最終更新日 2025-07-19

由布惟信

由布惟信は立花四天王筆頭。道雪にちなみ「雪下」と号し、三代に仕えた忠臣。道雪死後も宗茂を支え、浪人生活も共に。立花家再興に尽力し、86歳で没。忠義の理想像として語り継がれる。

『雪下』に秘められし忠烈の生涯 ― 立花家を支えた不屈の武将・由布惟信の実像

序章:立花家、不世出の宿老

立花四天王筆頭、道雪七家老、そして主君・立花道雪にちなみ「雪下(せっか)」と号した由布惟信(ゆふ これのぶ) 1 。その名は、猛将としての武勇、そして主家が改易されてもなお貫き通した比類なき忠誠心の象徴として、戦国史に深く刻まれている。多くの歴史書や軍記物語において、彼の功績は断片的な逸話として語られることが多い。しかし、それらを時系列に沿って再構成し、彼の出自、決断、そして生涯をかけた奉公を体系的に追うことで、一人の武将の多角的かつ深遠な実像が浮かび上がる。本報告書は、由布惟信という人物の誕生から死、そして後世に遺した影響までを徹底的に分析し、その忠烈の生涯を明らかにすることを目的とする。

読者の理解を促進するため、まず惟信の生涯を概観する基本情報を以下の表にまとめる。この表は、本編で詳述される情報の全体像を掴むための道標となるであろう。

項目

内容

生没年

大永7年(1527年)? - 慶長17年6月24日(1612年7月22日)

幼名・通称

熊若丸、源兵衛、八郎、孫十郎、源五兵衛尉、源五左衛門

雪下(せっか)

官位

美作守、上総守

主君

大友氏 → 戸次鑑連(立花道雪) → 立花宗茂

家族

父:由布惟巍、妻:由布惟克の娘、子:惟定、惟次、惟紀、他

主な役職

立花四天王筆頭、道雪七家老、立花家筆頭家老

この表に凝縮された情報だけでも、惟信が戦国初期から江戸時代初期という激動の時代を86歳まで生き抜き、主君を三代にわたって替え(大友家→道雪→宗茂)、数々の役職を歴任した、非常に経験豊かな武将であったことが窺える 1 。特に、彼のアイデンティティそのものとも言える「雪下」という号は、そのキャリアと人生を理解する上で中心的な鍵となる。

第一章:由布氏の出自と惟信の決断

豊後の名族・由布氏

由布惟信の人物像を理解するには、まず彼の出自である由布氏の背景を知る必要がある。由布氏は、古代の豊後大神氏(おおがし)族の流れを汲む稙田氏(わさだし)の分流であり、豊後国速見郡由布郷(現在の大分県由布市)を本拠とした由緒ある一族であった 5 。由布院温泉で知られるその地名は、一族の名に由来する。

しかし、惟信が生きた戦国時代、由布氏は一枚岩ではなかった。家督争いの影響で、本家筋にあたる「正嫡家」と、分家筋の「庶嫡家」の二系統に分かれて勢力を争い、その力はかつてより衰微していた 7 。由布惟信が属したのは、この「庶嫡家」の系統である 5

戸次鑑連(道雪)との主従関係の始まり

惟信の父・由布惟巍(これしげ)の代から、由布家は大友家の直臣でありながらも、同じく大友家重臣であった戸次鑑連(後の立花道雪)と深い関係を築いていた。惟巍は鑑連の指揮下で戦うことが多く、その武役を務めていたとされる 5 。一説には、道雪の実母が由布家の出身であったとも伝えられており、両家には単なる主従関係を超えた血縁的なつながりがあった可能性も指摘されている 3 。この深いつながりが、後の惟信の人生を決定づける伏線となる。

立花山への随行という人生の岐路

元亀元年(1570年)、主君・大友宗麟の命により、道雪は謀反を起こした立花鑑載を討伐し、その名跡を継いで立花山城へ入城することになった。この時、惟信は人生を左右する大きな決断を下す。彼は、豊後の本領に残り由布家の地盤を守った長兄・碁晨(ごしん)とは袂を分かち、自らが継ぐべき家督と領地を嫡男の惟定(これさだ)に譲り渡した 3 。そして、次男の惟次(これつぐ)と三男の惟紀(これのり)だけを連れて道雪に従い、故郷を離れて新天地である筑前国へと向かったのである 6

この行動は、単なる忠義心の発露として片付けることはできない。惟信の「庶嫡家」という出自は、彼のキャリア形成を理解する上で極めて重要な要素である。一族の中で安泰な地位が保証されていたわけではない彼にとって、故郷や一族の基盤から離れ、当時すでに名将として名を馳せていた道雪個人に自らの将来を全て賭けるという選択は、非常にリスクの高いものであった。しかし同時に、それは分家出身の武将が自らの実力でのし上がり、家名を高めるための、極めて戦略的な決断であったと解釈できる。道雪という稀代の人物に一身を捧げ、その成功と自らの運命を完全に一体化させること。この「自己の運命を主君に重ね合わせる」という生き方こそが、後の「雪下」という号や、小野鎮幸の推挙に見られる自己犠牲的な行動の根底にある思想的基盤を形成したと考えられる。

第二章:「鬼道雪」の腹心として ― 立花双翼の誕生

筑前立花山城に入った惟信は、その才能と忠誠心を遺憾なく発揮し、道雪にとって不可欠な存在となっていく。彼の働きは、立花家の武威を九州全土に轟かせる原動力となった。

「雪下」に込められた絶対的忠誠

道雪が立花山城主となって間もなく仏門に入り「道雪」と号すると、惟信もまたすぐさま後を追い、自らの号を「雪下」と定めた 1 。これは文字通り「道雪公の下にある者」を意味し、主君への絶対的な帰依と、自らをその影として位置づける謙譲の精神を示す、他に類を見ない忠誠の表明であった。この号は、彼の生涯を貫く行動原理そのものであり、道雪への個人的な敬愛が、彼の武将としてのアイデンティティの中核を成していたことを物語っている。

知勇兼備の将、小野鎮幸の推挙

惟信は、単なる勇猛な武将ではなかった。彼の人物眼の確かさと、組織全体の強化を優先する大局観を示す逸話として、小野鎮幸(おの しげゆき)の登用が挙げられる。元亀年間、大友家の軍監として立花陣中に派遣されていた鎮幸の非凡な才をいち早く見抜いた惟信は、道雪にその登用を強く進言した 3

「殿が九州において勢力を伸ばし、大友の勢威を奮い起こそうと思われるならば、是非、小野殿を重用されて下さい。彼のような知勇兼備の者を私はかつて見たことがありません」 3

しかし、道雪は知行(給与としての領地)不足を理由に躊躇する。これに対し、惟信は驚くべき提案をした。

「ならば、それがしの受封地千五百石の内、五百石を返上しましょう。これと闕所(けっしょ、没収地)とを合わせて、彼の知行に当てられて下さい」 3

自らの禄を削ってでも有能な人材を確保しようとするこの姿勢は、道雪を深く感動させ、小野鎮幸は立花家の中核家臣として迎え入れられた。この行動は、惟信が私心を捨てて主家の組織力強化を最優先する、卓越した「プロデューサー」的な視点を持っていたことを如実に物語っている。彼は個人の武功だけでなく、組織全体のパフォーマンスを最大化することにこそ価値を見出していたのである。

「立花双翼」― 孫子の兵法の体現者

小野鎮幸を得た道雪は、孫子の兵法にある「凡そ戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ」という一節を引用し、自軍の戦術の核を定めた 12 。そして、信頼性と剛毅さを要する正攻法を担う「正の将」に由布惟信を、奇襲や遊撃といった変化に富んだ戦術を得意とする「奇の将」に小野鎮幸を任じたのである 1

これにより、二人は「立花双翼」と称され、立花軍の不敗神話を支える両輪となった 4 。道雪が惟信を「正の将」に任じたのは、彼の個人的武勇だけでなく、戦局全体を安定させ、組織全体の力を引き出す大局観を高く評価したからに他ならない。惟信の役割は、自らがスターとして輝くこと以上に、道雪という太陽と、鎮幸というもう一つの翼が最大限に機能するための「盤石の土台」となることであった。

武将としての圧倒的な戦功

もちろん、惟信自身の武勇も並外れたものであった。その生涯で参加した合戦は六十五回以上、受けた傷も六十五ヶ所、主君から賜った感状は七十通にも及んだと記録されている 4 。立花鑑載討伐では敵の猛将・弥須図書助を討ち取り、豊前大里柳浦での毛利軍との戦いでは先鋒として敵陣を疾駆し、その奮戦ぶりは敵味方から驚嘆されたという 1 。一番槍・一番乗り・一番首は数知れず、その名は九州に轟いた。また、戦場以外でも博多の町の統括を任されるなど、行政手腕も発揮している 3

第三章:若き主君・宗茂の後見役 ― 忠義の継承

天正13年(1585年)、立花家を最大の危機が襲う。主君・道雪が、島津氏との戦いの最前線である筑後遠征の陣中で病没したのである。主君を失った家臣団に動揺が走る中、惟信は新たな役割を担うこととなる。

道雪の死と家臣団の結束

道雪の死に際し、多くの家臣が後を追って殉死することを望んだ。家中の混乱は、そのまま立花家の崩壊に繋がりかねない状況であった。この時、同僚の原尻鎮清(はらじり しげきよ)が「ここで我らが殉死しては、若き当主の統虎様(後の宗茂)はどうなるのか。それこそが不忠である」と諫言。これを聞いた惟信は即座にその意を悟り、毅然として家臣団を制止した 4

「主君の遺体を運ぶことによる祟りがあるならば、この惟信が全て引き受ける」 4

そう宣言して混乱を収拾した惟信は、若き新当主・立花宗茂を支える後見役としての重責を、自ら進んで担った。彼の忠誠の対象が「道雪個人」という存在から、「道雪が築き、宗茂に託した立花家そのもの」という、より公的な概念へと昇華した瞬間であった。

「栗のイガ」の逸話と教育者としての一面

惟信の宗茂に対する態度は、単なる後見役に留まらなかった。道雪存命時、高橋家から養子として迎えられたばかりの幼い宗茂の将来を案じて行われた、有名な逸話がある。山中で宗茂が栗のイガを踏んでしまい、痛がって「誰かこれを抜け」と家臣に命じた。そこへ走り寄った惟信は、助けるどころか、逆にそのイガを「どうじゃ、どうじゃ」と言いながら足の裏にさらに深く押し付けたという 10

宗茂はあまりの痛さに驚いたが、傍らで養父の道雪がじっと見ていたため、痛いとも言えずに耐えたと述懐している 10 。これは単なる非情さや意地悪からではなく、道雪の意を汲み、次代の当主として不可欠な不屈の精神と忍耐力を試すための、計算され尽くした教育的指導であった。『名将言行録』などにも記されるこの逸話は 18 、惟信が宗茂を甘やかすのではなく、道雪が存命であれば求めたであろう厳しい基準で「鍛え上げる」ことこそが、亡き主君への最大の忠義であるという、彼の教育者としての一面を伝えている。

老いてなお最前線へ ― 肥後国人一揆鎮圧

天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定後、宗茂が筑後柳川の大名となった直後、肥後国で大規模な国人一揆が発生した。宗茂は鎮圧軍の一翼を担って出陣するが、この時、惟信も従軍している 2

この時すでに60歳を超えていたにもかかわらず、同じく老将の十時惟由(ととき これよし)と共に先鋒を任され、大田黒城攻めでは見事「一番乗り」の功名を挙げた 1 。これは、彼の生涯現役を貫く武人としての気概を示すと同時に、新当主・宗茂にとって初陣に近い重要な戦を、自らの武功によって支え、その威光を高めようとする強い意志の表れであった。老将が手柄を立てることで、若き主君の権威を高め、家臣団の士気を鼓舞するという、極めて戦略的な意図があったと考えられる。彼の行動は常に、立花家の永続という最終目標から逆算された、深謀遠慮に基づいていたのである。

第四章:天下統一の動乱の中で

豊臣秀吉による天下統一事業が進む中、立花家もその大きな渦に巻き込まれていく。この時代、惟信の役割もまた、戦場の猛将から家の重鎮へと変化していった。

豊臣政権下の立花家

九州平定における戦功により、立花宗茂は秀吉から「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と激賞され、独立した大名として筑後柳川に13万2千石の所領を与えられた 15 。この時、惟信は筆頭家老として3,500石を与えられ、酒見城の城主となっている 2 。これは、彼の長年の功績が新体制下でも最高評価を受けたことを示している。

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)

秀吉による朝鮮出兵が始まると、立花家も主力部隊の一つとして参陣した 21 。この国家的な大事業において、惟信は高齢を理由に朝鮮へは渡海せず、国内の領地で留守居役として、藩の統治や後方支援という極めて重要な役割を担った 1

この決断は、由布惟信のキャリアにおいて、その役割が純粋な「武」(武人)から、統治と家政を司る「文」(行政官)へと本格的に移行する決定的な転換点となった。これまでの彼の功績は戦場での武功が中心であったが、主君不在の領国の一切を預かるという、全く異なる種類の重責を担うことになったのである。この経験は、彼が単なる武辺者ではなく、優れた行政手腕を持つことを証明する機会となり、後の陸奥棚倉藩での最後の奉公へと繋がる重要な伏線となった。

一方で、この戦争は由布家にとって悲劇ももたらした。父の代わりに立花軍の三番隊を率いて渡海した次男の由布惟次は、般丹の戦いなどで活躍したが、三男の惟紀はこの役で戦死するという犠牲を払っている 6

第五章:関ヶ原、そして不遇の時代へ

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この戦いにおける立花家の選択と敗北は、惟信の人生においても最大の試練となった。

西軍への参加と大津城の戦い

立花宗茂は、秀吉から受けた多大な恩義に報いるため、石田三成が率いる西軍に与することを決断した 24 。惟信も主君と行動を共にし、西軍の主力部隊として、東軍に寝返った京極高次が籠城する近江国・大津城の攻略に参加する 26

この戦いで立花勢は、「他家の三倍の速さ」と評される猛烈な銃撃戦を展開し、城を追い詰め、9月15日に開城させるという戦術的な大勝利を収めた 15 。しかし、大津城が開城したその日は、奇しくも関ヶ原の本戦当日であった。このため、宗茂や惟信を含む1万5千の西軍精鋭部隊は本戦に参加できず、この勝利は戦略的には全くの徒労に終わってしまったのである 27 。個々の武勇や戦術がいかに優れていても、天下の時流を読み違えれば全てを失うという、戦国の世の非情さを象徴する出来事であった。

主家改易と浪人生活

西軍の敗北により、立花家は改易、宗茂は全ての領地を失い、一介の浪人となる 10 。多くの家臣が生活のために離散し、あるいは敵方であった黒田家や加藤家に仕官する中、当時70歳を超えていた惟信は、無一文となった宗茂に付き従うことを選んだ。彼は、十時連貞らと共に、最後まで宗茂を見捨てなかった二十数名の忠臣の一人として、苦難の道を共に歩んだのである 10

彼らは京都、そして江戸へと流浪し、先の見えない日々の中、ただひたすらに主家の再興を信じて宗茂を支え続けた。主家が全てを失ったこの時点で、家臣が自らの生活のために新たな主君を求めるのは、戦国時代の常識からすれば当然の選択肢であった。しかし、惟信をはじめとする中核家臣たちは、無一文となった宗茂に従った。これは、彼らの忠誠が、知行や地位といった物質的な報酬ではなく、主君との精神的な結びつきや、「立花家」という運命共同体への強固な帰属意識に基づいていたことの何よりの証明である。この行動は、道雪の代から惟信らが体現し、宗茂の代へと受け継がれた「立花家の家風」そのものであり、惟信の人生哲学の集大成ともいえる、究極の選択だった。

第六章:立花家再興への道と「雪下」の終焉

浪人生活という最も暗い冬の時代を経て、立花家にはやがて再興の光が差し始める。しかし、その春の訪れを、惟信は最後まで見届けることができなかった。

陸奥棚倉での再起

宗茂の類稀なる器量は、敵であった徳川家康にも高く評価されていた。やがて二代将軍・徳川秀忠の目に留まり、御書院番頭として幕府に取り立てられる。そして慶長8年(1603年)、立花家は陸奥国棚倉に1万石の大名として再興を許された 2 。これは、関ヶ原で西軍の主力として戦った大名としては、異例のことであった。

最後の奉公―藩政の礎を築く

宗茂が幕府中枢で活躍するため江戸に詰める中、80歳近い老齢の惟信は、息子の惟次と共に新領地・棚倉に赴き、藩の行政全般を取り仕切った 2 。荒れ地からの藩政の立ち上げという、困難な最後の奉公に、彼は残された心血の全てを注いだ。一度は完全に滅んだ立花家が、徳川幕府の公的な大名として存続を認められたこの時点で、惟信が生涯をかけて目指した「立花家の存続」という目標は、実質的に達成されたと言える。

悲願を見果てぬ死

しかし、運命は惟信に最後の微笑みを見せなかった。慶長17年(1612年)6月24日、由布惟信は奥州赤館(棚倉城)にて、86歳の波乱に満ちた生涯を静かに閉じた 1 。その死は、宗茂が後の大坂の陣での目覚ましい功績により、元和6年(1620年)に悲願であった旧領・柳川への10万9千石での奇跡的な復帰を果たす、わずか8年前のことだった 1

主君・道雪(道 )を終生敬い、自らを「雪下( の下)」と位置づけた惟信。その彼が、雪深い北国・奥州の地で、主家の故郷・九州への帰還という春の訪れを見ることなく、まるで雪が融けるようにその生涯を終えたという事実は、彼の生き様を象徴する、あまりにも美しく、そして悲しい結末であった 1 。彼の死は、柳川復帰を見届けられなかった点で個人的には無念であったかもしれない。しかし、主家を滅亡の淵から救い出し、その存続を確定させたという大事業を成し遂げた上での大往生であり、その人生の目的という観点から見れば、それは「完遂された忠義」の証であった。

終章:後世への遺産

由布惟信の生涯は、一人の武将の物語に留まらない。それは、立花家という組織の精神的支柱を築き、後の柳河藩の礎を創り上げた、偉大な創業者の一人の記録である。

血筋の継承と家門の栄光

惟信の忠勤は、彼一代で終わることはなかった。彼の家系は、息子の惟次、そしてその婿養子で十時連貞の長男でもあった立花惟与(これとも)へと受け継がれた。この家系は、江戸時代の柳河藩において最高の家格を誇る筆頭家老「立花壱岐家」として、幕末まで藩政の中枢を担い続けることになる 5 。これは、惟信の功績と忠義が後世においても高く評価され、その血脈が藩の中で永く尊重され続けたことの明確な証左である。

「忠義」の理想像として

私心を捨て、二代の主君に生涯を捧げ、栄光の時も、そして苦難のどん底にある時も決して離れず、主家の再興に全てを尽くした惟信の生き様は、封建社会における「忠義」という価値観の一つの理想形として、後世に語り継がれるべきものである。彼の物語は、主従関係の美学と、逆境にあっても決して揺らぐことのない人間の精神力の崇高さを、現代の我々に教えてくれる。

由布惟信は、立花道雪という「雪」の下に忠誠を誓い、その子・宗茂の時代に厳しい「冬」の時代を耐え抜き、立花家再興という「春」の訪れを確信しながら北国に散った、まさに「雪下」の名にふさわしい忠烈の武将であった。その生涯は、立花家の歴史そのものと分かちがたく結びついており、由布惟信という不世出の宿老を抜きにして、立花家の栄光も苦難も、そしてその奇跡的な再興も語ることはできないのである。

引用文献

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  31. 由布惟信 - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/tag/%E7%94%B1%E5%B8%83%E6%83%9F%E4%BF%A1