溝口長友は信濃小笠原氏の家臣。武田信玄の侵攻に対し、主君・小笠原信定と共に鈴岡城で戦死。忠節を貫いた武将として後世に語り継がれた。
本報告書は、日本の戦国時代、信濃国(現在の長野県)に生きた一人の武将、溝口長友(みぞぐち ながとも)の生涯について、現存する史料を基に徹底的な調査を行い、その実像を多角的に明らかにすることを目的とする。利用者様から提示された「小笠原家臣、美作守と称す。嫡男・長勝とともに主家に仕え、活躍した。主君・長時が信濃を退去し、三好家を頼った際これに従う。72歳で戦死したという」という概要は、長友の人物像を理解する上で重要な出発点となる 1 。しかし、諸史料を横断的に精査する過程で、この簡潔な伝承にはいくつかの解釈の余地や、史実との間に検証を要する点が存在することが明らかになった。
本報告では、特に以下の二つの大きな論点を探求の核心に据える。第一に、長友が直接仕えた主君は誰であったのかという問題である。信濃守護であった小笠原惣領家の当主・小笠原長時(おがさわら ながとき)であったのか、それともその弟で伊那郡の鈴岡城主であった小笠原信定(おがさわら のぶさだ)であったのか。史料によって示唆される主君が異なっており、この点を解明することが、長友の具体的な動向と忠誠の対象を理解する上での鍵となる 2 。
第二に、その最期の時と場所に関する謎である。複数の史料が示す没年と、主君・長時の信濃退去の時期には時間的な齟齬が見られる 1 。伝承にある「都落ちに従い戦死した」という壮絶な最期は、文字通りの事実であったのか、あるいは一族の忠節を後世に伝えるために象徴的に形成された物語であったのか。この検証は、長友個人のみならず、戦国武士の「忠義」という価値観がどのように記憶され、語り継がれていったかを考察することにも繋がる。
これらの謎を解き明かす上で、長友の八男・溝口貞泰(みぞぐち さだやす)が編纂したとされる『溝口家記』は、極めて重要な史料群として位置づけられる 5 。これは単なる一族の記録に留まらず、武田氏によって一度は故郷を追われた小笠原家が、近世大名として再興を遂げる過程で、溝口一族がいかに忠節を尽くしたかを後世の主君に示すという、明確な意図を持って書かれた文書である可能性が高い。本報告は、この『溝口家記』の史料的性格を批判的に吟味しつつ、他の記録との比較検討を通じて、歴史の奔流の中に埋もれた一人の忠臣、溝口長友のより確度の高い生涯を再構築していくものである。
信濃国における溝口氏の歴史は、鎌倉時代にまで遡る。江戸時代に編纂された地誌『信濃史源考』によれば、溝口氏は清和源氏の名門、小笠原氏の支流であるとされる 2 。具体的には、小笠原政長の子孫である三郎氏長が、信濃国伊那郡溝口郷(現在の長野県伊那市長谷溝口周辺)を領有し、その地名を姓としたのが始まりと伝えられている 2 。この出自は、溝口氏が小笠原氏の家臣団の中でも、後から仕えた外様の家臣ではなく、一門に連なる譜代の重臣であったことを示唆している。その本貫の地とされる溝口郷には、現在も「溝口上ノ城」や「溝口下ノ城」といった城砦の伝承が残り、この地が中世における溝口氏の活動拠点であったことを物語っている 7 。
戦国時代の信濃国において、守護であった小笠原氏は必ずしも一枚岩の強固な支配体制を築いていたわけではなかった。府中の林城を本拠とする惣領家を中心に、伊那郡の松尾城や鈴岡城に拠点を置く分家が割拠し、時には互いに対立することもあった 8 。溝口氏は、伊那郡に基盤を持つ有力な国人として、特に小笠原惣領家が伊那方面に権威を及ぼす上での重要な支柱となっていたと推察される。
『溝口家記』には、小笠原氏に属した武将たちの家紋に関する記述があり、それによれば信濃溝口氏の家紋は「松笠菱に井桁」であったと記録されている 2 。これは、小笠原氏の代表的な家紋である「三階菱」とは意匠を異にする。分家や支流が本家の家紋に何らかの図案を加えたり、一部を変えたりして独自の家紋とすることは珍しくなく、「松笠菱に井桁」もまた、小笠原一門としての誇りを持ちつつも、溝口氏としての独自のアイデンティティを示すものであったと考えられる。
溝口長友の生涯を調査する上で、極めて重要な注意点がある。それは、戦国時代に「溝口」を名乗った氏族が、長友の属した信濃溝口氏の他にもう一つ存在したという事実である。それは、後に越後国新発田藩(現在の新潟県新発田市)の藩主として近世大名となった溝口秀勝(みぞぐち ひでかつ)の系統である。両者はしばしば混同されることがあるが、その出自も歴史的経緯も全く異なる。この二つの家を明確に区別し、その対照的な運命を比較することは、戦国という時代の武士の多様な生き方を理解する上で有益な視点を提供する。
新発田藩主となった溝口氏は、尾張国中島郡西溝口村(現在の愛知県稲沢市)の出身であり、清和源氏武田氏の流れを称していた 9 。その家紋も、信濃溝口氏とは異なる「掻摺菱(かいずりびし)」、あるいは「溝口菱」と呼ばれるものであった 2 。百科事典の記述においても、「信濃国小笠原氏家臣に1字違いの溝口長勝という人物がいるが、秀勝とは関係はない」と明確に区別されている 9 。
この二つの溝口氏の軌跡は、実に対照的である。本報告の主題である溝口長友・長勝親子に代表される信濃溝口氏は、主家である小笠原氏の没落と運命を共にし、最後まで忠節を貫いた。その生涯は、主君への滅私奉公という、中世から続く武士の理想像を体現しているかのようである。一方で、新発田溝口氏の祖である溝口秀勝は、はじめ丹羽長秀に仕え、織田信長にその才能を見出されて直臣となり、本能寺の変後は豊臣秀吉、関ヶ原の戦いでは徳川家康に属するというように、目まぐるしく変わる時代の潮流を的確に読み、時の実力者に仕えることで着実に地位を向上させ、ついに6万石の大名として家名を確立した 9 。これは、旧来の主従関係に縛られることなく、自らの実力と政治的判断によって乱世を生き抜く、近世へと向かう武士の現実的な処世術を象徴している。
したがって、溝口長友の生涯を考察することは、単に一人の武将の歴史を追うだけでなく、「忠節に殉じた武士」と「時流に適応し大名となった武士」という、同じ「溝口」の名を持つ二つの家の対照的な物語を浮き彫りにすることに繋がる。それは、滅びの美学と、生き残りの現実主義という、戦国時代の持つ二面性を深く理解するための一つの鍵となるであろう。
項目 |
信濃溝口氏(溝口長友の系統) |
新発田溝口氏(溝口秀勝の系統) |
出自(本貫地) |
信濃国伊那郡溝口郷 2 |
尾張国中島郡西溝口村 9 |
称した家系 |
清和源氏小笠原氏族 2 |
清和源氏武田氏流を称する 2 |
主要な主君の変遷 |
小笠原氏(信定、長時、貞慶) |
丹羽長秀 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 徳川家康 9 |
家紋 |
松笠菱に井桁 2 |
掻摺菱(溝口菱) 2 |
最終的な家の到達点 |
松本藩家臣として存続 6 |
越後新発田藩主(6万石→10万石) 10 |
代表的な人物 |
溝口長友、溝口長勝、溝口貞泰 |
溝口秀勝、溝口宣勝 |
溝口長友が生きた16世紀前半から中盤にかけての信濃国は、甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄(当時は晴信)による侵攻という未曾有の国難に直面していた。この動乱は、信濃守護であった小笠原氏の運命を大きく揺さぶり、その家臣であった溝口長友の生涯にも決定的な影響を与えた。以下の年表は、長友の生涯を、主家である小笠原氏の動向と、武田氏の侵攻という大きな歴史的文脈の中に位置づけるためのものである。
西暦(和暦) |
溝口一族の動向 |
小笠原一門の動向 |
武田・三好・織田等の動向 |
典拠 |
1483年(文明15年) |
溝口長友、生誕 |
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1 |
1512年(永正9年) |
嫡男・溝口長勝、生誕 |
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4 |
1521年(永正18年) |
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小笠原信定、生誕 |
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11 |
1534年(天文3年) |
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小笠原長棟、伊那の松尾小笠原氏を制圧。次男・信定を鈴岡城に置く |
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12 |
1539年(天文8年) |
八男・溝口貞泰、生誕 |
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4 |
1541年(天文10年) |
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小笠原長時、家督を継承 |
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13 |
1548年(天文17年) |
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塩尻峠の戦いで武田晴信に大敗 |
武田晴信、小笠原長時を破る |
2 |
1550年(天文19年) |
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長時、府中を失い、村上義清を頼る(野々宮合戦) |
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2 |
1551年(天文20年) |
溝口長友、没(異説) |
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4 |
1552年(天文21年) |
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長時、信濃を追われ越後へ逃れる |
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3 |
1554年(天文23年) |
溝口長友、没(72歳) 。鈴岡城の攻防戦で戦死か |
鈴岡城主・信定、武田軍に敗れ城を失う。後に京へ逃れる |
武田晴信、伊那郡に侵攻し鈴岡城を落とす |
1 |
1554年(天文23年) |
長勝、越後に使者を送り、長時を伊那の鈴岡城に迎えようとする |
長時、一旦鈴岡城に入るも、武田軍に追われ再び流浪 |
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12 |
1558年頃 |
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長時、三好長慶を頼り摂津芥川城に滞在 |
三好長慶、畿内で権勢を誇る |
3 |
1569年(永禄12年) |
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小笠原信定、三好方の客将として本圀寺の変に参戦し、討死 |
三好三人衆、足利義昭を襲撃(本圀寺の変) |
15 |
1582年(天正10年) |
貞泰、小笠原貞慶に従い旧領回復に尽力 |
貞慶(長時の子)、徳川家康の支援で深志城を回復 |
織田信長、甲州征伐で武田氏を滅ぼす。本能寺の変で死去 |
6 |
1608年(慶長13年) |
貞泰、『溝口家記』を編纂し、主君・小笠原秀政に献上 |
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6 |
溝口長友の主君が誰であったかという問いは、彼の生涯を理解する上で最初の関門となる。ゲームの列伝や一部の記録では、信濃守護・小笠原長時に仕えたと簡潔に記されている 1 。しかし、より詳細な系譜資料である『武家家伝』などを参照すると、「貞信の三男(系図上で)美作守長友は、小笠原長時の弟で伊那郡鈴岡城主であった小笠原信定に仕えた」と、より具体的に記されている 2 。
この一見矛盾する記述は、単なる情報の誤りとして片付けるべきではない。むしろ、戦国期における武士の主従関係が持つ多層性を反映したものと解釈するのが妥当である。当時の小笠原氏は、府中に本拠を置く長時を惣領とする一門であった。その惣領・長時は、伊那郡に勢力を張る分家の松尾小笠原氏に対抗し、また武田氏の南進に備えるため、実弟である信定を伊那郡の鈴岡城に配置した 8 。信定は、兄である惣領の権威を背景に、伊那方面における軍事・行政を統括する司令官としての役割を担っていたのである。
伊那郡溝口郷に本拠を置く溝口長友にとって、地理的にも、また軍事指揮系統の上でも、直接命令を受ける主君は鈴岡城主の信定であったと考えるのが自然である。しかし、それはあくまで小笠原惣領家という大きな枠組みの中での主従関係であった。したがって、長友の究極的な忠誠の対象は、一門の長である惣領・長時に向けられていた。
結論として、溝口長友は「小笠原惣領家」の家臣であり、その忠誠は惣領である長時に帰属していたが、日常的な軍役や政務における直接の主君は、伊那郡を管轄する信定であった、と理解すべきである。後世の伝承や記録が、より著名で象徴的な存在である惣領・長時の名に集約して「長時に仕えた」と記述したのは、複雑な主従関係を簡略化して語る、歴史叙述の一つの様式であったと推察される。
長友が活動した16世紀中頃の伊那谷は、府中の惣領家、松尾の分家、そして知久氏などの在地国人衆の思惑が複雑に絡み合う、緊張に満ちた地域であった。小笠原信定が城主を務めた鈴岡城は、天竜川の支流である毛賀沢川の谷を挟んで、対岸の松尾城とわずかな距離で対峙する、文字通りの最前線であった 17 。この二つの城は、小笠原一門の内紛の象徴であり、やがて来る武田氏の侵攻に対する防衛線でもあった。溝口長友は、この緊迫した状況下で、信定配下の有力武将として、その武勇と経験を発揮していたものと考えられる。
天文14年(1545年)頃から本格化した武田信玄の信濃侵攻は、国内の諸勢力を次々と飲み込んでいった。信濃守護・小笠原長時は、村上義清らと結んで抵抗を試みるも、天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いで決定的な大敗を喫する 2 。この敗戦を境に小笠原氏の威信は失墜し、これまで従っていた多くの国人領主たちが次々と武田方へと寝返っていった。しかし、そのような状況下にあっても、節を曲げずに長時に属し続けた家臣たちもいた。『溝口家記』などの記録によれば、二木一族、犬甘氏、平瀬氏らと共に、溝口氏も最後まで小笠原方として忠節を尽くしたとされる 2 。
溝口長友の最期については、「主君・長時の都落ちに従い、72歳で戦死した」という伝承が広く知られている 1 。この伝承の真偽を、史料を基に検証する。
まず、複数の史料が長友の享年を72歳としている 1 。生年が文明15年(1483年)であることから 1 、没年は天文23年(1554年)と算出される。一方で、異説として天文20年(1551年)没とする記録も存在する 4 。ここで注目すべきは、天文23年(1554年)という年が、信濃の歴史において極めて重要な出来事が起こった年であるという点である。この年、武田信玄は伊那郡への大攻勢をかけ、長友の直接の主君であった小笠原信定が守る鈴岡城を攻略し、陥落させている 14 。
この二つの事実、すなわち長友の没年(1554年)と鈴岡城の落城年(1554年)が完全に一致することは、偶然とは考え難い。ここに、長友の最期を解き明かす鍵がある。
伝承にある「都落ち」の主君、小笠原長時が信濃を追われて越後へ逃れたのは、天文21年(1552年)のことである 3 。もし長友がこの時に長時に従って信濃を離れていたとすれば、その2年後の天文23年(1554年)に、信濃国内の鈴岡城で戦死することはあり得ない。ここに、伝承と史実の間に明確な矛盾が生じる。
この矛盾を解消する、より蓋然性の高いシナリオは以下の通りである。溝口長友は、惣領である長時が越後へ落ち延びた後も、直接の主君である小笠原信定のもとに伊那郡に留まり続けた。そして天文23年(1554年)、武田信玄の圧倒的な軍勢が鈴岡城に押し寄せた際、72歳の老将は城兵と共に最後まで抵抗し、主君の城と運命を共にして壮絶な討死を遂げた。
では、「都落ちに従い戦死した」という伝承は、一体どこから生まれたのであろうか。これは、長友の死後に起こった複数の出来事が、後世に「忠臣・溝口長友」の物語として一つに統合され、象徴化された結果であると推察される。第一に、鈴岡城の落城後、城主であった小笠原信定は実際に京へ逃れ、同族である阿波の三好氏を頼って客将となっている 18 。第二に、長友の嫡男である溝口長勝は、信濃を追われ流浪していた惣領・長時に対し、伊那の地から援助を送り、その忠勤を賞されている 2 。
これらの事実、すなわち「主君(信定)の都落ち」と「息子(長勝)の亡命中の惣領への忠勤」という二つの要素が、時を経て混ざり合い、一族全体の忠節をその家長であった長友一人の英雄的な行動として集約させた物語、それが「主君・長時の都落ちに従い戦死」という伝承の正体ではないだろうか。これは、一族の名誉を高めるために、家譜や軍記物においてしばしば見られる物語化の手法である。溝口長友の真の最期は、華々しい都での戦いではなく、故郷信濃の城を守る、より壮絶で、しかし名誉ある戦死であった可能性が極めて高い。
溝口長友の死は、信濃溝口氏の終わりを意味しなかった。彼の息子たちは、父の遺志を継ぎ、苦難の時代を生き抜いて小笠原家への忠誠を貫いた。その活動は、一族の歴史を後世に伝える上で決定的な役割を果たした。
父・長友が鈴岡城で戦死したと見られる後、一族を率いたのは嫡男の溝口長勝(みぞぐち ながかつ)であった。彼は、父が直接仕えた信定だけでなく、小笠原惣領家への忠誠心も持ち続けていた。その証拠に、信濃を追われて村上義清のもとに身を寄せていた惣領・小笠原長時に対し、長勝は伊那の地から援助を施したと伝えられる 2 。この長勝の忠勤に対し、長時は深く感謝し、右馬助の官途と共に、「吉光の御脇指、小狐と申し御弓」を下賜したという逸話が残っている 2 。この出来事は、父・長友が信定に仕えつつも、溝口家全体としては惣領家への帰属意識を強く保持していたことを示す好例である。
溝口長友の息子たちの中で、後世に最も大きな影響を与えたのは八男の貞泰であった。彼は、兄たちとは世代が異なり、戦国時代の終わりと江戸時代の幕開けという、時代の転換期にその才覚を発揮した。
天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐によって武田氏が滅亡すると、信濃の旧領回復を目指す小笠原貞慶(長時の子)の家臣として、貞泰は中心的な役割を果たす 4 。同年7月、貞慶が30年ぶりに本拠地である深志城(後の松本城)を回復すると、貞泰はその側近として抜擢された。所領の配分を行う宛行(あてがい)や検地の役人を務めるなど、行政手腕を発揮する一方で、同年8月の日岐城攻撃では侍大将として出陣するなど、文武両面にわたって主家の再興に尽力した 6 。その活躍により、貞泰は「小笠原家中で最も信頼された」家臣の一人と評されるに至った 4 。
貞泰の最大の功績は、慶長13年(1608年)7月、主君・小笠原秀政(貞慶の子)に『溝口家記』を編纂し、献上したことである 6 。この書物の編纂には、単なる過去の記録整理に留まらない、深い意図があったと考えられる。
この時期は、関ヶ原の戦いを経て徳川の世が始まり、小笠原家も近世大名としての地位を固めつつある、まさに新しい秩序が形成される過程にあった。このような時代の転換点において、大名家の家臣団の序列や家格、由緒を公式に確定させることは極めて重要であった。『溝口家記』は、まさにその目的のために書かれたものと推察される。その内容は、溝口一族の出自や功績を記すだけでなく、小笠原家が最も苦しかった時代に、どの家が最後まで忠節を尽くし、どの家が武田方に寝返ったかといった、家臣団の動向を詳細に記録していた 2 。
したがって、『溝口家記』の編纂は、三つの側面を併せ持っていたと言える。第一に、戦国乱世を生き抜き、主家再興に多大な貢献をした溝口一族の功績を公式の記録として確定させ、家臣団内における自家の優位な地位を不動のものにするという 政治的意図 。第二に、父・長友や一族の忠義の物語を後世に伝え、家の名誉を永遠に顕彰するという 顕彰的意図 。そして第三に、小笠原家の正史の一部として、家臣団の構成や歴史を次代に正確に伝えるという 公的記録としての役割 である。今日我々が知る「忠臣・溝口長友」の英雄的なイメージは、まさしくこの息子・貞泰の著作によって決定的に形成され、後世へと語り継がれることになったのである。
溝口長友の生涯は、歴史がどのように記憶され、物語として形成されていくかを示す格好の事例である。史料から導き出される彼の実際の最期(鈴岡城での戦死)と、広く知られる伝承(主君の都落ちへの随行と戦死)との間には、明確な差異が存在する。この差異は、彼の息子・貞泰が編纂した『溝口家記』という史料の存在によって架橋される。貞泰は、新しい時代における一族の地位を確立するため、父・長友をはじめとする一族の「忠節」を記録し、強調する必要があった。その結果、長友の生涯は、小笠原家への忠誠を象徴する物語として再構成され、後世に伝えられた。彼の物語は、史実そのものというよりは、一族の名誉と誇りが凝縮された「記憶の結晶」と言うべきものである。
長友の人生は、戦国時代の地方武士が直面した過酷な現実を雄弁に物語っている。信濃守護という権威を持ちながらも内紛を繰り返す主家・小笠原氏。隣国から侵攻してくる武田信玄という抗いがたい強大な勢力。その中で、多くの同僚たちが次々と敵方に下っていく中、最後まで忠節を貫こうとする選択。そして、故郷の城を守っての落城と死。彼の生涯は、歴史の表舞台に立つ英雄たちの華々しい合戦の陰で、無数の名もなき武士たちが、自らの家と主君、そして土地のために生き、そして死んでいった戦国時代の縮図である。
本報告の冒頭で比較した、もう一つの「溝口氏」である新発田藩主家の存在は、戦国から近世への移行期における武士の生き方の多様性を示している。信濃溝口氏は、主家である小笠原氏と運命を共にし、その浮沈に自らの家の存亡を賭ける「運命共同体」としての道を選んだ。その結果、主家が再興された際には譜代の重臣として重んじられたが、それは主家の存続という、ある種の幸運に支えられたものであった。一方で、新発田溝口氏の祖・秀勝は、主君を次々と変えながらも、自らの実力と時流を読む能力を武器に立身出世し、ついには大名という地位を勝ち取った。どちらの生き方が優れているという問題ではない。溝口長友の生涯は、旧来の「忠節」という価値観が依然として強く生きていた一方で、新しい実力主義の価値観もまた台頭しつつあった、戦国という時代の複雑な様相を我々に示してくれるのである。
本報告書で展開した調査と分析に基づき、戦国武将・溝口長友の生涯について以下の結論を導き出す。
溝口長友は、文明15年(1483年)に、清和源氏小笠原氏の支流である信濃溝口氏に生を受けた武将である。彼は、伊那郡溝口郷を本拠とし、小笠原惣領家の家臣という立場にありながら、直接的には惣領・小笠原長時の弟である鈴岡城主・小笠原信定に仕え、武田氏の南進に対する伊那方面の防衛を担った。そして、天文23年(1554年)、武田信玄による伊那侵攻の際、主君・信定と共に鈴岡城に籠城し、城の陥落と運命を共にして72歳で壮烈な戦死を遂げた。これが、現存する複数の史料を突き合わせた結果、最も蓋然性の高い長友の実像である。
一般に流布している「主君・長時の都落ちに従い戦死した」という伝承は、史実そのものというよりは、長友の死後に起きた複数の出来事が、後世に一つの物語として集約・象徴化されたものと考えられる。すなわち、城主・信定の京への敗走や、嫡男・長勝が亡命中の惣領・長時を支援した忠勤といった一族全体の物語が、その家長である長友の生涯に投影された結果である。この英雄的な「忠臣・長友」像を決定的に形成したのは、主家再興の功臣となった八男・貞泰が、一族の功績を後世に伝え、その地位を盤石にするという明確な意図のもとに編纂した『溝口家記』であった。
歴史の表舞台に立つことの少ない一地方武将、溝口長友の生涯を丹念に追う作業は、我々に戦国時代のより深い理解をもたらす。それは、英雄たちの華々しい功績の陰で、無数の人々が自らの家と主君のために生き、時代の荒波に翻弄されながらも、それぞれの価値観に基づいて自らの死に場所を選んでいったという、戦国時代のもう一つのリアルな姿を教えてくれるからである。溝口長友の生涯は、武士の「忠節」という理念が、過酷な現実の中でどのように貫かれ、あるいは一族の誇りとして物語化され、後世へと継承されていったかを考察する上で、誠に貴重で示唆に富む事例であると言えよう。