玉越三十郎は清洲の具足屋で桑名の商人。武田信玄との三方ヶ原の戦いで、織田信長に追放された旧主・長谷川橋介への忠義を貫き戦死した。
元亀3年(1572年)12月22日、遠江国三方ヶ原は、戦国史に残る激戦の舞台となった。西上作戦を開始した甲斐の武田信玄率いる大軍に対し、徳川家康は数で劣る兵を率いて野戦を挑み、生涯最大とも言われる惨敗を喫した。この合戦は、徳川家の存亡を揺るがす危機であったと同時に、多くの徳川家臣が命を落とした悲劇として記憶されている。鳥居忠広、成瀬正義といった歴戦の勇士たちが次々と討ち死にする中、その死者のリストには、本来そこに名を連ねるはずのない、一人の町人の名が記されていた。その人物こそ、玉越三十郎(たまこし さんじゅうろう)である。
史料によれば、三十郎は尾張清洲の具足屋であり、また伊勢桑名の商人とされる 1 。彼は武士ではない。しかし、武田軍の脅威が迫る中、遠江浜松にいた旧知の武士に急を報じ、自らもまた戦場に赴き、武士たちと共にその生涯を終えた。なぜ一介の職人、商人が、武士の合戦に身を投じたのか。彼の存在は、三方ヶ原の戦いという壮大な歴史絵巻の中に、特異な一点として浮かび上がる。
本稿は、この玉越三十郎という一人の人物に焦点を当て、その生涯と行動を徹底的に掘り下げることを目的とする。彼の記録は断片的であるが、その断片を繋ぎ合わせ、彼が生きた時代の社会経済的背景と照らし合わせることで、その人物像はより鮮明になる。玉越三十郎の生涯は、単なる美談としてではなく、戦国時代における身分制度の流動性、武士と町人の間に存在した複雑な関係性、そして商業と戦争が密接に結びついた社会の実像を解き明かすための、類稀なる「窓」となる。彼の死は、身分を超えた個人の忠義がいかなるものであったか、そしてその忠義が時代の大きなうねりの中でいかにして発露し、そして散っていったのかを我々に問いかけるのである。
玉越三十郎という人物を理解するためには、まず史料に残された彼の姿を丹念に拾い上げ、その上で彼が持っていた「清洲の具足屋」と「桑名の商人」という二つの顔が、戦国時代において何を意味したのかを解読する必要がある。
玉越三十郎に関する直接的な記録は極めて少ない。しかし、その少ない記述の中に、彼の人物像を浮かび上がらせるための核となる情報が含まれている。最も基本的な情報は、「尾張清洲の具足屋」であり、「桑名の商人」でもあったという点である 1 。そして彼の運命を決定づけたのが、三方ヶ原の戦いにおける行動であった。彼は、織田信長の勘気を蒙り、徳川家康を頼って遠江浜松に身を寄せていた武将、長谷川橋介(はせがわ きょうすけ)に急を伝え、自らもその合戦に参陣して戦死したとされている 1 。
これらの事実関係に加え、彼の人間性を強く示唆する逸話が残されている。それは、合戦を前にした三十郎と、彼が仕えた武士たちとの間のやり取りである。武田の大軍が浜松に迫る中、長谷川橋介をはじめとする武士たちは、三十郎に対し「やがて武田勢はこの浜松までやって来るだろう。武士でないそなたが巻き添えを食うのは忍びなきゆえ、早々に帰るがよい」と、彼の身を案じて退去を促した 3 。これは、武士と町人という身分差を前提とした、ある種の温情であった。しかし、三十郎はこの申し出を毅然として断り、「各々方と共に戦いまする」と答え、戦場に残ることを選んだという 3 。この一言は、彼の行動が単なる成り行きや義務感からではなく、自らの強い意志に基づいていたことを物語っている。
そもそも、三十郎のような町人が歴史の記録に留められたこと自体が、注目に値する。戦国時代の年代記や軍記物は、その性質上、大名や有力武将といった支配者層の動向を中心に記述される。職人や商人といった町人階級の個人名が記されることは稀であり、彼らが歴史の表舞台に登場するのは、その行動が武士階級の重要な出来事に深く関わった場合に限られる。玉越三十郎の名が後世に伝わったのは、彼自身の社会的地位によるものではなく、長谷川橋介ら織田家の旧臣たちが名誉回復をかけて壮絶な死を遂げるという、劇的な逸話の一部として語られたからに他ならない。彼の物語は、記録を残した者たちの武士中心の史観を反映すると同時に、その史観の枠を越えてでも記録せざるを得なかった、身分を超えた忠義の物語の存在を示唆しているのである。
玉越三十郎を理解する上で鍵となるのが、「清洲の具足屋」と「桑名の商人」という二つの肩書きである。これらは一見すると異なる職業に見えるが、戦国時代の経済構造の中で捉え直すと、両者は密接に連携した、極めて合理的な事業形態であった可能性が浮かび上がってくる。
まず、「具足屋(ぐそくや)」、すなわち甲冑師(かっちゅうし)の役割について考察する 4 。戦国時代は、合戦の規模が拡大し、動員される兵員の数が飛躍的に増大した時代である。特に、足軽(あしがる)のような下級兵士が戦闘の主役となるにつれ、彼らに支給するための標準化された甲冑、いわゆる「御貸具足(おかしぐそく)」の需要が爆発的に増加した 5 。これにより、甲冑製作は一部の高級品を手がける伝統的な職人仕事から、大量生産を前提とした一大産業へと変貌を遂げた。三十郎が工房を構えた尾張清洲は、当時、織田信長の本拠地であり、尾張・美濃を平定し天下統一へと突き進む軍事活動の中心地であった 6 。信長は、城下町の整備にあたり、鍛冶屋や鋳物師といった金属加工職人を戦略的に集住させており、清洲は巨大な軍需産業の拠点となっていた 7 。このような環境で具足屋を営むことは、織田家という最大の顧客から安定した受注を得られることを意味し、事業の根幹を支える生産拠点として理想的な立地であった。
一方で、三十郎は「桑名の商人」としても知られていた。伊勢国の桑名は、木曽三川が伊勢湾に注ぐ河口に位置する、当時日本有数の商業港であった。桑名の特筆すべき点は、「十楽の津(じゅうらくのつ)」と呼ばれ、特定の商人組合(座)による独占が認められず、関銭(通行税)などが免除された自由交易港であったことである 9 。この自由な商業環境は、近江商人など各地の有力商人を惹きつけ、桑名は多様な物資が集散する一大物流拠点として繁栄した 11 。史料には、桑名で近江商人間での紙の取引を巡る紛争が起きた記録も残っており、その経済的な重要性がうかがえる 12 。
この二つの拠点の特性を考えると、玉越三十郎の事業戦略が見えてくる。彼は、軍事都市・清洲で具足という商品を「生産」し、それを自由港・桑名を通じて広域に「販売・流通」させていたのではないだろうか。清洲での活動が織田家という特定のパトロンとの関係を深める一方で、桑名での商業活動は、より広い市場へのアクセスを可能にし、事業の多角化とリスク分散に繋がったはずである。例えば、具足の原材料の調達、完成品の他国への販売、さらには具足以外の商品の取引など、桑名の自由な市場は多様なビジネスチャンスを提供したであろう。
このように、清洲の「生産拠点」と桑名の「商業拠点」を両輪として事業を展開する姿は、単なる一職人、一商人の枠を超えている。それは、地域の経済地理を的確に把握し、生産と流通を一体的に管理する、まさに戦国時代の企業家(アントレプレナー)の姿そのものである。玉越三十郎の二つの顔は、矛盾ではなく、戦国という乱世を生き抜くための、高度に計算された生存戦略だったのである。
玉越三十郎の行動原理を深く理解するためには、彼が生きた二つの都市、清洲と桑名、そして彼の運命を大きく左右した織田家との関係性をより詳細に分析する必要がある。
玉越三十郎が具足屋を営んでいた清洲は、単なる城下町ではなかった。桶狭間の戦いで今川義元を破った後、織田信長が尾張統一の拠点としたこの街は、彼の天下布武の起点となる軍事都市として戦略的に整備された。信長は、戦争を遂行するために不可欠な武具や鉄砲を生産する職人たちを城下に集めた。発掘調査からも、清洲城下には鍛冶屋や鋳物師などの金属加工職人が集住していたことが明らかになっている 7 。史料には、鋳物師の水野家が信長以来の領主に仕え、鋳物製作の特権を与えられていたことや 8 、城下に「鍛冶屋町」が存在したことなどが記されており 8 、清洲が巨大な兵器工房としての機能を持っていたことがわかる。
玉越三十郎も、こうした職人の一人であった。彼のような有力な職人は、単に商品を市場で販売する独立した事業者というだけでなく、領主である織田家と密接な関係を結んでいたと考えられる。彼らは領主の「御用(ごよう)」を承る見返りとして、営業上の特権や保護を与えられる、いわゆるパトロン-クライアント関係にあった 8 。特に、長谷川橋介のような信長直属の精鋭武士の甲冑を手がけていたとすれば、その関係はより強固なものであっただろう。三十郎の技術は、武士の命を守る最後の砦であり、その信頼関係は単なる商取引を超えた、人間的な繋がりへと発展した可能性が高い。清洲という都市の性格が、三十郎と武士階級との間に強い絆を育む土壌となったのである。
清洲が織田家の強力な支配下にある軍事・政治都市であったのに対し、三十郎がもう一つの拠点とした桑名は、全く異なる性格を持つ都市であった。伊勢湾に面した桑名は、中世以来、自由な商業活動で知られる港町であり、「十楽の津」と称された 9 。これは、特定の権力による支配や、同業者組合である「座」による市場の独占を許さず、商人たちの自治によって運営される都市であったことを意味する 10 。桑名の自治を担っていたのは、「桑名衆」と呼ばれる有力商人たちであり、彼らは外部からの支配に対し、時には団結して抵抗した 12 。
永禄元年(1558年)には、近江の商人が桑名で起こした商取引上の紛争の記録が残っているが、その中で桑名が「十楽の津」であることが争点の一つとなっており、この町の自由な性格が当時広く認識されていたことがわかる 12 。このような環境は、玉越三十郎のような商人にとって、非常に魅力的であった。清洲での織田家との従属的な関係とは対照的に、桑名ではより自由で広範な経済活動が可能であった。彼はここで、清洲で製作した具足を全国の市場に流通させたり、あるいは全く異なる商品の取引に関わったりすることで、富を蓄積していったと考えられる。清洲の「安定」と桑名の「自由」。この二つの異なる経済圏を使い分けることで、三十郎は自らの事業を飛躍的に発展させたのであろう。
玉越三十郎の運命を決定づけたのは、一人の武士、長谷川橋介との出会いである。橋介は、決して無名の武将ではなかった。彼は織田信長の親衛隊とも言うべき精鋭部隊「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の一員であり、信長の側近として仕えた人物である 14 。さらに特筆すべきは、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて、信長が夜明けに清洲城を飛び出した際に、わずか数騎でそれに従った最初の一人であったことだ 14 。これは、彼が信長の最も信頼する、古参の勇士であったことを示している。
しかし、このエリート武将は、同僚の佐脇良之、山口飛騨守、加藤弥三郎らと共に、突如として信長の勘気を蒙り、追放されるという悲運に見舞われる 16 。その原因は、彼らが「道盛(どうもり)」という人物を斬殺したためだとされるが、この道盛が何者であったか、なぜ斬殺に至ったのかという詳細は不明である 16 。理由はどうあれ、桶狭間以来の功臣たちを一度に追放するという信長の処断は、彼の苛烈で絶対的な権力者としての一面を物語っている。この事件により、長谷川橋介らは主家を失った浪人となり、同盟者であった徳川家康のもとに身を寄せることになった 16 。
この一連の出来事は、玉越三十郎の人生に大きな影を落とす。長谷川橋介は、清洲にいた頃の三十郎にとって、単なる顧客の一人ではなく、重要なパトロンであった可能性が高い。赤母衣衆というエリート部隊の武士が身に着ける甲冑は、その身分を象徴する特注の高級品であったはずで、それを製作・維持する具足屋とは、必然的に長年にわたる深い信頼関係が築かれる。三十郎の技術が橋介の武功を支え、橋介の存在が三十郎の事業に安定と名声をもたらす。この持ちつ持たれつの関係は、商取引を超えた「義理」の感情を育んでいたと想像に難くない。
信長の非情な決定は、こうした武士と職人の間の固い絆をも引き裂いた。そして、有力なパトロンを失った三十郎にとって、橋介らの追放は経済的な打撃であっただけでなく、自らの忠義を誰に向けるべきかという問いを突きつけるものであった。結果として、三十郎の忠義は、主君である信長ではなく、非業の運命を辿った旧主、長谷川橋介に向けられることとなる。この選択が、彼を三方ヶ原の死地へと導くことになるのである。
以下の表は、この運命の交錯に関わった主要人物をまとめたものである。
表1:道盛事件関係者と三方ヶ原における運命
氏名 |
織田家での役職・経歴 |
信長の勘気を蒙ったとされる理由 |
三方ヶ原合戦での結末 |
長谷川 橋介 |
赤母衣衆、小姓。桶狭間の戦いの功臣。 |
関与したとされる「道盛」斬殺事件 16 。 |
徳川方として参陣し戦死 16 。 |
佐脇 良之 |
赤母衣衆、小姓。桶狭間の戦いの功臣。 |
同上 16 。 |
徳川方として参陣し戦死 16 。 |
山口 飛騨守 |
赤母衣衆、小姓。 |
同上 16 。 |
徳川方として参陣し戦死 16 。 |
加藤 弥三郎 |
小姓衆。桶狭間の戦いの功臣。 |
同上 16 。 |
徳川方として参陣し戦死 16 。 |
玉越 三十郎 |
尾張清洲の具足屋、桑名の商人。 |
(直接の関与なし)長谷川橋介への忠義。 |
橋介に急を報じ、徳川方として参陣し戦死 1 。 |
この表は、信長に見捨てられたエリート武士たちが、徳川家康のもとで名誉回復を期して共に戦い、共に散っていった運命共同体であったことを示している。そしてその中に、唯一の町人である玉越三十郎が含まれている事実は、彼の行動の特異性と、その根底にあった忠義の深さを際立たせている。
主君に追放された武士たちへの義理を貫いた玉越三十郎の物語は、三方ヶ原の戦いでそのクライマックスを迎える。彼の最後の行動は、戦国時代における個人の忠義のあり方を考える上で、極めて示唆に富んでいる。
元亀3年(1572年)、武田信玄は満を持して西上作戦を開始した。その圧倒的な軍事力は、遠江・三河を領する徳川家康にとって最大の脅威であった。この国家存亡の危機に際し、玉越三十郎は重要な役割を果たす。彼は、武田軍の動向という緊急の情報を、浜松城にいる長谷川橋介らに伝える使者となった 1 。
なぜ彼がその役目を担ったのか。その理由は、彼の商人という身分に求めることができる。戦乱の世において、武士が敵地やその周辺を移動することは困難であり、間者と疑われれば命の保証はない。しかし、商人であれば、商品を運ぶという名目で、比較的自由に各地の関所を通過することができた 17 。三十郎は、その立場を利用して、尾張・伊勢方面から遠江浜松までの危険な道のりを踏破し、旧主たちに急を報じたのである。この行動は、単なる情報伝達ではない。それは、かつて受けた恩義に報いるための、命がけの奉公であった。長谷川橋介への「義理」を果たすという強い動機がなければ、決して成し得ないことであった。
浜松に到着し、使者としての大任を果たした三十郎には、安全な場所へ立ち去るという選択肢があった。事実、長谷川橋介らは、武士ではない彼の身を案じ、戦場から離れるよう勧めている 3 。これは、当時の身分制度からすれば当然の配慮であった。戦は武士の役目であり、町人がそれに巻き込まれることは、武士にとっても不本意なことであった。
しかし、三十郎は彼らの配慮を退け、戦場に残ることを選んだ。「各々方と共に戦いまする」という彼の言葉は、自らの運命を、恩義ある武士たちと共にするという固い決意の表れである 3 。この瞬間、玉越三十郎は、単なる商人・職人という身分の枠組みを超越した。彼は、武士の最も重要な徳目とされる「忠義」、特に主君と生死を共にする覚悟を選び取ったのである。
この決断は、戦国時代の社会における個人のアイデンティティのあり方を考える上で非常に興味深い。当時の社会は、武士、農民、職人、商人といった身分制度によって厳格に秩序付けられていた。しかし、三十郎の行動は、そうした制度的な身分とは別に、個人が自らの意志で「かくあるべし」という生き方を選択し得た可能性を示している。彼は、血筋や役職によってではなく、自らの行動によって「武士のように」死ぬことを選んだ。彼の最後の選択は、身分制度という社会的な制約に対する、一個人の精神的な抵抗であり、自己実現の試みであったと解釈することもできるだろう。
そして運命の日、元亀3年12月22日、玉越三十郎は、長谷川橋介、佐脇良之らと共に三方ヶ原の戦場に立った。徳川軍が総崩れとなる中、彼らは信長に見捨てられた無念を晴らし、新たな主君家康への忠誠を示すべく、武田軍の猛攻の中に突入し、壮絶な討死を遂げた 14 。三十郎もまた、彼らと運命を共にし、武士たちに交じってその命を散らしたのである 1 。
彼らの死は、戦術的には無駄死にであったかもしれない。しかし、その死は徳川家中に大きな影響を与えたはずである。信長に追放された有能な武将たちが、自らを庇護してくれた家康のために命を捧げたという事実は、家康の器量の大きさを示す格好の逸話となった。そして、その中に一人の町人が加わっていたという物語は、家康の徳が、武士のみならず、身分の低い者にまで及ぶことの証として語り継がれたであろう。
玉越三十郎の死は、悲劇であると同時に、一つの完成された物語でもある。彼は、商人として蓄えた富でも、職人としての技術でもなく、人間としての「忠義」によって、自らの人生を完結させた。しかし、その死がどれほど武士的であったとしても、歴史は彼を「具足屋」「商人」として記憶する 1 。この事実は、個人の精神がいかに身分を超越しようとも、社会的な枠組みがいかに強固であったかという、戦国時代のもう一つの現実を浮き彫りにしている。彼は武士のように死んだが、武士として記憶されることはなかった。その一点にこそ、玉越三十郎という人物の物語の、光と影が凝縮されているのである。
玉越三十郎。その名は、戦国時代の歴史の表舞台に大きく刻まれることはない。しかし、彼の短い生涯を丹念に追うことで、我々は時代の深層に流れる複雑な社会の様相を垣間見ることができる。彼は、歴史の教科書が語る大名たちの華々しい戦いの陰で、確かに生きていた無数の人々の営みと精神性を代弁する、稀有な存在である。
本稿の分析を通じて明らかになったのは、玉越三十郎が、戦国時代という激動の時代が生んだ、新しいタイプの人間像を体現していたということである。彼は、軍事都市・清洲の「具足屋」として生産に携わり、自由港・桑名の「商人」として流通を担う、極めて合理的な企業家であった。その活動は、戦争が巨大な需要を生み出し、商業資本がそれを支えるという、当時の軍産複合的な経済構造を象徴している。
同時に、彼の人生は、身分制度の流動性と硬直性という、時代の二面性を映し出している。彼は商人・職人として経済的な成功を収め、武士階級と深い人間関係を築いた。そして最後には、自らの意志で武士の徳目である「忠義」を体現し、身分という壁を精神的に乗り越えようとした。彼の行動は、個人の能力と意志が、生まれ持った身分以上に価値を持ち得た、戦国時代ならではのダイナミズムを示している。
しかし、その一方で、彼が最後まで「町人」として記憶された事実は、社会構造の壁がいかに厚かったかを物語る。彼の死は、個人の崇高な精神が、必ずしも社会的な評価を変えるには至らないという、時代の冷徹な現実を突きつける。
玉越三十郎の物語は、単なる一人の町人の美談ではない。それは、織田信長という絶対的な権力者の下で翻弄される人々の運命、武士と町人の間に存在した義理と人情の絆、そして身分を超えて貫かれようとした個人の尊厳の記録である。三方ヶ原の露と消えたこの一人の男の生涯を再構築する作業は、我々に戦国時代を、より立体的で、血の通った人間たちのドラマとして理解させてくれる。玉越三十郎は、戦国社会の光と影、その両方を一身に映し出す、忘れ得ぬ鏡像なのである。