猪苗代盛国
会津蘆名氏の重臣猪苗代盛国は、蘆名家内部の混乱に乗じ伊達政宗に内応。摺上原の戦いで伊達軍の先鋒を務め、蘆名氏滅亡に貢献。戦後、伊達家臣となるも知行を減らされ、その晩年は不明。

猪苗代盛国に関する調査報告
序章:猪苗代盛国という武将
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本報告書の目的と概要
本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて会津地方を中心に活動した武将、猪苗代盛国(いなわしろ もりくに)について、現存する資料に基づき、その出自、生涯、歴史的役割、そして彼を取り巻く環境を多角的に検証し、総合的な人物像を提示することを目的とする。猪苗代盛国は、会津の戦国大名蘆名氏の重臣でありながら、最終的には伊達政宗に内応し、蘆名氏滅亡の大きな要因の一つを作った人物として知られている。本報告書では、彼の行動の背景や動機、そしてその後の影響について深く考察する。 -
戦国時代の会津と猪苗代氏の位置づけ
当時の会津地方は、蘆名氏を盟主として複数の国人領主が割拠し、隣接する伊達氏、佐竹氏といった大勢力との間で複雑な外交・軍事関係が展開されていた。その中で猪苗代氏は、蘆名氏の支流でありながらも独立性の高い存在として、会津の歴史に深く関与してきた。猪苗代氏の居城である猪苗代城は、会津盆地と仙道(中通り)を結ぶ交通の要衝に位置し、戦略的にも極めて重要な拠点であった 1。
猪苗代氏が蘆名宗家に対して強い自立性を維持できた背景には、単に血縁的な近さ(支流であること)のみならず、この猪苗代城の地理的・戦略的重要性が大きく影響していたと考えられる。交通の要衝を掌握することは、物流や情報のコントロール、さらには軍事行動における地の利に繋がり、これが猪苗代氏に経済的・軍事的な基盤を与え、宗家からの完全な支配を困難にしていた一因と推察される。結果として、猪苗代氏は単なる家臣というよりも、半独立的な勢力としての性格を強めていったのであろう。
第一部:猪苗代盛国の出自と蘆名家臣時代
- 第一章:猪苗代氏の系譜と蘆名氏との関係史
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猪苗代氏の起源と三浦・蘆名一族
猪苗代氏は、桓武平氏三浦氏の流れを汲むとされる。鎌倉時代初期、源頼朝による奥州合戦の軍功により、三浦一族の佐原義連(さわら よしつら)が会津に所領を得た。その孫にあたる経連(つねつら)が猪苗代の地を領して猪苗代氏を称し、猪苗代城を築いたのが始まりと伝えられている 1。建久二年(1191年)の築城という説もある 1。
一方、会津の戦国大名である蘆名氏もまた、佐原義連の子・盛連の四男である光盛を祖とする同族であり、猪苗代氏は蘆名氏の支流にあたる家柄であった 4。
猪苗代氏と蘆名氏が共通の祖先を持つ同族であるという事実は、両者の関係を複雑なものにした要因の一つと考えられる。主従関係にありながらも、潜在的なライバル意識や、宗家の権威に対する反発心が生まれやすい土壌があったのではないだろうか。特に、猪苗代氏が戦略的要地である猪苗代城を拠点としていたことは、この緊張関係をさらに増幅させた可能性がある。同族でありながら敵対するという行動は、単なる主従間の反乱とは異なる背景を示唆しており、宗家に対する分家の自立希求や、かつての同格意識が影響した可能性が考えられる。 -
蘆名家における猪苗代氏の立場と役割の変遷
猪苗代氏は代々蘆名氏の重臣として仕えたが、その一方で強い自立傾向を持ち、時には蘆名宗家に対して反旗を翻すこともあった 4。この主家への反逆と従属を繰り返す関係性は、盛国の時代に至るまで継続していた。蘆名氏が蘆名盛氏の時代に最盛期を迎えた際も、猪苗代氏をはじめとする家臣団の統制には苦慮していたと記録されている 5。
- 第二章:盛国の登場とその時代背景
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盛国の生い立ちと元服(父に関する諸説を含む)
猪苗代盛国は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活動した武将である 4。正確な生没年は不明であるが、猪苗代氏の12代当主とされる 4。
盛国の父については、蘆名盛詮の次男である猪苗代盛清(もりきよ)とする説と、天文十年(1541年)に蘆名氏に対して謀反を起こした猪苗代盛頼(もりより)とする説が存在する 4。
盛国は天文二十年(1551年)11月24日、元服に際し、当時の蘆名家当主であった蘆名盛氏から偏諱(「盛」の字)を与えられ、「盛国」と称したことが『会津旧事雑考』に記されている 4。このことは、盛国が当初は蘆名氏の家臣として順当な道を歩み始めたことを示唆している。
盛国の父に関して二つの説が存在することは、当時の猪苗代氏内部、あるいは蘆名氏との関係における複雑な事情を反映している可能性がある。盛頼が謀反人であったという説は、猪苗代氏の反抗的な性格を象徴し、盛国が後に蘆名氏を裏切る伏線とも解釈できる。一方、盛清が蘆名宗家の一員(蘆名盛詮の次男)であるならば、猪苗代氏はより宗家と近い血縁関係にあったことになり、その後の裏切りが一層劇的なものとなる。この情報の不確かさ自体が、当時の記録の散逸や、後世の編纂における何らかの意図を示唆しているのかもしれない。どちらの説が正しいかによって、盛国の人物像や行動原理の解釈が大きく左右されるため、この不確定性は重要な論点となる。 -
当時の会津情勢と蘆名家の状況
盛国が活動した時期は、蘆名氏の勢力に陰りが見え始め、伊達政宗が急速に台頭してきた時期と重なる。蘆名家内部では、当主蘆名盛隆の暗殺やその後継者である亀若丸の夭逝など、後継者問題が深刻化し、家臣団の離反も起こるなど、不安定な要素を抱えていた 5。
- 第三章:蘆名家臣としての盛国
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猪苗代城主としての統治
盛国は会津・猪苗代城主であった 6。前述の通り、猪苗代城は戦略的要衝であり、その城主である盛国は蘆名家にとって軍事・経済の両面で重要な存在であった。 -
嫡男・盛胤との確執とその背景
盛国は家督を嫡男である盛胤(もりたね)に譲った後、後妻の言に影響され、盛胤を廃して猪苗代城を奪還し、父子で争ったとされる 6。この猪苗代家内部の対立は、天正十六年(1588年)の出来事とされ、盛国が伊達政宗に内応する前年のことである 10。
この父子間の内紛は、猪苗代家の領主権の不安定化を招き、外部勢力である伊達政宗の介入を容易にした可能性がある。盛国が実力で盛胤から城を奪ったという行動は、彼自身の権力への執着を示すと同時に、家中の分裂を招き、結果として蘆名家への裏切りへと繋がる土壌を作ったのではないか。自身の立場を強化するため、あるいは対立する盛胤に対抗するために、伊達政宗という強力な後ろ盾を求めたという解釈も成り立つ。
第二部:摺上原の戦いと盛国の決断
- 第一章:蘆名家の衰退と伊達政宗の台頭
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蘆名家内部の混乱と後継者問題
蘆名盛氏の死後、蘆名家は当主の相次ぐ不幸に見舞われた。蘆名盛隆が家臣に暗殺され、その子である亀若丸もわずか3歳で夭逝した 5。これにより蘆名家は深刻な後継者問題に直面し、最終的に常陸の佐竹氏から義広を養子として迎えた。しかし、この養子縁組が譜代の家臣たちの不満を招き、家中の結束を一層弱める結果となった可能性がある 5。実際に、「義広がよそ者だったから」という理由で家臣たちが一致団結しなかったという見解も存在する 11。このような蘆名家内部の混乱は、隣国で勢力を急拡大させていた伊達政宗にとって、会津攻略の絶好の機会となった 8。 -
伊達政宗の勢力拡大と会津への野心
伊達政宗は、父・輝宗から家督を相続して以降、積極的な領土拡大策を推し進め、周辺の諸勢力を次々と屈服させて南奥羽の覇権確立を目指していた 12。弱体化しつつあった蘆名氏は、政宗にとって会津を手中に収めるための最大の標的の一つであった。
- 第二章:伊達政宗への内応
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内応に至る経緯と動機(諸説の検討)
天正十七年(1589年)、摺上原の戦いの直前、猪苗代盛国は主君である蘆名義広を裏切り、伊達政宗に内応した 4。
盛国の内応に至った動機については、複数の要因が考えられる。第一に、当主である蘆名義広に対する不満である。義広が佐竹氏からの養子であり、蘆名家の譜代家臣との間に軋轢が生じていたことは想像に難くない 9。第二に、内部対立や後継者問題で混乱する蘆名氏の将来性に見切りをつけ、当時破竹の勢いであった伊達政宗に味方することで、自家の存続を図ろうとしたという現実的な判断があった可能性である。第三に、伊達政宗からの積極的な調略工作である。伊達成実の家臣である羽根田直景を通じて、政宗と通じたとされる史料が存在する 6。政宗自身も盛国への働きかけを重視しており、使者を派遣して馬や着物を贈るなどしていた記録もある 19。そして第四に、前述した嫡男・盛胤との対立といった猪苗代家内部の事情が、外部勢力との連携を模索する一因となった可能性も否定できない 6。
これらの要因を鑑みると、盛国の内応は単一の理由によるものではなく、蘆名家の構造的弱点、伊達政宗の巧みな外交戦略、そして盛国自身の個人的な野心や家中の事情が複雑に絡み合った結果と捉えるのが妥当であろう。戦国時代の武将にとって、主家を裏切るという行為は必ずしも絶対悪ではなく、家名存続のためには現実的な選択肢の一つであった。特に、蘆名義広が「よそ者」であったという点は、譜代家臣である盛国にとって、忠誠を捧げる対象としての魅力に欠けていた可能性を示唆する。 -
人質提出と伊達方への恭順
盛国は内応の証として、次男である宗国(当時の名は亀丸、あるいは松王丸)を伊達政宗のもとへ人質として差し出した 4。これにより、盛国は伊達方への恭順の意を明確に示したのである。
- 第三章:摺上原の戦いにおける盛国の役割
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猪苗代城の戦略的価値と伊達軍への提供
猪苗代盛国の内応により、伊達政宗は戦略的要衝である猪苗代城を戦闘を経ずに手に入れることができた。猪苗代城は伊達軍の会津攻略における最前線基地となり 1、これにより政宗は蘆名氏の本拠地である黒川城へ直接迫ることが可能になった 14。 -
戦闘における具体的な動向と戦功
天正十七年(1589年)6月5日に行われた摺上原の戦いにおいて、猪苗代盛国は伊達軍の先鋒として奮戦したと伝えられている 6。
さらに、蘆名軍が敗走する際には、日橋川に架かる橋を落として追撃を助け、蘆名勢の壊滅に大きく貢献したとされる 14。この行為は、盛国の蘆名氏への訣別の意思を明確に示すものであり、彼の決断が後戻りできないものであったこと、そして伊達政宗からの信頼を得ようとする強い意志の表れと考えられる。これは、戦国時代の裏切りにおいて、新たな主君への忠誠を示すための常套手段の一つでもあった。盛国が単に日和見的に寝返ったのではなく、積極的に伊達軍の勝利に貢献しようとした姿勢がうかがえ、これにより伊達政宗からの評価を高め、戦後の処遇を有利にしようとしたと考えられる。
第三部:伊達政宗配下としての猪苗代盛国
- 第一章:伊達家における処遇と地位
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摺上原の戦功に対する評価と加増
摺上原の戦いにおける猪苗代盛国の功績は伊達政宗に高く評価され、猪苗代近辺において500貫文の地を加増された 4。 -
準一門としての待遇
さらに盛国は、伊達氏の準一門(一家に準じる家格)に列せられた 4。これは、外様の家臣でありながらも極めて高い待遇であり、政宗の盛国への評価の高さを示すものである。
政宗が盛国を準一門という高い地位で遇したのは、彼の功績を評価するとともに、他の会津の国人衆への示威と懐柔策の一環であった可能性も考えられる。しかしながら、後に盛国の知行が削減された事実は、伊達家における外様家臣の立場が必ずしも盤石ではなかったこと、あるいは豊臣政権による奥州仕置に伴う伊達家自体の減封 17 や、仙台藩体制の確立に伴う知行再編の中で、盛国のような外様出身の功臣の知行が見直された可能性を示唆している。
- 第二章:会津退去と新たな知行
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伊達政宗の移封と盛国の動向
摺上原の戦いの後、伊達政宗は会津黒川城に入り、会津地方を支配下に置いた。しかし、豊臣秀吉による奥州仕置の結果、政宗は会津を召し上げられ、陸奥国岩出山へ移封されることとなった。これに伴い、猪苗代盛国も政宗に従って会津を去った 4。これにより、猪苗代氏による約400年にわたる猪苗代地方の支配は終焉を迎えた 15。 -
岩井郡東山における知行と生活
伊達政宗の移封に伴い、盛国は岩井郡東山(現在の岩手県一関市東山町)において1000石の知行を与えられた 4。
- 第三章:晩年と知行削減
- 知行削減の時期と理由に関する考察 後に盛国の知行は半分(500石)に削られたとされるが 4 、その具体的な時期や理由については、提供された資料からは明確に読み取ることができない。考えられる要因としては、伊達家全体の財政事情の悪化、奥州仕置やその後の検地による影響、あるいは盛国自身の何らかの失態などが推測されるが、いずれも確証はない。伊達政宗自身が豊臣秀吉から減封処分を受けた記録はあるものの 17 、これが直接盛国の減封に繋がったかどうかは不明である。盛国の晩年の具体的な活動や没年に関する記録は、提供された資料の中には見当たらなかった。
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第四章:猪苗代盛国の子孫たち
猪苗代盛国の決断は、彼の子孫たちの運命にも大きな影響を与えた。以下に主要な子女とその後の家系について記述する。
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嫡男・盛胤の生涯と伝承
猪苗代盛国の嫡男であった猪苗代盛胤は、父・盛国が伊達方に寝返った後も蘆名方に留まり、摺上原の戦いでは伊達軍(父の軍勢も含む)と戦い負傷したと伝えられている 21。この父子の敵味方としての対峙は、戦国時代の非情さと、家が分裂していく様を象徴する出来事と言える。
蘆名氏滅亡後、盛胤は新たな主君に仕えることなく、猪苗代の旧領に近い内野村(現在の福島県耶麻郡猪苗代町内野)で生涯を終えた 24。寛永十八年(1641年)11月20日に77歳で死去したとされ 25、その墓所は猪苗代町内野に現存し、また、盛胤の遺徳を偲んで建立された五輪塔も同町五輪原の国立磐梯青少年交流の家敷地内にある 24。
盛胤が父と袂を分かち蘆名方についたことは、戦国武将の忠義のあり方が一様ではなかったことを示している。父・盛国が新たな主君(伊達政宗)に活路を見出したのに対し、盛胤は旧主(蘆名氏)への義理や、あるいは父への反発から異なる道を選んだ可能性がある。彼のその後の隠遁生活は、戦国の動乱に翻弄された末の諦観か、あるいは武士としての矜持の表れか、解釈が分かれるところである。 -
次男・宗国(越後宗国)の伊達家仕官とその後の家系
盛国の次男は、初め松王丸、平太郎、弾正などを称した 4。元服の際には伊達政宗から一字を与えられ、越後宗国(えちご むねくに)と名乗った 4。父・盛国が伊達政宗に内応した際に人質として差し出されたのがこの宗国である 4。
その後、宗国は伊達家に仕官し、その子孫は代々仙台藩士として明治維新に至った 4。猪苗代氏は仙台藩において準一家の家格を有していた記録がある 22。 -
その他の子女について
盛国の弟(実際には宗国の弟、あるいは盛国の三男か)とされる縫殿盛明(ぬいの もりあき)は、盛国から200石を与えられて別家を立てたが、この家系は一代で断絶したと『伊達世臣家譜』には記されている 4。仙台藩の記録に「猪苗代縫殿家(明暦3年(1657年)無嗣断絶)」とあるのが 27、この家系に該当する可能性がある。
また、近代日本の細菌学者である野口英世の父・佐代助の実家である小桧山家は、猪苗代氏の子孫であるという伝承がある 23。これが盛国の直系の子孫であるかは不明だが、猪苗代氏の血脈が何らかの形で後世に繋がっている可能性を示唆している。
猪苗代盛国の子女と主要な子孫一覧
氏名(別名) |
生母 |
略歴 |
子孫の状況 |
備考 |
典拠 |
猪苗代盛胤(嫡男) |
不明 |
父と敵対し蘆名方として摺上原の戦いに参戦、負傷。蘆名氏滅亡後は仕官せず隠棲。寛永18年(1641年)没、享年77。 |
不明(子孫の記録なし) |
猪苗代町内野に墓所、五輪塔あり |
21 |
猪苗代宗国(次男、越後) |
不明 |
初名:松王丸、平太郎、弾正。伊達政宗への人質。元服時に政宗から偏諱を受け宗国と名乗る。伊達家に仕官。 |
子孫は仙台藩士として明治維新に至る。 |
猪苗代氏は仙台藩で準一家の家格。 |
4 |
縫殿盛明 |
不明 |
盛国(または宗国)の弟か。盛国から200石を与えられ別家を立てる。 |
一代で断絶。 |
『伊達世臣家譜』による。 |
4 |
(小桧山家祖先) |
不明 |
野口英世の父方の祖先が猪苗代氏の子孫であるとの伝承。 |
小桧山家として存続。 |
盛国との直接の関係は不明。 |
23 |
第四部:猪苗代城の変遷
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第一章:築城から戦国時代まで
猪苗代城は、別名を亀ヶ城(かめがじょう)とも呼ばれ、鎌倉時代初期に三浦一族の佐原経連(猪苗代氏の祖とされる)によって築かれたと伝えられている 1。建久二年(1191年)の築城という説が有力である 1。この城は、会津盆地と仙道(中通り)を結ぶ街道を押さえる交通の要衝に位置し、軍事・経済の両面で極めて重要な拠点として、猪苗代氏代々の居城となった 1。 -
第二章:盛国時代の猪苗代城と軍事的役割
天正十七年(1589年)の摺上原の戦いの際には、当時の城主であった猪苗代盛国が伊達政宗に内応したため、猪苗代城は伊達軍の重要な前線拠点となった。これにより、伊達政宗は会津地方への本格的な侵攻を有利に進めることができ、蘆名氏攻略に大きく寄与した 1。当時の城の具体的な縄張り(設計)については詳細な記録が少ないものの、軍事拠点としての機能が最大限に活用されたと考えられる。 -
第三章:近世から廃城、そして現代へ
猪苗代盛国が伊達政宗に従って会津を去った後、猪苗代城は蒲生氏、上杉氏、加藤氏といった会津の新たな領主の支配を経て、江戸時代には会津松平(保科)氏の支城となった 1。江戸幕府の一国一城令の特例として存続を認められ、城代が置かれていた 1。
蒲生氏郷が会津に入部した際には、石垣が改修されたとされ、猪苗代氏時代に築かれた野面積みの石垣と、戦国末期から近世初頭にかけて穴太衆(あのうしゅう)によって構築されたと考えられる切石積みの石垣の両方を見ることができる 1。
幕末の戊辰戦争(会津戦争)の際、明治元年(1868年)8月、新政府軍の進撃を受けて、城を守備していた会津藩兵は退却する際に城に火を放ち、猪苗代城は焼失、そのまま廃城となった 1。
現在は城跡一帯が亀ヶ城公園として整備されており、市民の憩いの場となっている 1。また、猪苗代町役場には、猪苗代町の調査資料を基に製作された猪苗代城の復元模型が展示されている 1。
終章:猪苗代盛国の歴史的評価
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会津史、伊達家史における盛国の位置づけ
猪苗代盛国の伊達政宗への内応は、戦国時代の会津における一大転換点である蘆名氏滅亡を決定づけた重要な出来事であったと言える。彼の行動なくして、伊達政宗の会津平定はより困難であった可能性が高い。この意味で、盛国は会津の歴史において大きな影響を与えた人物である。
一方、伊達家にとっては、会津攻略を成功させた大功労者の一人として評価されるべき存在である。しかし、その後の知行削減は、伊達家における外様家臣の立場や、政権安定化に伴う家臣団再編の厳しさを示唆している。 -
裏切りという行為の多角的評価
盛国の行動は、旧主である蘆名氏の立場から見れば紛れもない「裏切り」である。しかし、戦国時代という弱肉強食の時代においては、家の存続や自身の勢力拡大のためには主君を変えることも珍しくなく、一概に現代の倫理観で善悪を断じることは難しい 11。
当時の蘆名家の内情、すなわち当主であった蘆名義広の求心力の低下や家臣団の分裂といった要因、そして伊達政宗の圧倒的な勢力伸長といった外的要因も、盛国の決断に大きく影響したと考えられる。さらに、盛国個人の野心や、嫡男・盛胤との確執といった個人的事情も、複雑に絡み合っていた可能性がある。
戦国乱世を生き抜くためのリアリズムの現れとして、盛国の行動を捉えることもできる。主家の将来に見切りをつけ、より強力な勢力に与することで自家の安泰を図るという選択は、当時の武将にとっては合理的な判断の一つであったと言えよう。一方で、旧主への「忠義」という倫理観との間で葛藤があった可能性も否定できない。嫡男・盛胤が父とは異なる道を選び、蘆名方に留まった事実は、盛国の行動が一族全体から必ずしも支持されていなかった可能性、あるいは当時の「忠義」のあり方が一様でなかったことを示唆する。彼の選択は、戦国時代の武士道や倫理観の多様性、そしてその複雑さを示す一事例と言えるだろう。 -
後世への影響
猪苗代盛国の決断は、猪苗代氏そのものの運命を大きく左右した。次男・宗国の系統は伊達家臣として存続し、仙台藩士として明治維新を迎えたが、嫡男・盛胤は故郷に留まり隠棲するなど、一族は異なる道を歩むことになった。
また、彼の行動は猪苗代城の歴史にも大きな影響を与え、猪苗代地方の支配構造の変化を促した。
猪苗代盛国に関する評価は、残された資料の制約もあり、未だ定まっていない部分も多い。今後の研究による新たな史料の発見や解釈によって、その人物像がより明らかにされることが期待される。
猪苗代盛国 略年表
年号(和暦・西暦) |
猪苗代盛国の年齢(推定) |
主要な出来事 |
関連人物 |
典拠 |
天文期(1532-1555) |
不明 |
出生(父は猪苗代盛清説、猪苗代盛頼説あり) |
猪苗代盛清、猪苗代盛頼 |
4 |
天文20年(1551) |
不明 |
11月24日、元服。蘆名盛氏より偏諱を受け「盛国」と称す。 |
蘆名盛氏 |
4 |
天正16年(1588) |
不明 |
嫡男・盛胤より猪苗代城を奪還、父子で争う。 |
猪苗代盛胤 |
6 |
天正17年(1589) |
不明 |
6月1日、伊達政宗に内応し、次男・宗国(亀丸)を人質に提出。猪苗代城を政宗に提供。 |
伊達政宗、猪苗代宗国 |
4 |
天正17年(1589) |
不明 |
6月5日、摺上原の戦いに伊達軍の先鋒として参陣。蘆名軍敗走の際、日橋川の橋を落とす。 |
伊達政宗、蘆名義広 |
6 |
天正17年(1589) |
不明 |
7月23日、戦功により伊達政宗から猪苗代近辺に500貫文を加増され、準一門に列せられる。 |
伊達政宗 |
4 |
天正18年(1590)頃 |
不明 |
伊達政宗の会津からの移封に伴い、会津を去り、岩井郡東山にて1000石を与えられる。 |
伊達政宗 |
4 |
時期不明 |
不明 |
知行を半分(500石)に削られる。 |
|
4 |
没年不明 |
不明 |
没年、死因など不明。 |
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引用文献
- 猪苗代城・亀ヶ城 - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/touhoku/inawashiro/inawashiro.html
- 会津若松城の支城<猪苗代城> https://sirohoumon.secret.jp/inawashirojo.html
- 猪苗代城 https://tanbou25.stars.ne.jp/inawasirojyo.htm
- 猪苗代盛国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E8%8B%97%E4%BB%A3%E7%9B%9B%E5%9B%BD
- 蘆名氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%86%E5%90%8D%E6%B0%8F
- 猪苗代盛国とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%8C%AA%E8%8B%97%E4%BB%A3%E7%9B%9B%E5%9B%BD
- 蘆名氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%98%86%E5%90%8D%E6%B0%8F
- 北塩原村柏木城跡 https://www.vill.kitashiobara.fukushima.jp/uploaded/attachment/198.pdf
- 蘆名義広~伊達政宗に敗れた男、 流転の末に角館に小京都を築く https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9599
- 猪苗代盛国 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/inawashiro.html
- それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い) - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2022/11/14/100349
- 家督相続後、破竹の勢いで奥羽を平定した政宗の手腕 - 戦国 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22906
- 摺上原合戦 https://joukan.sakura.ne.jp/kosenjo/suriagehara/suriagehara.html
- 摺上原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%BA%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 猪苗代城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E8%8B%97%E4%BB%A3%E5%9F%8E
- 猪苗代城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/hukushima/inawashiro/inawashiro.html
- 伊達政宗は何をした人?「独眼竜は秀吉と家康の世をパフォーマンスで生き抜いた」ハナシ https://busho.fun/person/masamune-date
- 本が善本とされる。 - 資料 宮城県史第2巻 - 獅山公治家記録 - 仙台市図書館 https://lib-www.smt.city.sendai.jp/wysiwyg/file/download/1/661
- 摺上原の戦いと会津の伊達政宗 https://www.aidu.server-shared.com/~ishida-a/page030.html
- 第15話 摺上原の合戦 - 女傑・伊達政宗(前田薫八) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054881335519/episodes/1177354054881414882
- 摺上原古戦場の会津蘆名四部将の墓碑を訪ねて_2024年6月 - note https://note.com/pukupuku2021/n/na1b50507097a
- 問 「伊達騒動」(山田野理夫)で、奉行と家老の職名が混用されています。 同一人物について、例 - 仙台市図書館 https://lib-www.smt.city.sendai.jp/wysiwyg/file/download/1/553
- 猪苗代氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E8%8B%97%E4%BB%A3%E6%B0%8F
- 平盛胤の墓 | 猪苗代観光協会【公式ホームページ】 https://www.bandaisan.or.jp/sight/moritane/
- 猪苗代盛胤 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E8%8B%97%E4%BB%A3%E7%9B%9B%E8%83%A4
- 猪苗代町/会津を構成する市町村/会津への夢街道 https://aizue.net/sityouson/inawasiro.html
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