最終更新日 2025-06-28

田中吉興

「田中吉興」の画像

田中吉興の生涯 ― 筑後柳河藩主家の継承と断絶、そして旗本としての再興

序章:歴史の影に埋もれた大名、田中吉興

本報告書は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、田中吉興(たなか よしおき)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。田中吉興は、関ヶ原の戦いにおける石田三成捕縛という大功により、筑後一国三十二万五千石の大守にまで上り詰めた田中吉政の三男として生を受けた人物である 1 。しかしながら、歴史上、彼の名は父・吉政の華々しい立身出世や、弟・忠政の代での柳河藩田中家の無嗣断絶という劇的な結末の影に隠れ、多くの場合「病弱であったため家督を継げなかった人物」という簡潔な記述で片付けられてきた 3

しかし、その生涯を丹念に追うと、単なる受動的な存在とは言い難い、複雑な側面が浮かび上がってくる。彼の人生は、江戸幕府成立初期における政治力学、特に徳川家による「豊臣恩顧大名」の統制と再編という、より大きな歴史的プロセスの縮図であった。吉興の人生における重要な転機、すなわち家督継承からの除外、そして本家改易後の名跡継承という出来事は、いずれも徳川幕府の強い意向が反映された結果である。これは、江戸初期における大名家の存亡が、いかに幕府の裁量一つにかかっていたかを如実に物語っている。

本報告書では、吉興を単に運命に翻弄された悲運の人物としてではなく、一族の断絶という危機に際してその名跡を未来へ繋ぐという重要な役割を担ったキーパーソンとして再評価する視点に立つ。そのために、後世に編纂された『田中興廃記』などの物語的色彩の強い史料と、幕府の公式記録である『寛政重修諸家譜』などの記述を比較検討し、史料批判的な分析を通じて、より客観的で深みのある田中吉興像を構築することを目指す。彼の生涯の軌跡は、歴史の表舞台から隠された一人の武将の物語であると同時に、戦国の世が終わり、幕藩体制という新たな秩序が確立されていく時代の、生々しい現実を映し出す貴重な証言なのである。

第一章:田中家の出自と吉興の誕生

田中吉興の生涯を理解するためには、まず彼の父である田中吉政がいかにして一介の出自から大大名へと成り上がったのか、その背景を把握することが不可欠である。吉興の運命は、この父が築き上げた巨大な遺産と、その存続を巡る政治的圧力の中で形作られていったからである。

第一節:父・田中吉政の立身 ― 筑後三十二万石への道

江戸幕府によって編纂された大名・旗本の系譜集である『寛政重修諸家譜』によれば、田中氏の祖先は近江国高島郡田中村(現在の滋賀県高島市)に居住し、伯耆守嵩弘の代から田中姓を称したと記録されている 2 。一説には近江源氏佐々木氏の庶流である高島氏の一族であったともされるが、織田信長の近江侵攻の頃には武士の身分を離れ、帰農していたという 2

このような出自から身を起こしたのが、吉興の父、田中吉政(幼名:久兵衛)であった。彼は百姓の身から、地元の武将・宮部継潤に仕官し、やがて羽柴秀吉(豊臣秀吉)に見出されることとなる 1 。天正13年(1585年)、秀吉の甥である豊臣秀次が近江八幡に43万石を与えられると、吉政はその筆頭家老格に抜擢され、秀次の居城である八幡山城にあって政務を取り仕切った 2 。この時期、城下町と琵琶湖を結ぶ八幡堀の開削など、卓越した行政手腕を発揮し、後の近江商人の発展の礎を築いたことは特筆に値する 9

吉政のキャリアにおける最大の危機は、文禄4年(1595年)に発生した「秀次事件」であった。主君である関白・秀次が秀吉から謀反の嫌疑をかけられ、切腹に追い込まれたこの事件では、多くの秀次家臣が連座して粛清された。しかし吉政は、日頃から秀次の素行を諫言していたことなどが秀吉に評価され、この難を逃れただけでなく、むしろその後の豊臣政権下で信頼を高めていく 8 。事件後は三河国岡崎城主として十万石を領する大名へと出世を遂げた。

そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、吉政は徳川家康率いる東軍に与した。本戦での活躍はもとより、敗走した西軍の主将・石田三成を伊吹山中で発見し、捕縛するという決定的な大功を立てる 1 。この功績が家康に高く評価され、戦後、筑後一国三十二万五千石という破格の恩賞を与えられ、柳河藩の初代藩主となったのである 1

田中吉興は、この目覚ましい立身出世物語の渦中に、吉政の三男として生を受けた。父は正室である国友与左衛門の娘との間に、長男・吉次、次男・吉信(則政)、三男・吉興(康政とも)、四男・忠政を儲けていた 2 。吉興の人生は、父が一代で築き上げたこの巨大な権力と富を、いかにして次代へ継承していくかという、極めて重大かつ困難な課題を背負って始まることになった。

この父・吉政の経歴は、田中家の存続戦略に決定的な影響を与えた。特に、主君であった豊臣秀次が叔父の秀吉によって破滅させられた秀次事件を、その側近として乗り切った経験は、吉政に極めて高度な政治感覚を植え付けたと考えられる。彼は、旧主である豊臣家への恩義と、新たな覇者である徳川家への順応という、二律背反の要求の間で絶妙な均衡を保つ必要性を痛感していたはずである。息子たちの処遇、とりわけ四男の忠政を早くから人質として江戸の徳川家康のもとへ送ったという決断は 4 、この吉政の深謀遠慮の表れに他ならない。それは、万が一の場合に備えた「保険」であり、徳川の世が到来することを見越した、家名存続のための戦略的な布石であった。田中吉興の後の運命もまた、この父が描いた生存戦略の大きな文脈の中で理解されなければならない。

第二章:家督相続の力学 ― 柳河藩主の座を巡って

田中吉政の死後、三十二万五千石という広大な領地と藩主の地位を誰が継ぐのかという問題は、田中家にとって最大の懸案事項となった。この家督相続の過程で、長幼の序という伝統的な論理と、江戸幕府という新たな中央権力の政治的思惑が複雑に絡み合い、最終的に三男である吉興の運命を大きく左右することになる。

第一節:兄たちの退場 ― 吉次と吉信

本来であれば、家督は嫡男である長兄・田中吉次が継承するはずであった。吉次は父・吉政に従い、豊臣秀吉、そして秀次に仕え、関ヶ原の戦いにも父と共に東軍として参陣している 15 。しかし、関ヶ原の戦功により父が筑後柳河藩主となった後、吉次は父・吉政と深刻な不和に陥り、柳川から出奔してしまった 15 。このため、彼は廃嫡されるに至った。父子間の不和の具体的な原因について、信頼できる史料は沈黙しているが、この一件が田中家の後継者計画に最初の狂いを生じさせたことは間違いない。吉次は父の許しを得られないまま、元和3年(1617年)に京都で失意のうちに病死した 15

次に後継者候補となるべきは、次兄の田中吉信(則政)であった。彼は父の筑後入国に伴い、領内の支城である久留米城の城主を務めていた 2 。しかし、吉信もまた若くしてこの世を去る。その死については、慶長11年(1606年)説と慶長15年(1610年)説があり、死因についても、家臣を手討ちにしようとして返り討ちに遭った、あるいは近侍の者と相撲を取った際に負った傷がもとで破傷風になったなど、複数の説が伝えられているが、いずれも確たるものではない 17 。いずれにせよ、吉信の早世によって、家督相続の序列はさらに繰り下がることになった。

第二節:「病弱」という名の政治的配慮

長兄・吉次が廃嫡され、次兄・吉信が早世したことで、長幼の序に従えば、三男である田中吉興が後継者となるのが自然な流れであった 3 。彼は田中家の正統な跡継ぎとして、歴史の表舞台に登場するはずだった。

ところが、史料が伝えるところによれば、吉興は「病弱」を理由として継嗣の座から外されたという 3 。そして、家督は彼の弟である四男・忠政が継承することになったのである。この「病弱」という理由は、後世の編纂物を含め、複数の史料で共通して言及されており、一見すると説得力のある説明のように思われる。

しかし、この公式見解には重大な疑義が存在する。吉興が亡くなったのは寛永6年(1629年)である 3 。一方、家督を継いだ弟の忠政は、元和6年(1620年)に36歳の若さで亡くなっている 4 。つまり、藩主の座を譲ったはずの「病弱」な兄が、健康であったはずの弟よりも9年も長生きしているのである。この事実は、「病弱」という理由が、家督を継承できないほど深刻なものであったのか、あるいはそれが後継者選定における唯一かつ決定的な理由であったのかについて、根本的な疑問を投げかける。この矛盾は、家督相続の背後に、表向きの理由とは異なる、より政治的な力学が働いていた可能性を強く示唆している。

第三節:選ばれた後継者、忠政と徳川の影

吉興を差し置いて家督を継いだ四男・田中忠政の経歴を検証すると、事態はより明確になる。忠政は、父・吉政の深謀遠慮により、早くから江戸に送られ、徳川家康の人質としてその下で成長した 4 。この江戸での生活を通じて、彼は家康や二代将軍・秀忠から直接薫陶を受け、個人的な信頼関係を構築するに至った。家康自らの計らいで叙任されるなど、その寵愛ぶりは際立っていた 4

慶長14年(1609年)に吉政が亡くなると、この徳川家との強固なパイプが決定的な意味を持つことになった。江戸幕府の公式記録である『寛政重修諸家譜』には、忠政の家督相続について「吉政逝去後、徳川家の示唆により家督を継ぐ」とはっきりと記されている 2 。これは、田中家の家督相続が、一族の内部的な決定ではなく、幕府の政治的介入によって決着したことを示す動かぬ証拠である。

これらの事実を総合すると、田中家の家督相続問題は、近世初期における「家」の論理と「公儀(幕府)」の論理が衝突した典型例であったことがわかる。長幼の序という武家の「家」の伝統的な論理は、幕府への忠誠と関係性の強さという、新たな時代の「公儀」の政治的論理の前に後退を余儀なくされた。幕府にとって、関ヶ原の戦功で巨大な力を持った豊臣恩顧の田中家を確実に支配下に置くためには、自らが直接管理・教育し、その忠誠心を確認できている忠政を藩主に据えることが最も合理的かつ安全な選択であった。この文脈において、吉興の「病弱」という理由は、この政治的決定を円滑に進め、内外の不満を抑えるための、極めて便利な「公式見解(方便)」であった可能性が極めて高いと言えるだろう。

第四節:柳河藩田中家の終焉

第二代柳河藩主となった忠政は、父・吉政と同様にキリスト教に対して寛容な政策を維持した。家臣がキリシタンを殺害した際には激怒してその家臣を即座に処刑したという逸話が残るほど、その保護姿勢は徹底していた 4

しかし、彼の治世は長くは続かなかった。元和6年(1620年)、忠政は嗣子を儲けることのないまま、36歳の若さで急死してしまう 4 。これにより、大大名・柳河藩田中家は「無嗣断絶」を理由に、幕府から改易を命じられた 4 。わずか二代、20年で、田中家による筑後支配は幕を閉じたのである。

この改易の背景には、公式理由である「無嗣」に加えて、忠政のキリスト教保護政策が幕府の不興を買ったためではないか、という説が根強く存在する 4 。幕府は慶長17年(1612年)に禁教令を発布しており、忠政の行動はこれに公然と逆らうものであった。通常、嗣子がいない場合、幕府の許可を得て養子を迎えることで家名の存続が図られるケースも少なくない。しかし、田中家に対してはそのような温情措置が取られず、即座に改易という最も厳しい処分が下された。この厳格な対応は、忠政のキリスト教保護に対する懲罰的な意味合いが含まれていた可能性を強く示唆する。幕府は、「無嗣」という誰もが反論し難い法的な形式を整えつつ、その実、禁教令という幕府の基本政策に背いた大名家に対する見せしめとして、田中家を取り潰したのである。これは、法と実情を巧みに使い分け、大名を統制しようとする江戸幕府初期の統治術を如実に示す事例と言えよう。

第三章:分家当主から田中家名跡の継承者へ

柳河藩主家が断絶するという激震の中、歴史の片隅に追いやられていたかに見えた田中吉興が、再び中心的な役割を担うことになる。彼は、一度は弟に譲った家の運命を、予期せぬ形で背負うことになったのである。

第一節:筑後田主丸三万石の領主として

家督を継ぐことができなかった吉興であったが、彼は決して冷遇されていたわけではなかった。弟・忠政が柳河藩主となると、吉興はその治世下で筑後国内に三万石の領地を分与され、大名の弟として、また支藩の主、あるいは大身旗本に準ずる格別の待遇を受けていた 3

吉興は、その領地である現在の福岡県久留米市田主丸町村島に居館を構えた。そして、この地で町づくりに着手したとされ、現在の田主丸の町並みの基礎は、この吉興の時代に築かれたものと考えられている 3 。これは、父・吉政が近江八幡や三河岡崎、そして筑後柳川で発揮した卓越した都市設計の才を、吉興もまた受け継いでいたことを示唆している。彼は単に領地を与えられただけでなく、その地で積極的に領国経営を行っていたのである。

第二節:本家改易と田中家の再興

元和6年(1620年)、弟・忠政の急死により、宗家である柳河藩は無嗣断絶として改易された。これにより、田中家は完全に断絶するかに思われた。しかし、ここで幕府は意外な裁定を下す。父・吉政が関ヶ原の戦いで立てた石田三成捕縛という比類なき功績を考慮し、田中家の家名存続を特別に許可したのである。そして、その名跡を継ぐべき人物として白羽の矢が立ったのが、吉興であった 3

吉興は、かつての一族の所領とは比較にならないものの、近江国野洲郡、三河国田原、そして上野国新田などに分散する形で、合計二万石を与えられ、大名としての田中家を再興した 3 。三十二万五千石から二万石への大幅な減封は、忠政の代での幕府の不興を反映した厳しいものであったが、完全な取り潰しを免れたという点では、幕府の温情、あるいは政治的計算が働いた結果と見ることができる。

この田中家の再興は、単なる温情措置と見るべきではない。それは、父・吉政の「功」と弟・忠政の「罪」とを相殺し、大幅に減封した上で存続を許すという、幕府の巧みな「アメとムチ」の統治術の表れであった。幕府は、吉政の功績に報いるという「義」の側面を他の大名に示す一方で、忠政のキリスト教問題を決して不問にはせず、大幅な減封という実質的な罰を与えた。この裁定は、他の大名に対し、禁令を破れば厳罰に処されるという見せしめと、功績さえあれば家名は存続できるという懐柔の両方の効果を狙った、高度な政治的パフォーマンスであった。そして、田中吉興という存在は、このパフォーマンスを成立させるための、まさにうってつけの駒となったのである。

さらに、再興後の所領地が近江・三河・上野という三カ国に分散されていた点も重要である 3 。これは、大名が一つの地域に強固な地盤を築き、力を蓄えることを防ぐための、江戸幕府の典型的な知行割政策であった。この措置により、再興された田中家は、その当初から幕府の厳格な統制下に置かれることが運命づけられていた。

表1:田中吉興の二万石所領内訳

国 (Province)

郡 (District)

石高 (Koku)

備考 (Notes)

近江国 (Ōmi)

野洲郡 (Yasu)

(不明)

田中家発祥の地であり、政治的象徴性を持つ。

三河国 (Mikawa)

田原 (Tahara)

(不明)

徳川家康のお膝元であり、監視下に置きやすい土地。

上野国 (Kōzuke)

新田郡 (Nitta)

(不明)

関東の要地。

合計 (Total)

-

二万石 (20,000)

史料 3 に基づく。

第四章:旗本田中家の成立とその後の変遷

大名として田中家を再興させた吉興であったが、彼の一族が歩む道は依然として平坦ではなかった。彼の代で再び後継者問題が浮上し、その後の田中家は度重なる浮沈を経験しながら、最終的に幕藩体制の中に吸収されていくことになる。

第一節:血の断絶と養子による家名維持

二万石の大名として家名を再興した吉興であったが、彼には実の男子がおらず、家はまたしても断絶の危機に瀕した 3 。この事態に対し、再び幕府が介入する。元和8年(1622年)、吉興は将軍・徳川秀忠の命令により、徳川譜代の重臣である菅沼定盈の八男・定官(さだすけ)を自身の娘の婿養子として迎え、家督を譲ることになった 3 。定官は田中家の家督を相続するにあたり、名を田中吉官(よしすけ)と改め、二万石の領主となった。

この養子縁組は、単なる後継者問題の解決以上の、極めて象徴的な意味を持っていた。かつて豊臣恩顧の大名であった田中家が、その血統を絶ち、幕府の命令によって徳川譜代の血を導入することで家を存続させる。これは、田中家がもはや独立した大名ではなく、完全に徳川幕府の支配システムの一部に組み込まれたことを意味する出来事であった。吉興によって一度は再興された「田中家」は、この養子・吉官の代で、実質的に「徳川譜代系田中家」へとその性格を大きく変質させたのである。

第二節:再度の改易と小身旗本としての存続

養子として家を継いだ田中吉官は、将軍・秀忠の小姓頭に昇進するなど、当初はその将来を嘱望されていた 21 。しかし、その栄光は長くは続かなかった。家督相続のわずか1年後である元和9年(1623年)、吉官は配下の小姓組の同輩が罪を犯したことに連座し、その責任を問われて除封(改易)されてしまったのである 3 。これにより、田中家は再興からわずか1年で、再び大名の地位を失うことになった。

この一連の出来事は、江戸初期の武家社会における「罪」と「赦し」のメカニズムを端的に示している。連座という厳格な責任追及の原則がある一方で、一度は改易という最も重い罰を受けても、再起の道が完全に閉ざされるわけではなかった。吉官は寛永2年(1625年)に赦免されると、蔵米二千俵を与えられて御書院番として幕府に再出仕を果たした 21 。これは、大名から幕府直臣の旗本へと身分は大きく下がったものの、武士としてのキャリアを継続できたことを意味する。その後、吉官は順調に昇進を重ね、最終的には知行五千石の大身旗本にまで返り咲いた 21

この「一度地位を剥奪し、より低い身分で救済する」という手法は、対象者のプライドを打ち砕き、幕府への絶対的な忠誠心を植え付ける上で極めて効果的であった。かつての三十万石大名の栄光は完全に失われたが、代わりに田中家は幕府中枢に近い、安定した旗本の地位を得た。これは、戦国の実力主義の世が終わり、幕藩体制の厳格な身分秩序の世へと社会が完全に移行したことを象徴する出来事であった。

しかし、吉官の子孫の代になっても田中家の受難は続く。元禄15年(1702年)、当主であった田中定安が狂気を理由に改易される。その後、同族の者による名跡相続が許され、最終的に五百俵取りの小身旗本として、幕末までかろうじて家名を繋いだ 21

第三節:吉興の最期と一族

養子・吉官に家督を譲り、一族の存続に道筋をつけた田中吉興は、その後の寛永6年(1629年)5月6日にその波乱の生涯を閉じた 3 。彼の墓所は、京都紫野にある臨済宗大徳寺の塔頭、三玄院に現存している 3 。この三玄院は、石田三成や古田織部など、戦国の世に名を馳せた武将たちゆかりの寺院であり、吉興がそのような場所を終の棲家として選んだことは、彼が生きた時代の記憶を今に伝えている。

なお、田中一族の複雑な内情を物語る傍証として、吉政の弟である田中氏次の存在が挙げられる。氏次の系統は、肥後熊本藩主・細川家に仕える藩士として続いていた。しかし、兄・吉政とは不和であったとされ、柳河の田中本家が断絶の危機に瀕した際や、吉興に後継者がいなかった際にも、養子を出すなどの援助を行うことはなかった 3 。これは、田中家が外的な政治圧力だけでなく、一族内部の不和という問題も抱えていたことを示唆している。

結論:田中吉興の生涯が示すもの

田中吉興の生涯は、父・吉政の武功によって築かれた大大名家の栄光、弟・忠政の代での突然の断絶、そして自らが名跡を継いでからの度重なる危機と、まさに「興廃」という言葉を体現したものであった。通説として語られてきた「病弱な三男」という一面的なイメージは、家督相続を巡る徳川幕府の政治的介入という、より複雑な実態を覆い隠すための表層的な言説に過ぎない。その実像は、時代の激流の中で一族の存続という重責を担い、幕府の意向を読みながら巧みに立ち回り、結果として家名を未来へ繋いだ人物として再評価されるべきである。

彼の物語は、歴史の大きな転換期における重要な論点をいくつも提示している。第一に、江戸幕府成立初期における、豊臣恩顧の有力大名に対する淘汰と再編の過程を生々しく映し出している。第二に、武家の伝統的な価値観である長幼の序が、新たな中央権力である幕府の政治的論理の前にいかに無力であったかを示し、家の存続を巡る血縁と政治の相克を浮き彫りにしている。そして第三に、戦国の実力主義から幕藩体制という新たな身分秩序への移行期を、一人の武家がいかに生き抜いたかというリアルな姿を伝えている。

さらに、吉興の生涯を再構築する作業は、歴史学における史料批判の重要性を改めて示唆する。特に、江戸時代中期以降に成立した『田中興廃記』のような編纂史料は、貴重な情報源であると同時に、その記述を無批判に受け入れることの危険性もはらんでいる 22 。近年の研究では、これらの史料が特定の意図、例えば吉興が家督を継げなかった理由を正当化するような物語的脚色を含んでいる可能性が指摘されている 23 。本報告で試みたように、幕府の公式記録である『寛政重修諸家譜』や、同時代の他の文書史料と突き合わせ、多角的に検証する作業を通じて初めて、より客観的な歴史像に迫ることが可能となる 2

田中吉興は、歴史の表舞台から意図的に、あるいは結果的にその姿を隠された人物であった。彼の波乱に満ちた生涯を丹念に掘り起こすことは、歴史の行間を読み解き、隠された真実に光を当てるという、歴史研究の醍醐味と、その困難さそのものを我々に教えてくれるのである。

引用文献

  1. 田中吉政(たなかよしまさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E6%94%BF-93854
  2. 田中吉政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E6%94%BF
  3. 田中吉興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E8%88%88
  4. 田中忠政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%BF%A0%E6%94%BF
  5. 田中吉政公とその時代 http://snk.or.jp/cda/yosimasa/jidai.html
  6. 田中吉政とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E6%94%BF
  7. 田中家の三十二万石 - 光文社 https://books.kobunsha.com/book/b10131708.html
  8. 立花宗茂と吉政 - 柳川市 https://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/rekishibunka/ijin/ijin_tachibanamuneshige.html
  9. 【城下町ヒストリー・柳川編】掘割に囲まれた珍しい城下町を造ったのは立花宗茂?それとも田中吉政? - 城びと https://shirobito.jp/article/508
  10. 田中吉政(1/1) | ドリップ珈琲好き https://ameblo.jp/hyakuokuitininnmenootoko/entry-12598177304.html
  11. 敗軍の将にも慇懃に接した武将ー田中吉政 | 京都案内人のブログ https://ameblo.jp/2633ganko-jiji/entry-11968106130.html
  12. 幕府の大名統制・改易と転封(1) - 大江戸歴史散歩を楽しむ会 https://wako226.exblog.jp/239585698/
  13. 柳川藩家臣のご先祖調べ https://www.kakeisi.com/han/han_yanagawa.html
  14. 歴史の目的をめぐって 田中吉政 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-16-tanaka-yoshimasa.html
  15. 田中吉次とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E6%AC%A1
  16. 田中吉次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E6%AC%A1
  17. TB15 田中重信 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/tb15.html
  18. 田中吉信とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E4%BF%A1
  19. 改易 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E6%98%93
  20. 初代筑後国主 田中吉政 - 八女市 https://www.city.yame.fukuoka.jp/material/files/group/33/tanak2018jidaiten.pdf
  21. 田中吉官 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E5%AE%98
  22. 筑後国三十二万五千石と田中吉政 http://www.snk.or.jp/cda/yosimasa/chikugo.html
  23. 田中吉政と石田三成、豊臣秀次の真実の姿を本物のかつらで演じて伝えたい https://camp-fire.jp/projects/221715/view
  24. くるめ-コラム - 久留米文学散歩 Archive - クルメスタイル https://kurumestyle.com/wp/?cat=55&paged=4
  25. くるめ-コラム - 久留米文学散歩 Archive - クルメスタイル https://kurumestyle.com/wp/?cat=55