本報告書は、戦国時代の但馬国(現在の兵庫県北部)にその名を刻んだ一人の国人領主、田結庄是義(たいのしょう これよし)の生涯を、多角的な視点から徹底的に分析し、その悲劇的な結末に至る歴史的背景と必然性を解き明かすことを目的とする。是義の生涯は、単なる地方豪族間の小競り合いとして矮小化されるべきではない。それは、織田信長と毛利輝元という二大勢力の角逐が地方の政治力学に如何なる影響を及ぼしたか、そして主家である守護大名・山名氏の衰退が被官たる国人領主たちの運命をいかに翻弄したかを示す、戦国時代の一断面を切り取った貴重な事例である。
田結庄是義は、守護大名・山名氏の権威が失墜していく過渡期にあって、自家と領地の存続を賭して天下の趨勢を見極めようとした、戦国期の典型的な国人領主の一人として位置づけられる 1 。彼が下した親織田という政治的決断と、それに伴う宿敵・垣屋氏との死闘は、中央の政局に激しく揺さぶられる地方武士の苦悩と、時代の奔流に抗えぬ宿命を象徴している 3 。本報告では、是義の出自から、彼が拠点とした鶴城の構造、そして滅亡の直接的な原因となった「野田合戦」の全貌に至るまで、現存する史料や研究成果を基に、その実像に迫る。
西暦(元号) |
但馬の動向(田結庄・垣屋・山名氏関連) |
中央・周辺国の動向(織田・毛利・尼子氏関連) |
典拠史料・資料 |
1528年(大永8) |
山名祐豊が山名氏の家督を継承する。 |
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4 |
1569年(永禄12) |
8月、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が但馬に侵攻(第一次但馬侵攻)。山名祐豊は織田氏に臣従する。是義もこれに従い、織田派の立場を明確にする。 |
織田信長が勢力を拡大。 |
5 |
1570年(元亀元) |
9月15日、田結庄是義が毛利派の垣屋続成を岩井村養寿院にて奇襲し、自刃に追い込む。 |
織田信長と毛利氏の対立が徐々に顕在化する。 |
1 |
1575年(天正3) |
山名祐豊が毛利氏と和睦。10月、垣屋光成・豊続らが是義を攻撃(野田合戦)。是義は敗北し、菩提寺の正福寺にて自害する(享年38歳)。田結庄氏は滅亡。 |
織田信長が長篠の戦いで勝利。天下布武を推進。 |
1 |
1577年(天正5) |
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羽柴秀吉が信長の命により中国攻めを開始。 |
12 |
1580年(天正8) |
5月、羽柴秀長による第二次但馬平定戦。垣屋豊続が支配していた鶴城は落城し、廃城となる。有子山城も落城し、守護・山名氏は事実上滅亡。垣屋光成は秀吉に降伏。 |
秀吉が三木城を落とし、播磨を平定。 |
12 |
田結庄氏の姓の起源は、その勢力基盤となった庄園「田結庄(たいのしょう)」に由来する。この庄園は、古代の但馬国城崎郡に見える「田結郷(たゆいごう)」の郷域の一部が庄園化したものと推測され、現在の兵庫県豊岡市田結(たい)から円山川下流域一帯に比定される 4 。史料上の初出は古く、承久三年(1221年)と推定される北条義時の書状案に「田結庄濫妨事」の文言が見え、鎌倉時代初期には既に所領としての実態を持ち、その支配を巡る紛争が存在したことが確認できる 16 。
この地を苗床として成長した田結庄氏は、室町時代に入ると但馬守護・山名氏の有力な被官へと飛躍を遂げる。特に、応仁の乱で西軍の総帥として知られる山名持豊(宗全)の時代には、一族の田結周防入道が播磨国明石郡の郡代を務めるなど、山名氏の広大な領国経営において重要な役割を担っていた 17 。永正十四年(1517年)には田結庄持久という人物の名も史料に現れ、戦国期に至るまで、但馬国人として確固たる地位を築いていたことがわかる 17 。
田結庄氏が本拠とした円山川下流域東岸という地理的条件は、その後の運命を大きく左右する要因となった。この地は、円山川を挟んで西岸に勢力を張る宿敵・垣屋氏と直接対峙する最前線であった 4 。同時に、京都方面から但馬へ至る交通の要衝でもあり、中央の政治情勢、特に東から勢力を拡大する織田信長の動向に敏感たらざるを得ない地政学的な位置にあった。この立地こそが、後に是義が織田勢力との連携を選択し、毛利氏と結んだ垣屋氏との全面対決へと突き進む、一つの遠因となったと考えられる。
戦国期の田結庄是義を語る上で欠かせないのが、「山名四天王」の一角という称号である。山名四天王とは、但馬守護・山名氏の領国支配を支えた四つの有力国人、すなわち垣屋氏、田結庄氏、八木氏、そして太田垣氏の当主を指す総称とされる 2 。是義が活躍した時代においては、田結庄是義、垣屋続成、八木豊信、太田垣輝延の四名が、それぞれの家を代表する当主であった 2 。
当初、彼らは守護の権力を支える重臣として機能していたが、応仁の乱以降、宗家である山名氏の勢力が衰退の一途をたどるにつれて、その関係性は大きく変質する。四天王はそれぞれが独立性を強め、もはや主家の統制を受けない自立した国人領主連合としての性格を色濃くしていった 2 。彼ら筆頭家臣同士の対立、特に是義と垣屋続成の間の深刻な不和は、主君である山名祐豊の領国経営そのものを根底から揺るがすほどの問題となっていた 5 。
ここに、「四天王」という呼称の持つ逆説的な意味合いが浮かび上がる。本来、四天王とは仏法を守護する強力な存在であり、主君への絶対的な忠誠と武勇を象徴する言葉である。しかし、是義の時代の山名四天王の実態は、主家の意向を離れて織田方と毛利方に分裂し、あまつさえ同輩間で死闘を繰り広げるという、統制が完全に崩壊した状態を示していた 1 。この事実は、但馬守護・山名氏の権威が名目上のものに過ぎなくなり、実権が国人領主たちの手に移っていたことを物語っている。「山名四天王」という言葉は、彼らが強大な存在であったことを示すと同時に、もはや主家が彼らを制御できていなかったという、皮肉な現実を浮き彫りにしているのである。
田結庄氏の権勢を象徴するのが、本拠としていた鶴城(つるじょう)である。現在の豊岡市山本、円山川東岸にそびえる標高約112メートル、比高約110メートルの愛宕山に築かれたこの山城は、豊岡市街と豊岡盆地を一望する戦略的要地に位置する 4 。城域は南北に約660メートル、東西に約460メートルにも及び、但馬国でも有数の規模を誇る大規模城郭であった 4 。
城の縄張りは、山頂の主郭を中心に、南北に伸びる尾根上に複数の曲輪(くるわ)を階段状に配置した連郭式を基本とする 14 。その城全体の姿が、あたかも鶴が翼を広げたように見えることから「鶴城」の名がついたと伝えられている 5 。城内には、防御の要となる堀切、土塁、切岸といった中世山城の基本的な遺構が良好に残り、戦国期の緊迫した状況を今に伝えている 22 。
鶴城の構造で最も注目すべき特徴は、城の東側斜面に集中的に設けられた「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」である 5 。これは、山の斜面に対して垂直に、無数の竪堀を櫛の歯のように並べて掘削した防御施設であり、斜面を登ってくる敵兵の横移動を著しく困難にし、防御側が上から一方的に攻撃を加えることを容易にするためのものである。この畝状竪堀群は、同じく山名四天王であった垣屋氏の城(楽々前城など)にも見られる、但馬地方の城郭に特徴的な防御様式の一つである 22 。
この厳重な防御施設が、城の東側に偏在しているという事実は、極めて重要な戦略的意味を持つ。城郭の構造は、城主がどの方向からの攻撃を最大の脅威と認識していたかを物語る物的な証拠である。鶴城の東方には、円山川を挟んで宿敵・垣屋氏の広大な勢力圏が広がっていた 4 。また、後に但馬を席巻することになる織田信長の勢力も、京都方面、すなわち東から進出してくる。したがって、鶴城東面に構築された畝状竪堀群は、田結庄氏にとって恒常的な脅威であった垣屋氏、そして新たな脅威として台頭した織田勢力からの大規模な攻撃を想定し、それに対抗するために築かれたものと結論付けられる。城の縄張りそのものが、是義が置かれていた地政学的な緊張状態を雄弁に物語っているのである。
田結庄是義が生きた16世紀後半の但馬国は、中央の政局変動の波に直接晒されていた。その中心にいたのが、是義の主君である但馬守護・山名祐豊であった。しかし、祐豊の指導力は但馬一国をまとめ上げるにはあまりに脆弱であった。彼の外交政策は、遠方の強敵と結び近隣を攻める「遠交近攻」を基本としながらも、首尾一貫した戦略性に欠け、眼前の状況に応じてそれまでの態度を一変させる「場当たり的な便宜主義」と評されるものであった 25 。尼子氏、毛利氏、そして織田氏という周辺の強大な勢力の間で、同盟と敵対を繰り返すその姿は、家中の統制を著しく損なう結果を招いた 17 。
この状況を決定的に動かしたのが、永禄十二年(1569年)の羽柴秀吉による第一次但馬侵攻である 6 。織田信長の命を受けた秀吉軍は、但馬に深く進攻し、山名氏の本城である此隅山城などを次々と攻略した 7 。この圧倒的な軍事力の前に、山名祐豊は抗しきれず、織田氏への臣従を余儀なくされる 5 。この出来事は、それまで曖昧な態度を保っていた但馬の国人衆に対し、織田につくか、あるいは西国の雄・毛利につくかという、明確な踏み絵を踏ませる直接的な契機となった。
主君である祐豊の指導力の欠如と、場当たり的で一貫性のない外交方針は、但馬国人衆の間に深刻な亀裂を生み出した。強力なリーダーシップによって家臣団を統率することができなくなった結果、田結庄氏や垣屋氏のような有力な被官たちは、もはや主君の意向を待たず、自らの領地と一族の存続を賭けて、それぞれが独自の判断で外部勢力と結びつく道を模索し始める。是義と垣屋続成の対立が、単なる領地争いから血で血を洗う死闘へと発展した背景には、頼るべき主君が乱世の羅針盤としての役割を全く果たせなかったという、構造的な問題が存在したのである。
主君・祐豊が織田氏に臣従すると、田結庄是義はこれを好機と捉え、明確に「織田派」としての立場を表明する 1 。この決断は、単なる主君への追従ではなかった。彼の本拠・鶴城が織田勢力の支配域と東方で隣接するという地政学的な状況に加え、当時「天下布武」を掲げて破竹の勢いであった織田信長の将来性を見越した、合理的かつ先進的な政治判断であったと考えられる 5 。
一方、是義の宿敵であった垣屋続成(史料によっては豊続とも記される 3 )は、これとは全く逆の道を選択し、西国の毛利氏との連携を深めていく 1 。この選択の背景には、是義への個人的な対抗意識はもちろんのこと、但馬における旧来の権益を守ろうとする保守的な立場があったと見られる 17 。こうして、但馬国内における両者の対立は、単なる領地争い(是義が垣屋氏の勢力下にあった美含郡の併合を狙っていたとの説がある 1 )という次元を超え、織田と毛利という二大勢力の代理戦争という様相を色濃く呈していくことになった 3 。
この政治的分裂状況を、山名四天王の動向から俯瞰すると、是義の置かれた立場がいかに孤立したものであったかが明確になる。
氏族名 |
当主名(推定) |
本拠城 |
所属勢力(織田方/毛利方) |
備考 |
田結庄氏 |
田結庄是義 |
鶴城 |
織田方 |
永禄12年以降、明確に親織田路線をとる。 |
垣屋氏 |
垣屋続成・光成・豊続 |
楽々前城・轟城など |
毛利方 |
是義と対立し、毛利氏と結ぶ。 |
太田垣氏 |
太田垣輝延 |
竹田城 |
毛利方 |
天正5年、秀吉の侵攻で一旦降伏するが、基本的には毛利方に与していた 12 。 |
八木氏 |
八木豊信 |
八木城 |
毛利方 |
天正8年、秀吉の侵攻により降伏 26 。『吉川家文書』から毛利方との連携が確認できる 7 。 |
この表が示すように、天正三年(1575年)の野田合戦の時点において、山名四天王の中で明確に織田方であったのは田結庄是義ただ一人であった可能性が極めて高い。他の三氏は、程度の差こそあれ、毛利氏の勢力圏に組み込まれていた。太田垣氏と八木氏は、天正八年(1580年)の羽柴秀吉による本格的な但馬平定戦の際に「毛利方の但馬国人」として攻撃対象となり、降伏を余儀なくされている 26 。この事実は、それ以前の時点では彼らが毛利方に与していたことを強く示唆している。
つまり、是義の選択は、但馬の有力国人社会の中では完全に少数派であり、極めて危険な賭けであった。四天王のうち三者を敵に回しかねないこの政治的孤立は、後の軍事的な劣勢に直結し、彼の悲劇的な最期を決定づける重要な要因となったのである。
是義と垣屋氏の対立が、もはや後戻りのできない段階に達したことを示す決定的な事件が、元亀元年(1570年)に発生する。この年、田結庄是義は、対立する毛利派の重鎮・垣屋続成を奇襲し、死に追いやったのである 1 。
複数の史料や系図によれば、この事件は元亀元年九月十五日、現在の豊岡市岩井にあったとされる養寿院という寺院で起こった 8 。何らかの理由で養寿院に滞在していた続成を、是義が手勢を率いて襲撃し、不意を突かれた続成は抵抗及ばず自刃したと伝えられる 8 。
この暗殺事件は、単なる武将一人の死に留まらなかった。それは、但馬国内の織田派と毛利派の対立を公然たる武力闘争へと発展させ、垣屋一族に是義への消しがたい遺恨を植え付けた。続成の子である垣屋光成が、父の仇討ちを誓うのは当然の帰結であった 13 。この事件によって、両家の争いは血で血を洗う不倶戴天の抗争へとエスカレートし、五年後の天正三年(1575年)に勃発する「野田合戦」へと、一直線に突き進んでいくことになるのである。
天正三年(1575年)、田結庄是義と垣屋一族の雌雄を決する「野田合戦」が勃発する。この合戦の直接的なきっかけとして、後世の軍記物などには、一つの劇的な逸話が伝えられている。それは、主君・山名祐豊が長谷(現在の豊岡市長谷)で催した、かきつばた見物の宴席での出来事である。その席で、垣屋光成の家臣が余興で鉄砲を撃ったところ、その流れ弾が偶然にも田結庄是義の陣幕に飛び込んでしまった。これに激怒した是義は、その家臣を捕らえて問答無用で殺害してしまったという 17 。
この「鉄砲事件」は、両者の抜き差しならぬ緊張関係を象徴する逸話として興味深いが、これが合戦の唯一の原因であったと考えるのは早計であろう。物語としての脚色が加わっている可能性は高く、合戦の真の要因は、より構造的な政治対立に求めるべきである。最大の転機は、この年、主君である山名祐豊がそれまでの親織田路線を放棄し、毛利氏と和睦を結んだことであった 1 。この祐豊の変節は、但馬国内において織田方として孤立していた是義の立場を決定的に危うくした。毛利方であった垣屋氏にとって、主君の公認のもと、邪魔者である是義を排除するための大義名分が与えられたに等しかったのである。
合戦直前の但馬国内は、既に臨戦態勢にあった。例えば、八木豊信が毛利方の吉川元春に宛てた書状では、野田合戦における垣屋豊続の勝利が報告されており、毛利方の国人たちが是義を排除すべく、水面下で緊密に連携していた様子がうかがえる 7 。是義は、知らぬ間に但馬国内で包囲網を築かれつつあったのである。
天正三年(1575年)十月、ついに両軍は豊岡市内の野田周辺と伝わる地で激突した 1 。
垣屋方は、五年前に父・続成を殺された垣屋光成が中心となり、轟城主の垣屋豊続(※続成と同一人物か、あるいは一族の別人物かについては諸説あるが、ここでは垣屋一門の有力者として記す)ら、一族の総力を結集して是義に襲いかかった 13 。一方の田結庄方には、上山平左衛門尉、岡部大勝、そして後にその屋敷が没収された記録の残る大隅玄番といった被官たちが与力として参陣していたことが伝えられている 31 。
合戦の具体的な経過を記す詳細な記録は乏しいが、その結末は明白であった。但馬の国人・八木豊信が毛利方の重臣・吉川元春に送った書状(『吉川家文書』)という信頼性の高い一次史料に、「田結庄表に於いて、垣駿(垣屋駿河守豊続)一戦に及ばれ、勝利を得られ候」と記されており、この戦いが垣屋方の圧倒的な勝利に終わったことは疑いようがない 7 。
衆寡敵せず、合戦に敗れた田結庄是義は、もはや居城の鶴城へ帰還することも叶わなかった。彼は敗走の末、自らの菩提寺である正福寺に駆け込み、そこで無念の自刃を遂げた 1 。一説によれば、享年は三十八歳であったという 10 。この敗北と是義の死により、鎌倉時代から続いた但馬の名族・田結庄氏は、歴史の表舞台から完全に姿を消すこととなった。
田結庄是義の終焉の地として、複数の資料が一致して菩提寺の「正福寺」の名を挙げている 1 。武将が追い詰められた際に、自らの菩知を弔う寺で最期を迎えることは、戦国時代において珍しいことではなかった。
しかし、その「正福寺」が、現在の豊岡市内のどの寺院に比定されるのかについては、実は明確になっていない。この点に関する史料の記述には、興味深い揺れが見られる。ある資料は、是義が自害した寺を「(旧)正福寺」と、わざわざ旧称であることを示唆する形で記している 4 。また、別の資料では、赤穂浪士の大石内蔵助の妻・りくの墓がある正福寺に言及した上で、是義が自害した正福寺は「先の正福寺とは別」であると、明確に区別する注記を付している 10 。
これらの記述からうかがえるのは、戦国時代から江戸時代、そして近代へと至る長い時間の流れの中で、寺院の改名や統廃合、移転などが繰り返され、是義が最期を遂げた「正福寺」の正確な場所が歴史の中に埋もれてしまったという事実である。
この終焉の地の曖昧さは、単なる歴史地理上の問題に留まらない。それは、田結庄氏という一族が、この野田合戦での敗北によって文字通り「根絶やし」にされ、その記憶や菩提を弔い、継承していくべき子孫や家臣団が完全に失われてしまったことの、悲劇的な証左と解釈することができる。是義が築き、拠点とした鶴城の城跡は、山そのものが遺構として現代にその姿を留めている。しかし、人々の信仰や営みによって支えられる寺院の記憶は、その担い手を失ったとき、いとも容易に忘却の彼方へと消え去ってしまう。是義の最期の地を巡るこの謎は、彼の敗北がいかに決定的で、一族の滅亡がいかに完全なものであったかを、静かに物語っているのである。
田結庄是義とは、どのような武将であったのか。彼の生涯を振り返ると、「先進性」と「悲劇性」という二つの相矛盾する側面が浮かび上がってくる。
是義が下した「織田への従属」という政治決断は、長期的かつマクロな視点で見れば、天下の趨勢を的確に見通した先進的なものであったと言える 5 。最終的に天下を統一するのが織田・豊臣政権であったことを考えれば、彼の判断は正しかった。しかし、但馬国という限定された地域社会の勢力バランスにおいては、その決断はあまりにも急進的であり、自らを政治的に孤立させる危険な賭けであった。彼は時代の大きな流れを読み違えたのではない。その潮流が、自らの足元である但馬にまで及ぶ速度と、その過程で生じる局地的な反発の強さを読み誤った、悲劇の将であったと評価できる。
史料に残る断片的な記述からは、その人物像の一端を垣間見ることができる。野田合戦のきっかけとされる逸話では、自陣に飛び込んできた流れ弾に激高し、相手の家臣を即座に殺害するという、激しい気性の持ち主であったことが示唆される 17 。また、山陰の雄・尼子氏が但馬に勢力を伸ばした際には、これに協力して宿敵・垣屋氏の領地を脅かすなど、自家の勢力拡大のためには外部勢力との連携も厭わない、貪欲で現実的な国人領主としての側面も持ち合わせていた 1 。彼は理想家ではなく、乱世を生き抜こうとした現実主義者であったが、その現実主義が、結果として自らを滅ぼすことになったのである。
是義の死は、彼個人の悲劇に終わらず、但馬国全体の勢力図に大きな影響を与えた。是義亡き後の鶴城は、野田合戦の勝者である垣屋豊続の支配下に入り、今度は毛利方として、但馬に迫る織田勢力に対峙する最前線の拠点として機能した 4 。しかし、その支配も長くは続かなかった。天正八年(1580年)、羽柴秀吉(秀長)が率いる織田軍の本隊が但馬を席巻すると(第二次但馬平定)、鶴城も抗戦の末に攻略され、ここに廃城となった 14 。田結庄氏の滅亡から、わずか五年後のことであった。
一方で、是義の宿敵であり、父の仇を討った垣屋光成は、全く異なる運命をたどる。秀吉の大軍が但馬に侵攻すると、光成は無謀な抵抗を選択せず、いち早く降伏し、その軍門に降った 13 。この現実的な判断が功を奏し、彼は秀吉にその能力を認められ、後に羽柴(豊臣)政権下の大名として因幡国に二万石の所領を与えられ、見事に家名を存続させることに成功したのである 13 。
ここに、是義と光成の運命を分けた決定的な要因が浮かび上がる。それは、最終的に「いつ、誰に降伏するか」という、絶妙な政治的タイミングの差であった。是義は天正三年(1575年)という、織田の支配がまだ但馬に完全には及んでいない段階で、地域のライバルである垣屋氏に敗れて滅びた。彼の親織田路線は、中央の織田政権からの直接的な支援を得るには時期尚早であり、結果として但馬国内での孤立を招いただけに終わった。
対照的に、垣屋光成は、局地的な勝利に固執しなかった。天正八年(1580年)、もはや天下人への道を突き進む羽柴秀吉が圧倒的な軍事力で但馬に現れたとき、彼は抵抗が死を意味することを悟り、速やかに恭順の意を示した。秀吉は、敵対者には容赦ない一方で、恭順した地方の有力者を自らの支配体制に組み込むことで勢力を拡大する、という柔軟な戦略をとることがあった 15 。光成はこの秀吉の性格と天下の趨勢を見抜き、最も効果的なタイミングで降伏というカードを切ったのである。
結果として、田結庄是義は「早すぎた親織田派」として歴史から消え、垣屋光成は「時流を的確に読んだ現実主義者」として生き残った。両者の対照的な結末は、戦国乱世、特に天下統一期における武将の生き残り戦略において、局地的な戦闘の勝敗よりも、中央の覇者の動向を見極めて適切に行動することの重要性を、如実に示す好例と言えよう。
田結庄是義の生涯は、衰退していく主家・山名氏の権威と、東から迫る織田信長、西から影響力を及ぼす毛利輝元という、二つの巨大な構造的圧力の狭間で、自家の存続をかけてもがいた一人の国人領主の苦闘の記録である。
彼の「織田への従属」という選択は、長期的な歴史の視座に立てば、天下の趨勢を捉えた正しいものであったかもしれない。しかし、彼が生きた但馬国という限定された政治空間においては、それはあまりに急進的で、時期尚早な決断であった。結果として、但馬の有力国人の中で政治的に孤立し、宿敵・垣屋氏との長年にわたる確執は、織田と毛利の代理戦争という形で致命的に増幅された。そして、主君・山名祐豊の毛利方への寝返りという最後の梯子を外され、ついに野田合戦の露と消えた。
是義の物語は、彼一人のものではない。それは、天下統一という巨大な歴史の奔流の中に、数多の地方武士たちがその個性や能力、そして夢と共に飲み込まれていった、戦国乱世の非情な現実を象徴している。その意味において、田結庄是義という一武将の悲劇的な生涯を丹念に追うことは、日本の歴史における大きな転換点の本質を理解するための、貴重な一断面を提供してくれるのである。