湯地定時は日向伊東家の忠臣。主家退去後も三納城で島津と戦う。耳川合戦で大友軍敗北し孤立。島津の策略で六野原にて奮戦の末、自害。滅びゆく主家への忠義を貫いた悲劇の武将。
戦国時代の日本列島は、数多の英雄たちが覇を競う華々しい舞台であったと同時に、歴史の片隅で名もなきまま散っていった無数の人々の悲劇に満ちていた。本報告書が光を当てるのは、そうした歴史の奔流に飲み込まれた一人の武将、湯地定時(ゆち さだとき)である。彼の名は、戦国史の主要な出来事を綴る書物では、ほとんど顧みられることがない。しかし、その生涯の最期は、滅びゆく主家への揺るぎない忠義を貫き通した、壮絶なものであった。
利用者が事前に把握している「伊東家臣。主家の日向退去後も、日向三納城に籠城して島津家と戦う。しかし耳川合戦で大友軍大敗。勢いに乗る島津勢に居城を囲まれ、自害して果てた」という簡潔な記述は、彼の生涯の核心を的確に捉えている 1 。だが、この数行の記録の裏には、日向国(現在の宮崎県)を舞台とした大名家の興亡、家臣たちの葛藤、そして一個の武士が自らの死に様をもって示した武家としての矜持が凝縮されている。本報告書は、この断片的な記録を出発点とし、関連する史料や現地の状況を丹念に調査・分析することで、湯地定時の人物像を立体的に再構築し、その忠義の実像と歴史的意義に迫ることを目的とする。
湯地定時の生涯を探求する上で、まず解決すべき極めて重要な課題が存在する。それは、同姓の著名な人物との混同である。歴史を調査する際、「湯地」という姓で検索を行うと、幕末から明治時代にかけて活躍した薩摩藩士であり、官僚でもあった湯地定基(ゆち さだもと)に関する情報が圧倒的に多く現れる 2 。しかし、本報告書の主題である戦国武将・湯地定時と、この湯地定基は、時代も出自も全く異なる別人である。
湯地定基(1843年 - 1928年)は、薩摩藩の奥医師の家に生まれ、勝海舟の私塾で学んだ後、藩の密命を受けてアメリカへ留学した俊才である 2 。留学先ではウィリアム・クラーク博士の指導を受け、農政学を修めた。帰国後は開拓使・内務官僚として明治政府に仕え、特に根室県令として北海道のジャガイモ普及に尽力したことから「いも判官」の愛称で知られるようになった 2 。また、彼の妹・静子は、日露戦争の英雄として名高い陸軍大将・乃木希典の妻であり、彼自身も貴族院勅選議員を務めるなど、明治の政財界に確固たる地位を築いた人物である 2 。
このように、湯地定基は明治という新しい時代の担い手として、豊富な記録と共にその名を歴史に刻んでいる。一方で、本報告書の主題である湯地定時は、戦国時代の地方豪族の盛衰の中で命を落とした一介の家臣に過ぎない。彼の記録は、地域の軍記物や合戦の記録の中に、断片的に見出されるのみである 1 。著名な同姓の人物の存在は、歴史に埋もれた人物の探求をより困難にする。湯地定時の物語は、いわば湯地定基という輝かしい名の影から、注意深く掘り起こさなければならない歴史なのである。この混同を明確に分離することこそ、忘れられた忠臣・湯地定時の実像に迫るための第一歩となる。
湯地定時の行動原理を理解するためには、彼が命を捧げた主家・伊東氏が日向国でどのような存在であったか、そしてなぜその権勢が崩壊に至ったのかを知る必要がある。彼の忠義は、伊東家の栄光と没落という大きな歴史の文脈の中に位置づけられる。
日向伊東氏は、その祖を鎌倉幕府の御家人・工藤祐経に持つと伝えられる名門である 6 。祐経が源頼朝より日向国の地頭職を与えられたことに始まり、一族は徐々に南九州に勢力を扶植していった。戦国時代に入ると、伊東義祐(いとう よしすけ)の代にその勢力は最盛期を迎える。義祐は巧みな戦略と武威をもって周辺の国人衆を次々と服属させ、日向国中部から南部にかけての広大な領域を支配下に置いた 6 。
その権勢の象徴が「伊東四十八城」と呼ばれる支城ネットワークである 8 。これは、本拠地である都於郡城(とのこおりじょう、現在の宮崎県西都市)を中心に、戦略的要衝に48の城砦を配置し、盤石の支配体制を構築したものである。湯地定時が後に籠城することになる三納城も、この四十八城の一つに数えられていた 5 。当時の伊東氏は、薩摩の島津氏や豊後の大友氏と並び、九州の覇権を争う有力な戦国大名の一角を占めていたのである。
伊東氏の強大な勢力を支えたのが、譜代の家臣団であった。湯地氏もまた、その一員として伊東家に仕えた武家の一つである。薩摩から日向にかけての一帯には、古くから多くの武士団が根を張っており、湯地氏もそうした在地領主の一族であったと考えられる 4 。
史料において、湯地定時は「湯地三河守(ゆち みかわのかみ)」と記されている 5 。「三河守」は朝廷が与える官途名であり、これを名乗ることを主君から許されていたということは、彼が家臣団の中で決して低い身分ではなく、一定の評価と地位を与えられた武将であったことを示唆している。彼の行動は、単なる一個人の忠誠心の発露というだけでなく、伊東家臣団の一員として、また湯地家という武家の当主としての責務と誇りに根差したものであったと推察される。彼が仕えた伊東家は、まさに栄華の頂点にあり、その家臣であること自体が誇りであった時代が確かに存在したのである。
栄華を極めた伊東家であったが、その権勢は驚くほど短期間で崩壊する。この劇的な没落劇、通称「伊東崩れ」こそが、湯地定時の運命を決定づける直接的な原因となった。
伊東家衰退の決定的な転換点となったのが、元亀3年(1572年)に起こった「木崎原の戦い」である。伊東義祐は、長年の宿敵である島津氏を打倒すべく、3000余の大軍を動員して島津領に侵攻した。しかし、兵力で圧倒的に劣る島津義弘の巧みな用兵の前に、伊東軍はまさかの大敗を喫する 6 。この一戦で、総大将の伊東祐安をはじめ、伊東四十八城の城主クラスの有力武将が数多く討ち死にし、伊東家の軍事的中核は壊滅的な打撃を受けた。この敗戦を境に、義祐の求心力は急速に低下し、家中の結束に深刻な亀裂が生じ始めた。
木崎原の勝利で勢いを得た島津義久は、天正4年(1576年)から本格的な日向侵攻を開始する 6 。高原城を皮切りに、伊東四十八城は次々と島津の手に落ちていった。この危機的状況にあって、かつての英主であった伊東義祐は奢侈に溺れ、有効な対策を講じることができなかったと伝えられる 6 。
さらに伊東家を追い詰めたのが、家臣団の相次ぐ離反であった。長年の支配に綻びが見えると、これまで伊東氏に従っていた国人領主や城主たちが、次々と島津方に寝返っていったのである。天正5年(1577年)、湯地定時が後に運命を共にする三納城においても、当時の城主であった飯田肥前守が島津軍との戦いの末に討ち死にするという悲劇が起きていた 5 。これは、湯地が籠城する以前から、三納城がすでに島津氏との熾烈な攻防の最前線であったことを物語っている。
天正5年(1577年)12月、もはや日向国内での体制維持は不可能と判断した伊東義祐は、一族と僅かな家臣を連れ、本拠地の都於郡城と佐土原城を放棄。縁戚関係にあった豊後の大友宗麟を頼って、日向を脱出するという苦渋の決断を下す 6 。これが世に言う「伊東崩れ」である。
この逃避行は、壮絶を極めた。島津方の追撃を避けるため、一行は米良山中から高千穂へと抜ける険しい山道を選んだが、季節は真冬。猛吹雪と飢え、そして土地の農民からの襲撃に苦しめられ、多くの者が命を落とした 6 。かつて日向に覇を唱えた大名が、僅かな供回りと共に故郷を追われるという悲惨な末路であった。
この時、全ての家臣が義祐に付き従ったわけではなかった。湯地定時をはじめとする一部の武将たちは、主君一行とは袂を分かち、日向の地に留まることを選んだ。彼らがなぜその決断を下したのか、その真意を記した史料はない。しかし、主君が去った絶望的な状況下で故国に踏みとどまったという事実そのものが、彼らの並々ならぬ覚悟を物語っている。この決断こそが、湯地定時を悲劇の舞台である三納城へと導く運命の分岐点となったのである。
主家が日向を去った後、残された家臣たちの前には、圧倒的な勢力を誇る島津氏との絶望的な戦いが待ち受けていた。湯地定時は、伊東家再興の最後の望みを賭け、三納城を拠点に壮絶な抵抗を開始する。
湯地定時らが最後の砦とした三納城は、現在の宮崎県西都市三納に位置する山城である 12 。九州山地から南に伸びる丘陵の先端、西側を三納川が流れる比高約40メートルの断崖上に築かれており、天然の要害をなしていた 5 。
城は南北に細長い尾根上に複数の曲輪を連ねる連郭式の構造を持ち、主郭は最も高い場所に置かれていた 12 。主郭と他の曲輪の間は、敵の侵攻を阻むための深い堀切によって分断されている 16 。1995年に行われた発掘調査では、主郭部から掘立柱建物跡や虎口(城の出入り口)の遺構が発見された 12 。さらに、輸入された陶磁器なども出土しており、この城が単なる臨時の砦ではなく、ある程度の期間にわたって領主クラスの人物が居住する、相応の機能と格式を備えた拠点であったことが裏付けられている 9 。この堅固な山城が、伊東家旧臣たちの最後の希望を託すに足る場所と見なされたのである。
三納城が伊東家旧臣にとって単なる物理的な拠点以上の意味を持っていたことは、その歴史的経緯から明らかである。この城は、忠義の試練の場、いわば「るつぼ」と化した。まず、伊東家が任命した正規の城主、飯田肥前守は、天正5年(1577年)にすでに島津軍と戦い、この地で命を落としていた 12 。この事実は、三納城が湯地定時の籠城以前から、伊東家のための犠牲が払われた場所であったことを示している。
次に、伊東義祐ら主君筋が日向を完全に放棄したことで、残された家臣たちは指導者を失い、自らの意志で行動せざるを得ない状況に置かれた 6 。そして、長倉祐政に率いられた旧臣たちは、本拠地・都於郡城の奪還という、ほとんど無謀ともいえる反攻作戦を試みて失敗する 5 。
湯地定時が率いることになった集団は、この失敗した蜂起の生き残りであった。つまり、三納城に集ったのは、予め配置された守備隊ではない。彼らは、主君と共に逃げることを拒み、さらに一度は玉砕覚悟の攻撃を仕掛けて生き延びた、最も頑強な忠誠心を持つ者たちが自然淘汰された結果の集団だったのである。したがって、三納城は彼らにとって、伊東家への純粋かつ絶望的な忠義を最後まで貫き通すための、最後の、そして悲劇的な舞台となったのである。
主君・伊東義祐が豊後に去った後も、日向の地には伊東家の再興を信じて疑わない家臣たちが数多く残っていた。彼らは、圧倒的な島津の軍事力の前に沈黙を強いられていたが、その胸中では反撃の機会を窺っていた。
天正6年(1578年)、沈黙を破って立ち上がったのが、伊東家譜代の重臣・長倉祐政であった 19 。彼は伊東氏の庶流にあたる名門の出身で、かつては島津方の武将を討ち取った功績により、主君・義祐から伊東姓を賜ったほどの武将であった 19 。主家が豊後に退去する際もそれに従ったが、伊東領回復の悲願を胸に、再び日向の地へ潜入したのである。
長倉祐政は、日向各地に潜伏していた伊東旧臣に密かに檄文を送り、一斉蜂起を促した 20 。これに呼応した旧臣たちは、綾城などを攻撃し、伊東家の旧本拠地である都於郡城に迫った 19 。この蜂起は、豊後の大友氏とも連携した動きであり、大友水軍が日向沿岸に出動するなど、大規模な反攻作戦となるはずであった 20 。
しかし、この決死の蜂起は、合図の連携ミスなどから島津方に早期に察知され、都於郡城を奪還する前に鎮圧されてしまう 5 。多くの将兵を失い、作戦は無残な失敗に終わった。
この都於郡城攻めで生き残った長倉祐政以下の残存兵力が、次なる拠点として退却し、集結したのが三納城であった 5 。この時、籠城軍の中核を担う武将として史料に名が見えるのが、湯地三河守(定時)、八代駿河守、佐土原摂津守といった面々である 5 。一度は敗れたとはいえ、彼らの士気は未だ衰えていなかった。三納城は、伊東家再興を賭けた最後の抵抗拠点として、歴史の表舞台にその姿を現すことになったのである。
三納城に立て籠もった湯地定時ら伊東旧臣たちの戦いは、当初、決して絶望的なものではなかった。彼らの胸には、巨大な援軍の到来という確かな希望があったからである。しかし、その希望は一つの戦いを境に、無残にも打ち砕かれることになる。
籠城当初、湯地定時らは島津軍の攻撃をよく凌いでいたと伝えられる 5 。三納城の堅固な地形を活かし、寡兵ながらも奮戦し、攻め寄せる島津軍を何度も撃退した。
彼らの士気を支えていたのは、二つの大きな希望であった。一つは、日向国内の他の拠点での友軍の健闘である。同時期、北方の石ノ城に籠城していた長倉祐政、山田宗昌ら伊東旧臣たちは、島津忠長率いる7000の島津軍の猛攻を耐え抜き、逆に総大将に重傷を負わせ、500名以上の死傷者を与えて撃退するという目覚ましい勝利を収めていた 13 。この報は、三納城の将兵たちにも大きな勇気を与えたに違いない。
そして、最大の希望は、主家・伊東氏を保護した豊後の大友宗麟が、遂に自ら大軍を率いて日向に南下してきたことであった 13 。その軍勢は3万とも4万とも号し、当時の九州では最大規模のものであった。大友軍は破竹の勢いで日向北部を制圧し、島津方の諸城を次々と攻略していった 13 。三納城に籠もる湯地らにとって、この大友軍の到来は、まさに乾天の慈雨であった。彼らの使命は、この巨大な援軍が島津軍主力を撃破するその時まで、三納城を断固として守り抜くこと。その一点にあったはずである。
天正6年(1578年)11月12日、伊東旧臣たちの運命を決定づける戦いが、高城川(通称:耳川)のほとりで勃発した 13 。高城を包囲する大友軍と、それを救援すべく駆けつけた島津軍主力が、遂に激突したのである。
この「耳川の戦い」は、戦国史に残る劇的な合戦となった。兵力では大友軍が島津軍を圧倒していたにもかかわらず、大友軍は総大将・大友宗麟が前線から離れた無鹿(むしか)に留まり、キリスト教の布教活動に傾倒するなど、指揮系統に著しい乱れが生じていた 13 。一方、島津軍は義久、義弘、家久ら兄弟が一体となり、周到な作戦のもとに兵を動かした。
合戦が始まると、大友軍の先鋒・田北鎮周らが功を焦って突出。これを島津軍得意の「釣り野伏せ」戦法で誘い込み、伏兵が一斉に襲いかかった 10 。側面と背後を突かれた大友軍は総崩れとなり、佐伯宗天、田北鎮周、斎藤鎮実といった歴戦の勇将たちが次々と討ち死にした。軍は完全に崩壊し、耳川を渡って逃げる兵士たちが多数溺死するほどの惨状を呈した 10 。
この耳川での歴史的な大敗は、三納城で固唾をのんで戦況を見守っていた湯地定時らにとって、単なる遠方の出来事ではなかった。それは、彼らの最後の希望を根こそぎ奪い去る、決定的な破局であった。この一戦により、彼らを救出するはずだった唯一の援軍は消滅した。それどころか、勝利に沸き、士気天を衝く島津軍の全戦力が、今や日向国内に残る伊東方の小さな抵抗拠点の掃討に、何の憂いもなく集中できる状況が生まれたのである。耳川での敗報が三納城にもたらされた瞬間、彼らの籠城戦は、戦略的な持久戦から、名誉のために死ぬか、屈辱のうちに降るかを選択するだけの、出口のない戦いへと変貌したのである。
援軍という最後の望みを絶たれ、三納城は日向の地に浮かぶ孤島となった。勢いに乗る島津軍の包囲網が、日増しに狭まっていく。湯地定時とその仲間たちに残された道は、もはや限られていた。
耳川の戦いで大友軍を打ち破った島津義久は、返す刀で日向国内の伊東方残党勢力の一掃に取り掛かった。三納城もその主要な標的とされたが、島津軍は力攻めという愚策は取らなかった。籠城兵の抵抗が頑強であることを見て取ると、島津軍は一度、城の包囲を解いて兵を引き、撤退するかのように見せかけた 5 。
これは、敵を城から誘い出し、有利な地形で待ち伏せして殲滅するという、島津氏が木崎原や耳川でも用いた得意の戦術「釣りのぶせ」であった。長期間の籠城で疲弊し、情報も限られていた城兵の心理を巧みに突いた、狡猾な策略であった。
島津軍の偽りの撤退を、好機と見た城兵は、勢い込んで城から打って出た。長きにわたる籠城戦の鬱憤を晴らすかのように、彼らは島津軍を追撃した。しかし、それは死への罠であった。
城兵たちが六野原(ろくのがはら)と呼ばれる地まで進出したところ、突如として周囲に潜んでいた島津軍の伏兵が鬨の声をあげて襲いかかった 12 。完全に包囲された籠城軍は、死に物狂いで奮戦したが、多勢に無勢であった。次々と仲間が倒れていく中、もはやこれまでと覚悟を決めた湯地定時は、敵の手にかかることを潔しとせず、自ら刃を腹に突き立てて果てた 1 。
ゲームのデータなどでは、彼の生年が1533年と設定されており、これが正しければ享年46であった 1 。湯地定時の自害をもって、三納城は落城。伊東家旧臣による日向での組織的な抵抗は、ここに完全に終焉を迎えた。彼らの遺体は、主家再興の夢と共に、六野原の地に無数に転がっていたと伝えられる。
湯地定時の生涯は、戦国という時代の非情さと、その中で人間が貫こうとした「義」の在り方を、我々に強く問いかける。彼の名は、天下人の系譜に連なることはない。しかし、その生き様と死に様は、歴史を動かす大きな力学の陰で、確かに存在した無数の人々の思いを代弁している。
湯地定時の行動を貫く最も重要な理念は、「忠義」である。彼が仕えた主君・伊東義祐は、最終的に本国を捨てて他国へ逃亡した。家臣にとって、主君が領地を放棄することは、自らの存在基盤を失うことに等しい。多くの者が新たな主を求めて島津に降るか、あるいは主君の後を追って豊後に赴く中、湯地定時は最も困難な道を選んだ。それは、主家が去った故国に踏みとどまり、伊東家の旗を最後まで掲げ続けるという選択であった。
耳川の戦いで最後の希望が絶たれた後も、彼は降伏を選ばなかった。彼の戦いは、もはや軍事的な勝利を目的とするものではなく、伊東家家臣としての誇りと意地、そして武士としての死に様を全うするためのものとなっていた。このような絶望的な状況下で見せた彼の徹底した抵抗は、戦国武士が理想とした「忠義」という価値観の、一つの究極的かつ悲劇的な発露として高く評価されるべきである。
戦国史は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった勝者たちの物語を中心に語られがちである。しかし、その華々しい歴史の陰には、湯地定時のように、大きな戦功を挙げることも、広大な領地を得ることもなく、ただ主家への純粋な忠誠心ゆえに命を散らしていった、数えきれないほどの武士たちが存在した。
彼らの物語は、多くの場合、地域の軍記物に数行記されるのみで、歴史の表舞台に登場することはない。湯地定時の生涯を、断片的な史料から丹念に掘り起こし、その行動の背景と意味を考察する作業は、こうした歴史に埋もれた人々の声に耳を傾け、彼らの生きた証を現代に伝えるという重要な意義を持つ。彼の物語は、敗者の側から見た戦国時代の一断面を、我々に鮮やかに見せてくれるのである。
湯地定時の生涯は、一個人の武勇や知略、そして忠誠心がいかに強固なものであろうとも、時代の大きなうねりの前には無力であることを示す、悲痛な一例である。島津氏の飛躍的な台頭と、それに伴う伊東氏・大友氏の衰退という、南九州における抗いがたい勢力図の変化が、彼の運命を決定づけた。
しかし、その抗いがたい運命の中で彼が見せた一徹なまでの忠義の姿こそが、彼を単なる歴史の敗者ではなく、後世に記憶されるべき「忠臣」として、その名を歴史に刻みつけている。湯地定時の物語は、勝敗や功利を超えた人間の尊厳と、滅びの美学を、静かに、しかし力強く我々に語りかけているのである。
湯地定時の運命を決定づけた天正5年から6年にかけての出来事は、極めて短期間に、そして相互に密接に関連しながら進行した。以下の年表は、伊東家の崩壊から三納城の落城に至るまでの、息もつかせぬ破局への道筋を時系列で示している。
年月 (天正) |
主要な出来事 |
湯地定時および三納城への影響 |
典拠 |
5年 (1577) |
島津軍の日向侵攻本格化。三納城主・飯田肥前守が島津軍との戦いで討ち死に。 |
三納城が島津の直接的脅威下に置かれ、城主を失う。 |
12 |
5年12月 |
伊東義祐、都於郡城を放棄し豊後へ退去(伊東崩れ)。 |
主家が日向を放棄。湯地定時ら伊東旧臣は日向に取り残され、独自の抵抗を余儀なくされる。 |
6 |
6年 (1578) |
長倉祐政ら伊東旧臣が蜂起。都於郡城奪還に失敗し、残存兵力が三納城へ退却・籠城。 |
三納城が伊東家抵抗勢力の最後の拠点となる。湯地定時は籠城軍の中核を担うことになった。 |
5 |
6年7月 |
石城合戦。日向の伊東旧臣が籠る石ノ城が島津軍を一度撃退。 |
籠城兵の士気が一時的に高揚し、大友軍の援護下での抵抗に希望を見出した可能性。 |
13 |
6年10月 |
大友宗麟の援軍、日向に南下し高城を包囲。 |
籠城する湯地らにとって、救援への期待が最高潮に達する。 |
13 |
6年11月12日 |
耳川の戦い 。大友軍が島津軍に歴史的大敗を喫し、壊滅。 |
決定的転換点 。援軍の望みが完全に絶たれ、三納城は完全に孤立無援の絶望的状況に陥る。 |
13 |
6年11月以降 |
勢いに乗る島津軍が三納城を包囲。偽りの撤退策により城兵を誘い出し、殲滅。 |
策略にはまり、湯地定時は奮戦の末に自害。三納城は落城し、伊東家の組織的抵抗は終焉する。 |
1 |