔓延させた 2

やがて渡辺家中は、教忠が主張する「徹底抗戦」派と、もはや勝ち目のない戦いをやめ、長宗我部氏に降伏してでも家の安泰を図るべきだとする「和平・降伏」派に分裂した 8

この家中の路線対立の中で、和平・降伏派の中心人物として頭角を現したのが、教忠の近習であった芝政景(しば まさかげ)、通称・源三郎であった 2 。彼は、渡辺家の支城である鳥屋ヶ森城(とやがもりじょう)の城主・芝政輔の子であり、彼自身も一定の勢力基盤を持つ有力な家臣であった 17 。政景は、主君である教忠の強硬路線が、いずれ渡辺家そのものを破滅に導くと考えた。そして彼は、家の存続のため、密かに長宗我部元親と通じ、主君を追放して実権を握るという、恐るべき謀略を企てるに至る 2

芝政景のこの行動は、単なる私欲による下剋上と断じるのは早計かもしれない。彼の視点に立てば、それは一つの「正当化」が可能であった。主家である西園寺氏が長宗我部氏の猛攻の前に風前の灯火であることは、誰の目にも明らかであった 15 。そのような状況下で、勝ち目のない徹底抗戦を叫ぶ主君・教忠の姿は、家臣たちには非現実的で、破滅的な指導者に見えたであろう。芝政景は、この「誤った判断を下す主君」を排除し、より現実的な「長宗我部への帰順」という道を選ぶことで、一族と領地を守ろうとしたのではないか。彼の謀反は、戦国時代における主従関係の流動性と、主君の判断が家の存続を危うくすると考えた場合の、家臣の自律的な行動原理を示す好例と言える。

第三節:月見の夜の追放劇

天正八年(1580年)から九年(1581年)にかけての、ある月夜。芝政景はついにその謀略を実行に移した。『清良記』などが伝える劇的な場面によれば、教忠が催した月見の宴の席で、油断したところを突かれ、彼はなすすべもなく捕らえられ、長年居城としてきた河後森城から追放されたという 2

この追放劇の背景には、河後森城の構造も関係していた可能性がある。発掘調査によれば、河後森城は丘陵の最高所に本郭を置き、そこから東西に伸びる尾根に沿って多数の曲輪が階段状に連なる、複雑な構造の山城であった 7 。主殿舎や台所、番小屋といった中枢機能は本郭に集中していたと推定されている 8 。芝政景のような、主君の傍近くに仕える「近習」が内部で手引きをすれば、たとえ堅城であっても、宴のような無防備な状況を狙って主君を孤立させ、城の中心部を制圧することは決して不可能ではなかっただろう。

こうして、土佐一条家の貴公子として生まれ、西園寺十五将の筆頭として栄華を誇った渡辺教忠は、最も信頼していたはずの家臣の裏切りによって、全ての地位と名誉を失い、歴史の闇へと消えていったのである。

第四章:その後の教忠と関係者の末路

居城を追われ、歴史の表舞台から姿を消した渡辺教忠。そして、彼を裏切った芝政景と、彼らを取り巻く四国の情勢は、その後めまぐるしく変化していく。この章では、物語の登場人物たちのその後の運命を追跡し、一つの時代の終わりを考察する。

第一節:歴史の闇に消えた若城主

河後森城を追放された後の渡辺教忠の消息は、残念ながら定かではない。史料には、ただ「暗殺されたとも、帰農したともいわれる」と、簡潔に記されているのみである 2

二つの説には、それぞれ一定の説得力がある。城を乗っ取った芝政景にとって、追放した旧主の存在は、自らの地位を脅かす潜在的な脅威であり続けたはずである。反旗を恐れて密かに教忠を亡き者にしたという「暗殺説」は、戦国の世の非情さを考えれば十分にあり得ることである。

一方で、全ての権力と所領を失い、名もなき一農民としてどこかで静かに生涯を終えたという「帰農説」もまた、乱世の無常を象徴する物語として、人々の想像力をかき立てる。愛媛県内に彼の墓や、その死を伝えるような伝説が残されていないか調査したが、現時点では特定に至るものは見つかっていない 25 。高貴な血筋に生まれ、一時は南予にその名を轟かせた「河後森の若城主」の最期は、歴史の深い闇に包まれたままである。

第二節:裏切り者の行く末

主君を追放し、河後森城主の座に収まった芝政景は、目論見通り長宗我部氏の配下となり、一時的にその支配を確立した 8 。しかし、彼の栄華は長くは続かなかった。

天正十三年(1585年)、天下統一を進める豊臣秀吉は、長宗我部元親の四国平定を認めず、大軍を派遣して「四国征伐」を開始した。圧倒的な物量の前に元親は降伏し、土佐一国のみを安堵される 15 。伊予国は小早川隆景の所領となり 27 、その後、宇和郡には戸田勝隆が新たな領主として入部した。

戸田勝隆は、豊臣政権の意向を受け、伊予の旧体制を一掃するための強硬策を断行した。彼は、南予の旧領主であった西園寺公広を謀殺し 13 、その支配体制を徹底的に破壊した。その過程で、長宗我部氏に通じて主君を裏切った芝政景もまた、その地位を安泰とすることはできなかった。彼は戸田勝隆によって河後森城から追放されたのである 7 。主君を裏切って手に入れた城から、新たな権力者によって追われるという結末は、まさに因果応報ともいえる皮肉なものであった。

芝一族の生存戦略

しかし、芝政景個人の追放は、芝一族の終わりを意味しなかった。ここに、渡辺教忠の「滅亡」の物語とは対照的な、もう一つの物語が存在する。

近年、渡辺教忠と芝政景の故地である愛媛県松野町において、芝家の子孫宅から膨大な古文書群が発見され、京都府立大学などの専門家による調査が進められている。この『芝家文書』と呼ばれる史料群は、芝一族が江戸時代を通じて松丸村の庄屋という地域の指導的立場にあり、近代には夭折の天才俳人・芝不器男を輩出する名家として存続していたことを明らかにした 28

この事実は、極めて重要な示唆を与えてくれる。芝政景の謀反と追放は、あくまで彼個人の政治的浮沈であり、芝一族そのものは、巧みに時代の変化に適応し、新たな支配体制の下で生き残ることに成功したのである。このことから、芝政景の「裏切り」は、短期的に見れば個人的な失敗(追放)に終わったが、一族の家(いえ)を存続させるという長期的な視点で見れば、結果的に成功した戦略であったと評価することすら可能である。

渡辺教忠が、血縁(一条家)と主従関係(西園寺家)という中世的な価値観の狭間で引き裂かれ、個人も家もろとも滅んでいったのとは対照的に、芝氏は主君への忠誠よりも「家の存続」という、より近世的な価値観を優先することで生き残った。この二者の鮮やかな対比は、戦国乱世における「正義」や「忠誠」の多面性と、中世から近世へと移行する時代の大きな価値観の転換点を、我々に鮮烈に示している。

終章:史料批判と渡辺教忠像の再構築

渡辺教忠の生涯を考察する上で、我々が依拠する史料、特に『清良記』の性格を正しく理解することは不可欠である。史料を批判的に検討することによって初めて、歴史の霧の中に立つ教忠の姿を、より正確に捉えることが可能となる。

第一節:主要史料『清良記』の解体

渡辺教忠の生涯、特に「月見の夜の追放劇」のような劇的なエピソードの多くは、伊予の武将・土居清良の一代記である『清良記』に依拠している。しかし、この『清良記』は、同時代に記録された一次史料ではない。近年の研究では、その成立は江戸時代に入った17世紀後半と考えられており、史実を元にしつつも、多くの脚色や創作を含む「軍記物語」としての性格が強いと指摘されている 30

著者は土居水也とされ、主人公である土居清良を英雄として理想化する意図が明確に見られる 30 。そのため、教忠の行動や人物像も、清良の活躍を引き立てるための文学的な演出が加えられている可能性を常に念頭に置いて解釈する必要がある。

また、『清良記』はその第七巻が『親民鑑月集』と題され、日本最古の農書として高く評価されてきたが、この農書部分も含めて、その成立年代や内容の信憑性については、研究者の間で長年議論が続いている 30 。このように、『清良記』は単純な歴史記録ではなく、軍記、伝記、農書といった複数の要素が混在する、極めて複雑な性格を持つ史料なのである。

第二節:結論―渡辺教忠という悲劇の再評価

本報告で詳述してきたように、渡辺教忠の生涯は、単に「裏切り者」や「不運な武将」という言葉で要約できるものではない。彼は、高貴な血縁と、仕えるべき主君との間で忠誠を引き裂かれ、さらには台頭する巨大勢力の狭間で、常に困難な選択を迫られ続けた、戦国時代の国人領主の典型的な悲劇を体現した人物であった。

彼の人生は、戦国という時代が内包するいくつもの構造的な問題を我々に示してくれる。それは、大勢力間の緩衝地帯に位置する国人層の脆弱性であり、同盟強化の手段であったはずの「戦略的養子縁組」という政治手法が孕む危険性であり、そして、絶対的なものではなくなりつつあった主従関係の流動性である。

渡辺教忠は、歴史の勝者ではなかった。彼の名は、織田信長や豊臣秀吉のような天下人の影に隠れ、ほとんど顧みられることはない。しかし、彼の引き裂かれた生涯は、時代の転換期に生きた一人の人間の苦悩と葛藤を、誰よりも深く映し出している。主家への忠誠、実家への情、そして自らの家の存続。そのいずれもが彼にとっては守るべき「義」であったが、戦国の奔流は、彼にその全てを両立させることを許さなかった。

彼の没落と、彼を裏切った家臣の一族がその後も繁栄を続けたという皮肉な結末は、中世的な価値観が崩壊し、近世的な秩序が形成されていく過渡期の日本の姿を象徴している。その意味において、渡辺教忠の悲劇は、戦国時代を理解する上で、我々に多くのことを問いかけ続ける、価値ある物語なのである。

引用文献

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  2. 渡辺教忠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%95%99%E5%BF%A0
  3. 一条房家とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%88%BF%E5%AE%B6
  4. 土佐一条氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%B0%8F
  5. 武士と公家の間】 4.土佐一条家の興亡 http://kinnekodo.web.fc2.com/link-4.pdf
  6. 土居 清良はどんな人? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%9C%9F%E5%B1%85+%E6%B8%85%E8%89%AF
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  26. 第390回:黒瀬城(伊予南西部に勢力を持った西園寺氏の本拠地であった) https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-415.html
  27. 1585年 – 86年 家康が秀吉に臣従 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1585/
  28. 愛媛県松野町教育委員会と協力して『芝家文書調査報告』を刊行しました。 https://kpu-his.jp/news/2124.html
  29. 令和4年 - 8月号 - 松野町 https://www.town.matsuno.ehime.jp/uploaded/attachment/4340.pdf
  30. 清良記(セイリョウキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E8%89%AF%E8%A8%98-86607
  31. 『清良記』の研究 - 思文閣 https://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/pamphlet/9784784215621.pdf
  32. 「清良記」「巻七」をめぐる農書研究(2): - AgriKnowledge https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010380092.pdf