最終更新日 2025-07-08

温井続宗

温井続宗と弘治の内乱:能登畠山氏滅亡への序曲

序論:乱世に翻弄された能登の将、温井続宗

温井続宗(ぬくい つぐむね)は、永正10年(1513年)に生を受け、戦国時代の能登国にその名を刻んだ武将である 1 。能登守護・畠山氏の家臣として、その生涯は父・温井総貞が築き上げた巨大な権勢と、その衝撃的な死によって引き起こされた「弘治の内乱」という激動の中にあった 1 。本報告書は、続宗を単なる主家への反逆者として断じるのではなく、巨大な権力を継承したがゆえに悲劇的な運命を辿らざるを得なかった人物として捉え、その生涯の軌跡と歴史的意義を深く考察するものである。

続宗が生きた16世紀中頃の能登畠山氏は、七尾城を拠点とし、一時は「畠山文化」と称されるほどの隆盛を誇った。しかし、名君と謳われた畠山義総が天文14年(1545年)に世を去ると、その権威は急速に陰りを見せ始める 2 。後を継いだ当主・畠山義続、そしてその子・義綱の時代には、家臣団内部の権力闘争が激化し、能登は下剋上の嵐が吹き荒れる地と化した 2 。特に、在地国人から成り上がった新興勢力の温井氏と、守護代を世襲してきた譜代の名門・遊佐氏との対立は、能登の政治情勢を常に揺るがす中心的な要因となっていた 5

温井続宗の行動原理を理解する上で、父・温井総貞の存在は決定的な意味を持つ。続宗の人生は、父が築いた権力の維持と、その非業の死に対する復讐に捧げられたと言っても過言ではない。したがって、彼の生涯を正確に描き出すためには、まず父・総貞の時代から説き起こし、続宗がその命運を賭して主導した「弘治の内乱」を、能登畠山氏の衰亡過程における決定的な転換点として位置づける必要がある。本報告は、一人の武将の生涯を通じて、戦国期の地方権力における主家と家臣の複雑な関係性、そして一つの名門大名が滅びゆく様相を多角的に解明することを目的とする。

第一章:権勢への道程 ― 温井総貞の台頭と畠山七人衆体制

温井続宗の生涯は、父・総貞が築いた権力の光と影の中にあった。続宗の行動を理解するためには、まず、一在地領主に過ぎなかった温井氏が、いかにして能登畠山氏の実権を掌握するに至ったか、その過程を詳細に検討する必要がある。

第一節:能登の雄、温井氏の出自と台頭

温井氏は、藤原北家利仁流を称し、能登国鳳至郡輪島(現在の石川県輪島市)を本拠とした在地領主、いわゆる国人であった 1 。その出自については、清和源氏足利氏の一族で、南北朝時代に活躍した桃井直常の後裔とする説も伝わっている 3

この温井氏を能登畠山家中随一の権門へと押し上げたのが、続宗の父である温井総貞(ふささだ)であった。総貞は、主君・畠山義総の治世下において、文芸、特に漢詩文や臨済禅に対する深い造詣を足掛かりに義総の寵愛を受け、政治の中枢へと進出した 9 。文化的な素養を政治的資本へと転換させる巧みさによって、彼は譜代の重臣たちを凌駕し、家中の筆頭重臣としての地位を確立するに至ったのである 3

第二節:権力闘争の激化と「畠山七人衆」

畠山氏の全盛期を築いた義総が天文14年(1545年)に亡くなると、能登の政治情勢は一変する。8代当主・畠山義続の時代になると、守護代の家柄である遊佐氏の当主・遊佐続光が再び台頭し、温井総貞との間で家中の権力を二分する熾烈な対立が始まった 5

この重臣間の深刻な対立は、ついに主君の権威をも揺るがす事態を招く。天文20年(1551年)、家臣団は内乱の責任を問い、当主・義続を強制的に隠居させ、その嫡男である幼少の義綱を新たな当主として擁立した 2 。そして、この政変を主導した温井総貞、遊佐続光、長続連ら7人の有力重臣によって、国政を合議で決定する「畠山七人衆」という集団指導体制が成立した 2 。これは、事実上、大名権力を形骸化させ、重臣たちが国政を壟断する体制であり、能登畠山氏の衰退を象徴する出来事であった 2

七人衆体制下でも、温井総貞と遊佐続光の対立は続いた。そして天文22年(1553年)、総貞はついに政敵である遊佐続光を能登から追放することに成功する 2 。これにより、総貞は名実ともに畠山家中における最高権力者の地位を手中に収め、「第二次畠山七人衆」と呼ばれる新たな体制を構築し、その権勢は頂点に達した 2

第三節:父の「武」としての続宗

温井続宗は、父・総貞が政略を駆使して権力の階段を駆け上っていく過程で、その「武」を担う極めて重要な役割を果たした。父が政治の表舞台で権謀術数を巡らす一方、続宗は軍事面でその権力基盤を支え、盤石なものにしたのである 1

特に、宿敵・遊佐氏との内乱(大槻一宮の合戦など)においては、続宗が温井方の軍事的中核として活躍したことが記録されている 3 。彼の武勇と指揮能力があったからこそ、総貞は遊佐氏を打倒し、家中最大の勢力を築き上げることができた。父が「政」、子が「武」を分担するこの体制は、温井氏の権力を揺るぎないものにした。

この関係性から浮かび上がるのは、続宗が自らの野心で行動したというよりも、父が築き上げた巨大な権力構造を維持・防衛する役割を運命づけられた「継承者」であったという側面である。彼のキャリアは、常に父・総貞の戦略の延長線上にあり、温井家の権益を守るための「装置」として機能していた。後の彼の反乱も、この「継承者」としての立場から理解する必要がある。それは単なる個人的な野心の発露ではなく、父から受け継いだ権力と一族の存続を守るための、いわば義務感と責任感に根差した行動だったのである。彼の悲劇は、まさにこの「継承」という宿命から始まっていた。

第二章:主君による誅殺 ― 弘治の内乱、勃発

温井総貞が権勢を極める一方で、その足元では新たな脅威が静かに育っていた。それは、彼らが傀儡として擁立したはずの若き主君、畠山義綱その人であった。

第一節:主君・畠山義綱の焦燥と決断

父・義続から家督を譲られた当初、若年の畠山義綱は、温井総貞を筆頭とする七人衆の意のままに動く存在でしかなかった 2 。しかし、成長するにつれて、総貞による「専横」的な振る舞いに強い不満を抱き、家臣に奪われた大名権力を自らの手に取り戻すことを強く志向するようになる 9 。これは、乱世を生きる戦国大名として、自らの領国を主体的に統治しようとする自然な欲求であった 16 。義綱にとって、温井総貞の存在は、大名としての自立を阻む最大の障壁と映っていたのである。

第二節:弘治元年(1555年)の凶事

弘治元年(1555年)、ついに義綱は行動を起こす。彼は、自らの近臣である飯川義宗らと共謀し、温井総貞の暗殺という大胆な計画を実行に移した 10

義綱は総貞を「連歌の会」と偽って飯川氏の邸宅に招き寄せ、その場で謀殺したのである 17 。この電撃的な凶事は、能登の政治情勢を根底から覆すものであった。温井氏の権力基盤は、その頂点に立つ総貞個人の力量に大きく依存していたため、彼の死は一族にとって致命的な打撃となった。

なお、一部の記録によれば、総貞の不穏な動きを事前に察知し、義綱に密告したのは、七人衆の同僚であった長続連であったとも伝えられている 17 。これが事実であるならば、重臣間の根深い亀裂が、義綱に総貞誅殺を決断させる最後の引き金となった可能性が高い。

第三節:続宗の決起と反乱軍の形成

父が主君の手によって非業の死を遂げたという報せは、温井続宗のもとに衝撃とともにもたらされた。彼は、義綱による温井一派への徹底的な粛清が始まることを予期し、即座に行動を開始する。嫡男の景隆を伴い、本拠地の輪島を脱出して隣国の加賀へと逃亡したのである 1

加賀国に身を寄せた続宗は、ただ潜伏するだけではなかった。彼は、叔父にあたる温井続基・綱貞や、かねてより温井氏と婚姻関係などで深く結びついていた三宅一族(三宅総広ら)を中心に、反義綱を掲げる勢力を結集させていった 1

父の仇を討ち、一日にして失われた権力と所領を奪還する。そして何より、温井一族の存亡を賭ける。続宗の胸中には、悲憤と決意が渦巻いていた。ここに、能登全土を数年間にわたって戦火に巻き込むことになる「弘治の内乱」の幕が切って落とされたのである。

第三章:能登を揺るがした大乱 ― 「弘治の内乱」の全貌

父・温井総貞の誅殺という衝撃的な事件をきっかけに、温井続宗が起こした反乱は「弘治の内乱」として知られ、約5年間にわたり能登国を二分する大乱へと発展した。これは単なる家臣の反乱に留まらず、能登畠山氏の歴史における重大な転換点となった。

第一節:反乱軍の陣容と戦略

温井続宗が率いた反乱軍は、周到な戦略のもとに組織されていた。それは、単なる私憤による武力蜂起ではなく、新たな政権樹立を目指す「政変」としての性格を色濃く帯びていた。この内乱は、畠山家内部の権力闘争、能登国内の地域間対立、そして周辺大国の思惑が絡み合う、極めて複合的な紛争であった。

反乱の正統性を確保するため、続宗は畠山一族の中から畠山晴俊を新たな当主として擁立した 1 。晴俊は、能登畠山氏が伝統的に越後の上杉氏と親密であったのに対し、甲斐の武田信玄と密かに通じるなど、以前から現当主・義綱に対抗する動きを見せていた人物であった 21 。彼を旗頭に据えることで、続宗は自らの挙兵を「君側の奸を討つ」正義の戦いとして位置づけようとしたのである 23

軍事的な中核を担ったのは、輪島を本拠とする温井一族と、能登半島東部に勢力を持つ三宅一族の連合軍であった 1 。さらに続宗は、父・総貞の代から築いてきた外交資産を最大限に活用し、強大な軍事力を有する加賀一向一揆を味方に引き入れた 17 。本願寺との深い繋がりは、温井氏にとって最大の強みであり、この連携によって反乱の規模は能登一国に留まらないものへと拡大した 24

このように、弘治の内乱は、能登国内の権力闘争が、上杉、武田、そして本願寺という外部勢力の代理戦争の様相を呈するという、多層的な構造を持っていた。温井続宗の反乱は、当時の北陸地方をめぐる地政学的なパワーゲームの中に位置づけられるべき事件なのである。

陣営

主要人物・一族

役割・背景

支援勢力

温井続宗方(反乱軍)

温井続宗

反乱の主導者。父・総貞の仇討ちと権力奪還を目指す。

加賀一向一揆

畠山晴俊

反乱軍が擁立した名目上の総大将。畠山一族。

武田信玄 (間接的)

温井続基、温井綱貞

続宗の叔父。温井一族の中核。

阿岸本誓寺

三宅総広

温井氏と縁戚関係にある有力国人。

神保総誠

畠山七人衆の一人。反乱に同調。

畠山義綱方(当主方)

畠山義綱

能登畠山氏当主。大名権力の回復を目指し、総貞を誅殺。

上杉謙信(長尾景虎)

飯川光誠

義綱の近臣。総貞暗殺の共謀者。

椎名宮千代 (越中)

長続連

畠山七人衆の一人。当初の動向は不明瞭だが、結果的に義綱方に与した。

六角氏 (外交的支援)

遊佐続光

総貞に追放されていたが、内乱勃発後に義綱によって呼び戻された。

八代俊盛

義綱方の武将。越中の拠点を守る。

第二節:内乱の推移(弘治元年~永禄元年)

弘治の内乱は、長期にわたる一進一退の攻防となった。以下にその主要な経過を時系列で示す。

年次(和暦/西暦)

温井続宗方(反乱軍)の動向

畠山義綱方(当主方)の動向

備考

弘治元年 (1555)

9月

挙兵。口能登を占領し、七尾城を圧迫 17

父・温井総貞を誅殺 17 。七尾城に籠城 17

内乱勃発。

弘治2年 (1556)

1月

木材を徴発し、七尾城の防御を強化 17

2月

飯川光誠を通じ、笠松新介の援軍を得る 17

9月

阿岸本誓寺を味方につける 17

反乱軍が宗教勢力との連携を強化。

年中

勝山城を本拠地とする 17

弘治3年 (1557)

1月

籠城に協力した布施長氏に知行を与える 17

義綱方の戦況がやや好転した可能性。

2月

遊佐続光を介し、上杉謙信に援軍を要請 17

謙信は信濃出兵中のため兵糧援助に留まる 17

6月

義綱方の越中・湯山城を攻略。八代俊盛を敗走させる 17

反乱軍の局地的な勝利。

7月

椎名氏の支援を受けた八代俊盛が七尾城に入城 17

永禄元年 (1558)

4月

六角氏を通じて本願寺に働きかけ、反乱軍への支援を弱体化させる 17

義綱方の外交戦略が功を奏す。

春頃

勝山城の戦いで敗北。温井続宗、畠山晴俊らが討死 17

勝山城を攻略し、反乱軍の中核を壊滅させる 17

内乱の大きな転換点。

7月

残党(温井綱貞ら)が再び能登へ侵攻 17

9月

義綱軍の山田左近助が温井方へ寝返る 17

永禄2年 (1559)

3月

一向一揆を率いて攻め込むが、長続連に撃退される 17

永禄3年 (1560)

初頭

温井氏の残党を能登から一掃 20

弘治の内乱、終結。

第三節:勝山城の陥落と続宗の最期

長期にわたる戦いの趨勢を決定づけたのは、永禄元年(1558年)春の出来事であった。畠山義綱方は、上杉氏や椎名氏の支援、そして巧みな外交戦略によって徐々に態勢を立て直し、ついに大々的な反攻作戦を開始した 17

義綱軍の目標は、反乱軍の本拠地である勝山城であった。この城をめぐる攻防戦が、弘治の内乱における天王山となった。詳細な戦闘経過は不明な点が多いものの、結果は義綱方の大勝利に終わった。この戦いで、反乱軍を名目上率いていた総大将の畠山晴俊、そして実質的な指導者であった温井続宗は、一族の三宅総広や同盟者の神保総誠らと共に、壮絶な討死を遂げたのである 1 。享年46。父・総貞が暗殺されてから3年、一族の再興と復讐を賭けた続宗の戦いは、彼の死をもって事実上、終焉を迎えた。

指導者層を一挙に失った反乱軍は完全に崩壊し、生き残った者たちは加賀へと敗走した 17 。その後も、続宗の叔父である温井綱貞らが散発的な抵抗を試みたが、もはや大勢を覆す力はなく、永禄3年(1560年)頃までには能登国内から完全に一掃された 20 。こうして、能登全土を5年もの間揺るがし続けた弘治の内乱は、当主・畠山義綱の完全勝利という形で幕を閉じたのであった。

第四章:残響と流転 ― 内乱後の能登と温井一族の行方

温井続宗の死と弘治の内乱の終結は、能登の歴史に新たな局面をもたらした。しかし、それは安定の始まりではなく、さらなる混乱と最終的な滅亡への序曲に過ぎなかった。

第一節:内乱が能登畠山氏に与えた影響

弘治の内乱における勝利は、畠山義綱に大きな政治的果実をもたらした。長年にわたり大名権力を脅かしてきた温井氏という最大勢力を排除したことで、義綱はついに念願であった大名専制支配を確立することに成功した 17 。畠山七人衆体制は名実ともに崩壊し、政治の実権は義綱と、彼を支えた飯川光誠ら近臣たちの手に握られた 16 。永禄3年(1560年)から永禄9年(1566年)までの約6年間は、能登畠山氏の末期において、比較的安定した時期であったと評価されている 16

第二節:「永禄九年の政変」と義綱の末路

しかし、義綱の勝利は、結果的に能登畠山氏の命運を縮める「諸刃の剣」であった。弘治の内乱で温井氏という巨大な権力を打倒した成功体験は、義綱を過信させた。彼は、さらなる大名権力の強化を目指し、専制的な支配を推し進めたが、その強権的な姿勢は、内乱で彼に味方したはずの他の重臣たち、すなわち長続連や遊佐続光らに強い警戒心を抱かせた。彼らは、「温井氏の次は自分たちが粛清されるのではないか」という危機感を共有するようになったのである 29

その結果、皮肉にも義綱の権力が頂点に達したかに見えた永禄9年(1566年)、今度は長続連と遊佐続光が中心となってクーデター(永禄九年の政変)を起こした。彼らは義綱・義続親子を能登から追放し、義綱の幼い嫡男・義慶を新たな当主として擁立したのである 2

温井続宗の反乱を鎮圧したことが、義綱を増長させ、他の重臣とのパワーバランスを見誤らせる原因となった。続宗の死は、巡り巡って主君自身の追放劇を引き起こし、能登畠山氏のさらなる弱体化と、最終的な滅亡へと繋がる伏線となったのである。

第三節:父の遺志を継ぐ者 ― 温井景隆の生涯

温井続宗の血脈は、彼の死後も能登の歴史に深く関わり続けた。父と共に加賀へ逃れた嫡男の温井景隆は、仇敵であった義綱が追放された後、能登への帰参を許された 3

景隆は、政治的に極めてしたたかな人物であった。彼は、祖父・総貞が築いた本願寺との強固なパイプを巧みに利用し、政治的な影響力を回復。再び畠山家の年寄衆に名を連ねるなど、見事な復活を遂げたのである 24

その後の上杉謙信による能登侵攻(七尾城の戦い)では、遊佐続光と共に上杉方に寝返り、かつて義綱方であった親織田派の長続連一族を滅ぼす側に回った 25 。しかし、謙信の死後は時勢を読み、織田方へ接近するなど、激動の情勢の中で生き残りを賭けた巧みな政治的駆け引きを展開した 24

最終的に景隆は、本能寺の変後の混乱に乗じて能登の奪回を企てたが、前田利家に仕える佐久間盛政に討たれ、その波乱に満ちた生涯を閉じた 15 。父・続宗の死から約24年、その息子もまた、権力闘争の渦中で命を落としたのである。

第四節:一族の拠点・天堂城

温井一族の栄枯盛衰を象徴する場所が、その本拠地であった天堂城である。石川県輪島市別所谷町に位置するこの城は、奥能登最大級の規模を誇る山城であった 33

弘治の内乱の際には、温井一族が敗北に備えて軍資金を城内に隠したという埋蔵金伝説も生まれ、後世に語り継がれている 26 。この城は、温井景隆が長連龍との戦いに敗れて越後へ逃れた際に長氏の手に渡り、温井氏による能登支配の終焉を象徴する場所となった 34 。現在、城跡は輪島市の史跡に指定され、往時の面影を静かに伝えている 34

結論:温井続宗 ― 悲劇の継承者として

温井続宗の生涯を総括するならば、それは父・温井総貞が築き上げた巨大な権力を継承し、それを守るために戦い、そして志半ばで散った「悲劇の継承者」の物語であったと評価できる。彼の行動は、個人的な野心の発露というよりも、一族の存亡と父から受け継いだ権益の維持という、継承者としての重い責任感に突き動かされたものであった。彼は、自ら望んだか否かにかかわらず、父が始めた権力闘争の最終幕を、その命をもって演じなければならなかったのである。

続宗が主導した弘治の内乱は、結果として失敗に終わった。しかし、この内乱が能登の歴史に与えた影響は計り知れない。この戦いは、能登畠山氏が抱える主君と家臣の間の深刻な内部矛盾を白日の下に晒し、当主・義綱による一時的な権力回復と、その反動としてのさらなる内紛(永禄九年の政変)を誘発した。この一連の動乱は、能登畠山氏の国力を著しく疲弊させ、上杉謙信に代表される外部勢力の介入を容易にし、最終的な滅亡への道を決定づけた。

温井続宗は、能登の歴史における主役ではなかったかもしれない。しかし、彼の起こした反乱とその死は、戦国時代の地方権力における主家と家臣の間の抜き差しならない緊張関係、そして一つの名門権力が内部から崩壊していく過程を象徴する、極めて重要な出来事であった。彼は、父の野心が生んだ巨大な時代の波に翻弄され、その46年の生涯をもって、能登畠山氏衰亡の歴史を体現した人物であったと言えるだろう。彼の墓所の所在は定かではないが 37 、その名は能登の戦国史に深く刻み込まれている。

引用文献

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