最終更新日 2025-06-07

生駒正俊

「生駒正俊」の画像

生駒正俊公 詳細報告書

はじめに

本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての武将であり、讃岐高松藩の第二代藩主(生駒家としては三代目当主)であった生駒正俊(いこま まさとし)公に関する詳細な調査結果をまとめたものです。ご依頼主様が既に把握されている、生駒一正の長男であること、高松藩十七万石余の二代目藩主であったこと、大坂の陣に遊軍として参加したこと、そして正室に藤堂高虎の養女を迎えたことといった基本的な情報[ユーザー情報]を基盤としつつ、これらの情報をさらに深掘りし、関連する歴史的背景や人物像、そして生駒家が置かれた状況について、現存する資料に基づき多角的に詳述することを目的とします。

報告の構成は、まず第一部で生駒正俊公の生涯を、出自から家督相続、藩主としての活動、大坂の陣への参陣、そして晩年と逝去に至るまでを時系列に沿って記述します。続く第二部では、正俊公の家族構成や縁戚関係、伝わる逸話や彼に対する評価について考察します。そして第三部では、父・生駒一正の時代と関ヶ原の戦い、正俊公の治世と高松藩の位置づけ、さらには彼の死後、生駒家を揺るがすことになる「生駒騒動」への序章といった、より広い文脈の中で正俊公を捉え直します。最後に、これらの情報を総合し、結論としてまとめます。

第一部:生駒正俊の生涯

第一章:出自と家督相続

  • 生誕と家系
    生駒正俊は、天正14年(1586年)に、後に讃岐高松藩の初代藩主となる生駒一正の長男として誕生しました 1 。幼名は「一丸」(いこまる)と伝えられています 2 。父は生駒一正、母は堀秀重の娘でした 3 。生駒氏は、その出自を美濃国可児郡土田(現在の岐阜県可児市土田)に持ち、戦国時代には織田信長、次いで豊臣秀吉に仕えた家柄です 1
    正俊が家督を相続するにあたり、父・一正の功績とそれによって築かれた安定した基盤は特筆すべき点です。一正は、天下分け目の戦いとなった慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康率いる東軍に与して武功を挙げました 1 。この時、祖父である生駒親正は豊臣方の西軍に与しやすい立場にありましたが、一正の東軍参加という決断は、結果として生駒家の存続を確実なものとしました。戦後、生駒家は改易を免れたばかりか、一万五千石の加増を受け、讃岐一国十七万石余(資料により石高には若干の差異が見られます 7 )の所領を安堵されました 5 。この一正の巧みな立ち回りは、豊臣恩顧の大名が多く取り潰される中で、生駒家の基盤を強固なものとし、正俊は比較的安定した状況下で家督を継承することができました。関ヶ原の戦いは、豊臣恩顧の大名にとって文字通り存亡の岐路であり、生駒家が父・親正(西軍に通じる立場)と子・一正(東軍参加)という形で、いわば両掛けの戦略を取ったことは、家の存続を最優先する当時の武家の知恵であったと言えるでしょう。この結果、正俊の治世は、父が築いた徳川幕府との良好な関係を維持することが、何よりも重要な課題としてあったと考えられます。
  • 家督相続
    慶長15年(1610年)、父・一正が死去したことに伴い、正俊は家督を相続し、讃岐高松藩の第二代藩主となりました 1 。藩主としての期間は、慶長15年(1610年)から元和7年(1621年)までの約11年間です 1 。官位は従四位下讃岐守に叙されています 3

第二章:高松藩主として

  • 藩政と幕府との関係
    生駒正俊の藩主としての具体的な施政に関する詳細な記録は、現存する資料からは多くを見出すことができません。しかし、彼の治世が江戸幕府初期の体制確立期であったことを踏まえると、藩政運営においては幕府との関係が極めて重要であったことは想像に難くありません。その中で明確な記録として残されているのは、大坂城の普請(修築工事)への参加です 1 。これは、江戸時代初期の大名に課せられた重要な公儀御役(幕府からの命令による事業への奉仕)の一つであり、幕府への恭順の意を示すとともに、その財政的・人的負担は決して小さくありませんでした。
    また、香川県内に現存する古文書として、正俊が家臣である土屋左平太(宗基)に対して、讃岐国三野郡・香東郡内に三百石の知行を与える旨を記した宛行状(あてがいじょう)が確認されています 12 。これは、正俊が藩主として基本的な領地支配、すなわち家臣への知行給付といった職務を遂行していたことを示す具体的な証左です。
    これらの公儀御役は、藩財政に大きな影響を与えたと考えられます。大坂城普請のような大規模な事業への参加は、多大な費用を必要とし、それは原則として各藩の負担とされました 13 。加えて、大名の義務であった参勤交代にも莫大な経費がかかりました 13 。生駒家のような外様大名にとって、これらの経済的負担は藩経営の安定を左右する重要な課題であり、正俊の治世においても、こうした負担への対応が藩政運営の大きな比重を占めていたと推察されます。彼の比較的短い治世においては、大規模な領内開発よりも、幕府への奉公とそれに伴う財政のやりくりが優先された可能性が高いでしょう。
  • 西嶋八兵衛との関わり(間接的影響の可能性)
    正俊の義父にあたる伊勢津藩主・藤堂高虎に仕えた西嶋八兵衛は、水利土木の卓越した技術者として知られています。八兵衛は後に、正俊の子である高俊の時代に讃岐へ派遣され、香東川の改修など大規模な治水事業を行い、讃岐平野の農業生産の発展に大きく貢献しました 1
    八兵衛が京都の二条城や大坂城の修築工事で縄張り(設計)に手腕を発揮したのは二十歳の頃、すなわち慶長17年(1612年)頃とされており 19 、これは正俊が高松藩主であった時期と重なります。この時期、正俊自身も大坂城の普請に参加していることから 1 、直接的な交流があったかは不明ながら、同じ事業に関わっていた可能性は否定できません。
    ただし、西嶋八兵衛が藤堂高虎の命により讃岐へ正式に派遣されたのは寛永2年(1625年)以降とされており 16 、これは正俊の死後のことです。しかしながら、正俊の正室が藤堂高虎の養女であったという強固な縁戚関係は、正俊の存命中から既に藤堂家の影響力が生駒藩に及ぶ素地を形成していたと考えられます。高虎は築城や土木技術に長けた人物であり、西嶋八兵衛のような有能な家臣を抱えていました 19 。正俊の早逝後、高虎が外孫である幼い高俊の後見人として藩政に深く関与することになった際 3 、八兵衛のような専門家を讃岐に派遣し、大規模な領内開発に着手できたのは、この縁戚関係と高虎の指導力があったからこそと言えるでしょう。したがって、正俊の婚姻は、単に大名家間の結びつきを強化しただけでなく、次代における藩政の方向性や専門技術導入の伏線となっていた可能性が指摘できます。

第三章:大坂の陣への参陣

  • 参陣の背景と役割
    慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、および翌慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣に、生駒正俊は徳川方として参陣しました 1 。これは、豊臣家を滅亡させ、徳川幕府による支配体制を盤石なものとするための最後の戦いでした。
    諸記録において、正俊は「遊軍として活躍した」とされています 3 。遊軍とは、特定の持ち場に固定されず、戦況に応じて柔軟に投入される部隊を指します。しかし、具体的な戦闘における詳細な戦功や、どの戦線にどのように布陣したかといった記録は、提供された資料からは限定的です 24
    生駒氏は元々、豊臣秀吉に仕えた大名であり 1 、その恩顧を受けた大名の一人でした。関ヶ原の戦いを経て徳川の世へと移行する中で、多くの豊臣恩顧大名は改易や減封の危機に常に晒されていました 26 。大坂の陣は、徳川家康が豊臣家を完全に滅亡させるための総仕上げであり、この戦いで徳川方に味方し戦功を挙げることは、旧豊臣系の大名が新たな体制下で生き残るための、いわば最後の踏み絵のような意味合いを持っていました。正俊にとって、この戦いに徳川方として参加することは、幕府への忠誠を明確に示し、生駒家の安泰を確実にするための極めて重要な行動であったと言えます。「遊軍」としての参加という記録からは、最前線での激しい消耗戦を避けつつも、幕府からの動員命令には応じるという、現実的かつ慎重な判断があった可能性も窺えます。兵力を温存しつつ、参陣の義務を果たすという戦略は、当時の多くの外様大名が取り得た選択肢の一つであったかもしれません。

第四章:晩年と逝去

  • 死没と墓所
    生駒正俊は、元和7年6月5日(西暦1621年7月23日)に死去しました 1 。享年は36歳であり、藩主としては若すぎる死でした 3
    その戒名は「法泉院殿前讃州太守四品機外崇先大居士」(ほうせんいんでんぜんさんしゅうたいしゅしほんきがいそうせんだいこじ)とされています 2 。この戒名に含まれる「前讃州太守」は前讃岐守、「四品」は従四位の官位を示し、「大居士」は仏門に深く帰依した在家の男性信者の中でも特に身分の高い人物に与えられる尊称であり 28 、藩主としての格式を反映しています。
    墓所は、香川県高松市番町にある法泉寺と、京都府京都市右京区花園にある臨済宗大本山妙心寺の塔頭である玉龍院の二箇所に存在します 3 。高松市の法泉寺の寺号は、正俊の戒名である「法泉院」に由来すると伝えられています 30
    正俊の36歳という早すぎる死は、高松藩生駒家の将来に大きな影響を及ぼすことになります。嫡男である高俊は、父の死によりわずか11歳(数え年。満年齢では10歳)で家督を相続することになりました 3 。藩主の若年での死去は、後継者問題や藩政の不安定化を招きやすく、幼君の下では有力な後見人の存在が不可欠となります。この場合、高俊の外祖父にあたる藤堂高虎がその後見人となり、藩政に深く関与していくことになります 3 。正俊の早逝は、結果として藤堂高虎という外部の実力者が高松藩の藩政に深く介入する直接的な契機となり、これが後の生駒騒動の遠因の一つとなったと指摘できるでしょう。
  • 表1:生駒正俊 略年表

年代(和暦)

年代(西暦)

出来事

典拠

天正14年

1586年

生誕

1

慶長15年

1610年

家督相続、讃岐高松藩主となる

1

慶長19年

1614年

大坂冬の陣に徳川方として参陣

1

元和元年(慶長20年)

1615年

大坂夏の陣に徳川方として参陣、大坂城普請に参加

1

元和7年

1621年

死去(享年36)

1

この略年表は、正俊の生涯における主要な出来事を時系列で簡潔に示し、読者の理解を助けるものです。特に、彼の藩主としての治世が約11年間と比較的短かったこと、そしてその短い期間に大坂の陣という日本の歴史における大きな転換点に関与したことが明確に見て取れます。

第二部:人物像と関連事項

第一章:家族構成と縁戚関係

生駒正俊の人物像を理解する上で、彼の家族構成と縁戚関係は重要な手がかりとなります。特に、正室の実家である藤堂家との関係は、正俊自身の治世のみならず、その後の生駒家の運命にも深く関わってきます。

  • 父母・兄弟
  • 父:生駒一正(いこま かずまさ) 3
  • 母:堀秀重(ほり ひでしげ)の娘 3
  • 兄弟には、山里(やまざと、女性か)、近藤政成(こんどう まさなり)正室、弟に正信(まさのぶ)、入谷盛之(いりたに もりゆき)、正房(まさふさ)がいたと記録されています 3
  • 正室とその出自
  • 正俊の正室は、伊勢津藩主であった藤堂高虎(とうどう たかとら)の養女です 3
  • この養女の実父は、氏家源左衛門(うじいえ げんざえもん)という人物であったとされています 32 。彼女は藤堂高虎の養女として、生駒正俊に嫁ぎました 33
  • 藤堂高虎は、徳川家康からの信任も厚く、江戸幕府初期において大きな影響力を持った実力派大名であり、また築城の名手としても広く知られています 21 。この婚姻は、生駒家にとって、幕府内での立場を強化し、強力な後援者を得るという意味で、極めて重要な政略結婚であったと言えます。江戸時代初期の大名家にとって、幕府内の有力者や実力のある大名家との縁戚関係は、自家の安泰と発展に不可欠な要素でした。生駒家が藤堂高虎と姻戚関係を結んだことは、幕府に対する発言力の強化、情報網の拡大、さらには有事の際の支援を期待できるという点で、大きな意義を持ちました。そして実際に、この縁組が、正俊の死後に高虎が幼い嫡男・高俊の後見人となる直接的な理由となり 3 、高松藩の藩政に大きな影響を与えることになりました。当時の大名の正室は、単に跡継ぎを産むという役割だけでなく、実家との外交チャンネルとしての役割も期待されており 37 、この婚姻もそうした側面を持っていたと考えられます。
  • 子女
  • 長男:生駒高俊(いこま たかとし) 3 。父・正俊の死後、高松藩四代藩主となりますが、後に「生駒騒動」を引き起こし、改易されることになります。
  • 女子:藤堂高義(とうどう たかよし)室 3 。藤堂家との縁戚関係をさらに深める形となりました。
  • 女子:天正院(てんしょういん) - 池田輝澄(いけだ てるずみ)室 3 。池田家も有力な大名家であり、この婚姻もまた政略的な意味合いを持っていたと考えられます。
  • 女子:藤堂長正(とうどう ながまさ)正室 3 。再び藤堂家との縁組がなされています。
  • 男子:生駒正慶(いこま まさよし、または「まさきよ」とも読める) 3 。高俊の弟にあたります。
  • 娘たちが藤堂家や池田家といった他の大名家に嫁いでいることは、生駒家が婚姻を通じて他家との関係強化を積極的に図っていたことを示しています。これは、戦国時代から続く武家の常套的な外交戦略であり、家の安泰と勢力拡大を目指す上で重要な手段でした。
  • 表2:生駒正俊 近親者一覧

続柄

氏名

備考

典拠

生駒一正(いこま かずまさ)

高松藩初代藩主

3

堀秀重(ほり ひでしげ)の娘

3

正室

藤堂高虎(とうどう たかとら)の養女

実父:氏家源左衛門(うじいえ げんざえもん)

ユーザー情報, 3

長男

生駒高俊(いこま たかとし)

高松藩四代藩主、後に生駒騒動により改易

3

女子

藤堂高義(とうどう たかよし)室

3

女子

天正院(てんしょういん)

池田輝澄(いけだ てるずみ)室

3

女子

藤堂長正(とうどう ながまさ)正室

3

男子

生駒正慶(いこま まさよし/まさきよ)

3

義父(養父)

藤堂高虎(とうどう たかとら)

伊勢津藩主、正室の養父、後に高俊の後見人

3

この一覧は、生駒正俊を中心とした人間関係、特に婚姻による政治的な結びつきを視覚的に示すものです。藤堂高虎との関係の重要性が改めて浮き彫りになるとともに、子女の縁組を通じて他の有力大名家とのネットワークを構築しようとしていた当時の生駒家の戦略の一端を垣間見ることができます。

第二章:逸話と評価

生駒正俊に関する個別の逸話や、彼の人となりを示す具体的な記録は多くありません。しかし、断片的な情報から、彼が生きた時代背景や藩主としての立場を推察することは可能です。

  • 丸亀城に関する逸話
    元和元年(1615年)に江戸幕府より発令された一国一城令に関連して、生駒正俊に関する興味深い逸話が伝えられています。この法令は、大名の軍事力を削ぎ、幕府の支配体制を強化する目的で、原則として一国に一つの城以外の支城の破却を命じたものです。讃岐国においては高松城が本城であり、丸亀城は支城にあたります。伝承によれば、正俊は丸亀城の破却を惜しみ、なんとか存続させようと、城の周囲に樹木を植えて城郭を隠蔽しようと試みたものの、結局は幕府に露見し、破却せざるを得なかった(あるいは城跡となった)とされています 39
    この逸話の史実性については確たる証拠があるわけではありませんが、もし事実の一端を反映しているとすれば、幕府による統制強化という大きな流れの中で、自領の重要な拠点である城に対する地方大名の愛着や、簡単には従いたくないという複雑な心情をうかがわせるものと言えるかもしれません。一国一城令は正俊の治世(慶長15年~元和7年)と時期的に合致しており、このような葛藤が生じる状況は十分に考えられます。大名にとって城は、単なる軍事施設である以上に、領国支配の権威の象徴でもありました。そのため、幕府の命令とはいえ、支城の破却には少なからぬ抵抗感があったとしても不思議ではありません。
  • 隠れキリシタン説について
    一部の資料 40 (これは歴史小説からの引用と見受けられます)には、生駒正俊とその父・一正が隠れキリシタンであり、高松市の法泉寺にある公式の墓とは別に、真の墓(教会式の彫刻が施された石棺に納められ埋葬されている)が存在するという記述が見られます。しかしながら、この説を裏付ける他の学術的な史料や確実な考古学的発見は、提供された資料群の中には見当たりません 6
    戦国時代から江戸初期にかけて、西日本を中心にキリスト教が広まり、小西行長 42 や高山右近など、キリシタン大名も存在しました。讃岐国においても、キリスト教が伝播した可能性は否定できません。しかし、生駒氏、特に正俊がキリシタンであったという点については、現時点では明確な史料的根拠に乏しく、歴史報告としてこの説を積極的に採用することは困難です。もしこの情報を取り上げる場合は、あくまで創作物に見られる記述であると明記し、慎重な扱いを期すべきでしょう。
  • 総合的な評価
    生駒正俊の藩政における具体的な手腕や、彼自身の個性、人物像を詳細に伝える一次史料は、提供された資料の範囲では限られています。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 4 では、彼の生没年、父が一正であること、関ヶ原の戦いにおける父の動向とそれに伴う自身の立場、高松藩二代藩主であったこと、そして藤堂高虎の娘(養女)を妻としたことなど、客観的な経歴が簡潔にまとめられています。
    彼の歴史的評価は、主に生駒家の当主としての立場、大坂の陣への参陣という幕府への奉公、そして藤堂家との縁戚関係といった、客観的に確認できる事績に基づいて形成されていると言えます。36歳という若さで亡くなったため 3 、藩主として独自の大きな足跡や、長期的な視野に立った領国経営の成果を残すには時間が足りなかった可能性が高いと考えられます。彼の治世は、戦国時代の動乱が終息し、江戸幕府による新たな支配体制が確立していく過渡期にあたります。このような時代において、藩主にはまず新たな体制への適応と、家名の維持・安泰が求められました。正俊の生涯は、まさにそうした時代の要請に応えようとしたものであったと推察されます。彼の個性や個人的な資質よりも、生駒家当主としての立場と役割が、歴史記録の前面に出ているのは、ある意味で自然なことと言えるかもしれません。

第三部:生駒氏と高松藩の文脈

生駒正俊個人の生涯を理解するためには、彼が属した生駒氏の歴史的背景、特に父・一正の時代や、彼が統治した高松藩が置かれた状況、そして彼の死後、生駒家を揺るがすことになる出来事への繋がりを視野に入れることが不可欠です。

第一章:父・生駒一正の時代と関ヶ原

  • 一正の経歴と関ヶ原での動向
    生駒正俊の父である生駒一正(弘治元年/1555年~慶長15年/1610年)は、その父・生駒親正(ちかまさ)と共に織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将です 1 。豊臣政権下では、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも従軍し、武功を挙げています 5
    一正の経歴において最も重要な転機となったのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いです。この天下分け目の戦いにおいて、父・親正は大坂城にあり、豊臣方(西軍)に与した(あるいは通じていた)とされる一方で 1 、一正は徳川家康に従い東軍に参加し、本戦で武功を挙げました 1 。この一正の功績により、西軍が敗北した後も生駒氏は改易を免れるばかりか、逆に一万五千石の加増を受け、讃岐国十七万石余(資料により石高に差異あり 5 )の所領を安堵されるという、破格の待遇を得ました。そして、慶長6年(1601年)には父・親正から家督を譲り受け、高松藩の初代藩主となりました 1
    関ヶ原の戦いにおける生駒家のこの対応は、父子で東西両軍に分かれることで、どちらが勝利しても家名を存続させようとする、戦国時代から見られる巧みな存続戦略の一例と言えます。豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が先鋭化し、全国の大名はどちらの陣営に与するかという極めて困難な選択を迫られました。生駒家は元来豊臣恩顧の大名であり、立場としては西軍に与しやすい状況にありました。しかし、一正は家康の会津征伐に従軍しており、その流れで東軍に加わったとされています 5 。この一正の判断と行動が、結果的に東軍勝利後も生駒家の家名と所領を保全し、さらには加増まで勝ち取るという最良の結果に繋がったのです。もし生駒家が全面的に西軍に加担していれば、他の多くの西軍方大名と同様に、改易、あるいは最悪の場合は取り潰しの運命を辿った可能性が極めて高いと言えるでしょう。一正のこの功績こそが、息子である正俊が比較的安定した大名として家督を継承する上での最大の基盤となったのです。

第二章:正俊の治世と高松藩

  • 藩体制の整備と幕藩体制への適応
    生駒正俊の藩主としての治世は約11年間と比較的短かったですが 1 、この期間は江戸幕府による全国支配体制、いわゆる幕藩体制が確立していく重要な時期にあたります。大坂の陣(元和元年/1615年終結)によって豊臣氏が滅亡し、世は徳川の天下として安定に向かい始めると、幕府は武家諸法度などを通じて諸大名の統制を強化し、各藩は幕藩体制の一翼を担う地方支配の単位としての役割を明確にしていきました。
    このような時代背景のもと、高松藩においても、藩内の統治機構の整備や、幕府の指示に基づく公役(大坂城普請への参加など 1 )への対応が求められました。藩主には、戦国時代のような武力による領地拡大ではなく、領内経営の安定化、年貢の確実な徴収、そして幕府に対する軍役や普請役などの負担を確実に果たすことが期待されるようになりました。
    讃岐国は、その地理的条件から古来より水利に課題を抱える地域であり、農業用水の確保は領民の生活と藩の財政基盤にとって死活問題でした 47 。正俊の治世において具体的な治水事業が行われたという記録は乏しいものの、将来的な領内開発の必要性は当然認識されていたと考えられます。そのような中で、正俊が藤堂高虎の養女を正室に迎えたことにより、高虎配下の優れた土木技術者であった西嶋八兵衛のような専門技術を持つ人材との接点が生まれたことは 16 、次代の高俊の治世における大規模な治水事業(香東川の改修など)への布石となった可能性が指摘できます。正俊の治世は、まさにこのような新しい時代への適応期であり、派手な武功や大規模な開発よりも、堅実な藩運営と幕府との協調が重視された時代であったと理解することができます。

第三章:その後の生駒氏と生駒騒動への序章

  • 高俊の家督相続と藤堂高虎の後見
    元和7年(1621年)、生駒正俊が36歳という若さで死去すると、その長男である高俊がわずか11歳(数え年。満年齢では10歳)で家督を相続し、高松藩四代藩主となりました 1
    藩主があまりにも幼少であったため、高俊の外祖父(母方の祖父)にあたる伊勢津藩主・藤堂高虎がその後見人として、高松藩の藩政に深く関与することになりました 3 。高虎は藩政の安定と運営のため、自身の家臣である西嶋八兵衛らを讃岐に派遣して治水事業などに当たらせるなど 18 、積極的な介入を行いました。
  • 生駒騒動の萌芽
    藤堂高虎の藩政への介入は、一方で藩内に新たな火種を生むことにもなりました。高虎の信任を得て藩政に関与するようになった家臣たち(いわゆる新参衆、代表格は前野助左衛門や石崎若狭など)と、生駒家譜代の家臣(国家老であった生駒将監・帯刀父子など)との間で、藩の主導権を巡る対立が徐々に深刻化していきました 36
    さらに、成長した藩主・高俊自身が政務を顧みず、美少年を集めて遊興に耽ったとも伝えられており 36 、藩主としての指導力不足が家臣団の対立をさらに助長した側面も指摘されています。
    これらの要因が複雑に絡み合い、藩内の対立は寛永14年(1637年)頃から表面化し、ついに寛永17年(1640年)、幕府の裁定を仰ぐ事態にまで発展します。結果として、藩主・高俊は家中仕置不届きを理由に改易され、出羽国矢島へ一万石で減転封、事実上の配流処分となりました。この一連の御家騒動は「生駒騒動」として知られています 1
    生駒正俊の早逝が、この生駒騒動に間接的ながら大きな影響を与えたことは否定できません。もし正俊が長命であり、高俊がある程度成熟した年齢で家督を継承していれば、藤堂高虎のような強力な外部の実力者による長期的な藩政介入も起こらず、藩内の権力構造も異なっていた可能性があります。正俊の代においては家の安泰に寄与した藤堂家との縁組が、次代においては藩の分裂と衰退を招く遠因の一つとなったという事実は、歴史の皮肉と言えるかもしれません。生駒騒動は、単に藩主の資質や家臣団の対立という問題だけでなく、近世初期の大名家における後見体制の難しさや、外戚関係、さらには幕府の有力者との結びつきが藩政に及ぼす影響の複雑さを示す事例として、重要な教訓を含んでいます。

おわりに

生駒正俊の生涯を総括すると、讃岐高松藩の第二代藩主として過ごした約11年間は、日本の歴史が戦国の動乱から江戸幕府による安定期へと大きく移行する過渡期にあたっていました。この短い治世の中で、彼は大坂の陣への参陣や大坂城普請への参加といった公儀御役を忠実に遂行し、幕藩体制下の大名としての役割を果たしました。

彼の人生における重要な出来事の一つは、当代きっての実力者であった藤堂高虎の養女を正室に迎えたことです。これは、当時の大名家にとって家の安泰と発展を図るための重要な生存戦略であり、実際に正俊の死後、高虎が幼い嫡男・高俊の後見人となる直接的な繋がりとなりました。しかし、その一方で、正俊自身の早すぎる死は、結果として幼君の下での藩政の不安定化を招き、藤堂高虎による藩政への深い介入を許すこととなり、これが後の生駒騒動、ひいては生駒家の改易という悲劇的な結末への遠因の一つとなった可能性は否定できません。

生駒正俊個人の藩政における具体的な手腕や、彼の人となりを詳細に伝える史料は、残念ながら現代には多く残されていません。しかし、彼の存在は、父・一正が築いた基盤を継承し、激動の時代から新たな秩序へと移行する中で生駒家を導こうとした過渡期の藩主として、また、その短い生涯と早すぎる死が結果的に家の運命に大きな影響を与えたという点で、生駒家の歴史、ひいては近世初期の外様大名の動向を理解する上で、見過ごすことのできない重要な一齣を成していると言えるでしょう。

本報告書が、ご依頼主様の生駒正俊公に対するご理解を一層深めるための一助となれば幸いです。

引用文献

  1. 歴代城主 - 高松市 https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/smph/kurashi/kurashi/shisetsu/park/tamamo/joshu.html
  2. 徳川秀忠の家臣 - 歴史の目的をめぐって https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-20-tokugawa-hidetada-kashin.html
  3. 生駒正俊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E6%AD%A3%E4%BF%8A
  4. 生駒正俊(いこま まさとし)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E9%A7%92%E6%AD%A3%E4%BF%8A-1052797
  5. 生駒一正とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%94%9F%E9%A7%92%E4%B8%80%E6%AD%A3
  6. 生駒氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E6%B0%8F
  7. 生駒氏の治政時代 https://www.city.yurihonjo.lg.jp/yashima/kinenkan/ikoma01.htm
  8. 丸亀藩:香川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/edo-domain100/marugame/
  9. 高松城の歴代城主一覧(高松藩・歴代藩主) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/88/memo/842.html
  10. 生 駒 家 歴 代 系 譜 https://www.city.yurihonjo.lg.jp/yashima/kinenkan/ikoma02.htm
  11. (資料群)土屋家 資料 : 資料群・作家データ&収蔵品一覧 | 館蔵品データベース | 香川県立ミュージアム https://jmapps.ne.jp/kpm/sakka_det.html?list_count=10&person_id=1346
  12. 4.江戸幕府のシステムに縛られた外様大名 - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2020/04/30/073948
  13. 参勤交代は片道「5億円」!? 過酷でブラックって本当? どんな費用がかかってたの? https://financial-field.com/household/entry-190610
  14. 参勤交代 https://www.jttri.or.jp/no31-10.pdf
  15. 栗林公園の歴史 https://www.my-kagawa.jp/files/user/site/8b1105d3b2b03c8a448ab02161e05b91fa437af8.pdf
  16. 西嶋八兵衛 - 香川県 https://www.pref.kagawa.lg.jp/tochikai/about_tameike/repair/nishijima.html
  17. 香川県で一番古いダム(貯水池)はどこにあるのですか? https://www.pref.kagawa.lg.jp/kasensabo/dam/kabagawa/kiso/ippan05.html
  18. 香川の土地改良 https://midorinet-kagawa.or.jp/kikanshi/kikanshi_R0203.pdf
  19. 大禹謨発見のドラマ 高松・栗林公園と西嶋八兵衛 - ミツカン 水の文化センター https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no40/08.html
  20. 藤堂高虎の城造りに見られる独創性とその理念について https://www.arskiu.net/book/pdf/1459408572.pdf
  21. (藤堂高虎と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16986_tour_067/
  22. 生駒高俊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E9%AB%98%E4%BF%8A
  23. 関ヶ原の戦いの布陣図に関する考察 - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=10386
  24. 関ヶ原の戦い・大坂冬の陣・大坂夏の陣 合戦 ジオラマ https://katuuya2012.shop-pro.jp/?mode=cate&cbid=1957493&csid=3&page=4
  25. 7歳で嫁いだ豊臣家は滅亡。家康の孫、千姫を待つ過酷な運命 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/228648/
  26. 前田利家はなぜ家康を殺さなかったのか?――五大老五奉行の時代、そして利家の最期のとき https://san-tatsu.jp/articles/271250/
  27. 戒名とは?宗派・ランク別の一覧と値段相場、付け方を解説 - いい葬儀 https://www.e-sogi.com/guide/15320/
  28. 戒名の意味 - 法界山 誓欣院 https://seigonin.jp/column/4228/
  29. 【法泉寺】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_37201ag2132085264/
  30. Vol.976-2/2 R巻頭-88。歴史(観て歩き)レポ-県都編:04<弘憲寺・法泉寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記 https://ameblo.jp/akio-ji/entry-12791172893.html
  31. 藤堂氏 家系 - Wix.com https://sasakigengo.wixsite.com/takatora/blank-1
  32. 歴史の目的をめぐって 藤堂高虎 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-20-todo-takatora.html
  33. 主君を7度も変えて出世した戦国武将・藤堂高虎 - BS11+トピックス https://topics.bs11.jp/ijin-sugaono-rirekisho_19/
  34. 藤堂高虎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E
  35. 生駒騒動 | 高松城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/88/memo/837.html
  36. 【戦国ことば解説】将軍や大名を支え続けた存在「側室」とは? 徳川家康の正室と側室も解説 https://serai.jp/hobby/1116376
  37. 福岡藩六代藩主、黒田継高息女麻姫 婚礼にみる江戸時代の大名家の結婚 https://seinan-kokubun.jp/wp-content/uploads/2019/03/ushifusa.pdf
  38. 香川県丸亀城観光が10倍面白くなる!丸亀城の歴史や秘密を徹底解説 - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/20190406-kagawamarugame-02/
  39. 小説『天女と悪龍』(てんしとあくり ゅう) 作 築港万 次郎(ちっこうまん・じろう) この小説は - 源内・コード http://gennaicode.com/syousetu/stensi.pdf
  40. 「キリスト教系外来新宗教」研究の新たな研究視座 http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DS/0042/DS00420L019.pdf
  41. 小西行長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
  42. キリシタン大名・黒田官兵衛/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97075/
  43. 「キリスト教系外来新宗教」研究の新たな研究視座 https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DS/0042/DS00420L019.pdf
  44. 《第3回》キリシタン弾圧の地・島原半島へ―灼熱の雲仙地獄と原城の聖マリア観音 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12903/
  45. 「宗教」を読み解く 254 外交公使団の抗議と「浦上の旅人」たち - Kogensha News App https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=18487
  46. 4 治水・利水で讃岐を救った先覚者 西島八兵衛 https://yonkeiren.jp/sef/senkakusha4.pdf
  47. 【生駒騒動】譜代家臣 VS 新参の権力闘争!典型的な御家騒動の結末とは?(生駒藩/香川県) - 歴史人 https://www.rekishijin.com/24708
  48. 生駒高俊とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%94%9F%E9%A7%92%E9%AB%98%E4%BF%8A
  49. 生駒騒動 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E9%A8%92%E5%8B%95
  50. 生駒騒動(いこまそうどう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E9%A7%92%E9%A8%92%E5%8B%95-30355
  51. 生駒家時代讃岐高松城屋敷割図 付同引伸図 - 高松市 https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/smph/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/shiteibunkazai/shoseki/fudo.html