戦国乱世から江戸初期という激動の時代を生きた武将、百々安信(どど やすのぶ)。彼の名は、織田信長の嫡孫・秀信の家老として関ヶ原の戦いに臨み、西軍として敗れた悲劇の将として語られることが多い。しかし、その生涯を深く掘り下げると、単なる戦働きに終始した武人という一面的な像は影を潜め、主家の浮沈という抗いがたい運命の中で、自らが持つ高度な専門技術を最大の武器として生き抜き、新たな活躍の場を切り開いた「テクノクラート(技術官僚)型武将」としての姿が鮮やかに浮かび上がってくる。
本報告書は、百々安信(綱家、のち安行)という一人の武将の生涯を、その出自から説き起こし、豊臣政権下での躍進、関ヶ原における苦渋の決断、そして敗将の身から新天地・土佐で華々しい再起を遂げるまでの軌跡を徹底的に追跡する。特に、彼の運命を決定づけた「築城」という専門技術が、戦乱の終焉と近世武家社会の黎明期という時代の転換点において、いかに決定的な価値を持ったのかを解明する。安信の生涯は、武士の価値基準が「武勇」から「能吏」へと移行していく時代の変容を象徴する、稀有な事例と言えるだろう。
まず、彼の波乱に満ちた経歴を俯瞰するため、その要点を以下の表にまとめる。この表は、主君の変遷と石高の推移を対比させることで、キャリアにおける最大の危機であったはずの「関ヶ原での敗北」の後に、むしろ破格の待遇で再仕官を遂げたという逆説的な事実を明確に示している。なぜ一介の敗将が、これほどまでに求められたのか。その問いこそが、百々安信という人物の本質に迫る鍵となる。
時期 |
主君 |
主な役職・地位 |
石高(推定含む) |
主要な出来事・功績 |
典拠資料 |
~天正10年(1582) |
織田信長 |
家臣 |
不明 |
近江の豪族から信長に仕える |
1 |
天正10年~ |
豊臣秀吉 |
直臣、代官 |
11,000石 (知行6,000+代官5,000) |
山崎合戦従軍、従五位下越前守叙任 |
2 |
天正末期~ |
織田秀信 |
家老 |
(秀信所領13万5千石内) |
秀信の後見役、文禄の役で名代として渡海 |
2 |
慶長5年(1600) |
(西軍) |
岐阜城守将 |
- |
関ヶ原合戦で西軍に属し、岐阜城攻防戦で奮戦・負傷 |
2 |
慶長5年~ |
山内一豊 |
家老、築城総奉行 |
7,000石 |
土佐入国、高知城の縄張りと築城を指揮 |
2 |
慶長14年(1609) |
山内一豊 |
(家老) |
7,000石 |
篠山城普請に参加、任地で病に倒れ京で客死 |
2 |
百々安信、初名を綱家は、天文17年(1548年)に生を受けた 2 。その出自は、室町時代に近江、美濃、飛騨などの守護を務めた名門・京極氏の支流に遡る。綱家の父とされる京極秀綱(上総介)の代に、近江国犬上郡百々村(現在の滋賀県彦根市佐和山町一帯)に居を構え、その地名を姓として「百々氏」を称するようになった 2 。これにより、百々氏は中央の名門の血を引きながらも、在地に根を張る国人領主としてその歴史を歩み始めることとなる。
綱家が歴史の表舞台に登場する頃の近江国は、北の浅井氏、南の六角氏が覇を競い、さらに尾張から天下統一を目指す織田信長の勢力が西進してくるという、諸勢力が激しく角逐する地政学的な要衝であった。このような情勢下で、在地領主である百々氏は、生き残りをかけて巧みな立ち回りを要求された。当初は浅井氏に属していたとされ、姉川の戦いでの浅井氏敗戦後に、時代の潮流を読んで織田信長に仕えるようになったと考えられる 1 。これは、当時の多くの近江国人衆がとった現実的な選択であった。
特筆すべきは、百々氏が本拠とした犬上郡百々村の地理的環境である。この地は、後に関ヶ原の西軍拠点となる佐和山城や、徳川幕政下で譜代大名の拠点となる彦根城が築かれる戦略上の最重要地帯に位置していた。中山道が貫き、琵琶湖の水運にも近接するこの場所は、交通、軍事、経済の結節点であった。このような環境で育った綱家が、幼少期から城郭の戦略的重要性を肌で感じ、その構造や機能に自然と深い関心を抱くようになった可能性は十分に考えられる。彼の後半生を決定づける「築城の名手」としての素養は、単に個人の才能に帰せられるだけでなく、この近江の戦略的要衝という揺り籠の中で育まれたという側面を無視することはできない。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって主君・織田信長が横死すると、日本の政治情勢は一気に流動化する。この国家的な危機に際し、百々綱家は的確な情勢判断を下した。彼はすぐさま信長の後継者として頭角を現した羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に属し、山崎の戦いに従軍する 2 。この迅速な決断と行動が、彼のキャリアにおける最初の大きな飛躍の礎となった。
秀吉は綱家の働きを高く評価した。戦功により、綱家は近江国内に6,000石の知行を与えられただけでなく、秀吉の直轄領である蔵入地5,000石の代官にも任じられた 2 。これにより、彼が実質的に管理する石高は11,000石に達し、一介の国人領主から大名級の処遇を受けるに至った。さらにこの頃、従五位下越前守に叙任されており、名実ともに秀吉配下の有力武将としての地位を確立したのである 2 。
綱家の実務能力と忠誠心を見込んだ秀吉は、彼にさらに重要な役割を託す。天正年間の終わり頃、綱家は木造長政(資料によっては木造具康)と共に、信長の嫡孫であり織田家の正統な後継者である織田秀信(幼名・三法師)の家老に任命された 2 。この人事は、秀吉の巧みな政治戦略を反映している。清洲会議で幼い三法師を擁立して織田家中の主導権を握った秀吉にとって、秀信は自らの権威を補強する象徴であると同時に、潜在的な対抗勢力ともなり得る存在であった。その秀信の側に、自らが信頼する実務能力に長けた綱家を送り込むことで、旧織田家の象徴を自身の厳格な管理下に置き、その家政を安定させるという高度な政治的意図があったと分析できる。
文禄元年(1592年)、秀信が美濃岐阜城主となると、綱家も家老としてこれに従った。同年に始まった文禄の役では、『百々家系図』によれば、綱家は主君・秀信の名代として8,000の兵を率いて朝鮮へ渡海したと記されている 2 。この大規模な外征への参加は、彼に大軍の統率、兵站管理、そして異国の地での実戦といった貴重な経験をもたらし、武将としての器量をさらに大きなものにしたであろう。また、この朝鮮出兵中に知り合った大塚丹後守という武将の次男を、帰国後に養子(忠安)として迎えており、この経験が彼の個人的な人脈形成にも繋がったことが窺える 2 。豊臣政権下で、綱家は着実にその地位と能力を高めていったのである。
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死は、百々綱家の運命を大きく揺るがす天下分け目の戦いへの序曲であった。秀吉の遺物として金五枚と500石を賜るなど、豊臣家への忠誠を評価されていた綱家であったが、彼が仕える織田秀信家の家老として、その存亡をかけた重大な岐路に立たされることとなる。
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立が頂点に達すると、全国の諸大名は東軍と西軍のいずれに与するか、その決断を迫られた。美濃岐阜13万5千石の領主である織田秀信の去就は、周辺諸将の動向を左右する極めて重要な意味を持っていた 4 。この時、石田三成は家臣の川瀬左馬助を岐阜に派遣し、戦勝の暁には美濃・尾張の二国を与えるという破格の条件を提示して、秀信を西軍に勧誘した 2 。
この勧誘に対し、若き主君・秀信は、入江右近をはじめとする寵臣たちの進言を容れて西軍への参加に心を傾ける 2 。しかし、家老である百々綱家は、木造長政らと共に、この決定に真っ向から反対した。彼らは、天下の趨勢が家康率いる東軍に有利であることを見抜き、織田家の安泰のためには東軍に加担すべきだと強く進言したのである 2 。
綱家のこの行動は、単なる「親徳川派」という単純な立場から来るものではない。彼は秀吉によって秀信の家老に任じられた人物であり、豊臣家への恩義は深かったはずである。にもかかわらず、反豊臣勢力の中核である家康への味方を主張したのは、彼が情勢を冷静に分析するリアリストであったからに他ならない。秀吉亡き後の政局において、五大老筆頭として圧倒的な実力を持つ家康に敵対することは、すなわち主家である織田家の滅亡に直結すると判断したのである。彼の忠誠の対象は、もはや実体のなくなりつつあった豊臣政権そのものではなく、秀吉から託された「織田秀信とその家」であった。その主家を守るための最善策が、東軍加担であると彼は結論付けたのだ。これは、彼の深い政治的洞察力と、情に流されない現実主義的な忠誠心の現れであった。
しかし、綱家らの必死の説得も虚しく、秀信は西軍参加を決定。綱家はそれでも諦めず、西軍に属しながらも東軍に内通していた京都所司代・前田玄以に密かに連絡を取り、秀信の翻意を促すよう働きかける 2 。さらに、同じく東軍加担を主張していた飯沼長実が「三成を岐阜城に誘き寄せて刺殺し、家康公に潔白を示しましょう」という過激な策を提案した際も、綱家と木造長政はこれに与したとされるが、秀信の許可が得られず頓挫した 2 。土壇場まで主家の破滅を回避しようと奔走する、老練な家老の苦悩がそこにはあった。
主君の決定が覆らない以上、武人として、家老として、全力で戦うのが綱家の選択であった。慶長5年8月22日、池田輝政、福島正則らが率いる東軍の先鋒が木曽川を渡河し、岐阜城へと迫る。秀信は城を出て迎撃する策を採り、綱家は木造具康と共に先陣として木曽川北岸の米野に布陣した 4 。
米野の戦いにおいて、綱家らの部隊は奮戦するも、数に勝る東軍の猛攻の前に後退を余儀なくされる。追撃する東軍に対し、鉄砲を激しく撃ちかけて抵抗しつつ、岐阜城へと撤退した 5 。
翌23日、戦いの舞台は岐阜城へと移る。東軍は城下に殺到し、壮絶な攻防戦が開始された。綱家は城の重要拠点の一つである百曲口の守備を担当し、敵の猛攻を何度も押し返すなど、鬼神の如き働きを見せた 5 。しかし、この激しい戦闘の最中、綱家は腿に銃弾を受け負傷してしまう 2 。織田方の兵力はわずか2千ほどであり、東軍の圧倒的な兵力の前に城兵は次々と討ち取られ、ついに城壁は破られた。池田輝政勢が城内に放火すると、炎は瞬く間に広がり、本丸を残すのみで城の主要部分はことごとく敵の手に落ちた 2 。兵糧も尽きかけ、敗北はもはや決定的であった。
城が炎に包まれ、万策尽きた状況下で、主君・秀信は自害して信長以来の家名の名誉を守ろうとした。しかし、この時、負傷した身を押して主君の前に進み出たのが百々綱家であった。彼は木造長政と共に、自害は最大の不忠であると秀信を必死に諫止した 2 。
そして綱家は、主君の命を救うことを最優先とし、東軍との和議交渉に乗り出す。彼は東軍の澤井左衛門と森勘解由を介して降伏を申し入れた 2 。東軍の諸将、特に福島正則と池田輝政は、信長の嫡孫である秀信の境遇を憐れみ、これを受け入れた。綱家らの尽力により、秀信は剃髪して仏門に入ることを条件に一命を取り留め、高野山へ蟄居することとなったのである 2 。
この一連の行動は、百々綱家という武将の器の大きさを見事に示している。彼は、戦場での武勇のみならず、敗戦処理という最も困難な局面において、冷静な判断力と優れた交渉能力を発揮した。主君を死なせることが最大の不名誉とされた武士の価値観の中で、敗戦という絶望的な状況下で主君の命を救い、織田家の血脈を繋いだ彼の行動は、果たしうる最大限の忠義であったと評価できる。彼は敗軍の将となったが、その責務を最後まで見事に果たしきったのである。
関ヶ原の戦いは東軍の圧勝に終わり、西軍に与した織田秀信は改易、その家臣であった百々綱家もまた、主を失った浪人の身となった。彼は妻子を連れて京都に蟄居し、雌伏の時を過ごす 2 。敗軍の将として、その武士としてのキャリアは絶たれたかに見えた。しかし、彼の持つ類稀な才能が、彼を再び歴史の表舞台へと引き戻すことになる。
綱家の再起のきっかけを作ったのは、旧知の仲であった前田玄以らの仲介であった 2 。関ヶ原の戦功により、遠江掛川から土佐一国二十四万石の国主へと大栄転を遂げた山内一豊が、新たな家臣団を編成するにあたり、綱家に白羽の矢を立てたのである。
慶長5年(1600年)11月、綱家は山内一豊に仕えることが決まった。この時、一豊が綱家に提示した禄高は7,000石であった 2 。これは、異例中の異例、まさに破格の待遇であった。関ヶ原の論功行賞で新たに大名となった一豊にとって、綱家は譜代の家臣ではなく、つい数ヶ月前まで敵方であった西軍の、しかも改易された大名の家老である。そのような人物に、一豊譜代の重臣たちに匹敵する、あるいはそれを凌駕するほどの高禄を与えたという事実は、一豊が綱家の能力を金銭に代えがたい価値あるものとして渇望していたことの何よりの証左である。この再仕官を機に、綱家は名を「安行(やすゆき)」と改めている 2 。
山内一豊が、政治的なリスクを冒してまで百々安行(綱家)を破格の待遇で召し抱えた最大の理由、それは彼が持つ高度な専門技術、すなわち「築城術」にあった 7 。
この登用は、単なる有能な技術者の採用という次元の話ではない。一豊の新領国・土佐における支配体制の早期確立という、高度な政治的判断に基づく戦略的人事であったと分析できる。一豊は、土佐にとっては完全な「よそ者」の新領主であり、入国直後から「浦戸一揆」に代表される旧長宗我部家臣団の根強い抵抗に直面していた。この敵意に満ちた土地で、自らの支配権を確立し、領民にその権威を明確に示すためには、旧来の城とは一線を画す、壮麗で堅固な新しい城を建設することが絶対不可欠の急務であった。新しい城は、単なる物理的な軍事拠点である以上に、新しい支配者の権力を領内全土に知らしめるための、強力な視覚的シンボルとなるからである。
この国家的な一大事業を、迅速かつ確実に成功させるためには、最高の技術と豊富な経験を持つ専門家が必要不可欠であった。百々安行こそ、その条件に完璧に合致する「即戦力」だったのである。彼は、織田信長のもとで安土城の普請に関わったとも言われ 3 、その技術力は折り紙付きであった。さらに、彼は敗将であるため、旧主や他の勢力に気兼ねすることなく、新領主である一豊に絶対の忠誠を誓うことができる。
この期待に応え、安行は土佐藩の初代家老に任じられると同時に、新城建設の「総奉行」という重責を担った 6 。彼は、長宗我部氏の旧城であった浦戸城が手狭で防御にも難があることを見抜き、新たな築城の地として大高坂山を選定。そこに、後の高知城となる新城の縄張り(基本設計)を行った 2 。彼の役割は、単なる土木工事の監督ではない。城全体の設計思想、防御機能、政庁としての利便性、そして城下町の整備計画までを統括する、プロジェクト全体のプロデューサーであった。
さらに、彼の価値は個人の技術力だけに留まらなかった。安行は、当時最高の石垣技術を誇った専門家集団「穴太衆(あのうしゅう)」との間に、強固な人的ネットワークを有していた可能性が指摘されている 9 。プロジェクトを完遂させるためには、優れた設計図を描くだけでなく、それを実現できる高度な技術者集団を動員する能力が不可欠である。安行は、その両方を兼ね備えていた。
山内一豊が安行に与えた7,000石という高禄は、彼の忠誠と能力に対する報酬であると同時に、土佐一国の安定を確保するための極めて合理的な「戦略的投資」であった。百々安行の再起は、彼の持つ専門技術が、新しい時代を築こうとする為政者の需要と完璧に合致した瞬間に成し遂げられたのである。
土佐において、百々安行は高知城築城という大事業を成功に導き、山内家の支配基盤確立に絶大な貢献を果たした。彼の築城家としての名声は、土佐一国に留まるものではなかった。その技術力は、やがて天下人である徳川家康の耳にも達することとなる。
慶長14年(1609年)、安行は徳川家康が全国の諸大名に賦役を命じた「天下普請」の一つである、丹波篠山城の石垣普請への参加を山内家を代表して命じられた 2 。天下普請は、諸大名の財力を削ぐという政治的な目的と同時に、徳川の威光を天下に示すための国家事業であり、そこに動員されることは、その藩の技術力が公に認められたことを意味する。安行の築城技術が、もはや土佐藩という一領国レベルのものではなく、全国レベルで評価されるものであったことの証左と言えよう。
しかし、この丹波での任務が、彼の最後の奉公となった。安行は普請の最中に病に倒れ、療養のために移送された京都の地で、静かにその生涯の幕を閉じた 2 。享年62。最後まで専門家としての職務に殉じたその最期は、彼の生き様そのものを象徴しているようである。彼の亡骸は京都に葬られ、「高岳院覚爺安信」という戒名が贈られた 2 。
百々安行がこの世を去った後も、彼が遺した功績は長く受け継がれた。彼が心血を注いで縄張りを行った高知城は、その後土佐藩二十四万石の政治・経済・文化の中心として幕末まで機能し続け、現在もその優美な天守を誇る国の重要文化財として、彼の技術的遺産の偉大さを今に伝えている。また、彼が土佐藩で家老として確固たる地位を築いたことにより、百々一族はその後も山内家の家臣として存続することができた 9 。戦国の敗者が、自らの「技」によって一族の安泰を勝ち取ったのである。彼の生涯は、戦の時代が終わり、統治と行政の時代が始まる中で、武士がいかにして生き残るべきかという問いに対し、「専門技術による立身」という一つの鮮やかな答えを後世に示したと言えるだろう。
百々安信の生涯を総覧する時、我々は彼が単なる勇猛な武将や、時流に翻弄された悲劇の家老といった一面的な評価に収まらない、極めて複合的で魅力的な人物であったことに気づかされる。彼の本質は、戦国乱世の終焉という時代の大きな転換点において、武士に求められる能力の変化を見事に体現した点にある。
彼の生涯は、大きく三つの卓越した能力によって貫かれている。第一に、豊臣政権の崩壊と徳川の台頭という複雑な情勢を的確に見抜き、主家の存続を最優先する 現実的な政治分析能力 。第二に、岐阜城落城という絶望的な状況下で、主君・秀信の自害を諫止し、その助命を勝ち取った 冷静な敗戦処理と交渉能力 。そして何よりも、新時代の国主が最も渇望した、新たな支配の象徴を創造するための**「築城」という高度な専門技術**である。
特に、関ヶ原で西軍の将として敗れた彼が、直後に敵方であった山内一豊から7,000石という破格の待遇で迎え入れられた事実は、彼の価値がもはや戦場での勝敗という旧来の基準では測れない領域にあったことを物語っている。一豊にとって安信は、単なる家臣ではなく、新領国・土佐の安定という至上命題を達成するための不可欠な「戦略的パートナー」であった。安信の持つ築城技術は、物理的な城を築くだけでなく、新しい支配体制そのものを築き上げるための力だったのである。
主家の滅亡という武士にとって最大の危機を、自らの「技」を拠り所として乗り越え、新天地でさらなる重用を得た百々安信の生き様は、戦国から江戸への移行期における武士の価値観の劇的な変容と、新たな時代の到来を鮮やかに映し出す鏡である。彼は、剣や槍といった「武」の力だけでなく、それを補って余りある「知」と「技」を武器に乱世を渡りきった、稀有なテクノクラート武将として、日本史の中に確固たる位置を占めるべき人物である。彼の再評価は、戦国時代をより多角的、複眼的に理解する上で、重要な示唆を与えてくれるに違いない。