最終更新日 2025-08-06

源為朝

源為朝は平安末期の武将。九州で「鎮西八郎」と称され、保元の乱で活躍。伊豆諸島へ流され、琉球王家の祖となる伝説も。各地で武勇と仁徳の英雄として語り継がれる。
源為朝

鎮西八郎 源為朝 ― 史実と伝説の狭間に生きる英雄の実像

序章:武勇の巨星、源為朝

導入:二つの顔を持つ英雄

平安時代末期、院政期の動乱と武士の台頭という歴史の奔流の中に、ひときわ異彩を放つ武将がいた。その名を、源為朝という。彼の生涯は、二つの全く異なる顔を持つ。一つは、歴史の公式記録に刻まれた「保元の乱の敗者」としての顔。そしてもう一つは、後世の物語や伝説の中で語られる「空前絶後・剛勇無双のスーパーヒーロー」 1 としての顔である。

軍記物語の傑作『保元物語』は、彼を「生まれつきの乱暴者」 2 として描き、その手に負えない気性ゆえに父・為義によって九州へ追放されたと記す。しかし、彼が青春時代を過ごした九州や、配流先となった伊豆諸島に目を向けると、その人物像は一変する。「兵士を大事にした上、民衆を救い、なびかぬ草木もないほどであった」 2 と讃えられる、心優しき英雄としての為朝がそこにいる。この史実とされる姿と、各地の伝承に根付く姿との間の著しい乖離は、我々に根源的な問いを投げかける。源為朝とは、一体何者だったのか。

本報告書の射程

本報告書は、単なる為朝の伝記の再構成に留まるものではない。史実の検証(第一章、第二章)、軍記物語の文学的分析(第二章)、日本各地に散らばる地方伝承の解読(第一章、第三章)、琉球史における政治思想史的考察(第四章)、そして近世の江戸文化と民間信仰における受容(第五章)という、複数の学問領域を横断する多角的なアプローチを採用する。

この試みを通じて、源為朝という一人の人物を鏡として、中世から近世、さらには近代に至るまでの日本社会が、英雄という存在をいかに求め、いかに創造し、そして時としていかに利用してきたのか、その複雑でダイナミックな力学を解明することを最終的な目的とする。史実と伝説の狭間に立ち、時代を超えて人々の心を捉え続ける英雄の実像に、ここに迫る。

第一章:鎮西に吼える若き獅子――九州での雌伏と覇権

1-1. 源氏の異端児、その出自と異能

源為朝は、保延5年(1139年)、河内源氏の棟梁・源為義の八男として生を受けた 3 。彼が後世、伝説の淵源となる素質は、その出自以上に、生まれ持った異能の身体に見て取れる。『保元物語』によれば、その身長は七尺(約2メートル10センチ)を超え、容貌魁偉であったという 3 。さらに特筆すべきは、弓を支える左腕が、弦を引く右腕よりも四寸(約12センチ)も長かったという記述である 3 。これは、彼がまさに弓を引くために生まれてきた天性の射手であり、その武勇が人間を超えた領域にあることを物語る、英雄伝説の典型的な導入と言えよう。八人がかりでようやく引ける強弓を軽々と操ったという逸話は、彼の超人性を象徴している 5

1-2. 九州への追放と「鎮西八郎」の誕生

『保元物語』によれば、為朝はその剛気にして豪放な性格から、13歳の若さで父・為義に勘当され、九州へと追放される 3 。この出来事は、彼が中央政界の規範から逸脱し、辺境の地で独自の道を歩み始める物語の起点となった。

豊後国(現在の大分県)に下った為朝は、尾張権守家遠の後見を受けつつも、その枠に収まることなく、瞬く間にその武才を発揮する。薩摩国阿多郡を拠点とする有力豪族・阿多忠景の婿となり 3 、確固たる基盤を築くと、自ら「鎮西総追捕使(ちんぜいそうついぶし)」を称し、菊池氏や原田氏といった九州各地の豪族たちとの間に数十回にわたる合戦や城攻めを繰り広げた。そして、わずか3年のうちに九州一円を実力で平定したと伝えられる 3 。この圧倒的な武功により、彼は「鎮西八郎」の異名で呼ばれるようになる 4

しかし、この活動は中央の朝廷から見れば、公験(公的な許可証)なき私闘であり、既存の荘園秩序を乱す「乱暴狼藉」に他ならなかった。香椎宮の神人らによってその行いが朝廷に訴え出られ、出頭を命じる宣旨が下るが、為朝はこれに従わなかった 3 。彼の九州での覇権は、中央の権威を公然と無視する独立的な行動であった。だが、久寿2年(1155年)、自らの監督不行き届きを問われて父・為義が解官されたという報を聞くと、彼は一転して上洛を決意する。九州の強者28騎を率いて京の都へ向かうこの行動は、彼が単なる無法者ではなく、父を思う情を持つ人物であったことを示唆している 3

1-3. 九州各地に刻まれた英雄譚――武勇と仁徳の二重奏

為朝が九州で過ごした日々は、後世、数多くの英雄譚を生み出した。それらの伝説は、彼の超人的な武勇と、民を慈しむ仁徳という二つの側面から語られ、今なお各地にその痕跡を残している。

佐賀での活躍

佐賀県は、為朝伝説が特に色濃く残る地域である。武雄市の黒髪山には、角が七本ある大蛇を為朝が退治したという「黒髪山大蛇退治伝説」が伝わる 3 。為朝が退治の証として剥がした三枚の鱗があまりに重く、それを運んだ牛が力尽きて死んでしまった。為朝はこれを哀れんで手厚く葬り、その地が後に「牛津(うしづ)」の地名由来となったという 3 。これは、為朝が人知を超えた魔物を討伐する神話的英雄としての側面と、動物を慈しむ情の深さを同時に示す物語である。

また、上峰町の鎮西山は為朝の拠点であったとされ、麓の屋形原(やかたばる)に館を構えていたと伝わる 3 。この地には、彼の強さだけでなく、人間的な成長を物語る逸話が残る。ある宴席で弓の腕前を披露した為朝だったが、その矢を抜き取った老兵が、信じがたい力で城門へと投げ返した。人々は、この老兵は為朝の慢心を戒めるために現れた天狗の化身だと噂したという 3 。さらに、この山にある「五万ケ池(ごまがいけ)」は、為朝を攻めた敵の五万騎が彼の弓の威力によって一夜にして討たれたことに由来するとされ、その武勇のスケールの大きさを物語っている 3

福岡・大分での伝承

福岡県朝倉市には、為朝本人の墓のみならず、その母と愛馬の墓と伝わる石塔が存在する 3 。全国的にも珍しい母の墓の伝承は、英雄の人間的なルーツや情愛を想起させ、その人物像に深みを与えている。

為朝が幼少期を過ごしたとされる大分県大分市には、彼に由来する雄城(ゆうき)神社が鎮座し、霊山(りょうぜん)の山頂から放った矢が突き刺さったという「矢の石」が、大分雄城台高校の敷地内に現存している 3

これらの伝承は、為朝という英雄が、単なる物語上の存在ではなく、その土地の歴史やアイデンティティと不可分に結びついていることを示している。為朝の行為が地名の起源として語られる「地名由来説話」の形式を取ることで、伝説は人々の生活空間に具体的な場所として刻み込まれた。これにより、抽象的な物語は、地域共同体にとっての「生きた記憶」へと昇華され、世代を超えて語り継がれる強固な基盤を築いたのである。

為朝の九州時代は、彼の人物像が二つの異なる文脈で形成され始めた、まさにその原点であった。中央(京)の公式記録から見れば、彼は既存の支配体制を脅かす「反逆者」であった。しかし、地方豪族や民衆の視点から見れば、彼は中央の権威や旧来の権力構造を打破し、新たな秩序をもたらす「解放者」であり「英雄」と映った。この中央と地方の視点の著しい乖離こそが、源為朝という複雑で魅力的な英雄像を生み出す最初の土壌となったのである。

第二章:保元の乱――京での奮戦と源氏の悲劇

2-1. 乱の勃発と源氏一族の相克

保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御すると、かねてから燻っていた朝廷内の対立が一気に火を噴いた。寵愛する崇徳上皇を退け、その弟である後白河天皇を即位させた法皇の遺志は、皇位継承を巡る深刻な亀裂を生んだのである 7 。崇徳上皇は自らの皇子・重仁親王の即位を画策し、これに藤原摂関家の内紛で兄・忠通と対立していた左大臣・藤原頼長が加担。一方、後白河天皇方には、関白・藤原忠通と、法皇の側近であった信西(藤原通憲)がつき、武力衝突は避けられない情勢となった 8

この朝廷と摂関家の権力闘争は、武士団をも二分した。そして、それは源氏一族にとって、骨肉相食む悲劇の始まりを意味した。源氏の棟梁であった源為義は、九州から上洛した為朝をはじめとする息子たちの多くを率いて、長年の恩顧があった頼長に味方し、崇徳上皇の陣営に馳せ参じた。ところが、為義の嫡男であり、関東に強固な地盤を築いていた源義朝(後の頼朝の父)は、父との不和もあり、後白河天皇方についたのである 7 。父と子、そして兄弟が、京の都を舞台に敵味方として対峙するという、源氏一族にとって最も過酷な運命の幕が上がった。

2-2. 幻の夜襲策――若き軍略家の挫折

上皇方が拠点とした白河北殿(しらかわきたどの)で軍議が開かれた際、総大将の頼長はまず為義に意見を求めた。為義は、九州での実戦経験が豊富な八男・為朝を推挙する。進み出た為朝は、臆することなく戦況を分析し、極めて合理的かつ大胆な策を進言した。それは、兵力で劣る上皇方が勝利する唯一の道として、敵陣への「夜襲」を敢行することであった 8 。敵が油断している夜陰に乗じて火を放ち、混乱の中で後白河天皇と三種の神器を奪取すれば、戦わずして大勢は決する。これは、戦いの本質を見抜いた、武士ならではの現実的な戦術であった。

しかし、頼長はこの画期的な献策を「若気の至り」と一蹴する 8 。彼は公家社会の権威主義と伝統的な戦の作法に固執し、大和国・興福寺の強力な僧兵の援軍を待って正々堂々と戦うべきだと結論付けた。これを聞いた為朝は、上皇方の敗北を予見し、一人嘆息したと『保元物語』は記す。武士の現実的な戦術眼が、公家の権威によって踏みにじられたこの瞬間こそ、上皇方の敗因を決定づけたと言っても過言ではない。

2-3. 『保元物語』に描かれる無双の武勇

頼長の誤った判断により、上皇方がいたずらに時間を浪費する間に、天皇方は義朝の進言を受け入れて迅速に白河北殿を包囲し、戦闘の火蓋が切られた 8 。戦いが始まると、為朝の武勇は神がかり的な輝きを放つ。

彼は白河北殿の西門を守り、わずか28騎の手勢で、平清盛が率いる600余騎、そして兄・義朝が率いる250余騎という圧倒的な大軍を迎え撃った 8 。為朝の放つ矢は、長さ22センチものノミのような鏃(やじり)が付けられ、分厚い鎧を紙のように貫き、時には一矢で二、三人の敵兵をまとめて射殺すほどの凄まじい威力であった 6 。平清盛は、西門を守るのが為朝だと知るや怖気づき、早々に攻撃を諦めて退却したとさえ伝えられる 6

兄・義朝の軍勢との戦いは、さらに熾烈を極めた。義朝軍は為朝の強弓の前に50人以上の死者と80人以上の重傷者を出し、壊滅的な打撃を受けた 8 。義朝自身も、兜の鍬形(くわがた)を射抜かれ、あと一寸で命を落とすところであった 8 。『保元物語』は、為朝が兄を射殺す機会がありながら、肉親への情からあえて矢を逸らし、見逃したという場面を描いている 8 。これは、物語の作者が彼を単なる戦闘機械ではなく、非情な戦場にあってなお人間的な情や武士としての矜持を失わない、深みのある人物として描こうとした意図の表れである。

この『保元物語』における為朝の超人的な活躍は、同時代の史料で裏付けられるものではない。しかし、為朝を捕らえた平家貞に特別な恩賞が与えられたという記録 8 や、後年、源頼朝の御前で大庭景義が為朝を「吾朝無双の弓矢の達者」と評したという『吾妻鏡』の記述 8 は、彼が並外れた弓の名手であり、手強い武将であったという史実の核が存在したことを示唆している。物語の作者は、その史実の核を基に、文学的な想像力で大胆な脚色を加え、一騎当千の英雄像を創造したのである。

2-4. 敗戦と一族の末路

為朝一人の奮戦も虚しく、戦況は義朝が献策した火攻めによって一変する 8 。火に巻かれた白河北殿から上皇方は総崩れとなり、敗走。この乱戦の中、頼長は流れ矢を首に受けて致命傷を負い、間もなく絶命した 8

乱の後、勝者となった後白河天皇方による敗者への処断は、苛烈を極めた。父・為義は潜伏の末、出家して義朝に投降するが、許されることはなかった。義朝は、天皇の勅命であるとして、実の父の処刑を断行する 7 。さらに、為朝の兄である頼賢をはじめとする兄弟たちも次々と捕らえられ、斬首された 7 。源氏嫡流(義朝の家系)以外の為義一門は、この保元の乱によって事実上、壊滅的な打撃を受けたのである。この源氏一族内の凄惨な殺戮は、平治の乱、そして源平合戦へと続く、長きにわたる遺恨の源流となった。

『保元物語』は、為朝という存在を通じて、歴史の「もしも」を読者に提示する。もし彼の夜襲策が採用されていたならば、上皇方が勝利し、歴史は全く異なる様相を呈していたかもしれない。物語は、彼の類稀なる能力と先見の明を描くことで、上皇方の敗北が運命ではなく、指導者の判断ミスという「人災」であったことを強く示唆する。こうして為朝は、敗者の側にありながら、その実力において勝者を凌駕する「悲劇の英雄」として造形された。この物語こそが、読者の判官びいきを強く誘い、彼が後世、数多の伝説の主人公となる、その確固たる素地を形成したのである。

第三章:伊豆大島配流と伝説の増幅

3-1. 流罪と再起――絶望からの復活

保元の乱に敗れた為朝は、逃亡の末、近江国(現在の滋賀県)で捕縛された 3 。その比類なき武勇を惜しまれ、死罪は免れたものの、二度と弓を引くことができぬよう、腕の肘を外される(あるいは筋を切られる)という屈辱的な処置を受け、伊豆大島へと流罪に処された 3 。弓の達人にとって命とも言える腕の力を奪うこの処置は、英雄に与えられた試練として極めて象徴的である。

しかし、為朝の生命力は絶望の淵で尽きることはなかった。伊豆大島で傷が癒え、奇跡的に腕の力が回復すると、彼は再びその剛勇を発揮し始める。島の代官であった三郎大夫忠重の娘を娶って現地の有力者と結びつき 3 、その圧倒的な武力と統率力で、大島のみならず新島、神津島、三宅島、八丈島といった伊豆諸島を次々と平定していった。そして、それらの島々から朝廷へ納められるべき年貢を止めさせ、伊豆諸島を治める事実上の独立王国を築き上げたのである 3 。中央の権力から切り離された辺境の地で、為朝は再び王として君臨する英雄として復活を遂げた。

3-2. 壮絶なる最期と「武士の切腹」の誕生

為朝が伊豆諸島で勢力を拡大しているという報は、やがて京の都にも届いた。これを座視できぬと判断した朝廷は、伊豆国を所領とする工藤茂光(狩野茂光とも)に為朝追討の院宣を下した 4

嘉応2年(1170年)、工藤茂光率いる500騎、20艘の軍船が伊豆大島に押し寄せた。為朝はこれを迎え撃ち、最後まで超人的な武勇を見せたという。伝説によれば、彼は一本の矢で300人乗りの大船を射抜き、海中に沈めたとされる 6 。しかし、衆寡敵せず、最期の時を悟った為朝は、館の柱に寄りかかり、敵兵に向かって「我が腹を斬る様を、都への土産話とせよ」と叫び、自らの腹を十文字に切り裂いて絶命したと伝えられる。享年32歳であった 10

この為朝の自害は、日本史上、武士による最初の「切腹」であるとする説が存在し 10 、歴史的に極めて重要な意味を持つ。それは単なる敗北者の死ではない。敵に捕らえられるという最大の恥辱を潔しとせず、自らの意思と手で命を絶つことによって、武士としての名誉と尊厳を最後まで守り抜くという行為であった。彼の壮絶な最期は、後世の武士道における「責任の取り方」や「勇気を示す死の様式」としての切腹の理念の、まさに萌芽と見なすことができる 12

3-3. 伊豆諸島に花開く超人伝説

為朝の死後、彼の記憶は伊豆諸島の風土と深く結びつき、人間を超えた英雄、あるいは神としての伝説へと昇華されていった。大島、新島、八丈島など、彼が足跡を残したとされる島々には、為朝を祭神とする「為朝神社」が建立され、篤い信仰の対象となっている 15

さらに、伝説は血縁という具体的な形で地域社会に根を下ろした。大島の藤井家や新島の青沼家(旧土屋家)など、為朝が島の女性との間にもうけた子の末裔であると称する家系が、今日まで続いているのである 15

特に、伊豆諸島の南端に位置する八丈島では、為朝伝説は最も豊かで壮大なスケールを見せる 15 。もはや一人の武将の物語ではなく、国造り神話に登場する巨人のごとき活躍が語り継がれている。大弓で山を射抜いて道を開いたという「堀切(ほっきり)」の伝説 17 、巨大な岩を釣り針で引っ掛けて海に投げ入れ、八丈小島を創り出したという「為朝の釣針石」の物語 18 、そして官軍と戦う際に力強く踏ん張ったことで岩に残ったという「為朝の足跡」 18 。これらの伝説は、為朝が自然そのものを改変するほどの力を持った、神に近い存在として認識されていたことを示している。

為朝伝説が伊豆諸島という限定された地域内で、各島ごとに異なる様相を呈して発展したことは、非常に興味深い。以下の表は、その多様性を比較したものである。

伊豆諸島における源為朝伝説の比較

島名

主要な伝説の内容

子孫伝承の有無

関連する神社・史跡

関連する祭祀・儀礼

大島

代官の婿となる。追討軍と戦い自害(一説)。

有(藤井家) 15

為朝神社 15

為朝祭り、八幡神社例大祭 15

新島

土屋家の娘を娶り子をなす。

有(青沼家/旧土屋家) 15

為朝神社 15

為朝神社例祭(9月13日) 18

三宅島

滞在伝説はあるが、妻子の伝承が欠落。

15

袂石、打抜き岩 15

不明

八丈島

最も伝説が豊富。大蛇退治、堀切、釣針石、足跡など巨人伝説的。八丈小島で自害(一説)。

有(源家) 15

為朝神社(大賀郷)、為朝神社跡(八丈小島) 17

疱瘡治癒祈願の神像開帳 11

この比較から、為朝伝説が均一に伝播したのではなく、各島が置かれた地理的・文化的土壌によって、多様な「ローカル・バージョン」を生み出したことが明らかになる。大島や新島では、子孫の存在を核とした、比較的現実的な英雄譚が中心となっている。これに対し、為朝の「最終到達地」または「最期の地」という伝承と結びつきやすい最南端の八丈島では、伝説はより神秘的で壮大な「超人神話」へと変貌を遂げた。一方で、三宅島における中心的な物語(妻子伝承)の欠落は、為朝に敵対した村が廃村になったという現地の伝承 15 が、伝説の発展を阻害した可能性を示唆している。

このように、為朝伝説の伝播は、それを受容する側の地理的条件、歴史的背景、そして語り部たちの創造性によって大きく変容する、極めてダイナミックな文化的プロセスだったのである。

第四章:琉球への飛翔――王家の祖としての再生

4-1. 生存と漂着の物語――日琉同祖論の萌芽

伊豆大島での壮絶な自害は、源為朝の物語の終着点ではなかった。彼の並外れた生命力と英雄性は、死の運命さえも乗り越え、さらに南方の海へとその伝説の舞台を広げていく。伊豆大島で死なず、嵐に流されて南の「鬼ヶ島」へ、そして遥か南海の琉球(現在の沖縄県)へ漂着したという、壮大なスケールの生存伝説が生まれたのである 20

この驚くべき物語の源流は、16世紀の京都五山の禅僧たちの間にあったとされる 23 。当時、活発であった日本と琉球の間の禅僧の交流を通じて、この為朝渡来の物語が琉球にもたらされたと考えられている 23 。当初は特定の政治的意図を持たない、純粋な知的関心や、異境への憧憬から生まれた物語であった可能性が高い。

この伝説は、琉球の地に上陸すると、現地の地名と結びつくことで、より具体的なリアリティを獲得していった。為朝が漂着した際、「運を天に任せるほかない」と覚悟を決めたことからその港が「運天港(うんてんこう)」と呼ばれるようになり 22 、故郷へ帰る際にやむなく妻子を残し、妻が夫の帰りを「待った」ことからその地が「待港(まちみなと、現在の牧港)」となったという地名由来説話が語り継がれている 22 。これは九州の事例と同様に、英雄伝説が土地の記憶と一体化し、人々の心に深く根を下ろしていく過程を示している。

4-2. 『中山世鑑』と舜天王統――正史による伝説の公認

単なる民間伝承であった為朝の琉球渡来説は、17世紀半ばに決定的な転機を迎える。慶安3年(1650年)、琉球王国の摂政であった羽地朝秀(はねじちょうしゅう)が王命により、琉球初の正史である『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』を編纂したのである 26

羽地朝秀は、この国家の公式な歴史書の冒頭部分に、極めて重要な記述を盛り込んだ。それは、「琉球最初の王である舜天(しゅんてん)は、日本から渡来した源為朝が、琉球の有力者の妹との間にもうけた子である」という説であった 20 。この一節により、為朝伝説は単なる物語から、国家が公式に認める「歴史」へと格上げされることになった。この編纂にあたり、羽地は日本の『保元物語』や、浄土宗の僧・袋中が記した『琉球神道記』などを参照しており 24 、日本の文献情報が琉球の歴史認識の形成に直接的な影響を与えたことがわかる。

4-3. 伝説の政治的利用――薩摩支配下の琉球

羽地朝秀が為朝伝説を正史に採用した背景には、当時の琉球が置かれていた極めて厳しい政治状況があった。『中山世鑑』が編纂された17世紀半ばは、琉球が薩摩藩(島津氏)による侵攻(1609年)を受け、その実質的な支配下に置かれていた時代である 24

このような状況下で、羽地が為朝伝説を正史に組み込んだ最大の目的は、日本の強大な武家である源氏と琉球王家を血縁で結びつける「日琉同祖論」を確立することにあった 20 。当時の日本の支配者である徳川将軍家もまた源氏を称しており、琉球王家がその源氏の血を引くという物語は、極めて高度な政治的意味合いを帯びていた。

この物語は、薩摩による琉球支配を「同祖の国への介入」として正当化し、琉球の支配層が日本の幕藩体制の中で生き残るための、巧みな思想的基盤を構築するものであった 20 。為朝伝説は、琉球のアイデンティティを日本に接近させるための、洗練された政治的ツールとして戦略的に利用されたのである。

この一連の経緯は、一つの英雄物語が、時代の要請に応じてその意味合いを劇的に変え、政治的な道具として「再発明」されていく過程を鮮やかに示している。当初のロマンチックな英雄譚が、国家間の力関係を正当化するための政治神話へと変質したのだ。源為朝の琉球伝説は、英雄物語が持つ柔軟な可塑性と、それが為政者によっていかに強力なプロパガンダとなりうるかを示す、歴史学的に極めて重要な事例と言える。

しかし、これを単に日本側からの文化的な押し付けと見るのは一面的であろう。この歴史を編纂したのは、摂政・羽地朝秀という琉球側の人間であった 23 。これは、被支配者である琉球が、支配者(薩摩・日本)の文化や価値観を戦略的に取り込むことで、自らの地位を保全し、文化的な権威を維持しようとした「文化戦略」の一環と解釈できる。強大な隣国と対峙する中で、対立ではなく「同祖」という物語を選択することで、破滅的な衝突を避け、実利を得ようとした琉球エリート層の、したたかな生存戦略がそこには見て取れる。琉球は、為朝という日本の英雄を自らの歴史の始祖として組み込むことで、逆説的に自らの王権の正統性を補強しようとしたのである。

第五章:江戸の英雄譚と民間信仰――『椿説弓張月』と疱瘡神

5-1. 江戸のベストセラー『椿説弓張月』

源為朝の伝説は、江戸時代後期、泰平の世を謳歌する庶民文化の中で、新たな黄金期を迎える。その立役者となったのが、当代随一の読本作者・曲亭馬琴と、天才浮世絵師・葛飾北斎であった。二人の協業によって生み出された長編伝奇小説『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』は、文化4年(1807年)から刊行が始まり、江戸の読書界に一大旋風を巻き起こした 21

題名の「椿説」とは「珍しい説」を意味し、為朝が流された伊豆大島の椿と、彼の異名である「鎮西」をかけた言葉遊びであると同時に、この物語が史実から離れたフィクションであることを宣言するものであった 35 。馬琴は、『保元物語』を物語の骨格としつつ、九州での武勇伝、保元の乱での奮戦、伊豆大島からの脱出、そして琉球での内乱平定といった、各地に散らばる為朝の伝説を縦横無尽に織り込み、壮大なスケールで再構成した 35 。物語の中では、保元の乱で敗死した崇徳院の怨霊が天狗となって為朝の危機を救うなど 35 、奇想天外な要素がふんだんに盛り込まれ、読者を魅了した。

この作品は商業的に大成功を収め、『南総里見八犬伝』と並ぶ馬琴の代表作となった 37 。その人気は読本の世界に留まらず、歌舞伎や浄瑠璃の舞台で繰り返し上演され、歌川国芳や月岡芳年といった人気浮世絵師たちがこぞって錦絵の題材とした 21 。これは現代で言うところの「メディアミックス」であり、この強力なコンテンツを通じて、源為朝=悲劇の超人英雄というイメージは、江戸の庶民の間に決定的に定着した。それまで九州や伊豆、琉球といった特定の地域に根差していたローカルな為朝伝説が、『椿説弓張月』という物語の力によって全国区のナショナルな英雄へと昇華されたのである。

5-2. 疱瘡(天然痘)除けの守り神

江戸時代、為朝は物語のヒーローとしてだけでなく、もう一つの重要な顔を持っていた。それは、人々の現実的な苦しみを救う「守護神」としての顔である。

当時、疱瘡(天然痘)は致死率が2割から5割にも達する、最も恐れられた疫病であった 40 。この目に見えない恐怖に対し、人々は神仏に祈ることで救いを求めた。その中で、源為朝が疱瘡除けの神として篤い信仰を集めるようになる。その由来は、為朝が生きた時代に疱瘡が流行したにもかかわらず、彼自身は罹患しなかった、あるいは配流先の八丈島でその武威によって疱瘡神を追い払った、という伝説にあった 3

この伝説に基づき、為朝は疱瘡神を退ける絶大な力を持つ武神として信仰されるようになった 42 。江戸時代には、病除けの護符である「疱瘡絵(ほうそうえ)」が盛んに描かれたが、その代表的な図柄こそ、恐ろしい姿の疱瘡神を、為朝が強弓で威嚇し、退散させるというものであった 39 。疱瘡にかかった子どもの枕元にこの絵を飾り、その回復を祈願したのである。

なぜ数多の武将の中から為朝が選ばれたのか。その理由は、彼の持つ圧倒的な武勇、2メートルを超える人間離れした巨体 44 、そして彼自身が疫病に打ち勝ったという物語が、目に見えない病魔という得体の知れない恐怖に対し、具体的で頼もしい「守護者」のイメージを人々に与えたからであろう。病の象徴である「赤色」を好むとされる疱瘡神に対し、英雄の武威をもって対抗するという、一種の呪術的な思考がその信仰の背景にはあった 44

この信仰は、英雄伝説が民衆の生活の中に深く降りてきて、具体的なご利益をもたらす「実用的な信仰」へと変化したことを示している。保元の乱や琉球王家の祖といった壮大な物語は、庶民の日常生活からは遠いかもしれない。しかし、「我が子を病から守る」というテーマは、誰もが共感し、切実に祈願する対象となりうる。為朝伝説が持つ生命力の源泉は、その波瀾万丈な物語性だけでなく、人々の現実的な苦しみや願いを受け止める「器」としての機能にあった。彼は、物語のヒーローであると同時に、疫病という理不尽な災厄から家族を守ってくれる、身近で頼れる守護神でもあった。この二重性こそが、彼を時代を超えて愛される不滅の存在にしたのである。

結論:史実と伝説の狭間で生き続ける武将

本報告書で検証してきたように、源為朝という人物の実像は、決して単一ではない。史実の彼は、平安末期の動乱期に生きた、弓の扱いに長けた一人の武将であった。しかし、その類稀なる武勇と、若くして敗者となった悲劇的な生涯は、後世の人々の想像力を強く刺激し、時代と場所に応じて様々に姿を変える、壮大な伝説の種子となった。

為朝の伝説は、多層的な構造を持つ。

九州では、中央の権威に対する反骨精神と結びつき、新たな秩序を打ち立てる「地方の英雄」として語られた。

伊豆諸島では、中央から隔絶された辺境の地で王として君臨する「超人」、さらには自然を創造する「巨人神」へと姿を変えた。

琉球では、大国日本に隣接する小国の高度な政治的戦略の中で、国家の起源を飾る「王家の祖」という重要な役割を与えられた。

そして江戸では、成熟した大衆文化の消費対象として「伝奇小説のヒーロー」となり、同時に、疫病に苦しむ民衆の素朴な願いに応える「守護神」ともなった。

歴史の敗者でありながら、為朝がこれほどまでに多様で壮大な伝説の主人公となり得たのはなぜか。それは、彼の物語が、敗者への判官びいき、圧倒的な強者への憧れ、為政者の政治的意図、そして民衆の切実な願いといった、時代や地域を超えた人々の様々な思いを映し出す、完璧な「鏡」であったからに他ならない。

源為朝は、史実の人物としての生涯を嘉応2年(1170年)に終えた後、伝説の中で第二、第三の生を生き続けてきた。彼の物語は、歴史というものが単なる過去の事実の記録ではなく、いかに語り継がれ、変容し、そして現代にまで力強く影響を与え続けるかを示す、比類なきケーススタディである。鎮西八郎源為朝は、史実と伝説という広大な領域を自由自在に往還し、今なお我々の心に、その強弓から放たれる見えざる矢を放ち続ける、永遠の英雄なのである。

引用文献

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