永正3年(1506年)に生を受け、天正6年(1578年)にその生涯を閉じた由良成繁は、日本の戦国時代、特に関東地方の動乱を象徴する武将の一人である 1 。彼が生きた時代の上野国(現在の群馬県)は、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、そして相模の北条氏という三大勢力が覇を競う、まさに「勢力の交差点」とも呼ぶべき地政学的に極めて重要な、そして危険な地域であった 3 。
このような巨大勢力の狭間にあって、由良成繁は在地領主、いわゆる「国衆」として、一族の存続と領国の安寧を第一義に掲げ、巧みな外交戦略と軍事行動を展開した。その生涯は、主家を凌駕する「下剋上」の完遂、時流を読んだ所属勢力の変更、そして大国間の同盟を仲介するほどの外交手腕に彩られている。それは、戦国という時代の地方領主が取りうる生存戦略の縮図であり、その典型的な成功例として特筆に値する。
本稿は、由良成繁という人物について、単にその経歴を追うに留まらない。彼を輩出した横瀬氏の出自と、数世代にわたる下剋上への周到な布石、独立した戦国大名「由良氏」を名乗るに至った政治的意図、強大な隣人たちを手玉に取ったかのような外交術、その権力を支えた難攻不落の拠点・金山城、そして領主としての統治と、彼の死後、一族を滅亡の淵から救った妻・妙印尼の奮闘までを多角的に掘り下げる。これにより、激動の時代を生き抜いた一人の武将の実像に迫ることを目的とする。
由良成繁による下剋上は、彼一代の才覚のみで成し遂げられたものではない。それは、彼の父祖たちが数世代にわたり、周到かつ着実に主家の権力を蚕食していったプロセスの集大成であった。
由良成繁の前身である横瀬氏は、その出自を辿ると、平安時代の貴人・小野篁を祖とする小野姓の一族であり、武蔵七党に数えられる横山党、あるいは猪俣党の流れを汲むとされる 4 。彼らは上野国新田郡横瀬郷を本領としたことから、横瀬氏を称するようになった 7 。
しかし、戦国時代に入ると、横瀬氏は源姓を名乗り、南北朝時代の英雄・新田義貞の子孫であると公称し始める 5 。この出自の「上書き」は、単なる系図の粉飾ではなかった。彼らの本拠地である新田荘が、まさに新田氏発祥の地であったという事実が、この自称に極めて重要な政治的意味合いを与えた。主家である岩松氏もまた新田一族ではあったが、その権威が揺らぐ中で、より直接的に新田宗家の後継者としての正統性を主張することは、在地支配を正当化し、主家を凌駕するための強力なイデオロギー的武器となった。本来の小野姓という出自と、戦略的に採用した源姓(新田氏)という二重の権威は、下剋上という非合法的な権力奪取を、「正統な後継者による本来あるべき姿への回帰」として演出するための、計算された戦略であったと考えられる。
横瀬氏の権力掌握は、成繁の曽祖父の代から本格化する。史料上で確認できる横瀬氏の祖とされる貞国は、主君・岩松家純の家臣として享徳の乱で活躍するも、康正元年(1455年)に戦死した 7 。その跡を継いだのが、成繁の曽祖父にあたる国繁である。国繁は岩松家の執事(筆頭家老)に就任し、主家の後継者問題に巧みに介入することで、家中における絶対的な実権を掌握した 7 。
国繁の子、すなわち成繁の祖父・景繁の代になると、その影響力はさらに増大する。景繁は主家・岩松氏や関東管領・山内上杉家の内紛に積極的に介入し、主家を圧倒する存在へと成長していった 11 。
そして、権力簒奪を決定的なものとしたのが、成繁の父・泰繁(1486年~1545年)であった 9 。筆頭家老として権勢を振るう泰繁を危険視した主君・岩松昌純は、その排斥を試みる。しかし、泰繁は機先を制し、逆に昌純を殺害するという凶行に及んだ 9 。そして昌純の嫡男・氏純を新たな当主として擁立し、自らはその後見人として、これまで以上の専権を振るった。この時点で、主家・岩松氏は完全に横瀬氏の傀儡と化し、実質的な戦国大名化は泰繁の代に果たされていたのである 9 。
以下の表は、由良成繁に至るまでの横瀬氏当主が、いかにして段階的に主家である岩松氏の実権を掌握していったかを示したものである。
横瀬氏当主 |
主家・岩松氏当主 |
主な行動と結果 |
典拠 |
4代 国繁 |
家純、尚純 |
岩松家執事として主家の後継者問題に介入し、家中の実権を掌握する基盤を築いた。 |
7 |
6代 景繁 |
昌純 |
主家の内紛や関東管領家の争いに介入。主家を凌ぐ軍事・政治的影響力を獲得した。 |
11 |
7代 泰繁 |
昌純、氏純 |
自らを排除しようとした主君・昌純を逆に殺害。その子・氏純を傀儡として擁立し、岩松氏を完全に無力化した。 |
9 |
8代 成繁 |
氏純 |
傀儡君主・氏純を金山城から追放(または殺害)。名実ともに城主となり、下剋上を完成させた。 |
1 |
父・泰繁が築き上げた盤石の基盤の上に、由良成繁はついに独立した戦国大名としての地位を確立する。それは、力による支配の完成と、新たな権威の創造という二つの側面を持っていた。
天文14年(1545年)、父・泰繁が下野国での合戦で戦死すると、成繁は横瀬氏8代当主として家督を相続した 9 。もはや岩松氏に仕える家臣という立場は、形骸化した抜け殻に過ぎなかった。成繁は、父祖の代からの宿願であった完全な独立へと、最後の行動を起こす。
彼は、傀儡の主君であった岩松氏純を、岩松氏代々の居城であった新田金山城から追放、あるいは殺害したと伝えられる 1 。これにより、文明元年(1469年)の築城以来、岩松氏の拠点であった金山城は名実ともに横瀬氏の手に落ちた。数世代にわたる下剋上はここに完成し、横瀬氏は上野国東部に確固たる地盤を持つ独立した戦国大名として、歴史の表舞台に躍り出たのである。
独立を果たすと、成繁は姓を「横瀬」から「由良」へと改めた 7 。この改姓は、単なる心機一転のための名称変更ではなかった。そこには、彼の卓越した政治感覚がうかがえる、二重の戦略的メッセージが込められていた。
第一に、主家・岩松氏の家臣であったことを示す「横瀬」という姓を捨てる行為そのものが、過去との完全な決別と、何者にも従属しない独立大名としての地位を内外に宣言する意味を持っていた 8 。
第二に、新たに名乗った「由良」という姓は、かつて新田氏の宗家が代々相伝してきた聖地ともいえる、新田郡由良郷の地名に由来するものであった 7 。これは、第一章で述べた新田氏子孫の自称をさらに発展させたものであり、自らこそが新田氏の正統な後継者であり、この新田荘を治めるにふさわしい存在であるという権威を、周辺の国衆や大名、さらには自領の民衆に対して強烈にアピールするものであった 8 。下剋上という、いわば非合法な手段で権力を掌握した者が、地域の歴史と権威を巧みに利用して自らの支配を正当化する。この改姓は、由良成繁が単なる武人ではなく、時代の空気を読むことに長けた、優れた政治家であったことを物語る象徴的な出来事であった。
独立を果たした由良氏の前途は、決して平坦ではなかった。上杉、北条、武田という巨大勢力が、上野国を主戦場として激しく衝突する中、由良成繁は一族の存続をかけて、巧みかつ現実的な外交戦略を展開していく。彼の真骨頂は、この大国の狭間を渡り歩くバランス感覚にあった。
当初、成繁は関東の旧秩序の継承者として関東管領職に就いた越後の長尾景虎、後の上杉謙信に従属した。永禄3年(1560年)に謙信が関東の諸将の陣容を記録させた『関東幕注文』には、「新田衆」の中に「横瀬雅楽助成繁」の名が明確に記されており、この時点では上杉方の一員として認識されていたことがわかる 15 。
しかし、成繁は謙信の関東経営の限界を冷静に見抜いていた。謙信は圧倒的な軍事力で関東へ繰り返し出兵するものの、その支配は一時的なものに留まり、冬になれば雪深い越後へ帰国せざるを得なかった。在地領主である国衆にとって、恒常的な保護を提供できない謙信は、必ずしも頼れる主君ではなかった。一方で、相模を本拠とする北条氏は、地理的に近く、その圧力は恒常的な脅威であった。
この現実的な力関係を前に、成繁は決断する。永禄9年(1566年)頃、箕輪城の落城などを契機として、彼は謙信から離反し、北条氏康の麾下へと転じたのである 13 。この離反に対し、謙信は激怒し、成繁を「関東一の佞人(ねいじん、口先巧みにへつらい、内心邪悪な人物)」と罵ったと伝えられている 18 。しかし、この評価はあくまで敵対者である謙信の視点からのものである。成繁の行動は、不忠や裏切りといった道徳的な問題ではなく、遠方の名誉ある主君よりも、眼前の現実的な強者との和を選ぶという、国衆が生き残るための極めて合理的で冷徹な政治判断であった。
北条氏に属した成繁は、単なる一武将に留まらず、外交の舞台でその真価を発揮する。当時、甲斐の武田信玄との同盟(甲相同盟)が破綻した北条氏は、背後の脅威を取り除くため、長年の宿敵であった上杉謙信との和睦を模索していた。しかし、両者は長年にわたり敵対しており、直接交渉するルートを持たなかった。そこで白羽の矢が立ったのが、由良成繁であった 13 。
成繁がこの大役を任された理由は、彼がかつて上杉方に属していたため、上杉家中に知己が多く、独自の交渉パイプを持っていたからに他ならない。この交渉ルートは「由良手筋」と称され、成繁は同じく元上杉方であった厩橋城の北条高広と共に、両者の間を取り持つべく奔走した 13 。彼は自らの居城・金山城を交渉の場として提供するなど精力的に活動し、ついに永禄12年(1569年)、北条氏と上杉氏の間の歴史的な和睦、すなわち「越相同盟」の成立に大きく貢献した 15 。
この一事は、由良成繁が単なる上野の一国衆ではなく、大名間の国際関係をも左右しうる、関東の政治情勢におけるキーパーソンであったことを証明している。彼の価値は、動員できる兵力だけでなく、敵対する勢力双方に築き上げた人脈という「情報資産」と「外交資産」にあった。大国の狭間で生き抜くために培われたこの能力こそが、彼の最大の武器だったのである。
由良成繁の巧みな外交戦略と軍事行動を物理的に支えたのが、彼の本拠地である新田金山城であった。この城の堅固さなくして、由良氏の独立と発展はあり得なかった。
新田金山城は、上野国南部の関東平野に島のように浮かぶ独立丘陵、金山(標高239メートル)の全域を利用して築かれた大規模な山城である 22 。山頂からは関東平野を一望でき、敵の動きをいち早く察知できるだけでなく、交通の要衝を抑える上でも極めて戦略的価値の高い場所に位置していた 25 。
城の構造は、自然の地形を最大限に活かしたものであった。尾根筋を巧みに削平して複数の曲輪を配置し、それらを深い堀切や高い土塁で厳重に分断・防御していた 26 。特筆すべきは、戦国時代の関東地方の城郭としては極めて珍しく、広範囲にわたって石垣が用いられていた点である 28 。発掘調査によって確認された石垣は、当時の最先端の築城技術が導入されていたことを示しており、金山城が単なる砦ではなく、高度に設計された要塞であったことを物語っている。その堅牢さから、金山城は「難攻不落の名城」と謳われ、後に関東七名城の一つに数えられるに至った 29 。
金山城の防御能力を何よりも雄弁に物語るのは、「軍神」とまで呼ばれた上杉謙信による度重なる攻撃を、ことごとく退けたという事実である 13 。
由良成繁が北条方に寝返った後、激怒した謙信は幾度となく金山城に攻撃を仕掛けた。天正2年(1574年)には、謙信自らが出馬し、城に迫った記録も残っている 31 。しかし、成繁と由良氏の将兵は、この堅固な城に拠って謙信の猛攻を凌ぎきり、ついに一度も陥落を許さなかった 15 。
この事実は、由良成繁と金山城の関係が、単なる領主と居城という関係を超えた、相互依存の関係にあったことを示唆している。すなわち、金山城という難攻不落の拠点があったからこそ、成繁は上杉からの離反という強気な外交カードを切ることができた。そして逆に、成繁の巧みな外交と統治によって得られた時間と経済的余裕が、金山城をさらに堅固な城へと改修・強化することを可能にした。城が領主の戦略的自由を保障し、領主が城の防御力を高める。この好循環こそが、由良氏が巨大勢力の狭間で独立を保ち得た力の源泉であった。金山城は、まさに由良氏の独立精神そのものを象徴する存在だったのである。
由良成繁の生涯は、戦乱と外交交渉に明け暮れただけではなかった。彼は領主として、新たに獲得した領地の経営にも手腕を発揮し、その晩年は比較的穏やかな統治者としての一面を見せている。
天正元年(1573年)、成繁は隣国・桐生で発生した内紛に乗じ、その居城である柄杓山城(桐生城)を攻略、桐生氏をその支配地から追放した 8 。この領土拡大を果たした後、成繁は本拠地である金山城と由良氏の家督を嫡男の国繁に譲り、自らは新たに得た桐生城へと移り、隠居生活に入った 8 。これは、権力の円滑な移譲を進めると同時に、自らは新領地の安定化に専念するという、計算された行動であったと考えられる。
隠居後の成繁は、桐生の地で善政を敷いたと伝えられている。彼は鳳仙寺を建立するなど地域の信仰を篤く敬う一方で、城下町の整備にも力を注ぎ、領地の発展に貢献した 8 。
彼の統治が領民に支持されていたことを示す、象徴的な逸話が残っている。成繁が天正6年(1578年)に死去すると、その機に乗じて旧領主であった桐生親綱が佐野から潜入し、旧臣たちに呼びかけて桐生城の奪還を試みた。しかし、この企てに呼応する領民や旧臣は誰一人として現れず、親綱の夢は潰えたという 15 。これは、成繁の統治が、力による支配だけでなく、民心を得たものであったことを証明している。
死に際して、成繁は「兄弟仲良く、神仏を敬い、領民をいたわれ」という遺言を残したとされている 17 。対外的には裏切りも辞さない冷徹な現実主義者でありながら、自らが治める領民に対しては慈悲深い領主でもあった。この二面性は、由良成繁という人物の複雑さと奥行きを示している。彼の目的は天下統一のような壮大なものではなく、あくまで自領の安寧と一族の繁栄にあった。そして、その目的を達成するためには、対外的な「非情」と、内政における「温情」を巧みに使い分ける必要があったのである。
由良成繁という傑出した指導者を失った後、由良家は存続の危機ともいえる最大の試練を迎える。しかし、この危機を救ったのは、成繁が残した家臣団の結束と、そして彼の妻・妙印尼が体現した、夫譲りの生存戦略であった。
成繁の死後、家督を継いだ由良国繁と、その弟で館林城主・長尾家を継いだ長尾顕長の兄弟は、関東での覇権をほぼ手中に収めつつあった北条氏の強大な圧力に直接晒されることとなった 3 。北条氏は、関東の国衆を完全に支配下に置くため、その自立性を削ぐ政策を推し進めていた。
天正12年(1584年)、北条氏への服属が不十分であるとの理由で、国繁・顕長兄弟は小田原城に呼び出され、弁明の機会も与えられぬまま捕縛、事実上の人質とされてしまう 33 。当主を失った由良・長尾領に対し、北条氏は大軍を派遣し、本拠地である金山城と館林城の明け渡しを要求した。これは、由良家にとってまさに絶体絶命の危機であった 7 。
この未曾有の国難に、敢然と立ち上がった人物がいた。成繁の正室であり、国繁兄弟の母である妙印尼(俗名:輝子)である 32 。
当時71歳という高齢にもかかわらず、妙印尼は甲冑を身にまとい、残された家臣団約3千の兵を率いて金山城に籠城。自ら采配を振るい、押し寄せる北条の大軍を相手に徹底抗戦の構えを見せた 36 。金山城の堅固さと、妙印尼の断固たる姿勢、そして結束した家臣団の奮戦により、北条軍は城を攻めあぐねた。最終的に妙印尼は、北条方との和睦交渉に応じる。その条件は、人質となっている息子たちの解放と引き換えに、金山城を明け渡すという苦渋の決断であった 35 。城は失ったものの、当主たちの命と家臣団の結束を守り抜き、由良家の命脈を繋いだのである。
妙印尼の奮闘は、それで終わりではなかった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、由良家は再び滅亡の危機に瀕する。当主の国繁は、北条氏の人質として小田原城での籠城を余儀なくされていたからだ 7 。このまま北条氏と共に滅びるかと思われたその時、77歳となっていた妙印尼が、再び歴史の表舞台に登場する。
彼女は、孫の由良貞繁を名代として立て、桐生城に残った兵をかき集めると、秀吉方の先鋒として関東に進軍してきた前田利家の軍勢に参陣したのである 31 。これは、由良家が北条氏を見限り、天下人である豊臣方に味方することを示す、極めて重要な政治的・軍事的行動であった。
この妙印尼の機敏な行動が、由良家の運命を決定づけた。彼女の功績は前田利家を通じて秀吉に伝えられ、高く評価された。北条氏滅亡後、小田原城にいた国繁は罪を許され、大名としての存続を認められた。領地は上野から常陸国牛久に移され、石高は5400石となったが、家名を再興することに成功したのである 6 。
妙印尼の一連の行動は、単なる女傑の物語や母性愛の発露に留まるものではない。それは、夫・由良成繁が生涯をかけて貫いた「大勢力の動向を冷静に読み、時流を見極めて最も有利な側に付く」という、現実主義的な生存戦略そのものの継承であり、最も劇的な形での実践であった。成繁が築き上げた家臣団の忠誠心と、妻にまで深く浸透していたであろう彼の政治思想が、由良家を滅亡の淵から救ったのである。
由良成繁は、織田信長や武田信玄のように、天下統一を志した「英雄」ではなかった。しかし、彼は戦国時代において最も過酷な競争環境の一つであった関東地方において、在地領主として自立を果たし、下剋上を成し遂げ、巧みな外交と堅固な城を武器にその勢力を維持し、次代へと家名を繋いだ、紛れもない「地方の雄」であった。
上杉謙信による「佞人」という評価は、あくまで敵対者の視点からの一方的な断罪に過ぎない。彼の行動を、巨大勢力の狭間で生き残りを図る国衆の視点から見れば、それは一族と領民を守るための、ぎりぎりの状況下における合理的かつ必死の選択の連続であった。その生涯は、戦国時代を生き抜くことの厳しさと、それに抗った人間の知恵と戦略の深さを、現代の我々に教えてくれる。彼の歴史的評価は、「裏切り者」としてではなく、激動の時代を乗り切った卓越した「サバイバリスト(生存戦略家)」としてなされるべきであろう。
成繁とその家族が命がけで守り抜いた由良家は、その後、江戸時代には将軍家にお目見えできる格式を持つ高家旗本として幕府に仕え、その血脈を繋いだ 6 。そして明治維新後には、先祖の悲願であったかのように「新田」姓に復することを許された 7 。戦国の動乱を乗り越え、近世、近代まで家名を存続させたという事実こそが、由良成繁の生涯をかけた闘いの、何よりの成果と言えるのかもしれない。